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12月31日 除夜の鐘

 大晦日になりました。大晦日の夜は、一年間の日暦(日めくり)を最後に取り除くということで除夜といわれてきました。

 1年の最後の夜を締めくくり、ゆく年を惜しむ意味で昔からいろいろな行事が行われてきました。
 その中で除夜の鐘というのがもっとも知られています。
 除夜の鐘というのは、今夜(つまり除夜)の深夜0時をはさんで、寺院でつかれる鐘のことをさしています。
 
 さて、ご存じのように、除夜の鐘は108回つかれます。
 なぜ、108なんだろうと長いこと疑問に思ったまま、この歳まできましたが、108という数字の根拠はなんでしょうか。

 人間には、眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)の六根があります。この六根のそれぞれに好(こう:気持ちが好い)・悪(あく:気持ちが悪い)・平(へい:どうでもよい)の3つがあって6×3=18になります。
 
 この18のそれぞれに浄(じょう:きれい)・染(せん:きたない)の2つがあって、18×2=36、これに前世(過去)・現世(現在)・来世(未来)の3つの時間が関わって、36×3=108となるのです。
 これが、人間が持っている108の煩悩だといわれています。
 なお、煩悩とは、仏教の語句で、国語辞典には「人間の心身の安らぎを乱す状態」と説明されています。
 
 108回のうち107回は旧年(12月31日)のうちにつきおわり、残りの1回を新年(1月1日)につくことになっています。

 大石寺では例外的に、新年になってから1つ目をつきはじめることになっています。
 本来は108回の鐘は、除夜だけでなく毎日、朝夕につかれるべきものだそうです。しかし、現在では、ふだんは略して18回に留められています。

 こどものころから除夜の鐘を聞いてきましたが、108の正確な由来を知らなかったばかりか、最後の1つだけを新年につくということも知りませんでした。

 さて、皆さんのこの1年はどのような年でしたか。
 除夜の鐘を聞きながら1年を振り返って、良いお年をお迎え下さい。来年もよろしくお願いいたします。
 (この項、ウィキペディアを参考にしました)

12月30日 フィリピン独立の英雄 ホセ・リサール銃殺される

 1896年の今日は、フィリピン独立の英雄、ホセ・リサールがフィリピン軍によって銃殺された日です。
 ホセ・リサールは、スペイン軍の手で銃殺されましたが、その意志は人々に受け継がれ、フィリピン独立の英雄として今も愛されつづけています。

 リサールは、日本の幕末にあたる1861年、ラグナ州のカランバで生まれました。
 当時のフィリピンは、マゼラン以来ずっと続いていたスペインの植民地でした。
 リサールは初等教育を終えると、マニラのアテネオ大学で土地測量の技術を学びながら、同時にサント・トマス大学で哲学を学びましだ。

 その後、母が失明の危機に陥ったのをきっかけに、医学を学び始めましたが、まわりのフィリピン人蔑視の雰囲気に耐えられず大学を去りました。

 リサールは続いてスペインのマドリ-ドに留学し、そこで医師免許を取得しました。
 また、スペイン語・英語・フランス語はもちろん12~13カ国の言語を自在に操った語学の天才だったといわれています。
 日本にも、短期間、滞在したこともあって日本語も理解できたといわれています。

 リサールの愛国的小説「ノリ・メ・タンヘレ(我に触れるな)」や「エル・フィリブステリスモ(反逆)」は、スペイン圧政下に苦しむフィリピンの現状が克明に描き出されています。
 平和的手段によって圧制者とたたかう多くのフィリピン人を勇気づけました。

 リサールは、革命家というより、フィリピン人たちの生活改善を願うという側面が強い改革者でした。
 リサールのゆるやかな改革案は、フィリピンがスペインの一地域であることを認めた上で、スペイン議会へフィリピン代表を派遣できる権利が認められるべきこと、フィリピン人の聖職者の養成を行うこと、言論の自由が認められるべきこと、フィリピン人に法律的な平等が与えられるべきことなどでした。

 これらのゆるやかな改革案でさえ受け入れられませんでした。
 スペイン人統治者たちは、このような暴力に訴えないゆるやかな提案すらも植民地支配を脅かすものであると危険視しました。

 リサールは1892年にマニラにもどりましたが、ただちに辺地へ追放されました。リサールは、その土地で病院や学校をつくって住民の啓蒙につとめました。

 リサールが追放された後、独立をめざす武装闘争が各地で始まりました。
 すると、以前からリサールに目をつけていたスペイン官憲によって逮捕され、マニラで裁判にかけられました。
 リサールは、著作を通じて改革をよびかけましたが、武力闘争は奨励しなかったにもかかわらず、結局、反乱・扇動・違法結社の「無実」の罪で銃殺刑を宣告されました。
 
 処刑に先だって妹に手渡した詩「私の最後の別れ」は、祖国への熱い思いを伝えています。
 1896年12月30日、バグンバヤン広場で銃殺されました。35歳でした。
 バグンバヤン広場は、現在、リサール公園になっており、リサールの銅像が建てられています。

 東京の日比谷公園にホセ・リサール記念像があります。これはリサールが東京に滞在したことがあるのを記念した設置されているものです。

12月28日 山陰線余部鉄橋で列車転落事故がおきた

 1986年の今日は、山陰線余部鉄橋(鳥取県)で列車転落事故がおきた日です。

 この日、午後1時25分、余部鉄橋を時速約50キロメートルで走行中だったディーゼル機関車が牽引する回送列車のうち、すべての客車が日本海からの強風にあおられて、橋の真下に転落しました。

 転落した客車は、真下の蟹の加工工場を直撃しました。このため、工場の従業員5名がなくなり、列車とともに転落した車掌1名もなくなりました。
 車内販売員1名と工場の従業員5名が重軽傷を負いました。
 機関車は客車より非常に重いため橋梁上に残りました。

 列車を運転していた機関士は、鉄橋通過中に、非常ブレーキが動作したのを感じて後方を確認したときには、すでに客車が転落したあとだったと証言しています。

 強風時の列車運行を規制するために、沿線には風速計が設置されていました。しかし、この設置が不十分でした。
 また地形的に強風を予測しきれなかったことも原因のひとつと見られています。

 また単線の区間では、列車が長時間運行停止になると、ダイヤの正常な回復までに相当の時間かかるといわれています。
 そのため、警報を軽視して無理して運行していたのではないかと推測されています。

