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2009年6月

6月22日 蟹の日

 今日は「かにの日」です。
 大阪のかに料理店「かに道楽」が1999(平成11)年に制定しました。

 6月22日になった理由は、星占いの「かに座」の初日であることと、50音表で「か」が6番目、「に」が22番目であることです。

 さて、「かに」で思い出すのは、「かに料理」と「キチンキトサン」です。
 「かに料理」のおいしさは格別で、大阪では「かに道楽」が超有名です。ちなみに、ミナミの本店の足が動く、かにの看板は600万円もするそうです。

 さて、もう一つの「キチンキトサン」のチキンはかに・えびの甲殻類、貝・昆虫にも含まれている物質です。日本チキンキトサン学会 で調べてみてください。 

 私の経験です。(私の経験から猛烈に推薦したい健康食品です。)

 「チキンキトサン」を知ったきっかけは、一昨年の4月に胃ガンが見つかったことです。初期癌から少し進んだレベルで、切るか切らないかの境目だったのです。私は、切りたくないから必死で健康食品を探して、ガンを無くそうと思いました。
 その結果、効果有りと判断したのがフコイダンとチキンキトサンでした。

 フコイダンも飲みました。フコイダンはもずくなどのぬるぬるの成分で、長期的に飲めば効果は一番あると思いますが、常用するには高価です。高価なものでないと効果がないと思います。(シャレのつもりではありません・・・笑)

 チキンキトサンは種類が多いですが、混ぜものがあって高価になってるものがかなりあります。私は、キトサンがほぼ100%で安価なものを選びました。
山本漢方のキトサン280粒

 胃ガンは、やはり進行しているので胃の4分の3をその年の9月に切除しましたが、キトサンはこの間も毎日欠かさず飲みました。
 
 まず、飲み始めると、血圧が下がり始めました。いまは120-80ぐらいです。
 
 つぎに、水虫の症状が改善しました。
 足の裏の皮がボロボロにむけていたのがきれいにつるつるになりました。踵のかさかさが無くなったので、冬のひび割れもほとんど無くなりました。
 一番の効果は、指の間の肉が見えるほどひっかいてしまう「かゆみ」が無くなりました。2~3ヶ月に1回ぐらいかゆみをかすかに感じることはありますが、ほっておけば翌日には治っています。
 私にとって40年来の水虫特効薬「華陀膏」はいっさい使わなくても良い状態です。
 
   また、両足の親指の爪が黒くて死んだような爪でしたが、1年後にはきれいなピンク色に変わりました。
 これはうれしかったです。
 水虫とは3~4歳ぐらいからのつきあいですが、ついにお別れの日がきました。

 キトサンには抗菌作用があるので水虫の白癬菌の働きを抑えているだけだと思います。飲み忘れたらもとにもどるかもしれません。

 最近、綿棒・マスク・靴下・クリームなどにキトサンが配合されています。

 キトサン関係の書物には、ガンにも効くという理論的な解説や経験談などが報告されていますが、私はそれを信じています。
 胃ガンの手術後の血液検査で腫瘍マーカーは正常ですし、手術後も激痩せしないで体重を維持しているのもキトサンの効果かなと信じています。

 私の経験だけでは説得力がありませんが、キトサンは食品ですから適量を守っていれば害はありません。
 一度、ためしてみられたらどうでしょう。
 特に、高血圧と水虫(いんきんたむし)の方・・・。

 「かに」の話が脱線してしまいました。

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6月16日 和菓子の日

 毎年6月16日は、家族や親しい知人の健康を願って和菓子を贈ったり、和菓子を食べる「和菓子の日」です。
 1979年、日本和菓子協会が制定しました。

 そもそもこの日の由来は平安時代の中ごろまでさかのぼります。
 承和という時代には、国内に疫病が蔓延しました。ときの仁明天皇は年号を嘉祥と改め、その元年(848年)の6月16日に、16個の菓子や餅を神前に供えて、疾病よけと健康・招福を祈ったことが始まりとされています。

 毎年6月16日になると、厄除け・招福を願って菓子を食う「嘉祥菓子」の習慣ができました。
 以後、さまざまに形を変えながら、平安期から江戸時代終わりまでおこなわれました。

 とくに、多くの古書で、室町時代には年中行事として行われるようになったと記されています。
 江戸時代になると、大切な祭りのひとつに数えられました。庶民も嘉祥喰といって、菓子を求めて食べました。(嘉定通宝16枚で買えました)

 団子が貴重な和菓子であったころは、団子を作って供えることが年中行事になっていました。
 しかし、現在のように季節を問わずいつでも食べられる時代とはなっても、年に一日だけでも厄よけ・招福を願って和菓子を口にしたらどうでしょうか。

