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2月24日 グリム兄弟の兄の誕生日

 今日は、グリム童話で名高いグリム兄弟の長兄ヤーコブの誕生日です。
 ヤーコブは、19世紀のドイツで活躍した言語学者であり、文献学者であり、民話収集家・文学者でした。
 大学教授で、「ドイツ語文法」の研究者として特に有名です。ドイツ語の子音の推移についての法則性は、「グリムの法則」と呼ばれているほどです。
 
 弟は5人、妹が1人の6人兄弟でしたが、いわゆる「グリム兄弟」の弟のあたるのは、次兄のヴィルヘルムです。
 弟は、あまり体が丈夫でなかったこともあり、身体をいたわりながら地道に研究を続けました。
 2人は、「グリム童話」の編集者として、後世にまで名を残しました。

 さて、グリム童話のうちで、よく知られているのは、「シンデレラ」、「白雪姫」、「赤ずきん」、「ブレーメンの音楽隊」、「ヘンゼルとグレーテル」、「眠り姫」、「狼と七匹の子やぎ」などです。
 「狼と七匹の子やぎ」がグリム童話だとは、知りませんでした。
 「グリム童話」の名前は。日本ではとても有名で、ドイツだけでなく、童話集としては世界中でいちばん親しまれているといえます。

 日本では50年以上も前から広く親しまれてきました。誰もが絵本で「白雪姫」や「シンデレラ」を知りました。
 ディズニーの映画ではじめて知った人もいるでしょう。

 ところが、書店には「ほんとうは怖いグリム童話」という本が並んでいます。どんなふうに怖いのでしょうか。
 どうも、私たちが知ってる童話と、原作とは大きな違いがありました。

 たとえば、「白雪姫」も、子ども向けにしては、かなり怖いストーリーなのです。
 原作のグリム童話では、白雪姫は、炊事、洗濯、そうじ、縫い物、編み物といった家事いっさいを引き受けるのならかくまってやろうという条件のもとで、小人たちと暮らしていました。
 
 白雪姫は、毒リンゴで死ぬ前に、魔女(お后)に2回殺されかけています。
 1度目は紐で首を絞められて、2度目は毒を塗った櫛が使われました。3度目の毒リンゴで、深い眠りについてしまったのです。
 
 そのあと現れた王子は嘆き悲しみ、美しい白雪姫を棺桶ごとお城に運ぼうとしました。
 ところが、そのとき、棺桶を運んでいた男が、白雪姫の背中を強くたたいたため、のどの奥につまっていたリンゴが飛び出しました。
 生き返った白雪姫は、王子と結婚して幸せに暮らしました。
 ふつうは、ここまでで終わりです。

 原作は、なんと、最後の最後に魔女(お后)が、熱された靴をはかされて、その命が尽きるまで踊らされたということになっています。
 これが、子ども向けの童話のラストシーンです。

 原作の「シンデレラ」では、シンデレラが殺人を犯しています。
 継母のいじめに耐えかねたので、シンデレラは家庭教師に相談したら、継母の首の骨を折って殺してしまうようにいわれました。
 シンデレラは、家庭教師にいわれた通り、継母を殺していたのです。
 
 この家庭教師は、シンデレラの第2の継母になって、シンデレラをいじめ抜きました。継母は2人いたのですね。 
 その後は絵本のとおり、第2の継母と義理の姉たちの召使となって、ひたすら働かされてはいじめられていました。
 
 原作では、鳩がシンデレラにドレスと馬車を与えます。
 鳩の助けによってシンデレラは、第1回目の舞踏会で王子と出会うことができました。(原作では舞踏会は2回あったことになっています。)
 
 12時で魔法が解けてしまうのは同じです。
 シンデレラは去っていきます。
 王子はシンデレラの通る道に、タールを塗って靴を置いていかせ、靴を手に入れました。

 王子は、金の靴(ガラスではありません)をたよりにシンデレラを探し始めます。
 それを知った姉たちは、上の姉はかかとを、下の姉は爪先をナイフで切り、靴が履けるようにしたのだそうです。
 こうするように指示したのは継母でした。
 むごい話です、

