10月9日 宇宙戦艦ヤマトがイスカンダルへ向けて発進

 2199年の今日は、 「宇宙戦艦ヤマト」がイスカンダルに向けて地球から発進した日です。
 もちろん人気アニメ「宇宙戦艦ヤマト」の中のできごとです。

 「宇宙戦艦ヤマト」は、1974年にテレビで放送されたアニメーション、およびその後に劇場公開された一連の作品をさしています。
 
  現在でも 宇宙戦艦ヤマトのプラモデルは子ども達にも大人気です。

 当時の私は仕事が忙しくて、7時という時間帯に家庭にいることはほとんどありませんでした。ですから、このアニメは見たことがなく、記憶に残っていないのです。
 ただ、主題歌の歌詞の一部分だけは知っていました。でも何のためにイスカンダルに行こうとしているのかな?、という程度の知識しかなかったのです。 

視聴率は低かったといわれています。
 放送当初は同時間帯の「アルプスの少女ハイジ」 が超人気番組で、この影響もあって予定の回数を待たずに打ち切られました。
 
 ところが、再放送のころから注目されはじめ、人気が出てきました。
 再編集され、劇場映画として公開されるころには大ブームだったそうです。SFに興味がない私は、ブームにはもちろん乗れませんでした。

 
 さて、ストーリーは、西暦2199年の地球から始まります。
 冥王星を前線基地とした宇宙人・ガミラス帝国の侵略を受けていた地球は無惨な姿でした。
 
 海水が蒸発した地球は赤茶けた姿に変貌していました。放射能の汚染で地上の生物は死滅していました。
 
 人類は地下都市を建設し、地球防衛軍を結成して抵抗を続けていました。しかし、地下都市にも放射能の汚染が進行し、人類の絶滅まであと1年余りと迫りました。

 そのころ火星に宇宙船が不時着しました。
 宇宙船には、「放射能除去装置・コスモクリーナーDをイスカンダルまで受け取りに来るように」との救援メッセージと、航海に必要な波動エンジンの設計図が納められていました。
 
 さっそくヤマトが作り直され、波動エンジンが搭載されました。
 放射能除去装置・コスモクリーナーDを受け取って、地球に帰還する任務が「宇宙戦艦ヤマト」に与えられたのでした。

 14万8千光年の彼方、大マゼラン星雲のイスカンダル星に向け、1年以内に帰還しなければ人類滅亡という状況のもと、宇宙戦艦ヤマトは人類最後の希望を託されて発進しました。

 ヤマトは、ガミラス帝国の攻撃と戦い、未知の宇宙空間における障害を乗り越えながら、イスカンダル星をめざして行きました。

 TV版「宇宙戦艦ヤマト」の最終話で、ヤマトの帰還とともに、荒廃した地球がもとの青さを取りもどすさまが描かれています。

 
 さて、現代において放射能は、「地球上の多くのガミラス帝国」によって実際に汚染され続けています。
 核戦争ともなれば「アニメの2199年」のような荒廃した地球になるのは目に見えています。

 現代の地球人が、イスカンダル星のコスモクリーナーDをほんとうに受け取りに行かなくてもいいように願っています。

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10月1日 記念日のオンパレード

 今日、10月1日は夏の衣装から冬の衣装に切り替わる「更衣」の日として、ふだんの生活にもとけ込んでいます。
 学生の制服(標準服)の冬服に切り替えられます。周囲の景色も違ったものになり、新鮮さを感じます。
 ただ、私の場合、6月の更衣は白色がぐっと増えて、社会が明るくなった気がして好きなんですが、10月の更衣は黒色の系統が増えて、暗いイメージになるので嫌いでした。

 さて、今日は記念日のオンパレードで、いろいろな記念日があります。どんな記念日があるか、羅列してみましょう。

  「日本酒の日」
  新米で酒造りを始めるのが10月で、酒壺を表す「酉」の字は十二支の10番目であることからこの日が記念日になりました。
 若者の日本酒離れがどんどん進んでいるようですね。

 「醤油の日」
 「醤」の文字に、十二支で10月を表す「酉」の字が含まれることからこの日になりました。

 「ネクタイの日」
 1884(明治18)年、小山梅吉が日本で初めてネクタイの製造を始めたことから記念日となりました。
 ネクタイを締める人は少なくなりましたね。
 私の場合は、年に0~5回程度です。 

 「国際音楽の日」
 ユーディ・メニューイン(バイオリン奏者)が、国際紛争が絶えないことを憂いて提唱しました。
 国際的な連帯のもとに音楽の記念行事を催すことが決定され、日本では1995年から施行されています。
 
 「赤い羽根の日」
 おなじみの赤い羽根共同募金運動開始の日です。 

「都民の日」
 東京都が1952(昭和27)年に制定しました。
 明治維新以後、東京は明治政府の全面的指導下の特別市でした。しかし、1898(明治31)年、自治権を持つ一般の市になりました。
 この日、都内の公立学校が休みになり、庭園・動物園・植物園等の入場料が無料になります。

 「香水の日」
 フランスでは新しい香水の発売日が毎年10月1日ごろであることからこの日が記念日になりました。

 「食物せんいの日」
  「1001」を「千一」と見立てて「せん(千)い(一)」の語呂合せです。

 「乳がん健診の日」
 乳がん患者などによる「あけぼの会」が制定しました。「乳がん早期発見強化月間」の1日目になります。
 私の胃癌発見の教訓は、「早期発見・早期治療」です。早い目の検査をかならず受けましょう。

 「磁石の日」
 N極を+、S極を-とし、+-を十一に見立ててこの日になりました。

 「荒川線の日」
 1974(昭和49)年、都電で最後に残された27・32系統が統合され「荒川線」の名称がつけられた日です。

 「土地の日」
 「十」と「一」を組み合わせると「土」の字になることから、当時の国土庁(現在の国土交通省)が1997年に制定しました。

 「コーヒーの日」
  国際コーヒー協会が定めた「コーヒー年度」の始りの日です。
  コーヒー豆の収穫が終り、新たにコーヒー作りが始る時期であることから、全日本コーヒー協会が1983年に制定しました。

 「印章の日,ハンコの日」

 「食文化の日」

 「国際高齢者の日(International Day of Older Persons)」
 国際デーの一つです。

 「メガネの日」
 1をメガネのつる、0をレンズとみなすとメガネの形になることからこの日になりました。

 「デザインの日」
 デザインに対する理解を深める日です。

 「展望の日」
 全日本タワー協議会が、「Ten(10)棒(1)」の語呂合せで制定しました。
 全国の展望・観光タワーでさまざまなイベントが開催されます。
 
 「福祉用具の日」

 「浄化槽の日」

 「法の日」 
 

 今日は、記念日にのっとって各地でさまざまな行事がおこなわれる予定です。 

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9月26日 伊勢湾台風が襲来

 1959(昭34)年の今日は、「伊勢湾台風」が襲来した日です。
 この年の台風15号は、伊勢湾周辺に未曾有の大被害をもたらしたため「伊勢湾台風」と名づけられました。

 この台風による被害は、明治以来最大で、死者・行方不明者は5、000人を超え、57万戸の家屋が被害を受けました。
 犠牲者の数は1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災まで、戦後の自然災害では最多のものでした。

 そのころ私は名古屋市立豊国中学校の1年生でした。台風が来れば学校が休みになると、前日の夕方までは台風に期待する気持ちが強かったのを覚えています。

 父は、台風の進路が紀伊半島に向かっているので、「紀伊山脈は高い山だから台風は乗り越えられなくて横に逸れるから、名古屋は大丈夫だ」と、どこかで聞いてきた話を私に聞かせてくれました。
 当時の大人達の間では、このような楽観的な話がされていたのでしょう。

 ところが、朝方、わりと土地が高い中村区にあったわが家でさえ床下浸水が始まり、天井からは雨水が染みこんできました。
 尋常ではないことを感じつつも、あれほどの大被害をもたらすとはまったく予想できませんでした。
 翌朝、休校になったので、のんきにも自転車で遠くまで街のようすを見に行きました。ところが被害の大きさをこの目で見てびっくりしてしまいました。

 被害のようすについては私がここで記すより、下記ホームページをご覧ください。

  怖ろしかった伊勢湾台風 (すみません、勝手にリンクを張りました。)
 
 <参考書籍> 忘れない伊勢湾台風50年 (楽天ブックス) 

 近くの母子寮が全壊して住居を無くした友人がいました。私の学級の一人で、やがて転校していきました。
 みんなが泣いて別れました。
 私は、セルロイドの筆箱に脱脂綿を敷いて鉛筆を6本並べて贈ったことを覚えています。

 海抜0メートル地帯であった鍋島干拓地、弥富町、名古屋市南部のむごたらしいニュース写真を連日見て、台風の恐ろしさに身震いしたのを覚えています。

 伊勢湾台風は、3,000人以上の犠牲者を出した台風として、室戸台風、枕崎台風とあわせて昭和の三大台風と呼ばれています。
 災害対策について定めた災害対策基本法は、この伊勢湾台風を教訓として成立したものです。
 従来の災害対策を根本からくつがえした台風でした。

 なお、本日9月26日は、台風襲来の特異日(統計上、台風襲来の回数が多い日)でもあります。
 「洞爺丸台風」(1954)で青函連絡船・洞爺丸が転覆したのも、「狩野川台風」(1958)が伊豆・関東地方に来襲したのもこの日でした。

 今年は、この日に台風が襲来せず、被害が出なくて良かったですね。

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9月24日 畳の日

 今日は「畳の日」です。全国畳産業振興会により制定されました。
 1年に2回あります。もう1回は4月29日です。

 4月29日は、いぐさの美しい緑色から旧「みどりの日」にちなんで決められ、9月24日は「清掃の日」にちなんで決められました。

 そもそも畳は、日本で発展してきた敷物で、その歴史は1万年以上も前の縄文時代の竪穴式住居にさかのぼるといわれています。
 そのころは土間に草を敷いて、その上に動物の皮などを敷いて寝ていました。

 弥生時代になると、草が薦(コモ)・筵(ムシロ)になり、飛鳥時代になると、板の床の上に敷く「たたみ」が誕生しました。
 
 奈良時代の文献では、古事記などに「畳」の字が現れています。
 このころの「畳」は、高貴な人の寝床や座る場所にしく、「畳んだり敷いたりするもの」という意味でした。
 皮でも絹でも、藁(ワラ)でも「たたみ」でした。
 つまり、使わない時は折り畳んでいたのです。「畳」とは「たたむ」ことを意味していたようですね。

 しだいに現在のような畳に進化していったのですが、畳が敷き詰められるようになるのは室町時代の書院造のころからです。
 一般の民家に畳が普及するのはずっと後のことです。
 
 部屋内に何枚の畳が敷き詰められているかで部屋の大きさ(床の面積)を表す単位として畳(じょう)が使われてきました。
 4畳半とか6畳とかがおなじみで一般的ですが。
 
 関西では、京間と呼ばれて、畳の寸法はもっとも大きいのですが、江戸間の寸法は少し小さ目になっています。
 このような畳のサイズが異なったのは、もともと一間(いっけん:畳の長辺の長さ)について課税された時代の影響だそうです。

 さらに中京間、団地サイズなどが加わり、4サイズが有名ですが、ほかにもさまざまなサイズがあるようです。
 関西の京間の家屋で育った人が、結婚して団地に引っ越した人が、一部屋の実質的な狭さに息が詰まりそうなストレスを感じたといいます。

 近所の畳屋さんが店を畳みました。しゃれのつもりではありません。畳の需要が減り、日本の伝統的な畳産業はピンチです。
 
 一方で、売り上げを伸ばしている畳店もあります。24時間営業に変更したら売り上げが伸びたそうです。
 深夜に畳を入れ替える料亭や飲食店からの注文が増えたからです。

 最近は畳に触れる機会がぐんと減りましたね。日本家屋でも内装は洋間というものが増えていますね。

 私の友人や娘のマンションは、畳の間がまったくありません。全室フローリングです。何かもの足らない淋しい感覚がします。
 友人の家では 健康いぐさ を敷いて、昼寝をしているそうです。

 一般の家庭で、畳が見直されて、もっと地位が向上するといいです.

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9月14日 コスモスの日

 今日は「 コスモスの日」と言われています。いつ、どこで制定されたかはよくわかりません。
 
 「コスモス」は、秋に桃色、白、赤、黄色などの花を咲かせる美しい花で、人々に好かれている花の一つです。
 花は本来、一重咲きですが、花が丸まったものや、八重咲きなどの品種が作り出されています。
 
 原産地はメキシコの高原地帯です。
 18世紀末にスペインのマドリードの植物園に送られ、コスモスと名づけられました。

 日本には明治20年ごろに渡来したと言われています。
 俳句では、秋の季語としても用いられています。

 コスモスの花畑が観光資源となっていたり、多くの市区町村がコスモスをシンボルとしています。

 たとえば、東京都の西東京市、奈良県の大和高田市、大阪府の貝塚市、香川県の坂出市、福岡県の久留米市、名古屋市北区、大阪市都島区など40数市区町村にのぼっています。

 埼玉県深谷市長野県の佐久高原など、各地でコスモス祭りがひらかれています。

  ちなみに、赤いコスモスの花言葉は「愛情」です。
 バレンタインデーから半年近くたった今日9月14日は、プレゼントにコスモスを添えて交換し、お互いの愛を確認しあう日といわれています。

 このためかどうか、「メンズバレンタインデー」として、男性から女性に下着を贈って愛を告白する日と言われています。
 あまり定着しているとは言えませんね。
 商魂だけで制定された記念日の一例です。

 また、反対に「セプテンバーバレンタイン」とも呼ばれ、 別れを切り出す日でもあるということです。
 
 バレンタインデーがらみの記念日は拡張の一途ですね。

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9月10日 映画「羅生門」がベネチア国際映画祭で金獅子賞

 1951年の今日、「ベネチア国際映画祭」で、黒澤明監督の映画 「羅生門」 が日本映画では初の金獅子賞を獲得しました。

  この受賞によって、ヨーロッパ・アメリカなど世界に黒澤明や日本映画が紹介されるきっかけとなりました。

 この映画は大きな影響を与えました。
 影響を与えたのは、一つの事実に対して、相反する複数の視点にもとづいて、まったく違うように回想し、はたして真実はどうだったのかと、観客を混乱させる手法です。
 この後、アメリカなど多くの国の映画や小説に影響を与えました。

 芥川龍之介は「今昔物語集」などの古典から多くの素材を得て自分なりの創作をおこなっています。
  「今昔物語集」 巻29・第23話には、「丹後へ旅する途中、若い盗人に弓も馬も何もかも奪われたうえに、藪の中で杉の木に縛られ、妻が手込めにされるようすをただ見ていただけの情けない男の話」があります。ただ、ここでは殺人事件はおきていなくて、この夫婦はそのあと丹後へ旅を続けています。

 芥川は、この情けない男を殺して、殺人事件に仕立て上げて小説「藪の中」を創作しました。(この作品が映画「羅生門」の原作になりました)
 
 小説は、藪の中でおこった殺人事件を7人の証言者が証言・告白するという形式でなりたっています。
   第1発見者の木樵
   妻を連れた男と道で遭った旅法師
   盗人を捕らえた放免
   媼(妻の母)
   捕らえられた盗人   
   清水寺で懺悔する男の妻
   巫女の口を借りて現れた男の死霊
   
 それぞれの証言はなるほどと思うほど説得力があります。しかし、武士の死因については、殺人または自殺というふうに見事にくいちがっています。
 
 結局、真相はどうなっているのか、犯人はいったい誰だったのかはまったくうやむやのままになっています。それぞれの供述調書を並べただけといえます。
 
 私の勝手な想像ですが、芥川は、関係者があまり多すぎても、つまり情報提供が多すぎてもかえって真実がわからないこともあるといいたかったのでしょうか。
 情報のねつ造や情報操作もあり、真実はどこにあるのか特定できないこともあるといいたかったのかもしれません。
 
 私たちは、関係者の言い分がくいちがったりして、真相がはっきりしない時に、「~は闇の中」とか「~は霧の中」とかいいますが、この小説の題名をそのまま使って「まるで藪の中」というふうにも使っています。
 なお、海外では、これを映画化した「羅生門」の題を借りて、「まるでラショーモンのよう」といいあらわすこともあるといいます。

 この作品は推理小説の一種としても高い評価を得ています。
 映画が完成した時に、当時の大映社長は「この映画はわけがわからん」と批判していたそうです。

 私が「羅生門」を最初に見たのはたしか20歳前後でした。人生の経験不足で、私も、その時はまったく訳がわかりませんでした。
 芥川の小説にある 「羅生門」とは関係がありません。

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9月6日 黒酢の日

 今日は、「黒酢の日」です。
 9月6日の「96」が「クロ」と読めることから、語呂合わせで決まりました。
 
 黒酢は、米酢の一種であり、主に玄米を主原料にしています。色は褐色または黒褐色をしています。小麦、大麦を含んでもかまいません。
 近年、リンゴ、きんかんを使った黒酢も登場しつつあります。

 黒酢にこだわらず、酢一般のことですが、酢は肉を柔らかくする効果があります。鶏肉などを茹でるときに酢を煮汁に加えると柔らかくなります。
 また、肉が骨から離れやすくなるため食べやすくなります。
 このような使い方をするときの酢は、黒酢ではもったいないですね。もう少し安物でいいでしょう。

 疲労回復のために、黒酢はすすんで飲まれています。
 上質な黒酢ほど舌触りがまろやかで、そのまま飲用するのにはいちばん適しています。
 
 黒酢にはクエン酸や豊富なアミノ酸が含まれています。これらが疲労の原因となる乳酸を分解します。そのため、血行の循環不良をおさえたり、疲労のもととなる乳酸をおさえる効果があります。
 さらに糖を加えて摂取すると効果があがるといわれています。運動によって消耗されたグリコーゲンが回復されるため、疲労の回復がさらに早くなるからだといわれています。

 ダイエットに効用があるとされて、健康食品の一つとしてさまざまな商品が開発されて発売されています。ブームになった時期がありましたし、今も人気があります。
 
 私は、以前、クエン酸健康法に取り組んでいた時期があります。薬局でクエン酸の粉末を購入して、小さなカプセルに入れ直して食後に飲んでいました。手間がかかるのでいつの間にか止めてしまいました。
 
 また、黒酢は高いので、玄米酢を水で割って飲んだことがあります。
 空腹の時に飲むと胃を荒らしてしまいますので、食事の一部として摂取するために食後に飲みました。
 
 水割り酢などクエン酸を摂取した後の尿の色はきれいな透明色になりますよ。気持ちいいぐらいたくさん出ます。
 疲れたときの濃い黄色とくらべると、科学的にはどうだかわかりませんが、きれいな尿を見ているとなんだか健康になったみたいな気がしていました。

 今は、食事で玄米図やポン酢を多用することに心がけ、紙パックの黒酢ドリンクを中心にクエン酸を摂取しています。

 なお、酢を飲むと身体が柔らかくなるというのは、まったくの誤解です。
 サーカスの団員が疲労回復のための飲料として購入することを、「あんなに大量の酢を飲むから、サーカス団員は身体が柔らかい」と噂されたということから信じられた誤解です。
 日本では古くから南蛮漬けなどにした魚の骨が酢の作用によって柔らかくなっていることからも誤解が生まれました。これはm唐揚げの効果だとおもいますが。
 
 体が柔らかくなるのは、訓練によって、靱帯を柔らかくし、関節が動く範囲を広げる意外にありえません。
 ただ酢を飲めばいいというものではありません。
 私は、恥ずかしいことですが、高校生のころまでは信じていました。

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8月25日 川柳発祥の日

 今日は、1757年8月25日に柄井川柳が川柳評万句合を開始したことによる「川柳発祥の日」です。
 柄井川柳(からいせんりゅう)は、江戸時代中期の人物です。
 
 当時、江戸庶民に人気のあった文芸に前句付というものがありました。
 前句付というのは、出題された七七の前句に対して、五七五の付け句をすることです。柄井川柳はこの句会を主催し、優れた付け句を募集して世間に発表するすぐれた点者(判定者)でした。

 俳諧(俳句)には季語や切れ字の制約がありますが、柄井川柳の付け句には、季語や切れ字などの制約はありませんでした。
 また、ふだんの口語を使って、人生の機微や世相・風俗をこっけいに、また風刺的に描写する特色を持っていました。
 付け句の一句そのもののおもしろさに重点がおかれました。

 柄井川柳が新しい趣向を好み、選句眼にもすぐれていたことが、上級武士もふくめて好まれました。1765年7月、刊行された「誹風柳多留」は、前句付の流行に拍車をかけました。
 そののち、前付句の五七五が独立し、初代柄井川柳の力で隆盛をきわめました。しかし、まだ「川柳」という名はなくて、当時は雑俳と呼ばれていました。
 雑俳? 何だか、そんなの俳諧(俳句)じゃないよと冷たく扱われていた感じがします。どんなものでも始めはこんなもんですね。
 
 「川柳」と言われるようになったのは明治になってからで、柄井川柳の名前にちなんだものです。
 人名が文芸のジャンルになっているのは「川柳」だけです。
 
 なお、私の理解がまちがっていました。川柳とは、俳諧(俳句)からいきなり季語や切れ字をなくしたものだと思っていましたが、前句付の文芸から派生したものでした。

 江戸時代の狂歌とならんで「川柳(当時は雑俳)」はおもしろいものあります。
  役人の子はにぎにぎをよくおぼえ(賄賂への皮肉)
  いくらいりますかと質屋はずらり抜き(武士が質屋に持って行った刀は本物かな?)
  一年を二十日で暮らすいい男(職人・花魁・若旦那の暮らしっぷり)
 江戸時代の「川柳」には、当時の人々の庶民の生活の生きざまが、生き生きと描かれています。

 現代の「川柳」は、新聞でも募集されていますが、あいかわらず高い人気を誇っています。
 おもしろい名作を見つけました。
 名作川柳

 私も一句、と思いましたが出来ませんでした。また後日発表します。 

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8月19日 鼠小僧次郎吉が刑死

 鼠小僧次郎吉は、1932(天保3)年の今日、処刑されて人生の幕を閉じました。

 鼠小僧は、江戸時代に大名屋敷を特にねらって荒らしたまわった盗賊です。
 中村座の木戸番の長男で、建具職人となりましたが、バクチに身をくずしてやがて無宿人に落ちぶれました。

 小さな体と身軽な運動神経を生かして、大名・武家屋敷を専門に忍び入り、人を傷つけることなく現金だけ盗み去りました。
 1825年、一度は捕まりましたが、初めて盗みに入ったと嘘をついて切り抜け、入れ墨を入れられて中追放の刑を受けました。
 江戸を去り、上方へ行きましたが、密かに江戸に舞い戻り、遊ぶ金欲しさにまた盗みをはじめました。

 二度目は1832年、日本橋浜町の松平宮内少輔邸に忍び込んだところを捕えられました。
 北町奉行所で取り調べを受けたのち、裸馬に乗せられて江戸市中を引き廻しののち、鈴ヶ森の刑場で処刑され、さらし首(獄門)になりました。

 忍び込んだ大名屋敷は、1回目の捕縛までが28カ所32回、江戸に舞い戻ってからが71カ所90回におよびます。盗んだ金の総額は3000両以上といわれています。
 しかし、この数字は鼠小僧の供述であって、記憶があいまいなところがありますので正確な数字は今も不明です。

 鼠小僧は大名屋敷ばかりをねらって、一人で盗みに入ったことから、反権力の大泥棒として祭り上げられ庶民は溜飲を下げたようですが、鼠小僧にはそんな意図はまったくありませんでした。

 大名屋敷を専門に狙った理由については、屋敷は広いわりに警備は少人数という警備が手薄であったこと、女性ばかりの奥で発見されても逃亡しやすい の2点からというのが本人の供述でした。
 つまり、江戸でもっとも大金を盗みやすいところだったということです。
 
 町人長屋には大金はありませんし、逆に商家は金はありますが警備は厳重です。
 それにひきかえ大名屋敷は財政的に苦しく、諸般の事情からも警備を厳重にできませんでした。
 また盗賊に入られて金を盗まれたととは、体面上、公にしにくいという事情も利用しました。

 当時の重罪には近親者などに連帯責任がとらされましたが、鼠小僧はすでに勘当されていたために肉親とは縁が切れており、妻や数人の妾にも捕えられる直前に離縁状を渡していたために、連帯責任(連座制)はおよばず、天涯孤独の身として刑を受けました。

 自分の犯罪に対して、あらゆる近親者を巻き込まないように手をうっていたというところは、鼠小僧が講談などで義賊として扱われていく一つ要因になっています。

 さて鼠小僧が義賊だったかどうかということですが、ほんとうのところはどうだったのでしょう。
 講談や芝居では義賊として扱われています。
 鼠小僧は「金に困った貧しい者に、汚職で金を増やした大名や悪徳の商家から盗んだ金銭を分け与え」ていたというものです。
 
 彼が捕えられたとき、役人による家宅捜索が行われましたが、盗まれた金銭はほとんど発見されませんでした。
 その上、彼の生活が質素で慎ましやかなものでもあったことから、盗んだ金の行方について噂になり、このような伝説が生まれたものと考えられています。

 しかし現実の鼠小僧の記録を見ると、このような義賊らしい事実はどこにも記されておりません。
 現在の研究家の間では「盗んだ金のほとんどは博打と女と飲酒に浪費した」という説が定着しています。
 鼠小僧ファンには何とも気の抜けた結論になってしまいました。

 それでもなお、鼠小僧と同業の方や、受験生には人気があって、鼠小僧次郎吉の墓石が削り取られています。
 受験生には「するりと入れる」という御利益があるようです。

 墓は、両国の回向院にあります。また、義賊に恩義を受けた人々が建てたと伝えられる墓が各地にあります。
 ところによっては墓石はすっかり砕かれてしまっているということです。
 国定忠治の墓と同じ運命ですね。

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8月10日 健康ハートの日

 今日は「健康ハートの日」です。
 日本心臓財団と当時の厚生省が1985年に制定しました。「ハー(8)ト(10)」の語呂合せで8月10日に決まりました。

 夏の間に心と体のチェックをして、心臓病の多発する冬に備える日とされています。
 心臓病は悪い生活習慣を改めることで予防できることを知ってもらおうとキャンペーンを行っています。
 ちなみに、心臓病予防の3原則は「まず歩こう、煙草を吸うまい、太るまい」となっています。

 大事な心臓ですが、毎日、毎時間、毎分、毎秒、休み無く働くので、休ませる方法があるのかと調べてみましたら、心臓というのは、1日の半分は休んでいるということでした。
 心臓を動かしているのは心筋という筋肉ですが、この筋肉が収縮するたびに、心臓は強い力で血液を全身へと送り出していますが、1回収縮してもとの大きさに膨張して次に収縮するまでのごく短い時間は休んでいるのです。

 大人の心臓が収縮するのは1分間に平均70回です。この回数が脈拍です。1回収縮してもとのもどるのに0.8秒かかります。
 0.4秒収縮のために働き、残りの0.4秒はもとにもどって収縮を待って休んでいる時間ということになります。つまり半分の時間、1日12時間は休んでいることになるのです。

 ところで、脳と心臓は怖いですね。何が怖いかといって、ポックリ逝ってしまう可能性が高いことです。
 脳梗塞・くも膜下出血・心筋梗塞などナンとしても避けたいです。
 
 さて、私事ですが、2年前にタバコをやめました。
 体重はまだ多いですが胃癌の手術をしてから8~10キロほど減量できました。
 
 手術前はかなり肥満でしたので、メタボリックの治療を受けていましたが、「手術を受けたら食べられなくなって痩せるから、血液検査も正常になるから気にしないで。」と手術担当の医師からいわれていました。
 今のところその通り数値は正常になっています。
 減量の効果てきめんです。
 減量は、食べる量さえ減らせばかならず効果ありですね。
 
 「まず歩こう」ができていません。どうしても自転車やバス、エレベーターやエスカレーターに頼ってしまいます。
 運動ができていないのが一番の反省点です。

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8月4日 箸の日

 今日は、「箸の日」です。
 ある民俗学者が「箸を正しく使おう」という話をしたことがきっかけになって、1973年から「箸の感謝祭」がはじめられました。
 東京の日枝神社では、長さ1mほどの大箸を御神火で燃やし、供養が行われます。

 さて、箸のおこりは5000年前の中国です。
 煮えたぎった鍋から食べ物を取り出すのに二本の木の枝を使ったのが箸の始まりといわれています。
 中国では、厨房やと畜場で使う刃物を食卓では使わない習慣になったので、料理は、箸にとりやすい大きさに切りそろえられてから食卓に出されるようになりました。そのため箸が普及していったといわれています。

 中国文化が周辺地域に影響力をおよぼしていくと、周辺地域の民族は外交的に中国の漢民族から、野蛮人と見られたくないこともあって、さかんに箸が使われるようになっていったといういきさつがあります。

 日本でも、6世紀以前までは箸の文化はありませんでした。
 食事は手で食べていましたが、遣隋使が日本へ箸を持ち帰ったあと、聖徳太子によって広められたとされています。

 日本の箸は、先が細くなっている短い塗り箸が標準です。箸の先が細くなっているのは、骨付きの魚の骨と身をより分けやすくするためであるといわれています。なるほど先が細いと魚は食べやすいです。

 中国のものはやや長く、それほど細くはなっていなくて、円柱型や四角柱型が多いです。
 朝鮮半島では戦乱が多かったため、丈夫な箸が求められました。そのため短く、やや平たい金属製のものを使うことが多いです。
 歴史上では、暗殺を未然に防ぐために、支配階級は銀の箸を使いました。なぜ銀の箸かというと、銀は猛毒の硫黄や砒素に触れると反応して変色するからです。

 また、日本の割箸は弁当や食堂などで多く提供されていますが、安価な使い捨て用の割箸の材料になる東南アジアの熱帯林がどんどん伐採されていくのは辛いことです。
 
 ▼さて「箸」にはたくさんの格言があっておもしろいです。
  箸が転んでも可笑しい年頃(日常のささいなできごとや、たわいないことにもよく笑う)
  箸が進む(食欲旺盛でよく食べる)
  箸にも棒にも掛からないやつ(取り扱いようがなくてどうしようもないこまったやつ)
  箸の上げ下ろしにも小言をいう(ささいなことにもいちいち口やかましく小言をいう)
  箸を付ける(食べかける、食べようとする)
  箸を取る(食事する)

 最近では宇宙飛行士が宇宙で食事をとるときに、食べ物をしっかりとつかむことができるのでよく利用されていると聞きました。

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7月27日 スイカの日

 今日は「スイカの日」です。
 スイカの縞模様を綱に見立て、27日の27を「つ(2)な(7)」(綱)とよむ語呂合せから、7月27日に決まりました。ちょっと無理矢理こじつけた感じがありますが・・・・・。

 さて、スイカは「野菜か、果物か」と孫に聞かれました。
 西瓜と書きますからウリ科の野菜ですね。
 
 ただし、栄養学上の分類では果物あるいは果実と分類されています。

 スイカの原産は熱帯アフリカのサバンナ地帯や砂漠地帯でした。日本には室町時代以降に伝わったのではないかといわれています。

 スイカは喉の渇きを癒すために食べることが多いですね。
 果肉に含まれるカリウムは疲労回復ならびに利尿作用があるため、夏バテに効果があるとされています。
 
 その他、むくみの解消や高血圧・動脈硬化・脳梗塞・心筋梗塞・がんの予防にも効果があるようです。
 何といっても昔からいわれてきた「水気(すいけ)おろし」が有名です。
 体がむくむ腎臓病にはスイカがいいといわれていました。
 
 私が、中学2年生の秋、急性腎炎を患って、学校を2が月休みました。
 スイカの季節が過ぎていたので、スイカの缶詰を食べさせられました。生のしゃりしゃり感がなかったので、不味かったのを覚えています。

 また赤肉すいかの色素にはβカロテンなどが含まれているので、がんや老化を予防する抗酸化作用が期待できるということです。
 血圧を下げる働きもあるので高血圧の予防にも効果が期待できます。
 また呼吸器系の免疫力を高める成分も含まれているといわれています。

 スイカはすごい健康野菜だったのですね。大好きですからしょっちゅう食べていて、良かったです。
 皮を炒めて食べる料理もテレビで紹介されていました。

 甘いか甘くないか、すいかの見分け方をテレビで報道していました。指で叩いてみるのは当たりはずれがあって一般人にはむつかいとのことです。
 甘いスイカは、つるが付いていたヘタが周りとくらべてへこんでいるのがおいしいともいわれていますがどうでしょうか。
 
 最近では、スーパーでカットしたものを買う機会が増えました。
 カットスイカの場合は、切り口から見える種まわりをよく見ることです。
 種と果肉の間にすきまがあるほうがよく熟していて甘いといわれています。

 運が悪いのか、安物を買っているからか、今年はまだ「甘い!」と叫ぶほどのスイカを口にしていません。
 スイカの旬はこれからです。
 甘い甘いスイカを食べたいです。

 大阪近郊では奈良盆地のスイカが有名ですが、北海道の デンスケスイカもすごく美味しいと評判です。(リンクは楽天市場)

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7月24日 芥川龍之介が自殺

 1927年7月24日、芥川龍之介が東京の田端の自室で多量の睡眠薬を飲んで自殺しました。芥川龍之介の自殺は社会に衝撃を与えました。
 代表作の河童 から、命日は「河童忌」と名附けられました。<注:リンクは楽天市場>

