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3月19日 探検家リヴィングストンの誕生日

 イギリスの探検家、デイヴィッド・リヴィングストンは1813年の今日、イギリス北部のスコットランドで生まれました。 

 私の小学校か中学校のころ、国語の教科書にリヴィングストンの話が載っていました。このことをなぜか覚えていて、なんとなく親しみを持っていた人物でした。

 リヴィングストンの生家は貧しくて、10歳のころから近所の紡績工場で働いていました。日中は工場の仕事に精を出し、仕事が終わってからは夜間学校で熱心に勉強をしました。

 宣教師になって、中国で医療を施しながら布教することを志しましたが、アヘン戦争で彼の中国行きは頓挫してしまいました。
 
 次に宣教拠点をアフリカへ変更したリヴィングストンは、南アフリカ支部の宣教師として派遣されました。
 
 リヴィングストンは布教のための土地をさがし求めて各地を探検しまし、数々の発見をしました。
 探検しているうちに、ヨーロッパ人として初めてアフリカ大陸の横断に成功したことでも知られています。
 
 1856年、探検の資金が尽きたリヴィングストンは、支援者を探すために16年ぶりにイギリスに帰りました。
 彼は、探検家としての功績からスコットランドの英雄としてもてなされました。
 1857年、アフリカでの体験を如実に記した「南アフリカにおける宣教師の旅と探検」を著し、本はベストセラーとなりました。 
 
 2回目の探検に出かけてから帰国したリヴィングストンは、2冊目の著書「ザンベジ川と支流」を著しました。
 
 その著作に描かれたアラブの商人とポルトガルの商人との間で行われている奴隷貿易、および現地人への虐待や虐殺の実態は、当時の知識人たちを驚愕させました。
 (陰の声:イギリスが中国でアヘンの密売をしているのと変わらないと思います)

 リヴィングストンは、ナイル川の水源を探求するようにとの王立地理協会からの依頼で3回目のアフリカ探検に出ました。
 彼は2度と故郷の土を踏むことはありませんでした。
 
 さて、ナイル川は白ナイル川と青ナイル川に分かれています。
 青ナイル川はすでに水源の探求が完了していました。白ナイル川に関してはまだ論争が続いていました。

 現在では、白ナイル川の水源はヴィクトリア湖ではなく、リヴィングストンが推測したとおり。ヴィクトリア湖より少し南方にヴィクトリア湖に流れ込む川があり、その川が水源であることが確かめられています。
 
 1866年4月にタンザニアから内陸部へ入っていきました。
 ところが出発当初は各地から集められたポーターが36人もいましたが、脱落者が続出し、最終的には4~5人しか残らないほどの過酷な旅程になりました。

 行く先々で奴隷商人の妨害にあい、かれらに買収されたポーターによってリヴィングストンの医療道具一式が入っている鞄を盗まれてしまったこともありました。

 飢餓と体調の悪化に苦しみ、タンガニーカ湖畔の村で静養しながら、近辺の探索を行いながら、宣教や説教を頻繁に行っていました。

 1871年には、ルアラバ川の岸辺で、1,500人もの奴隷が虐殺される場に偶然立ち会ってしまいました。
 しかし、リヴィングストンにはすでに奴隷解放のためにたたかう余力は残されていませんでした。
 
 一方、イギリス国内では、リヴィングストンが消息を絶っているので、死亡説まで流れていました。
 リヴィングストンを探索する動きが出て、ヘラルド新聞社の特派員であるスタンリーがリヴィングストンを捜索するためにアフリカに向かいました。
 スタンリーは莫大な資金提供を受け、発見が成功したときの報奨金を約束されていました。
 
 スタンリーはウジジ近辺でリヴィングストンの従者と遭遇しました。従者に導かれて本人と対面しました。
 そのときの、リヴィングストンは骸骨のようにやせ衰えた姿をしていました。
 スタンリーが発したことばは、

 "Dr. Livingstone, I presume?" (訳:「リヴィングストン博士でいらっしゃいますか」)でした。
 このことばは当時のイギリスの流行語になったといわれています。

 思いがけず人と対面した時の挨拶として使われるようになるほど、劇的なエピソードとして伝えられました。

 スタンリーはリヴィングストンに帰国を強く勧めたが、リヴィングストンはナイルの水源を突き止めるため、さらに探検を続けることを望みました。
 帰国したスタンリーは、5ヵ月後にリヴィングストンの許に57人の従者と十分な物資を送って援助しました。

 やがて、リヴィングストンは探検の記録を書きつける余力もないまま、5月1日、マラリアの複合症により息を引き取りました。
 
 リヴィングストンの遺体は、防水の箱に入れられた彼の日記、資料、携行品などとともに、故郷のイギリスへ運ばれ、ウエストミンスター寺院へ葬られました。

 ザンビアには彼を称えた都市リヴィングストンがあり、今も彼の記念碑と彼の資料を集めた博物館が建っています。

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