 さらに、シンデレラを助けたハトたちが、シンデレラをいじめた2人の義理の姉の目をつついて失明させたというがラストシーンです。
 継母には、何の罰もありませんでした。

 「本当は怖いグリム童話」には200話ほどありますが、気味が悪い、えげつない、何それ、というような話が集められています。
 「子供と家庭のメルヘン」として、200年ほど前、ドイツで発行されたものですが、首をかしげる話が並んでいます。
 
 グリム童話のイメージを壊したかもしれませんね。でも、原作を一度読んでみてはいかがですか。

2月18日 上杉謙信が生まれた

 今日は、越後(現在の新潟県)の戦国大名・上杉謙信が生まれた日です。
 謙信は、越後の守護代(守護の職務の代行者)の長尾為景の子として春日山城で生まれました。

 生まれつきというべきか、幼少のころから大胆な性格で、父のいうことを聞かなかったといわれています。
 そのため7歳のとき、城下の林泉寺にあずけられ、学問を習わされました。

 父・長尾為景が戦死したあと、長尾家を継いだのは兄の晴景でしたが、晴景は家臣からの人望がなく、信用がありませんでした。
 一方、家臣の中には謙信を押し立てる者たちがおり、そのため兄弟仲は悪くなっていきました。

 19歳のとき、弟・謙信が兄・晴景の養子になることによって、兄にかわって長尾家を継ぎました。
 こうして兄と仲直りした謙信は、春日山城に入って、越後を統一して、実力を高めていったのでした。
 このころの謙信は、まだ長尾姓で、名は景虎でした。

 謙信が32歳のとき、それまで関東地方を支配していた上杉憲政が、小田原の北条氏に追い立てられ、謙信を頼って鎌倉から逃れてきました。
 関東管領であった上杉氏は、由緒ある家系でした。
 
 長尾景虎は、上杉氏から家督を譲られて、上杉景虎と名のるようになりました。
 その後、名を政虎、輝虎と変え、41歳のとき謙信とあらためました。

 当時の関東・信越は、武田・上杉・北条の3つの勢力が合戦をくり広げていました。
 とくに武田信玄とは、はげしい戦いをくり広げましたが、有名なのは5度にわたった川中島の戦いです。
 1561年の川中島の戦いはもっとも激しい戦いとして有名です。
 謙信は、一人で信玄の本陣に切り込み、信玄に傷を負わせたといわれています。
 
 謙信は、戦さを指揮する能力をもった天才であり、一人の勇敢な兵士でもありましたが、和歌や詩にもすぐれていた文化人でもありました。
 また、戦いの神である毘沙門天を深く信仰しており、戦いに出かけるときには、白地に「毘」という字を書いた軍旗をかかげ、勝利を祈りました。

 さらに、京都にのぼって将軍を押し立て、全国に号令をする野望をもっていました。
 そのため、越中(現在の富山県)、加賀・能登(現在の石川県)を攻め、そのころ勢いをつけてきた織田信長の軍を追い返したりして、京都進出をねらっていました。
 
 しかし、1578年、病にかかって春日山城で急死しました。49歳でした。
 辞世の句は、「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒」です。

 死因については、一説には、過度の飲酒と高血圧が原因の脳溢血といわれています。なぜ、このような説が有力かというと、謙信は、大酒飲みで、梅干しだけを肴に手酌で飲んでいたといわれているからです。
 41歳のとき、雪がふる中、厠で倒れたという史料が存在しています。このことも、死因が脳溢血だと考えられている一因です。

 お酒が大好きな方は、用心が大事ですね。

2月14日 山本周五郎の命日

 今日は、作家・山本周五郎の命日です。
 本名、清水三十六(さとむ)です。

 周五郎は1903年(明治36年)、現在の山梨県大月市にて長男として誕生しました。
 4歳のとき、村は大水害で壊滅的被害を受けましたので、一家は東京に出た後、横浜市に転居し、周五郎は横浜市立尋常西前小学校を卒業しました。