 竜之介は死の数日前から大量の睡眠薬でべろべろになっていたということです。起きたと思ったらまた眠っているという状態でした。
 すでに自殺を決意し、体を睡眠薬に徐々に慣らしていたのだろうと推測されています。

 自殺するのに体を慣らす必要はないので、自殺をすると思わせて助けてもらいたいという狂言自殺のはずが、本当に自殺になってしまった、という説もあります。

 竜之介は、夏目漱石の門下です。
 「鼻」「芋粥」で注目され、「羅生門」「地獄変」「歯車」「或阿呆の一生」などの作品を残しました。
 
 この世で信じられるものは自分の神経だけだと繰り返し書いています。
 そのとぎすまされたするどい感性と知性が「トロッコ」などの名作を生み、大正時代の代表的な短編小説家になりました。

 しかし、大正末期ごろから、神経衰弱や胃腸病に悩みました。
 一方、そのころさかんになってきたプロレタリア(労働者)文学の新しい波に自分がついて行けないのではないかという不安が大きくなっていきました。
 このころから、作品はしだいに暗く、苦しげになっていきました。
 そして、ついに服毒自殺を遂げたのです。

 なお、竜之介の死から8年後、親友で文藝春秋社主の菊池寛が、芥川の名を冠した新人文学賞「芥川賞」を設けました。
 芥川賞は直木賞と並ぶ文学賞として現在まで続いています。

 さて、竜之介の作品は短編が多いので、少しだけですが学生時代に読みました。
 「鼻」「杜子春」「蜘蛛の糸」「芋粥」「羅生門」「トロッコ」など、懐かしさを感じます。

 なお、黒澤明監督の映画「 羅生門 」は、龍之介の「羅生門」とは別物です。<注:リンクは楽天市場>

 

 映画は、龍之介の「藪の中」という作品を原作に映画化されたのですが、「藪の中」のタイトルではヒットしないからと、営業上の理由で「羅生門」に変えられてしまったということです。
 このことを知るまでは、原作と映画のあまりにもかけはなれた内容にとまどっていました。

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7月19日 映画「青い山脈」の封切り日

 1949年の今日は、戦後の民主主義を象徴する青春映画「青い山脈」が封切られた日です。

 「青い山脈」は石坂洋次郎原作の日本映画です。
 この映画はキャストを替えて5回も制作されています。1949年・1957年・1963年・1975年・1988年の5回です。

 戦後の昭和22年、地方の城下町の女学校を舞台に、新旧の世代の対立と青春の歓びを描いた作品です。
 
 女学校に転校してきたばかりの寺沢新子と、大学浪人の金谷六助がふとしたことから仲良くなりました。
 このことを知った女学校のある生徒がニセのラブレターを書いて新子に送ったことから端を発して、新子の担任の島崎雪子が、「この町の古い伝統や、男女間の交際を歪んでとらえる風習を、あらためさせようとした」ところから大きな騒ぎになり、物語が進んで行きます。

 ニセのラブレターを読み上げる場面で、「戀(恋)しい戀しい」というところを「變(変)しい變しい」と、字をまちがえてしまったエピソードは笑いを誘い、とても有名です。
 
 さて第1作では、金谷六助を池部良が、寺沢新子を杉葉子が演じていました。
 第2作では金谷六助を久保明が、寺沢新子を雪村いづみが演じています。

 私は日活の第3作を見ました。金谷六助を浜田光夫が、寺沢新子を吉永小百合が演じていました。
 高橋英樹も出演しており、日活の青春映画全盛時の作品でした。このころの日活映画はほんとうによく見ました。

 ちなみに第4作は三浦友和と片平なぎさが、第5作は野々村真と工藤夕貴がそれぞれ共演しています。

 また、主題歌の「青い山脈 」は映画以上にすばらしい歌です。藤山一郎の若い声がより一層明るい歌にしています。名曲中の名曲といっていいでしょう。
 若者の集まりでも、中高年の宴会でもよく歌われました。
 
 久しぶりに口ずさんでしまいました。

1.若くあかるい 歌声に
  雪崩は消える 花も咲く
  青い山脈 雪割桜
  空のはて
  今日もわれらの 夢を呼ぶ

2.古い上衣よ さようなら
  さみしい夢よ さようなら
  青い山脈 バラ色雲へ
  あこがれの
  旅の乙女に 鳥も啼く

3.雨にぬれてる 焼けあとの
  名も無い花も ふり仰ぐ
  青い山脈 かがやく嶺の
  なつかしさ
  見れば涙が またにじむ

4.父も夢見た 母も見た
  旅路のはての その涯の
  青い山脈 みどりの谷へ
  旅をゆく
  若いわれらに 鐘が鳴る

 メロディーも、歌詞も、日本人が大好きな歌ですね。

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7月15日 世界一長身のロバート・ワドロー死去

 今日は、世界一の長身記録を持つ「ロバート・ワドロー」が息を引き取った日です。
 
 ワドローが亡くなったときの身長は272cm(体重は200kg)でした。

 ワドローは「疑う余地のない医学的な記録がある中で、最も身長の高い人間」としてギネスブックに記載されています。

 ワドローが生まれたときの体重は3800g、普通の大きさでした。身長も正常でした。
 ところが、2歳のときのヘルニアの手術以後、急速に成長を始めました。
 
 8歳の時にはすでに188cmになり、10歳で198cm(体重100kg)、14歳では224cmに伸びていました。 

 16歳で240cm(166kg)、17歳で248cm(180kg)、18歳で254cm(177kg)とまだまだ伸びる勢いは衰えませんでした。
 なお、靴のサイズは約49cmでした。

 1937年、19歳の時、人類の身長の記録を塗りかえた記録260cm(197kg)になりました。
 しかし、まだまだ伸びる勢いです。
 その後21歳で彼の人生最大の体重233kgを記録しました。

 さて、ワドローの病気は、末端肥大症でした。
 先端肥大症とか巨人症とか呼ばれています。100万人に約4~5人の割合で発症するそうです。
 
 この病気は体格がずばぬけて大きくなるので、格闘技(プロレスや大相撲など)の選手となって成功をおさめた人もいます。
 たとえばプロレスの ジャイアント馬場は代表的な成功者です。
 
 ワドローはというと、サーカスやフェスティバルの巡業を続けました。巡業中も怒ったところを見たことがないといわれるほど温厚な性格でした。
 さまざまな巡業を受け入れて各地を回りました。
 
 しかし、ワドローにとってはこの大きな体は負担となっていきました。歩行のためには副木が必要でした。
 また、しだいに脚部や足部の感覚が弱くなっていきました。
 
 1940年7月4日、副木の具合が悪くなっていて膝をこすってしまいました。しかし感覚が弱いので気が付かないままになっていました。
 やがてそこから炎症がおき、ひどい感染をひきおこしたので緊急入院しました。
 入院中に計られた彼の身長は272cmに達していました。

 すぐに手術がなされ、輸血もされましたが、診療のかいもなく、1940年7月15日、意識不明のまま息を引き取りました。22歳でした。

 7月19日に行われた葬儀には、彼を愛する4万人もの弔問客が訪れました。棺は500 kgにもなり、12人がかりで運んだそうです。

 ロバート・ワドローは「優しい巨人」として慕われていて、西イリノイ大学に等身大のブロンズ像があります。 

 ロバート・ワドローの写真(スミマセン、勝手にリンクしました)

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7月10日 蘇我入鹿、殺される

 645年の新暦7月10日は蘇我入鹿が殺された日です。

 いわゆる「大化改新」の幕開けになったできごとでした。
 日本書紀という歴史書によると、殺された蘇我入鹿は青少年期は僧・旻に学んだ秀才だったといわれています。
 
 父は大臣の蘇我蝦夷です。
 642年、皇極天皇の即位にともない、父に代わって国政を掌握し、実質的に蘇我氏の家督を継いだといわれています。

 当時は天皇も大和の一豪族にすぎませんでした。
 天皇中心の国家に改革せんとする気運が皇室の周辺に強まるのに対して、入鹿はこのような皇室の動きを押さえようとしました。
 そして、蘇我氏との縁の強い古人大兄皇子を天皇につけようとはかりました。
 
 皇族・反蘇我勢力と蘇我氏との権力闘争が激しくなっていきました。

 蘇我氏は、そのために邪魔になる聖徳太子の皇子、山背大兄王ら上宮王家の人々を自殺に追い込みました。
 大臣を譲られてから1ヶ月も経たないころのことでした。

 644年には、甘樫丘に邸宅を築き、これをぞれぞれ「上の宮門(みかど)」、「谷の宮門」とし、さらに自分の子女達を皇子と呼ばせました。
 また、さらに畝傍山に要塞を築いています。
 
 こうして入鹿は実質の最高権力者としての地位を固めました。
  
 ところが、古人大兄皇子の異母弟で、皇位継承のライバルだった中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足らがクーデターをおこしました。
 
 645年7月10日、大極殿では外国の使節を迎えていました。式典の途中で柱の陰にひそかに隠れていた中大兄皇子と佐伯子麻呂が突然飛び出して入鹿に斬りつけました。
 入鹿は天皇に無罪を訴えましたが、あえなく止めを刺され、雨が降る外に遺体を打ち捨てられました。
 入鹿は大柄だったといわれていますが、使節を迎える式典のため、太刀は帯びていませんでした。中大兄皇子らはその機会をねらったといわれています。

 とにかく、中大兄皇子らにクーデターで殺され、権力闘争に敗れた入鹿は歴史上の悪者として名を残すことになりました。

 参考文献: 大和政権と飛鳥

 しかし、私は、蘇我入鹿になんとなく興味をもっていました。
 蘇我入鹿が正しいというのではなくて、入鹿にも言い分があるのではないかと思うからです。
 
 日本書紀は、天皇の権力が強かった時代に編集された歴史書です。天皇家の都合のよいようにつくられていることはあきらかです。
 
 日本書紀が編集された奈良時代には、この他にも「謎」がいっぱいあるといわれています。
 私もそのように思います。  

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7月9日 浅草寺のほうずき市

 夏の訪れを告げる下町の風物詩のひとつとして、人々に広く親しまれていたのが「ほおずき市」です。
 「ほおずき市」は全国で行われていますが、特に全国からのお参りが多いのが、今日から開かれる東京の浅草寺の「ほおずき市」です。

 若い人に聞いてみたら、「ほおずき」そのものを知らない、見たことがないという反応が多かったのにはびっくりしました。

 私の幼少期には、仏壇によく供えられていました。
 父の姉で、赤堀千代という名の、私から見れば叔母が、家族を失いましたので、同居していました。
 私たち兄弟は、おばあちゃんと呼んでいました。

 そのおばあちゃんは信心深くて、仏壇にはご飯とお花を欠かしませんでした。
 そのお花の中に「ほおずき」があって、お花を取り替えるとき、「ほうずき」の実をくれました。
 ほおずきの赤い実を、やわらかく揉んでから中身の種を抜きました。急いで揉むと口が破れてしまいます。

 種を慎重に抜いてから、口にふくんで笛のように鳴らすことができるはずですが、私は何度試しても成功したことがありませんでした。
 口笛も、風船ガムも、上手にできない不器用な私です。
 
 
 さて、「ほおずき市」の期間に全国から参拝者が訪れるのは、「ほおずき」だけが目当てではありません。
 この両日にお参りすると「四万六千日分、日参したのと同じ功徳を得られる」とのいい伝えがあります。

 46000日を12で割って、なんと約126年分。
 人生以上の年数と同じ分のご利益が、たった1日の参拝だけで得られるというわけです。
 ありがたい日ですね。

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7月2日 たわしの日

 今日は「たわしの日」です。
 1915(大正4)年、西尾商店(現在の亀の子束子西尾商店)の西尾正左衛門が、「亀の子束子」の特許を取得した日です。

 「亀の子束子」が考え出されたのは1907(明治40)年のことです。

 正左衛門の妻が、売れ残っていた棕櫚(しゅろ)製の玄関マットを切り取って丸め、床を磨くのに使っていたことがヒントとなったということです。

 正左衛門はさっそく女性の手で持てるぐらいの大きさのたわしをつくって特許を申請しました。
 
 まだ商品名が決まっていませんでしたが、たらいの中を泳ぐ亀に似てるし、亀は縁起がいいというところから「亀の子束子」と名付けられたそうです。
 「束子」という字は当時の漢学者にあてはめてもらった当て字でした。

 台所やお風呂、トイレにはどこの家庭にもあった「亀の子束子」ですが、現在ではあまり見なくなったと思っていました。

 調べてみると、年間600万個も製造され、30ヶ国へ輸出されているロングセラー商品になっていました。
 でも私の家は、風呂場に1つだけしかありませんでした。
 
 自然の素材(熱帯地方のココナッツやし)で、環境にもやさしいし、金属たわしと違って傷つけにくいし、たしかに長所はいっぱいありますね。 

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6月22日 蟹の日

 今日は「かにの日」です。
 大阪のかに料理店「かに道楽」が1999(平成11)年に制定しました。

 6月22日になった理由は、星占いの「かに座」の初日であることと、50音表で「か」が6番目、「に」が22番目であることです。

 さて、「かに」で思い出すのは、「かに料理」と「キチンキトサン」です。
 「かに料理」のおいしさは格別で、大阪では「かに道楽」が超有名です。ちなみに、ミナミの本店の足が動く、かにの看板は600万円もするそうです。

 さて、もう一つの「キチンキトサン」のチキンはかに・えびの甲殻類、貝・昆虫にも含まれている物質です。日本チキンキトサン学会 で調べてみてください。 

 私の経験です。(私の経験から猛烈に推薦したい健康食品です。)

 「チキンキトサン」を知ったきっかけは、一昨年の4月に胃ガンが見つかったことです。初期癌から少し進んだレベルで、切るか切らないかの境目だったのです。私は、切りたくないから必死で健康食品を探して、ガンを無くそうと思いました。
 その結果、効果有りと判断したのがフコイダンとチキンキトサンでした。

 フコイダンも飲みました。フコイダンはもずくなどのぬるぬるの成分で、長期的に飲めば効果は一番あると思いますが、常用するには高価です。高価なものでないと効果がないと思います。(シャレのつもりではありません・・・笑)

 チキンキトサンは種類が多いですが、混ぜものがあって高価になってるものがかなりあります。私は、キトサンがほぼ100%で安価なものを選びました。
山本漢方のキトサン280粒

 胃ガンは、やはり進行しているので胃の4分の3をその年の9月に切除しましたが、キトサンはこの間も毎日欠かさず飲みました。
 
 まず、飲み始めると、血圧が下がり始めました。いまは120-80ぐらいです。
 
 つぎに、水虫の症状が改善しました。
 足の裏の皮がボロボロにむけていたのがきれいにつるつるになりました。踵のかさかさが無くなったので、冬のひび割れもほとんど無くなりました。
 一番の効果は、指の間の肉が見えるほどひっかいてしまう「かゆみ」が無くなりました。2~3ヶ月に1回ぐらいかゆみをかすかに感じることはありますが、ほっておけば翌日には治っています。
 私にとって40年来の水虫特効薬「華陀膏」はいっさい使わなくても良い状態です。
 
   また、両足の親指の爪が黒くて死んだような爪でしたが、1年後にはきれいなピンク色に変わりました。
 これはうれしかったです。
 水虫とは3~4歳ぐらいからのつきあいですが、ついにお別れの日がきました。

 キトサンには抗菌作用があるので水虫の白癬菌の働きを抑えているだけだと思います。飲み忘れたらもとにもどるかもしれません。

 最近、綿棒・マスク・靴下・クリームなどにキトサンが配合されています。

 キトサン関係の書物には、ガンにも効くという理論的な解説や経験談などが報告されていますが、私はそれを信じています。
 胃ガンの手術後の血液検査で腫瘍マーカーは正常ですし、手術後も激痩せしないで体重を維持しているのもキトサンの効果かなと信じています。

 私の経験だけでは説得力がありませんが、キトサンは食品ですから適量を守っていれば害はありません。
 一度、ためしてみられたらどうでしょう。
 特に、高血圧と水虫(いんきんたむし)の方・・・。

 「かに」の話が脱線してしまいました。

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6月16日 和菓子の日

 毎年6月16日は、家族や親しい知人の健康を願って和菓子を贈ったり、和菓子を食べる「和菓子の日」です。
 1979年、日本和菓子協会が制定しました。

 そもそもこの日の由来は平安時代の中ごろまでさかのぼります。
 承和という時代には、国内に疫病が蔓延しました。ときの仁明天皇は年号を嘉祥と改め、その元年(848年)の6月16日に、16個の菓子や餅を神前に供えて、疾病よけと健康・招福を祈ったことが始まりとされています。

 毎年6月16日になると、厄除け・招福を願って菓子を食う「嘉祥菓子」の習慣ができました。
 以後、さまざまに形を変えながら、平安期から江戸時代終わりまでおこなわれました。

 とくに、多くの古書で、室町時代には年中行事として行われるようになったと記されています。
 江戸時代になると、大切な祭りのひとつに数えられました。庶民も嘉祥喰といって、菓子を求めて食べました。(嘉定通宝16枚で買えました)

 団子が貴重な和菓子であったころは、団子を作って供えることが年中行事になっていました。
 しかし、現在のように季節を問わずいつでも食べられる時代とはなっても、年に一日だけでも厄よけ・招福を願って和菓子を口にしたらどうでしょうか。

 私は、今年の「和菓子の日」は好物の桜餅・きんつばで、厄よけ・招福を祈ることにします。

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6月6日 楽器の日

 今日は「楽器の日」です。
 全国楽器協会(楽器メーカー、楽器卸商、楽器小売店による業界団体)によって、1970(昭和45)年に制定されました。

 古くから言われている言葉に「芸事の稽古は、6歳の6月6日から始める」というならわしに由来しています。

 なぜ子どもの稽古はじめが「6」づくしなのか、一説によれば数を指で数えると、5までは指を曲げれるけれども、6になると逆に小指から指を立てます。そこから「子が立つのは6」と縁起をかつぎ、6歳の6月6日となった、とも言われています。
 こじつけみたいな縁起かつぎですがおもしろいですね、

 最近は、退職されてからセカンドライフとして、琴や三味線、クラリネット・・・・の楽器を習う方が増えているそうです。何であっても習う楽しみは、子どもだけのものではありませんね。
 年寄りも6づくしの日から始めたら上達するかもしれませんね。60歳になった6月6日とか、60歳を過ぎていれば66歳まで待って始めるとか・・。

 「習うのに老いすぎているということはない」ということわざもあるように、肩ひじを張らず気軽に楽器を楽しむのもいいですね。
 6月6日はきっかけになるかもしれませんね。

 「楽器の日」といえば日本の楽器メーカーのこぼれ話に移ります。
 ヤマハとカワイというのが楽器メーカーの双璧ですが、元々は一緒にスタートした企業だということです。
 明治時代に外国からオルガンが入ったオルガンが故障したとき、時計職人の山葉寅楠と河合小市がその修理を請け負って直したのがきっかけです。

 二人はこの経験をのとに明治21年に「山葉風琴製造所」を設立しました。これが現在の「ヤマハ」の前身です。
 最初は二人で一緒にやっていたのですが昭和2年になって、河合小市がここから独立、「河合楽器製造株式会社」を設立しました。これが「カワイ」です。

 「ヤマハ」は山葉寅楠から命名され、「カワイ」はそこから分かれました。これらの企業がおこった浜松市は「楽器の町」になりました。

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5月30日 ジャンヌ・ダルクが処刑された日

 今日5月30日は、あの有名なオルレアンの少女「ジャンヌ・ダルク」が火あぶりの刑に処せられた日です。

 ジャンヌは、13歳のとき、 聖ミカエルだと名のる声に「ジャンヌよ、お前は祖国を救うため神によって選ばれた」 と告げられました。
 
 当時、フランスはイギリスとの百年戦争で苦戦していました。領主はイギリスに忠誠を誓う者の数のほうが圧倒的に多い状態でした。
 長く続いた戦争のために国内はすっかり荒れ果て、盗賊が横行し、略奪を繰り返す無法地帯でした。

 ジャンヌは、聖ミカエルと名のる声にしたがい、陥落寸前のオルレアンの町を救出するために立ち上がりました。
 シャルル王子から与えられた援軍とともにオルレアンを解放するためにたたかいました。 
 ジャンヌを神の使いと信じているフランス兵の勢いは、日がたつにつれて盛んになり果敢に突撃していきました。
 ジャンヌはいつも先頭で兵隊の士気を鼓舞していました。

 やがて敗走したイギリス軍が残していったものは、おびただしい死体だけでした。
 崩壊寸前だったオルレアンの町は、わずか10日で解放されたのでした。「オルレアンの少女」といわれる所以です。

 ジャンヌは、シャルル王子を国王の地位につけることができれば、フランス全土の領主は結束するだろう、そうなれば反対にイギリスの勢力が弱体化していくだろうと考えました。

 ところがフランス国王になったシャルル7世の側近は、イギリスとは金で解決しようと考えはじめており、ジャンヌのようにイギリスとの戦争をつづけるのに反対しました。ジャンヌはしだいに孤立していきました。
 
 国王の側近にとっては、ジャンヌは邪魔者になりかけてきていたのです。(国王も同じ考えだったらしい)

 実際、国王の側近の裏切りによって退路を断たれ、ジャンヌは捕らえられてしまいました。ジャンヌは、いろいろな城を引き回され、牢獄に閉じこめられる身となりました。
 そして、ついにイギリス派の領主によってイギリス軍に売り飛ばされてしまいました。
 
 イギリス軍の手によって宗教裁判にかけられました。結果は、魔女の汚名がかぶせられ、即日、火刑に処せられることになりました。

 1431年5月30日、広場の中央のジャンヌのまわりに薪がうずたかく積み上げられました。火がつけられましたが、神の使いだったはずのジャンヌに、今度は何の奇跡すらおきませんでした。
 ジャンヌの灰は残酷にも川に流されました。

 魔女として処刑されたジャンヌでしたが、その後、幾度かの裁判のやり直しがありました。
 1449年、シャルル7世がイギリス軍を打ち破って、ルーアンに入城すると、命令を出してジャンヌの裁判の調査をおこないました。
 
 調査の結果、ローマ教皇は裁判のやり直しを命じ、ジャンヌの母の訴えによってジャンヌの復権裁判が行われました。多くの証人が呼ばれる中で、ジャンヌが火刑にされた地であるルーアンにて処刑裁判の破棄が宣告されています。

 1920年には聖女として聖者の一人に加えられることになりました。しかし、彼女の死から500年もたっていました。

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5月29日 こんにゃくの日

 今日は「こんにゃくの日」です。
 「こ(5)んに(2)ゃく(9)」の語呂あわせより制定されました。

 こんにゃくは古くからある食品で1000年以上の食用歴があるそうです。農村では江戸時代からよく作られていた保存食ではなかったでしょうか。

 若いころ読んだ白土三平の漫画に、江戸時代の農村でネズミが大発生して地走りすると、あらゆるものが食い尽くされました。
 こんにゃく芋の粉末を入れていた袋もネズミに食いちぎられ、破れてしまいます。
 
 袋からはもうもうとこんにゃく芋の粉が舞い上がり、空中をただよいます。
 ネズミの地走りから逃れることができた農民たちは、その空気を吸っってバタバタとノドをかきむしって、窒息して死んでいく場面があります。

 ノドの周辺の水気でこんにゃく粉がゲル化してノドが詰まったのです。こんにゃくの粉って恐いなあと思ったものでした。

 私が大好きな「マンナンライフのこんにゃく畑」も、食べ方をまちがえると小さな子が窒息してしまいます。

 でもこんにゃくは優れた解毒作用のある良い食品ですね。
 こんにゃくは昔から「おなかの砂おろし」や「胃のほうき」などといわれてきました。

 そういえば、アサリやシジミを食べた後にはかならずこんにゃくが食卓に出ていたことを思い出しました。

 これは、食物繊維の豊富なこんにゃくを食べることで体に不必要なものを掃除しているのですね。

 こんにゃくなどの食物繊維が小腸と肝臓の間を循環しているダイオキシンを吸着して、便とともに体外に排出していることがわかってきました。
 
 こんにゃくの食物繊維は、大腸がんや大腸ポリープなどの大腸疾患のリスクを軽減させることが知られてきました。
 ほんとうの健康食品といっていいでしょう。

 

 さて、東京都文京区に「源覚寺」は眼病平癒の「こんにゃくえんま」として親しまれています。
 ここのえんま様には、「こんにゃく」をお供えすることになっているようです。

 今朝のテレビ「はなまるマーケット」で放送していました。
 こんにゃくは「困厄」に通じ、こんにゃくをお供えして「困厄」からのがれようと平素からお参りする人が多いそうなという解説でした。

 その説よりも、この寺院のえんま像に由来する話の方が広まっています。
 源覚寺蔵の木造のえんま王坐像は眼病の治療に効験があるといわれ、平癒したものはお礼にこんにゃくを奉納したことからこんにゃく閻魔の通称で知られるようになりました。

 お礼がこんにゃくになったわけは、江戸時代、眼病を患った老婆がえんま像の右目が与えられて癒されたため、それに感謝した老婆が自分の好物のこんにゃくをお礼に供えたところからはじまっているといわれています。

 なお、歯痛を抱える人は境内にある「塩地蔵」に塩を供えて祈り、完治の折には塩の量を倍にしてお礼参りをすることになっているといいます。

 ちなみに、私は、こんにゃくは夜しか食べません。
 「こんにゃ(今夜)くう(食う)」のダジャレです。
 兄からしょっちゅう聞かされました。

 

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5月14日 医学史上最年少(5歳)で子供を出産した。

 1939年の今日は、ペルーのリナ・メディナという女の子が、5歳7ヶ月と11日で男児を出産した日です。
 医学史上、5歳で子供を出産したのは、世界最年少記録になっています。

  彼女は、腹が大きくなったために、両親に病院に連れていかれました。当初は腫瘍を疑われたようですが、診断の結果、妊娠7か月であることが判明しました。

 医師は彼女をペルーの首都リマに連れて行って、他の専門家にも確かめてもらっています。
 専門家によっても、リナが妊娠していることが確かめられました。

 1か月半後、彼女は帝王切開で男児を出産しました。
 帝王切開をした理由は、5歳の子の骨盤では、小さすぎて通常の分娩が不可能だったためであるといわれています。

 手術のようすはフランスの医学会の会員であった医師による報告(手紙)の形でフランスの学会誌に掲載されました。

 その手紙には、リナが8か月で初経を迎えたこと、4歳で乳房が成長し始めたこと、妊娠後、骨盤が広がるなど骨格的な成長が見られたことなどがあわせて記載されています。

 彼女が生んだ息子はヘラルドと名づけられました。体重は2700gでした。
 ヘラルドは、リナが自分の姉であるとずっと思っていましたが、10歳のとき、実は母親であることを知らされました。
 
 彼は健康に成長しましたが、1979年に骨髄の病気で亡くなっています。
 40歳でした。
 この早逝が、彼が生まれたときの母親の年齢に起因するものであるかどうかについてはいまも不明です。

 5歳の女子であれ、自然と妊娠するはずがなく、「ヘラルドの父親はいったい誰なのだ」、と誰もが思いますね。
 リナ・メディナの妊娠が通常でない方法、たとえば体外受精で行われたという証拠はありません。
 もっとも、世界初の体外受精による妊娠・出産は1978年であり、この時代にその技術があったとも考えにくいです。

 しかし、リナ自身は、子供の父親は何者なのか、そしてどのようにして妊娠したかも明かしてはいません。
 2002年にある新聞社がインタビューを申し込みましたが彼女は拒否しています。

 リナの妊娠が明らかになった直後、リナの父親が近親姦を犯したのではないかと疑われて逮捕されましたが、証拠不十分で釈放されています。

 彼女は成人して結婚し、1972年に33年ぶりに2人目の男子を出産しています。彼女はまだ生存しているはずです。
 
 

 なお、低年齢の出産記録はさまざまあります。
 1910年に清(中国)において父親9歳、母親8歳という家族が誕生しています。その後1930年にはソビエト連邦において、6歳の少女が母親となった例があります。

 その記録はリナの記録によりくつがえされて現在も破られていません。
 
 かつてはギネス・ワールド・レコーズ(旧ギネスブック)に「世界最年少で子供を出産した人」として記録されていたこともありましたが、現在はその項目自体がなくなっています。

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5月11日 柳生宗矩(やぎゅう むねのり)の誕生日

 今日は、江戸時代初期の剣豪で、大名にもなった柳生宗矩(やぎゅう むねのり)が生まれた日です。

 宗矩の父は大和国柳生の領主だった、上泉信綱から新陰流の印可状を伝えられた剣術家・柳生宗厳(石舟斎)です。
 宗矩の少年時代に、太閤検地の際に父の隠田が露見したために、父は領地を失っていました。
 その後、父とともに徳川家康に仕えたころから家運が上昇していきました。

 1600年、関ヶ原の戦いに功をたて、父の旧領の大和国柳生荘に2000石を与えられました。
 第3代将軍徳川秀忠、ついで3代将軍・徳川家光にも剣術師範として仕えました。
 1615年の大坂の陣では、将軍秀忠のもとで従軍し、秀忠の元に迫った豊臣方7人を斬り捨てたといわれています。
 
 次第に将軍の信任を深めて加増を受けて、やがて1万石を受けて大名に昇格し、大和国に柳生藩を立てました。
 父の旧領を回復したのです。

 子は4人いて、もっとも有名なのは隻眼の剣士として有名な長男の三厳です。テレビや映画・芝居では十兵衛として知られています。
 十兵衛が隻眼になったのは、宗矩が月影の太刀伝授中に誤って傷つけたからです。

 宗矩の死後、徳川家光は、「この問題は宗矩がいたらどうしただろう」といったとされるほど信用されていたようです。
 勝海舟が宗矩を絶賛していることも有名です。
 
 山岡荘八が原作を書き下ろした大河ドラマ「春の坂道」では、宗矩は情誼に篤い剣聖であり、家光のよき師として描かれています。

 しかし、近年、評価が変わってきて、悪役として描かれる作品が多くなりつつあります。
 有名ところでは、小説では「影武者徳川家康」、漫画では「あずみ」、映画・ドラマでは「柳生一族の陰謀」などです。
 ームの「新 鬼武者 DAWN OF DREAMS」でも悪役になっています。

 柳生宗矩については、文武両道によって太平を望み、その実現のために尽力した人格者として描かれています。
 一方、剣術的には達人にはちがいないが、父にも、息子・十兵衛にも、甥の利厳にも剣術の腕前は一手及ばず、「政を以って剣を歪めた悪役」として描かれることもあります。

(リンクは楽天市場)

 ただ、玉虫色ですが、厳格で知勇を兼ねそなえていて、傑物であったという評価は共通しています。

 歴史の残る人物にとっては、時代によって、価値観・立場によって評価が変わるということは避けられませんね。

 

 なお、宗矩はテレビによく登場する歴史上の人物です。
 片岡千恵蔵、中村錦之助(萬屋錦之介)、山村聰、松方弘樹、若山富三郎などが宗矩の役を演じています。
 堂々としたスター俳優が演じています。

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5月4日 藤井勇がランニングホームラン(日本プロ野球初の本塁打)

 戦前の1936年5月4日は、日本プロ野球史上最初の本塁打(ホームラン)が打たれた日です。
 本塁打を打ったのは、大阪タイガースの藤井勇でした。

 藤井勇は、鳥取第一中学校では4番打者として甲子園に3度も出場しています。
 1934年夏には沢村栄治がいた京都商業を破っています。京都商業は優勝候補でした。

 藤井勇は、1935年12月、大阪タイガースが結成されると同時に参加しました。

 翌年には、日本職業野球連盟が発足し、日本のプロ野球リーグ戦が始まりましたが、その最初の公式リーグ戦大阪大会が甲子園球場で行われました。
 
 5月4日の東京セネタース戦で、藤井勇は2番打者として活躍しました。野口明から左中間を破るランニングホームランを打ちました。
 このランニングホームランが日本プロ野球公式戦第1号ホームランの記録となっています。

 プロ野球公式戦ホームラン第1号がランニングホームランとは、広い甲子園球場らしい記録ですね。

 なお、藤井勇はこの大阪大会で、全5試合に出場して、19打数10安打で打率0.526を記録し、首位打者、最多安打、本塁打王となる活躍をみせました。
 しかし、現在くらべると、超短期戦ですね。

 藤井勇はその後、不動の2番打者として大阪タイガースの優勝決定戦進出に大きく貢献しました。
 1937年秋には、初優勝を果たした大阪タイガースでクリーンナップを打ちました。
 この年、年度優勝をかけて東京巨人軍との試合では、第1戦で本塁打を放つなど剛速球で知られた沢村栄治を打ち、年度優勝を飾っています。

 
 1970年から、コーチとして阪神タイガースに復帰し、ヘッドコーチもしくは打撃コーチとして田淵幸一をはじめとする若手打者を指導したことはよく知られています。

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5月2日 コンゴ自由国ができた

 1885年の今日、現在のアフリカ大陸のコンゴ民主共和国があるザイール川の流域に、「コンゴ自由国」なるものが作られました。

 「自由国」! 
 なんといい響きの国名でしょうか。

 1885年といえば、ヨーロッパの資本主義の強国が、帝国主義になりつつある時期で、アフリカはイギリス・フランス・ドイツなどに分割された時期です。
 
 以前、このブログでリビングストンのことを書きましたが、アフリカの奥地のリビングストンを捜し求めたのはスタンリーでした。
 スタンリーは成功報酬が目当てで探検したのですが、ベルギー国王レオポルド2世はこのスタンリーにザイール川流域の探検を財政的に支援していたので、その成果はベルギー国王のものとなりました。