 事故後、国鉄は運行規制の基準を見直し、風速毎秒20m以上の風が吹くと自動で列車の運行を停止するように改善しました。
 国鉄のすることはいつも遅きに失していますね。

 なお、余部鉄橋は老朽化していることもあり、また、この事故で厳しくなった運行基準のために列車の運休や遅れが続出していることから、2010年完成をめざして、架け替え工事がすすめられています。

 さて、余部鉄橋は、明治の終わりの1909年12月に着工、1912年の3月1日に開通しました。
 この橋ができて、山陰本線がつながったという歴史があります。
 長さ約310メートルですが、橋脚の高さ約42メートルは日本一です。構造的には、11基の橋脚、23連の鉄桁を持つトレッスル橋です。
 
 トレッスル橋とは、橋脚が末広がりに組まれた橋で、各地にあります。
 鉄道の橋に多く、地上から高いところに架けられています。
 車窓から見る眺めはすばらしいですが、高所を通過しているので、高所恐怖症の人は怖く感じるのではないでしょうか。
 一方、地上から見上げた姿はほんとに美しいです。
 このホームページにすばらしい写真が紹介されています。橋の散歩径

  余部鉄橋の独特な橋の構造と鮮やかな朱色が周囲の緑や青い空と織りなす風景は、昔からカメラマンや鉄道ファンに愛されてきました。
 また、山陰地方を訪れる観光客にも人気があります。

 できることなら、この鉄橋を文化財として残したいものですが、維持費と安全性を考えた場合、断念しなくてはならないのでしょうか。

 余部鉄橋の下を国道が通っています。
 そばに事故の慰霊碑も建てられています。
 事故の犠牲者を追悼慰霊する法要が28日、慰霊碑前でしめやかに営まれました。遺族や関係者が手を合わせて犠牲者の冥福を祈ったと報道されていました。

12月26日 鍵屋の辻の決闘

 1634年の今日(旧暦の11月7日に当たります)は、鍵屋の辻の決闘といわれている仇討ちがおこなわれた日です。
 
 この決闘は、渡辺数馬と荒木又右衛門が、数馬の弟の仇である河合又五郎を、伊賀国上野の鍵屋の辻で討ったできごとです。伊賀越の仇討ちともうわれています。

 江戸時代の初めのことです。
 岡山藩主池田忠雄には寵愛する渡辺源太夫という小姓がいました。
 藩主に仕えてい河合又五郎は、源太夫に横恋慕して関係を迫りましたが拒絶されたため、逆上して源太夫を殺害するという事件がおきました。
 
 池田忠雄も源太夫も又五郎もすべて男性です。つまり3人の男性同士の愛情関係から事件が発生しました。

 源太夫を殺した又五郎は脱藩して逃亡しました。逃亡先の江戸では旗本・安藤正珍にかくまわれていました。
 一方、激怒した忠雄は、又五郎の引渡しを幕府に要求しましたが、安藤正珍は他の旗本を仲間に巻き込んでこれを拒否しました。
 
 解決が長引いているうちに、池田忠雄が、又五郎を討つようとの遺言を残して、疱瘡のため急死しました。
 忠雄にすれば、よほど無念だったのでしょう。
 
 幕府は、喧嘩両成敗として事件の幕引きをねらいました。河合又五郎を江戸からの追放して、かくまった旗本たちを謹慎することを決めました。
 
 源太夫の兄・渡辺数馬は、仇討ちをせざるをえない立場に追い込まれていました。主君池田忠雄の遺言による上意討ちの内意が含まれていたからです。
 数馬は仇討ちのために脱藩しました。
 数馬は剣術が未熟でしたので、義理の兄にあたる郡山藩の剣術指南役・荒木又右衛門に助太刀を依頼しました。

 数馬と又右衛門は、又五郎の行方を捜しまわった末、1634年秋、又五郎が奈良の旧郡山藩士の屋敷に潜伏していることをついに突き止めました。
 危険を察知した又五郎は、ふたたび江戸へ逃れようとしました。

 数馬と又右衛門は、又五郎が伊賀路を通って江戸へ向かうとの情報をつかみました。このため途中の伊賀上野の鍵屋の辻で待ち伏せすることにしました。
 数馬には、又衛門の門弟2人の3人が助太刀していました。
 
 護衛をふくむ総勢11人の又五郎一行は、待ち伏せされているとは知らず、早朝、鍵屋の辻にさしかかりました。

 又五郎一行に数馬、又右衛門らが切り込み、決闘が始まりました。
 又右衛門の奮闘と、又五郎らが頼みとしていた叔父(郡山藩剣術指南役)と妹婿の槍の名人が討ち取られたことで、又五郎側の多くは戦意を喪失して逃げ出してしまいました。

 逃げ遅れて残った又五郎は、数馬、又右衛門らに取り囲まれました。
 仇討ちのルールでは、又五郎を倒すのは数馬の役目になります。この2人は武士とはいえ、剣術の腕は大したものではなく、5時間も斬り合いが続きました。
 数馬がやっと又五郎に傷を負わせたところで、又右衛門がとどめを刺しました。
 又衛門はいらいらしていたことでしょうね。

 仇討ちの目的を達した渡辺数馬と荒木又右衛門は世間の注目を集めました。
 特に、実質的に仇討ちを成功裏に導いた又右衛門は大きな賞賛を浴びました。

 数馬と又右衛門、生き残った1人の門弟ら3名は、仇討ちを支援したとされている伊賀上野の藤堂家に4年間も預けられました。、

 この4年間、又右衛門らの処遇が検討されました。
 国替えされていた池田家の鳥取藩が引き取るか、旧主の郡山藩が引き取るかで紛糾したようです。
 結局、3人は鳥取藩が引き取ることになりました。

 3人は鳥取に到着しましたが、その17日後に鳥取藩から荒木又右衛門の死去が公表されました。
 突然な又右衛門の死は、いろいろな憶測を呼び、毒殺されたという説、生存したままかくまったという説、切腹させられたという説などさまざまです。

 この仇討ちは、江戸時代から歌舞伎、浄瑠璃、講談などの題材となって、大衆の人気を集めました。
 映画やテレビ、時代小説などでも数多く取り上げられています。

 また、この仇討ちは、曾我兄弟の仇討ちと赤穂浪士の討ち入りにならんで、「日本三大仇討ち」の一つに数えられています。

 なお、伊勢街道と奈良街道の分岐点にあたる鍵屋の辻は、現在、「鍵屋の辻史跡公園」となっています。
 園内には伊賀越資料館や数馬茶屋などがあります。

12月24日  消費税法案成立。

 子どもから大人まで、知らないうちに納めている消費税の法案が、1988年の今日、竹下内閣のもとで成立しました。
 12月30日に公布され、1989(平成1)年4月から実施されました。

