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4月27日 古代ギリシャのソクラテスが毒をあおって刑死。

 紀元前399年の今日、古代ギリシャの哲学者ソクラテスが青年を惑わした罪で刑死しました。

 父は彫刻家ないしは石工で、母は助産婦でした。
 アテナイ(アテネ)で生まれ、生涯のほとんどをアテナイで暮らしました。

 スパルタと戦ったペロポネソス戦争の最初の大会戦では重装歩兵として従軍していることがわかっています。
 青年期には自然科学に興味を持ったとといわれ、晩年は倫理や徳を追求する哲学者としての生活に専念しました。

 ソクラテスの妻の名前をクサンティッペといいます。
 ソクラテス自身がかなりの恐妻家であることは有名で、妻に「何が哲学だ。屁理屈ばかり重ねずに仕事をしろ」といわれるなど頭が上がらなかったようです。

 ソクラテスは結婚について悩んでいる人間に向かって、「結婚してもしなくても、どのみち君は後悔することになる」といいました。
 
 自分自身の「魂」をたいせつにすることの必要を説き、自分自身にとってもっともたいせつなものは何かを問うて、毎日、町の人々と哲学的対話を交わすことを仕事としました。  

 そして、この仕事のために嫉まれて、相手は論破され恥をかかされたと思って、ソクラテスを憎むようになりました。
 そして、告発され、裁判にかけられました。

 ソクラテスは、自身の弁明(ソクラテスの弁明)を行い、自説を曲げたり自分の行為を反省したりすることを決してせず、追放の手も拒否し、結果的に死刑をいい渡されました。

 罪状の票決は2回行われ、2回目の投票では陪審員の反感を招いて大多数で死刑が可決されました。
 プラトンらによって逃亡・亡命が勧められたり、またソクラテスに同情する牢番も彼がいつでも逃げられるよう鉄格子の鍵を開けていましたがこれを拒否しました。

 脱獄可能な状態でしたが、死を恐れずに殉ずる道を選びました。
 紀元前399年、ソクラテスは親しい人物と最後の問答を交わして、毒ニンジンの杯をあおり、死に臨んだといわれています。

 このてん末は弟子であるプラトンの著作「ソクラテスの弁明」に詳しく書かれています。
 死刑を目前にした時、ソクラテスは次の言葉を残しました。

 「単に生きるのではなく、善く生きることが大切」

4月14日 タイタニック号が氷山に衝突・沈没。死者1513人。

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 今から約100年前の今日、豪華客船タイタニック号が北アメリカ大陸のニューファントランド島沖で氷山に衝突して、翌日未明に沈没しました。

 

 タイタニック号は当時の最新鋭の技術を駆使した豪華大型客船でした。「不沈船」として、また大きさと豪華さで、大西洋航路の女王を目ざしていました
 世界中が注目する中で、1912年、2224人の乗客・乗員を乗せて処女航海に出発しました。

 海難事故としてはかつてない人命が失われた大事故が発生してしまいましたが、ひょっとしたら事故は防げたのではなかったかといわれています。

 まず、出航の期日の問題です。
 タイタニック号は予定より約1ヶ月遅れて航海に、多数の著名人を乗せて出航しました。1ヶ月前の3月中旬に出航していれば、北極海からの流氷の量は少なく、氷山との衝突事故の発生確率は少なかったことでしょう。

 次に、出航日においても予定より出航時刻が1時間遅れました。
 もし衝突事故の発生が1時間早まっていたならば、衝突後の救難無線を発した時刻が夜中の12時前になり、周辺に存在していた船舶がすみやかな救助に駆けつけることができたといわれています。

 さらに出航後、流氷原が行く手の海域にあるという警告を他船から無線で受信していました。
 しかし、船長はそれほど深刻には受け止めていませんでした。
 さらに航海中にも流氷原があるという警告を受けましたが、速力を減速することなく、高速(20.5ノット)で航行を続けました。
 警告・忠告を無視したということです。

