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3月25日 平将門の命日

  今日は、平将門(たいらのまさかど)が討伐されて死亡した日です。
 平安時代の中期、西暦940年(旧暦の天慶3年2月14日)のことでした。

 平氏という姓は、平安遷都で有名な桓武天皇の孫(あるいは曾孫)にあたる高望王(たかもちおう)に授けられました。
 平将門は、その高望王の孫・平良将の子にあたります。

 当時、関東地方は平氏一族が支配する土地でした。
 将門の父・良将は下総(現在の茨城県・千葉県)に勢力をはっていた豪族で、鎮守府将軍に任命されていました。

 将門は若いころ、京都にのぼって検非違使(都の治安を守る役人)という官位につこうとしましたが、父の死によって果たせず、関東に戻りました。

 やがて、父の残した土地、その他の問題で他の平氏一族と対立の対立が深まり、あらそいになりました。
 そして叔父・平国香を殺したため、平氏一族を敵にまわしてしまいました。
 将門の軍勢は強力で、叔父・良兼を倒し、貞盛(国香の子)をも都へ敗走させるほどでした。

 こうして、将門は東国に勢力をもつ大豪族になりましたが、常陸(現在の茨城県)の国府(朝廷の出先機関でもある地方の役所)を打ち払ったため、朝廷の反乱者(敵)になってしまいました。

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 朝廷から敵と見なされたあとは、京都の朝廷に対抗して独自に天皇に即位し、「新皇」を名乗りました。
 朝廷からの独立国建設をめざしましたが、藤原秀郷、平貞盛(国香の子)らにより討伐されました。
 
 平将門の乱は、同じころ、瀬戸内海で海賊として国府を襲った藤原純友の乱とともに、京都の朝廷や貴族を震え上がらせました。
 これら二つの乱は、まとめて「承平・天慶の乱」とよばれています。
 武士の発生を示すとの評価もあります。

 後世の人々は、反乱者であるにもかかわらず、将門を神として祀りました。
 これは、朝廷の厳しい支配に苦しめられていた民衆が、将門に英雄の姿を見たためかもしれません。

 平将門は、御首神社、築土神社、神田明神、国王神社などに祀られています。 

3月24日  深海調査船「かいこう」がチャレンジャー海淵を探査(1995年)

 今日は、日本の無人探査機「かいこう」がマリアナ海溝のチャレンジャー海淵を探査した日です。
 この時に計測された数値は、現在、もっとも確実性が高いと評価されています。

 マリアナ海溝は、世界で最も深い海溝だといわれています。その位置は、北西太平洋にあるマリアナ諸島の東の海域です。
 太平洋プレートはこのマリアナ海溝においてフィリピン海プレートの下にもぐりこんでいます。
 中学校の地図帳では、濃い青色で細長く伸びたマリアナ海溝や日本海溝に興味を覚えたことを思い出しました。

 世界で一番深い海、その最深部はどれほどなのか、今まで各国が競って計測してきた歴史があります。

 長い間、地図帳にはマリアナ海溝の最深部の深さは11,034mと書かれていました。この数値はソビエト連邦の「ヴィチャージ号」が計測したものでした。
 しかし、現在ではこの記録の正確性に疑いがもたれており公式記録としては認められておりません。

 最新の計測では、海溝の最深部は、「かいこう」がチャレンジャー海淵を探査して計測した結果、水面下10,911mであるとされています。
 これは海面を基準にエベレストをひっくり返しても山頂が底につかないほどの深さだということになります。
 マリアナ海溝の最深部は地球の中心からは6,366.4kmにあります。

 
 さて、マリアナ海溝の調査は20世紀に入ってはじめられました。
 1925年、日本の測量船「満州号」が重りのついたケーブルをおろして測定する方法で計測しました。
 9,814mを測定し、この海域が世界でもっとも深い部分であることを世界に知らしめました。

 1951年には、イギリス海軍の測量船「チャレンジャー8世号」が、反響した音波を測定する方法で測定に成功しました。
 最深部分はその名にちなんで「チャレンジャー海淵」となづけられました。
 この時の計測数値は、10,900mでした。(手動計測のため誤差あり、10,863m値に修正)

 1957年、ソ連海軍艦艇「ヴィチャージ」が深度11,034mの計測に成功したと発表し、「ビチアス海淵」と名づけられました。
 先に述べたとおり、公式記録としては認められていない。

