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1月30日  三十三間堂が落慶した。

 三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)は、京都市にある千手観音を本尊とする仏堂のことです。
 建物の正式名称は蓮華王院本堂といいます。
 俗称は、「頭痛山平癒寺」と呼ばれています。要するに、頭痛が治る(平癒する)寺ということですね。

 さて、頭痛山平癒寺の由来ですが、これは三十三間堂を創建した後白河上皇から話が始まります。
 後白河上皇は、平清盛の時代、強い権力を持っていましたが、ひどい頭痛持ちだったそうです。長年、頭痛に悩まされていたと言われています。

 上皇が熊野に参詣したときに、その旨を祈願しました。すると、熊野権現から「洛陽因幡堂の薬師如来に祈れ」とお告げがありました。

 そこで因幡堂に参詣すると、上皇の夢に僧が現れました。
 僧は、「上皇の前世は熊野の蓮花坊という僧侶で、仏道修行の功徳によって天皇に生まれ変わった。しかし、その蓮華坊の髑髏(どくろ)が岩田川の底に沈んでいて、その目穴から柳が生え、風が吹くと髑髏が動くので上皇の頭が痛むのである」と告げました。

 上皇が当時の岩田川を調べさせるとお告げの通りでした。
 上皇は、三十三間堂の千手観音の中に髑髏を納め、柳の木を梁に使ったところ、上皇の頭痛が治ったということです。
 
 三十三間堂の正式名称を「蓮華王院」というのも、前世の蓮華坊の名から取られたものであるということです。
 この伝承により「頭痛封じの寺」として崇敬を受けるようになり、「頭痛山平癒寺」と俗称されました。

 また、「三十三間堂」は東に向いて南北に長く建てられていますが、お堂内陣に柱間が33あるところから、「三十三間堂」とよばれるようになりました。
 また、33という数字は、観音にも縁のある数字で、観音菩薩は33の姿に変じて衆生を救うと説かれることにもよっています。

 堂の南北の長さは約120mにもおよび、江戸時代には各藩の弓術家によって、矢を射る「通し矢」の舞台となっていました。
 廊下の軒と床の間の空間を120mも矢を飛ばすわけですから、矢を床とほぼ平行に飛ばさなくてはならないのです。
 山なりの120mではないのです。
 高度の技能と強靱な心身が必要です。

 通し矢の方法には、射る矢数を決めて的中率を競うものと、一昼夜に何本矢が通るかを競うものがありました。
 後者の場合、一昼夜ですから、矢を射り始めた時刻から翌日の同時刻まで連続して、通し矢を続ける競技でした。
 
 江戸時代の初めから始まり、紀州藩・尾張藩は名誉をかけて争い、京都の町衆の人気も高まり、名物行事になりました。
 同堂の「矢数帳」によると、最高記録は紀州の和佐大八郎が、13053本のうち8133本、通し矢に成功したというものです。
 18歳の若者ということですが、強靱な心身をもっていたことでしょう。

 その伝統にちなんで、現在は「楊枝のお加持」大法要と同日(1月中旬)に、本堂西側の射程60mの特設射場で矢を射る「三十三間堂大的全国大会」が行われています。

1月28日 ドストエフスキーが亡くなった日

 1881年の今日は、ロシアの作家・ドストエフスキーが60歳で死去した日です。
 ドストエフスキーの代表作は、「罪と罰」、「白痴」、「悪霊」、「カラマーゾフの兄弟」などが知られており、トルストイと並んで19世紀後半のロシア文学を代表する文豪です。

 ドストエフスキーは、モスクワの貧民救済病院の医師の次男として生まれました。
 作家時代を過ごしたのはペテルブルクで、物語の舞台として数々の作品に登場しています。

 処女作は「貧しき人々」で、批評家ベリンスキーに激賞されるなど、はなばなしくデビューを果たしました。
 デビュー前にドストエフスキーから直接作品を渡されて読んだ著名な詩人が、感動のあまり夜中にドストエフスキー宅を訪れたという逸話が残っています。