 つまりベルギー国王レオポルド2世はコンゴという土地を手に入れ、1885年のベルリン会議では正式に国王の私有地として各国に認められました。
 この私有地が「コンゴ自由国」です。

 国王の私有地ですから、「コンゴ自由国」では黒人など原住民の耕作地はすべてが国王の所有物となりました。
 住民は象牙やゴムの採集を強制され、規定の量に到達できないと手足を切断されるという残虐な刑罰が情け容赦なく科されました。
 
 前代未聞の圧制と搾取が行われていた「コンゴ自由国」の「自由国」とは、「住民が自由な国」という意味ではまったくありません。
 
 原語では「コンゴ独立国」というのが正しい訳ですが、国王のための自由貿易の国という意味であるということをあてこすった英語の俗称です。
 まさに、国王が「自由」に統治できる国という意味ですね。

 この「コンゴ自由国」の圧政に対して、各国は人道主義の立場から非難の声をあげました。   
 非難をあげるイギリスやフランスもそうとうひどいことをやっていますが、それ以上にひどいということでしょう。 

 ジャーナリストのエドモンド・モレルが『赤いゴム』という著作で、手足を切り落とす過酷な刑罰の下でのゴム採集の実情を白日のもとにさらけ出しました。
  こうして国際社会の非難の声はますます高まり、国王の恣意的な暴政にベルギー政府も黙っていられなくなりました。

 1908年10月、ベルギー政府は植民地憲章を制定し、国王はベルギー政府からの補償金との引き換えに「コンゴ自由国」を手放すことになりました。

 同年11月、「コンゴ自由国」はベルギー政府の直轄植民地「ベルギー領コンゴ」になりました。

 これによって、統治の実情は改善され、強制労働などは廃止されましたが、植民地支配は第2次世界大戦後までつづきました。
                                      (ウキペディア参照 )

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4月27日 古代ギリシャのソクラテスが毒をあおって刑死。

 紀元前399年の今日、古代ギリシャの哲学者ソクラテスが青年を惑わした罪で刑死しました。

 父は彫刻家ないしは石工で、母は助産婦でした。
 アテナイ(アテネ)で生まれ、生涯のほとんどをアテナイで暮らしました。

 スパルタと戦ったペロポネソス戦争の最初の大会戦では重装歩兵として従軍していることがわかっています。
 青年期には自然科学に興味を持ったとといわれ、晩年は倫理や徳を追求する哲学者としての生活に専念しました。

 ソクラテスの妻の名前をクサンティッペといいます。
 ソクラテス自身がかなりの恐妻家であることは有名で、妻に「何が哲学だ。屁理屈ばかり重ねずに仕事をしろ」といわれるなど頭が上がらなかったようです。

 ソクラテスは結婚について悩んでいる人間に向かって、「結婚してもしなくても、どのみち君は後悔することになる」といいました。
 
 自分自身の「魂」をたいせつにすることの必要を説き、自分自身にとってもっともたいせつなものは何かを問うて、毎日、町の人々と哲学的対話を交わすことを仕事としました。  

 そして、この仕事のために嫉まれて、相手は論破され恥をかかされたと思って、ソクラテスを憎むようになりました。
 そして、告発され、裁判にかけられました。

 ソクラテスは、自身の弁明(ソクラテスの弁明)を行い、自説を曲げたり自分の行為を反省したりすることを決してせず、追放の手も拒否し、結果的に死刑をいい渡されました。

 罪状の票決は2回行われ、2回目の投票では陪審員の反感を招いて大多数で死刑が可決されました。
 プラトンらによって逃亡・亡命が勧められたり、またソクラテスに同情する牢番も彼がいつでも逃げられるよう鉄格子の鍵を開けていましたがこれを拒否しました。

 脱獄可能な状態でしたが、死を恐れずに殉ずる道を選びました。
 紀元前399年、ソクラテスは親しい人物と最後の問答を交わして、毒ニンジンの杯をあおり、死に臨んだといわれています。

 このてん末は弟子であるプラトンの著作「ソクラテスの弁明」に詳しく書かれています。
 死刑を目前にした時、ソクラテスは次の言葉を残しました。

 「単に生きるのではなく、善く生きることが大切」

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4月14日 タイタニック号が氷山に衝突・沈没。死者1513人。

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 今から約100年前の今日、豪華客船タイタニック号が北アメリカ大陸のニューファントランド島沖で氷山に衝突して、翌日未明に沈没しました。

 

 タイタニック号は当時の最新鋭の技術を駆使した豪華大型客船でした。「不沈船」として、また大きさと豪華さで、大西洋航路の女王を目ざしていました
 世界中が注目する中で、1912年、2224人の乗客・乗員を乗せて処女航海に出発しました。

 海難事故としてはかつてない人命が失われた大事故が発生してしまいましたが、ひょっとしたら事故は防げたのではなかったかといわれています。

 まず、出航の期日の問題です。
 タイタニック号は予定より約1ヶ月遅れて航海に、多数の著名人を乗せて出航しました。1ヶ月前の3月中旬に出航していれば、北極海からの流氷の量は少なく、氷山との衝突事故の発生確率は少なかったことでしょう。

 次に、出航日においても予定より出航時刻が1時間遅れました。
 もし衝突事故の発生が1時間早まっていたならば、衝突後の救難無線を発した時刻が夜中の12時前になり、周辺に存在していた船舶がすみやかな救助に駆けつけることができたといわれています。

 さらに出航後、流氷原が行く手の海域にあるという警告を他船から無線で受信していました。
 しかし、船長はそれほど深刻には受け止めていませんでした。
 さらに航海中にも流氷原があるという警告を受けましたが、速力を減速することなく、高速(20.5ノット)で航行を続けました。
 警告・忠告を無視したということです。

 やがて午後11時40分に氷山に衝突したわけですが、氷山を発見したのは衝突の約450m手前でした。
 この夜は新月に近い暗闇であったことと、珍しいほどの無風で海面が鏡のようになっていたので、氷山の周囲に白波がまったく立っていなかったことも発見が遅れた要因でした。

 さらに、見張り員が双眼鏡を使用しないで見張り台に立っていたことも発見がおくれた原因です。
 しかし、この夜の条件では双眼鏡があったとしても、より早期の氷山の発見は無理であったとの意見もあります。
 
 氷山の発見後、回避行動をとりましたが、船腹をなでるように氷山をかすめて通ったため、かえって船体の多くの部分が損傷してしまいました。
 これによって大量の浸水をもたらしました。

 この沈没事故から学ぶべき教訓は、救助の問題です。
 タイタニック号は、氷山との衝突の後、すみやかには救難無線を出していません。午前0時14分になって初めて救難無線を発しています。

 しかし、タイタニック号から19海里の距離にいたカリフォルニア号の無線は午前0時を過ぎた時点で切られていました。
 58海里の距離にいたカルパチア号が救難無線を受信し救助に駆けつけましたが間に合いませんでした。
 到着したのは午前4時10分ごろでした

 タイタニック号は、午前0時44分には信号灯を打ち上げました。
 カリフォルニア号の乗組員はこの信号灯を視認したといわれていますが、信号灯の意味するところが理解できず救助には向かいませんでした。

 こうして、一切の救助は間に合わず、午前2時20分ごろ、ついにタイタニック号は沈没してしまいました。
 
 またこの事故のとき、国際的に決められた救難信号「SOS」が最初に発信されています。
 この惨事の結果、翌1913年に、海上の人命安全に関する国際会議がロンドンで開かれ、現在の船のように安全施設を充実させる発端となりました。

 しかし、残念なことに海難事故は繰り返されています。

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4月13日 決闘の日

 1612年4月13日は、二刀流の使い手・宮本武蔵と燕返しの名手・佐々木小次郎の決闘がおこなわれた日です。
 よって今日は「決闘の日」に制定されています。

 決闘の場所は、豊前小倉の沖合の島、現在の山口県の巌流島で行われました。この巌流島は小次郎の別名・巌流からとられています。

 この決闘が始まる前に、武蔵が発した「小次郎、破れたり」という有名なことばをご存じですか。 
 
 決闘は、武蔵がわざと遅刻してきます。
 いらいらしていた小次郎は怒りをあらわし、冷静さを失っていました。小次郎は「さっさと行くぞ」といって刀の鞘を投げ捨てました。
 そのときのことを指して、武蔵が小次郎に放った言葉です。

 「勝負のあとに刀を納めるべき鞘を捨ててしまったのは、もうそれに納められないということだ」と指摘して、更に小次郎の動揺を誘ったといいます。
 
 腕にそう差がない場合、こういう心理戦の比重というのは大きいのかも知れません。   「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とす」を有言実行した武蔵の精進に軍配があがりました。

 宮本武蔵は1584年、美作国(現在の岡山県)宮本村の生まれました。幼名は弁之助といったといいます。関ヶ原の合戦にも参加しています。

 13歳の時以来、生涯60回以上の果たし合いを行いました。特にこの小次郎との対決と、京都での吉岡一門との対決は有名です。
 
 巌流島の決闘以後、肥後(今の熊本県)の細川忠利に召しかかえられ、1645年5月死去しました。

 吉川英治の「宮本武蔵」がとくに有名で、映画化もされています。

定本 宮本武蔵 吉川英治
定本 宮本武蔵 吉川英治(リンクは楽天市場)

 

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4月4日 キング牧師が狙撃された

今日は、「I have a dream」で知られる有名なスピーチをおこなったマーチン・ルーサー・キング・ジュニアが暗殺された日です。

 リンカーン大統領によって行われた奴隷解放宣言によって、アメリカ合衆国での奴隷制は廃止されてはいました。

 しかし、奴隷制度はなくなっても、直ちに人種差別の撤廃を意味するものではありませんでした。
 その後も人種によって学校やトイレ、プールなどの公共施設やバスなどの公共交通などで、白人と有色人種のちがいによって、異なる施設を使うことは容認されたままでした。
 
 この状況は、第二次世界大戦後も続いており、むしろ法令上もこのような取り扱いを義務付けていたことすらありました。

 キング牧師は、北部に在学中、飲食店に入った際、キング一人が黒人である事に腹を立てて店員が注文を取りに来なかったことがありましたが、そこが北部であったため、人種差別として店員が即刻逮捕されました。

 彼には南部で当たり前だったこの行為に、ひどく驚いたといいます。
 南部での人種差別はひどいものでした。彼自身、少年時代から数々の差別をされて生きてきています。

 やがて、アトランタで牧師をしながら、全米各地で公民権運動を指導しました。

 キング牧師の提唱した運動の特徴は徹底した「非暴力主義」でした。インド独立の父、マハトマ・ガンディーに啓蒙され、非暴力を貫きました。
 
 非暴力主義はとかく弱い姿勢と思われがちですが、キング牧師のそれはちがいました。『黒人は現状に満足している』と言いふらしてきたことに対して、ノーという意志を合衆国と世界の世論に訴えるという方向を持っていました。

 しだいに「非暴力」に対する「暴力」の醜さをみせつける事件がおきます。
 黒人のデモの中で、丸腰の黒人青年に警察犬をけしかけて襲わせている警官や、警棒で滅多打ちにする警官、高圧ホースで水をかける警官などの姿が映し出され、世論はそれらの暴力に拒絶反応を示していったのです。

 キング牧師を先頭に行われたこれらの地道で積極的な運動の結果、アメリカ国内の世論も盛り上がりを見せてきました。
 そして、1964年、ついに公民権法が制定されました。

 これにより、建国以来200年近くの間アメリカで施行されてきた「法の上における人種差別」が終わりを告げることになったのです。

 “I Have a Dream”(私には夢がある)

 前の年に行われたワシントン大行進でキング牧師は、人種差別の撤廃と各人種の協和という理想を訴えました。

 現在では、黒人のアメリカ大統領が誕生するほどに人種間の差別意識はやわらぎましたが、南部を中心にまだ油断はできません。

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3月29日 お七、火あぶりの刑

 1683年(天和3)年の今日、18歳の八百屋の娘・お七(おしち)が、3日間の市中引回しの上、火あぶりの極刑に処せられました。

 前年12月28日、江戸駒込の大円寺から出火した火災は、東は浅草、南は日本橋にいたるまで焼きつくしました。

 焼死者3500名といわれる大火災でした。
 
 この大火で家を焼け出されたお七は、駒込の正仙寺(一説に円乗寺)に避難しました。ところがその時、その寺で出会った寺小姓・生田庄之介と恋に落ちてしまいました。

 翌年1月、新築された家にもどりますが、思い出すのは庄之介のことばかり。

 庄之介のことが忘れられず、火事になればまた会えるとあさはかな考えに至って、3月2日の夜に放火しました。
 さいわい火はすぐに消しとめられましたが、お七は御用となりました。

 当時は放火の罪は火あぶりの極刑に処せられていました。
 しかし17歳以下ならば極刑は免れることになっていました。

 そこで奉行は、お七の刑を軽くするために「おぬしは17だろう」と問いますが、その意味がわからなかったお七は正直に18歳だと答えてしまいました。

 お宮参りの記録を証拠として提出した程だったといいます。
 こうして、鈴ヶ森の刑場で極刑に処せられることとなったといわれています。

 なお、お七が丙午(ひのえうま)の年の生まれであったことから、丙午生まれの女子が疎まれるようになったということです。

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3月25日 平将門の命日

  今日は、平将門(たいらのまさかど)が討伐されて死亡した日です。
 平安時代の中期、西暦940年(旧暦の天慶3年2月14日)のことでした。

 平氏という姓は、平安遷都で有名な桓武天皇の孫(あるいは曾孫)にあたる高望王(たかもちおう)に授けられました。
 平将門は、その高望王の孫・平良将の子にあたります。

 当時、関東地方は平氏一族が支配する土地でした。
 将門の父・良将は下総(現在の茨城県・千葉県)に勢力をはっていた豪族で、鎮守府将軍に任命されていました。

 将門は若いころ、京都にのぼって検非違使(都の治安を守る役人)という官位につこうとしましたが、父の死によって果たせず、関東に戻りました。

 やがて、父の残した土地、その他の問題で他の平氏一族と対立の対立が深まり、あらそいになりました。
 そして叔父・平国香を殺したため、平氏一族を敵にまわしてしまいました。
 将門の軍勢は強力で、叔父・良兼を倒し、貞盛(国香の子)をも都へ敗走させるほどでした。

 こうして、将門は東国に勢力をもつ大豪族になりましたが、常陸(現在の茨城県)の国府(朝廷の出先機関でもある地方の役所)を打ち払ったため、朝廷の反乱者(敵)になってしまいました。

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 朝廷から敵と見なされたあとは、京都の朝廷に対抗して独自に天皇に即位し、「新皇」を名乗りました。
 朝廷からの独立国建設をめざしましたが、藤原秀郷、平貞盛(国香の子)らにより討伐されました。
 
 平将門の乱は、同じころ、瀬戸内海で海賊として国府を襲った藤原純友の乱とともに、京都の朝廷や貴族を震え上がらせました。
 これら二つの乱は、まとめて「承平・天慶の乱」とよばれています。
 武士の発生を示すとの評価もあります。

 後世の人々は、反乱者であるにもかかわらず、将門を神として祀りました。
 これは、朝廷の厳しい支配に苦しめられていた民衆が、将門に英雄の姿を見たためかもしれません。

 平将門は、御首神社、築土神社、神田明神、国王神社などに祀られています。 

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3月24日  深海調査船「かいこう」がチャレンジャー海淵を探査(1995年)

 今日は、日本の無人探査機「かいこう」がマリアナ海溝のチャレンジャー海淵を探査した日です。
 この時に計測された数値は、現在、もっとも確実性が高いと評価されています。

 マリアナ海溝は、世界で最も深い海溝だといわれています。その位置は、北西太平洋にあるマリアナ諸島の東の海域です。
 太平洋プレートはこのマリアナ海溝においてフィリピン海プレートの下にもぐりこんでいます。
 中学校の地図帳では、濃い青色で細長く伸びたマリアナ海溝や日本海溝に興味を覚えたことを思い出しました。

 世界で一番深い海、その最深部はどれほどなのか、今まで各国が競って計測してきた歴史があります。

 長い間、地図帳にはマリアナ海溝の最深部の深さは11,034mと書かれていました。この数値はソビエト連邦の「ヴィチャージ号」が計測したものでした。
 しかし、現在ではこの記録の正確性に疑いがもたれており公式記録としては認められておりません。

 最新の計測では、海溝の最深部は、「かいこう」がチャレンジャー海淵を探査して計測した結果、水面下10,911mであるとされています。
 これは海面を基準にエベレストをひっくり返しても山頂が底につかないほどの深さだということになります。
 マリアナ海溝の最深部は地球の中心からは6,366.4kmにあります。

 
 さて、マリアナ海溝の調査は20世紀に入ってはじめられました。
 1925年、日本の測量船「満州号」が重りのついたケーブルをおろして測定する方法で計測しました。
 9,814mを測定し、この海域が世界でもっとも深い部分であることを世界に知らしめました。

 1951年には、イギリス海軍の測量船「チャレンジャー8世号」が、反響した音波を測定する方法で測定に成功しました。
 最深部分はその名にちなんで「チャレンジャー海淵」となづけられました。
 この時の計測数値は、10,900mでした。(手動計測のため誤差あり、10,863m値に修正)

 1957年、ソ連海軍艦艇「ヴィチャージ」が深度11,034mの計測に成功したと発表し、「ビチアス海淵」と名づけられました。
 先に述べたとおり、公式記録としては認められていない。

 その後、日本の調査船「拓洋」が最新式のナローマルチビーム測深機を用いて測定を行い、10,924m(厳密には10,920m±10m)という値を得ました。

 結局、現在のところ、多くの深度測定値の中で確実に裏づけがとられたものは、日本の無人探査機「かいこう」が記録した10,911mです。
 信頼性という点では最高の評価が与えられています。
 

 なお、有人探査機で世界で一番深いところに到達した記録は、10,916mといわれています。
 その有人探査機は、鋼鉄の重りとガソリンの浮力装置を用いて深度を調整できるよう設計されていたバチスカーフ型でした。
 このバチスカーフは海溝の底に到達したといわれています。
 さらに搭乗した者は、海溝の底でヒラメやエビなどの生物が生息しているのを発見して驚いたといいます。(ウキペディア参照)
 

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3月19日 探検家リヴィングストンの誕生日

 イギリスの探検家、デイヴィッド・リヴィングストンは1813年の今日、イギリス北部のスコットランドで生まれました。 

 私の小学校か中学校のころ、国語の教科書にリヴィングストンの話が載っていました。このことをなぜか覚えていて、なんとなく親しみを持っていた人物でした。

 リヴィングストンの生家は貧しくて、10歳のころから近所の紡績工場で働いていました。日中は工場の仕事に精を出し、仕事が終わってからは夜間学校で熱心に勉強をしました。

 宣教師になって、中国で医療を施しながら布教することを志しましたが、アヘン戦争で彼の中国行きは頓挫してしまいました。
 
 次に宣教拠点をアフリカへ変更したリヴィングストンは、南アフリカ支部の宣教師として派遣されました。
 
 リヴィングストンは布教のための土地をさがし求めて各地を探検しまし、数々の発見をしました。
 探検しているうちに、ヨーロッパ人として初めてアフリカ大陸の横断に成功したことでも知られています。
 
 1856年、探検の資金が尽きたリヴィングストンは、支援者を探すために16年ぶりにイギリスに帰りました。
 彼は、探検家としての功績からスコットランドの英雄としてもてなされました。
 1857年、アフリカでの体験を如実に記した「南アフリカにおける宣教師の旅と探検」を著し、本はベストセラーとなりました。 
 
 2回目の探検に出かけてから帰国したリヴィングストンは、2冊目の著書「ザンベジ川と支流」を著しました。
 
 その著作に描かれたアラブの商人とポルトガルの商人との間で行われている奴隷貿易、および現地人への虐待や虐殺の実態は、当時の知識人たちを驚愕させました。
 (陰の声:イギリスが中国でアヘンの密売をしているのと変わらないと思います)

 リヴィングストンは、ナイル川の水源を探求するようにとの王立地理協会からの依頼で3回目のアフリカ探検に出ました。
 彼は2度と故郷の土を踏むことはありませんでした。
 
 さて、ナイル川は白ナイル川と青ナイル川に分かれています。
 青ナイル川はすでに水源の探求が完了していました。白ナイル川に関してはまだ論争が続いていました。

 現在では、白ナイル川の水源はヴィクトリア湖ではなく、リヴィングストンが推測したとおり。ヴィクトリア湖より少し南方にヴィクトリア湖に流れ込む川があり、その川が水源であることが確かめられています。
 
 1866年4月にタンザニアから内陸部へ入っていきました。
 ところが出発当初は各地から集められたポーターが36人もいましたが、脱落者が続出し、最終的には4~5人しか残らないほどの過酷な旅程になりました。

 行く先々で奴隷商人の妨害にあい、かれらに買収されたポーターによってリヴィングストンの医療道具一式が入っている鞄を盗まれてしまったこともありました。

 飢餓と体調の悪化に苦しみ、タンガニーカ湖畔の村で静養しながら、近辺の探索を行いながら、宣教や説教を頻繁に行っていました。

 1871年には、ルアラバ川の岸辺で、1,500人もの奴隷が虐殺される場に偶然立ち会ってしまいました。
 しかし、リヴィングストンにはすでに奴隷解放のためにたたかう余力は残されていませんでした。
 
 一方、イギリス国内では、リヴィングストンが消息を絶っているので、死亡説まで流れていました。
 リヴィングストンを探索する動きが出て、ヘラルド新聞社の特派員であるスタンリーがリヴィングストンを捜索するためにアフリカに向かいました。
 スタンリーは莫大な資金提供を受け、発見が成功したときの報奨金を約束されていました。
 
 スタンリーはウジジ近辺でリヴィングストンの従者と遭遇しました。従者に導かれて本人と対面しました。
 そのときの、リヴィングストンは骸骨のようにやせ衰えた姿をしていました。
 スタンリーが発したことばは、

 "Dr. Livingstone, I presume?" (訳:「リヴィングストン博士でいらっしゃいますか」)でした。
 このことばは当時のイギリスの流行語になったといわれています。

 思いがけず人と対面した時の挨拶として使われるようになるほど、劇的なエピソードとして伝えられました。

 スタンリーはリヴィングストンに帰国を強く勧めたが、リヴィングストンはナイルの水源を突き止めるため、さらに探検を続けることを望みました。
 帰国したスタンリーは、5ヵ月後にリヴィングストンの許に57人の従者と十分な物資を送って援助しました。

 やがて、リヴィングストンは探検の記録を書きつける余力もないまま、5月1日、マラリアの複合症により息を引き取りました。
 
 リヴィングストンの遺体は、防水の箱に入れられた彼の日記、資料、携行品などとともに、故郷のイギリスへ運ばれ、ウエストミンスター寺院へ葬られました。

 ザンビアには彼を称えた都市リヴィングストンがあり、今も彼の記念碑と彼の資料を集めた博物館が建っています。

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3月13日 大阪大空襲が始まった。

 大阪大空襲とは、第2次世界大戦時に行われたアメリカ軍による大阪への戦略爆撃・無差別攻撃の呼び名です。
 大阪への数度にわたる空襲の最初は、1945年3月13日の深夜から翌日未明にかけて行われました。

 大阪に対する空襲は、その後、6月1日、6月7日、6月15日、6月26日、7月10日、7月24日、8月14日に行なわれました。
 これらの空襲で、大阪の街が焼かれ、一般市民1万人以上が死亡したといわれています。

 最初の空襲は、1945年3月13日23時57分から、14日3時25分の約3時間半にわたって行われました。
 襲来したのは、グアムやサイパンなどからそれぞれ襲来してきた274機のB29戦闘機でした。
 
 米軍のねらいは、北区扇町、西区阿波座、港区市岡元町、浪速区塩草だったといわれています。
 グアムからの43機は、夜間低空爆撃として約2,000mの低空からの一般家屋をねらった夜間爆撃でした。
 先導機がナパーム弾(大型の焼夷弾)を港区市岡の照準点に投下したので大火災が発生しました。
 他の機はそれを目印に次々と焼夷弾(内蔵した48個の小型焼夷弾が空中で分散して落下する爆弾)を投下しました。

 続いてテニアンから飛来した107機が浪速区塩草を照準点として投弾しました。
 さらにサイパンから飛来した124機が北区扇町と西区阿波座に投弾しました。

 すでに大火災が発生している中で、北区では米軍のねらい通りには爆撃できず、他の場所に被害が広がっっていました。

 この空襲では、3,987名の死者と678名の行方不明者が出ました。
 大阪をとりまく山々の向こう側にある奈良や亀岡でも、火炎が夕焼けのように見えたといわれています。

 深夜に行われた大空襲のため、現在では大阪を代表する繁華街である難波・心斎橋周辺は火災で焼け出された人たちでごった返しました。
 地上が火の海なので火を避けるため人々がめざしたところは地下鉄の駅でした。

 ところが、深夜なので地下鉄の駅の入り口は鉄扉で堅く閉ざされていました。
 そのとき乗務員の機転により、地下鉄の駅が開けられ、急遽梅田方面(梅田方面は被害を受けていなかった)へ電車が運行されました。
 こうして人々を避難させた結果、300~400人の人々の命が救われたといわれています。

 当時、地下鉄の職員はまだ徴兵されていない勤労学生が多く、女性乗務員も少なくなかったということです。
 若者らしい、杓子定規に囚われない行動が多くの人命を救ったといわれています。

 この事実は、しばらく公にはされていませんでしたが、1980年代後半になって新聞の投書欄に話が出たのをきっかけに証言者が現れてあきらかになりました。

 この後の大空襲で大阪の広い区域が焼け、多くの住民が犠牲になりました。

 3回目の空襲では、淀川にかかる長柄橋に爆弾が直撃し、さらに機銃掃射も加えられたため、橋の下に避難していた市民約400人が犠牲になりました。
 また柴島浄水場が破壊されましたので、上水道の供給機能が停止してしまいました。

 終戦の前日8月14日の最後の空襲には150機のB29が襲来しました。
 米軍機は大阪城の近くにあった大阪陸軍造兵廠を狙い、約700トンの1トン爆弾を集中的に投下しました。
 この空襲では、大阪陸軍造兵廠に近接していた国鉄京橋駅で大きな被害を出したことから、「京橋駅空襲」ないしは「京橋空襲」ともよばれています。

 京橋駅にはちょうど、城東線(現在の大阪環状線)の上り列車・下り列車の2本が入線したところで、多くの乗客が、空襲を避けて城東線の高架の影になっている平地にある片町線ホームに避難していました。
 そこに1発の1トン爆弾が、城東線の高架を突き破って片町線ホームに落下して爆発したため、避難していた乗客らが爆弾の直撃を受けました。

 この空襲での犠牲者は、身元の判明している人だけでも210名以上、他に身元不明の犠牲者が500~600名以上いる(正確な犠牲者数は不明)とされています。(ウィキペディア参照)

 大阪大空襲の実態調査は、大阪市の教職員組合の婦人部が中心となってコツコツとすすめられてきました。
 下記ホームページに詳細にまとめられています。 
 
 大阪市内で戦争を考える<大阪市学校園教職員組合(大阪市教)・城北支部>

 悲惨な戦争体験がだんだんと忘れられていく一方で、新たな戦争が迫っているような危機感を感じています。

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3月7日 花粉症の日

 日本では、今日は「花粉症の日」といわれています。

 「花粉症の日」なんてあったんだと叫んでしまいました。調べてみると誰が(どこが)言いだしたかわからない記念日なのです。
 制定者がいないので、実体のない記念日ですからなくなることもあります。

 花粉が飛散する時期には、目のかゆみ、充血、流涙、くしゃみ、鼻水、鼻づまりなど、目・鼻アレルギー症状を一挙に呈してきますので、花粉症の人はたいへん辛い思いをします。

 原因となるスギの花粉は、元日からの最高気温の合計が450度をこえると本格的に飛び始め、750度に達するころがピークになるといわれています。
 
 この説によると、スギの花粉が飛散し始めるのが3月上旬になります。
 しかも3月7日は統計上、晴れの天気が多いため、スギ花粉が飛散する量が多くなることがありました。
 このようなことから、3月7日が「花粉症の日」といわれるようになったのでしょうか。

 気象庁が昨年発表した予報によると、今年の1月~2月は全国的に平年より暖かくなる見込みで、スギ花粉の飛散開始は例年より10日前後早まると予測されていました。
 
 さらに、日本気象協会の発表によると、今年の花粉総飛散数予測は、南関東以西では例年より多く、昨年の春よりも多くなるとしています。

 日常的な対策というと、マスクの着用も症状の軽減には役だちます。
 さらに、何といっても家の中に花粉を連れ込まないことが一番だといわれています。

 外出から帰ったら、洋服ブラシ(最近は見かけないですね)で埃といっしょに花粉を落とすことはたいへん効果があります。
 頭髪についた花粉もしっかり落としましょう。
 洗濯物を屋外で干さないで、室内で干すほうがよいといわれています。

 食生活では、ふだんから粘膜や皮膚を丈夫に保ち、体に抵抗力をつけておくためには、ほうれんそうを使った料理がおすすめらしいです。
 医学的には、腸の免疫力をアップして、便秘も下痢もないきれい腸の状態を維持することが大切だといわれています。

 「子どもを花粉症にしないための9か条」(理研横浜研究所)を見つけました。
 生後の早い時期にBCGを接種させる。
 幼児期からヨーグルトなどの乳酸菌飲食物を多く摂取させる。
 小児期にはなるべく抗生物質を使わない。
 早期に託児所などに預け、細菌感染の機会を増やす。
 適度に不衛生な環境を維持する猫、犬を家の中で飼育する。
 狭い家で、子だくさんの状態で育てる。
 農家で育てる。
 手や顔を洗う回数を少なくする。

 この9か条は、生活の中で少しずつ雑菌に触れさせて、知らず知らずのうちに免疫力をつけるということですね。
 栄養が豊かになり、清潔すぎる環境が花粉症の原因の一部かもしれません。

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3月2日 ホー・チ・ミンがベトナム民主共和国の大統領に就任

 第2次世界大戦が終わった翌年の1946年の今日、ホー・チ・ミンがベトナム民主共和国の大統領に就任しました。

 ホー・チ・ミンは、フランスの植民地であったベトナム中部の貧しい儒学者の子に生まれました。
 彼は初め、ベトナム人官吏を養成する学校に入学しましたが、在学中に反フランスの民族主義的思想を持ったため退学させられました。
 船員として働いたあと、1917年、パリに移りました。この年におこったロシア革命は、彼の思想に大きな影響を与えたといわれています。

 大戦中は、日本のインドシナ侵略と戦いました。
 日本の敗戦が決定的になった1945年8月13日、ホー・チ・ミンは全ベトナム人民に総蜂起をよびかけました。
 よびかけにこたえて全国的な民衆の蜂起がおこり、9月2日、ホー・チ・ミンはベトナム民主共和国のフランスからの独立を宣言しました。
 
 フランスはベトナム民主共和国を正統政府とは承認しなかいばかりか、軍を増派してきました。
 翌年、フランスはベトナムの独立を認めましたが、これはホー・チ・ミンの粘り強い交渉のたまものでした。

 ところが、フランスは協定に反して、南部にフランスに都合がいい政権を樹立したばかりか、ベトナム民主共和国軍への攻撃を始めました。
 このときもホー・チ・ミンは「全国民に抗戦を訴える」というアピールを発表して徹底抗戦に入りましたた。
 
 ベトナム軍は北部山岳地帯にこもってゲリラ戦で闘いました。民衆の支持をうけて、徐々にフランス軍を圧倒しはじめました。
 1954年のディエンビエンフーの戦いでフランス軍に決定的な打撃を与えました。

 フランスは、ジュネーヴ協定を締結して、インドシナ支配を終らせ、軍を撤退させました。  これで終わっておれば、ベトナムの平和は早く訪れていましたが、アメリカがフランスに代わってベトナムへ進出してきました。

 南部につくられたアメリカのかいらい政権は、ジュネーヴ協定で定められた統一選挙をボイコットし、反対派に厳しい弾圧を加えました。
 一方、その独裁政治に対する抵抗運動が広がり、1960年に南ベトナム解放民族戦線が結成されました。
 解放戦線はベトナム労働党の支援の下、本格的に介入を始めたアメリカ軍と激しく戦った。

 アメリカは南部のかいらい政権を積極的に支援していましたが、トンキン湾事件以後は、直接アメリカ軍を派遣してきました。
 戦いはますます激しくなり、アメリカは北部にあったベトナム民主共和国への爆撃(北爆)を敢行し、50万もの大軍を投入してきました。
 ナパーム弾、枯れ葉剤をジャングルに大量にまき散らしたのもこのころです。

 しだいに、南ベトナム解放民族戦線は主要都市と幹線道路をのぞく農村地帯をほぼ完全にその勢力下におきました。
 アメリカの国内でも反戦の行動が広がりはじめ、国際世論もアメリカに批判的となってきました。
 戦費をまかなうためのドル紙幣の乱発も、アメリカ経済や国際経済をゆがめていました。
 日本国内でもベトナム反戦デー(10月21日)を中心にベトナム人民支援の輪が広がっていきました。