 その後、日本の調査船「拓洋」が最新式のナローマルチビーム測深機を用いて測定を行い、10,924m(厳密には10,920m±10m)という値を得ました。

 結局、現在のところ、多くの深度測定値の中で確実に裏づけがとられたものは、日本の無人探査機「かいこう」が記録した10,911mです。
 信頼性という点では最高の評価が与えられています。
 

 なお、有人探査機で世界で一番深いところに到達した記録は、10,916mといわれています。
 その有人探査機は、鋼鉄の重りとガソリンの浮力装置を用いて深度を調整できるよう設計されていたバチスカーフ型でした。
 このバチスカーフは海溝の底に到達したといわれています。
 さらに搭乗した者は、海溝の底でヒラメやエビなどの生物が生息しているのを発見して驚いたといいます。(ウキペディア参照)
 

3月19日 探検家リヴィングストンの誕生日

 イギリスの探検家、デイヴィッド・リヴィングストンは1813年の今日、イギリス北部のスコットランドで生まれました。 

 私の小学校か中学校のころ、国語の教科書にリヴィングストンの話が載っていました。このことをなぜか覚えていて、なんとなく親しみを持っていた人物でした。

 リヴィングストンの生家は貧しくて、10歳のころから近所の紡績工場で働いていました。日中は工場の仕事に精を出し、仕事が終わってからは夜間学校で熱心に勉強をしました。

 宣教師になって、中国で医療を施しながら布教することを志しましたが、アヘン戦争で彼の中国行きは頓挫してしまいました。
 
 次に宣教拠点をアフリカへ変更したリヴィングストンは、南アフリカ支部の宣教師として派遣されました。
 
 リヴィングストンは布教のための土地をさがし求めて各地を探検しまし、数々の発見をしました。
 探検しているうちに、ヨーロッパ人として初めてアフリカ大陸の横断に成功したことでも知られています。
 
 1856年、探検の資金が尽きたリヴィングストンは、支援者を探すために16年ぶりにイギリスに帰りました。
 彼は、探検家としての功績からスコットランドの英雄としてもてなされました。
 1857年、アフリカでの体験を如実に記した「南アフリカにおける宣教師の旅と探検」を著し、本はベストセラーとなりました。 
 
 2回目の探検に出かけてから帰国したリヴィングストンは、2冊目の著書「ザンベジ川と支流」を著しました。
 
 その著作に描かれたアラブの商人とポルトガルの商人との間で行われている奴隷貿易、および現地人への虐待や虐殺の実態は、当時の知識人たちを驚愕させました。
 (陰の声:イギリスが中国でアヘンの密売をしているのと変わらないと思います)

 リヴィングストンは、ナイル川の水源を探求するようにとの王立地理協会からの依頼で3回目のアフリカ探検に出ました。
 彼は2度と故郷の土を踏むことはありませんでした。
 
 さて、ナイル川は白ナイル川と青ナイル川に分かれています。
 青ナイル川はすでに水源の探求が完了していました。白ナイル川に関してはまだ論争が続いていました。

 現在では、白ナイル川の水源はヴィクトリア湖ではなく、リヴィングストンが推測したとおり。ヴィクトリア湖より少し南方にヴィクトリア湖に流れ込む川があり、その川が水源であることが確かめられています。
 
 1866年4月にタンザニアから内陸部へ入っていきました。
 ところが出発当初は各地から集められたポーターが36人もいましたが、脱落者が続出し、最終的には4~5人しか残らないほどの過酷な旅程になりました。

 行く先々で奴隷商人の妨害にあい、かれらに買収されたポーターによってリヴィングストンの医療道具一式が入っている鞄を盗まれてしまったこともありました。

 飢餓と体調の悪化に苦しみ、タンガニーカ湖畔の村で静養しながら、近辺の探索を行いながら、宣教や説教を頻繁に行っていました。

 1871年には、ルアラバ川の岸辺で、1,500人もの奴隷が虐殺される場に偶然立ち会ってしまいました。
 しかし、リヴィングストンにはすでに奴隷解放のためにたたかう余力は残されていませんでした。
 
 一方、イギリス国内では、リヴィングストンが消息を絶っているので、死亡説まで流れていました。
 リヴィングストンを探索する動きが出て、ヘラルド新聞社の特派員であるスタンリーがリヴィングストンを捜索するためにアフリカに向かいました。
 スタンリーは莫大な資金提供を受け、発見が成功したときの報奨金を約束されていました。
 