 はなばなしくデビューしたものの、その後の評価は厳しく、発表した作品は酷評をもって迎えられました。

 その後、空想的社会主義サークルのサークル員となりました。
 このため、官憲に逮捕され、死刑判決を受けましたが、銃殺刑執行直前に皇帝からの特赦が与えられて減刑され、シベリア流刑になりました。
 シベリア流刑というのも辛い刑です。
 シベリアのオムスクで1854年まで服役しました。

 この時の体験にもとづいた、「白痴」などで死刑直前の囚人の気持ちが語られるなど、この事件は以後の作風に大きな影響を与えました。
 
 この間に理想主義者的な社会主義者からキリスト教的人道主義者へと思想的変化がありました。
 その後「罪と罰」を発表し、ドストエフスキーの評価が一気に高まりました。

 さて、ドストエフスキーは賭博が好きなことで有名です。
 賭博好きな性質のため、ドストエフスキーの生涯は貧乏生活に苦しみ続けた生涯でした。
 借金返済のため、出版社との無理な契約をして、締め切りに追われる日々を送っていたということです。

 あまりのスケジュール過密さのため、「罪と罰」、「賭博者」などは口述筆記という形をとったほどです。
 無理をかさねながら、ドストエフスキーの最大の代表作・長編「カラマーゾフの兄弟」を書き上げましたが、その数ヵ月後の1881年1月28日、家族に看取られながら60歳で亡くなりました。

 ところで、ドストエフスキーを高く評価している著名人は多いです。
 アインシュタイン、フロイト、マーラー、日本では黒澤明、江戸川乱歩、手塚治虫がよく知られています。
 
 黒澤明はドストエフスキーを激賞しており、「是非、映画化したい」といっていました。
 実は、戦後まもない1951年に、ドストエフスキーの「白痴」を、設定を日本の札幌に置き換えて松竹で映画化していることを知りました。
 出演は、原節子、森雅之、三船敏郎、志村喬、東山千栄子といった懐かしい豪華メンバーでした。
 一度、見てみたいと思っています。
 

1月21日 勝海舟の命日

 今日は、幕末の政治家・勝海舟の命日です。
 勝海舟は貧しい旗本の長男として江戸に生まれ、若いころ島田虎之助について剣術をおさめました。
 また島田のすすめで蘭学を学び、私塾を開いて、蘭学や西洋兵学を教えてました。

 ペリーの来航後、長崎の海軍伝習所で海軍についての技術を研究しました。
 やがて咸臨丸の艦長として、日本人としてはじめて太平洋を横断するという快挙をはたしたことでよく知られています。

 幕府からは軍艦奉行並に取り立てられて、やがて神戸に海軍操練所をつくる許可をえました。
 その間、坂本竜馬の入門を得るなど、見識が重く用いられていきました。

 勝海舟の名を高めたのは、NHKの大河ドラマでもとりあげられた「江戸城無血開城」を実現させたことでしょう。
 無血開城で150万人の江戸市民の命と財産を守ったことは高く評価されています。

 明治になってからの勝海舟はあまり知られていません。
 旧幕臣の代表格として新政府の役職を歴任して、枢密顧問官もつとめ、伯爵を叙されています。
 新政府の役職には興味がなかったようで、椅子に座って黙っているだけの日々を送っていたということです。
 本人自身、「部下に仕事を丸投げして、判子を押すだけのような仕事しかしてないよ」と語っているからほんとうなんでしょう。
  
 幕末の混乱期には何度も意見が対立していた徳川慶喜の地位が安泰であるように、人生を捧げて力をつくしました。
 特筆すべきは、失業して食えなくなった旧幕臣が仕事につけるように、世話しつづけたことです。
 資金援助や生活保護などの援助も行いました。

 横浜は、今でこそ大都会ですが、幕末には貧しい寒村でした。
 この横浜に旧幕臣を約10万人も送り込んで仕事を与え、横浜港の発展につくしました。
 静岡は、現在、茶の生産高日本一ですが、このとき勝が静岡に約8万人もの旧幕臣を送り込んだことが大きく発展した原因の一つといわれています。
 
