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7月5日 下山事件がおこる

 1949年の今日、日本国有鉄道の初代総裁・「下山定則」が出勤途中に失踪し、翌日未明に列車による轢死体となって発見されました。
 この事件を「下山事件」といいます。

 事件直後からマスメディアなどで、自殺説・他殺説の両方が流れる中、警察は捜査結果を公式に発表することなく捜査を打ち切りました。
 真相が不明のまま多くの憶測を呼ぶこととなって、「戦後史最大の謎」と呼ばれています。
 また、同事件から1ヵ月あまりの間に立て続けに発生した三鷹事件、松川事件と合わせて、国鉄の戦後三大ミステリーとも呼ばれています。

 そのころの時代背景を見てみますと、日本は敗戦した後の連合国軍による占領が続いていました。
 国際情勢の変化のなか、アメリカ軍を中心とした連合国占領軍は、対日政策をそれまでの民主化から反共の防波堤として位置付ける方向へ転換しました。
 
 まずは高インフレにあえぐ経済の立て直しを急ぎ、緊縮財政策を実施する一方、全公務員で約28万人、同日発足した日本国有鉄道(国鉄)に対しては約10万人近い空前絶後の人員整理を迫りました。
 頑強に反対する国鉄労組と連日にわたって交渉をしていたのが下山定則でした。
 
 1949年6月1日に発足した日本国有鉄道(国鉄)の初代総裁に就任したばかりの下山定則は、7月5日朝、午前8時20分ごろに大田区内の自宅を公用車で出ました。
 出勤途中、運転手に日本橋 の三越に行くよう指示しました。開店前だったため、一旦、東京駅前に戻って千代田銀行に立ち寄ってから再度三越に戻りました。
 そして午前9時37分ごろ、公用車から降りた下山は、「5分くらいだから待ってくれ」と運転手に告げ、急ぎ足で三越に入りそのまま消息を絶ちました。

 当日は緊張した状況の中で9時から重要な局長会議が予定されていました。その中で時間になっても総裁が出勤せず、なおかつ自宅に確認したところ「普段通り公用車で出た」との回答があったために国鉄庁内は大騒ぎとなり、警察に連絡。失踪事件として捜査が開始されました。

 結局、下山は翌7月8日午前0時30分過ぎに国鉄常磐線北千住駅綾瀬駅間で轢断された死体として発見されました。

 この事件のミステリーは、下山の轢死体を自殺説の根拠となる「生体轢断」と見るか、他殺説の根拠となる「死後轢断」と見るかで大きく分かれていました。鑑定も、新聞報道も真っ二つにわかれました。
 
 警視庁は他殺とも自殺とも結論を出せないまま、下山事件特別捜査本部は解散となりました。
 そして、他殺の線で捜査を続けていた警視庁捜査二課も、1950年には、捜査員が突然転任させられるなど大幅に規模を縮小せざるをえなくなり、捜査はうやむやな形で打ち切られました。
 
 松本清張は、この後に連続しておきた松川事件、三鷹事件と同様に「日本の黒い霧」の一つに数えました。
 2000年以後に出版された書籍では、矢板機関と亜細亜産業が深く関わる他殺説を主張しています。

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