 やがて午後11時40分に氷山に衝突したわけですが、氷山を発見したのは衝突の約450m手前でした。
 この夜は新月に近い暗闇であったことと、珍しいほどの無風で海面が鏡のようになっていたので、氷山の周囲に白波がまったく立っていなかったことも発見が遅れた要因でした。

 さらに、見張り員が双眼鏡を使用しないで見張り台に立っていたことも発見がおくれた原因です。
 しかし、この夜の条件では双眼鏡があったとしても、より早期の氷山の発見は無理であったとの意見もあります。
 
 氷山の発見後、回避行動をとりましたが、船腹をなでるように氷山をかすめて通ったため、かえって船体の多くの部分が損傷してしまいました。
 これによって大量の浸水をもたらしました。

 この沈没事故から学ぶべき教訓は、救助の問題です。
 タイタニック号は、氷山との衝突の後、すみやかには救難無線を出していません。午前0時14分になって初めて救難無線を発しています。

 しかし、タイタニック号から19海里の距離にいたカリフォルニア号の無線は午前0時を過ぎた時点で切られていました。
 58海里の距離にいたカルパチア号が救難無線を受信し救助に駆けつけましたが間に合いませんでした。
 到着したのは午前4時10分ごろでした

 タイタニック号は、午前0時44分には信号灯を打ち上げました。
 カリフォルニア号の乗組員はこの信号灯を視認したといわれていますが、信号灯の意味するところが理解できず救助には向かいませんでした。

 こうして、一切の救助は間に合わず、午前2時20分ごろ、ついにタイタニック号は沈没してしまいました。
 
 またこの事故のとき、国際的に決められた救難信号「SOS」が最初に発信されています。
 この惨事の結果、翌1913年に、海上の人命安全に関する国際会議がロンドンで開かれ、現在の船のように安全施設を充実させる発端となりました。

 しかし、残念なことに海難事故は繰り返されています。

4月13日 決闘の日

 1612年4月13日は、二刀流の使い手・宮本武蔵と燕返しの名手・佐々木小次郎の決闘がおこなわれた日です。
 よって今日は「決闘の日」に制定されています。

 決闘の場所は、豊前小倉の沖合の島、現在の山口県の巌流島で行われました。この巌流島は小次郎の別名・巌流からとられています。

 この決闘が始まる前に、武蔵が発した「小次郎、破れたり」という有名なことばをご存じですか。 
 
 決闘は、武蔵がわざと遅刻してきます。
 いらいらしていた小次郎は怒りをあらわし、冷静さを失っていました。小次郎は「さっさと行くぞ」といって刀の鞘を投げ捨てました。
 そのときのことを指して、武蔵が小次郎に放った言葉です。

 「勝負のあとに刀を納めるべき鞘を捨ててしまったのは、もうそれに納められないということだ」と指摘して、更に小次郎の動揺を誘ったといいます。
 
 腕にそう差がない場合、こういう心理戦の比重というのは大きいのかも知れません。   「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とす」を有言実行した武蔵の精進に軍配があがりました。

 宮本武蔵は1584年、美作国(現在の岡山県)宮本村の生まれました。幼名は弁之助といったといいます。関ヶ原の合戦にも参加しています。

 13歳の時以来、生涯60回以上の果たし合いを行いました。特にこの小次郎との対決と、京都での吉岡一門との対決は有名です。
 
 巌流島の決闘以後、肥後(今の熊本県)の細川忠利に召しかかえられ、1645年5月死去しました。

 吉川英治の「宮本武蔵」がとくに有名で、映画化もされています。

定本 宮本武蔵 吉川英治
定本 宮本武蔵 吉川英治(リンクは楽天市場)

 