 仕事を与え、失業をなくそうとしたしたこうした努力が、職業の転換をスムーズに実現し、生活を安定させました。
 徳川幕府の旧家臣がこれといった反乱をおこさなかったのは、こうした勝の功績であるといわれています。
 「仕事を与える」、これはすごく大事なことですね。生活の根本です。
 まさに、現代の課題でもありますね。

 一方、勝は日本海軍の生みの親ともいうべき人物でした。
 しかし、その海軍がおこなった日本初の帝国主義戦争でもある日清戦争には始終反対し続けました。
 
 勝は、戦勝気運に盛りあがる人々に、安直な欧米の植民地政策に追従する愚かさを説いています。
 さらに、中国という国を卑しく見下げたり、争ったりする相手ではなく、むしろ共闘して欧米に対抗すべき国として見なければならないと主張しました。
 しかし、勝の意見は大きな流れにはなりませんでした。

 勝は、晩年のほとんどを赤坂の地で過ごし、口述筆記で著作をまとめる生活を送りました。
 1899(明治32)年の1月19日、脳溢血により意識不明となり、21日に死去しました。

 最期に遺した言葉は「コレデオシマイ」でした。

1月19日 曹洞宗の開祖、道元の誕生日

 今日は、鎌倉時代の中期、曹洞宗を開いた僧・道元が生まれた日です。

 道元は、3歳のときに父・源通親(みちちか)と、また8歳のときに母と死別するという不幸にみまわれました。
 このため、周囲の反対を押し切って、13歳になると出家して比叡山の延暦寺に入りました。

 しかし、そのころの比叡山は、貴族仏教の寺でした。
 そのような天台宗にあきたらず、京都の建仁寺を訪れて、栄西が中国から持ち帰ってきた禅宗を学びました。
 さらに、1223年、24歳の道元は、日本の仏教にあきたらず、中国(宋)に渡りました。

 そのころの中国には、道元がさがし求めていた高僧は見つかりませんでした。
 あきらめてもう帰ろうかと思い始めたころ、如浄禅師に会い、禅師のもとで禅を学びました。
 禅のために死んでも本望というぐらい禅に打ち込んで修行したと伝えられています。
 
 多くの留学僧が、山のような仏典をみやげに帰国するのに対して、道元は「ただひたすらに坐る」という座禅の教えだけを身につけて日本に戻りました。
 仏典は何一つ持って帰っていないのです。

 帰国した道元は、建仁寺で新しい禅(曹洞禅)を広めようとしました。
 しかし、延暦寺からの迫害が強く、建仁寺をあきらめて深草に興聖寺を建てて、そこに移り住むことにしました。

 両足を組んで座り、精神を統一して悟りを開こうとする修行、つまり「座禅」のほかの修行を認めない、という厳しい姿勢がそれまでの各宗派の教団に嫌われたのでした。

 一方、道元の厳しい禅の修行をしたう者もでてきました。しだいに弟子の数も増えていきました。
 こうなると、またまた迫害が強くなったきましたので、移り住むことを考え始めました。

 道元は、越前(今の福井県)に移って新しく大仏寺を建てました。
 その寺院が有名なのちの永平寺です。

 永平寺に移った道元の考えと修行は、さらに厳しいものになっていきました。
 彼は、権力のある人に近づいたり、名声を求めようとはしませんでした。多くの弟子を育て、正しいと信じる仏教をさかんにするため一生をささげたということができます。

 多くの宗教が、仏教だけでなくキリスト教などはさらに、権力者と結びついて堕落していったことを思うと、道元の思想と行動は見事なものでした。
 道元の思想は、彼の著書である「正法眼蔵(しょうほうげんぞう)」に示されています。
 
 「正法眼蔵」の特色を一言で言うと、「悟りを得るために座禅をするのではなく、座禅そのものが悟りである」と説いたことでしょう。
 行動の規範としては、毎日の生活を厳しい規則にもとづいておこない、ひたすら座禅を行うべきとしました。

