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1月30日  三十三間堂が落慶した。

 三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)は、京都市にある千手観音を本尊とする仏堂のことです。
 建物の正式名称は蓮華王院本堂といいます。
 俗称は、「頭痛山平癒寺」と呼ばれています。要するに、頭痛が治る(平癒する)寺ということですね。

 さて、頭痛山平癒寺の由来ですが、これは三十三間堂を創建した後白河上皇から話が始まります。
 後白河上皇は、平清盛の時代、強い権力を持っていましたが、ひどい頭痛持ちだったそうです。長年、頭痛に悩まされていたと言われています。

 上皇が熊野に参詣したときに、その旨を祈願しました。すると、熊野権現から「洛陽因幡堂の薬師如来に祈れ」とお告げがありました。

 そこで因幡堂に参詣すると、上皇の夢に僧が現れました。
 僧は、「上皇の前世は熊野の蓮花坊という僧侶で、仏道修行の功徳によって天皇に生まれ変わった。しかし、その蓮華坊の髑髏(どくろ)が岩田川の底に沈んでいて、その目穴から柳が生え、風が吹くと髑髏が動くので上皇の頭が痛むのである」と告げました。

 上皇が当時の岩田川を調べさせるとお告げの通りでした。
 上皇は、三十三間堂の千手観音の中に髑髏を納め、柳の木を梁に使ったところ、上皇の頭痛が治ったということです。
 
 三十三間堂の正式名称を「蓮華王院」というのも、前世の蓮華坊の名から取られたものであるということです。
 この伝承により「頭痛封じの寺」として崇敬を受けるようになり、「頭痛山平癒寺」と俗称されました。

 また、「三十三間堂」は東に向いて南北に長く建てられていますが、お堂内陣に柱間が33あるところから、「三十三間堂」とよばれるようになりました。
 また、33という数字は、観音にも縁のある数字で、観音菩薩は33の姿に変じて衆生を救うと説かれることにもよっています。

 堂の南北の長さは約120mにもおよび、江戸時代には各藩の弓術家によって、矢を射る「通し矢」の舞台となっていました。
 廊下の軒と床の間の空間を120mも矢を飛ばすわけですから、矢を床とほぼ平行に飛ばさなくてはならないのです。
 山なりの120mではないのです。
 高度の技能と強靱な心身が必要です。

 通し矢の方法には、射る矢数を決めて的中率を競うものと、一昼夜に何本矢が通るかを競うものがありました。
 後者の場合、一昼夜ですから、矢を射り始めた時刻から翌日の同時刻まで連続して、通し矢を続ける競技でした。
 
 江戸時代の初めから始まり、紀州藩・尾張藩は名誉をかけて争い、京都の町衆の人気も高まり、名物行事になりました。
 同堂の「矢数帳」によると、最高記録は紀州の和佐大八郎が、13053本のうち8133本、通し矢に成功したというものです。
 18歳の若者ということですが、強靱な心身をもっていたことでしょう。

 その伝統にちなんで、現在は「楊枝のお加持」大法要と同日(1月中旬)に、本堂西側の射程60mの特設射場で矢を射る「三十三間堂大的全国大会」が行われています。

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