 当初は税率は3%でしたが、1997年、橋本内閣のもとで5%に引き上げられました。この税率アップはすでに村山内閣で内定していたものです。
 5%の内訳は、地方消費税の導入にともない、国の4%と地方消費税1%を合わせたものです。これは現在まで変わっていません。

 消費税とは商品やサービスに課せられる間接税で、商品が売買、つまり取り引きされる各段階ごとに発生し、最終的には消費者が負担する税です。
 消費者は、「自分は5%だけし負担していない」ということでなく、それまでの取り引きで発生した課税分が商品の価格に含まれているので、かなりの税を負担していることになります。

 この消費税は1954フランスで始まりました。のち、ベルギー、イギリスで導入され、ヨーロッパのほとんどの国で導入されています。
 ただ、イギリスなどは、日用の食料品および子供用品は非課税になっています。

 日本では、大平内閣時代に、一般消費税導入案が浮上しましたが、国民が大反発して流れ、中曽根内閣時代にも、売上税という名で構想されましたが世論が反発したという経過があります。

 そして、細川内閣時代に税率を7%とする国民福祉税の構想が出されましたが、世論の批判を浴びるて、即日白紙撤回しました。
 日本では、かなり反発がきつい税です。

 政府の決まり文句として、「日本は世界に比べて消費税率が低い」、「だから税率アップ」との発言をくり返しています。

 消費税率だけ比較してみると、確かに日本の税率は安く見えます。
 ただ、日本の場合は生鮮食料品や公共料金(生活には欠かせないガス・電気・水道料金)にまで消費税がかかっています。
 低所得者、年金生活者には大きな負担です。

 ヨーロッパの消費税の税率は、食料品などの生活必需品とそれ以外の商品の税率を分けて設定しています。
 イギリスやアイルランド、メキシコ、オーストラリアなどの国々では、食料品の消費税は0%です。つまり非課税です。
 ぜいたく品と生活必需品の税率をきっちり分けている国のほうが、世界的にははるかに多いのです。

 日本の場合、社会保障はどんどん切り捨てられていく一方で、消費税率を上げることばかりが考えられています。
 麻生首相も、景気が落ち着いたら税率を上げたいといっています。
 税率を上げたら、また不況にもどりますよ。

 そもそも、おかしいと思っていることがあります。
 中学校や高校の教科書・参考書には、不況のときの政府の対策についてまとめてあり、学習の重点項目になっているはずです。
 
 不況になれば、企業の利潤が減少、生産縮小、賃金下降、首切りと失業者増加、その結果、購買力の低下、企業の利潤がさらに減少、生産縮小・・・の悪循環が繰り返すとなっています。

 政府がするべき対策は、公共事業などで失業者救済、社会保障費などの財政支出の拡大、減税などがテストでの正解になります。
 要するに、国民のフトコロを暖かくして購買力を上げることで、企業の商品がよく売れることにつながり、企業の利潤も増えて、好景気にもどっていくという資本主義の基礎理論です。

 この政策を実行して成功したのが世界大恐慌時代のF・ルーズベルトのニューディール政策であると歴史の教科書に書かれています。
 ニューディールの根幹は、国民の購買力を高めることにあったのです。

 今の日本は、物価を上げる、賃金を抑制する、社会保障を切り下げる、定率減税を廃止して実質的に増税する・・・・どれもこれも国民の購買力を奪う政策です。
 資本主義の基礎理論に逆行しています。

 また、教科書では間接税の割合を増やすことは、低所得者の税負担が大きくなり、「大衆課税」になると説明しています。
 消費税は、典型的な間接税ですよ。
 なお、間接税とは納税者と税の負担者がちがう税のことで、多くは物品・サービスに含まれています。

 国の財政が苦しいのなら、消費税率を上げるまえに、むだな歳出を抑えればいいだけのことではないでしょうか。
 国民のフトコロを暖かくすれば景気が早いうちにもどって、税収が増えることでしょう。

12月22日 年齢計算ニ関スル法律の施行

 1902年の今日、「年齢計算ニ関スル法律」が施行されました。
 この法律によって、それまでの数え年にかわって、満年齢を使用するよう定められました。 
 「数え年」とは、生まれた時点を「1歳」とし、以降元日(1月1日)を迎えるごとに1歳加える年齢の数え方のことです。
 単に「数え」ともいいます。

 これに対し、出生日に当たる日(誕生日のこと)の前日午後12時に加齢する数え方を「満年齢」といいます。

 極端な例でいうと、12月31日に出生した人は、出生した時点で1歳ですが、翌日(1月1日)には早くも2歳となります。
 また、1月1日に出生した人は、2歳になるのは翌年の1月1日になります。

 昔から「数え年」を使用してきたのには、それなりの理由があります。
 一つは、胎児が母親の胎内にいる期間(十月十日〈とつきとおか〉)も年齢に加算するという考え方です。
 
 もう一つは、明治以前の旧暦では、ひんぱんに閏月というものがありました。私たちが知ってる閏年、閏秒のように、暦を調整する月のことです。
 
 閏月は、約3年に1回(約19年に7回)の割合で挿入されていました。このため、1年の長さが年によってことなっています。
 1年が13ヶ月ということがおきました。
 
 たとえば、8月と9月の間に閏8月が入るというようになっていました。閏月は、年によって何月になるか異なりますので、閏8月生まれの人の誕生日はしばらくの間、めぐってこないことになります。
 満年齢を用いるとこのような問題が生じて、誕生日がない場合があるので、1月1日(元日)が来るごとに1歳を加算する数え年が使われてきました。

 現代に生きている私たちの満年齢と数え年の関係は次のようになります。
 自分の今年の数え年は、元日から誕生日前日満了までは「数え年=満年齢+2」、誕生日前日満了以降は、「数え年=満年齢+1」で計算します。

 私たちがよく使う、たとえば入社3年目というのは数え年の計算です。
創立50周年の周年とは、「それだけの年数を経たこと」を意味しますから、満年齢の計算です。
 たとえば、50年目=49年経たので49年後=49周年となります。ですから、創立100周年記念行事は101年目におこなわれるべきですね。

 亡くなられた方のお歳を享年であらわす場合、「享年60」とあらわします。
そもそも享年とは、人が「天から享(う)けた年数」という意味ですから、この世に存在した年数を数字であらわします。
 