 また、この著作は、哲学的にもすぐれた書物として現代にも通じており、高い評価が与えられています。

 1253年、病気のため、京都で無くなりました。54歳でした。

1月14日 作家・佐藤雅美が生まれた

 今日は作家の佐藤雅美(まさよし)の誕生日です。
 佐藤雅美は、1941年の生誕なので今日で68歳になりました。
 このブログでは生存者を取り上げることはめったにありませんが、私が、最近、もっともよく読んでいる時代小説家なので紹介したいと思います。

 古くから佐藤雅美を知っていたわけではありません。
 松本清張、山本周五郎、司馬遼太郎の時代小説をいくつか読んで、時代小説に嵌っていたとき、ふと、書店で目にとまったのが「恵比寿屋喜兵衛手控え」でした。
 つい2~3年前のことです。

 作者を見て、佐藤雅美? 聞いたこと無いな。
 パラパラめくって、おもしろそうだと思ってとにかく買ってみました。
 読み始めたら、止まりませんでした。
 風呂にも持ち込み、深夜までかかって一気に読んでしまいました。

 この「恵比寿屋喜兵衛手控え」は、1994年に第110回直木賞を受賞した作品でした。10年も過ぎてからそのことを知りました。
 それからというもの、書店ではいつも「佐藤雅美」の名前をさがしていました。
 そういえば、平行して読みあさっていたのが宇江佐真理の時代小説でした。この作家の作品もすばらしいですよ。
 
 さて、佐藤雅美は、兵庫県の生まれで、早稲田大学法学部を卒業しました。週刊誌記者、フリーライターを経て、小説家となっています。
 
 「緻密な時代考証による社会制度や風俗の正確な描写には定評がある。」とウキペディアで評されています。
 「とくに江戸時代の町奉行や岡っ引きなどの司法・警察制度のほか医学、医療、学問に詳しく、これらの題材を種々おりまぜた多彩な作品を発表している。」とも書かれています。

 そのとおりだと思います。
 「恵比寿屋喜兵衛手控え」の後、テレビでは北大路欣也が主演して有名な「八州廻り桑山十兵衛」のシリーズや、「物書同心居眠り紋蔵」のシリーズ、「半次捕物控」のシリーズを一直線に読み切りました。
 
 権力者の側に立っている人物が主人公ですが、権力や法だけで押し切らない、人間らしさを織り交ぜながら、読む者を引きつける雰囲気を感じました。

 初期は歴史経済小説を得意とし、「大君の通貨」では第4回新田次郎文学賞を受賞しています。
  
 先に挙げたもののほかに、おもしろかった作品は次の通りです。
 「縮尻(しくじり)鏡三郎」
 「啓順凶状旅」「 啓順地獄旅」
 「手跡指南 神山慎吾」
 「無法者(アウトロー)」
 「開国―愚直の宰相・堀田正睦」
 「立身出世―官僚川路聖謨の生涯」
 「百助嘘八百物語」
 「江戸繁昌記」
 「田沼意次―主殿の税」。

 時代小説なんか・・・と思っている方も、一度、読んでみたらいかがでしょうか。

 ちなみに、「佐藤雅美の名前が表紙に載るような本を1冊書いてみたい」というのが小説を書き始めたきっかけだったそうです。

1月12日 成人の日(2009年)

 2009年の今日は、「成人の日」です。
 世界的に見ても、このような祝日は珍しいといわれています。

 「成人の日」には、多くの市町村で新成人を招いて成人式を行います。
 豪雪などや離島など、都会に出た若者が帰省しにくい地方の市町村では、より帰省しやすい時期(ゴールデンウィークや盆)に行われることもあります。

 10年前(1999年)までは「成人の日」といえば毎年1月15日と決まっていました。
 成人の日を1月15日としたのは、この日が小正月だからです。
 かつて大人になる儀式でもあった「元服の儀」が小正月に行われていたことによるといわれています。