 戦争の終結に向けた動きが始まっっていたとき、ホー・チ・ミンは突然の心臓発作に襲われ、79歳の生涯を閉じました。
 
 ホー・チ・ミンの死後のベトナム戦争は、1975年4月30日のサイゴン陥落によって幕を閉じました。
 翌年、ベトナム社会主義共和国が成立し、南ベトナムの首都だったサイゴンが、ホー・チ・ミンにちなんでホーチミン市に改称されました。

 ホー・チ・ミンは、慈愛に満ちたひょうひょうたる風貌で、民衆に愛されて「ホーおじさん」とよばれて親しまれました。
 偉大なホー・チ・ミンの名は、ベトナム最大の都市の名前として残されました。
 また、ベトナムのすべてのドン紙幣にホー・チ・ミンの肖像が描かれています。

 ホー・チ・ミンは、腐敗・汚職には完全に無縁な指導者でした。無私な性格で、人生をベトナムの独立とベトナム人民に捧げた人物でした。
 自らが個人崇拝の対象になることなどを極度に嫌っていたといわれています。

 どこかの国のごう慢な指導者とは全然ちがいますね。
 

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2月24日 グリム兄弟の兄の誕生日

 今日は、グリム童話で名高いグリム兄弟の長兄ヤーコブの誕生日です。
 ヤーコブは、19世紀のドイツで活躍した言語学者であり、文献学者であり、民話収集家・文学者でした。
 大学教授で、「ドイツ語文法」の研究者として特に有名です。ドイツ語の子音の推移についての法則性は、「グリムの法則」と呼ばれているほどです。
 
 弟は5人、妹が1人の6人兄弟でしたが、いわゆる「グリム兄弟」の弟のあたるのは、次兄のヴィルヘルムです。
 弟は、あまり体が丈夫でなかったこともあり、身体をいたわりながら地道に研究を続けました。
 2人は、「グリム童話」の編集者として、後世にまで名を残しました。

 さて、グリム童話のうちで、よく知られているのは、「シンデレラ」、「白雪姫」、「赤ずきん」、「ブレーメンの音楽隊」、「ヘンゼルとグレーテル」、「眠り姫」、「狼と七匹の子やぎ」などです。
 「狼と七匹の子やぎ」がグリム童話だとは、知りませんでした。
 「グリム童話」の名前は。日本ではとても有名で、ドイツだけでなく、童話集としては世界中でいちばん親しまれているといえます。

 日本では50年以上も前から広く親しまれてきました。誰もが絵本で「白雪姫」や「シンデレラ」を知りました。
 ディズニーの映画ではじめて知った人もいるでしょう。

 ところが、書店には「ほんとうは怖いグリム童話」という本が並んでいます。どんなふうに怖いのでしょうか。
 どうも、私たちが知ってる童話と、原作とは大きな違いがありました。

 たとえば、「白雪姫」も、子ども向けにしては、かなり怖いストーリーなのです。
 原作のグリム童話では、白雪姫は、炊事、洗濯、そうじ、縫い物、編み物といった家事いっさいを引き受けるのならかくまってやろうという条件のもとで、小人たちと暮らしていました。
 
 白雪姫は、毒リンゴで死ぬ前に、魔女(お后)に2回殺されかけています。
 1度目は紐で首を絞められて、2度目は毒を塗った櫛が使われました。3度目の毒リンゴで、深い眠りについてしまったのです。
 
 そのあと現れた王子は嘆き悲しみ、美しい白雪姫を棺桶ごとお城に運ぼうとしました。
 ところが、そのとき、棺桶を運んでいた男が、白雪姫の背中を強くたたいたため、のどの奥につまっていたリンゴが飛び出しました。
 生き返った白雪姫は、王子と結婚して幸せに暮らしました。
 ふつうは、ここまでで終わりです。

 原作は、なんと、最後の最後に魔女(お后)が、熱された靴をはかされて、その命が尽きるまで踊らされたということになっています。
 これが、子ども向けの童話のラストシーンです。

 原作の「シンデレラ」では、シンデレラが殺人を犯しています。
 継母のいじめに耐えかねたので、シンデレラは家庭教師に相談したら、継母の首の骨を折って殺してしまうようにいわれました。
 シンデレラは、家庭教師にいわれた通り、継母を殺していたのです。
 
 この家庭教師は、シンデレラの第2の継母になって、シンデレラをいじめ抜きました。継母は2人いたのですね。 
 その後は絵本のとおり、第2の継母と義理の姉たちの召使となって、ひたすら働かされてはいじめられていました。
 
 原作では、鳩がシンデレラにドレスと馬車を与えます。
 鳩の助けによってシンデレラは、第1回目の舞踏会で王子と出会うことができました。(原作では舞踏会は2回あったことになっています。)
 
 12時で魔法が解けてしまうのは同じです。
 シンデレラは去っていきます。
 王子はシンデレラの通る道に、タールを塗って靴を置いていかせ、靴を手に入れました。

 王子は、金の靴(ガラスではありません)をたよりにシンデレラを探し始めます。
 それを知った姉たちは、上の姉はかかとを、下の姉は爪先をナイフで切り、靴が履けるようにしたのだそうです。
 こうするように指示したのは継母でした。
 むごい話です、

 さらに、シンデレラを助けたハトたちが、シンデレラをいじめた2人の義理の姉の目をつついて失明させたというがラストシーンです。
 継母には、何の罰もありませんでした。

 「本当は怖いグリム童話」には200話ほどありますが、気味が悪い、えげつない、何それ、というような話が集められています。
 「子供と家庭のメルヘン」として、200年ほど前、ドイツで発行されたものですが、首をかしげる話が並んでいます。
 
 グリム童話のイメージを壊したかもしれませんね。でも、原作を一度読んでみてはいかがですか。

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2月18日 上杉謙信が生まれた

 今日は、越後(現在の新潟県)の戦国大名・上杉謙信が生まれた日です。
 謙信は、越後の守護代(守護の職務の代行者)の長尾為景の子として春日山城で生まれました。

 生まれつきというべきか、幼少のころから大胆な性格で、父のいうことを聞かなかったといわれています。
 そのため7歳のとき、城下の林泉寺にあずけられ、学問を習わされました。

 父・長尾為景が戦死したあと、長尾家を継いだのは兄の晴景でしたが、晴景は家臣からの人望がなく、信用がありませんでした。
 一方、家臣の中には謙信を押し立てる者たちがおり、そのため兄弟仲は悪くなっていきました。

 19歳のとき、弟・謙信が兄・晴景の養子になることによって、兄にかわって長尾家を継ぎました。
 こうして兄と仲直りした謙信は、春日山城に入って、越後を統一して、実力を高めていったのでした。
 このころの謙信は、まだ長尾姓で、名は景虎でした。

 謙信が32歳のとき、それまで関東地方を支配していた上杉憲政が、小田原の北条氏に追い立てられ、謙信を頼って鎌倉から逃れてきました。
 関東管領であった上杉氏は、由緒ある家系でした。
 
 長尾景虎は、上杉氏から家督を譲られて、上杉景虎と名のるようになりました。
 その後、名を政虎、輝虎と変え、41歳のとき謙信とあらためました。

 当時の関東・信越は、武田・上杉・北条の3つの勢力が合戦をくり広げていました。
 とくに武田信玄とは、はげしい戦いをくり広げましたが、有名なのは5度にわたった川中島の戦いです。
 1561年の川中島の戦いはもっとも激しい戦いとして有名です。
 謙信は、一人で信玄の本陣に切り込み、信玄に傷を負わせたといわれています。
 
 謙信は、戦さを指揮する能力をもった天才であり、一人の勇敢な兵士でもありましたが、和歌や詩にもすぐれていた文化人でもありました。
 また、戦いの神である毘沙門天を深く信仰しており、戦いに出かけるときには、白地に「毘」という字を書いた軍旗をかかげ、勝利を祈りました。

 さらに、京都にのぼって将軍を押し立て、全国に号令をする野望をもっていました。
 そのため、越中(現在の富山県)、加賀・能登(現在の石川県)を攻め、そのころ勢いをつけてきた織田信長の軍を追い返したりして、京都進出をねらっていました。
 
 しかし、1578年、病にかかって春日山城で急死しました。49歳でした。
 辞世の句は、「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒」です。

 死因については、一説には、過度の飲酒と高血圧が原因の脳溢血といわれています。なぜ、このような説が有力かというと、謙信は、大酒飲みで、梅干しだけを肴に手酌で飲んでいたといわれているからです。
 41歳のとき、雪がふる中、厠で倒れたという史料が存在しています。このことも、死因が脳溢血だと考えられている一因です。

 お酒が大好きな方は、用心が大事ですね。

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2月14日 山本周五郎の命日

 今日は、作家・山本周五郎の命日です。
 本名、清水三十六(さとむ)です。

 周五郎は1903年(明治36年)、現在の山梨県大月市にて長男として誕生しました。
 4歳のとき、村は大水害で壊滅的被害を受けましたので、一家は東京に出た後、横浜市に転居し、周五郎は横浜市立尋常西前小学校を卒業しました。

 家は豊かではなかったようで、尋常小学校卒業と同時に東京の質店に徒弟として住み込みました。
 その質店の主人の名前を「山本周五郎」といいました。
 
 徴兵検査の結果、眼力が問題となり丙種合格で兵役を免れました。
 しかし、その年の関東大震災によって山本周五郎商店も被災しましたので、質店はいったん解散となり、豊橋、神戸に転居しました。

 再び上京して働きながら小説を書いていましたが、「文藝春秋」に掲載された「須磨寺附近」が文壇出世作となりました。

 戦時中の1943年に発表した「日本婦道記」が、第17回直木賞に推薦されましたが、辞退しました。
 直木賞を辞退した作家は、先にも後にも周五郎しかおりません。
 
 さらに、1961年、文藝春秋読者賞に「青べか物語」が推薦されましたが、これも辞退しています。
 そのころには名作をつぎつぎ発表し、当時の日本を代表する作家として多くの読者をつかみました。
 一方、多くの作品が映画化・テレビ化されました。

 おもな映画としては、黒澤明監督が「椿三十郎」(原作「日日平安」)、「赤ひげ」(原作「赤ひげ診療譚」)、「どですかでん」(原作「季節のない街」)など、多くの周五郎作品を映画化しています。
 このほか、「ちいさこべ」、「青べか物語」、「道場破り」、「さぶ」、「いのちぼうにふろう」(原作深川安楽亭」)、「かあちゃん」、「海は見ていた」、 「雨あがる」など、なつかしい名作がその他の名監督によって映画化されました。

 1967年2月14日、仕事場でもあった旅館で肺炎と心臓衰弱のため死去しました。
 享年65、つまり満63歳という早い死でした。

 さて、ペンネームの「山本周五郎」の由来は、最初に世話になった山本周五郎質店の主人の名前からきたものでした。
 
 周五郎は、文壇で自立するまであいだ、この主人から物心両面にわたり多くの支援を受けています。
 主人への深い感謝の念が込められていたと考えられています。

 私が、周五郎の作品にはじめて触れたのは「さぶ」でした。
 泣いて感激したものでした。
 周五郎は、特に江戸の下町に生きる貧しい庶民や、名も無き流れ者を描いたすばらしい作品で本領を発揮しました。
 
 そのあと、「樅ノ木は残った」、「正雪記」などのすぐれた歴史小説を読みましたが、周五郎の小説は、読んだ後、生きる上でのヒントを与えてくれてるように思います。
 読後感がすごく充実していたのを思い出します。

 映画にもすぐれた作品が多いのも、原作の作風がすぐれているからでしょう・ 
 なお、死後、功績をたたえて、山本周五郎賞がつくられました。

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2月12日 ブラジャーの日

 1913年の今日、アメリカ人のメアリー・フェルブ・ジャコブがブラジャーを発明して、特許をとりました。
 これを記念して「ブラジャーの日」が制定されました。
 その原型は、1889年のフランスで発明されていました。

 初期のブラジャー、すごく単純なもので、ハンカチをリボンで結んだだけというものでした。
 現代のスタイルのブラジャーの歴史は案外新しく、メアリーが発明してからも100年もたっていません。
 ブラジャーが発明されるまでは、胸から腰にかけてコルセットで体を締め附けていたもようです。

 女性の胸部を覆うことを目的としたブラジャーのような下着は、古代ギリシャなど地中海地域で使われていました。
 一枚布の下着であったようです。
 
 2004年、中国の内モンゴルの発掘で、遼の時代の墳墓から、精巧な刺繍がなされた女性の胸部に着用したと見られる下着が見つかりました。
 現代のブラジャーととてもよくにていました。

 日本でブラジャーが日常的に使われるようになったのは戦後のことです。
 はじめは1951年にさかのぼります。主婦が自家製のものを着用していたということです。
 ワコールがフロントホックタイプのものを売り出し、国内に出回るようになったのは1975年のことでした。

 男性の私が、あまり女性が着用するブラジャーの話題をするのを差し控えようと思っていますが、近ごろは男性もブラジャーを身につけるようになり、かなりの人気だということなので、びっくりしています。
 特にネットでの売れ行きがすごいということです。
 
 男性用ブラジャーを身に付ける理由を調べてみました。
 まず、「付けることで安心感がある」という理由ですが、胸筋や肩胛骨のまわり(胸回り)をぎゅっと引き締めると背筋がぴしっと伸びて、心身が引き締まるというのが一番多いようです。
 この感覚は、ブラジャーつけていない私も理解できます。
 腹巻きをギュッと締めると気分が引き締まるのと同じ感覚なのでしょうか。

 中には、女装のために付ける人もいるようです。
 女装したい人のお好みは、かわいい花柄でレースのものが良く売れています。

 男性がブラジャーをファッションやアクセサリーとして身につけること自体を楽しむこともあります。
 ストレス解消や、また厳しい仕事をしている人が仕事で男性性を強く求められすぎているために、バランスを補うために女性性を自分の衣服の一部に求めるケースなどもあるようです。
 またそれ以外に純粋にブラジャーが好きだからという人ももちろんいます。
 
 昨年、メンズブラ(男性用に独自に製作されたもの)が売り出されましたが、今も売り切れ、注文待ちの状態です。
 メンズブラがテレビで取り上げられ話題となっています。「笑っていいとも」や各局のワイドショーなどでも取り上げられました。
 メンズブラのショップをさがして見ました。ありました。 →メンズブラ

 メンズブラに抵抗がある人もいるかも知れませんが、ファッションの自由は大切な基本的人権ですから、お好みの下着を楽しんだらいいと思います。

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2月9日 針供養

 「針供養」とは、一日中針仕事を休み、古くなった針を供養(仏や死者の霊にものをそなえ、冥福を祈ること)する行事です。
 
 使った針を忌んで裁縫を休み、その年の折れ針・古針を豆腐・こんにゃく・餅(もち)などに刺して、近くの社寺に納めて供養してもらったり、お祓いをしてもらいます。
 お祓いをうけた針は針塚に埋められたりします。

 針供養は、どこの社寺でもいいというわけではなく、中心的な神社は和歌山県の加太にある淡島(あわしま)神社です。
 東京では、浅草寺の淡島堂が有名です。

 紀伊和歌山の淡島神社からの各地へ普及したのは江戸時代後期から明治時代にかけてのことと思われます。
 技能の上達を祈って、裁縫学校の行事として行われたのがしだいに定着したのだともいわれています。

 針供養の日は、関東は2月8日が多く、関西は12月8日が多いといわれていますが、ともに8日は共通しています。
  
 さて、この8日というのは、意味があるのです。
 昔から8日という日は、事始めとか事納めといって、事にくぎりをつける日となっているのです。
 「事八日(ことようか)」とよばれている風習なのです。

 では、12月と2月のどちらを事始め、事納めとするかは定説はないようで、地方によって一定していません。
 出雲などでは、12月8日に掃除などして正月の用意にかかり、2月8日に年神の棚を去る風があり、これが事納めであるという説もあります。

 どちらかというと12月8日を事始めとする方が古い形であろうといわれています。
 なお、淡島神社は関西にありますが、針供養は2月8日に行われます。

 針供養の記事を書いていて思うことは、針を手にとって、裁縫をすること自体が減ったなあということです。
 わが家では、取れたボタンを付け直すぐらいしか使っていないと思います。
 針と糸でさえ常備していない家庭もあるほどです。

 それともう一つは、8日が事始め日であることについてです。
 学校の1学期・3学期の始まりが4月8日、1月8日です。5日でも10日でもいいのに、最初に制度を考えた人が事始めにあやかって決めたのだろうかと連想しました。

 太平洋戦争を始めた真珠湾攻撃が12月8日というのも、事始めにあやかったんだろうかとか、ついつい結びつけて考えてしまいました。

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2月4日 高山右近がマニラで死去

 高山右近は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将で、代表的なキリシタン大名として知られています。
 1615年の今日、高山右近がマニラで息をひきとった日です。

 高山右近の名を高めているのは、戦国の武将でありながら、キリスト教徒の大名(キリシタン大名)として信仰をつらぬいたことでしょう。

 もともと高山氏は摂津国三島郡高山庄(現在の大阪府豊能郡豊能町高山)出身の土着の領主でした。
 右近は、父が、松永久秀にしたがって大和国(現在の奈良県)にいたころ嫡男として生まれました。
 
 あるとき父は奈良で琵琶法師だったイエズス会員ロレンソ了斎の話を聞いて感銘を受け、自らが洗礼を受けました。
 居城に戻って家族と家臣を洗礼に導いたため、右近は12歳で洗礼を受けたのでした。右近の洗礼名はポルトガル語で「正義の人」を意味するユストといわれています。

 しかし、戦国の時代ですから争乱がつづき、下剋上が繰り返されました。
 やがて、織田信長から「摂津国の切り取り勝手(全域の領有権確保)」の承諾を得た荒木村重に、高山親子はうまく立ち回って勢力を広げ、三好氏の高槻城を乗っ取り、自ら城主となりました。

 右近は、高槻城を乗っ取るたたかいの際、切り合って瀕死の重傷を負いました。
 しかし、奇跡ともいえる回復を遂げたため、右近はこの機を境にキリスト教へ傾倒するようになったといわれています。

 こうした戦国乱世を地でいくような殺戮をしつつも、高山親子はいっそうキリスト教に傾倒していきました。
 このころ、右近の父は教会の建築や布教に熱心でした。
 
 右近の主人・荒木村重が織田信長に反旗を翻したとき、村重に思いとどまるように説得しましたが失敗しました。
 右近が金や地位では動かないと思った信長は、宣教師とキリシタンを皆殺しにして、教会を壊滅させると脅迫してきました。

 高槻城内は、徹底抗戦を訴える父らと、開城を求める派で真っ二つとなっていました。
 苦悩していた右近は、城主をやめ、家族も捨てて、うすっぺらな衣一枚で城を出て、信長の前に出頭しました。

 この右近の行動は、結果的に荒木勢の敗北の大きな要因となり、この功績を認めた信長によって、右近は再び高槻城主としての地位を安堵されました。
 

 右近は人徳の人として知られ、多くの大名が彼の影響を受けてキリシタンとなったといわれています。
 たとえば蒲生氏郷、黒田孝高などです。

 ただ、黒田孝高は、秀吉がバテレン追放令を出すと、真っ先に棄教するなどキリシタン大名には苦しい状況がおこっていました。
 このころ秀吉は、26人のキリスト教宣教師・信者を捕まえて長崎で処刑しています。
 
 右近は信仰を守ることと引き換えに、領地と財産をすべて捨てるほうを選びました。
 この行動は世間を驚かせました。

 その後しばらくは、小西行長、加賀国金沢城主の前田利家、その嫡男の前田利長にも庇護を受けていました。
 政治・軍事など、各種の相談役になったと思われています。
 たとえば、機内の築城術を紹介していますが、富山城が炎上したときには、高岡城の縄張(設計)を担当したといわれています。
 
 1612年、江戸幕府によって禁教令が出されました。
 加賀で暮らしていた右近は、キリシタン追放を受けて、まわりの人々が引きとめたにもかかわらず、加賀を去りました。
 江戸幕府は、長崎から300人のキリスト教徒をマニラやマカオに追放しましたが、右近もそのうちの1人として、家族とともにマニラに送られる船に乗りました。
 
 マニラには12月に到着しました。
 イエズス会報告や宣教師の報告で有名となっていた右近は、マニラでスペイン人のフィリピン総督らから大歓迎を受けました。

 しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため、右近はすぐに病を得て、翌年の2月4日に息を引き取りました。
 64歳でした。
 信仰をつらぬいた姿は吉川英治によって小説化されています。
 
 ちなみに、大阪府高槻市内には古い神社仏閣の建物はほとんど残っておりません。
 高槻周辺は畿内にあるにもかかわらず、古い仏像の数も少ないといわれています。
 それは、高山親子が、領内の神社仏閣を破壊し、神官や僧侶に迫害を加えたためだといわれています。
 
 旧領内の多くの寺社の記録には、「高山右近の軍勢により破壊され、一時衰退した」などの記述があります。
 神道・仏教側にとっては、高山右近は父とともに、暴君以外の何者でもなかったということです。
 歴史には、裏・表の評価がつきものです。

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1月30日  三十三間堂が落慶した。

 三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)は、京都市にある千手観音を本尊とする仏堂のことです。
 建物の正式名称は蓮華王院本堂といいます。
 俗称は、「頭痛山平癒寺」と呼ばれています。要するに、頭痛が治る(平癒する)寺ということですね。

 さて、頭痛山平癒寺の由来ですが、これは三十三間堂を創建した後白河上皇から話が始まります。
 後白河上皇は、平清盛の時代、強い権力を持っていましたが、ひどい頭痛持ちだったそうです。長年、頭痛に悩まされていたと言われています。

 上皇が熊野に参詣したときに、その旨を祈願しました。すると、熊野権現から「洛陽因幡堂の薬師如来に祈れ」とお告げがありました。

 そこで因幡堂に参詣すると、上皇の夢に僧が現れました。
 僧は、「上皇の前世は熊野の蓮花坊という僧侶で、仏道修行の功徳によって天皇に生まれ変わった。しかし、その蓮華坊の髑髏(どくろ)が岩田川の底に沈んでいて、その目穴から柳が生え、風が吹くと髑髏が動くので上皇の頭が痛むのである」と告げました。

 上皇が当時の岩田川を調べさせるとお告げの通りでした。
 上皇は、三十三間堂の千手観音の中に髑髏を納め、柳の木を梁に使ったところ、上皇の頭痛が治ったということです。
 
 三十三間堂の正式名称を「蓮華王院」というのも、前世の蓮華坊の名から取られたものであるということです。
 この伝承により「頭痛封じの寺」として崇敬を受けるようになり、「頭痛山平癒寺」と俗称されました。

 また、「三十三間堂」は東に向いて南北に長く建てられていますが、お堂内陣に柱間が33あるところから、「三十三間堂」とよばれるようになりました。
 また、33という数字は、観音にも縁のある数字で、観音菩薩は33の姿に変じて衆生を救うと説かれることにもよっています。

 堂の南北の長さは約120mにもおよび、江戸時代には各藩の弓術家によって、矢を射る「通し矢」の舞台となっていました。
 廊下の軒と床の間の空間を120mも矢を飛ばすわけですから、矢を床とほぼ平行に飛ばさなくてはならないのです。
 山なりの120mではないのです。
 高度の技能と強靱な心身が必要です。

 通し矢の方法には、射る矢数を決めて的中率を競うものと、一昼夜に何本矢が通るかを競うものがありました。
 後者の場合、一昼夜ですから、矢を射り始めた時刻から翌日の同時刻まで連続して、通し矢を続ける競技でした。
 
 江戸時代の初めから始まり、紀州藩・尾張藩は名誉をかけて争い、京都の町衆の人気も高まり、名物行事になりました。
 同堂の「矢数帳」によると、最高記録は紀州の和佐大八郎が、13053本のうち8133本、通し矢に成功したというものです。
 18歳の若者ということですが、強靱な心身をもっていたことでしょう。

 その伝統にちなんで、現在は「楊枝のお加持」大法要と同日(1月中旬)に、本堂西側の射程60mの特設射場で矢を射る「三十三間堂大的全国大会」が行われています。

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1月28日 ドストエフスキーが亡くなった日

 1881年の今日は、ロシアの作家・ドストエフスキーが60歳で死去した日です。
 ドストエフスキーの代表作は、「罪と罰」、「白痴」、「悪霊」、「カラマーゾフの兄弟」などが知られており、トルストイと並んで19世紀後半のロシア文学を代表する文豪です。

 ドストエフスキーは、モスクワの貧民救済病院の医師の次男として生まれました。
 作家時代を過ごしたのはペテルブルクで、物語の舞台として数々の作品に登場しています。

 処女作は「貧しき人々」で、批評家ベリンスキーに激賞されるなど、はなばなしくデビューを果たしました。
 デビュー前にドストエフスキーから直接作品を渡されて読んだ著名な詩人が、感動のあまり夜中にドストエフスキー宅を訪れたという逸話が残っています。

 はなばなしくデビューしたものの、その後の評価は厳しく、発表した作品は酷評をもって迎えられました。

 その後、空想的社会主義サークルのサークル員となりました。
 このため、官憲に逮捕され、死刑判決を受けましたが、銃殺刑執行直前に皇帝からの特赦が与えられて減刑され、シベリア流刑になりました。
 シベリア流刑というのも辛い刑です。
 シベリアのオムスクで1854年まで服役しました。

 この時の体験にもとづいた、「白痴」などで死刑直前の囚人の気持ちが語られるなど、この事件は以後の作風に大きな影響を与えました。
 
 この間に理想主義者的な社会主義者からキリスト教的人道主義者へと思想的変化がありました。
 その後「罪と罰」を発表し、ドストエフスキーの評価が一気に高まりました。

 さて、ドストエフスキーは賭博が好きなことで有名です。
 賭博好きな性質のため、ドストエフスキーの生涯は貧乏生活に苦しみ続けた生涯でした。
 借金返済のため、出版社との無理な契約をして、締め切りに追われる日々を送っていたということです。

 あまりのスケジュール過密さのため、「罪と罰」、「賭博者」などは口述筆記という形をとったほどです。
 無理をかさねながら、ドストエフスキーの最大の代表作・長編「カラマーゾフの兄弟」を書き上げましたが、その数ヵ月後の1881年1月28日、家族に看取られながら60歳で亡くなりました。

 ところで、ドストエフスキーを高く評価している著名人は多いです。
 アインシュタイン、フロイト、マーラー、日本では黒澤明、江戸川乱歩、手塚治虫がよく知られています。
 
 黒澤明はドストエフスキーを激賞しており、「是非、映画化したい」といっていました。
 実は、戦後まもない1951年に、ドストエフスキーの「白痴」を、設定を日本の札幌に置き換えて松竹で映画化していることを知りました。
 出演は、原節子、森雅之、三船敏郎、志村喬、東山千栄子といった懐かしい豪華メンバーでした。
 一度、見てみたいと思っています。
 

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1月21日 勝海舟の命日

 今日は、幕末の政治家・勝海舟の命日です。
 勝海舟は貧しい旗本の長男として江戸に生まれ、若いころ島田虎之助について剣術をおさめました。
 また島田のすすめで蘭学を学び、私塾を開いて、蘭学や西洋兵学を教えてました。

 ペリーの来航後、長崎の海軍伝習所で海軍についての技術を研究しました。
 やがて咸臨丸の艦長として、日本人としてはじめて太平洋を横断するという快挙をはたしたことでよく知られています。

 幕府からは軍艦奉行並に取り立てられて、やがて神戸に海軍操練所をつくる許可をえました。
 その間、坂本竜馬の入門を得るなど、見識が重く用いられていきました。

 勝海舟の名を高めたのは、NHKの大河ドラマでもとりあげられた「江戸城無血開城」を実現させたことでしょう。
 無血開城で150万人の江戸市民の命と財産を守ったことは高く評価されています。

 明治になってからの勝海舟はあまり知られていません。
 旧幕臣の代表格として新政府の役職を歴任して、枢密顧問官もつとめ、伯爵を叙されています。
 新政府の役職には興味がなかったようで、椅子に座って黙っているだけの日々を送っていたということです。
 本人自身、「部下に仕事を丸投げして、判子を押すだけのような仕事しかしてないよ」と語っているからほんとうなんでしょう。
  
 幕末の混乱期には何度も意見が対立していた徳川慶喜の地位が安泰であるように、人生を捧げて力をつくしました。
 特筆すべきは、失業して食えなくなった旧幕臣が仕事につけるように、世話しつづけたことです。
 資金援助や生活保護などの援助も行いました。

 横浜は、今でこそ大都会ですが、幕末には貧しい寒村でした。
 この横浜に旧幕臣を約10万人も送り込んで仕事を与え、横浜港の発展につくしました。
 静岡は、現在、茶の生産高日本一ですが、このとき勝が静岡に約8万人もの旧幕臣を送り込んだことが大きく発展した原因の一つといわれています。
 
 仕事を与え、失業をなくそうとしたしたこうした努力が、職業の転換をスムーズに実現し、生活を安定させました。
 徳川幕府の旧家臣がこれといった反乱をおこさなかったのは、こうした勝の功績であるといわれています。
 「仕事を与える」、これはすごく大事なことですね。生活の根本です。
 まさに、現代の課題でもありますね。

 一方、勝は日本海軍の生みの親ともいうべき人物でした。
 しかし、その海軍がおこなった日本初の帝国主義戦争でもある日清戦争には始終反対し続けました。
 
 勝は、戦勝気運に盛りあがる人々に、安直な欧米の植民地政策に追従する愚かさを説いています。
 さらに、中国という国を卑しく見下げたり、争ったりする相手ではなく、むしろ共闘して欧米に対抗すべき国として見なければならないと主張しました。
 しかし、勝の意見は大きな流れにはなりませんでした。

 勝は、晩年のほとんどを赤坂の地で過ごし、口述筆記で著作をまとめる生活を送りました。
 1899(明治32)年の1月19日、脳溢血により意識不明となり、21日に死去しました。

 最期に遺した言葉は「コレデオシマイ」でした。

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1月19日 曹洞宗の開祖、道元の誕生日

 今日は、鎌倉時代の中期、曹洞宗を開いた僧・道元が生まれた日です。

 道元は、3歳のときに父・源通親(みちちか)と、また8歳のときに母と死別するという不幸にみまわれました。
 このため、周囲の反対を押し切って、13歳になると出家して比叡山の延暦寺に入りました。

 しかし、そのころの比叡山は、貴族仏教の寺でした。
 そのような天台宗にあきたらず、京都の建仁寺を訪れて、栄西が中国から持ち帰ってきた禅宗を学びました。
 さらに、1223年、24歳の道元は、日本の仏教にあきたらず、中国(宋)に渡りました。

 そのころの中国には、道元がさがし求めていた高僧は見つかりませんでした。
 あきらめてもう帰ろうかと思い始めたころ、如浄禅師に会い、禅師のもとで禅を学びました。
 禅のために死んでも本望というぐらい禅に打ち込んで修行したと伝えられています。
 
 多くの留学僧が、山のような仏典をみやげに帰国するのに対して、道元は「ただひたすらに坐る」という座禅の教えだけを身につけて日本に戻りました。
 仏典は何一つ持って帰っていないのです。

 帰国した道元は、建仁寺で新しい禅(曹洞禅)を広めようとしました。
 しかし、延暦寺からの迫害が強く、建仁寺をあきらめて深草に興聖寺を建てて、そこに移り住むことにしました。

 両足を組んで座り、精神を統一して悟りを開こうとする修行、つまり「座禅」のほかの修行を認めない、という厳しい姿勢がそれまでの各宗派の教団に嫌われたのでした。

 一方、道元の厳しい禅の修行をしたう者もでてきました。しだいに弟子の数も増えていきました。
 こうなると、またまた迫害が強くなったきましたので、移り住むことを考え始めました。

 道元は、越前(今の福井県)に移って新しく大仏寺を建てました。
 その寺院が有名なのちの永平寺です。

 永平寺に移った道元の考えと修行は、さらに厳しいものになっていきました。
 彼は、権力のある人に近づいたり、名声を求めようとはしませんでした。多くの弟子を育て、正しいと信じる仏教をさかんにするため一生をささげたということができます。

 多くの宗教が、仏教だけでなくキリスト教などはさらに、権力者と結びついて堕落していったことを思うと、道元の思想と行動は見事なものでした。
 道元の思想は、彼の著書である「正法眼蔵(しょうほうげんぞう)」に示されています。
 
 「正法眼蔵」の特色を一言で言うと、「悟りを得るために座禅をするのではなく、座禅そのものが悟りである」と説いたことでしょう。
 行動の規範としては、毎日の生活を厳しい規則にもとづいておこない、ひたすら座禅を行うべきとしました。

 また、この著作は、哲学的にもすぐれた書物として現代にも通じており、高い評価が与えられています。

 1253年、病気のため、京都で無くなりました。54歳でした。

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1月14日 作家・佐藤雅美が生まれた

 今日は作家の佐藤雅美(まさよし)の誕生日です。
 佐藤雅美は、1941年の生誕なので今日で68歳になりました。
 このブログでは生存者を取り上げることはめったにありませんが、私が、最近、もっともよく読んでいる時代小説家なので紹介したいと思います。

 古くから佐藤雅美を知っていたわけではありません。
 松本清張、山本周五郎、司馬遼太郎の時代小説をいくつか読んで、時代小説に嵌っていたとき、ふと、書店で目にとまったのが「恵比寿屋喜兵衛手控え」でした。
 つい2~3年前のことです。