4月4日 キング牧師が狙撃された

今日は、「I have a dream」で知られる有名なスピーチをおこなったマーチン・ルーサー・キング・ジュニアが暗殺された日です。

 リンカーン大統領によって行われた奴隷解放宣言によって、アメリカ合衆国での奴隷制は廃止されてはいました。

 しかし、奴隷制度はなくなっても、直ちに人種差別の撤廃を意味するものではありませんでした。
 その後も人種によって学校やトイレ、プールなどの公共施設やバスなどの公共交通などで、白人と有色人種のちがいによって、異なる施設を使うことは容認されたままでした。
 
 この状況は、第二次世界大戦後も続いており、むしろ法令上もこのような取り扱いを義務付けていたことすらありました。

 キング牧師は、北部に在学中、飲食店に入った際、キング一人が黒人である事に腹を立てて店員が注文を取りに来なかったことがありましたが、そこが北部であったため、人種差別として店員が即刻逮捕されました。

 彼には南部で当たり前だったこの行為に、ひどく驚いたといいます。
 南部での人種差別はひどいものでした。彼自身、少年時代から数々の差別をされて生きてきています。

 やがて、アトランタで牧師をしながら、全米各地で公民権運動を指導しました。

 キング牧師の提唱した運動の特徴は徹底した「非暴力主義」でした。インド独立の父、マハトマ・ガンディーに啓蒙され、非暴力を貫きました。
 
 非暴力主義はとかく弱い姿勢と思われがちですが、キング牧師のそれはちがいました。『黒人は現状に満足している』と言いふらしてきたことに対して、ノーという意志を合衆国と世界の世論に訴えるという方向を持っていました。

 しだいに「非暴力」に対する「暴力」の醜さをみせつける事件がおきます。
 黒人のデモの中で、丸腰の黒人青年に警察犬をけしかけて襲わせている警官や、警棒で滅多打ちにする警官、高圧ホースで水をかける警官などの姿が映し出され、世論はそれらの暴力に拒絶反応を示していったのです。

 キング牧師を先頭に行われたこれらの地道で積極的な運動の結果、アメリカ国内の世論も盛り上がりを見せてきました。
 そして、1964年、ついに公民権法が制定されました。

 これにより、建国以来200年近くの間アメリカで施行されてきた「法の上における人種差別」が終わりを告げることになったのです。

 “I Have a Dream”(私には夢がある)

 前の年に行われたワシントン大行進でキング牧師は、人種差別の撤廃と各人種の協和という理想を訴えました。

 現在では、黒人のアメリカ大統領が誕生するほどに人種間の差別意識はやわらぎましたが、南部を中心にまだ油断はできません。

3月29日 お七、火あぶりの刑

 1683年(天和3)年の今日、18歳の八百屋の娘・お七(おしち)が、3日間の市中引回しの上、火あぶりの極刑に処せられました。

 前年12月28日、江戸駒込の大円寺から出火した火災は、東は浅草、南は日本橋にいたるまで焼きつくしました。

 焼死者3500名といわれる大火災でした。
 
 この大火で家を焼け出されたお七は、駒込の正仙寺(一説に円乗寺)に避難しました。ところがその時、その寺で出会った寺小姓・生田庄之介と恋に落ちてしまいました。

 翌年1月、新築された家にもどりますが、思い出すのは庄之介のことばかり。

 庄之介のことが忘れられず、火事になればまた会えるとあさはかな考えに至って、3月2日の夜に放火しました。
 さいわい火はすぐに消しとめられましたが、お七は御用となりました。

 当時は放火の罪は火あぶりの極刑に処せられていました。
 しかし17歳以下ならば極刑は免れることになっていました。

 そこで奉行は、お七の刑を軽くするために「おぬしは17だろう」と問いますが、その意味がわからなかったお七は正直に18歳だと答えてしまいました。

 お宮参りの記録を証拠として提出した程だったといいます。
 こうして、鈴ヶ森の刑場で極刑に処せられることとなったといわれています。

 なお、お七が丙午(ひのえうま)の年の生まれであったことから、丙午生まれの女子が疎まれるようになったということです。

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