 さらに小正月とは、正月(1月)の満月の日のことで、旧暦1月15日に当たります。現在は新暦1月15日に行われる場合もあります。
 ちなみに、元日は大正月とよぶのかというとその通り、大正月とよばれていました。

 さて、本来、成人の日は、前年の成人の日の翌日からその年の成人の日までに誕生日を迎える人を祝う日となっています。
 
 しかし、最近では前年の4月2日からその年の4月1日に成人する人を式典参加の対象にする方式が定着してきています。
 いわゆる学齢方式ですね。
 この方がわかりやすいし、同級生がみんないっしょに式に参加できるので自然な形だとおもいます。

 2000年から、ハッピーマンデー制度の導入にともなって、1月の第2月曜日に変更されました。
 一部を除いて、日月の2連休、土日月の3連休になりますので、故郷の成人式には参加しやすくなりました。
 より参加しやすくするため、成人の日の前日の日曜日に成人式を開催する市町村も多いようです。

 また、かつて成人式場や街頭でバカ騒ぎをする、恥知らずの新成人がいました。
 最近は大きく取り上げられて、ニュースになるほどの事件は減りましたが、大きなニュースにならない程度のひんしゅくを買うできごとはあるようです。
 晴れ着を着たガラの悪い新成人には、ガクッときます。
 
 一方、派遣切りをされて、家も仕事もなくし、生活の展望が見通せないまま、不安の中で成人式を迎える新成人もいるのではないでしょうか。
 辛い「成人の日」だったでしょう。
 
 祝日法によると、「成人の日」の趣旨は、「おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」となっています。
 「みずから生き抜こうとする」新成人を励ますのは「私たち」のしごとです。
 派遣切りをした大企業も政府も、「私たち」に含まれているということを自覚してほしいものです。 

1月8日 マルコ・ポーロが世を去る

 日本ではおなじみのベネチアの商人マルコ・ポーロが、1324年の今日、世を去りました。

 「東方見聞録」によればマルコ・ポーロは、イラン・中央アジアを経て陸路で元に入り、1271年、皇帝フビライに謁見しました。
 フビライの時代ですから、マルコが中国にいたのは、日本の鎌倉時代のころのことです。

 その後、17年間、マルコは元に仕えました。 
 マルコは、モンゴルの言葉は話すことはできたようですが、中国語は話せなかったといわれています。
 それでも中国周辺の各地を巡り、行政官を務めたこともありました。

 さて、「13世紀はモンゴルの時代」といわれるように、当時、ユーラシア大陸の各地には、チンギス・ハンが征服した広い地域に、いくつかのモンゴル人の帝国ができていました。
 ある時、イランの地にあったイル・ハン国のアルグン・ハンのもとに、コカチンという王女が嫁ぐことになったのです。
 このときコカチンの旅行案内者にマルコが選ばれ、これをきっかけに中国を去り、イタリアに戻ることになりました。
 
 マルコとコカチンの一行は、ジャワ、マレー、インドなどを経由して、3年もかかって無事?にイランにつきましたが、出発時の600人の従者はわずか18人に減っていたということです。
 当時の航海はきびしく、命がけの旅であったのですね。
 しかも、アルグン・ハンはすでに没していたのです。
 マルコは、王女をその弟・ガイハトゥ・ハンに渡し、1295年、ベネチアに帰りました。

 マルコ・ポーロは陸路で、冬のベネチアに24年ぶりに戻りました。
 ところが、ベネチアとジェノバとの戦争に巻き込まれ、捕虜になってジェノバの牢獄に入れられました。
 
 牢に入れられていた時に、物語作者ルスチケロに出会いました。
 彼に話をした東方での見聞した話が筆記されて、これが現存するマルコ・ポーロ旅行記「世界の記述」(原題)のもとになったのです。
 日本では「東方見聞録」と訳されているのはご存じのとおりです。

 マルコが伝えたアジアの富についての記事はよく読まれました。
 この旅行記は、内容を書き加えられながら写本を重ね、後の大航海時代に大きな影響を与えたといわれています。
 