 スタンリーはウジジ近辺でリヴィングストンの従者と遭遇しました。従者に導かれて本人と対面しました。
 そのときの、リヴィングストンは骸骨のようにやせ衰えた姿をしていました。
 スタンリーが発したことばは、

 "Dr. Livingstone, I presume?" (訳:「リヴィングストン博士でいらっしゃいますか」)でした。
 このことばは当時のイギリスの流行語になったといわれています。

 思いがけず人と対面した時の挨拶として使われるようになるほど、劇的なエピソードとして伝えられました。

 スタンリーはリヴィングストンに帰国を強く勧めたが、リヴィングストンはナイルの水源を突き止めるため、さらに探検を続けることを望みました。
 帰国したスタンリーは、5ヵ月後にリヴィングストンの許に57人の従者と十分な物資を送って援助しました。

 やがて、リヴィングストンは探検の記録を書きつける余力もないまま、5月1日、マラリアの複合症により息を引き取りました。
 
 リヴィングストンの遺体は、防水の箱に入れられた彼の日記、資料、携行品などとともに、故郷のイギリスへ運ばれ、ウエストミンスター寺院へ葬られました。

 ザンビアには彼を称えた都市リヴィングストンがあり、今も彼の記念碑と彼の資料を集めた博物館が建っています。

3月13日 大阪大空襲が始まった。

 大阪大空襲とは、第2次世界大戦時に行われたアメリカ軍による大阪への戦略爆撃・無差別攻撃の呼び名です。
 大阪への数度にわたる空襲の最初は、1945年3月13日の深夜から翌日未明にかけて行われました。

 大阪に対する空襲は、その後、6月1日、6月7日、6月15日、6月26日、7月10日、7月24日、8月14日に行なわれました。
 これらの空襲で、大阪の街が焼かれ、一般市民1万人以上が死亡したといわれています。

 最初の空襲は、1945年3月13日23時57分から、14日3時25分の約3時間半にわたって行われました。
 襲来したのは、グアムやサイパンなどからそれぞれ襲来してきた274機のB29戦闘機でした。
 
 米軍のねらいは、北区扇町、西区阿波座、港区市岡元町、浪速区塩草だったといわれています。
 グアムからの43機は、夜間低空爆撃として約2,000mの低空からの一般家屋をねらった夜間爆撃でした。
 先導機がナパーム弾(大型の焼夷弾)を港区市岡の照準点に投下したので大火災が発生しました。
 他の機はそれを目印に次々と焼夷弾(内蔵した48個の小型焼夷弾が空中で分散して落下する爆弾)を投下しました。

 続いてテニアンから飛来した107機が浪速区塩草を照準点として投弾しました。
 さらにサイパンから飛来した124機が北区扇町と西区阿波座に投弾しました。

 すでに大火災が発生している中で、北区では米軍のねらい通りには爆撃できず、他の場所に被害が広がっっていました。

 この空襲では、3,987名の死者と678名の行方不明者が出ました。
 大阪をとりまく山々の向こう側にある奈良や亀岡でも、火炎が夕焼けのように見えたといわれています。

 深夜に行われた大空襲のため、現在では大阪を代表する繁華街である難波・心斎橋周辺は火災で焼け出された人たちでごった返しました。
 地上が火の海なので火を避けるため人々がめざしたところは地下鉄の駅でした。

 ところが、深夜なので地下鉄の駅の入り口は鉄扉で堅く閉ざされていました。
 そのとき乗務員の機転により、地下鉄の駅が開けられ、急遽梅田方面(梅田方面は被害を受けていなかった)へ電車が運行されました。
 こうして人々を避難させた結果、300~400人の人々の命が救われたといわれています。

 当時、地下鉄の職員はまだ徴兵されていない勤労学生が多く、女性乗務員も少なくなかったということです。
 若者らしい、杓子定規に囚われない行動が多くの人命を救ったといわれています。

 この事実は、しばらく公にはされていませんでしたが、1980年代後半になって新聞の投書欄に話が出たのをきっかけに証言者が現れてあきらかになりました。

 この後の大空襲で大阪の広い区域が焼け、多くの住民が犠牲になりました。

 3回目の空襲では、淀川にかかる長柄橋に爆弾が直撃し、さらに機銃掃射も加えられたため、橋の下に避難していた市民約400人が犠牲になりました。
 また柴島浄水場が破壊されましたので、上水道の供給機能が停止してしまいました。