 私は、今年の「和菓子の日」は好物の桜餅・きんつばで、厄よけ・招福を祈ることにします。

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6月6日 楽器の日

 今日は「楽器の日」です。
 全国楽器協会(楽器メーカー、楽器卸商、楽器小売店による業界団体)によって、1970(昭和45)年に制定されました。

 古くから言われている言葉に「芸事の稽古は、6歳の6月6日から始める」というならわしに由来しています。

 なぜ子どもの稽古はじめが「6」づくしなのか、一説によれば数を指で数えると、5までは指を曲げれるけれども、6になると逆に小指から指を立てます。そこから「子が立つのは6」と縁起をかつぎ、6歳の6月6日となった、とも言われています。
 こじつけみたいな縁起かつぎですがおもしろいですね、

 最近は、退職されてからセカンドライフとして、琴や三味線、クラリネット・・・・の楽器を習う方が増えているそうです。何であっても習う楽しみは、子どもだけのものではありませんね。
 年寄りも6づくしの日から始めたら上達するかもしれませんね。60歳になった6月6日とか、60歳を過ぎていれば66歳まで待って始めるとか・・。

 「習うのに老いすぎているということはない」ということわざもあるように、肩ひじを張らず気軽に楽器を楽しむのもいいですね。
 6月6日はきっかけになるかもしれませんね。

 「楽器の日」といえば日本の楽器メーカーのこぼれ話に移ります。
 ヤマハとカワイというのが楽器メーカーの双璧ですが、元々は一緒にスタートした企業だということです。
 明治時代に外国からオルガンが入ったオルガンが故障したとき、時計職人の山葉寅楠と河合小市がその修理を請け負って直したのがきっかけです。

 二人はこの経験をのとに明治21年に「山葉風琴製造所」を設立しました。これが現在の「ヤマハ」の前身です。
 最初は二人で一緒にやっていたのですが昭和2年になって、河合小市がここから独立、「河合楽器製造株式会社」を設立しました。これが「カワイ」です。

 「ヤマハ」は山葉寅楠から命名され、「カワイ」はそこから分かれました。これらの企業がおこった浜松市は「楽器の町」になりました。

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5月30日 ジャンヌ・ダルクが処刑された日

 今日5月30日は、あの有名なオルレアンの少女「ジャンヌ・ダルク」が火あぶりの刑に処せられた日です。

 ジャンヌは、13歳のとき、 聖ミカエルだと名のる声に「ジャンヌよ、お前は祖国を救うため神によって選ばれた」 と告げられました。
 
 当時、フランスはイギリスとの百年戦争で苦戦していました。領主はイギリスに忠誠を誓う者の数のほうが圧倒的に多い状態でした。
 長く続いた戦争のために国内はすっかり荒れ果て、盗賊が横行し、略奪を繰り返す無法地帯でした。

 ジャンヌは、聖ミカエルと名のる声にしたがい、陥落寸前のオルレアンの町を救出するために立ち上がりました。
 シャルル王子から与えられた援軍とともにオルレアンを解放するためにたたかいました。 
 ジャンヌを神の使いと信じているフランス兵の勢いは、日がたつにつれて盛んになり果敢に突撃していきました。
 ジャンヌはいつも先頭で兵隊の士気を鼓舞していました。

 やがて敗走したイギリス軍が残していったものは、おびただしい死体だけでした。
 崩壊寸前だったオルレアンの町は、わずか10日で解放されたのでした。「オルレアンの少女」といわれる所以です。

 ジャンヌは、シャルル王子を国王の地位につけることができれば、フランス全土の領主は結束するだろう、そうなれば反対にイギリスの勢力が弱体化していくだろうと考えました。

 ところがフランス国王になったシャルル7世の側近は、イギリスとは金で解決しようと考えはじめており、ジャンヌのようにイギリスとの戦争をつづけるのに反対しました。ジャンヌはしだいに孤立していきました。
 
 国王の側近にとっては、ジャンヌは邪魔者になりかけてきていたのです。(国王も同じ考えだったらしい)

 実際、国王の側近の裏切りによって退路を断たれ、ジャンヌは捕らえられてしまいました。ジャンヌは、いろいろな城を引き回され、牢獄に閉じこめられる身となりました。
 そして、ついにイギリス派の領主によってイギリス軍に売り飛ばされてしまいました。
 
 イギリス軍の手によって宗教裁判にかけられました。結果は、魔女の汚名がかぶせられ、即日、火刑に処せられることになりました。

 1431年5月30日、広場の中央のジャンヌのまわりに薪がうずたかく積み上げられました。火がつけられましたが、神の使いだったはずのジャンヌに、今度は何の奇跡すらおきませんでした。
 ジャンヌの灰は残酷にも川に流されました。

 魔女として処刑されたジャンヌでしたが、その後、幾度かの裁判のやり直しがありました。
 1449年、シャルル7世がイギリス軍を打ち破って、ルーアンに入城すると、命令を出してジャンヌの裁判の調査をおこないました。
 
 調査の結果、ローマ教皇は裁判のやり直しを命じ、ジャンヌの母の訴えによってジャンヌの復権裁判が行われました。多くの証人が呼ばれる中で、ジャンヌが火刑にされた地であるルーアンにて処刑裁判の破棄が宣告されています。

 1920年には聖女として聖者の一人に加えられることになりました。しかし、彼女の死から500年もたっていました。

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