 さて、マルコ・ポーロについてさまざまな研究がなされていますが、イギリスのウッドは「マルコ・ポーロは本当に中国へ行ったのか」と疑問を投げかけています。
 「東方見聞録」に紹介されていない中国の風俗が多いことなどを理由に、マルコが元まで行ったことに否定的な見解を示しています。

 また、日本のあるモンゴル史学者は、当時の記録にマルコ・ポーロに相当する人物がみられないため、マルコ・ポーロの実在に疑問を投げかけています。
 
 続いて、「東方見聞録」の中には実際にフビライの近くにいなければ知りえないことが数多く書かれているので、「東方見聞録」は複数のベネチア商人の記録を「マルコ・ポーロ」という商人に託してまとめたものではないかとも考えています。

 とにかく、日本では、日本のことをジパングの名ではじめて紹介したことで有名な人物です。
 「東方見聞録」では、日本は「黄金の国ジパング」と紹介されていますが、マルコ・ポーロは実際に日本には訪れておらず、たぶん中尊寺金色堂についてのウワサを聞いたのでしょう。

 マルコはジパングを、黄金の国であることと、日本人は「人を食べる」というようにも紹介しているのですよ。
 どこから出たうわさでしょうか?

1月7日 七草粥

 今日は、「七草粥」の日です。
 日本では、古来から、春の七種をきざんで入れた七種粥を、万病を除くおまじないとして食べる習慣がありました。
 厄払いと健康を祈りつつ、今年も元気で過ごせますようにと祈ってたべましょう。

 七草は、前日の夜、まな板に乗せ、囃し歌を歌いながら包丁で叩き、当日の朝に粥に入れたといわれています。
 呪術的な意味ばかりでなく、おせち料理で疲れた胃を休め、野菜が乏しい冬場に不足しがちな栄養素を補うという効能があります。

 ところで「春の七草」を全部思い出せますか?
 「セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、仏ノ座、スズナ、スズシロ」です。
 
 効能としては、「セリ」は消化を助け、黄疸をなくし、「ナズナ」は視力、五臓に効果があり 「ゴギョウ」は吐き気、痰、解熱に効果があり、「ハコベラ」は歯ぐき、排尿に良く、「仏ノ座」は歯痛に効き、「スズナ」は消化促進、しもやけ、そばかすに効き、「スズシロ」は胃を健康にして、咳き止め、神経痛によいといわれています。

 また、七草の日は初めて爪を切る日と言われ、セリなどを浸した水に指を入れてから爪を切れば、一年の間、爪の病からのがれると言われています。 

 秋の七草が、見て楽しむ植物なのに対して、春の七草はすべてが食用とされているというのはおもしろいですね。
 
 粥は病人食のように思われていますが、「京の白粥、大和の茶粥」「朝粥昼飛び夕雑炊」のことわざがありますように、関西では日常的に食べていたように思います。
 
 できたての熱い粥に、梅干しとか塩昆布、紫蘇、鰹でんぶを置いて食べるときの米の味と香りは何ともいえません。
 粥は簡単で、じつに美味しい料理です。
 (冷蔵庫の残り物のご飯の始末にもなります。味は落ちますが・・・)
 

1月5日 プロスキーヤー三浦敬三、101歳で死去

 スキー一家で有名なプロスキーヤーの三浦敬三が、2006年の今日、多臓器不全のため101歳で生涯を閉じました。

 三浦敬三は、青森市の生まれで、八甲田山での山スキーに魅せられて、青森営林局に51歳まで勤務しました。

 退職後、東京都練馬区に住まいを移し、このころから海外の山々で多くのスキー滑降を行いました。
 また、山岳カメラマンとしても、数々の実績を残しています。
 イタリア山岳写真ビエンナーレ展において、ピトリオ・セラ賞とバダカップ賞を受賞しています。
 また、イタリアのソレントにある山岳博物館には、作品が展示されています。