 終戦の前日8月14日の最後の空襲には150機のB29が襲来しました。
 米軍機は大阪城の近くにあった大阪陸軍造兵廠を狙い、約700トンの1トン爆弾を集中的に投下しました。
 この空襲では、大阪陸軍造兵廠に近接していた国鉄京橋駅で大きな被害を出したことから、「京橋駅空襲」ないしは「京橋空襲」ともよばれています。

 京橋駅にはちょうど、城東線(現在の大阪環状線)の上り列車・下り列車の2本が入線したところで、多くの乗客が、空襲を避けて城東線の高架の影になっている平地にある片町線ホームに避難していました。
 そこに1発の1トン爆弾が、城東線の高架を突き破って片町線ホームに落下して爆発したため、避難していた乗客らが爆弾の直撃を受けました。

 この空襲での犠牲者は、身元の判明している人だけでも210名以上、他に身元不明の犠牲者が500~600名以上いる(正確な犠牲者数は不明)とされています。(ウィキペディア参照)

 大阪大空襲の実態調査は、大阪市の教職員組合の婦人部が中心となってコツコツとすすめられてきました。
 下記ホームページに詳細にまとめられています。 
 
 大阪市内で戦争を考える<大阪市学校園教職員組合(大阪市教)・城北支部>

 悲惨な戦争体験がだんだんと忘れられていく一方で、新たな戦争が迫っているような危機感を感じています。

3月7日 花粉症の日

 日本では、今日は「花粉症の日」といわれています。

 「花粉症の日」なんてあったんだと叫んでしまいました。調べてみると誰が(どこが)言いだしたかわからない記念日なのです。
 制定者がいないので、実体のない記念日ですからなくなることもあります。

 花粉が飛散する時期には、目のかゆみ、充血、流涙、くしゃみ、鼻水、鼻づまりなど、目・鼻アレルギー症状を一挙に呈してきますので、花粉症の人はたいへん辛い思いをします。

 原因となるスギの花粉は、元日からの最高気温の合計が450度をこえると本格的に飛び始め、750度に達するころがピークになるといわれています。
 
 この説によると、スギの花粉が飛散し始めるのが3月上旬になります。
 しかも3月7日は統計上、晴れの天気が多いため、スギ花粉が飛散する量が多くなることがありました。
 このようなことから、3月7日が「花粉症の日」といわれるようになったのでしょうか。

 気象庁が昨年発表した予報によると、今年の1月~2月は全国的に平年より暖かくなる見込みで、スギ花粉の飛散開始は例年より10日前後早まると予測されていました。
 
 さらに、日本気象協会の発表によると、今年の花粉総飛散数予測は、南関東以西では例年より多く、昨年の春よりも多くなるとしています。

 日常的な対策というと、マスクの着用も症状の軽減には役だちます。
 さらに、何といっても家の中に花粉を連れ込まないことが一番だといわれています。

 外出から帰ったら、洋服ブラシ(最近は見かけないですね)で埃といっしょに花粉を落とすことはたいへん効果があります。
 頭髪についた花粉もしっかり落としましょう。
 洗濯物を屋外で干さないで、室内で干すほうがよいといわれています。

 食生活では、ふだんから粘膜や皮膚を丈夫に保ち、体に抵抗力をつけておくためには、ほうれんそうを使った料理がおすすめらしいです。
 医学的には、腸の免疫力をアップして、便秘も下痢もないきれい腸の状態を維持することが大切だといわれています。

 「子どもを花粉症にしないための9か条」(理研横浜研究所)を見つけました。
 生後の早い時期にBCGを接種させる。
 幼児期からヨーグルトなどの乳酸菌飲食物を多く摂取させる。
 小児期にはなるべく抗生物質を使わない。
 早期に託児所などに預け、細菌感染の機会を増やす。
 適度に不衛生な環境を維持する猫、犬を家の中で飼育する。
 狭い家で、子だくさんの状態で育てる。
 農家で育てる。
 手や顔を洗う回数を少なくする。

 この9か条は、生活の中で少しずつ雑菌に触れさせて、知らず知らずのうちに免疫力をつけるということですね。
 栄養が豊かになり、清潔すぎる環境が花粉症の原因の一部かもしれません。

