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1月8日 マルコ・ポーロが世を去る

 日本ではおなじみのベネチアの商人マルコ・ポーロが、1324年の今日、世を去りました。

 「東方見聞録」によればマルコ・ポーロは、イラン・中央アジアを経て陸路で元に入り、1271年、皇帝フビライに謁見しました。
 フビライの時代ですから、マルコが中国にいたのは、日本の鎌倉時代のころのことです。

 その後、17年間、マルコは元に仕えました。 
 マルコは、モンゴルの言葉は話すことはできたようですが、中国語は話せなかったといわれています。
 それでも中国周辺の各地を巡り、行政官を務めたこともありました。

 さて、「13世紀はモンゴルの時代」といわれるように、当時、ユーラシア大陸の各地には、チンギス・ハンが征服した広い地域に、いくつかのモンゴル人の帝国ができていました。
 ある時、イランの地にあったイル・ハン国のアルグン・ハンのもとに、コカチンという王女が嫁ぐことになったのです。
 このときコカチンの旅行案内者にマルコが選ばれ、これをきっかけに中国を去り、イタリアに戻ることになりました。
 
 マルコとコカチンの一行は、ジャワ、マレー、インドなどを経由して、3年もかかって無事?にイランにつきましたが、出発時の600人の従者はわずか18人に減っていたということです。
 当時の航海はきびしく、命がけの旅であったのですね。
 しかも、アルグン・ハンはすでに没していたのです。
 マルコは、王女をその弟・ガイハトゥ・ハンに渡し、1295年、ベネチアに帰りました。

 マルコ・ポーロは陸路で、冬のベネチアに24年ぶりに戻りました。
 ところが、ベネチアとジェノバとの戦争に巻き込まれ、捕虜になってジェノバの牢獄に入れられました。
 
 牢に入れられていた時に、物語作者ルスチケロに出会いました。
 彼に話をした東方での見聞した話が筆記されて、これが現存するマルコ・ポーロ旅行記「世界の記述」(原題)のもとになったのです。
 日本では「東方見聞録」と訳されているのはご存じのとおりです。

 マルコが伝えたアジアの富についての記事はよく読まれました。
 この旅行記は、内容を書き加えられながら写本を重ね、後の大航海時代に大きな影響を与えたといわれています。
 
 さて、マルコ・ポーロについてさまざまな研究がなされていますが、イギリスのウッドは「マルコ・ポーロは本当に中国へ行ったのか」と疑問を投げかけています。
 「東方見聞録」に紹介されていない中国の風俗が多いことなどを理由に、マルコが元まで行ったことに否定的な見解を示しています。

 また、日本のあるモンゴル史学者は、当時の記録にマルコ・ポーロに相当する人物がみられないため、マルコ・ポーロの実在に疑問を投げかけています。
 
 続いて、「東方見聞録」の中には実際にフビライの近くにいなければ知りえないことが数多く書かれているので、「東方見聞録」は複数のベネチア商人の記録を「マルコ・ポーロ」という商人に託してまとめたものではないかとも考えています。

 とにかく、日本では、日本のことをジパングの名ではじめて紹介したことで有名な人物です。
 「東方見聞録」では、日本は「黄金の国ジパング」と紹介されていますが、マルコ・ポーロは実際に日本には訪れておらず、たぶん中尊寺金色堂についてのウワサを聞いたのでしょう。

 マルコはジパングを、黄金の国であることと、日本人は「人を食べる」というようにも紹介しているのですよ。
 どこから出たうわさでしょうか?

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