 敬三は、還暦を過ぎてから海外での滑降を始めました。70歳の時にヒマラヤ、77歳でキリマンジャロを滑降しました。
 88歳の時には、アルプス・オートルートの完全縦走を果たし、99歳でモンブラン山系のヴァレブランシュ氷河からのスキー滑降を成し遂げました。
 すごいですね。

 100歳の時には、アメリカのスノーバードで、親・子・孫・曾孫の4世代での滑降を行って、話題になりました。

 なぜ100歳で、こんなに元気なのか。
 誰もが知りたいところです。
 2004年1月の週刊誌「サンデー毎日」のサンデー時評で、息子のプロスキーヤー三浦雄一郎が登場していました。
 あと3ヶ月で100歳になる父・三浦敬三の元気の秘密に話題が及んだところで、雄一郎が父の健康法をあきらかにしました。(これに先立ち「徹子の部屋」で雄一郎が明らかにしていました)

 敬三の健康法は2つあります。要約すると次のようになります。
 ①「朝起きたら、片方の鼻を塞いで息をし、ついでもう片方を塞いで同じように息をする。この鼻呼吸を15分間続ける。」
 ②「最低150回、舌をペロリと出す。」

 効果は、「これを続けると、血流がよくなって、シワやシミが全部とれてしまう。親父の肌は今でもツルツルです。徹子さんもシワが無くなったらしい。前は厚化粧だったけど。糖尿病が治った人もいますから。」と、雄一郎が述べています。
 (そういえば、厚化粧は無くなったような・・・・)

 特に②の「舌出し」は、一度にやると疲れてしまうので、「30回ずつ1日5回すればいい」ということです。

 ②で思い当たることは、ある健康雑誌にも取り上げられていました。
 それは、「ア・イ・ウ」と大きく口びるを動かして、最後にべーと舌を出すのです。口のまわりの筋肉が刺激されて気持ちいいですよ。「アイウベー」です。
 アトピーなどに効果があると書いてあったように思います。

 私はときどき、思い出したようにお風呂場で「アイウベー」っとやっていますが、やらない日の方が多いので効果は??です・

 三浦敬三のように、老いても元気に動ける体でいたいものですね。

1月2日 キューバ革命

 1959年の今日は、キューバ革命軍がアメリカ合衆国のかいらい政権であったバティスタ政権を打倒した日です。

 テレビの「世界不思議発見」でキューバが取り上げられていて、興味があったのでとりあげてみました。

 さて、ご存じのとおり、コロンブスがアメリカへやってきたのが1492年。 
 以後、スペイン人がラテンアメリカにやってきて、先住民族はつぎつぎと征服されていきました。 
 キューバもスペイン人に「発見」されたことによりスペイン人の征服が始まりました。

 そのころのキューバには、タイノ族、シボネイ族、カリブ族とよばれる先住民がいました。原始的ながら平和に暮らしていたおだやかな性格の先住民でした。
 
 彼らは抵抗を続けましたが、スペインの遠征隊によって征服され、虐殺、虐待や強制労働、疫病によってそのほとんどが絶滅したとされています。

 スペイン人は、キューバを植民地化する中で、砂糖産業、奴隷産業をさかんにしました。 キューバは、奴隷を使ったさとうきび栽培によって、世界最大の砂糖生産地となっていました。 

 やがて、独立をめざす闘争が始められました。 
 第1次キューバ独立戦争では、スペイン当局にキューバの自治を認めさせました。

 1895年からはじまった第2次キューバ独立戦争では、独立軍はスペイン軍との死闘を続けました。
 島の半分以上を解放し、勝利する寸前まできました。 
 
 ところが、ある日、アメリカ合衆国の戦艦がハバナ港で謎の爆沈を遂げると、激怒したアメリカ国民の支持を背景にアメリカが独立戦争に介入してきました。 

 独立戦争は、いわゆる米西戦争(アメリカ・スペイン戦争)に様変わりし、アメリカ軍はまたたく間にキューバ全島を手中におさめ、アメリカ合衆国の圧倒的な勝利となりました。
 この戦争の結果、アメリカはスペインから、フィリピン・グアム・プエルトリコ・キューバを手に入れました。

