8月19日 鼠小僧次郎吉が刑死
鼠小僧次郎吉は、1932(天保3)年の今日、処刑されて人生の幕を閉じました。
鼠小僧は、江戸時代に大名屋敷を特にねらって荒らしたまわった盗賊です。
中村座の木戸番の長男で、建具職人となりましたが、バクチに身をくずしてやがて無宿人に落ちぶれました。
小さな体と身軽な運動神経を生かして、大名・武家屋敷を専門に忍び入り、人を傷つけることなく現金だけ盗み去りました。
1825年、一度は捕まりましたが、初めて盗みに入ったと嘘をついて切り抜け、入れ墨を入れられて中追放の刑を受けました。
江戸を去り、上方へ行きましたが、密かに江戸に舞い戻り、遊ぶ金欲しさにまた盗みをはじめました。
二度目は1832年、日本橋浜町の松平宮内少輔邸に忍び込んだところを捕えられました。
北町奉行所で取り調べを受けたのち、裸馬に乗せられて江戸市中を引き廻しののち、鈴ヶ森の刑場で処刑され、さらし首(獄門)になりました。
忍び込んだ大名屋敷は、1回目の捕縛までが28カ所32回、江戸に舞い戻ってからが71カ所90回におよびます。盗んだ金の総額は3000両以上といわれています。
しかし、この数字は鼠小僧の供述であって、記憶があいまいなところがありますので正確な数字は今も不明です。
鼠小僧は大名屋敷ばかりをねらって、一人で盗みに入ったことから、反権力の大泥棒として祭り上げられ庶民は溜飲を下げたようですが、鼠小僧にはそんな意図はまったくありませんでした。
大名屋敷を専門に狙った理由については、屋敷は広いわりに警備は少人数という警備が手薄であったこと、女性ばかりの奥で発見されても逃亡しやすい の2点からというのが本人の供述でした。
つまり、江戸でもっとも大金を盗みやすいところだったということです。
町人長屋には大金はありませんし、逆に商家は金はありますが警備は厳重です。
それにひきかえ大名屋敷は財政的に苦しく、諸般の事情からも警備を厳重にできませんでした。
また盗賊に入られて金を盗まれたととは、体面上、公にしにくいという事情も利用しました。
当時の重罪には近親者などに連帯責任がとらされましたが、鼠小僧はすでに勘当されていたために肉親とは縁が切れており、妻や数人の妾にも捕えられる直前に離縁状を渡していたために、連帯責任(連座制)はおよばず、天涯孤独の身として刑を受けました。
自分の犯罪に対して、あらゆる近親者を巻き込まないように手をうっていたというところは、鼠小僧が講談などで義賊として扱われていく一つ要因になっています。
さて鼠小僧が義賊だったかどうかということですが、ほんとうのところはどうだったのでしょう。
講談や芝居では義賊として扱われています。
鼠小僧は「金に困った貧しい者に、汚職で金を増やした大名や悪徳の商家から盗んだ金銭を分け与え」ていたというものです。
彼が捕えられたとき、役人による家宅捜索が行われましたが、盗まれた金銭はほとんど発見されませんでした。
その上、彼の生活が質素で慎ましやかなものでもあったことから、盗んだ金の行方について噂になり、このような伝説が生まれたものと考えられています。
しかし現実の鼠小僧の記録を見ると、このような義賊らしい事実はどこにも記されておりません。
現在の研究家の間では「盗んだ金のほとんどは博打と女と飲酒に浪費した」という説が定着しています。
鼠小僧ファンには何とも気の抜けた結論になってしまいました。
それでもなお、鼠小僧と同業の方や、受験生には人気があって、鼠小僧次郎吉の墓石が削り取られています。
受験生には「するりと入れる」という御利益があるようです。
墓は、両国の回向院にあります。また、義賊に恩義を受けた人々が建てたと伝えられる墓が各地にあります。
ところによっては墓石はすっかり砕かれてしまっているということです。
国定忠治の墓と同じ運命ですね。
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