 家は豊かではなかったようで、尋常小学校卒業と同時に東京の質店に徒弟として住み込みました。
 その質店の主人の名前を「山本周五郎」といいました。
 
 徴兵検査の結果、眼力が問題となり丙種合格で兵役を免れました。
 しかし、その年の関東大震災によって山本周五郎商店も被災しましたので、質店はいったん解散となり、豊橋、神戸に転居しました。

 再び上京して働きながら小説を書いていましたが、「文藝春秋」に掲載された「須磨寺附近」が文壇出世作となりました。

 戦時中の1943年に発表した「日本婦道記」が、第17回直木賞に推薦されましたが、辞退しました。
 直木賞を辞退した作家は、先にも後にも周五郎しかおりません。
 
 さらに、1961年、文藝春秋読者賞に「青べか物語」が推薦されましたが、これも辞退しています。
 そのころには名作をつぎつぎ発表し、当時の日本を代表する作家として多くの読者をつかみました。
 一方、多くの作品が映画化・テレビ化されました。

 おもな映画としては、黒澤明監督が「椿三十郎」(原作「日日平安」)、「赤ひげ」(原作「赤ひげ診療譚」)、「どですかでん」(原作「季節のない街」)など、多くの周五郎作品を映画化しています。
 このほか、「ちいさこべ」、「青べか物語」、「道場破り」、「さぶ」、「いのちぼうにふろう」(原作深川安楽亭」)、「かあちゃん」、「海は見ていた」、 「雨あがる」など、なつかしい名作がその他の名監督によって映画化されました。

 1967年2月14日、仕事場でもあった旅館で肺炎と心臓衰弱のため死去しました。
 享年65、つまり満63歳という早い死でした。

 さて、ペンネームの「山本周五郎」の由来は、最初に世話になった山本周五郎質店の主人の名前からきたものでした。
 
 周五郎は、文壇で自立するまであいだ、この主人から物心両面にわたり多くの支援を受けています。
 主人への深い感謝の念が込められていたと考えられています。

 私が、周五郎の作品にはじめて触れたのは「さぶ」でした。
 泣いて感激したものでした。
 周五郎は、特に江戸の下町に生きる貧しい庶民や、名も無き流れ者を描いたすばらしい作品で本領を発揮しました。
 
 そのあと、「樅ノ木は残った」、「正雪記」などのすぐれた歴史小説を読みましたが、周五郎の小説は、読んだ後、生きる上でのヒントを与えてくれてるように思います。
 読後感がすごく充実していたのを思い出します。

 映画にもすぐれた作品が多いのも、原作の作風がすぐれているからでしょう・ 
 なお、死後、功績をたたえて、山本周五郎賞がつくられました。

2月12日 ブラジャーの日

 1913年の今日、アメリカ人のメアリー・フェルブ・ジャコブがブラジャーを発明して、特許をとりました。
 これを記念して「ブラジャーの日」が制定されました。
 その原型は、1889年のフランスで発明されていました。

 初期のブラジャー、すごく単純なもので、ハンカチをリボンで結んだだけというものでした。
 現代のスタイルのブラジャーの歴史は案外新しく、メアリーが発明してからも100年もたっていません。
 ブラジャーが発明されるまでは、胸から腰にかけてコルセットで体を締め附けていたもようです。

 女性の胸部を覆うことを目的としたブラジャーのような下着は、古代ギリシャなど地中海地域で使われていました。
 一枚布の下着であったようです。
 
 2004年、中国の内モンゴルの発掘で、遼の時代の墳墓から、精巧な刺繍がなされた女性の胸部に着用したと見られる下着が見つかりました。
 現代のブラジャーととてもよくにていました。

 日本でブラジャーが日常的に使われるようになったのは戦後のことです。
 はじめは1951年にさかのぼります。主婦が自家製のものを着用していたということです。
 ワコールがフロントホックタイプのものを売り出し、国内に出回るようになったのは1975年のことでした。

 男性の私が、あまり女性が着用するブラジャーの話題をするのを差し控えようと思っていますが、近ごろは男性もブラジャーを身につけるようになり、かなりの人気だということなので、びっくりしています。
 特にネットでの売れ行きがすごいということです。
 
