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7月24日 芥川龍之介が自殺

 1927年7月24日、芥川龍之介が東京の田端の自室で多量の睡眠薬を飲んで自殺しました。芥川龍之介の自殺は社会に衝撃を与えました。
 代表作の河童 から、命日は「河童忌」と名附けられました。<注:リンクは楽天市場>

 竜之介は死の数日前から大量の睡眠薬でべろべろになっていたということです。起きたと思ったらまた眠っているという状態でした。
 すでに自殺を決意し、体を睡眠薬に徐々に慣らしていたのだろうと推測されています。

 自殺するのに体を慣らす必要はないので、自殺をすると思わせて助けてもらいたいという狂言自殺のはずが、本当に自殺になってしまった、という説もあります。

 竜之介は、夏目漱石の門下です。
 「鼻」「芋粥」で注目され、「羅生門」「地獄変」「歯車」「或阿呆の一生」などの作品を残しました。
 
 この世で信じられるものは自分の神経だけだと繰り返し書いています。
 そのとぎすまされたするどい感性と知性が「トロッコ」などの名作を生み、大正時代の代表的な短編小説家になりました。

 しかし、大正末期ごろから、神経衰弱や胃腸病に悩みました。
 一方、そのころさかんになってきたプロレタリア(労働者)文学の新しい波に自分がついて行けないのではないかという不安が大きくなっていきました。
 このころから、作品はしだいに暗く、苦しげになっていきました。
 そして、ついに服毒自殺を遂げたのです。

 なお、竜之介の死から8年後、親友で文藝春秋社主の菊池寛が、芥川の名を冠した新人文学賞「芥川賞」を設けました。
 芥川賞は直木賞と並ぶ文学賞として現在まで続いています。

 さて、竜之介の作品は短編が多いので、少しだけですが学生時代に読みました。
 「鼻」「杜子春」「蜘蛛の糸」「芋粥」「羅生門」「トロッコ」など、懐かしさを感じます。

 なお、黒澤明監督の映画「 羅生門 」は、龍之介の「羅生門」とは別物です。<注:リンクは楽天市場>

 

 映画は、龍之介の「藪の中」という作品を原作に映画化されたのですが、「藪の中」のタイトルではヒットしないからと、営業上の理由で「羅生門」に変えられてしまったということです。
 このことを知るまでは、原作と映画のあまりにもかけはなれた内容にとまどっていました。

7月19日 映画「青い山脈」の封切り日

 1949年の今日は、戦後の民主主義を象徴する青春映画「青い山脈」が封切られた日です。

 「青い山脈」は石坂洋次郎原作の日本映画です。
 この映画はキャストを替えて5回も制作されています。1949年・1957年・1963年・1975年・1988年の5回です。

 戦後の昭和22年、地方の城下町の女学校を舞台に、新旧の世代の対立と青春の歓びを描いた作品です。
 
 女学校に転校してきたばかりの寺沢新子と、大学浪人の金谷六助がふとしたことから仲良くなりました。
 このことを知った女学校のある生徒がニセのラブレターを書いて新子に送ったことから端を発して、新子の担任の島崎雪子が、「この町の古い伝統や、男女間の交際を歪んでとらえる風習を、あらためさせようとした」ところから大きな騒ぎになり、物語が進んで行きます。

 ニセのラブレターを読み上げる場面で、「戀(恋)しい戀しい」というところを「變(変)しい變しい」と、字をまちがえてしまったエピソードは笑いを誘い、とても有名です。
 
 さて第1作では、金谷六助を池部良が、寺沢新子を杉葉子が演じていました。
 第2作では金谷六助を久保明が、寺沢新子を雪村いづみが演じています。

 私は日活の第3作を見ました。金谷六助を浜田光夫が、寺沢新子を吉永小百合が演じていました。
 高橋英樹も出演しており、日活の青春映画全盛時の作品でした。このころの日活映画はほんとうによく見ました。

