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7月10日 蘇我入鹿、殺される

 645年の新暦7月10日は蘇我入鹿が殺された日です。

 いわゆる「大化改新」の幕開けになったできごとでした。
 日本書紀という歴史書によると、殺された蘇我入鹿は青少年期は僧・旻に学んだ秀才だったといわれています。
 
 父は大臣の蘇我蝦夷です。
 642年、皇極天皇の即位にともない、父に代わって国政を掌握し、実質的に蘇我氏の家督を継いだといわれています。

 当時は天皇も大和の一豪族にすぎませんでした。
 天皇中心の国家に改革せんとする気運が皇室の周辺に強まるのに対して、入鹿はこのような皇室の動きを押さえようとしました。
 そして、蘇我氏との縁の強い古人大兄皇子を天皇につけようとはかりました。
 
 皇族・反蘇我勢力と蘇我氏との権力闘争が激しくなっていきました。

 蘇我氏は、そのために邪魔になる聖徳太子の皇子、山背大兄王ら上宮王家の人々を自殺に追い込みました。
 大臣を譲られてから1ヶ月も経たないころのことでした。

 644年には、甘樫丘に邸宅を築き、これをぞれぞれ「上の宮門(みかど)」、「谷の宮門」とし、さらに自分の子女達を皇子と呼ばせました。
 また、さらに畝傍山に要塞を築いています。
 
 こうして入鹿は実質の最高権力者としての地位を固めました。
  
 ところが、古人大兄皇子の異母弟で、皇位継承のライバルだった中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足らがクーデターをおこしました。
 
 645年7月10日、大極殿では外国の使節を迎えていました。式典の途中で柱の陰にひそかに隠れていた中大兄皇子と佐伯子麻呂が突然飛び出して入鹿に斬りつけました。
 入鹿は天皇に無罪を訴えましたが、あえなく止めを刺され、雨が降る外に遺体を打ち捨てられました。
 入鹿は大柄だったといわれていますが、使節を迎える式典のため、太刀は帯びていませんでした。中大兄皇子らはその機会をねらったといわれています。

 とにかく、中大兄皇子らにクーデターで殺され、権力闘争に敗れた入鹿は歴史上の悪者として名を残すことになりました。

 参考文献: 大和政権と飛鳥

 しかし、私は、蘇我入鹿になんとなく興味をもっていました。
 蘇我入鹿が正しいというのではなくて、入鹿にも言い分があるのではないかと思うからです。
 
 日本書紀は、天皇の権力が強かった時代に編集された歴史書です。天皇家の都合のよいようにつくられていることはあきらかです。
 
 日本書紀が編集された奈良時代には、この他にも「謎」がいっぱいあるといわれています。
 私もそのように思います。  

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