 男性用ブラジャーを身に付ける理由を調べてみました。
 まず、「付けることで安心感がある」という理由ですが、胸筋や肩胛骨のまわり(胸回り)をぎゅっと引き締めると背筋がぴしっと伸びて、心身が引き締まるというのが一番多いようです。
 この感覚は、ブラジャーつけていない私も理解できます。
 腹巻きをギュッと締めると気分が引き締まるのと同じ感覚なのでしょうか。

 中には、女装のために付ける人もいるようです。
 女装したい人のお好みは、かわいい花柄でレースのものが良く売れています。

 男性がブラジャーをファッションやアクセサリーとして身につけること自体を楽しむこともあります。
 ストレス解消や、また厳しい仕事をしている人が仕事で男性性を強く求められすぎているために、バランスを補うために女性性を自分の衣服の一部に求めるケースなどもあるようです。
 またそれ以外に純粋にブラジャーが好きだからという人ももちろんいます。
 
 昨年、メンズブラ(男性用に独自に製作されたもの)が売り出されましたが、今も売り切れ、注文待ちの状態です。
 メンズブラがテレビで取り上げられ話題となっています。「笑っていいとも」や各局のワイドショーなどでも取り上げられました。
 メンズブラのショップをさがして見ました。ありました。 →メンズブラ

 メンズブラに抵抗がある人もいるかも知れませんが、ファッションの自由は大切な基本的人権ですから、お好みの下着を楽しんだらいいと思います。

2月9日 針供養

 「針供養」とは、一日中針仕事を休み、古くなった針を供養(仏や死者の霊にものをそなえ、冥福を祈ること)する行事です。
 
 使った針を忌んで裁縫を休み、その年の折れ針・古針を豆腐・こんにゃく・餅(もち)などに刺して、近くの社寺に納めて供養してもらったり、お祓いをしてもらいます。
 お祓いをうけた針は針塚に埋められたりします。

 針供養は、どこの社寺でもいいというわけではなく、中心的な神社は和歌山県の加太にある淡島(あわしま)神社です。
 東京では、浅草寺の淡島堂が有名です。

 紀伊和歌山の淡島神社からの各地へ普及したのは江戸時代後期から明治時代にかけてのことと思われます。
 技能の上達を祈って、裁縫学校の行事として行われたのがしだいに定着したのだともいわれています。

 針供養の日は、関東は2月8日が多く、関西は12月8日が多いといわれていますが、ともに8日は共通しています。
  
 さて、この8日というのは、意味があるのです。
 昔から8日という日は、事始めとか事納めといって、事にくぎりをつける日となっているのです。
 「事八日(ことようか)」とよばれている風習なのです。

 では、12月と2月のどちらを事始め、事納めとするかは定説はないようで、地方によって一定していません。
 出雲などでは、12月8日に掃除などして正月の用意にかかり、2月8日に年神の棚を去る風があり、これが事納めであるという説もあります。

 どちらかというと12月8日を事始めとする方が古い形であろうといわれています。
 なお、淡島神社は関西にありますが、針供養は2月8日に行われます。

 針供養の記事を書いていて思うことは、針を手にとって、裁縫をすること自体が減ったなあということです。
 わが家では、取れたボタンを付け直すぐらいしか使っていないと思います。
 針と糸でさえ常備していない家庭もあるほどです。

 それともう一つは、8日が事始め日であることについてです。
 学校の1学期・3学期の始まりが4月8日、1月8日です。5日でも10日でもいいのに、最初に制度を考えた人が事始めにあやかって決めたのだろうかと連想しました。

 太平洋戦争を始めた真珠湾攻撃が12月8日というのも、事始めにあやかったんだろうかとか、ついつい結びつけて考えてしまいました。

2月4日 高山右近がマニラで死去

 高山右近は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将で、代表的なキリシタン大名として知られています。
 1615年の今日、高山右近がマニラで息をひきとった日です。

 高山右近の名を高めているのは、戦国の武将でありながら、キリスト教徒の大名(キリシタン大名)として信仰をつらぬいたことでしょう。

 もともと高山氏は摂津国三島郡高山庄(現在の大阪府豊能郡豊能町高山)出身の土着の領主でした。
 右近は、父が、松永久秀にしたがって大和国(現在の奈良県)にいたころ嫡男として生まれました。
 
