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2月4日 高山右近がマニラで死去

 高山右近は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将で、代表的なキリシタン大名として知られています。
 1615年の今日、高山右近がマニラで息をひきとった日です。

 高山右近の名を高めているのは、戦国の武将でありながら、キリスト教徒の大名(キリシタン大名)として信仰をつらぬいたことでしょう。

 もともと高山氏は摂津国三島郡高山庄(現在の大阪府豊能郡豊能町高山)出身の土着の領主でした。
 右近は、父が、松永久秀にしたがって大和国(現在の奈良県)にいたころ嫡男として生まれました。
 
 あるとき父は奈良で琵琶法師だったイエズス会員ロレンソ了斎の話を聞いて感銘を受け、自らが洗礼を受けました。
 居城に戻って家族と家臣を洗礼に導いたため、右近は12歳で洗礼を受けたのでした。右近の洗礼名はポルトガル語で「正義の人」を意味するユストといわれています。

 しかし、戦国の時代ですから争乱がつづき、下剋上が繰り返されました。
 やがて、織田信長から「摂津国の切り取り勝手(全域の領有権確保)」の承諾を得た荒木村重に、高山親子はうまく立ち回って勢力を広げ、三好氏の高槻城を乗っ取り、自ら城主となりました。

 右近は、高槻城を乗っ取るたたかいの際、切り合って瀕死の重傷を負いました。
 しかし、奇跡ともいえる回復を遂げたため、右近はこの機を境にキリスト教へ傾倒するようになったといわれています。

 こうした戦国乱世を地でいくような殺戮をしつつも、高山親子はいっそうキリスト教に傾倒していきました。
 このころ、右近の父は教会の建築や布教に熱心でした。
 
 右近の主人・荒木村重が織田信長に反旗を翻したとき、村重に思いとどまるように説得しましたが失敗しました。
 右近が金や地位では動かないと思った信長は、宣教師とキリシタンを皆殺しにして、教会を壊滅させると脅迫してきました。

 高槻城内は、徹底抗戦を訴える父らと、開城を求める派で真っ二つとなっていました。
 苦悩していた右近は、城主をやめ、家族も捨てて、うすっぺらな衣一枚で城を出て、信長の前に出頭しました。

 この右近の行動は、結果的に荒木勢の敗北の大きな要因となり、この功績を認めた信長によって、右近は再び高槻城主としての地位を安堵されました。
 

 右近は人徳の人として知られ、多くの大名が彼の影響を受けてキリシタンとなったといわれています。
 たとえば蒲生氏郷、黒田孝高などです。

 ただ、黒田孝高は、秀吉がバテレン追放令を出すと、真っ先に棄教するなどキリシタン大名には苦しい状況がおこっていました。
 このころ秀吉は、26人のキリスト教宣教師・信者を捕まえて長崎で処刑しています。
 
 右近は信仰を守ることと引き換えに、領地と財産をすべて捨てるほうを選びました。
 この行動は世間を驚かせました。

 その後しばらくは、小西行長、加賀国金沢城主の前田利家、その嫡男の前田利長にも庇護を受けていました。
 政治・軍事など、各種の相談役になったと思われています。
 たとえば、機内の築城術を紹介していますが、富山城が炎上したときには、高岡城の縄張(設計)を担当したといわれています。
 
 1612年、江戸幕府によって禁教令が出されました。
 加賀で暮らしていた右近は、キリシタン追放を受けて、まわりの人々が引きとめたにもかかわらず、加賀を去りました。
 江戸幕府は、長崎から300人のキリスト教徒をマニラやマカオに追放しましたが、右近もそのうちの1人として、家族とともにマニラに送られる船に乗りました。
 
 マニラには12月に到着しました。
 イエズス会報告や宣教師の報告で有名となっていた右近は、マニラでスペイン人のフィリピン総督らから大歓迎を受けました。

 しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため、右近はすぐに病を得て、翌年の2月4日に息を引き取りました。
 64歳でした。
 信仰をつらぬいた姿は吉川英治によって小説化されています。
 
 ちなみに、大阪府高槻市内には古い神社仏閣の建物はほとんど残っておりません。
 高槻周辺は畿内にあるにもかかわらず、古い仏像の数も少ないといわれています。
 それは、高山親子が、領内の神社仏閣を破壊し、神官や僧侶に迫害を加えたためだといわれています。
 
 旧領内の多くの寺社の記録には、「高山右近の軍勢により破壊され、一時衰退した」などの記述があります。
 神道・仏教側にとっては、高山右近は父とともに、暴君以外の何者でもなかったということです。
 歴史には、裏・表の評価がつきものです。

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