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12月17日 「銀閣寺」が世界遺産に登録された

 1994年の今日、京都の慈照寺(通称・銀閣寺)が、ペルーのナスカの地上絵とともに世界遺産に登録されました。

 京都市左京区にある、東山文化を代表する臨済宗相国寺派の寺院です。 
 国宝の観音殿を「銀閣」と通称し、観音殿を含めた寺院全体を「銀閣寺」と通称しています。
 この通称は近世(江戸時代)の名所案内などですでに使用されていますので、けっこう古くから使われています。

 さて、銀閣を創建した足利義政の父は、第6代将軍足利義教(よしのり)です。
 義教は、くじ引きで将軍になった上に、守護大名に暗殺された人物です。将軍の権威の弱さがあらわになってきたのもこの時期でした。
 1449年、義政はわずか8歳で第8代将軍になりました。

 義政は、はじめは有力な管領に助けられて、真面目に政務をこなしました。
 やがて夫人の日野富子や側近にまかせきりになりました。夫人の日野富子は、私欲に目がくらんだ悪女の代表格にあげられている人物です。

 このころは全国的に凶作が続き、各地で土一揆、徳政一揆がおこり、義政1代で13回もの徳政令が出されるありさまでした。
 義政は、幕府財政が悪くなっていても、大飢饉のための対策をたてませんでした。
 それどころか、さらに税を徴収し、さかんに土木工事をおこない、寺社詣でや遊興にふけるようになりました。

 やがて、将軍の跡継ぎ争いがおきました。
 義政の弟・義視を跡継ぎに決めた翌年、夫人の日野富子が義尚を生み、富子が義尚を将軍にしようとしたので、これがきっかけとなって応仁の乱がおきました。

 応仁の乱は、京都を舞台に約10年争われ、京都は焼け野原になりました。
 街は、貧しい民衆がさまよい歩き、盗賊が闊歩する街に変貌しました。しかし、民衆は力強く街を作り直していきました。祇園祭が始まったのもこのころです。
 一方、貴族たちは京都を捨てて、西国の城下町に逃げ去りました。

 義政には、将軍としての統制力はまったくありませんでした。乱のさなかの1473年に、将軍を子・義尚にゆずって、東山の山荘にこもりました。
 東山に住んだので東山殿とよばれていましたが、のち出家して、山荘内に阿弥陀仏を祀るための堂を建て、東求堂(とうぐどう)と名付けました。 

  当時は応仁の乱が終わったあとは、京都の経済は疲弊しましたが、義政は庶民に税や労役を課して、東山の山荘の造営を進め、書画や茶の湯に親しむ風流な遊興生活を送りつづけました。

 銀閣の造営工事は義政の死の直前まで、8年にわたって続けられました。銀閣は、2層になっており、下層は書院造り、上層は禅宗の仏堂様式です。
 
 書斎の北側に設けられた付書院と違棚は現存する最古の座敷飾りの遺構です。書院造や草庵茶室の源流として、日本建築史上、貴重な遺構であるといわれています。
 
 周囲の庭園は東山文化を代表する趣のあるものになっています。
 ただし、現存する当時の建物は銀閣と東求堂のみです。
 
 現在の銀閣は、木目の壁が渋さを醸し出して、荘厳な雰囲気を出していますが、創建当時は、黒の漆が全体的に塗られていたようです。

 修復工事をするにあたって、黒漆を再現するべきか、現在の木目をそのまま生かすかというように議論が分かれています。
 今年の2月から2年間の予定で修理に入っていますが、どういうでき具合になるのでしょうか。
 今は、銀閣そのものは見られなくて残念ですね。
 
 銀閣を訪れた人は、、金閣には金箔があるのに銀閣には銀が貼られていないと不思議がる人がいます。
 特に小中学生は、その名前から銀が貼ってあるというイメージができあがっているようです。

 足利義満が金閣を建てた時は室町幕府の全盛期でしたが、銀閣のころには銀を集めるカネがなかった、というのが正直なところでしょうか。

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