 作者を見て、佐藤雅美? 聞いたこと無いな。
 パラパラめくって、おもしろそうだと思ってとにかく買ってみました。
 読み始めたら、止まりませんでした。
 風呂にも持ち込み、深夜までかかって一気に読んでしまいました。

 この「恵比寿屋喜兵衛手控え」は、1994年に第110回直木賞を受賞した作品でした。10年も過ぎてからそのことを知りました。
 それからというもの、書店ではいつも「佐藤雅美」の名前をさがしていました。
 そういえば、平行して読みあさっていたのが宇江佐真理の時代小説でした。この作家の作品もすばらしいですよ。
 
 さて、佐藤雅美は、兵庫県の生まれで、早稲田大学法学部を卒業しました。週刊誌記者、フリーライターを経て、小説家となっています。
 
 「緻密な時代考証による社会制度や風俗の正確な描写には定評がある。」とウキペディアで評されています。
 「とくに江戸時代の町奉行や岡っ引きなどの司法・警察制度のほか医学、医療、学問に詳しく、これらの題材を種々おりまぜた多彩な作品を発表している。」とも書かれています。

 そのとおりだと思います。
 「恵比寿屋喜兵衛手控え」の後、テレビでは北大路欣也が主演して有名な「八州廻り桑山十兵衛」のシリーズや、「物書同心居眠り紋蔵」のシリーズ、「半次捕物控」のシリーズを一直線に読み切りました。
 
 権力者の側に立っている人物が主人公ですが、権力や法だけで押し切らない、人間らしさを織り交ぜながら、読む者を引きつける雰囲気を感じました。

 初期は歴史経済小説を得意とし、「大君の通貨」では第4回新田次郎文学賞を受賞しています。
  
 先に挙げたもののほかに、おもしろかった作品は次の通りです。
 「縮尻(しくじり)鏡三郎」
 「啓順凶状旅」「 啓順地獄旅」
 「手跡指南 神山慎吾」
 「無法者(アウトロー)」
 「開国―愚直の宰相・堀田正睦」
 「立身出世―官僚川路聖謨の生涯」
 「百助嘘八百物語」
 「江戸繁昌記」
 「田沼意次―主殿の税」。

 時代小説なんか・・・と思っている方も、一度、読んでみたらいかがでしょうか。

 ちなみに、「佐藤雅美の名前が表紙に載るような本を1冊書いてみたい」というのが小説を書き始めたきっかけだったそうです。

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1月12日 成人の日(2009年)

 2009年の今日は、「成人の日」です。
 世界的に見ても、このような祝日は珍しいといわれています。

 「成人の日」には、多くの市町村で新成人を招いて成人式を行います。
 豪雪などや離島など、都会に出た若者が帰省しにくい地方の市町村では、より帰省しやすい時期(ゴールデンウィークや盆)に行われることもあります。

 10年前(1999年)までは「成人の日」といえば毎年1月15日と決まっていました。
 成人の日を1月15日としたのは、この日が小正月だからです。
 かつて大人になる儀式でもあった「元服の儀」が小正月に行われていたことによるといわれています。

 さらに小正月とは、正月(1月)の満月の日のことで、旧暦1月15日に当たります。現在は新暦1月15日に行われる場合もあります。
 ちなみに、元日は大正月とよぶのかというとその通り、大正月とよばれていました。

 さて、本来、成人の日は、前年の成人の日の翌日からその年の成人の日までに誕生日を迎える人を祝う日となっています。
 
 しかし、最近では前年の4月2日からその年の4月1日に成人する人を式典参加の対象にする方式が定着してきています。
 いわゆる学齢方式ですね。
 この方がわかりやすいし、同級生がみんないっしょに式に参加できるので自然な形だとおもいます。

 2000年から、ハッピーマンデー制度の導入にともなって、1月の第2月曜日に変更されました。
 一部を除いて、日月の2連休、土日月の3連休になりますので、故郷の成人式には参加しやすくなりました。
 より参加しやすくするため、成人の日の前日の日曜日に成人式を開催する市町村も多いようです。

 また、かつて成人式場や街頭でバカ騒ぎをする、恥知らずの新成人がいました。
 最近は大きく取り上げられて、ニュースになるほどの事件は減りましたが、大きなニュースにならない程度のひんしゅくを買うできごとはあるようです。
 晴れ着を着たガラの悪い新成人には、ガクッときます。
 
 一方、派遣切りをされて、家も仕事もなくし、生活の展望が見通せないまま、不安の中で成人式を迎える新成人もいるのではないでしょうか。
 辛い「成人の日」だったでしょう。
 
 祝日法によると、「成人の日」の趣旨は、「おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」となっています。
 「みずから生き抜こうとする」新成人を励ますのは「私たち」のしごとです。
 派遣切りをした大企業も政府も、「私たち」に含まれているということを自覚してほしいものです。 

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1月8日 マルコ・ポーロが世を去る

 日本ではおなじみのベネチアの商人マルコ・ポーロが、1324年の今日、世を去りました。

 「東方見聞録」によればマルコ・ポーロは、イラン・中央アジアを経て陸路で元に入り、1271年、皇帝フビライに謁見しました。
 フビライの時代ですから、マルコが中国にいたのは、日本の鎌倉時代のころのことです。

 その後、17年間、マルコは元に仕えました。 
 マルコは、モンゴルの言葉は話すことはできたようですが、中国語は話せなかったといわれています。
 それでも中国周辺の各地を巡り、行政官を務めたこともありました。

 さて、「13世紀はモンゴルの時代」といわれるように、当時、ユーラシア大陸の各地には、チンギス・ハンが征服した広い地域に、いくつかのモンゴル人の帝国ができていました。
 ある時、イランの地にあったイル・ハン国のアルグン・ハンのもとに、コカチンという王女が嫁ぐことになったのです。
 このときコカチンの旅行案内者にマルコが選ばれ、これをきっかけに中国を去り、イタリアに戻ることになりました。
 
 マルコとコカチンの一行は、ジャワ、マレー、インドなどを経由して、3年もかかって無事?にイランにつきましたが、出発時の600人の従者はわずか18人に減っていたということです。
 当時の航海はきびしく、命がけの旅であったのですね。
 しかも、アルグン・ハンはすでに没していたのです。
 マルコは、王女をその弟・ガイハトゥ・ハンに渡し、1295年、ベネチアに帰りました。

 マルコ・ポーロは陸路で、冬のベネチアに24年ぶりに戻りました。
 ところが、ベネチアとジェノバとの戦争に巻き込まれ、捕虜になってジェノバの牢獄に入れられました。
 
 牢に入れられていた時に、物語作者ルスチケロに出会いました。
 彼に話をした東方での見聞した話が筆記されて、これが現存するマルコ・ポーロ旅行記「世界の記述」(原題)のもとになったのです。
 日本では「東方見聞録」と訳されているのはご存じのとおりです。

 マルコが伝えたアジアの富についての記事はよく読まれました。
 この旅行記は、内容を書き加えられながら写本を重ね、後の大航海時代に大きな影響を与えたといわれています。
 
 さて、マルコ・ポーロについてさまざまな研究がなされていますが、イギリスのウッドは「マルコ・ポーロは本当に中国へ行ったのか」と疑問を投げかけています。
 「東方見聞録」に紹介されていない中国の風俗が多いことなどを理由に、マルコが元まで行ったことに否定的な見解を示しています。

 また、日本のあるモンゴル史学者は、当時の記録にマルコ・ポーロに相当する人物がみられないため、マルコ・ポーロの実在に疑問を投げかけています。
 
 続いて、「東方見聞録」の中には実際にフビライの近くにいなければ知りえないことが数多く書かれているので、「東方見聞録」は複数のベネチア商人の記録を「マルコ・ポーロ」という商人に託してまとめたものではないかとも考えています。

 とにかく、日本では、日本のことをジパングの名ではじめて紹介したことで有名な人物です。
 「東方見聞録」では、日本は「黄金の国ジパング」と紹介されていますが、マルコ・ポーロは実際に日本には訪れておらず、たぶん中尊寺金色堂についてのウワサを聞いたのでしょう。

 マルコはジパングを、黄金の国であることと、日本人は「人を食べる」というようにも紹介しているのですよ。
 どこから出たうわさでしょうか?

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1月7日 七草粥

 今日は、「七草粥」の日です。
 日本では、古来から、春の七種をきざんで入れた七種粥を、万病を除くおまじないとして食べる習慣がありました。
 厄払いと健康を祈りつつ、今年も元気で過ごせますようにと祈ってたべましょう。

 七草は、前日の夜、まな板に乗せ、囃し歌を歌いながら包丁で叩き、当日の朝に粥に入れたといわれています。
 呪術的な意味ばかりでなく、おせち料理で疲れた胃を休め、野菜が乏しい冬場に不足しがちな栄養素を補うという効能があります。

 ところで「春の七草」を全部思い出せますか?
 「セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、仏ノ座、スズナ、スズシロ」です。
 
 効能としては、「セリ」は消化を助け、黄疸をなくし、「ナズナ」は視力、五臓に効果があり 「ゴギョウ」は吐き気、痰、解熱に効果があり、「ハコベラ」は歯ぐき、排尿に良く、「仏ノ座」は歯痛に効き、「スズナ」は消化促進、しもやけ、そばかすに効き、「スズシロ」は胃を健康にして、咳き止め、神経痛によいといわれています。

 また、七草の日は初めて爪を切る日と言われ、セリなどを浸した水に指を入れてから爪を切れば、一年の間、爪の病からのがれると言われています。 

 秋の七草が、見て楽しむ植物なのに対して、春の七草はすべてが食用とされているというのはおもしろいですね。
 
 粥は病人食のように思われていますが、「京の白粥、大和の茶粥」「朝粥昼飛び夕雑炊」のことわざがありますように、関西では日常的に食べていたように思います。
 
 できたての熱い粥に、梅干しとか塩昆布、紫蘇、鰹でんぶを置いて食べるときの米の味と香りは何ともいえません。
 粥は簡単で、じつに美味しい料理です。
 (冷蔵庫の残り物のご飯の始末にもなります。味は落ちますが・・・)
 

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1月5日 プロスキーヤー三浦敬三、101歳で死去

 スキー一家で有名なプロスキーヤーの三浦敬三が、2006年の今日、多臓器不全のため101歳で生涯を閉じました。

 三浦敬三は、青森市の生まれで、八甲田山での山スキーに魅せられて、青森営林局に51歳まで勤務しました。

 退職後、東京都練馬区に住まいを移し、このころから海外の山々で多くのスキー滑降を行いました。
 また、山岳カメラマンとしても、数々の実績を残しています。
 イタリア山岳写真ビエンナーレ展において、ピトリオ・セラ賞とバダカップ賞を受賞しています。
 また、イタリアのソレントにある山岳博物館には、作品が展示されています。

 敬三は、還暦を過ぎてから海外での滑降を始めました。70歳の時にヒマラヤ、77歳でキリマンジャロを滑降しました。
 88歳の時には、アルプス・オートルートの完全縦走を果たし、99歳でモンブラン山系のヴァレブランシュ氷河からのスキー滑降を成し遂げました。
 すごいですね。

 100歳の時には、アメリカのスノーバードで、親・子・孫・曾孫の4世代での滑降を行って、話題になりました。

 なぜ100歳で、こんなに元気なのか。
 誰もが知りたいところです。
 2004年1月の週刊誌「サンデー毎日」のサンデー時評で、息子のプロスキーヤー三浦雄一郎が登場していました。
 あと3ヶ月で100歳になる父・三浦敬三の元気の秘密に話題が及んだところで、雄一郎が父の健康法をあきらかにしました。(これに先立ち「徹子の部屋」で雄一郎が明らかにしていました)

 敬三の健康法は2つあります。要約すると次のようになります。
 ①「朝起きたら、片方の鼻を塞いで息をし、ついでもう片方を塞いで同じように息をする。この鼻呼吸を15分間続ける。」
 ②「最低150回、舌をペロリと出す。」

 効果は、「これを続けると、血流がよくなって、シワやシミが全部とれてしまう。親父の肌は今でもツルツルです。徹子さんもシワが無くなったらしい。前は厚化粧だったけど。糖尿病が治った人もいますから。」と、雄一郎が述べています。
 (そういえば、厚化粧は無くなったような・・・・)

 特に②の「舌出し」は、一度にやると疲れてしまうので、「30回ずつ1日5回すればいい」ということです。

 ②で思い当たることは、ある健康雑誌にも取り上げられていました。
 それは、「ア・イ・ウ」と大きく口びるを動かして、最後にべーと舌を出すのです。口のまわりの筋肉が刺激されて気持ちいいですよ。「アイウベー」です。
 アトピーなどに効果があると書いてあったように思います。

 私はときどき、思い出したようにお風呂場で「アイウベー」っとやっていますが、やらない日の方が多いので効果は??です・

 三浦敬三のように、老いても元気に動ける体でいたいものですね。

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1月2日 キューバ革命

 1959年の今日は、キューバ革命軍がアメリカ合衆国のかいらい政権であったバティスタ政権を打倒した日です。

 テレビの「世界不思議発見」でキューバが取り上げられていて、興味があったのでとりあげてみました。

 さて、ご存じのとおり、コロンブスがアメリカへやってきたのが1492年。 
 以後、スペイン人がラテンアメリカにやってきて、先住民族はつぎつぎと征服されていきました。 
 キューバもスペイン人に「発見」されたことによりスペイン人の征服が始まりました。

 そのころのキューバには、タイノ族、シボネイ族、カリブ族とよばれる先住民がいました。原始的ながら平和に暮らしていたおだやかな性格の先住民でした。
 
 彼らは抵抗を続けましたが、スペインの遠征隊によって征服され、虐殺、虐待や強制労働、疫病によってそのほとんどが絶滅したとされています。

 スペイン人は、キューバを植民地化する中で、砂糖産業、奴隷産業をさかんにしました。 キューバは、奴隷を使ったさとうきび栽培によって、世界最大の砂糖生産地となっていました。 

 やがて、独立をめざす闘争が始められました。 
 第1次キューバ独立戦争では、スペイン当局にキューバの自治を認めさせました。

 1895年からはじまった第2次キューバ独立戦争では、独立軍はスペイン軍との死闘を続けました。
 島の半分以上を解放し、勝利する寸前まできました。 
 
 ところが、ある日、アメリカ合衆国の戦艦がハバナ港で謎の爆沈を遂げると、激怒したアメリカ国民の支持を背景にアメリカが独立戦争に介入してきました。 

 独立戦争は、いわゆる米西戦争(アメリカ・スペイン戦争)に様変わりし、アメリカ軍はまたたく間にキューバ全島を手中におさめ、アメリカ合衆国の圧倒的な勝利となりました。
 この戦争の結果、アメリカはスペインから、フィリピン・グアム・プエルトリコ・キューバを手に入れました。

 キューバはスペインの植民地からアメリカの植民地に変わりました。
 ついで1902年、キューバ共和国として独立しました。
 400年におよぶスペイン支配から解放され、独立を勝ち取ったかに見えましたが、それはスペインに代わるキューバの新たな主人になったアメリカ合衆国による支配の始まりでした。 

 キューバは憲法でアメリカの内政干渉権を認めさせられ、グァンタナモ、バイア・オンダの2箇所にアメリカの軍事基地を置くことなどが盛り込まれ、実質的にはアメリカの保護国となってしまいました。

 一応の独立後、キューバに進出したアメリカ企業によって精糖産業など多くの産業が支配されました。
 また、政治家の不正が度重なって生じたことで、国民の不満はより深まっていきました。  その後も、キューバではクーデターの発生や相次ぐ政変により、政治的な不安定期が続きました。 

 この不安定な政治状況は、バティスタが政治の実権を握ったことで一定の安定を見せてはいました。 
 バティスタは、1944年の総選挙で敗北したにもかかわらず、8年後クーデターで政権を奪取し、憲法を停止した上で独裁政治を開始しました。 

 2度目のバティスタ政権は1度目とは違い、腐敗、弾圧、独裁の政治が続きました。 
 アメリカに支持されたバティスタ政権と、アメリカ政府、アメリカ企業、アメリカマフィアの4者がキューバの富を独占し、その富がアメリカ本土に吸い取られるような社会構造がつくられていきました。

 1953年7月26日、このようなアメリカによる半植民地状態を終わらせるためには、苦しみの根源であるバティスタ政権を倒さなくれはならない、と青年たちが立ち上がりました。   

 青年たちは、弁護士フィデル・カストロに率いられ、モンカダ兵営を襲撃しましたが、このときは失敗に終わりました。 
 
 カストロらの同志は、メキシコ亡命中に、アルゼンチン人医師のチェ・ゲバラ と出会い、彼からゲリラ戦の訓練を受けました。
 そして、1956年12月、ヨット「グランマ号」にのってキューバに再上陸しました。 
 2年あまりのゲリラ闘争の末、1959年1月1日にバティスタを国外逃亡に追い込みました。

 翌1月2日、革命軍はハバナに入城し、キューバに革命政権が誕生しました。 
 その後、カストロを先頭に農地改革を実施し、砂糖よりも食料になる作物の生産に力を入れました。 
 また、土地と産業を国有化し、農業の集団化を実施するなど社会主義国家の建設を推進しました。 
 この過程で、医者をはじめとする中・上流階級の多数の人々がアメリカなどへ亡命していきました。

 バティスタかいらい政権を失ったアメリカは、革命政権を敵視するにいたりました。
 おりからの冷戦による米ソ対立の影響を受け、アメリカに敵視された革命政権はソ連に接近し、1960年に、ソ連と正式な外交関係を結びました。 

 アメリカ政府との対立が決定的になると、キューバ政府は国内からアメリカ企業の排除し、アメリカ資本の石油精製会社、製糖会社、電話会社、銀行・商業・工業の大企業を国有化していきました。
 
 1961年、アメリカ政府はキューバとの外交関係を断絶し、少量ながら続けていたキューバ産砂糖の輸入も全面禁止しました。 
 アメリカは、自国で訓練した亡命キューバ人による反革命軍を、キューバ南部のヒロン湾に侵攻させました。
 しかし、反革命軍は撃退されて目標を果たせませんでした。

 アメリカは、革命以来、キューバ敵視政策をとり続けていますが、国際社会では、アメリカによる理不尽な経済封鎖政策に反対する声が圧倒的になっています。

 毎年の国連総会では、17年連続で、対キューバ通商禁止解除を求める決議を圧倒的な差で可決しています。

 賛成が179に対して、反対は3程度です。反対国は年によって変わりますが、当のアメリカ合衆国とイスラエル、マーシャル諸島、パラオなどです。

 オバマ次期大統領はどうするでしょうか。

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12月31日 除夜の鐘

 大晦日になりました。大晦日の夜は、一年間の日暦(日めくり)を最後に取り除くということで除夜といわれてきました。

 1年の最後の夜を締めくくり、ゆく年を惜しむ意味で昔からいろいろな行事が行われてきました。
 その中で除夜の鐘というのがもっとも知られています。
 除夜の鐘というのは、今夜(つまり除夜)の深夜0時をはさんで、寺院でつかれる鐘のことをさしています。
 
 さて、ご存じのように、除夜の鐘は108回つかれます。
 なぜ、108なんだろうと長いこと疑問に思ったまま、この歳まできましたが、108という数字の根拠はなんでしょうか。

 人間には、眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)の六根があります。この六根のそれぞれに好(こう:気持ちが好い)・悪(あく:気持ちが悪い)・平(へい:どうでもよい)の3つがあって6×3=18になります。
 
 この18のそれぞれに浄(じょう:きれい)・染(せん:きたない)の2つがあって、18×2=36、これに前世(過去)・現世(現在)・来世(未来)の3つの時間が関わって、36×3=108となるのです。
 これが、人間が持っている108の煩悩だといわれています。
 なお、煩悩とは、仏教の語句で、国語辞典には「人間の心身の安らぎを乱す状態」と説明されています。
 
 108回のうち107回は旧年(12月31日)のうちにつきおわり、残りの1回を新年(1月1日)につくことになっています。

 大石寺では例外的に、新年になってから1つ目をつきはじめることになっています。
 本来は108回の鐘は、除夜だけでなく毎日、朝夕につかれるべきものだそうです。しかし、現在では、ふだんは略して18回に留められています。

 こどものころから除夜の鐘を聞いてきましたが、108の正確な由来を知らなかったばかりか、最後の1つだけを新年につくということも知りませんでした。

 さて、皆さんのこの1年はどのような年でしたか。
 除夜の鐘を聞きながら1年を振り返って、良いお年をお迎え下さい。来年もよろしくお願いいたします。
 (この項、ウィキペディアを参考にしました)

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12月30日 フィリピン独立の英雄 ホセ・リサール銃殺される

 1896年の今日は、フィリピン独立の英雄、ホセ・リサールがフィリピン軍によって銃殺された日です。
 ホセ・リサールは、スペイン軍の手で銃殺されましたが、その意志は人々に受け継がれ、フィリピン独立の英雄として今も愛されつづけています。

 リサールは、日本の幕末にあたる1861年、ラグナ州のカランバで生まれました。
 当時のフィリピンは、マゼラン以来ずっと続いていたスペインの植民地でした。
 リサールは初等教育を終えると、マニラのアテネオ大学で土地測量の技術を学びながら、同時にサント・トマス大学で哲学を学びましだ。

 その後、母が失明の危機に陥ったのをきっかけに、医学を学び始めましたが、まわりのフィリピン人蔑視の雰囲気に耐えられず大学を去りました。

 リサールは続いてスペインのマドリ-ドに留学し、そこで医師免許を取得しました。
 また、スペイン語・英語・フランス語はもちろん12~13カ国の言語を自在に操った語学の天才だったといわれています。
 日本にも、短期間、滞在したこともあって日本語も理解できたといわれています。

 リサールの愛国的小説「ノリ・メ・タンヘレ(我に触れるな)」や「エル・フィリブステリスモ(反逆)」は、スペイン圧政下に苦しむフィリピンの現状が克明に描き出されています。
 平和的手段によって圧制者とたたかう多くのフィリピン人を勇気づけました。

 リサールは、革命家というより、フィリピン人たちの生活改善を願うという側面が強い改革者でした。
 リサールのゆるやかな改革案は、フィリピンがスペインの一地域であることを認めた上で、スペイン議会へフィリピン代表を派遣できる権利が認められるべきこと、フィリピン人の聖職者の養成を行うこと、言論の自由が認められるべきこと、フィリピン人に法律的な平等が与えられるべきことなどでした。

 これらのゆるやかな改革案でさえ受け入れられませんでした。
 スペイン人統治者たちは、このような暴力に訴えないゆるやかな提案すらも植民地支配を脅かすものであると危険視しました。

 リサールは1892年にマニラにもどりましたが、ただちに辺地へ追放されました。リサールは、その土地で病院や学校をつくって住民の啓蒙につとめました。

 リサールが追放された後、独立をめざす武装闘争が各地で始まりました。
 すると、以前からリサールに目をつけていたスペイン官憲によって逮捕され、マニラで裁判にかけられました。
 リサールは、著作を通じて改革をよびかけましたが、武力闘争は奨励しなかったにもかかわらず、結局、反乱・扇動・違法結社の「無実」の罪で銃殺刑を宣告されました。
 
 処刑に先だって妹に手渡した詩「私の最後の別れ」は、祖国への熱い思いを伝えています。
 1896年12月30日、バグンバヤン広場で銃殺されました。35歳でした。
 バグンバヤン広場は、現在、リサール公園になっており、リサールの銅像が建てられています。

 東京の日比谷公園にホセ・リサール記念像があります。これはリサールが東京に滞在したことがあるのを記念した設置されているものです。

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12月28日 山陰線余部鉄橋で列車転落事故がおきた

 1986年の今日は、山陰線余部鉄橋(鳥取県)で列車転落事故がおきた日です。

 この日、午後1時25分、余部鉄橋を時速約50キロメートルで走行中だったディーゼル機関車が牽引する回送列車のうち、すべての客車が日本海からの強風にあおられて、橋の真下に転落しました。

 転落した客車は、真下の蟹の加工工場を直撃しました。このため、工場の従業員5名がなくなり、列車とともに転落した車掌1名もなくなりました。
 車内販売員1名と工場の従業員5名が重軽傷を負いました。
 機関車は客車より非常に重いため橋梁上に残りました。

 列車を運転していた機関士は、鉄橋通過中に、非常ブレーキが動作したのを感じて後方を確認したときには、すでに客車が転落したあとだったと証言しています。

 強風時の列車運行を規制するために、沿線には風速計が設置されていました。しかし、この設置が不十分でした。
 また地形的に強風を予測しきれなかったことも原因のひとつと見られています。

 また単線の区間では、列車が長時間運行停止になると、ダイヤの正常な回復までに相当の時間かかるといわれています。
 そのため、警報を軽視して無理して運行していたのではないかと推測されています。

 事故後、国鉄は運行規制の基準を見直し、風速毎秒20m以上の風が吹くと自動で列車の運行を停止するように改善しました。
 国鉄のすることはいつも遅きに失していますね。

 なお、余部鉄橋は老朽化していることもあり、また、この事故で厳しくなった運行基準のために列車の運休や遅れが続出していることから、2010年完成をめざして、架け替え工事がすすめられています。

 さて、余部鉄橋は、明治の終わりの1909年12月に着工、1912年の3月1日に開通しました。
 この橋ができて、山陰本線がつながったという歴史があります。
 長さ約310メートルですが、橋脚の高さ約42メートルは日本一です。構造的には、11基の橋脚、23連の鉄桁を持つトレッスル橋です。
 
 トレッスル橋とは、橋脚が末広がりに組まれた橋で、各地にあります。
 鉄道の橋に多く、地上から高いところに架けられています。
 車窓から見る眺めはすばらしいですが、高所を通過しているので、高所恐怖症の人は怖く感じるのではないでしょうか。
 一方、地上から見上げた姿はほんとに美しいです。
 このホームページにすばらしい写真が紹介されています。橋の散歩径

  余部鉄橋の独特な橋の構造と鮮やかな朱色が周囲の緑や青い空と織りなす風景は、昔からカメラマンや鉄道ファンに愛されてきました。
 また、山陰地方を訪れる観光客にも人気があります。

 できることなら、この鉄橋を文化財として残したいものですが、維持費と安全性を考えた場合、断念しなくてはならないのでしょうか。

 余部鉄橋の下を国道が通っています。
 そばに事故の慰霊碑も建てられています。
 事故の犠牲者を追悼慰霊する法要が28日、慰霊碑前でしめやかに営まれました。遺族や関係者が手を合わせて犠牲者の冥福を祈ったと報道されていました。

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12月26日 鍵屋の辻の決闘

 1634年の今日(旧暦の11月7日に当たります)は、鍵屋の辻の決闘といわれている仇討ちがおこなわれた日です。
 
 この決闘は、渡辺数馬と荒木又右衛門が、数馬の弟の仇である河合又五郎を、伊賀国上野の鍵屋の辻で討ったできごとです。伊賀越の仇討ちともうわれています。

 江戸時代の初めのことです。
 岡山藩主池田忠雄には寵愛する渡辺源太夫という小姓がいました。
 藩主に仕えてい河合又五郎は、源太夫に横恋慕して関係を迫りましたが拒絶されたため、逆上して源太夫を殺害するという事件がおきました。
 
 池田忠雄も源太夫も又五郎もすべて男性です。つまり3人の男性同士の愛情関係から事件が発生しました。

 源太夫を殺した又五郎は脱藩して逃亡しました。逃亡先の江戸では旗本・安藤正珍にかくまわれていました。
 一方、激怒した忠雄は、又五郎の引渡しを幕府に要求しましたが、安藤正珍は他の旗本を仲間に巻き込んでこれを拒否しました。
 
 解決が長引いているうちに、池田忠雄が、又五郎を討つようとの遺言を残して、疱瘡のため急死しました。
 忠雄にすれば、よほど無念だったのでしょう。
 
 幕府は、喧嘩両成敗として事件の幕引きをねらいました。河合又五郎を江戸からの追放して、かくまった旗本たちを謹慎することを決めました。
 
 源太夫の兄・渡辺数馬は、仇討ちをせざるをえない立場に追い込まれていました。主君池田忠雄の遺言による上意討ちの内意が含まれていたからです。
 数馬は仇討ちのために脱藩しました。
 数馬は剣術が未熟でしたので、義理の兄にあたる郡山藩の剣術指南役・荒木又右衛門に助太刀を依頼しました。

 数馬と又右衛門は、又五郎の行方を捜しまわった末、1634年秋、又五郎が奈良の旧郡山藩士の屋敷に潜伏していることをついに突き止めました。
 危険を察知した又五郎は、ふたたび江戸へ逃れようとしました。

 数馬と又右衛門は、又五郎が伊賀路を通って江戸へ向かうとの情報をつかみました。このため途中の伊賀上野の鍵屋の辻で待ち伏せすることにしました。
 数馬には、又衛門の門弟2人の3人が助太刀していました。
 
 護衛をふくむ総勢11人の又五郎一行は、待ち伏せされているとは知らず、早朝、鍵屋の辻にさしかかりました。

 又五郎一行に数馬、又右衛門らが切り込み、決闘が始まりました。
 又右衛門の奮闘と、又五郎らが頼みとしていた叔父(郡山藩剣術指南役)と妹婿の槍の名人が討ち取られたことで、又五郎側の多くは戦意を喪失して逃げ出してしまいました。

 逃げ遅れて残った又五郎は、数馬、又右衛門らに取り囲まれました。
 仇討ちのルールでは、又五郎を倒すのは数馬の役目になります。この2人は武士とはいえ、剣術の腕は大したものではなく、5時間も斬り合いが続きました。
 数馬がやっと又五郎に傷を負わせたところで、又右衛門がとどめを刺しました。
 又衛門はいらいらしていたことでしょうね。

 仇討ちの目的を達した渡辺数馬と荒木又右衛門は世間の注目を集めました。
 特に、実質的に仇討ちを成功裏に導いた又右衛門は大きな賞賛を浴びました。

 数馬と又右衛門、生き残った1人の門弟ら3名は、仇討ちを支援したとされている伊賀上野の藤堂家に4年間も預けられました。、

 この4年間、又右衛門らの処遇が検討されました。
 国替えされていた池田家の鳥取藩が引き取るか、旧主の郡山藩が引き取るかで紛糾したようです。
 結局、3人は鳥取藩が引き取ることになりました。

 3人は鳥取に到着しましたが、その17日後に鳥取藩から荒木又右衛門の死去が公表されました。
 突然な又右衛門の死は、いろいろな憶測を呼び、毒殺されたという説、生存したままかくまったという説、切腹させられたという説などさまざまです。

 この仇討ちは、江戸時代から歌舞伎、浄瑠璃、講談などの題材となって、大衆の人気を集めました。
 映画やテレビ、時代小説などでも数多く取り上げられています。

 また、この仇討ちは、曾我兄弟の仇討ちと赤穂浪士の討ち入りにならんで、「日本三大仇討ち」の一つに数えられています。

 なお、伊勢街道と奈良街道の分岐点にあたる鍵屋の辻は、現在、「鍵屋の辻史跡公園」となっています。
 園内には伊賀越資料館や数馬茶屋などがあります。

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12月24日  消費税法案成立。

 子どもから大人まで、知らないうちに納めている消費税の法案が、1988年の今日、竹下内閣のもとで成立しました。
 12月30日に公布され、1989(平成1)年4月から実施されました。

 当初は税率は3%でしたが、1997年、橋本内閣のもとで5%に引き上げられました。この税率アップはすでに村山内閣で内定していたものです。
 5%の内訳は、地方消費税の導入にともない、国の4%と地方消費税1%を合わせたものです。これは現在まで変わっていません。

 消費税とは商品やサービスに課せられる間接税で、商品が売買、つまり取り引きされる各段階ごとに発生し、最終的には消費者が負担する税です。
 消費者は、「自分は5%だけし負担していない」ということでなく、それまでの取り引きで発生した課税分が商品の価格に含まれているので、かなりの税を負担していることになります。

 この消費税は1954フランスで始まりました。のち、ベルギー、イギリスで導入され、ヨーロッパのほとんどの国で導入されています。
 ただ、イギリスなどは、日用の食料品および子供用品は非課税になっています。

 日本では、大平内閣時代に、一般消費税導入案が浮上しましたが、国民が大反発して流れ、中曽根内閣時代にも、売上税という名で構想されましたが世論が反発したという経過があります。

 そして、細川内閣時代に税率を7%とする国民福祉税の構想が出されましたが、世論の批判を浴びるて、即日白紙撤回しました。
 日本では、かなり反発がきつい税です。

 政府の決まり文句として、「日本は世界に比べて消費税率が低い」、「だから税率アップ」との発言をくり返しています。

 消費税率だけ比較してみると、確かに日本の税率は安く見えます。
 ただ、日本の場合は生鮮食料品や公共料金(生活には欠かせないガス・電気・水道料金)にまで消費税がかかっています。
 低所得者、年金生活者には大きな負担です。

 ヨーロッパの消費税の税率は、食料品などの生活必需品とそれ以外の商品の税率を分けて設定しています。
 イギリスやアイルランド、メキシコ、オーストラリアなどの国々では、食料品の消費税は0%です。つまり非課税です。
 ぜいたく品と生活必需品の税率をきっちり分けている国のほうが、世界的にははるかに多いのです。