 数え年70歳(満68歳)で死去した場合は、「享年70」となります。または「享年70(満68歳)」と併記することもあります。
 最近は、享年を満年齢で表し「享年68(歳)」」とあらわすことも一般的になりつつあります。

 本来、数え年で行われてきた伝統行事である七五三や年祝い(古希・喜寿など)も、数え年・満年齢のいずれで祝ってもよいとされていることが多くなっています。

 還暦の場合は、数え年で行う場合は61歳、満年齢で行う場合は60歳と、行われる年齢の数字が異なります。

 ただし、厄年には数え年を使い、満年齢を使うことはほとんどないようです。

 私は、こういう計算が苦手で、ややこしくて、今日の話題には頭痛がしてきました。

12月20日 シーラカンスの日

 今日は、「シーラカンスの日」です。
 1952年の今日、シーラカンスが捕獲されたことに由来しています。

 しかし、シーラカンスは、この日に始めて捕獲されたわけではありません。
 1938年12月22日、南アフリカ南東部のインド洋にそそぐカルムナ川の河口付近で漁をしていた漁船が見慣れない魚を捕獲したことが最初です。
 当時の科学では、腐敗を防ぐことができず、このときの標本は腐敗してしまい、じゅうぶんな調査ができませんでした。
 
 そのため、研究者たちは100ポンドの懸賞金を掛けた手配書を配って、第2の標本を探し求めました。
 ところがなかなか捕獲できず、次の標本が捕獲されたのは14年も後の1952年12月20日でした。

  発見されたのは、最初の発見地から遠く離れたコモロ諸島のアンジュアン島でした。
 この1952年の捕獲日12月22日が「シーラカンスの日」に制定されました。

 シーラカンスは、肺魚(ハイギョ)とともに魚類と陸上脊椎動物の分かれ目に位置する生き物にあたると考えられています。
 シーラカンスの仲間は、古生代デヴォン紀に出現して、広く世界の水域に栄えました。
 しかし、約6,500万年前(中生代白亜紀末)にほとんどすべての仲間が絶滅していたことがそれまでの定説でした。
 
 コモロ諸島で発見されたのは、ラティメリア・カルムナエとよばれるシーラカンスの仲間であり、一般的にシーラカンスの代名詞となっていきました。
 その後、1997年に、インドネシアでラティメリア・メナドエンシスというシーラカンスの仲間が確認されています。
 日本語では、「インドネシア・シーラカンス」とよばれるようになりました。

 シーラカンスの仲間は、多くの化石によって存在が知られています。
 化石は、白亜紀の地層でみつかって以後は、1938年に至るまで確認されませんでした。やっと確認したら「生きていた」というわけです。
 化石のシーラカンスと生きているシーラカンスの間で、形態的な差異がほとんど見られないことなどから、「生きている化石」との評価を受けました。

 復元されたものでは全長が3mに達する巨大な仲間も知られています。アンコウのような丸い形をした物や、体長4mをこえる巨大なものまでいました。
 タイのとうに扁平な姿をしたものもいました。

 化石の研究から、シーラカンスは卵胎生であると推測されていました。
 このことは捕獲したのものを解剖して証明されています。なお、その卵はナント直径10cmを超える大きさです。
 シーラカンス自体1mを超える大きな魚ですが、卵はもっと異常な大きさで、子どももかなり成長が進んでから生まれ出てきます。
 体長30cm近くになってから生まれてくるといわれています。

 一応、魚ですから、味はどうなんでしょうか。
 この魚を昔から知っていたコモロ諸島の人々は、肉が不味くて「使えない魚」との語義をもつ「ゴンベッサ」の名でよんでいました。
 要するに、不味いのです。
 
 学者によると、やはりシーラカンスの肉は味が無く、歯ブラシのようで水っぽくて不味であり、食材には適さないとのことです。
 もし自分で食べてみての感想ならば、この学者はとても勇気のある学者ですね。

 また、シーラカンスには寄生虫がいることが判明しています。
 肉にはワックスが含まれているため、大量に食べると下痢をおこすそうです。食べない方がよい魚なんですね。
 
 なお、現在、「絶滅寸前」(CR)といわれ、ワシントン条約附属書 I にリストされていて、商業目的の取引は禁じられています。

12月17日 「銀閣寺」が世界遺産に登録された

 1994年の今日、京都の慈照寺(通称・銀閣寺)が、ペルーのナスカの地上絵とともに世界遺産に登録されました。

 京都市左京区にある、東山文化を代表する臨済宗相国寺派の寺院です。 
 国宝の観音殿を「銀閣」と通称し、観音殿を含めた寺院全体を「銀閣寺」と通称しています。
 この通称は近世(江戸時代)の名所案内などですでに使用されていますので、けっこう古くから使われています。

 さて、銀閣を創建した足利義政の父は、第6代将軍足利義教(よしのり)です。
 義教は、くじ引きで将軍になった上に、守護大名に暗殺された人物です。将軍の権威の弱さがあらわになってきたのもこの時期でした。
 1449年、義政はわずか8歳で第8代将軍になりました。

 義政は、はじめは有力な管領に助けられて、真面目に政務をこなしました。
 やがて夫人の日野富子や側近にまかせきりになりました。夫人の日野富子は、私欲に目がくらんだ悪女の代表格にあげられている人物です。

 このころは全国的に凶作が続き、各地で土一揆、徳政一揆がおこり、義政1代で13回もの徳政令が出されるありさまでした。
 義政は、幕府財政が悪くなっていても、大飢饉のための対策をたてませんでした。
 それどころか、さらに税を徴収し、さかんに土木工事をおこない、寺社詣でや遊興にふけるようになりました。

 やがて、将軍の跡継ぎ争いがおきました。
 義政の弟・義視を跡継ぎに決めた翌年、夫人の日野富子が義尚を生み、富子が義尚を将軍にしようとしたので、これがきっかけとなって応仁の乱がおきました。

 応仁の乱は、京都を舞台に約10年争われ、京都は焼け野原になりました。
 街は、貧しい民衆がさまよい歩き、盗賊が闊歩する街に変貌しました。しかし、民衆は力強く街を作り直していきました。祇園祭が始まったのもこのころです。
 一方、貴族たちは京都を捨てて、西国の城下町に逃げ去りました。

