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5月29日 こんにゃくの日

 今日は「こんにゃくの日」です。
 「こ(5)んに(2)ゃく(9)」の語呂あわせより制定されました。

 こんにゃくは古くからある食品で1000年以上の食用歴があるそうです。農村では江戸時代からよく作られていた保存食ではなかったでしょうか。

 若いころ読んだ白土三平の漫画に、江戸時代の農村でネズミが大発生して地走りすると、あらゆるものが食い尽くされました。
 こんにゃく芋の粉末を入れていた袋もネズミに食いちぎられ、破れてしまいます。
 
 袋からはもうもうとこんにゃく芋の粉が舞い上がり、空中をただよいます。
 ネズミの地走りから逃れることができた農民たちは、その空気を吸っってバタバタとノドをかきむしって、窒息して死んでいく場面があります。

 ノドの周辺の水気でこんにゃく粉がゲル化してノドが詰まったのです。こんにゃくの粉って恐いなあと思ったものでした。

 私が大好きな「マンナンライフのこんにゃく畑」も、食べ方をまちがえると小さな子が窒息してしまいます。

 でもこんにゃくは優れた解毒作用のある良い食品ですね。
 こんにゃくは昔から「おなかの砂おろし」や「胃のほうき」などといわれてきました。

 そういえば、アサリやシジミを食べた後にはかならずこんにゃくが食卓に出ていたことを思い出しました。

 これは、食物繊維の豊富なこんにゃくを食べることで体に不必要なものを掃除しているのですね。

 こんにゃくなどの食物繊維が小腸と肝臓の間を循環しているダイオキシンを吸着して、便とともに体外に排出していることがわかってきました。
 
 こんにゃくの食物繊維は、大腸がんや大腸ポリープなどの大腸疾患のリスクを軽減させることが知られてきました。
 ほんとうの健康食品といっていいでしょう。

 

 さて、東京都文京区に「源覚寺」は眼病平癒の「こんにゃくえんま」として親しまれています。
 ここのえんま様には、「こんにゃく」をお供えすることになっているようです。

 今朝のテレビ「はなまるマーケット」で放送していました。
 こんにゃくは「困厄」に通じ、こんにゃくをお供えして「困厄」からのがれようと平素からお参りする人が多いそうなという解説でした。

 その説よりも、この寺院のえんま像に由来する話の方が広まっています。
 源覚寺蔵の木造のえんま王坐像は眼病の治療に効験があるといわれ、平癒したものはお礼にこんにゃくを奉納したことからこんにゃく閻魔の通称で知られるようになりました。

 お礼がこんにゃくになったわけは、江戸時代、眼病を患った老婆がえんま像の右目が与えられて癒されたため、それに感謝した老婆が自分の好物のこんにゃくをお礼に供えたところからはじまっているといわれています。

 なお、歯痛を抱える人は境内にある「塩地蔵」に塩を供えて祈り、完治の折には塩の量を倍にしてお礼参りをすることになっているといいます。

 ちなみに、私は、こんにゃくは夜しか食べません。
 「こんにゃ(今夜)くう(食う)」のダジャレです。
 兄からしょっちゅう聞かされました。

 

5月14日 医学史上最年少(5歳)で子供を出産した。

 1939年の今日は、ペルーのリナ・メディナという女の子が、5歳7ヶ月と11日で男児を出産した日です。
 医学史上、5歳で子供を出産したのは、世界最年少記録になっています。

  彼女は、腹が大きくなったために、両親に病院に連れていかれました。当初は腫瘍を疑われたようですが、診断の結果、妊娠7か月であることが判明しました。

 医師は彼女をペルーの首都リマに連れて行って、他の専門家にも確かめてもらっています。
 専門家によっても、リナが妊娠していることが確かめられました。

 1か月半後、彼女は帝王切開で男児を出産しました。
 帝王切開をした理由は、5歳の子の骨盤では、小さすぎて通常の分娩が不可能だったためであるといわれています。

 手術のようすはフランスの医学会の会員であった医師による報告(手紙)の形でフランスの学会誌に掲載されました。

 その手紙には、リナが8か月で初経を迎えたこと、4歳で乳房が成長し始めたこと、妊娠後、骨盤が広がるなど骨格的な成長が見られたことなどがあわせて記載されています。

 彼女が生んだ息子はヘラルドと名づけられました。体重は2700gでした。
 ヘラルドは、リナが自分の姉であるとずっと思っていましたが、10歳のとき、実は母親であることを知らされました。
 