 ちなみに第4作は三浦友和と片平なぎさが、第5作は野々村真と工藤夕貴がそれぞれ共演しています。

 また、主題歌の「青い山脈 」は映画以上にすばらしい歌です。藤山一郎の若い声がより一層明るい歌にしています。名曲中の名曲といっていいでしょう。
 若者の集まりでも、中高年の宴会でもよく歌われました。
 
 久しぶりに口ずさんでしまいました。

1.若くあかるい 歌声に
  雪崩は消える 花も咲く
  青い山脈 雪割桜
  空のはて
  今日もわれらの 夢を呼ぶ

2.古い上衣よ さようなら
  さみしい夢よ さようなら
  青い山脈 バラ色雲へ
  あこがれの
  旅の乙女に 鳥も啼く

3.雨にぬれてる 焼けあとの
  名も無い花も ふり仰ぐ
  青い山脈 かがやく嶺の
  なつかしさ
  見れば涙が またにじむ

4.父も夢見た 母も見た
  旅路のはての その涯の
  青い山脈 みどりの谷へ
  旅をゆく
  若いわれらに 鐘が鳴る

 メロディーも、歌詞も、日本人が大好きな歌ですね。

7月15日 世界一長身のロバート・ワドロー死去

 今日は、世界一の長身記録を持つ「ロバート・ワドロー」が息を引き取った日です。
 
 ワドローが亡くなったときの身長は272cm(体重は200kg)でした。

 ワドローは「疑う余地のない医学的な記録がある中で、最も身長の高い人間」としてギネスブックに記載されています。

 ワドローが生まれたときの体重は3800g、普通の大きさでした。身長も正常でした。
 ところが、2歳のときのヘルニアの手術以後、急速に成長を始めました。
 
 8歳の時にはすでに188cmになり、10歳で198cm(体重100kg)、14歳では224cmに伸びていました。 

 16歳で240cm(166kg)、17歳で248cm(180kg)、18歳で254cm(177kg)とまだまだ伸びる勢いは衰えませんでした。
 なお、靴のサイズは約49cmでした。

 1937年、19歳の時、人類の身長の記録を塗りかえた記録260cm(197kg)になりました。
 しかし、まだまだ伸びる勢いです。
 その後21歳で彼の人生最大の体重233kgを記録しました。

 さて、ワドローの病気は、末端肥大症でした。
 先端肥大症とか巨人症とか呼ばれています。100万人に約4~5人の割合で発症するそうです。
 
 この病気は体格がずばぬけて大きくなるので、格闘技(プロレスや大相撲など)の選手となって成功をおさめた人もいます。
 たとえばプロレスの ジャイアント馬場は代表的な成功者です。
 
 ワドローはというと、サーカスやフェスティバルの巡業を続けました。巡業中も怒ったところを見たことがないといわれるほど温厚な性格でした。
 さまざまな巡業を受け入れて各地を回りました。
 
 しかし、ワドローにとってはこの大きな体は負担となっていきました。歩行のためには副木が必要でした。
 また、しだいに脚部や足部の感覚が弱くなっていきました。
 
 1940年7月4日、副木の具合が悪くなっていて膝をこすってしまいました。しかし感覚が弱いので気が付かないままになっていました。
 やがてそこから炎症がおき、ひどい感染をひきおこしたので緊急入院しました。
 入院中に計られた彼の身長は272cmに達していました。

 すぐに手術がなされ、輸血もされましたが、診療のかいもなく、1940年7月15日、意識不明のまま息を引き取りました。22歳でした。

 7月19日に行われた葬儀には、彼を愛する4万人もの弔問客が訪れました。棺は500 kgにもなり、12人がかりで運んだそうです。

 ロバート・ワドローは「優しい巨人」として慕われていて、西イリノイ大学に等身大のブロンズ像があります。 

 ロバート・ワドローの写真(スミマセン、勝手にリンクしました)