 日本の場合、社会保障はどんどん切り捨てられていく一方で、消費税率を上げることばかりが考えられています。
 麻生首相も、景気が落ち着いたら税率を上げたいといっています。
 税率を上げたら、また不況にもどりますよ。

 そもそも、おかしいと思っていることがあります。
 中学校や高校の教科書・参考書には、不況のときの政府の対策についてまとめてあり、学習の重点項目になっているはずです。
 
 不況になれば、企業の利潤が減少、生産縮小、賃金下降、首切りと失業者増加、その結果、購買力の低下、企業の利潤がさらに減少、生産縮小・・・の悪循環が繰り返すとなっています。

 政府がするべき対策は、公共事業などで失業者救済、社会保障費などの財政支出の拡大、減税などがテストでの正解になります。
 要するに、国民のフトコロを暖かくして購買力を上げることで、企業の商品がよく売れることにつながり、企業の利潤も増えて、好景気にもどっていくという資本主義の基礎理論です。

 この政策を実行して成功したのが世界大恐慌時代のF・ルーズベルトのニューディール政策であると歴史の教科書に書かれています。
 ニューディールの根幹は、国民の購買力を高めることにあったのです。

 今の日本は、物価を上げる、賃金を抑制する、社会保障を切り下げる、定率減税を廃止して実質的に増税する・・・・どれもこれも国民の購買力を奪う政策です。
 資本主義の基礎理論に逆行しています。

 また、教科書では間接税の割合を増やすことは、低所得者の税負担が大きくなり、「大衆課税」になると説明しています。
 消費税は、典型的な間接税ですよ。
 なお、間接税とは納税者と税の負担者がちがう税のことで、多くは物品・サービスに含まれています。

 国の財政が苦しいのなら、消費税率を上げるまえに、むだな歳出を抑えればいいだけのことではないでしょうか。
 国民のフトコロを暖かくすれば景気が早いうちにもどって、税収が増えることでしょう。

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12月22日 年齢計算ニ関スル法律の施行

 1902年の今日、「年齢計算ニ関スル法律」が施行されました。
 この法律によって、それまでの数え年にかわって、満年齢を使用するよう定められました。 
 「数え年」とは、生まれた時点を「1歳」とし、以降元日(1月1日)を迎えるごとに1歳加える年齢の数え方のことです。
 単に「数え」ともいいます。

 これに対し、出生日に当たる日(誕生日のこと)の前日午後12時に加齢する数え方を「満年齢」といいます。

 極端な例でいうと、12月31日に出生した人は、出生した時点で1歳ですが、翌日(1月1日)には早くも2歳となります。
 また、1月1日に出生した人は、2歳になるのは翌年の1月1日になります。

 昔から「数え年」を使用してきたのには、それなりの理由があります。
 一つは、胎児が母親の胎内にいる期間(十月十日〈とつきとおか〉)も年齢に加算するという考え方です。
 
 もう一つは、明治以前の旧暦では、ひんぱんに閏月というものがありました。私たちが知ってる閏年、閏秒のように、暦を調整する月のことです。
 
 閏月は、約3年に1回(約19年に7回)の割合で挿入されていました。このため、1年の長さが年によってことなっています。
 1年が13ヶ月ということがおきました。
 
 たとえば、8月と9月の間に閏8月が入るというようになっていました。閏月は、年によって何月になるか異なりますので、閏8月生まれの人の誕生日はしばらくの間、めぐってこないことになります。
 満年齢を用いるとこのような問題が生じて、誕生日がない場合があるので、1月1日(元日)が来るごとに1歳を加算する数え年が使われてきました。

 現代に生きている私たちの満年齢と数え年の関係は次のようになります。
 自分の今年の数え年は、元日から誕生日前日満了までは「数え年=満年齢+2」、誕生日前日満了以降は、「数え年=満年齢+1」で計算します。

 私たちがよく使う、たとえば入社3年目というのは数え年の計算です。
創立50周年の周年とは、「それだけの年数を経たこと」を意味しますから、満年齢の計算です。
 たとえば、50年目=49年経たので49年後=49周年となります。ですから、創立100周年記念行事は101年目におこなわれるべきですね。

 亡くなられた方のお歳を享年であらわす場合、「享年60」とあらわします。
そもそも享年とは、人が「天から享(う)けた年数」という意味ですから、この世に存在した年数を数字であらわします。
 
 数え年70歳(満68歳)で死去した場合は、「享年70」となります。または「享年70(満68歳)」と併記することもあります。
 最近は、享年を満年齢で表し「享年68(歳)」」とあらわすことも一般的になりつつあります。

 本来、数え年で行われてきた伝統行事である七五三や年祝い(古希・喜寿など)も、数え年・満年齢のいずれで祝ってもよいとされていることが多くなっています。

 還暦の場合は、数え年で行う場合は61歳、満年齢で行う場合は60歳と、行われる年齢の数字が異なります。

 ただし、厄年には数え年を使い、満年齢を使うことはほとんどないようです。

 私は、こういう計算が苦手で、ややこしくて、今日の話題には頭痛がしてきました。

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12月20日 シーラカンスの日

 今日は、「シーラカンスの日」です。
 1952年の今日、シーラカンスが捕獲されたことに由来しています。

 しかし、シーラカンスは、この日に始めて捕獲されたわけではありません。
 1938年12月22日、南アフリカ南東部のインド洋にそそぐカルムナ川の河口付近で漁をしていた漁船が見慣れない魚を捕獲したことが最初です。
 当時の科学では、腐敗を防ぐことができず、このときの標本は腐敗してしまい、じゅうぶんな調査ができませんでした。
 
 そのため、研究者たちは100ポンドの懸賞金を掛けた手配書を配って、第2の標本を探し求めました。
 ところがなかなか捕獲できず、次の標本が捕獲されたのは14年も後の1952年12月20日でした。

  発見されたのは、最初の発見地から遠く離れたコモロ諸島のアンジュアン島でした。
 この1952年の捕獲日12月22日が「シーラカンスの日」に制定されました。

 シーラカンスは、肺魚(ハイギョ)とともに魚類と陸上脊椎動物の分かれ目に位置する生き物にあたると考えられています。
 シーラカンスの仲間は、古生代デヴォン紀に出現して、広く世界の水域に栄えました。
 しかし、約6,500万年前(中生代白亜紀末)にほとんどすべての仲間が絶滅していたことがそれまでの定説でした。
 
 コモロ諸島で発見されたのは、ラティメリア・カルムナエとよばれるシーラカンスの仲間であり、一般的にシーラカンスの代名詞となっていきました。
 その後、1997年に、インドネシアでラティメリア・メナドエンシスというシーラカンスの仲間が確認されています。
 日本語では、「インドネシア・シーラカンス」とよばれるようになりました。

 シーラカンスの仲間は、多くの化石によって存在が知られています。
 化石は、白亜紀の地層でみつかって以後は、1938年に至るまで確認されませんでした。やっと確認したら「生きていた」というわけです。
 化石のシーラカンスと生きているシーラカンスの間で、形態的な差異がほとんど見られないことなどから、「生きている化石」との評価を受けました。

 復元されたものでは全長が3mに達する巨大な仲間も知られています。アンコウのような丸い形をした物や、体長4mをこえる巨大なものまでいました。
 タイのとうに扁平な姿をしたものもいました。

 化石の研究から、シーラカンスは卵胎生であると推測されていました。
 このことは捕獲したのものを解剖して証明されています。なお、その卵はナント直径10cmを超える大きさです。
 シーラカンス自体1mを超える大きな魚ですが、卵はもっと異常な大きさで、子どももかなり成長が進んでから生まれ出てきます。
 体長30cm近くになってから生まれてくるといわれています。

 一応、魚ですから、味はどうなんでしょうか。
 この魚を昔から知っていたコモロ諸島の人々は、肉が不味くて「使えない魚」との語義をもつ「ゴンベッサ」の名でよんでいました。
 要するに、不味いのです。
 
 学者によると、やはりシーラカンスの肉は味が無く、歯ブラシのようで水っぽくて不味であり、食材には適さないとのことです。
 もし自分で食べてみての感想ならば、この学者はとても勇気のある学者ですね。

 また、シーラカンスには寄生虫がいることが判明しています。
 肉にはワックスが含まれているため、大量に食べると下痢をおこすそうです。食べない方がよい魚なんですね。
 
 なお、現在、「絶滅寸前」(CR)といわれ、ワシントン条約附属書 I にリストされていて、商業目的の取引は禁じられています。

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12月17日 「銀閣寺」が世界遺産に登録された

 1994年の今日、京都の慈照寺(通称・銀閣寺)が、ペルーのナスカの地上絵とともに世界遺産に登録されました。

 京都市左京区にある、東山文化を代表する臨済宗相国寺派の寺院です。 
 国宝の観音殿を「銀閣」と通称し、観音殿を含めた寺院全体を「銀閣寺」と通称しています。
 この通称は近世(江戸時代)の名所案内などですでに使用されていますので、けっこう古くから使われています。

 さて、銀閣を創建した足利義政の父は、第6代将軍足利義教(よしのり)です。
 義教は、くじ引きで将軍になった上に、守護大名に暗殺された人物です。将軍の権威の弱さがあらわになってきたのもこの時期でした。
 1449年、義政はわずか8歳で第8代将軍になりました。

 義政は、はじめは有力な管領に助けられて、真面目に政務をこなしました。
 やがて夫人の日野富子や側近にまかせきりになりました。夫人の日野富子は、私欲に目がくらんだ悪女の代表格にあげられている人物です。

 このころは全国的に凶作が続き、各地で土一揆、徳政一揆がおこり、義政1代で13回もの徳政令が出されるありさまでした。
 義政は、幕府財政が悪くなっていても、大飢饉のための対策をたてませんでした。
 それどころか、さらに税を徴収し、さかんに土木工事をおこない、寺社詣でや遊興にふけるようになりました。

 やがて、将軍の跡継ぎ争いがおきました。
 義政の弟・義視を跡継ぎに決めた翌年、夫人の日野富子が義尚を生み、富子が義尚を将軍にしようとしたので、これがきっかけとなって応仁の乱がおきました。

 応仁の乱は、京都を舞台に約10年争われ、京都は焼け野原になりました。
 街は、貧しい民衆がさまよい歩き、盗賊が闊歩する街に変貌しました。しかし、民衆は力強く街を作り直していきました。祇園祭が始まったのもこのころです。
 一方、貴族たちは京都を捨てて、西国の城下町に逃げ去りました。

 義政には、将軍としての統制力はまったくありませんでした。乱のさなかの1473年に、将軍を子・義尚にゆずって、東山の山荘にこもりました。
 東山に住んだので東山殿とよばれていましたが、のち出家して、山荘内に阿弥陀仏を祀るための堂を建て、東求堂(とうぐどう)と名付けました。 

  当時は応仁の乱が終わったあとは、京都の経済は疲弊しましたが、義政は庶民に税や労役を課して、東山の山荘の造営を進め、書画や茶の湯に親しむ風流な遊興生活を送りつづけました。

 銀閣の造営工事は義政の死の直前まで、8年にわたって続けられました。銀閣は、2層になっており、下層は書院造り、上層は禅宗の仏堂様式です。
 
 書斎の北側に設けられた付書院と違棚は現存する最古の座敷飾りの遺構です。書院造や草庵茶室の源流として、日本建築史上、貴重な遺構であるといわれています。
 
 周囲の庭園は東山文化を代表する趣のあるものになっています。
 ただし、現存する当時の建物は銀閣と東求堂のみです。
 
 現在の銀閣は、木目の壁が渋さを醸し出して、荘厳な雰囲気を出していますが、創建当時は、黒の漆が全体的に塗られていたようです。

 修復工事をするにあたって、黒漆を再現するべきか、現在の木目をそのまま生かすかというように議論が分かれています。
 今年の2月から2年間の予定で修理に入っていますが、どういうでき具合になるのでしょうか。
 今は、銀閣そのものは見られなくて残念ですね。
 
 銀閣を訪れた人は、、金閣には金箔があるのに銀閣には銀が貼られていないと不思議がる人がいます。
 特に小中学生は、その名前から銀が貼ってあるというイメージができあがっているようです。

 足利義満が金閣を建てた時は室町幕府の全盛期でしたが、銀閣のころには銀を集めるカネがなかった、というのが正直なところでしょうか。

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12月15日 ローマ皇帝、ネロが生まれた

 今から約2000年前のローマ帝国で、のちの皇帝になるネロが今日、生まれました。

 生まれたころのネロは、皇帝の地位など望むべくもありませんでした。ところが、母がネロを連れて皇帝と結婚し、皇妃となったところから運命が変わりました。
 母の数々の策略によって、ネロは皇帝の養子となり、立場が強化されました。

 皇帝には実子ブリタンニクスがいましたが、徐々に疎外され、ネロの存在が際立つようになってきました。
 クラウディウス帝が死ぬと、ネロが17歳で皇帝に即位しました。
 初期は、家庭教師でもあった高名な哲学者セネカや親衛隊長官の補佐を受け、名君の誉れが高かったのです。

 暗い悲惨な過去を背負っていたネロの母は、ネロを皇帝にする野心に燃え、秘密工作、粛清、殺人…と、あらゆる策謀に手を染め、「悪女」とよばれる恐るべき母になりました。

 やがて、ネロは母の干渉を疎ましく思ってきました。それを感じた母は、かつて自らが退けた前帝の実子ブリタンニクスに注目するようになりました。
 ところが、そのブリタンニクスは成人の儀式目前で急死してしまいました。ネロが暗殺したといわれています。

 母との対立が深まり、ネロは母を殺害しました。
 ネロは、さらに多くの元老院議員を処刑し、妻オクタウィア、哲学者セネカを殺害し、ローマ大火の犯人としてキリスト教徒を迫害したことから、後世では暴君として知られるようになりました。

 一方、ローマの街を灰燼に帰してしまった大火の後の復興は見事でした。都は新しく生まれ変わりました。
 しかし、ローマ市民は、「皇帝が新しい町を作るためにローマに火をつけた。」と噂しました。

 このころ、属州でおこった反乱が波及して、各地の属州総督がこれに次々に同調しました。
 ついには元老院からも「国家の敵」としての宣告を受けてローマを追われました。
 そして、自らの喉を剣で貫いて自殺しました。30歳の若さでした。

 そもそもネロという皇帝は、もともとおとなしい性格の子だったようですが、歪んだ母子関係のもとでおきた悲劇ともいえます。
 暴政の合間にも善政が交互におこなわれているふしがあります。ネロは、善政が持続しませんでした。
 本人の自殺後、ローマ市民はネロに対して同情を示し、墓にはいつも花や供物が絶えなかったといわれています。

 話題が大きく飛びますが、「暴君ハバネロ」というスナック菓子をご存じですか。
 普通のトウガラシよりも辛い「ハバネロ」というトウガラシと、「暴君ネロ」をかけあわせたた駄洒落が商品名となっているお菓子です。
 
 発売時、世界一辛いとギネス・ワールド・レコーズで認定されていたトウガラシ・ハバネロを使用しています。
 暴君ネロもとんだところで有名になったものです。

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12月13日 双子の日

 今日は「双子の日」です。
 1874年(明治7年)、「双子の場合は、先に産まれた方を兄・姉とする」という太政官布告が出されたのを記念してもうけられました。

 今日の双子のテーマは、一卵性双生児について取り上げていきたいと思います。
 私の孫が一卵性双生児だからです。

 さて、日本では後から生まれた方を兄または姉、先に生まれた方を弟または妹として扱う慣習がありました。
 現行の戸籍法上は、生まれた順に記載することとなっています。
 
 双子の出産の確率は、昔から人種に関わりなく、1000組に4組の確率で一卵性双生児が誕生するというデータがあります。

 今まで多くの一卵性の双子の兄弟や姉妹を知っていますが、一卵性双生児は基本的にまったく同じ遺伝子を持っているため、顔つきは非常によくにているため、見分けがつかないという場合がよくありました。
 歌手のザ・ピーナッツやこまどり姉妹(古い話題でスミマセン)、お笑いのザ・タッチは見分けがつきにくい例ですね。

 一方、同じように育てている一卵性の双子なのに、顔つきがや性格、好み、ちがいが出てくる場合があります。
 ほんとに双子?という思いになるケースを過去に経験しました。
 私の孫がどちらかというと、この例にあたります。
 
 これは同じ遺伝子型を持ち、まったく同じDNAを持つ一卵性双生児であっても、胎児期のうちからそれぞれが独自の成長をするからだといわれています。
 脳が発達する過程も異なってくるので、出生する時にはすでに大脳皮質の形状も異なっているといわれています。

 双子の成長にしたがって、個々の双子の表現の差がしだいに広がるため、病気に対する抵抗力や外見などの差などはしだいに大きくなるようです。
 また、身体能力なども、似てはいますがそれぞれで異なってきて、学校の得意科目やスポーツの得意・不得意が分かれることも多いといわれています。
 
 さらに、一般に個人を認証する方法として、指紋とか静脈、虹彩で個人認証することができますが、一卵性双生児の場合もまったく可能で、個人認証できます。
 また顔認証でも、一卵性双生児を識別することができます。
 
 しかし、犯罪捜査などで、現在もっとも確実といわれているDNA認証では、一卵性双生児のそれぞれを個人認証することはできないようです。

 双子の孫の成長を見てきた祖父の立場から見ると、育てる親にはたいへんな苦労がともないます。
 一例ですが、授乳期には、双子ちゃんの授乳やおしめ取り替え、夜泣きの時間が交互にずれるので、夜間は、親は寝る間がないということがたびたびあったようです。
 
 祖父として遊んでやるときも、かならず平等にと心がけました。だから、同じことを2回ずつしなければならないのが苦労といえば苦労でした。
 自転車、一輪車、学習机、その他身の回りのものや学用品の購入も2つずつですから、出費も増えます。

 でも、双子ちゃんの成長がその苦労を完全に打ち消してくれています。 

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12月11日 胃腸の日

 今日は「胃腸の日」です。このような記念日があるとは知りませんでした。
  「胃に良い→いにいい(1211)」の語呂合わせで12月11日となりました。日本大衆薬工業協会が2002年に制定しました。

 胃は英語で:stomachといい、消化器を構成する器官のひとつです。
 消化管の中では、食道に続く器官で、十二指腸につながっています。横隔膜の下ぐらいにあって、体の表面からみると、胸骨の下、みぞおちのあたりにあります。

 大きさは個人差があるようです。形も、胃が垂れ下がった胃下垂の状態になっている人もいます。

 人間ドッグでバリウムを飲んで、胃のレントゲンを撮っているときにちらっと見ると、胃は入口と出口が狭く、途中がふくらんで袋状の構造になっていることがよくわかります。

 高校の生物の授業で、食べた物が食道から入る入口付近を噴門部、十二指腸につながる出口付近を幽門部と習いました。忘れていましたが。

 空腹のときは内側の壁がひだを作って縮んでいますが、食べ物が入ってくるとふくらんで、腹の前の方に張り出してくるので、いわゆる満腹状態になります。

 腹八分目でおれば、満腹の時だけ、胃が張り出しますが、しょっちゅう食べ過ぎであった私などは、下腹部だけでなく胃のあたりもふくらんでいました。

 その胃のふくらみも今はかなりへっこみました。ダイエットをがんばったわけではありません。胃癌で、胃の4分の3も切り取ったので、へっこんだようになったのです。また最近は張り出してきつつありますが。

 胃癌の手術のことになりますが、私の癌は進行癌になりかけというレベルでしたが、胃の下方にあったので、胃の上方(噴門部あたり)は残すことができました。
 胃の上方に癌があったら小さな癌でも胃は全摘出されるそうです。

 胃の下方4分の3を切り取って、どうやって腸とつなぐのか、十二指腸をそのまま引き上げただけでは肝臓や膵臓からの消化液の管に支障がでるのになあ、と考えていましたら、主治医の先生から手術の前日に説明をうけました。

 大まかにいうと、肝臓や膵臓から消化液がでるあたりより下にある小腸の入り口を何センチか切り取って、残った胃と十二指腸とをつなぐのだそうです。

 私の手術は腹を開かない腹腔鏡手術でした。
 腹の中を映し出すモニターを見ながら、差し込んだ管を操縦して、こんなに複雑な手術をしていただいたのですから、主治医の先生はじめスタッフの先生の力量はすばらしいと思います。

 おかげさまで、今のところ転移もなく、順調です。

 さて、横道にそれましたが、胃は、 飲み込んだ食物を数時間程度そのまま貯えて、胃壁から分泌される塩酸(胃液)で、殺菌し腐敗を防いでいます。
 また消化酵素のペプシンによって、タンパク質をペプトンとよばれるどろどろした水溶性のものに分解して消化します。

 胃の酸は強力です。その胃液が、なぜ胃自身を消化してしまわないのか、その理由が知りたかったのですが、わかりました。

 胃が粘膜で覆われているのが一つ。胃液を中和する重曹も生成されているのが二つ。またつねにプロスタグランジンという物質の働きで細胞増殖を活発にして胃壁の損傷を最小限に抑えていることが三つ。

 しかし、ストレスなどでバランスが崩れたりすると、胃液や消化酵素のコントロールが効かず自分自身を消化してしまうこともあります。
 胃に穴が開く状態、つまり胃潰瘍です。

 どの臓器も大事ですが、「胃腸の日」にあたって、胃を大事にすることを考えましょう。胃を大事にするということは、胃を休ませてあげるということだと主治医の先生がおっしゃっていました。

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12月10日 阪神タイガースの前身「大阪タイガース」の創立

 1935年の今日は、大阪など関西圏では圧倒的な人気を誇るプロ野球球団「阪神タイガース」の前身、「株式会社大阪野球倶楽部」が創立された日です。

 今日は、創立当時のことを記してみたいと思います。
 
 1934年、大日本東京野球倶楽部(東京ジャイアンツ)が設立されました。
 ご存じのように、読売新聞の部数拡大を最大の目的として設立されたジャイアンツは、数チームでリーグを結成して、安定した興行を行いたいという考えから新しくリーグをつくるための対戦相手を探していました。

 特に、東京、大阪、名古屋の三大都市圏で試合を行うことをめざしていたので、甲子園球場という日本最大の球場を持っていた阪神電気鉄道が球団を設立することになりました。

 1935年10月25日、まず門前眞佐人との入団契約が結ばれました。
 これを皮切りに山口政信、藤村富美男、藤井勇などの甲子園のスター選手、都市対抗野球の松木謙治郎らが集まりました。
 そして12月10日、「株式会社大阪野球倶楽部」、球団名「大阪タイガース」が発足しました。

 日本運動協会、天勝野球団、大日本東京野球倶楽部に続く日本で4番目のプロ野球チームでした。
 翌年にも、若林忠志、景浦將など有力選手と契約し、4月の球団結成記念試合までに17名の選手を獲得しました。

 1936年の公式戦は、年間で3シーズンに分かれていました。
 つまり、春は第1回日本職業野球リーグ戦、夏は連盟結成記念全日本野球選手権、秋は第2回全日本野球選手権の3シーズンでした。
 それぞれ東京、大阪、名古屋の各都市圏でいくつかの大会を開催する方式でした。

 最初のシーズンである春は、東京ジャイアンツがアメリカ合衆国遠征を行っていて出場せず、名古屋金鯱軍も遠征を行っていたためシーズン優勝は決められませんでした。
 しかし、開催された3大会で松木や景浦率いる打線にエースの若林といった布陣で臨みましたが、タイガースはいずれも1位を逃してしまいました。

 親会社同士が阪神間の鉄道を経営するという競争関係にある阪急に勝てなかったことから、初代監督の森茂雄が解任され、石本秀一が監督に就任したということです。
 現在は、阪急阪神東宝グループの系列下に入った阪神電気鉄道が経営し、阪急ブレーブス自体もとうになくなっているなど大きくようすが変わりました。

 この秋、東京ジャイアンツの沢村栄治の打倒に闘志を燃やす松木や景浦を中心としてを戦い抜きました。国家は24勝6敗1分の好成績を残しましたが、優勝を決める勝ち点は25で、東京ジャイアンツと並んでいました。
 このため、12月に優勝決定戦が行われましたが、残念ながら1勝2敗で惜敗し、優勝を逃しました。

 戦前・戦中は常に東京ジャイアンツ(1940年に「東京巨人」に改称)と優勝争いを繰り広げた強豪チームでした。
 特に1937年秋、1938年春には、御園生崇男、豪腕西村幸生が加入した磐石の投手陣と、松木、山口、景浦、藤井、田中義雄らの強力打線を擁して、プロ野球初の2連覇を達成しました。

 さらに、春秋2シーズン制を採用していたこの2年間は、春と秋のシーズン優勝チーム同士が戦う年度優勝決定戦でいずれもジャイアンツを破り、年度優勝に輝き球団初の日本一、さらには2年連続日本一となっています。

 1940年9月、戦局悪化によって、英語は敵性語として使用禁止になったのを受けて、球団名を大阪タイガースから阪神に改称しました。
 軍の召集により選手数が不足する苦しい状況で、1944年には監督兼主戦投手の若林忠志が35試合中31試合に登板してタイトルを総なめにし、3度目の優勝を遂げました。

 戦争が激化するなか、1944年の総進軍大会、ならびに1945年1月の正月大会(非公式大会)に「猛虎(阪神と産業の合同チーム)」の名称で参加したのを最後に、3月になって活動を停止しました。

 戦後は紆余曲折があり、その時その時、数々のドラマをつくってきましたが、関西では相変わらず熱狂的なファンに熱烈な応援を受けています。
 熱狂的すぎるファンもいますが、それはどの球団にもいることですが・・・。

 一時は関西のスポーツ新聞では「ダメ虎」と揶揄された文字が飛び交っていました。
 ここ数年は昔の愛称のように「猛虎」ぶりを発揮し、ファンではない者からみても、いい球団になってきたと感じられます。
                              (ウィキペディアを参考にしました)

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12月6日 サンタクロースのモデルの死

 今から1650年ほど前、紀元350年(4世紀)ごろの今日、サンタクロースのモデルになったキリスト教の聖人ニコラオス(ニコライ)が世を去りました。

  ニコラオス(ニコライ)は、小アジア(今のトルコの地)ミラの町で生まれました。キリスト教の司教であり神学者でもありました。
 奇蹟をおこしたことであがめられ、ミラのニコラオスとよばれていました。
 キリスト教の東方教会およびカトリック教会では聖人とされています。

  「ある日ニコラウスは、貧しさのあまり、三人の娘を嫁がせることができない家があることを知りました。ニコラウスは真夜中にその家を訪れ、屋根の上にある煙突から金貨を投げ入れました。
 
 このとき暖炉には靴下が下げられていたため、金貨は靴下の中に入りました。この金貨のおかげで娘の身売りを避けられた」という逸話が残されています。
 靴下の中にプレゼントを入れる風習も、ここから来ています。

 また、ニコラウスは学問の守護聖人としてもあがめられており、アリウス異端と戦った偉大な教父でもありました。
 教会では聖人として列聖されているため、「聖(セント)・ニコラオス」という呼称が使われています。

 「聖(セント)・ニコラオス」をオランダ語にすると「シンタクラース」となります。
 オランダでは14世紀ごろから、聖ニコラオスの命日の12月6日を「シンタクラース祭」として祝う慣習がありました。
 
 その後、17世紀、アメリカに植民したオランダ人が「サンタクロース」と伝え、サンタクロースの語源になったようです。

 1822年、ニューヨークのある神学者が、病身の子どものために作った詩「聖ニコラオスの訪問」がきっかけとなって、このサンタクロース物語は全米中に広まりました。
 子どもたちがこの日に枕元に靴下を吊るしておくと、翌朝に入っていたのはお菓子でした。
 
 世界的に定着しているサンタクロースの姿は、白ヒゲをはやした太りぎみの老人の男で、ニコニコとして赤い服を着ています。(この服装はキリスト教の司祭の服に由来があるようです。)
 また、白い大きな袋にクリスマスプレゼントを入れて肩に担いでいます。
 
 19世紀ごろには、1頭立てのトナカイがソリを引く姿が描かれていましたが、やがて8頭立てとなり、家々の子どもたちが寝ている間にプレゼントを配る現在のイメージに至っています。
 グリーンランド国際サンタクロース協会が認定する公認サンタクロースは、現在世界に180人います。
 クリスマスに自宅ですごすことができない子どもたちのため、クリスマスより一足早く福祉施設や小児病棟などを訪問する活動をしています。

 欧米諸国などのサンタは「Ho Ho Ho」(ホゥホゥホゥ)と笑い声をあげるため、カナダではサンタクロース宛専用の郵便番号「HOHOHO」があるそうです。
 サンタクロース(シンタクラース)の服装はキリスト教の司祭服に由来しているようです。

 なお、南半球のオーストラリアなどではクリスマスの時期が夏にあたるため、サンタクロースがサーフィンに興じる姿が切手に描かれています。

 オランダやドイツでは、12月6日がニコラウスの日ですから、子どもたちは今日プレゼントをもらいます。
 イギリスでは、12月25日にサンタクロースがプレゼントをもって来ます。
 
 アメリカでは、イギリスと同じく、12月25日にサンタクロースがプレゼントをもって来ます。
 クリスマスプレゼントを家族全員で交換しあう習慣があります。
 外出するのは教会に行く時くらいで、家庭料理を味わったりするなど家族ですごすのが一般的だということです。
 
 日本のクリスマスも、アメリカ流の12月25日をうけついでいますが、キリスト教とは何の関係もない国民のクリスマスであることが決定的な違いです。 
 日本でクリスマスが受け入れられたのは、1900年に明治屋が銀座に進出し、そのころからクリスマス商戦が始まったことが大きなきっかけでした。

 やはり、商戦から始まったのですね。

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12月3日 高野長英が自殺

 1850年の今日(旧暦の10月30日)は、高野長英が自殺して世を去った日です。
 高野長英は、江戸時代後期の医者・蘭学者で、信念を貫き通した人物です。
 
 長英は、江戸時代の末、1804年、陸奥国水沢(現在の岩手県水沢市)で生まれました。9歳のとき父が亡くなったため、叔父の養子として育てられました。
 
 16歳ごろ江戸に出て、苦しい生活を送りながら、医学とオランダ語を学んだのち、長崎におもむいてシーボルトの鳴滝塾に入りました。
 たいへん熱心に勉強したと伝えられています。
 そのため、オランダ語がめきめき上達し、ドクトルの称号をうけて、その抜きん出た学力から塾頭となり、シーボルトの助手をつとめるほどになりました。
 
 ところが、1828年、シーボルト事件(以前、このブログでもとりあげました)がおこりました。
 この事件は、シーボルトが帰国するときに、海外へ持ち出すことが禁じられていた日本地図などを船に積み込んだのが発覚したため、シーボルトは国外追放、日本人の関係者は捕らえられて処罰された事件です。
 
 このとき長英はたくみに難を逃れ、ほとぼりがさめるのを待って、1830年、江戸にもどって医者を開業しました。
 このころ、長英は故郷からさかんに帰郷を求められましたが、大いに迷ったもののついに断り、家督も捨てました。同時に武士の身分を失いました。
 
 医者をするかたわら渡辺崋山(三河田原藩家老)とともに尚歯会というグループを作り、外国の事情の研究や政治問題を論じ合いました。

 1837年、アメリカのモリソン号が日本人の漂流者を送り届けに浦賀にやってきました。このとき幕府は、通商を求めたモリソン号を鎖国を理由に武力で追い払いました。
 この事件を知った長英は「夢物語」を書いて、幕府の鎖国政策を厳しく批判しました。
 
 この著作「夢物語」が幕府に知られるところとなり、幕政批判の罪で捕らえられ、終身刑で伝馬町牢屋敷に投獄されてしまいました。
 長英は、牢内では服役者の医療に努め、また劣悪な牢内の環境の改善なども訴えて闘いました。
 これらの行動と親分肌の気性から、牢名主としてまつり上げられるようになったといわれています。
 
 獄中に捕らえられてから6年目の1844年の3月のことでした。伝馬町牢屋敷に火事が発生しました。
 牢屋敷から囚人が解き放たれました。
 指定された集合場所にもどれば罪が減じられますが。もどらなければ脱獄囚となります。
 
 長英は躊躇無く脱獄の道を選びました。
 (なお、火事は長英がおこさせたといわれています。)
 
 ほうぼうに隠れながら翻訳の仕事を続けました。
 伊予(今の愛媛県)の宇和島、大阪や名古屋などを転々としたあと、江戸にもどるにあたって薬品で顔を焼いて人相を変えました。

 江戸では、沢三伯と名乗って、翻訳の仕事をして生活費を得ていました。
 あるとき、翻訳があまりに見事だったために怪しまれ、奉行所の捕り手に家を囲まれ、逃げ切れないと悟って喉を突いて自殺したといわれています。
 顔は焼いて変えられても、声は変えられないため、見破られたという説もあります。

 高野長英が登場する小説には、山田風太郎著「伝馬町から今晩は」、吉村昭著「長英逃亡」があります。
 私は、西口克己著「高野長英」を読んで感激した覚えがあります。

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12月1日 曲亭馬琴が死去

 1767年の今日(旧暦11月6日)、江戸時代後期の読本作者・曲亭馬琴が82歳で死去しました。
 
 馬琴は、江戸の深川で、旗本用人の五男として生まれました。
 9歳の時に父が亡くなり、その翌年に長兄から家督を譲り受けて、松平家に仕えましたが、15歳のとき松平家を出て放蕩生活に入りました。
 その後、1年以上も江戸市中を放浪したり、医学を学んだりしましたが、どれも長続きはしませんでした。
 