 義政には、将軍としての統制力はまったくありませんでした。乱のさなかの1473年に、将軍を子・義尚にゆずって、東山の山荘にこもりました。
 東山に住んだので東山殿とよばれていましたが、のち出家して、山荘内に阿弥陀仏を祀るための堂を建て、東求堂(とうぐどう)と名付けました。 

  当時は応仁の乱が終わったあとは、京都の経済は疲弊しましたが、義政は庶民に税や労役を課して、東山の山荘の造営を進め、書画や茶の湯に親しむ風流な遊興生活を送りつづけました。

 銀閣の造営工事は義政の死の直前まで、8年にわたって続けられました。銀閣は、2層になっており、下層は書院造り、上層は禅宗の仏堂様式です。
 
 書斎の北側に設けられた付書院と違棚は現存する最古の座敷飾りの遺構です。書院造や草庵茶室の源流として、日本建築史上、貴重な遺構であるといわれています。
 
 周囲の庭園は東山文化を代表する趣のあるものになっています。
 ただし、現存する当時の建物は銀閣と東求堂のみです。
 
 現在の銀閣は、木目の壁が渋さを醸し出して、荘厳な雰囲気を出していますが、創建当時は、黒の漆が全体的に塗られていたようです。

 修復工事をするにあたって、黒漆を再現するべきか、現在の木目をそのまま生かすかというように議論が分かれています。
 今年の2月から2年間の予定で修理に入っていますが、どういうでき具合になるのでしょうか。
 今は、銀閣そのものは見られなくて残念ですね。
 
 銀閣を訪れた人は、、金閣には金箔があるのに銀閣には銀が貼られていないと不思議がる人がいます。
 特に小中学生は、その名前から銀が貼ってあるというイメージができあがっているようです。

 足利義満が金閣を建てた時は室町幕府の全盛期でしたが、銀閣のころには銀を集めるカネがなかった、というのが正直なところでしょうか。

12月15日 ローマ皇帝、ネロが生まれた

 今から約2000年前のローマ帝国で、のちの皇帝になるネロが今日、生まれました。

 生まれたころのネロは、皇帝の地位など望むべくもありませんでした。ところが、母がネロを連れて皇帝と結婚し、皇妃となったところから運命が変わりました。
 母の数々の策略によって、ネロは皇帝の養子となり、立場が強化されました。

 皇帝には実子ブリタンニクスがいましたが、徐々に疎外され、ネロの存在が際立つようになってきました。
 クラウディウス帝が死ぬと、ネロが17歳で皇帝に即位しました。
 初期は、家庭教師でもあった高名な哲学者セネカや親衛隊長官の補佐を受け、名君の誉れが高かったのです。

 暗い悲惨な過去を背負っていたネロの母は、ネロを皇帝にする野心に燃え、秘密工作、粛清、殺人…と、あらゆる策謀に手を染め、「悪女」とよばれる恐るべき母になりました。

 やがて、ネロは母の干渉を疎ましく思ってきました。それを感じた母は、かつて自らが退けた前帝の実子ブリタンニクスに注目するようになりました。
 ところが、そのブリタンニクスは成人の儀式目前で急死してしまいました。ネロが暗殺したといわれています。

 母との対立が深まり、ネロは母を殺害しました。
 ネロは、さらに多くの元老院議員を処刑し、妻オクタウィア、哲学者セネカを殺害し、ローマ大火の犯人としてキリスト教徒を迫害したことから、後世では暴君として知られるようになりました。

 一方、ローマの街を灰燼に帰してしまった大火の後の復興は見事でした。都は新しく生まれ変わりました。
 しかし、ローマ市民は、「皇帝が新しい町を作るためにローマに火をつけた。」と噂しました。

 このころ、属州でおこった反乱が波及して、各地の属州総督がこれに次々に同調しました。
 ついには元老院からも「国家の敵」としての宣告を受けてローマを追われました。
 そして、自らの喉を剣で貫いて自殺しました。30歳の若さでした。

 そもそもネロという皇帝は、もともとおとなしい性格の子だったようですが、歪んだ母子関係のもとでおきた悲劇ともいえます。
 暴政の合間にも善政が交互におこなわれているふしがあります。ネロは、善政が持続しませんでした。
 本人の自殺後、ローマ市民はネロに対して同情を示し、墓にはいつも花や供物が絶えなかったといわれています。

 話題が大きく飛びますが、「暴君ハバネロ」というスナック菓子をご存じですか。
 普通のトウガラシよりも辛い「ハバネロ」というトウガラシと、「暴君ネロ」をかけあわせたた駄洒落が商品名となっているお菓子です。
 
 発売時、世界一辛いとギネス・ワールド・レコーズで認定されていたトウガラシ・ハバネロを使用しています。
 暴君ネロもとんだところで有名になったものです。

12月13日 双子の日

 今日は「双子の日」です。
 1874年(明治7年)、「双子の場合は、先に産まれた方を兄・姉とする」という太政官布告が出されたのを記念してもうけられました。

 今日の双子のテーマは、一卵性双生児について取り上げていきたいと思います。
 私の孫が一卵性双生児だからです。

 さて、日本では後から生まれた方を兄または姉、先に生まれた方を弟または妹として扱う慣習がありました。
 現行の戸籍法上は、生まれた順に記載することとなっています。
 
 双子の出産の確率は、昔から人種に関わりなく、1000組に4組の確率で一卵性双生児が誕生するというデータがあります。

 今まで多くの一卵性の双子の兄弟や姉妹を知っていますが、一卵性双生児は基本的にまったく同じ遺伝子を持っているため、顔つきは非常によくにているため、見分けがつかないという場合がよくありました。
 歌手のザ・ピーナッツやこまどり姉妹(古い話題でスミマセン)、お笑いのザ・タッチは見分けがつきにくい例ですね。

 一方、同じように育てている一卵性の双子なのに、顔つきがや性格、好み、ちがいが出てくる場合があります。
 ほんとに双子?という思いになるケースを過去に経験しました。
 私の孫がどちらかというと、この例にあたります。
 
 これは同じ遺伝子型を持ち、まったく同じDNAを持つ一卵性双生児であっても、胎児期のうちからそれぞれが独自の成長をするからだといわれています。
 脳が発達する過程も異なってくるので、出生する時にはすでに大脳皮質の形状も異なっているといわれています。

 双子の成長にしたがって、個々の双子の表現の差がしだいに広がるため、病気に対する抵抗力や外見などの差などはしだいに大きくなるようです。
 また、身体能力なども、似てはいますがそれぞれで異なってきて、学校の得意科目やスポーツの得意・不得意が分かれることも多いといわれています。
 