 あるとき父は奈良で琵琶法師だったイエズス会員ロレンソ了斎の話を聞いて感銘を受け、自らが洗礼を受けました。
 居城に戻って家族と家臣を洗礼に導いたため、右近は12歳で洗礼を受けたのでした。右近の洗礼名はポルトガル語で「正義の人」を意味するユストといわれています。

 しかし、戦国の時代ですから争乱がつづき、下剋上が繰り返されました。
 やがて、織田信長から「摂津国の切り取り勝手(全域の領有権確保)」の承諾を得た荒木村重に、高山親子はうまく立ち回って勢力を広げ、三好氏の高槻城を乗っ取り、自ら城主となりました。

 右近は、高槻城を乗っ取るたたかいの際、切り合って瀕死の重傷を負いました。
 しかし、奇跡ともいえる回復を遂げたため、右近はこの機を境にキリスト教へ傾倒するようになったといわれています。

 こうした戦国乱世を地でいくような殺戮をしつつも、高山親子はいっそうキリスト教に傾倒していきました。
 このころ、右近の父は教会の建築や布教に熱心でした。
 
 右近の主人・荒木村重が織田信長に反旗を翻したとき、村重に思いとどまるように説得しましたが失敗しました。
 右近が金や地位では動かないと思った信長は、宣教師とキリシタンを皆殺しにして、教会を壊滅させると脅迫してきました。

 高槻城内は、徹底抗戦を訴える父らと、開城を求める派で真っ二つとなっていました。
 苦悩していた右近は、城主をやめ、家族も捨てて、うすっぺらな衣一枚で城を出て、信長の前に出頭しました。

 この右近の行動は、結果的に荒木勢の敗北の大きな要因となり、この功績を認めた信長によって、右近は再び高槻城主としての地位を安堵されました。
 

 右近は人徳の人として知られ、多くの大名が彼の影響を受けてキリシタンとなったといわれています。
 たとえば蒲生氏郷、黒田孝高などです。

 ただ、黒田孝高は、秀吉がバテレン追放令を出すと、真っ先に棄教するなどキリシタン大名には苦しい状況がおこっていました。
 このころ秀吉は、26人のキリスト教宣教師・信者を捕まえて長崎で処刑しています。
 
 右近は信仰を守ることと引き換えに、領地と財産をすべて捨てるほうを選びました。
 この行動は世間を驚かせました。

 その後しばらくは、小西行長、加賀国金沢城主の前田利家、その嫡男の前田利長にも庇護を受けていました。
 政治・軍事など、各種の相談役になったと思われています。
 たとえば、機内の築城術を紹介していますが、富山城が炎上したときには、高岡城の縄張(設計)を担当したといわれています。
 
 1612年、江戸幕府によって禁教令が出されました。
 加賀で暮らしていた右近は、キリシタン追放を受けて、まわりの人々が引きとめたにもかかわらず、加賀を去りました。
 江戸幕府は、長崎から300人のキリスト教徒をマニラやマカオに追放しましたが、右近もそのうちの1人として、家族とともにマニラに送られる船に乗りました。
 
 マニラには12月に到着しました。
 イエズス会報告や宣教師の報告で有名となっていた右近は、マニラでスペイン人のフィリピン総督らから大歓迎を受けました。

 しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため、右近はすぐに病を得て、翌年の2月4日に息を引き取りました。
 64歳でした。
 信仰をつらぬいた姿は吉川英治によって小説化されています。
 
 ちなみに、大阪府高槻市内には古い神社仏閣の建物はほとんど残っておりません。
 高槻周辺は畿内にあるにもかかわらず、古い仏像の数も少ないといわれています。
 それは、高山親子が、領内の神社仏閣を破壊し、神官や僧侶に迫害を加えたためだといわれています。
 
 旧領内の多くの寺社の記録には、「高山右近の軍勢により破壊され、一時衰退した」などの記述があります。
 神道・仏教側にとっては、高山右近は父とともに、暴君以外の何者でもなかったということです。
 歴史には、裏・表の評価がつきものです。

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