7月10日 蘇我入鹿、殺される

 645年の新暦7月10日は蘇我入鹿が殺された日です。

 いわゆる「大化改新」の幕開けになったできごとでした。
 日本書紀という歴史書によると、殺された蘇我入鹿は青少年期は僧・旻に学んだ秀才だったといわれています。
 
 父は大臣の蘇我蝦夷です。
 642年、皇極天皇の即位にともない、父に代わって国政を掌握し、実質的に蘇我氏の家督を継いだといわれています。

 当時は天皇も大和の一豪族にすぎませんでした。
 天皇中心の国家に改革せんとする気運が皇室の周辺に強まるのに対して、入鹿はこのような皇室の動きを押さえようとしました。
 そして、蘇我氏との縁の強い古人大兄皇子を天皇につけようとはかりました。
 
 皇族・反蘇我勢力と蘇我氏との権力闘争が激しくなっていきました。

 蘇我氏は、そのために邪魔になる聖徳太子の皇子、山背大兄王ら上宮王家の人々を自殺に追い込みました。
 大臣を譲られてから1ヶ月も経たないころのことでした。

 644年には、甘樫丘に邸宅を築き、これをぞれぞれ「上の宮門(みかど)」、「谷の宮門」とし、さらに自分の子女達を皇子と呼ばせました。
 また、さらに畝傍山に要塞を築いています。
 
 こうして入鹿は実質の最高権力者としての地位を固めました。
  
 ところが、古人大兄皇子の異母弟で、皇位継承のライバルだった中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足らがクーデターをおこしました。
 
 645年7月10日、大極殿では外国の使節を迎えていました。式典の途中で柱の陰にひそかに隠れていた中大兄皇子と佐伯子麻呂が突然飛び出して入鹿に斬りつけました。
 入鹿は天皇に無罪を訴えましたが、あえなく止めを刺され、雨が降る外に遺体を打ち捨てられました。
 入鹿は大柄だったといわれていますが、使節を迎える式典のため、太刀は帯びていませんでした。中大兄皇子らはその機会をねらったといわれています。

 とにかく、中大兄皇子らにクーデターで殺され、権力闘争に敗れた入鹿は歴史上の悪者として名を残すことになりました。

 参考文献: 大和政権と飛鳥

 しかし、私は、蘇我入鹿になんとなく興味をもっていました。
 蘇我入鹿が正しいというのではなくて、入鹿にも言い分があるのではないかと思うからです。
 
 日本書紀は、天皇の権力が強かった時代に編集された歴史書です。天皇家の都合のよいようにつくられていることはあきらかです。
 
 日本書紀が編集された奈良時代には、この他にも「謎」がいっぱいあるといわれています。
 私もそのように思います。  

7月9日 浅草寺のほうずき市

 夏の訪れを告げる下町の風物詩のひとつとして、人々に広く親しまれていたのが「ほおずき市」です。
 「ほおずき市」は全国で行われていますが、特に全国からのお参りが多いのが、今日から開かれる東京の浅草寺の「ほおずき市」です。

 若い人に聞いてみたら、「ほおずき」そのものを知らない、見たことがないという反応が多かったのにはびっくりしました。

 私の幼少期には、仏壇によく供えられていました。
 父の姉で、赤堀千代という名の、私から見れば叔母が、家族を失いましたので、同居していました。
 私たち兄弟は、おばあちゃんと呼んでいました。

 そのおばあちゃんは信心深くて、仏壇にはご飯とお花を欠かしませんでした。
 そのお花の中に「ほおずき」があって、お花を取り替えるとき、「ほうずき」の実をくれました。
 ほおずきの赤い実を、やわらかく揉んでから中身の種を抜きました。急いで揉むと口が破れてしまいます。

 種を慎重に抜いてから、口にふくんで笛のように鳴らすことができるはずですが、私は何度試しても成功したことがありませんでした。
 口笛も、風船ガムも、上手にできない不器用な私です。
 
 
 さて、「ほおずき市」の期間に全国から参拝者が訪れるのは、「ほおずき」だけが目当てではありません。
 この両日にお参りすると「四万六千日分、日参したのと同じ功徳を得られる」とのいい伝えがあります。

 46000日を12で割って、なんと約126年分。
 人生以上の年数と同じ分のご利益が、たった1日の参拝だけで得られるというわけです。
 ありがたい日ですね。

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