 さらに、一般に個人を認証する方法として、指紋とか静脈、虹彩で個人認証することができますが、一卵性双生児の場合もまったく可能で、個人認証できます。
 また顔認証でも、一卵性双生児を識別することができます。
 
 しかし、犯罪捜査などで、現在もっとも確実といわれているDNA認証では、一卵性双生児のそれぞれを個人認証することはできないようです。

 双子の孫の成長を見てきた祖父の立場から見ると、育てる親にはたいへんな苦労がともないます。
 一例ですが、授乳期には、双子ちゃんの授乳やおしめ取り替え、夜泣きの時間が交互にずれるので、夜間は、親は寝る間がないということがたびたびあったようです。
 
 祖父として遊んでやるときも、かならず平等にと心がけました。だから、同じことを2回ずつしなければならないのが苦労といえば苦労でした。
 自転車、一輪車、学習机、その他身の回りのものや学用品の購入も2つずつですから、出費も増えます。

 でも、双子ちゃんの成長がその苦労を完全に打ち消してくれています。 

12月11日 胃腸の日

 今日は「胃腸の日」です。このような記念日があるとは知りませんでした。
  「胃に良い→いにいい(1211)」の語呂合わせで12月11日となりました。日本大衆薬工業協会が2002年に制定しました。

 胃は英語で:stomachといい、消化器を構成する器官のひとつです。
 消化管の中では、食道に続く器官で、十二指腸につながっています。横隔膜の下ぐらいにあって、体の表面からみると、胸骨の下、みぞおちのあたりにあります。

 大きさは個人差があるようです。形も、胃が垂れ下がった胃下垂の状態になっている人もいます。

 人間ドッグでバリウムを飲んで、胃のレントゲンを撮っているときにちらっと見ると、胃は入口と出口が狭く、途中がふくらんで袋状の構造になっていることがよくわかります。

 高校の生物の授業で、食べた物が食道から入る入口付近を噴門部、十二指腸につながる出口付近を幽門部と習いました。忘れていましたが。

 空腹のときは内側の壁がひだを作って縮んでいますが、食べ物が入ってくるとふくらんで、腹の前の方に張り出してくるので、いわゆる満腹状態になります。

 腹八分目でおれば、満腹の時だけ、胃が張り出しますが、しょっちゅう食べ過ぎであった私などは、下腹部だけでなく胃のあたりもふくらんでいました。

 その胃のふくらみも今はかなりへっこみました。ダイエットをがんばったわけではありません。胃癌で、胃の4分の3も切り取ったので、へっこんだようになったのです。また最近は張り出してきつつありますが。

 胃癌の手術のことになりますが、私の癌は進行癌になりかけというレベルでしたが、胃の下方にあったので、胃の上方(噴門部あたり)は残すことができました。
 胃の上方に癌があったら小さな癌でも胃は全摘出されるそうです。

 胃の下方4分の3を切り取って、どうやって腸とつなぐのか、十二指腸をそのまま引き上げただけでは肝臓や膵臓からの消化液の管に支障がでるのになあ、と考えていましたら、主治医の先生から手術の前日に説明をうけました。

 大まかにいうと、肝臓や膵臓から消化液がでるあたりより下にある小腸の入り口を何センチか切り取って、残った胃と十二指腸とをつなぐのだそうです。

 私の手術は腹を開かない腹腔鏡手術でした。
 腹の中を映し出すモニターを見ながら、差し込んだ管を操縦して、こんなに複雑な手術をしていただいたのですから、主治医の先生はじめスタッフの先生の力量はすばらしいと思います。

 おかげさまで、今のところ転移もなく、順調です。

 さて、横道にそれましたが、胃は、 飲み込んだ食物を数時間程度そのまま貯えて、胃壁から分泌される塩酸(胃液)で、殺菌し腐敗を防いでいます。
 また消化酵素のペプシンによって、タンパク質をペプトンとよばれるどろどろした水溶性のものに分解して消化します。

 胃の酸は強力です。その胃液が、なぜ胃自身を消化してしまわないのか、その理由が知りたかったのですが、わかりました。

 胃が粘膜で覆われているのが一つ。胃液を中和する重曹も生成されているのが二つ。またつねにプロスタグランジンという物質の働きで細胞増殖を活発にして胃壁の損傷を最小限に抑えていることが三つ。

 しかし、ストレスなどでバランスが崩れたりすると、胃液や消化酵素のコントロールが効かず自分自身を消化してしまうこともあります。
 胃に穴が開く状態、つまり胃潰瘍です。

 どの臓器も大事ですが、「胃腸の日」にあたって、胃を大事にすることを考えましょう。胃を大事にするということは、胃を休ませてあげるということだと主治医の先生がおっしゃっていました。

12月10日 阪神タイガースの前身「大阪タイガース」の創立

 1935年の今日は、大阪など関西圏では圧倒的な人気を誇るプロ野球球団「阪神タイガース」の前身、「株式会社大阪野球倶楽部」が創立された日です。

 今日は、創立当時のことを記してみたいと思います。
 
 1934年、大日本東京野球倶楽部(東京ジャイアンツ)が設立されました。
 ご存じのように、読売新聞の部数拡大を最大の目的として設立されたジャイアンツは、数チームでリーグを結成して、安定した興行を行いたいという考えから新しくリーグをつくるための対戦相手を探していました。

 特に、東京、大阪、名古屋の三大都市圏で試合を行うことをめざしていたので、甲子園球場という日本最大の球場を持っていた阪神電気鉄道が球団を設立することになりました。

 1935年10月25日、まず門前眞佐人との入団契約が結ばれました。
 これを皮切りに山口政信、藤村富美男、藤井勇などの甲子園のスター選手、都市対抗野球の松木謙治郎らが集まりました。
 そして12月10日、「株式会社大阪野球倶楽部」、球団名「大阪タイガース」が発足しました。

 日本運動協会、天勝野球団、大日本東京野球倶楽部に続く日本で4番目のプロ野球チームでした。
 翌年にも、若林忠志、景浦將など有力選手と契約し、4月の球団結成記念試合までに17名の選手を獲得しました。

 1936年の公式戦は、年間で3シーズンに分かれていました。
 つまり、春は第1回日本職業野球リーグ戦、夏は連盟結成記念全日本野球選手権、秋は第2回全日本野球選手権の3シーズンでした。
 それぞれ東京、大阪、名古屋の各都市圏でいくつかの大会を開催する方式でした。