 キューバはスペインの植民地からアメリカの植民地に変わりました。
 ついで1902年、キューバ共和国として独立しました。
 400年におよぶスペイン支配から解放され、独立を勝ち取ったかに見えましたが、それはスペインに代わるキューバの新たな主人になったアメリカ合衆国による支配の始まりでした。 

 キューバは憲法でアメリカの内政干渉権を認めさせられ、グァンタナモ、バイア・オンダの2箇所にアメリカの軍事基地を置くことなどが盛り込まれ、実質的にはアメリカの保護国となってしまいました。

 一応の独立後、キューバに進出したアメリカ企業によって精糖産業など多くの産業が支配されました。
 また、政治家の不正が度重なって生じたことで、国民の不満はより深まっていきました。  その後も、キューバではクーデターの発生や相次ぐ政変により、政治的な不安定期が続きました。 

 この不安定な政治状況は、バティスタが政治の実権を握ったことで一定の安定を見せてはいました。 
 バティスタは、1944年の総選挙で敗北したにもかかわらず、8年後クーデターで政権を奪取し、憲法を停止した上で独裁政治を開始しました。 

 2度目のバティスタ政権は1度目とは違い、腐敗、弾圧、独裁の政治が続きました。 
 アメリカに支持されたバティスタ政権と、アメリカ政府、アメリカ企業、アメリカマフィアの4者がキューバの富を独占し、その富がアメリカ本土に吸い取られるような社会構造がつくられていきました。

 1953年7月26日、このようなアメリカによる半植民地状態を終わらせるためには、苦しみの根源であるバティスタ政権を倒さなくれはならない、と青年たちが立ち上がりました。   

 青年たちは、弁護士フィデル・カストロに率いられ、モンカダ兵営を襲撃しましたが、このときは失敗に終わりました。 
 
 カストロらの同志は、メキシコ亡命中に、アルゼンチン人医師のチェ・ゲバラ と出会い、彼からゲリラ戦の訓練を受けました。
 そして、1956年12月、ヨット「グランマ号」にのってキューバに再上陸しました。 
 2年あまりのゲリラ闘争の末、1959年1月1日にバティスタを国外逃亡に追い込みました。

 翌1月2日、革命軍はハバナに入城し、キューバに革命政権が誕生しました。 
 その後、カストロを先頭に農地改革を実施し、砂糖よりも食料になる作物の生産に力を入れました。 
 また、土地と産業を国有化し、農業の集団化を実施するなど社会主義国家の建設を推進しました。 
 この過程で、医者をはじめとする中・上流階級の多数の人々がアメリカなどへ亡命していきました。

 バティスタかいらい政権を失ったアメリカは、革命政権を敵視するにいたりました。
 おりからの冷戦による米ソ対立の影響を受け、アメリカに敵視された革命政権はソ連に接近し、1960年に、ソ連と正式な外交関係を結びました。 

 アメリカ政府との対立が決定的になると、キューバ政府は国内からアメリカ企業の排除し、アメリカ資本の石油精製会社、製糖会社、電話会社、銀行・商業・工業の大企業を国有化していきました。
 
 1961年、アメリカ政府はキューバとの外交関係を断絶し、少量ながら続けていたキューバ産砂糖の輸入も全面禁止しました。 
 アメリカは、自国で訓練した亡命キューバ人による反革命軍を、キューバ南部のヒロン湾に侵攻させました。
 しかし、反革命軍は撃退されて目標を果たせませんでした。

 アメリカは、革命以来、キューバ敵視政策をとり続けていますが、国際社会では、アメリカによる理不尽な経済封鎖政策に反対する声が圧倒的になっています。

 毎年の国連総会では、17年連続で、対キューバ通商禁止解除を求める決議を圧倒的な差で可決しています。

 賛成が179に対して、反対は3程度です。反対国は年によって変わりますが、当のアメリカ合衆国とイスラエル、マーシャル諸島、パラオなどです。

 オバマ次期大統領はどうするでしょうか。

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