 24歳になって山東京伝の門に入り、黄表紙作家として登場しました。黄表紙とはさし絵入りのこっけいな読み物のことです。
 1793年、履き物商の未亡人のもとに婿入りしますと、生活の安定を得て、家業には力を入れず、著述にいっそう精を出すようになりました。

 あるとき上方を旅しましたが、この旅のあとは読本(よみほん)に情熱を注ぎはじめました。
 読本というのは、文章を主とした読み物のことで、現在の小説に近いものです。
 やがて、かつての師である山東京伝を追い越して読本の第一人者になりました。

 読本に転向したあと、傑作の一つ「椿説弓張月」を出し、後編・続編と書き続けました。 82歳で亡くなるまでに読本、黄表紙、合巻、そのほか雑著あわせて約470種の著作を著しました。
 なかでも28年の歳月をかけて刊行された「南総里見八犬伝」は超有名です。

 この「南総里見八犬伝」は98巻106冊からなっています。
 登場人物は4000人を越えています。
 安房(今の千葉県房総半島)の武将・里見義実のむすめ伏姫(ふせひめ)の体内から飛び散った8つの玉から現れた8人の勇士が、おのおのの正義のために戦いながら巡りあい、助け合って悪者を滅ぼし、ともに里見家を再興させるというストーリーです。 

 馬琴は、中国の「水滸伝」「三国志」という小説をよりどころに、時代を室町時代に設定して雄大な伝奇小説を書き上げました。

 終わりのところを書いていたころには、老齢と長年の多忙な作家活動のために、目が見えなくなっており、息子の妻・お路に口述筆記をしてもらっていました。
 馬琴が家業を手伝わなかったため夫婦中はよくありませんでしたが、口述筆記にも妻のお百が嫉妬して、何かとお路をいじめていたということです。

 映画にもなってとても有名な読本ですが、ものすごい長編です。
 山田風太郎の「八犬伝」は、八犬伝の筋を紹介しつつ馬琴の生活も描くもので、簡潔に書き直してあり、読みやすい入門書です。
 私も読みました。
 皆さんも一読なさってはどうでしょう。たいていの図書館にありますよ。

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11月28日 バスケットボール考案者・ネイスミスが死去

 1939年の今日は、バスケットボールの考案者である「ジェームズ・ネイスミス」が死去した日です。
 ネイスミスは、19世紀から20世紀にかけて活躍したカナダ出身の体育教育者でした。

 さて、1人の人物によって考え出された競技というのはあまり多くありませんが、バスケットボールはその一つです。
 
 ネイスミスは、アメリカ・マサチューセッツ州のYMCAの訓練校で講師を務めていました。ニュー・イングランド地方の長い冬に外でスポーツができない間、室内で激しく行えるスポーツを求めていました。

 ネイスミスが、ラグビー、サッカー、ラクロスをヒントに考え出した競技は、ボールを持ったまま走ってはならない、身体接触・衝突をしてはならない、競技者の頭上に水平のゴールを置く、競技者はいつでもボールを奪って、得点することができる、という基本的なルールを持っていました。

 高い位置に水平のゴールを置くことで、得点するには力よりも正確さが必要になり、怪我の機会を少なくできると考えていました。
 この新しい競技は、上の方に物を置いてそれに石をぶつけるという子どもの遊びもヒントになっています。

 1891年12月、授業でこの競技を初めて行うとき、たまたま手に入れた桃の籠を体育館内のバルコニーの下に据え付けてゴールとし、サッカーボールを使って1チーム9人で行われました。
 
 そこで体育館のギャラリーに桃を入れる籠を下げて、そこにサッカーボールを入れ合う、今のバスケットボールの原形が生まれたのです。
 考案された当初は桃の籠にボールが入りショットが決まるたびにジャンプボールをして試合を再開してました。
 競技は学生の案により「バスケットボール」と名づけられました。
 その後、数度にわたるゴールの形状の変遷にあわせてルールも変遷し。最終的に現在のような形に定まったといわれています。

 当初には、人数を設定していなかったため100人近くでプレーする高校が出たり、籠を取り付けた2階には観客がおり、ゴールを妨害することがあったそうです。

 妨害を防ぐためにリングの後部に板を取り付けました。それが、現在も残っているバックボードです。
 このバックボードはシュートを決めるのに欠かせない重要な設備の一つです。
 本来は観客による妨害を防止する目的で設置されることになったというのは始めて知りました。

 バスケットボールは当初から人気があり、スミス大学の体育教師を務めていたべレンソンによって女子バスケットボールが始められるなど、その年のうちにアメリカ国内のあちこちで競技されるようになりました。

 そしてYMCAを通じ世界各国へ急速に広まり、1904年から20年間、オリンピックの公開競技として行われました。
 1932年6月には国際バスケットボール連盟(FIBA)が結成され、1936年のベルリンオリンピックから男子バスケットボールがオリンピック正式種目に採用されました。
 また、1976年のモントリオールオリンピックから女子も正式種目にも採用されました。

 アメリカ国内では、1946年に男子プロバスケットボールリーグBAAが創設され、3年後NBLと合併しNBAが誕生しました。
 NBAは現在も世界最高峰のリーグとして君臨し続けています。
 
 NBAには、ウィルト・チェンバレン、マジック・ジョンソン、ラリー・バード、マイケル・ジョーダンなど、忘れられないスーパースターがいました。
 
 ネイスミスは、デンバーのYMCAで体育の教官を務めた後、コロラド大学で医学を修めました。
 その後、1898年にカンザス大学に教職を得たのち、教授に昇格し、カンザス大学の初代バスケットボール監督も務めました。

 1939年11月に脳内出血を起こし、その9日後の11月28日に心臓発作で逝去しました。78歳でした。

 功績を讃えて、「ネイスミス記念バスケットボール殿堂」が設立され、選手や監督などバスケットボールに貢献した人物が殿堂に入れられるようになりました。
 競技の創始者であるネイスミスは「貢献者」の部門で殿堂入りしています。
 
 1969年から、大学のバスケットボール界で最も活躍した選手に対して「ネイスミス賞」が授与されるようになり、その名が残っています。
(『ウィキペディア(Wikipedia)』を参考にしました)

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11月26日 侠客・黒駒勝蔵が斬首された

 今日は侠客(ヤクザ)の話題です。
 1871年(明治4年)の今日は、黒駒勝蔵が斬首されて世を去った日です。

 黒駒勝蔵(くろこまのかつぞう)は幕末の天保3年、甲州の上黒駒村(現山梨県笛吹市)の名主・小池嘉兵衛の次男として生まれ、
 本名を小池勝蔵といいました。

 幕末には、喰っていけない農民の子弟が無宿人となって江戸や上方にあふれましたが、侠客も急増しています。
 侠客の増加は、江戸幕府の弱体化(警察力の衰え)が表面に出たものといえるでしょう。  
 
 勝蔵も25歳で渡世人となり、隣村・竹居村の有力な侠客である竹居安五郎の子分になりました。
 この安五郎は当時甲州一の親分で、後に新島からの島抜けに成功して、世間を驚かした男です。  

 勝蔵は、安五郎が獄死したあと、安五郎の手下を黒駒一家としてまとめ、甲州博徒の大親分として勇名を関八州にとどろかせました。

 さて、時代は、幕末で尊皇か佐幕かという時代でした。
 勝蔵は尊皇倒幕運動に影響され、甲府城占領計画などを画策しています。
 王政復古がなった1968年、黒駒一家を解散し、池田勝馬と名を改めました。そして赤報隊に入隊し、官軍側について戊辰戦争に参加して、それなりの功績をあげています。

 しかし、維新がなった後、明治政府は、勝蔵が恩賞を求めてきたときの対処に困りました。
 要するに、黒駒勝蔵の時代にやってきた数々の旧悪を考えると、博徒を官職に付けるわけにもいかないというわけです。

 結局、黒駒勝蔵時代の悪事が露見したという理由で捕縛され、 1871年初冬、明治政府の手によって甲府市の山崎処刑場で斬首されました。39歳でした。
 かつて勝蔵が所属した赤報隊もまた、明治政府から切り捨てられ、同様の処置を受けています。

 同じ時代に清水次郎長がいましたが、生涯は対照的でした。
 次郎長は幕府方についていましたが、明治26年、72歳で世を去るまで長生きしました。
 それに対して、勝蔵は尊王攘夷派として活動し、功績をあげた末に、明治新政府によって切り捨てられたのです。

 講談やテレビ・映画では駿河(静岡県)の清水次郎長の敵役として知られています。
 ほとんどの「次郎長映画」は、次郎長を善玉、勝蔵を悪玉として描いており、次郎長の敵役になっています。
 これは浪曲の次郎長伝や講談などの影響によってつくられた虚像に過ぎないとする意見があります。
 1973年のテレビドラマ「風の中のあいつ」では、珍しく黒駒勝蔵の側から描かれています。
 
 歴史上の人物については、講談・歌舞伎・浄瑠璃などで一部分が一方的に強調されて、実像とかけ離れた虚像が広く信じられています。 
 悪者と言われてきた人物から見た実像をさぐる研究がさかんになることを期待しています。 

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11月24日 鰹節の日

 今日は「鰹節の日」です。「 1(い)1(い)2(ふ)4(し)」の語呂合わせから、全国鰹節工業会が制定しました。
 もちろん「鰹節」は、カツオを原料とする日本の伝統的な保存食品のことです。

 現在の「鰹節」に似たものがあらわれるのは室町時代で、「鰹節」というよび方は江戸時代以前からすでに用いられていますす。

 江戸時代、紀州(和歌山県)の燻乾法で作られた「鰹節」は熊野節として人気を呼びました。
 土佐藩(高知県)は藩を上げて熊野節の製法を取り入れ、土佐節を作り出しました。

 一方、土佐は、大坂・江戸などの「鰹節」の消費地からかなり遠いので、カビの発生に悩まされました。
 しかし、土佐では研究をかさね、カビを利用して乾燥させる方法が考案しました。
 
 この改良された土佐節は、大坂や江戸までの長期輸送はもちろん、長期保存にも耐えることができました。
 さらに、味もよいと評判をよび、土佐節の全盛期を迎えることになりました。
 「鰹節といえば土佐」、といわれたものです。

 この製法は秘伝とされましたが、しだいに各地に伝えるものが現れ、伝わった薩摩(鹿児島県)、伊豆(静岡県)の鰹節が三大名産品とよばれるようになりました。

 さて、「鰹節」は、ビタミンB群など栄養分を豊富に含んでいるだけでなく、うま味成分のイノシン酸を含んでいるため、調味料として好んで用いられています。
 日本食の調味料の基礎と位置づけられていて、だし汁の素材として、昆布などとともに欠かせないものになっています。
 
 料理の仕上げとして最後に振りかける天盛りとしても使われています。
 名古屋のきしめんには、うすくスライスされた花がつおが大盛りで盛られていて、味と香りを引き立てています。
 大阪のお好み焼きにも花がつおが具として織り込まれたり、上にかけられたりします。

 現在では「鰹節」の状態で売られることは少なく、気密パックの状態で小分けした「削り節」が主流です、
 しかし、高級和食の料理人は風味を重視して、カビを生やした枯節(かれぶし)とよばれる「鰹節」を、料理に使う直前に削ることが多いといいます。
 
 そういえば、昔、わが家にも鰹節削り器があって、私もずいぶん削らされました。
 小箱の上にカンナの刃を上向きにして置いただけの簡単なもので、引き出しつきの小箱から削った「鰹節」を取り出しました。
 そのころはどの家庭にもあったことでしょう。
 確かに、家庭では使う前に必要な分だけ削っていました。
 
 早く削り終わって遊びたい年ごろでしたので、早く削り終わろうと力を入れすぎて削ると分厚い削り節になってしまうので、苦労したことを思い出します。
 小さくなった鰹節を削ろうとして爪先を削ってしまい、鰹節に混入してしまったということもありました。
 もう削れないぐらいに小さくなった「鰹節」は、ささやかなおやつになりました。

 なお、今日では、カビがついた枯節を、賞味期限が過ぎて悪くなったものと勘違いして捨ててしまうという、もったいない「事件」がよくおこっているそうです。
 枯節の方が、うま味成分やビタミン類が他の鰹節より多く含まれていますよ。
 捨てないように、気をつけてくださいね。

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11月21日 モンゴルフィエ兄弟が気球による初の有人飛行に成功

 今日は、1783年のパリで、モンゴルフィエ兄弟が気球による初の有人飛行に成功した日です。

 熱気球は、球皮とよばれる袋の中の空気を、下部に取り付けたバーナーなどで熱して、外気との比重の違いによって発生する浮力を利用して上昇します。
 ただし、バーナーからの熱の調整による上昇と下降しかできません。飛行船のような自力の推進力は持っていないので風がたよりです。
 
 風の向きと強さは地上にいるだけではわかりませんから、風を利用して進むためには、進みたい方向の風を的確に見つけて高度を調節しなくてはなりません。

 モンゴルフィエ兄弟は、フランスのリヨンの南方の町で生まれました。父が製紙業を営んでいたため、幼いころから紙に親しんでいました。
 彼らは、焚き火をしたときに発生する煙を紙袋に溜めると、紙袋が浮かび上がることに気がついていました。

 最初は暖炉の煙を紙袋に詰めて実験し、自分たちの理論が正しいことを確かめると、より大きな袋(風船)を作りました。
 袋をもっと大きくすれば、人も浮かび上がることができるのではないかと考えた兄弟は、絹や麻布を材料にして、室内テストを行うようになりました。
 
  屋外でもテストを始め、18㎡ほどの絹製の袋を高度250mまで上昇させることに成功しました。
 実験で使われた袋が農村まで飛ばされてしまい、おばけが落ちてきた、と村人たちの間で大騒ぎになったこともあったというエピソードが伝わっています。

 二人は、1783年6月5日に無人での飛行に成功しました。
 その年の9月19日、ベルサイユ宮殿で、動物を乗せたデモンストレーション飛行に成功しました。
 
 11月21日には、ロジェとダルランドの二人をのせた気球が、ブローニュの森から飛び立って、90mの高さで25分間、約8.8kmを飛行した記録が残っています。
 
 人類で初めて気球に乗った飛行者のロジェは、2年後、自らが考案した新型気球でドーバー海峡を飛行試験中に、爆発で同乗者とともに墜落して死亡しました。
 人類初の気球による飛行者は、皮肉にも人類初の気球事故による死者にもなってしまいました。

 モンゴルフィエによる有人飛行の10日後には、シャルルが水素によるガス気球の有人飛行に成功しています。

 有人に限らなければ、ポルトガルの宣教師グスマンが、モンゴルフィエ兄弟よりも約70年ほど早く、熱気球の実用模型を飛ばしていたということです。
 4回の飛行実験を行いましたが、教会から異端として告発されたため、その後の実験は中止されることとなりました。

 ちなみに、発明者たちの名をとって、フランス語や英語では「モンゴルフィエ」が熱気球を意味する一般名詞となっています。
 
 また、今日では、熱気球による飛行は「バルーンニング」とよばれて人気になっています。
 ある熱気球のイベントでは搭乗者が10万人近くになっているそうです。この間、事故のニュースを聞いていませんから、バルーニングは安全なのですね。

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11月19日 シューベルトが腸チフスで世を去る

 今日は作曲家のシューベルトが腸チフスのため31歳の若さで世を去った日です。

 シューベルトは小学校経営者の子として、1797年、オーストリアのウィーン郊外リヒテンタールで生まれました。
 11歳のときにウィーン礼拝堂の少年合唱隊員となりました。ここの音楽学校で専門教育をうけたシューベルトは、このころから作曲を始めました。

 やがて声変わりをきっかけに音楽学校を離れ、父の学校の教員をしながら作曲に力を注ぎました。
 このころ「野ばら」「魔王」など、多くの歌曲と2つの交響曲を書きましたが認められませんでした。

 1816年、教員生活からのがれて友人の家に同居しました。
 しばらくの間、彼は音楽を教えることで家具類を買い増そうとしましたが、じきにやめて作曲に専念しました。
 「私は一日中作曲していて、1つ作品を完成するとまた次を始めるのです」と、訪問者の質問に答えていたほど、作曲に熱中しました。
 
 教えることをやめたシューベルトは完全なすっかんぴんでした。
 家も職もなく、ウィーンの町を転々とする生活を送るようになりますが、友人たちが暖かく援助しました。。
 このようにシューベルトは友人に恵まれていましたが、また彼は身近な仲間たちのサークルの中心的存在でもあったのでした。
 
 このような中で、庶民のかざらない情感を映しだした、親しみやすい音楽をつぎつぎに生み出していきました。
 
 1828年、シューベルトが31歳のとき、腸チフスのために生涯を閉じました。
 短い生涯の中で、実に600を越える歌曲を始め、あらゆるジャンルにわたって作品を残した天才でした。
 シューベルトのもっとも重要な作品は歌曲です。それまであまり注目されなかったこの分野を、始めて独立した音楽として完成させました。
 この功績として、彼は「歌曲の王」とよばれています。

 また、交響曲をはじめとする器楽曲でも名作を残しています。
 美しいメロディーと古典的な整った美しさ、ロマン的な叙情性にあふれていると専門家に評価されています。
 
 その中でも交響曲第8番の別名である「未完成」はとくに有名です。
 曲は第1、第2楽章までが完全に書かれており、第3楽章は9小節だけで終わっていて、未完成のままのためにこの名があります。
 彼の死後、指揮者ヘルベックによって発見されました。
 
 「未完成」は、2つの楽章ともメロディーが美しく、ロマン派音楽を代表する名曲として愛好されています。 
 ベートーヴェンの「運命」、ドヴォルザークの「新世界」とならんで三大交響曲とよばれている名曲です。、

 その他の代表作としては、歌曲集「冬の旅」、歌曲「ます」・「野ばら」・「魔王」・「子もり歌」、ピアノ曲「楽興の時」、「軍隊行進曲」などがあります。

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11月17日 レンコン(蓮根)の日

 今日、11月17日は「レンコン(蓮根)の日」です。
 これは1994年11月17日、レンコンの大産地である茨城県土浦市で、全国の蓮根産地の代表が集まって「蓮根サミット」が開催されました。
 このサミットを記念して、11月17日が「蓮根の日」として制定されました。  

 漢字では「蓮根」と書きますが、そもそも「スイレン」と「ハス」の違いがよくわからなかったので調べてみました。 

 まず、「スイレン」は水の上に咲くので「水蓮」と書くものとずっと思っていました。
 正しくは「睡蓮」です。 
 ハスに似ていて、明るくなると開き,暗くなると閉じることで,「睡る蓮」という漢字があてられたのでしょう。
 現代ではDNA鑑定で、「睡蓮(スイレン)」と「蓮(ハス)」はかなり距離を隔てた植物だとうことがわかってきました。

 「睡蓮」は花が水面に咲き、葉も浮き葉のみです。
 「蓮(ハス)」は花が水面から数cm~数10cmほど高いところに咲いて、葉は浮葉もありますが、水面より上に出る葉もあります。
 学名も別々の名がついています。
 なお、英語では、どちらもLotus(ロータス)といわれています。

 さて、レンコン(蓮根)とは「ハス」の地下茎です。
 蓮根は穴が開いているのが最大の特徴です。
 これは呼吸をする空気を取り込むためで、花の中央の穴から地下茎までずっとつながっています。

 蓮根の節から茎が伸びて水面に葉や花を出して成長します。
 「蓮の実」は砂糖漬けなどにして食べると美味しいといわれています。漢方薬の材料にも使われます。

 「蓮の実」の表面はとても硬いので、とても長い間発芽能力を維持することができるといえわれています。
 大賀博士が1951年3月に、2000年も前の縄文遺跡から見つかった蓮の実の発芽を成功させたことは、当時、「縄文蓮」と呼ばれて大きな話題となりました。

 さて、食べられる部分の80%以上が水分で、残りは炭水化物が多いです。
カリウム、ビタミンCも含んでいますが、その他の水溶性ビタミン類の含有量はわずかです。
 近年、レンコンに含まれる成分が、花粉症の治療に効果があるという発表があり、注目を集めつつあります。
 漢方薬に使われるほどですから、分析はできなくても知られざる効能があると信じています。

 また、睡蓮や蓮のことを「蓮華」とよんだことから、中華料理で使用するレンゲも、蓮華の花弁と形が似ているとしてその名前がつけられました。

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11月15日 岡本綺堂の誕生日

 今日は、明治時代の小説家「岡本綺堂」の誕生日です。
 
 「岡本綺堂」は、1872年、東京高輪に生まれ、麹町にて育ち、旧制中学を卒業後、1890年、東京日日新聞に入社しました。
 その後、24年間を新聞記者として過ごしました。

  1891年、東京日日新聞に小説「高松城」を発表後、1896年、「歌舞伎新報」に処女戯曲「紫宸殿」を発表しました。
 続いて、「維新前後」や「修禅寺物語」を発表して成功をおさめました。

 「修善寺物語」はとりわけ大成功をおさめ、名台詞が豊富なことで知られています。
 また、歌舞伎の作品にしてはたいへん珍しいですが、各国語に翻訳されていて、フランスでもフランス人俳優によって上演されています。
 
 「修善寺物語」(あらすじ)
 鎌倉時代、伊豆修善寺の川のほとりに夜叉王という面作りの名人がいました。二人の娘がいましたが、美人の姉はまだ独身で、名前をかつらといいました。
 
 ある晩、鎌倉二代将軍・頼家が、夜叉王の家にやってきました。
 自分の顔を後の世にも残すために、夜叉王に面の制作を半年も前に注文してあったのに、なかなかできあがらないので催促に来たのでした。

 面はできあがってはいたのですが、そのたびに面に死相が現われるので自信がなくなっていました。
 その夜、夜叉王は得心がいかないために渡せないとことわりました。
 
 怒った頼家が夜叉王を斬ろうとしたので、姉のかつらが死相がでる面の一つを頼家に渡しました。
 面を見て大いに満足した頼家は、面を持ち帰るとともに、美人のかつらをも側女として館に連れて帰りました。

 しかし、その夜、頼家は北条氏の追っ手に入浴中を襲われて殺されました。
 かつらは頼家の面をつけ、影武者となって戦いましたが、瀕死の体で夜叉王の家に逃げ帰りました。
 父・夜叉王は、血にそまった自作の面を見て、将軍の運命を暗示するほど面を作ったことに満足の笑みを浮かべるのでした。
 
 「修善寺物語」は、綺堂が修善寺を訪れたとき、古いお面をみてストーリーを創作したといわれています。
 修善寺は源頼家が北条氏によって幽閉されていた名刹です。
 
 明治44年、東京明治座で2世市川左団次が夜叉王を演じて、大好評を博したといわれています。
 この成功によって、歌舞伎を代表する劇作家となり、「綺堂物」といった言葉も生まれました。

 新聞連載の長編小説や、探偵物、スリラー物を多く執筆し、生涯に196篇の戯曲を残しました。
 なかでもシャーロック・ホームズの影響を受けて、日本最初の岡っ引捕り物小説「半七捕物帳」の執筆を1918年から開始しました。
 私は時代物の捕り物小説をよく読むほうですが、「半七捕物帳」が岡本綺堂の作品とは知りませんでした。

 その他の代表作としては、「番町皿屋敷」「玉藻の前」「鳥辺山心中」などがあります。

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11月14日 近松門左衛門作「心中天網島」のモデルが心中 

 江戸時代前期の上方の浄瑠璃の脚本家・近松門左衛門の代表作の一つ「心中天網島(しんじゅうてんのあみしま)」のモデルが、1720(享保5)年の今日、心中しました。

 心中があったのは現在の大阪市都島区網島町、大阪城の近くで藤田美術館のあたりです。京阪電車がすぐ近くを走っています。
 すぐ近くに大阪市長公邸や太閤園があります。

 近松門左衛門は、大阪南部の住吉の料亭にいたとき、心中の知らせをうけ早駕籠で大阪にもどりました。
 その途中の駕籠の中で、早くもこの事件をモデルにした浄瑠璃の書き出しを考えていたといわれています。

 浄瑠璃「心中天網島」は早くもその年の暮れ、12月6日に大坂竹本座で初演されました。その後、歌舞伎でも上演されています。
 愛と義理がもたらす束縛が描かれており、近松の世話物の中でも、特に傑作と高く評価されています。

 あらすじは、ざっと次のようなものです。
 大坂天満の紙屋の主人「紙屋治兵衛」は曽根崎新地の「遊女小春」と三年にわたる深い仲になりました。商売にまで支障をきたすほどの入れ込みようで、見るに見かねた者が二人の仲を裂こうとあれこれ画策しますが、なかなかうまくいきません。

 離れ離れになるのを悲しむ小春と治兵衛は、二度と会えなくなるようならその時はいっしょに死のうと、心中の誓いを交わすほどでした。
 
 治兵衛には女房おさんがいました。
 おさんは、小春に、「夫と別れて欲しい」という手紙を出し、一方、治兵衛の兄・孫右衛門も侍に変装して小春に会いにきて、「別れてほしい」と頼みます。

 小春は、おさんの気持ちを汲んで「ほんとうは死にたくない」といいますが、とぼとぼと小春に会いきた治兵衛が、玄関先で孫右衛門が治兵衛のことを思い切るように頼んでいるのもすべて聞いてしまいます。

 小春は、おさんの心根を思い、治兵衛から身を引こうとします。そして偽りの愛想づかしをして治兵衛と別れました。
 別れたあとの治兵衛は、仕事に精を出すわけでもなく寝転がってばかりいる有様でした。
 
 その後、小春が治兵衛の恋敵である太兵衛に身請けされるということが耳に入ってきました。これを聞いたおさんは、小春は死ぬ覚悟ではないか察しました。
 おさんは女同士の義理のため、小春を身請けするように治兵衛にすすめます。
 
 おさんは、子どもと自分のありったけの着物を質屋に入れて、身請けのための費用を捻出しました。
 そこへ、おさんの父・五左衛門がやってきて、力づくでおさんを実家に連れ戻し、親の権力で離縁させてしまいます。
 
 望みがなくなった小春と治兵衛はふたたび心中を約束しあい、淀川河畔の網島の大長寺で心中して果てたのでした。

 二人は俗世との縁を絶つために髪を切ったあと、治兵衛が小春の喉首を刺し、自らは首を吊りました。

 さて、大長寺の敷地は明治末期、豪商藤田伝三郎の邸宅用地として買収されたために、少し離れた東野田交差点の北に移りました。
 大長寺のあとに藤田美術館が建てられ、大長寺の山門は、そのまま藤田美術館の正門として残っています。

 なお、大長寺には、治兵衛と小春の比翼塚があります。この比翼塚は、寺ととも現在地へ移っています。

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11月13日 サトーハチローの忌日

 今日は、詩人サトウ・ハチローが心臓発作のために、70歳で亡くなった日です。
 サトーハチローは1903年、小説家の佐藤紅緑の長男として東京都新宿区で生まれました。
 中学時代、舞台女優と同棲をはじめた父への反発から中学を落第、退校、勘当、留置場入りを重ねました。転校8回、落第3回、勘当されること17回のおよびます。
 少年時代から放浪生活を送ったことはよく知られています。
 小説やテレビドラマでも取り上げられています。 

 八チローは、16歳で詩を作り始めて、西条八十に師事しました。
 小笠原島の感化院に入ったとき、生活をともにした福地幸次郎の紹介でした。福地は八チローにとって生涯の恩師ともいうべき人でした。
 弟子入りのあと、八チローは童謡を作り、数々の雑誌や新聞に掲載されるようになりました。

 昭和の時代となってからは、歌謡曲の作詞を始めました。
 このころの代表的な作品には、「麗人の唄」「あなたと呼べば」などがあります。

 戦時中はカタカナ名前を禁じられましたが、”佐藤八郎”を拒否してサトーハチローで通し、「もずが枯木で」を作詞しました。 

 戦後は、このブログでも紹介した「リンゴの唄」を作詞しました。この歌は、並木路子の歌によって大流行し、戦後の日本を象徴する歌となりました。
 また「長崎の鐘」も作詞しています。またNHKラジオの「話の泉」に出演して人気を得ました。この番組ではレギュラーとして、1964年まで出演しました。
 1951年、NHKのラジオドラマ「ジロリンタン物語」の原作を執筆しました。

「文学者掃苔録」より(スミマセン。勝手にリンクしました。)

(心のうた)
 一番苦手なのは
 おふくろの涙です
 何にもいわずに
 こっちを見ている 涙です
 その涙に 灯りがゆれたりしていると
 そうして 灯りがだんだんふくらんでくると
 これが 一番苦手です
 一番苦手なのは
 おふくろの瞳です
 なんにもいわずに
 あっちむいてる瞳です
 そのまつ毛を 静かにとぢたりしていると
 そうして 空気がだんだんよどんでくると
 これが 一番苦手です                      

 童謡の詩を作ることに専念してからは、1955年に「ちいさい秋みつけた」を作詞、レコード大賞童謡賞を受賞しました。
 
 母親への想いなどをうたった情感のある優しい作風で知られる反面、私生活は放蕩で奇行が多かったといわれています。
 作品に表現されている「母親への想い」はフィクションだということです。

<おもな作品>
童謡:「ちいさい秋みつけた」「かわいいかくれんぼ」「うれしいひなまつり」「わらいかわせみに話すなよ」「とんとんともだち」「お山の杉の子」 「めんこい仔馬」など。

歌謡曲:「リンゴの歌」「長崎の鐘」「うちの女房にゃ髭がある」「目ン無い千鳥」など。

 「とんとんともだち」
 
 1番
 とんとんともだち みんなで九にん 
 一ちゃん 二ろくん 三ちゃん 四げぼう 
 五ろやん 六んぼ 七ちん 八ちゃんこに 九どんどん 
 だれかがしかられた みんなでごめんなさい

 2番は最後の行の歌詞だけ
 だれかがくしゃみした みんながかぜひいた

 3番も最後の行の歌詞だけ
 だれかがけがをした みんながべそかいた

 他にも校歌、CMソングなど多数の作品を発表しました。
 私たちのまわりの名曲もサトーハチローの作詞だったのですね。

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11月10日 トイレの日

 今日は「トイレの日」です。1986年に日本トイレ協会が制定しました。「いい(11)ト(10)イレ」の語呂合わせです。

 今日は、クサイ話になって、恐縮です。

 日本語では、古くは、あからさまに口にすることが「はばかられる」ために「はばかり」とよばれ、「雪隠(せっちん)」「厠(かわや)」「手水(ちょうず)」ともいわれてきました。
 また「お手洗い」「化粧室」「ご不浄」といい替えたり、「トイレ」「W.C」「LAVATORY」などと外来語になったり、男女を示すマーク(図柄)で表したりすることが多くなりました。
 「お便所」とか「おトイレ」とか、丁寧に?いう人もいますね。

 古くは糞便をそのまま河川に放流していましたが、他方、日本では肥料として売り買いされていました。
 かつて私が育った家の糞尿を近くの農家の人が直接汲みにきていました。天秤棒の前後にあふれんばかりの桶を担いでいました。
 田舎には、そのために肥だめが作られていました。田舎に行くとクサイので「田舎の香水」なんて呼んでいたものです。
 肥だめに落ちて、命を落とす幼児もおりました。
 
 また、豚小屋の上に便器を置いて、飼育している豚に糞便を食べさせた豚便所というのもかつては日本にもあったそうです。私は初耳です。
 同じように、糞便が直接、あるいは豚便所から流れるところに池を作って、そこで魚を育てていた例もあります。
 
 私たちは、水洗トイレでトイレットペーパーで処理しますが、紙を使うことが文明的とは限りませんが、紙を使うのは世界中の人口の3分の1にすぎません。
 トイレにも、民族性があるのです。

 世界的に見れば、完全に他人を遮断する日本式のトイレのほうが例外的で、欧米では完全に密室にすることのほうが、犯罪の温床となって危険だと考えられているのです。
 非行で荒れている中学校では、たしかに密室が仇になっているケースもあります。

 仕切りがないオープンタイプのトイレで知られているのが中国の便所(厠所)です。
 しかし近年は外国人観光客が増加していることもあり、また衛生上の問題などからも、個室タイプの水洗トイレが多くなってきています。
 古くから、中国では、むしろ便所は住民同士が会話をかわう場と見なされて来たそうです。

 トルコ式という言葉があることからもわかるように、トルコの大便器は、またがり式です。
 また、一部外国人向けのものを除いて、用便の後始末には、トイレに備え付けてある小型の容器に入った水と、左手を用いて肛門を直接洗いますので、紙は使用しないようです。
 これは、上達すれば驚くほど少ない水量で洗浄が可能であるということです。
 この方法は痔になりにくいといわれていますが、たしかにその通りでしょう。
 肛門を洗うのは左手です。
 左手は不浄の手と見なされ、食品を扱ったり、握手をしたりすることはありません。

 アラビアなど砂漠が多い乾燥地帯では、砂に混ぜて乾燥させてしまう処理の方法もあります。
 また、エジプトやヨルダンなどアラブ世界や、タイなど東南アジアにおける便所も、トルコの便所とほぼ同じです。街中の公衆便所は原則として有料です。

 ヨーロッパでは、トイレは部屋の一つとして発達しなかったのでしょうか。
 中世のヨーロッパ都市では、部屋の中の出窓のように拡張された一角で、目隠しのついたてをした中でおマルを使っていました。排泄物は、窓から通りに投げ捨てられていました。
 そのため、路地の汚物で衣裳の裾が汚れないよう、オーバーシューズやハイヒールが発明され、街頭から建物の中に入るのに段差をつけたりしたといわれています。
 本当かなあ、と思ってしまいますね。

 そういえば貴族の館・ヴェルサイユ宮殿などでは、トイレがなく、広大な庭園の花壇が用足しの場所であったということは有名なお話です。
 貴族の女性の大きなフレアの広がりのあるスカートは、そのまましゃがんで、他人から見られることなく、用を済ませるための工夫でもあったといいますが、これも本当かなあと思いますね。
 こうした不衛生きわまる不幸な結果が、コレラやペストの大流行でした。

 富士山などの高い山に設置されるトイレの場合、物理的に汚物の処理が困難なことから、シーズンが終わると貯留された汚物をそのまま山肌に放流することがが行われていました。
 富士山が世界自然遺産の登録から漏れたのは、このトイレ問題のためといわれています。
 トイレの使用は有料であることが多いので、道をそれて、直に用をたす行為も多いといわれています。
 
 飛行機のトイレは、古くは汚物を空中散布していたこともあったそうです。ウソーッといいたいところですが事実らしいです。
 現代では、水を節約するために飛行機内の与圧と外部との気圧差を利用して汚物を吸引するタイプの真空吸引式トイレに置き換わりつつあるとのことです。
 宇宙船の中では乾燥させたりするようです。 .