 最初のシーズンである春は、東京ジャイアンツがアメリカ合衆国遠征を行っていて出場せず、名古屋金鯱軍も遠征を行っていたためシーズン優勝は決められませんでした。
 しかし、開催された3大会で松木や景浦率いる打線にエースの若林といった布陣で臨みましたが、タイガースはいずれも1位を逃してしまいました。

 親会社同士が阪神間の鉄道を経営するという競争関係にある阪急に勝てなかったことから、初代監督の森茂雄が解任され、石本秀一が監督に就任したということです。
 現在は、阪急阪神東宝グループの系列下に入った阪神電気鉄道が経営し、阪急ブレーブス自体もとうになくなっているなど大きくようすが変わりました。

 この秋、東京ジャイアンツの沢村栄治の打倒に闘志を燃やす松木や景浦を中心としてを戦い抜きました。国家は24勝6敗1分の好成績を残しましたが、優勝を決める勝ち点は25で、東京ジャイアンツと並んでいました。
 このため、12月に優勝決定戦が行われましたが、残念ながら1勝2敗で惜敗し、優勝を逃しました。

 戦前・戦中は常に東京ジャイアンツ(1940年に「東京巨人」に改称)と優勝争いを繰り広げた強豪チームでした。
 特に1937年秋、1938年春には、御園生崇男、豪腕西村幸生が加入した磐石の投手陣と、松木、山口、景浦、藤井、田中義雄らの強力打線を擁して、プロ野球初の2連覇を達成しました。

 さらに、春秋2シーズン制を採用していたこの2年間は、春と秋のシーズン優勝チーム同士が戦う年度優勝決定戦でいずれもジャイアンツを破り、年度優勝に輝き球団初の日本一、さらには2年連続日本一となっています。

 1940年9月、戦局悪化によって、英語は敵性語として使用禁止になったのを受けて、球団名を大阪タイガースから阪神に改称しました。
 軍の召集により選手数が不足する苦しい状況で、1944年には監督兼主戦投手の若林忠志が35試合中31試合に登板してタイトルを総なめにし、3度目の優勝を遂げました。

 戦争が激化するなか、1944年の総進軍大会、ならびに1945年1月の正月大会(非公式大会)に「猛虎(阪神と産業の合同チーム)」の名称で参加したのを最後に、3月になって活動を停止しました。

 戦後は紆余曲折があり、その時その時、数々のドラマをつくってきましたが、関西では相変わらず熱狂的なファンに熱烈な応援を受けています。
 熱狂的すぎるファンもいますが、それはどの球団にもいることですが・・・。

 一時は関西のスポーツ新聞では「ダメ虎」と揶揄された文字が飛び交っていました。
 ここ数年は昔の愛称のように「猛虎」ぶりを発揮し、ファンではない者からみても、いい球団になってきたと感じられます。
                              (ウィキペディアを参考にしました)

12月6日 サンタクロースのモデルの死

 今から1650年ほど前、紀元350年(4世紀)ごろの今日、サンタクロースのモデルになったキリスト教の聖人ニコラオス(ニコライ)が世を去りました。

  ニコラオス(ニコライ)は、小アジア(今のトルコの地)ミラの町で生まれました。キリスト教の司教であり神学者でもありました。
 奇蹟をおこしたことであがめられ、ミラのニコラオスとよばれていました。
 キリスト教の東方教会およびカトリック教会では聖人とされています。

  「ある日ニコラウスは、貧しさのあまり、三人の娘を嫁がせることができない家があることを知りました。ニコラウスは真夜中にその家を訪れ、屋根の上にある煙突から金貨を投げ入れました。
 
 このとき暖炉には靴下が下げられていたため、金貨は靴下の中に入りました。この金貨のおかげで娘の身売りを避けられた」という逸話が残されています。
 靴下の中にプレゼントを入れる風習も、ここから来ています。

 また、ニコラウスは学問の守護聖人としてもあがめられており、アリウス異端と戦った偉大な教父でもありました。
 教会では聖人として列聖されているため、「聖(セント)・ニコラオス」という呼称が使われています。

 「聖(セント)・ニコラオス」をオランダ語にすると「シンタクラース」となります。
 オランダでは14世紀ごろから、聖ニコラオスの命日の12月6日を「シンタクラース祭」として祝う慣習がありました。
 
 その後、17世紀、アメリカに植民したオランダ人が「サンタクロース」と伝え、サンタクロースの語源になったようです。

 1822年、ニューヨークのある神学者が、病身の子どものために作った詩「聖ニコラオスの訪問」がきっかけとなって、このサンタクロース物語は全米中に広まりました。
 子どもたちがこの日に枕元に靴下を吊るしておくと、翌朝に入っていたのはお菓子でした。
 
 世界的に定着しているサンタクロースの姿は、白ヒゲをはやした太りぎみの老人の男で、ニコニコとして赤い服を着ています。(この服装はキリスト教の司祭の服に由来があるようです。)
 また、白い大きな袋にクリスマスプレゼントを入れて肩に担いでいます。
 
 19世紀ごろには、1頭立てのトナカイがソリを引く姿が描かれていましたが、やがて8頭立てとなり、家々の子どもたちが寝ている間にプレゼントを配る現在のイメージに至っています。
 グリーンランド国際サンタクロース協会が認定する公認サンタクロースは、現在世界に180人います。
 クリスマスに自宅ですごすことができない子どもたちのため、クリスマスより一足早く福祉施設や小児病棟などを訪問する活動をしています。

 欧米諸国などのサンタは「Ho Ho Ho」(ホゥホゥホゥ)と笑い声をあげるため、カナダではサンタクロース宛専用の郵便番号「HOHOHO」があるそうです。
 サンタクロース(シンタクラース)の服装はキリスト教の司祭服に由来しているようです。

 なお、南半球のオーストラリアなどではクリスマスの時期が夏にあたるため、サンタクロースがサーフィンに興じる姿が切手に描かれています。

 オランダやドイツでは、12月6日がニコラウスの日ですから、子どもたちは今日プレゼントをもらいます。
 イギリスでは、12月25日にサンタクロースがプレゼントをもって来ます。
 
 アメリカでは、イギリスと同じく、12月25日にサンタクロースがプレゼントをもって来ます。
 クリスマスプレゼントを家族全員で交換しあう習慣があります。
 外出するのは教会に行く時くらいで、家庭料理を味わったりするなど家族ですごすのが一般的だということです。
 
