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12月30日 フィリピン独立の英雄 ホセ・リサール銃殺される

 1896年の今日は、フィリピン独立の英雄、ホセ・リサールがフィリピン軍によって銃殺された日です。
 ホセ・リサールは、スペイン軍の手で銃殺されましたが、その意志は人々に受け継がれ、フィリピン独立の英雄として今も愛されつづけています。

 リサールは、日本の幕末にあたる1861年、ラグナ州のカランバで生まれました。
 当時のフィリピンは、マゼラン以来ずっと続いていたスペインの植民地でした。
 リサールは初等教育を終えると、マニラのアテネオ大学で土地測量の技術を学びながら、同時にサント・トマス大学で哲学を学びましだ。

 その後、母が失明の危機に陥ったのをきっかけに、医学を学び始めましたが、まわりのフィリピン人蔑視の雰囲気に耐えられず大学を去りました。

 リサールは続いてスペインのマドリ-ドに留学し、そこで医師免許を取得しました。
 また、スペイン語・英語・フランス語はもちろん12~13カ国の言語を自在に操った語学の天才だったといわれています。
 日本にも、短期間、滞在したこともあって日本語も理解できたといわれています。

 リサールの愛国的小説「ノリ・メ・タンヘレ(我に触れるな)」や「エル・フィリブステリスモ(反逆)」は、スペイン圧政下に苦しむフィリピンの現状が克明に描き出されています。
 平和的手段によって圧制者とたたかう多くのフィリピン人を勇気づけました。

 リサールは、革命家というより、フィリピン人たちの生活改善を願うという側面が強い改革者でした。
 リサールのゆるやかな改革案は、フィリピンがスペインの一地域であることを認めた上で、スペイン議会へフィリピン代表を派遣できる権利が認められるべきこと、フィリピン人の聖職者の養成を行うこと、言論の自由が認められるべきこと、フィリピン人に法律的な平等が与えられるべきことなどでした。

 これらのゆるやかな改革案でさえ受け入れられませんでした。
 スペイン人統治者たちは、このような暴力に訴えないゆるやかな提案すらも植民地支配を脅かすものであると危険視しました。

 リサールは1892年にマニラにもどりましたが、ただちに辺地へ追放されました。リサールは、その土地で病院や学校をつくって住民の啓蒙につとめました。

 リサールが追放された後、独立をめざす武装闘争が各地で始まりました。
 すると、以前からリサールに目をつけていたスペイン官憲によって逮捕され、マニラで裁判にかけられました。
 リサールは、著作を通じて改革をよびかけましたが、武力闘争は奨励しなかったにもかかわらず、結局、反乱・扇動・違法結社の「無実」の罪で銃殺刑を宣告されました。
 
 処刑に先だって妹に手渡した詩「私の最後の別れ」は、祖国への熱い思いを伝えています。
 1896年12月30日、バグンバヤン広場で銃殺されました。35歳でした。
 バグンバヤン広場は、現在、リサール公園になっており、リサールの銅像が建てられています。

 東京の日比谷公園にホセ・リサール記念像があります。これはリサールが東京に滞在したことがあるのを記念した設置されているものです。

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