 彼は健康に成長しましたが、1979年に骨髄の病気で亡くなっています。
 40歳でした。
 この早逝が、彼が生まれたときの母親の年齢に起因するものであるかどうかについてはいまも不明です。

 5歳の女子であれ、自然と妊娠するはずがなく、「ヘラルドの父親はいったい誰なのだ」、と誰もが思いますね。
 リナ・メディナの妊娠が通常でない方法、たとえば体外受精で行われたという証拠はありません。
 もっとも、世界初の体外受精による妊娠・出産は1978年であり、この時代にその技術があったとも考えにくいです。

 しかし、リナ自身は、子供の父親は何者なのか、そしてどのようにして妊娠したかも明かしてはいません。
 2002年にある新聞社がインタビューを申し込みましたが彼女は拒否しています。

 リナの妊娠が明らかになった直後、リナの父親が近親姦を犯したのではないかと疑われて逮捕されましたが、証拠不十分で釈放されています。

 彼女は成人して結婚し、1972年に33年ぶりに2人目の男子を出産しています。彼女はまだ生存しているはずです。
 
 

 なお、低年齢の出産記録はさまざまあります。
 1910年に清(中国)において父親9歳、母親8歳という家族が誕生しています。その後1930年にはソビエト連邦において、6歳の少女が母親となった例があります。

 その記録はリナの記録によりくつがえされて現在も破られていません。
 
 かつてはギネス・ワールド・レコーズ(旧ギネスブック)に「世界最年少で子供を出産した人」として記録されていたこともありましたが、現在はその項目自体がなくなっています。

5月11日 柳生宗矩(やぎゅう むねのり)の誕生日

 今日は、江戸時代初期の剣豪で、大名にもなった柳生宗矩(やぎゅう むねのり)が生まれた日です。

 宗矩の父は大和国柳生の領主だった、上泉信綱から新陰流の印可状を伝えられた剣術家・柳生宗厳(石舟斎)です。
 宗矩の少年時代に、太閤検地の際に父の隠田が露見したために、父は領地を失っていました。
 その後、父とともに徳川家康に仕えたころから家運が上昇していきました。

 1600年、関ヶ原の戦いに功をたて、父の旧領の大和国柳生荘に2000石を与えられました。
 第3代将軍徳川秀忠、ついで3代将軍・徳川家光にも剣術師範として仕えました。
 1615年の大坂の陣では、将軍秀忠のもとで従軍し、秀忠の元に迫った豊臣方7人を斬り捨てたといわれています。
 
 次第に将軍の信任を深めて加増を受けて、やがて1万石を受けて大名に昇格し、大和国に柳生藩を立てました。
 父の旧領を回復したのです。

 子は4人いて、もっとも有名なのは隻眼の剣士として有名な長男の三厳です。テレビや映画・芝居では十兵衛として知られています。
 十兵衛が隻眼になったのは、宗矩が月影の太刀伝授中に誤って傷つけたからです。

 宗矩の死後、徳川家光は、「この問題は宗矩がいたらどうしただろう」といったとされるほど信用されていたようです。
 勝海舟が宗矩を絶賛していることも有名です。
 
 山岡荘八が原作を書き下ろした大河ドラマ「春の坂道」では、宗矩は情誼に篤い剣聖であり、家光のよき師として描かれています。

 しかし、近年、評価が変わってきて、悪役として描かれる作品が多くなりつつあります。
 有名ところでは、小説では「影武者徳川家康」、漫画では「あずみ」、映画・ドラマでは「柳生一族の陰謀」などです。
 ームの「新 鬼武者 DAWN OF DREAMS」でも悪役になっています。

 柳生宗矩については、文武両道によって太平を望み、その実現のために尽力した人格者として描かれています。
 一方、剣術的には達人にはちがいないが、父にも、息子・十兵衛にも、甥の利厳にも剣術の腕前は一手及ばず、「政を以って剣を歪めた悪役」として描かれることもあります。

(リンクは楽天市場)

 ただ、玉虫色ですが、厳格で知勇を兼ねそなえていて、傑物であったという評価は共通しています。

 歴史の残る人物にとっては、時代によって、価値観・立場によって評価が変わるということは避けられませんね。

 

 なお、宗矩はテレビによく登場する歴史上の人物です。
 片岡千恵蔵、中村錦之助(萬屋錦之介)、山村聰、松方弘樹、若山富三郎などが宗矩の役を演じています。
 堂々としたスター俳優が演じています。