 日本のクリスマスも、アメリカ流の12月25日をうけついでいますが、キリスト教とは何の関係もない国民のクリスマスであることが決定的な違いです。 
 日本でクリスマスが受け入れられたのは、1900年に明治屋が銀座に進出し、そのころからクリスマス商戦が始まったことが大きなきっかけでした。

 やはり、商戦から始まったのですね。

12月3日 高野長英が自殺

 1850年の今日(旧暦の10月30日)は、高野長英が自殺して世を去った日です。
 高野長英は、江戸時代後期の医者・蘭学者で、信念を貫き通した人物です。
 
 長英は、江戸時代の末、1804年、陸奥国水沢(現在の岩手県水沢市)で生まれました。9歳のとき父が亡くなったため、叔父の養子として育てられました。
 
 16歳ごろ江戸に出て、苦しい生活を送りながら、医学とオランダ語を学んだのち、長崎におもむいてシーボルトの鳴滝塾に入りました。
 たいへん熱心に勉強したと伝えられています。
 そのため、オランダ語がめきめき上達し、ドクトルの称号をうけて、その抜きん出た学力から塾頭となり、シーボルトの助手をつとめるほどになりました。
 
 ところが、1828年、シーボルト事件(以前、このブログでもとりあげました)がおこりました。
 この事件は、シーボルトが帰国するときに、海外へ持ち出すことが禁じられていた日本地図などを船に積み込んだのが発覚したため、シーボルトは国外追放、日本人の関係者は捕らえられて処罰された事件です。
 
 このとき長英はたくみに難を逃れ、ほとぼりがさめるのを待って、1830年、江戸にもどって医者を開業しました。
 このころ、長英は故郷からさかんに帰郷を求められましたが、大いに迷ったもののついに断り、家督も捨てました。同時に武士の身分を失いました。
 
 医者をするかたわら渡辺崋山(三河田原藩家老)とともに尚歯会というグループを作り、外国の事情の研究や政治問題を論じ合いました。

 1837年、アメリカのモリソン号が日本人の漂流者を送り届けに浦賀にやってきました。このとき幕府は、通商を求めたモリソン号を鎖国を理由に武力で追い払いました。
 この事件を知った長英は「夢物語」を書いて、幕府の鎖国政策を厳しく批判しました。
 
 この著作「夢物語」が幕府に知られるところとなり、幕政批判の罪で捕らえられ、終身刑で伝馬町牢屋敷に投獄されてしまいました。
 長英は、牢内では服役者の医療に努め、また劣悪な牢内の環境の改善なども訴えて闘いました。
 これらの行動と親分肌の気性から、牢名主としてまつり上げられるようになったといわれています。
 
 獄中に捕らえられてから6年目の1844年の3月のことでした。伝馬町牢屋敷に火事が発生しました。
 牢屋敷から囚人が解き放たれました。
 指定された集合場所にもどれば罪が減じられますが。もどらなければ脱獄囚となります。
 
 長英は躊躇無く脱獄の道を選びました。
 (なお、火事は長英がおこさせたといわれています。)
 
 ほうぼうに隠れながら翻訳の仕事を続けました。
 伊予(今の愛媛県)の宇和島、大阪や名古屋などを転々としたあと、江戸にもどるにあたって薬品で顔を焼いて人相を変えました。

 江戸では、沢三伯と名乗って、翻訳の仕事をして生活費を得ていました。
 あるとき、翻訳があまりに見事だったために怪しまれ、奉行所の捕り手に家を囲まれ、逃げ切れないと悟って喉を突いて自殺したといわれています。
 顔は焼いて変えられても、声は変えられないため、見破られたという説もあります。

 高野長英が登場する小説には、山田風太郎著「伝馬町から今晩は」、吉村昭著「長英逃亡」があります。
 私は、西口克己著「高野長英」を読んで感激した覚えがあります。

12月1日 曲亭馬琴が死去

 1767年の今日(旧暦11月6日)、江戸時代後期の読本作者・曲亭馬琴が82歳で死去しました。
 
 馬琴は、江戸の深川で、旗本用人の五男として生まれました。
 9歳の時に父が亡くなり、その翌年に長兄から家督を譲り受けて、松平家に仕えましたが、15歳のとき松平家を出て放蕩生活に入りました。
 その後、1年以上も江戸市中を放浪したり、医学を学んだりしましたが、どれも長続きはしませんでした。
 
 24歳になって山東京伝の門に入り、黄表紙作家として登場しました。黄表紙とはさし絵入りのこっけいな読み物のことです。
 1793年、履き物商の未亡人のもとに婿入りしますと、生活の安定を得て、家業には力を入れず、著述にいっそう精を出すようになりました。

 あるとき上方を旅しましたが、この旅のあとは読本(よみほん)に情熱を注ぎはじめました。
 読本というのは、文章を主とした読み物のことで、現在の小説に近いものです。
 やがて、かつての師である山東京伝を追い越して読本の第一人者になりました。

 読本に転向したあと、傑作の一つ「椿説弓張月」を出し、後編・続編と書き続けました。 82歳で亡くなるまでに読本、黄表紙、合巻、そのほか雑著あわせて約470種の著作を著しました。
 なかでも28年の歳月をかけて刊行された「南総里見八犬伝」は超有名です。

 この「南総里見八犬伝」は98巻106冊からなっています。
 登場人物は4000人を越えています。
 安房(今の千葉県房総半島)の武将・里見義実のむすめ伏姫(ふせひめ)の体内から飛び散った8つの玉から現れた8人の勇士が、おのおのの正義のために戦いながら巡りあい、助け合って悪者を滅ぼし、ともに里見家を再興させるというストーリーです。 

 馬琴は、中国の「水滸伝」「三国志」という小説をよりどころに、時代を室町時代に設定して雄大な伝奇小説を書き上げました。

 終わりのところを書いていたころには、老齢と長年の多忙な作家活動のために、目が見えなくなっており、息子の妻・お路に口述筆記をしてもらっていました。
 馬琴が家業を手伝わなかったため夫婦中はよくありませんでしたが、口述筆記にも妻のお百が嫉妬して、何かとお路をいじめていたということです。

 映画にもなってとても有名な読本ですが、ものすごい長編です。
 山田風太郎の「八犬伝」は、八犬伝の筋を紹介しつつ馬琴の生活も描くもので、簡潔に書き直してあり、読みやすい入門書です。
 私も読みました。
 皆さんも一読なさってはどうでしょう。たいていの図書館にありますよ。

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