 鉄道の列車内のトイレでは、在来線では長い間汚物を線路上に落下させる「垂れ流し式」でした。
 トイレに入ると便器の穴から線路が見えていました。停車中は使用をひかえるように注意がありました。
 線路脇の民家も、踏切で列車の通過を待っている人も、いわゆる「黄害(おうがい)」の被害者でした。
 窓を開けて風に当たっているつもりが、冷たい水が私の顔に当たったということがありました。
 この飛散問題に対する苦情のため、古い車両の廃止、新車への取り替えが進められ、2000年以降は垂れ流し式はほとんど姿を消しました。
 しかし、逆に、車内のトイレ設置自体がなくなってしまう路線が発生し、大きな問題となっています。

 どこに移動してもトイレの問題は重要で、小中学生・幼児の遠足や、孫を連れた外出、登山や釣り、災害が発生したときなど、あらかじめ対策を練っておかないとたいへんなことになります。

 なお、近年ではバイオトイレとよばれる新たなしくみのトイレが注目されています。しくみは単純で、便槽の中におがくずが詰め込んであり、攪拌することで排泄された糞尿をオガクズの中に住み込んでいる好気性のバクテリアが分解し、最終的には土と水のみが生成されるものです。
 災害時の仮設トイレには有効に使えそうですね。

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11月9日 青木昆陽が流行性感冒で死去

 1698年の旧暦の今日は、青木昆陽が流行性感冒で死去した日です。享年72でした。
 昆陽は、江戸時代中期の儒学者ですが、蘭学者でもあり、蘭学の祖ともよばれています。
 
 江戸日本橋小田原町の魚屋の一人息子として生まれました。
 京都で儒学を学んだ後、江戸町奉行所大岡忠相に取り立てられ、「蕃薯考」を発表しました。

 昆陽は、すでに西日本では飢饉の際の農村の荒廃を防ぐ作物として知られていた甘藷(サツマイモ)の栽培を、8代将軍徳川吉宗に命じられました。
 小石川薬園と下総国の現在の千葉市花見川区幕張と上総国の現在の千葉県九十九里町とで試作しました。

 この結果、享保の大飢饉以降、関東地方や離島で薩摩芋の栽培が普及しました。天明の大飢饉では多くの人々の命を救ったと評されています。
 
 このため、昆陽は薩摩芋によって名声を得て、後世「甘藷先生」と称され、墓所の瀧泉寺(目黒不動)には「甘藷先生之墓」があります。
 また、甘藷の試作が行われた幕張では昆陽神社が建てられ、昆陽は芋神さまとしても祀られています。

 このほかにも各地にサツマイモの伝来や栽培に関する逸話が残っています。
 薩摩国指宿郡では、漁師・前田利右衛門が、琉球から甘藷の苗を持ち帰ったのが、いわゆるサツマイモのルーツと言われています。
 南九州一帯にひろがったサツマイモは、享保の飢饉の飢餓を救いました。このため、前田利右衛門は甘藷翁として徳光神社にまつられています。
 愛媛県大三島では、サツマイモを伝えてその後の飢饉を救った下見吉十郎を顕彰した「いも地蔵」があります。

 私の好物の一つのサツマイモですが、サツマイモには多くの食物繊維やビタミンなどの栄養素がふくまれています。
 たいていの芋類は栄養が豊富ですね。さつまいもは、身体にはとてもやさしい健康食品ですよ。
 食物繊維は特に整腸作用があり、昔から便通をよくする食べ物として知られていました。
 また、サツマイモのビタミンCは加熱しても壊れにくい特長があるそうです。
 
 ベニハヤト、ハヤトいもなど黄色みを帯びた品種にはカロチンが多く含まれています。  β-カロチンは、体内でビタミンAに変わり、抗酸化物質として ガン等の生活習慣病の抑制に効果があると考えられています。

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11月8日 レントゲンがX線を発見

 私たちは病院で、「レントゲンをとってみましょうか」とか、「レントゲンでは異常はありませんでした」とか、医師との会話で登場するあのレントゲンのこと です。
 X線写真はレントゲン写真とよばれることが多いですが、レントゲンとは物理学者の人名です。
 1895年の今日は、ドイツの物理学者・レントゲンがX線を発見した日です。
 

 さて、レントゲンは、1869年には博士号を取得した後、物理学の研究をすすめました。 いくつかの大学を経て、ふたたびストラスブール大学に戻ってからは、おもに物理定数の精密測定を行ないました。
 その業績から1879年にギーセン大学の物理学の正教授に就任することができました。ギーセン大学では、光学や電磁気学に関する研究を行なっています。
 まだ、X線とは深い関係もありません。
 
 のち、ヴュルツブルク大学に教授として招かれ、1894年には学長に選ばれるほどでした。
  ヴュルツブルク大学では、圧力をかけたときの固体や液体の物性の変化を研究し、1895年10月から放電管の実験を始めました。
 これがX線の発見へとつながっていく研究になりました。

 当時、真空放電や陰極線の研究は、すでにヘルツやレーナルトらによって進められていました。
 陰極線は電子の流れですが、金属を透過することから、当時の物理学では粒子の流れではなく、電磁波の一種と考えられていました。
 レントゲンもこれらの現象に興味を持ち、研究をはじめました。

 レントゲンは、クルックス管から陰極線のようなものが出ているかも知れないとレントゲンは考えました。
 もしも陰極線が出るならクルックス管よりも弱いはずだと思い、見やすくするため同様に黒い紙で全体を覆いました。
 さらに、検出のためにシアン化白金バリウムの蛍光紙を用意しました。
 
 1895年11月8日、クルックス管を用いて陰極線の研究をしていたレントゲンは、机の上の蛍光紙の上に暗い線が発光したのに気づきました。
 この発光は光が照射されておこるわけですが、クルックス管は黒いボール紙で覆われており、光は遮蔽されていました。
 普通なら発光が外にもれるはずがないのです。

 状況的に作用の元は外部ではなく装置だと考えたレントゲンは、クルックス管から2メートルまで離しても発光がおきることを確認しました。
 これにより、光とは比べものにならないほどの透過性をもつ、目には見えないが光のようなものが装置からでていることを発見したのです。
 
 実験によって分厚い本や金属も透過することがわかりました。しかし鉛は透過せず遮蔽されることがわかりました。
 また検出には蛍光板ではなく写真乾板を用いることで、鮮明な撮影が可能になりました。
 
 光のようなものは電磁波でした。
 この電磁波は陰極線のように、磁気を受けても曲がらないことから、レントゲンは放射線の存在を確信しました。
 そして、数学の未知の数をあらわす「X」の文字を使い、仮の名前として「X線」と名づけたので。

 さらに翌年の1月には、妻の薬指に指輪をはめて撮影したものや金属ケース入りの方位磁針など、数枚のX線写真を発表しました。
 X線写真という直観的にわかりやすい結果をともなっていたことで、発表は急速に受け入れられていきました。
 またそれまでの研究で、レントゲンが物理学の世界で名声を得ていたことも大きく影響しています。
 
 日本には、発見から3ヶ月後に、水野敏之丞によって紹介されました。
 
 透過性の高いX線の発見は、ただちにX線写真として医学に応用されました。このため、レントゲンの功績に対し、1901年、最初のノーベル物理学賞が贈られました。
 
 レントゲンは科学の発展は万人に寄与すべきであると考え、X線に関し特許などによって個人的に経済的利益を得ようとは一切しませんでした。
 そして、癌のため1923年2月10日に逝去しました。
 
コリカーという解剖学教授がX線はレントゲンとも呼ぶ提案をしたことで、レントゲン写真という言葉が生まれました。
 ただ、レントゲン本人はレントゲンとよばれることを好まず、常に「X線」と呼んでいました。

 ヴィルヘルム・レントゲンは、かなりの人格者だったと感じました。  

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11月6日 石田三成が斬首された日

 1600年の今日は、安土桃山時代の武将「石田三成」が関ヶ原の戦いに敗れた後、家康の命によって斬首され、その生涯を終えた日です。

 織田信長が桶狭間で今川義元を破った年、石田三成は近江国(現在の滋賀県)で生れました。
 少年のころ、観音寺で学問をしていたとき、鷹狩りの途中の豊臣秀吉がたまたま立ち寄って、お茶が飲みたいと要求しました。
 このとき三成は、一杯目はぬるく、だんだん熱い茶を出したので、その気配りに感心した秀吉が家来になることをすすめました。
 この時から二人の主従の関係が成立しています。

 その後、三成は秀吉の信頼をますます深め、重要な戦いにはかならず参加しました。
 秀吉が天下統一を達成するのを助けるとともに、その政権の中枢で活躍しました。秀吉が関白に昇進したときも、いろいろなアドバイスを送って地位を高めていきました。
 
 朝鮮出兵では軍需品や食料の調達などを指揮して能力を発揮し、太閤検地をはじめとして、九州や関東の征服地での政治を安定させました。
 三成は、朝鮮出兵がやがて泥沼化してゆくことを見抜いて、早期の講和に力をつくしたという書状などの資料が発見されています。

 1595年、近江の佐和山城主になったのち、19万石の大名になりました。
 実務能力を認められて「五奉行」の一人となり、その政策執行に活躍しました。
 秀吉の重臣の中でもすぐれた能力の持ち主でしたが、そのあまりな謹厳実直さが、融通のきかない傲岸不遜、横柄な態度と映りました。
 他の大名からもねたまれ、反感を買うこともあり、秀吉の死後、加藤清正らの武功派の武将から襲撃されたこともありました。

 この事件のあと、佐和山城で謹慎していましたが、豊臣政権防衛のため、西軍(豊臣方)を組織して「関ヶ原の戦い」をおこしました。
 この組織力が、小さな大名にすぎない石田三成を歴史上の人物として特に有名にしています。

 さて、ほとんどの日本人が石田三成を、陰険な性格で悪者だと思っています。
 石田三成悪人説はテレビ・小説では定着しています。
 しかし、歴史の事実の伝承を作りかえることが出来るのは勝者だけです。石田三成は敗者であったため、徳川の政権を正当化するために、徳川によって徹底的に悪者にされてしまいました。

  .「太閤記」の「三成は諫に付ては、我が気色取らず。諸事有る姿を好みし者なり。」の記述で、三成は主君を諫めるべきときには堂々と諫めていたことがわかります。

 また、秀吉のまちがいを指摘した三成の書状も現存しています。 最近は、石田三成の名誉を回復する研究が進んでいます。文献も多く出されています。 
 あるホームページで「石田三成名誉回復論」を発見しました。勝手に紹介させてもらいます。
 たとえば、作家の司馬遼太郎は「三成には、近代人のにおいがする。」と評価しています。
 
 日本の歴史の中で悪役にされていた、明智光秀・吉良上野介・田沼意次なども今までと違った角度からの研究がなされています。
 私には、これらの人物像がだぶって映ります。

 さて、関ヶ原の戦いで敗走した三成は、近江国に身を潜めて匿まわれていましたが、裏切った男のために捕らえられました。
 京都に送られて、斬首される前に、三成が「のどがかわいた」というと、干し柿が勧められました。
 三成が「柿は身体に悪い」といって断りました。

 これに対して「すぐに死ぬ身が、身体を気にする場合ではなかろう」と役人が笑うと、「大事を思う者は最期の最期まで命を大事にしてあきらめないものだ」と答えたというエピソードが残っています。  

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11月4日 坂本弁護士一家殺害事件

 1989年の今日は、坂本堤弁護士一家がオウム真理教の幹部6人によって殺害された日です。

 坂本弁護士がオウム真理教にかかわるきっかけになったのは、子どもがオウムの出家信者になっている母親から、脱会についての相談をされたことでした。
 相談に応じてオウム真理教について調べをすすめ、オウム真理教の反社会性を批判して追及していました。
 1989年10月にオウム真理教幹部との話し合いがもたれましたが決裂していました。

 その後、坂本弁護士は、オウム真理教の宗教法人の認可取り消しなどの民事訴訟の準備に入りました。
 これを知った麻原彰晃(松本智津夫)は活動の邪魔になると考え、信者に坂本弁護士の殺害を命じました。

 自宅に侵入したオウム真理教幹部6人によって、坂本弁護士(当時33歳)、妻(当時29歳)と長男(当時1歳)が殺害されたのは、11月4日の未明のことでした。
 3人の遺体は車で運ばれ、坂本弁護士の遺体は新潟県名立町(現・上越市)の山中に、妻は富山県魚津市の僧ヶ岳に、長男は長野県大町市日向山の山中に埋められました。
 
 各地のサリン事件など国民を震撼させた事件がオウム真理教のしわざであることがあきらかになる中で、この事件の全容があきらかになってきました。
 捜索によって坂本夫妻の遺体は1995年9月6日、長男の遺体は9月10日に発見されました。
 3人が不憫に思えてなりません。
 3人は、一家の墓所である鎌倉・円覚寺「松嶺院」でいっしょに眠っています。

 さて、坂本弁護士一家が失踪した直後のことです。
 11月21日には、弁護士有志の団体として「坂本弁護士と家族を救う全国弁護士の会」が結成されています。
 私も新聞でこのときの記事を読んだことがありました。
 この会は、遺体が発見されるまでの間、日本全国でビラ配りやキャラバン活動など、救出のための活動を続けていました。

 事件を調べていると、オウム真理教についての怒りは当然のこととして、神奈川県警とTBSに対する怒りがこみ上げてきました。
 
 失踪当初、坂本弁護士が所属する横浜法律事務所の関係者は、オウム真理教の関与を強く指摘していました。
 しかし、神奈川県警は一貫して事件性を否定する立場をとり続けました。
 
 これは、横浜法律事務所が労働問題や日本共産党幹部宅盗聴事件など、警察側と対立していたためといわれています。
 あろうことか県警は、記者クラブで、「借金を抱えて失踪した」とか「大金を持ったまま逃げた」などのデマを流していて、まともに捜査をしていなかったことが判明しています。
 
 翌1990年2月に神奈川県警に一通の差出人不明の封筒が送られてきました。その内容は「長男は長野県大町市日向山の山中に埋めてある」と書かれていました。
 埋められている場所の手書きの地図も同封されていました。

 神奈川県警は長野県警と合同で示した場所を捜索しましたが遺体は発見できませんでした。(後の捜索でわかったことですが、実は数メートル離れたところに埋められていました)
 神奈川県警は、広い範囲を熱心に捜索するのでなく、早々と「警察の捜査かく乱を狙った、悪質ないたずら」と断定して、捜索も1日で終わってしまいました。

 再捜索の要望に対しても、県警側はまったく聞く耳を持たず、再捜索は検討にすら値しないと言い切りました。
  結局、実行犯の1人である岡崎が自首をしたことで、事件の真相が明らかになるまで神奈川県警は一切の捜査をしませんでした。

 現場の状況が失踪・夜逃げとは考えられない状況であったにもかかわらず、まともに捜査しなかったことが事件の長期化につながりました。
 さらに、坂本弁護士が労働運動に関わっていたということへの反発を神奈川県警が持っていたこと、つまり警察が思想・信条で国民を差別していたことが大きな批判をうけました。

 TBSビデオ問題というのがあります。
 坂本弁護士一家が殺害される約1週間前の10月26日のことです。
 東京放送(TBS)の番組で「3時にあいましょう」というワイドショーがありました。
 社会問題化し始めていたオウム真理教の問題について、ワイドショーで取り上げるにあたり、坂本弁護士のインタビューを収録していました。
 
 不思議なことに、その情報をオウム真理教がなぜか察知しました。
 オウム真理教幹部らがTBSに抗議したことによって、坂本弁護士のインタビューは放送中止になりました。
 さらに、TBSは抗議にきたオウム真理教幹部に、インタビューのようすを放送直前に見せているのです。 
 
 この約1週間後、11月4日に坂本弁護士一家が殺害されました。
 TBSの問題点は2つあります。
 
 1つ目は、取材源の秘匿というジャーナリズムの原則に反していること、それだけでなく殺人事件のきっかけをつくったことです。
 2つ目は、坂本弁護士一家が行方不明になって、事件が報道されているにもかかわらず、オウム真理教にビデオを見せたことを警察や弁護士会に伝えなかったことです。TBSはオウム真理教をかばい続けたことになります。
 
 TBSは、その後も、番組中の「やらせ」や「ねつ造」、収録中の事故、発言の「改編や一部抜き取りによる歪曲」など問題の多い放送局ですが、罪もない善良な市民の殺害にも結果的に荷担していたのです。

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11月3日 文化の日

 今日は、国民の祝日の一つ、「文化の日」です。
 国民の祝日に関する法律(「祝日法」)では「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことを趣旨として制定されました。

 1946年に日本国憲法が公布された日でもあり、日本国憲法が平和と文化を重視しているということで、祝日法によって「文化の日」に定められたという経過があります。
 
 日本国憲法と「自由と平和と文化」が、かつては強く結びつけられて考えられていたことがわかります。
 それなのに、平和の危機、文化行政の後退が進み、「文化の日」の本来の趣旨とは大きくかけはなれた現実が、残念ながら目の前にあります。
 
 文化が軽視されていることに、ますます憂慮しています。
 
 特に、府政の借金を減らすためという理由にせよ、大阪の地場の上方文化や、こつこつ築いてきた市民の娯楽や文化・研究をばっさり切り捨てられつつある大阪のように、全国的に地方自治体での文化予算の削減が深刻になっています。
 伝統的な文化を受け継ぐなど、貴重な文化活動に携わっている人々の収入が減少して、生計の維持さえもむつかしいという深刻な事態もおきています。

 文化の日を中心に、文化庁主催による芸術祭が開催されます。
 レベルの高い芸術祭にするためには、文化をうみだす専門家や芸術団体を大事にして、舞台芸術の実演家の収入を安定させ、さらに、民間の劇場や映画館の閉鎖を食い止め、文化活動のすそ野を広げることが大切だとおもいます。

 
 話はまったくかわりますが、11月の大型連休案をご存じですか。
 体育の日を仮に11月1日、勤労感謝の日を仮に11月5日に移すことによって、11月3日の文化の日と併せて秋に大型連休を作る案があります。
 これが実現した場合、祝日に挟まれる11月2日、4日が国民の休日となります。その結果、最低でも11月1日~11月5日までの5連休になります。曜日の配列によっては最大で9連休となることもあるそうです。
 
 私は、祝日をまとめないで、あちこちに散らしておいてくれた方がうれしいのですが、みなさんはいかがですか。

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11月1日 紅茶の日・・大黒屋光太夫が日本人で始めて紅茶を口にした日

 1791年の今日は、大黒屋光太夫が、ロシアの女帝・エカチェリーナ2世に招かれ、日本人で初めて紅茶を口にした日です。
 この日を記念して、1983年、日本紅茶協会が「紅茶の日」として制定しました。

 さて、大黒屋光太夫は伊勢の船頭で、廻船問屋に雇われて江戸と伊勢を往復して米など荷物を運んでいました。
 ところが、1791年、江戸に向かっていた光太夫たちの船が暴風雨にあって遭難し、北へ北へと漂流し、7ヶ月後、ロシア領のアリューシャン列島の孤島に漂着しました。
 光太夫たちは、その極寒の孤島で4年間も耐えた後、ロシアの当時の首都ペテルブルクまでシベリアを横断する大移動しました。

 日本に帰りたいという一心で、帰国の許可を得るための厳しい移動でした。
 その長い移動の間、光太夫はたくさんのロシア人たちに助けられました。また、服装や言葉・習慣が違うさまざまなな民族とも接して、日本と異なる文化をその目に焼き付けました。
 ペテルブルクでは、女帝に面会して、切々と帰国の許可を願いました。
 願いがかなって、光太夫がラクスマンに伴われて帰国したのは、漂流から10年後、1792年9月5日のことでした。
 
 さて、女帝エカテリーナに招かれた時に口にした紅茶は、当時ではたいへん貴重なものでした。
 イギリス人は、アジアから持ち帰った茶の葉と芽を乾燥させ、もみ込んで完全発酵させて紅茶を作りました。茶葉をポットに入れ、沸騰した湯をその上に注いで抽出して飲料としました。

 紅茶はヨーロッパで多く飲まれており、3回の食事のときだけでなく、食間の休息のときのもお茶を楽しんでいます。
 これらは日本人が、かつては緑茶を一日中欠かさないとことと同じですね。
 なお、最近のデータでは、イギリス人よりもアイルランドの方が、国民一人当たりの消費量が多くなっています。

 紅茶が日本に初めて輸入されたのは明治の始めでしたが、日本には緑茶があるため、すぐには定着しませんでした。
 日本で初めての紅茶専門店は、1952年、大阪に開店しました。東京都内には1974年に初めてできました。
 専門店の歴史は、まだ新しいですね。

 最後に、紅茶の効能が最近は評判になっています。
 紅茶の種類によってちがいますが、一般的には、アミノ酸、カフェイン、ビタミンA・B・P、タンニン(ポリフェノール)が多く含まれていて、それだけでも健康にいいともいわれています。
 また、特有の香りは心身をリラックスさせ、α波をだす効果があることも知られています。

 紅茶のカフェインには、疲れ回復やストレス発散、強心作用、利尿効果があります。
 紅茶のテラフラビンは、活性酸素を押さえる働きがあるそうです。また、紅茶カテキンには脂肪の吸収を抑える作用があるとされています。
 ストレートで飲めば、ダイエット効果が期待できますね。

 ただし、紅茶でもコーヒーでも。ストレートに慣れたら美味しいですよ。ミルクや砂糖はダイエット効果を台無しにするそうです。 

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10月31日 ハロウィン

 今日はハロウィンの日です。
 ハロウィンは、キリスト教の聖人の祝日「万聖節」の前晩に行われる伝統行事です。

 もともとは古代ヨーロッパの原住民であるケルト人の収穫感謝祭がカトリックに取り入れられたものでした。
 イギリスなどアングロ・サクソン系諸国でおもに行われる行事で、地域性が強く、キリスト教会とは不可分の行事ではありません。
 キリスト教が広まっている地域であれば必ず祝われると行事ではありません。

 さて、ケルト人の1年の終わりは10月31日で、この夜は死者の霊が家族を訪ねたり、精霊や魔女が出てくると信じられていました。
 これらから身を守るために仮面を被り、魔除けの焚火を焚いたりしました。

 もともとは白色のカブをくりぬき、刻み目を入れ、内側からろうそくで照らしてたもので「お化けカブ、カブちょうちん」を作っていました。
 「お化けカボチャ」は、アメリカへ渡った移民たちが、カブよりも刻みやすいカボチャを使っていたので、それで広がりました。
 ハロウィンを祝う家庭では、カボチャを刻んで怖い顔や滑稽な顔を作り、悪い霊を怖がらせて追い払うため、ハロウィンの晩、家の戸口の上り段に置きます。

 10月31日の夜、魔女やお化けに仮装した子供たちが「お菓子をくれなきゃ、いたずらするぞ」と唱えて、近くの家を1軒ずつ訪ねてお菓子をもらいます。
 家庭では、カボチャの菓子を作り、子供たちはもらったお菓子を持ち寄り、ハロウィン・パーティーを開いたりします。

 ハロウィンのテーマは本来、不気味なものや怖ろしいもので、死霊、不死の怪物、黒魔術、怪物などが含まれます。
 ただし、最近はおどろおどろしいモチーフは廃れてきて、仮装のモチーフとしては、妖精や野菜など愛らしいものが好まれるようになりました。
 日本では、幽霊やお化けが出る怪談は夏が多いですが、この地域ではハローウィンの時期、つまり秋に出てきます。

 日本でのハロウィンは、英語教材やアメリカの映画(E.Tなど).・テレビなどを通じて、アメリカの子供たちの行う行事として知られてきました。
 首都圏の一部では盛んになってきました。内容は、仮装パレードの形式をとることが多くなっています。
 
 近年、東京ディズニーランドや東京ディズニーシー、ユニバーサルスタジオジャパンで日本人がハロウィンに接する機会が増え、クリスマスと同じような盛り上がりを見せ始めています。

 クリスマスのように宗教色を抜いて、お祭り的な行事に作り変えることが得意な日本人。ハロウィンはこれからどうなっていくのでしょうか。

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10月29日 凌雲閣(浅草十二階)が竣工

 1890年の今日、東京・浅草に「凌雲閣」の建物が竣工しました。
 「凌雲閣」は、1890年から1920年までの約30年間、東京・浅草にあった、当時では珍しい12階建てのビルです。
 12階建てでしたので、「浅草十二階」という名でも知られています。

 10階まではレンガ造りでそれより上は木造でした。高さは52mといわれています。
 名称の由来は、「雲を凌ぐほど高い」ことを意味しています。
 そのころ郵便物として許可されて、大流行した絵葉書にも、まわりが平屋の家々の中に、雲を突くようなビルが立っている写真が残っています。
 まさに「凌雲閣」は、東京における高層建築物の先駆けでした。

 また、日本で初めてのの電動式エレベーターが設置されたことでも知られいます。
 「凌雲閣」の開業は予定より一日延期になって11月11日になりましたが、当初の開業予定日11月10日が、今日でも「エレベーターの日」に制定されています。

 完成当時は、12階建ての建築物はモダンでしたから、多くの客が集まり、歓楽街となって浅草の顔でもありました。外国の短編映画にもその姿が登場しています。
 建物の中は、8階までは世界各国の物産店でした。それより上の階は休憩室・展望室になっていました。
 176枚の窓があり、展望室からは東京界隈はもとより、関東平野を取りまく山々まで見渡すことができました。

 開業時にはもの珍しさで多数の人々で賑わいましたが、しだいに客足が減り、経営困難に陥っっていきました。
 明治の末に、「十二階演芸場」ができ、1914年には、それまで使用中止していたエレベーターが再設されたのをきっかけに、来客数が増えましたが一時的なものに終わり、その後は再び経営難に苦しみました。

 12階は、その高さゆえに浅草のランドマークとなり、石川啄木の「一握の砂」、北原白秋・金子光晴の詩歌や江戸川乱歩の短編「押絵と旅する男」など、数多くの文学作品にその姿は登場しました。

  石川啄木の短歌<「一握の砂」より> 
  浅草の凌雲閣のいただきに 腕組みし日の長き日記かな  

 1923年に発生した関東大震災は「凌雲閣」に決定的な打撃を与えました。
 建物の8階部分から上が崩壊してしまいましたが、経営難のために復旧が困難でしたので、同年に陸軍工兵隊により爆破解体されました。
 凌雲閣の跡地はその後、映画館の浅草東映劇場となっていましたが、現在はパチンコ店になっているようです。

 ちなみに、日本で初めての美人コンテストは1891(明治24)年に行われたという記録があります。
 そのわが国初のコンテストこそ「浅草凌雲閣」で開催された「百美人コンテスト」だといわれています。
 ただし、この美人コンテストの参加者は一般女性ではなく、赤坂、新橋、吉原、向島などの花街の芸妓たちでした。
 当時のことですから水着になるなんてとんでもありません。投票は写真を見ておこなわれました。
 「百美人コンテスト」では、同じ背景のもとで撮影した写真を、不公平のないように並べるなどかなり気を使って投票がおこなわれました。
 見事、第1位となったのは、新橋芸妓のおすずという女性でした。

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10月28日 「自由の女神像」が完成

 1886年の今日は、アメリカ合衆国のニューヨーク港内、リバティ島にある「自由の女神像」が完成し、除幕式がおこなわれた日です。
 「自由の女神像」はアメリカ合衆国の独立100周年を記念して、アメリカの独立運動を支援したフランス国民の募金によって贈呈されました。

 ニューヨークといえば、必ず「自由の女神像」が思い浮かぶほど、この街のシンボルになっています。マンハッタンの南端にあるバッテリーパークから、フェリーで約15分の近さです。
 フェリーが女神像に近づいていくとその大きさがよくわかります。右手に持っているトーチの先端までの高さは海面から約92mで、総重量は225トンになります。

 右手では純金のたいまつを空高く掲げ、左手には「1776年7月4日」(アメリカ合衆国の独立記念日)とローマ数字で刻印されている銘板を持っています。
 足元には引きちぎられた鎖と足かせがあり、これを女神が踏みつけています。
 
 これは、すべての弾圧、抑圧からの解放と、人類は皆自由で、平等であることを象徴しています。
 さらに、女神がかぶっている王冠には7つの突起があります。これは、7つの大陸と7つの海に自由が広がるという意味だといわれています。

 この像のモデルは、ドラクロワの絵画「自由の女神」と、設計を担当したバルトルディの母親の厳格な表情をあわせもった顔だといわれています。
 設計にはエッフェル塔で知られるエッフェルも関わりました。
 資金集めに相当苦労しましたが、やっとパリで仮組みが完成され、214個に分解されてフランス海軍のイゼール号で運ばれました。

 新天地をめざしてヨーロッパやラテンアメリカを脱出し、期待に胸をふくらませてニューヨーク港に入港した移民が、いの一番に目にしたものは「自由の女神像」でした。
 未知の土地で新しい人生を切り開いていこうとする、新たな決意をさせたことでしょう。

 たしかに、この100年間のアメリカ合衆国の歴史は、移民や自国民にとっては自由と幸せをもたらしたかもしれません。
 
 しかし、一方で、ベトナム戦争やイラク戦争、「強いアメリカ」を標榜して各地でおこした戦争など、世界の人民に対しては自由と幸せをもたらしてきたとは言えない(むしろ抑えつけた)歴史も持っていることを忘れることはできません。

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10月27日 山東京伝、世を去る

 1816年の旧暦の今日10月27日、江戸時代の戯作(ゲサク)者・山東京伝が胸痛の発作を起こし、56歳でこの世を去りました。
 京伝は戯作者(小説家)であるとともに絵師、それも単なる絵師ではなくデザイナーでもありました。
 俗称を京屋伝蔵といい、「紅葉山の東に住む京屋伝蔵」というところから、「山東京伝」というペンネームをつけたといわれています。

 黄表紙の挿絵画家としてデビューしましたが、のちに戯作者に転じました。
 「御存知商売物」、「江戸生艶気樺焼」など多くの黄表紙や洒落本を書き、大評判を得て売れっ子作家となりました。
 さらに、遊郭内部のようすを描いた洒落本を出し、これもベストセラーとなります。
 かの有名な曲亭馬琴も京伝に入門して、戯作者として出発しています。

 京伝以前は戯作者に対して原稿料を払うしくみはありませんでしたが、最初に原稿料が支払われるようになったのは山東京伝からであるともいわれています。初のプロ作家というべきでしょうか。
 
 しかし、順風にきていましたが、京伝の洒落本と黄表紙が、松平定信による寛政の改革で出版取締りによって罰を受け、手鎖50日の刑を受けました。
 手鎖という刑は、前に組んだ両手に鉄製で瓢箪型の手錠をかけ、一定期間自宅で謹慎させる刑罰です。
 
 京伝の場合は50日の手鎖でしたから、5日ごとに役人(同心)が来て錠改めを行いました。手鎖の中央の封印を確認し、もし無断で錠をはずしていたことが発覚した場合には、それより一段階重い罪が科せられるしくみになっています。
 自宅謹慎の執行期間中の日常生活は、食事に書き物、排便に更衣など不便この上なく、すべてに支障をきたしました。

 処分が解除されたあとは、洒落本からは手を切って、読本、合巻と呼ばれる小説を執筆する方向に転じて、江戸戯作界の第一人者として活躍し続けました。
 
 また、京伝は、江戸京橋に紙製の煙草入れの店を開きました。
 京伝は、目新しい商売スタイルを考えました。人出の多いところに京伝自身が描いたポスターを張って客を集めることでした。
 さらに京伝がデザインした包装紙で煙草入れをくるんで販売しました。包装紙欲しさに煙草入れは飛ぶように売れ、大流行しました。
 さらに「京伝張り煙管(キセル)」もヒットしています。

 なお、古い言葉ですが「京伝勘定」というのがあります。
 山東京伝は金もあり、遊び人のくせに、勘定に細かいところがあって、飲んだあともその場で頭割りで勘定をはじめました。
 つまり、「京伝勘定」とは、今では当たり前の「割勘」のことなんですね。

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