3月2日 ホー・チ・ミンがベトナム民主共和国の大統領に就任

 第2次世界大戦が終わった翌年の1946年の今日、ホー・チ・ミンがベトナム民主共和国の大統領に就任しました。

 ホー・チ・ミンは、フランスの植民地であったベトナム中部の貧しい儒学者の子に生まれました。
 彼は初め、ベトナム人官吏を養成する学校に入学しましたが、在学中に反フランスの民族主義的思想を持ったため退学させられました。
 船員として働いたあと、1917年、パリに移りました。この年におこったロシア革命は、彼の思想に大きな影響を与えたといわれています。

 大戦中は、日本のインドシナ侵略と戦いました。
 日本の敗戦が決定的になった1945年8月13日、ホー・チ・ミンは全ベトナム人民に総蜂起をよびかけました。
 よびかけにこたえて全国的な民衆の蜂起がおこり、9月2日、ホー・チ・ミンはベトナム民主共和国のフランスからの独立を宣言しました。
 
 フランスはベトナム民主共和国を正統政府とは承認しなかいばかりか、軍を増派してきました。
 翌年、フランスはベトナムの独立を認めましたが、これはホー・チ・ミンの粘り強い交渉のたまものでした。

 ところが、フランスは協定に反して、南部にフランスに都合がいい政権を樹立したばかりか、ベトナム民主共和国軍への攻撃を始めました。
 このときもホー・チ・ミンは「全国民に抗戦を訴える」というアピールを発表して徹底抗戦に入りましたた。
 
 ベトナム軍は北部山岳地帯にこもってゲリラ戦で闘いました。民衆の支持をうけて、徐々にフランス軍を圧倒しはじめました。
 1954年のディエンビエンフーの戦いでフランス軍に決定的な打撃を与えました。

 フランスは、ジュネーヴ協定を締結して、インドシナ支配を終らせ、軍を撤退させました。  これで終わっておれば、ベトナムの平和は早く訪れていましたが、アメリカがフランスに代わってベトナムへ進出してきました。

 南部につくられたアメリカのかいらい政権は、ジュネーヴ協定で定められた統一選挙をボイコットし、反対派に厳しい弾圧を加えました。
 一方、その独裁政治に対する抵抗運動が広がり、1960年に南ベトナム解放民族戦線が結成されました。
 解放戦線はベトナム労働党の支援の下、本格的に介入を始めたアメリカ軍と激しく戦った。

 アメリカは南部のかいらい政権を積極的に支援していましたが、トンキン湾事件以後は、直接アメリカ軍を派遣してきました。
 戦いはますます激しくなり、アメリカは北部にあったベトナム民主共和国への爆撃(北爆)を敢行し、50万もの大軍を投入してきました。
 ナパーム弾、枯れ葉剤をジャングルに大量にまき散らしたのもこのころです。

 しだいに、南ベトナム解放民族戦線は主要都市と幹線道路をのぞく農村地帯をほぼ完全にその勢力下におきました。
 アメリカの国内でも反戦の行動が広がりはじめ、国際世論もアメリカに批判的となってきました。
 戦費をまかなうためのドル紙幣の乱発も、アメリカ経済や国際経済をゆがめていました。
 日本国内でもベトナム反戦デー(10月21日)を中心にベトナム人民支援の輪が広がっていきました。

 戦争の終結に向けた動きが始まっっていたとき、ホー・チ・ミンは突然の心臓発作に襲われ、79歳の生涯を閉じました。
 
 ホー・チ・ミンの死後のベトナム戦争は、1975年4月30日のサイゴン陥落によって幕を閉じました。
 翌年、ベトナム社会主義共和国が成立し、南ベトナムの首都だったサイゴンが、ホー・チ・ミンにちなんでホーチミン市に改称されました。

 ホー・チ・ミンは、慈愛に満ちたひょうひょうたる風貌で、民衆に愛されて「ホーおじさん」とよばれて親しまれました。
 偉大なホー・チ・ミンの名は、ベトナム最大の都市の名前として残されました。
 また、ベトナムのすべてのドン紙幣にホー・チ・ミンの肖像が描かれています。

 ホー・チ・ミンは、腐敗・汚職には完全に無縁な指導者でした。無私な性格で、人生をベトナムの独立とベトナム人民に捧げた人物でした。
 自らが個人崇拝の対象になることなどを極度に嫌っていたといわれています。

 どこかの国のごう慢な指導者とは全然ちがいますね。
 

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