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12月3日 高野長英が自殺

 1850年の今日(旧暦の10月30日)は、高野長英が自殺して世を去った日です。
 高野長英は、江戸時代後期の医者・蘭学者で、信念を貫き通した人物です。
 
 長英は、江戸時代の末、1804年、陸奥国水沢(現在の岩手県水沢市)で生まれました。9歳のとき父が亡くなったため、叔父の養子として育てられました。
 
 16歳ごろ江戸に出て、苦しい生活を送りながら、医学とオランダ語を学んだのち、長崎におもむいてシーボルトの鳴滝塾に入りました。
 たいへん熱心に勉強したと伝えられています。
 そのため、オランダ語がめきめき上達し、ドクトルの称号をうけて、その抜きん出た学力から塾頭となり、シーボルトの助手をつとめるほどになりました。
 
 ところが、1828年、シーボルト事件(以前、このブログでもとりあげました)がおこりました。
 この事件は、シーボルトが帰国するときに、海外へ持ち出すことが禁じられていた日本地図などを船に積み込んだのが発覚したため、シーボルトは国外追放、日本人の関係者は捕らえられて処罰された事件です。
 
 このとき長英はたくみに難を逃れ、ほとぼりがさめるのを待って、1830年、江戸にもどって医者を開業しました。
 このころ、長英は故郷からさかんに帰郷を求められましたが、大いに迷ったもののついに断り、家督も捨てました。同時に武士の身分を失いました。
 
 医者をするかたわら渡辺崋山(三河田原藩家老)とともに尚歯会というグループを作り、外国の事情の研究や政治問題を論じ合いました。

 1837年、アメリカのモリソン号が日本人の漂流者を送り届けに浦賀にやってきました。このとき幕府は、通商を求めたモリソン号を鎖国を理由に武力で追い払いました。
 この事件を知った長英は「夢物語」を書いて、幕府の鎖国政策を厳しく批判しました。
 
 この著作「夢物語」が幕府に知られるところとなり、幕政批判の罪で捕らえられ、終身刑で伝馬町牢屋敷に投獄されてしまいました。
 長英は、牢内では服役者の医療に努め、また劣悪な牢内の環境の改善なども訴えて闘いました。
 これらの行動と親分肌の気性から、牢名主としてまつり上げられるようになったといわれています。
 
 獄中に捕らえられてから6年目の1844年の3月のことでした。伝馬町牢屋敷に火事が発生しました。
 牢屋敷から囚人が解き放たれました。
 指定された集合場所にもどれば罪が減じられますが。もどらなければ脱獄囚となります。
 
 長英は躊躇無く脱獄の道を選びました。
 (なお、火事は長英がおこさせたといわれています。)
 
 ほうぼうに隠れながら翻訳の仕事を続けました。
 伊予(今の愛媛県)の宇和島、大阪や名古屋などを転々としたあと、江戸にもどるにあたって薬品で顔を焼いて人相を変えました。

 江戸では、沢三伯と名乗って、翻訳の仕事をして生活費を得ていました。
 あるとき、翻訳があまりに見事だったために怪しまれ、奉行所の捕り手に家を囲まれ、逃げ切れないと悟って喉を突いて自殺したといわれています。
 顔は焼いて変えられても、声は変えられないため、見破られたという説もあります。

 高野長英が登場する小説には、山田風太郎著「伝馬町から今晩は」、吉村昭著「長英逃亡」があります。
 私は、西口克己著「高野長英」を読んで感激した覚えがあります。

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