5月4日 藤井勇がランニングホームラン(日本プロ野球初の本塁打)

 戦前の1936年5月4日は、日本プロ野球史上最初の本塁打(ホームラン)が打たれた日です。
 本塁打を打ったのは、大阪タイガースの藤井勇でした。

 藤井勇は、鳥取第一中学校では4番打者として甲子園に3度も出場しています。
 1934年夏には沢村栄治がいた京都商業を破っています。京都商業は優勝候補でした。

 藤井勇は、1935年12月、大阪タイガースが結成されると同時に参加しました。

 翌年には、日本職業野球連盟が発足し、日本のプロ野球リーグ戦が始まりましたが、その最初の公式リーグ戦大阪大会が甲子園球場で行われました。
 
 5月4日の東京セネタース戦で、藤井勇は2番打者として活躍しました。野口明から左中間を破るランニングホームランを打ちました。
 このランニングホームランが日本プロ野球公式戦第1号ホームランの記録となっています。

 プロ野球公式戦ホームラン第1号がランニングホームランとは、広い甲子園球場らしい記録ですね。

 なお、藤井勇はこの大阪大会で、全5試合に出場して、19打数10安打で打率0.526を記録し、首位打者、最多安打、本塁打王となる活躍をみせました。
 しかし、現在くらべると、超短期戦ですね。

 藤井勇はその後、不動の2番打者として大阪タイガースの優勝決定戦進出に大きく貢献しました。
 1937年秋には、初優勝を果たした大阪タイガースでクリーンナップを打ちました。
 この年、年度優勝をかけて東京巨人軍との試合では、第1戦で本塁打を放つなど剛速球で知られた沢村栄治を打ち、年度優勝を飾っています。

 
 1970年から、コーチとして阪神タイガースに復帰し、ヘッドコーチもしくは打撃コーチとして田淵幸一をはじめとする若手打者を指導したことはよく知られています。

5月2日 コンゴ自由国ができた

 1885年の今日、現在のアフリカ大陸のコンゴ民主共和国があるザイール川の流域に、「コンゴ自由国」なるものが作られました。

 「自由国」! 
 なんといい響きの国名でしょうか。

 1885年といえば、ヨーロッパの資本主義の強国が、帝国主義になりつつある時期で、アフリカはイギリス・フランス・ドイツなどに分割された時期です。
 
 以前、このブログでリビングストンのことを書きましたが、アフリカの奥地のリビングストンを捜し求めたのはスタンリーでした。
 スタンリーは成功報酬が目当てで探検したのですが、ベルギー国王レオポルド2世はこのスタンリーにザイール川流域の探検を財政的に支援していたので、その成果はベルギー国王のものとなりました。

 つまりベルギー国王レオポルド2世はコンゴという土地を手に入れ、1885年のベルリン会議では正式に国王の私有地として各国に認められました。
 この私有地が「コンゴ自由国」です。

 国王の私有地ですから、「コンゴ自由国」では黒人など原住民の耕作地はすべてが国王の所有物となりました。
 住民は象牙やゴムの採集を強制され、規定の量に到達できないと手足を切断されるという残虐な刑罰が情け容赦なく科されました。
 
 前代未聞の圧制と搾取が行われていた「コンゴ自由国」の「自由国」とは、「住民が自由な国」という意味ではまったくありません。
 
 原語では「コンゴ独立国」というのが正しい訳ですが、国王のための自由貿易の国という意味であるということをあてこすった英語の俗称です。
 まさに、国王が「自由」に統治できる国という意味ですね。

 この「コンゴ自由国」の圧政に対して、各国は人道主義の立場から非難の声をあげました。   
 非難をあげるイギリスやフランスもそうとうひどいことをやっていますが、それ以上にひどいということでしょう。 

 ジャーナリストのエドモンド・モレルが『赤いゴム』という著作で、手足を切り落とす過酷な刑罰の下でのゴム採集の実情を白日のもとにさらけ出しました。
  こうして国際社会の非難の声はますます高まり、国王の恣意的な暴政にベルギー政府も黙っていられなくなりました。

 1908年10月、ベルギー政府は植民地憲章を制定し、国王はベルギー政府からの補償金との引き換えに「コンゴ自由国」を手放すことになりました。

 同年11月、「コンゴ自由国」はベルギー政府の直轄植民地「ベルギー領コンゴ」になりました。

 これによって、統治の実情は改善され、強制労働などは廃止されましたが、植民地支配は第2次世界大戦後までつづきました。
                                      (ウキペディア参照 )

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