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11月6日 石田三成が斬首された日

 1600年の今日は、安土桃山時代の武将「石田三成」が関ヶ原の戦いに敗れた後、家康の命によって斬首され、その生涯を終えた日です。

 織田信長が桶狭間で今川義元を破った年、石田三成は近江国(現在の滋賀県)で生れました。
 少年のころ、観音寺で学問をしていたとき、鷹狩りの途中の豊臣秀吉がたまたま立ち寄って、お茶が飲みたいと要求しました。
 このとき三成は、一杯目はぬるく、だんだん熱い茶を出したので、その気配りに感心した秀吉が家来になることをすすめました。
 この時から二人の主従の関係が成立しています。

 その後、三成は秀吉の信頼をますます深め、重要な戦いにはかならず参加しました。
 秀吉が天下統一を達成するのを助けるとともに、その政権の中枢で活躍しました。秀吉が関白に昇進したときも、いろいろなアドバイスを送って地位を高めていきました。
 
 朝鮮出兵では軍需品や食料の調達などを指揮して能力を発揮し、太閤検地をはじめとして、九州や関東の征服地での政治を安定させました。
 三成は、朝鮮出兵がやがて泥沼化してゆくことを見抜いて、早期の講和に力をつくしたという書状などの資料が発見されています。

 1595年、近江の佐和山城主になったのち、19万石の大名になりました。
 実務能力を認められて「五奉行」の一人となり、その政策執行に活躍しました。
 秀吉の重臣の中でもすぐれた能力の持ち主でしたが、そのあまりな謹厳実直さが、融通のきかない傲岸不遜、横柄な態度と映りました。
 他の大名からもねたまれ、反感を買うこともあり、秀吉の死後、加藤清正らの武功派の武将から襲撃されたこともありました。

 この事件のあと、佐和山城で謹慎していましたが、豊臣政権防衛のため、西軍(豊臣方)を組織して「関ヶ原の戦い」をおこしました。
 この組織力が、小さな大名にすぎない石田三成を歴史上の人物として特に有名にしています。

 さて、ほとんどの日本人が石田三成を、陰険な性格で悪者だと思っています。
 石田三成悪人説はテレビ・小説では定着しています。
 しかし、歴史の事実の伝承を作りかえることが出来るのは勝者だけです。石田三成は敗者であったため、徳川の政権を正当化するために、徳川によって徹底的に悪者にされてしまいました。

  .「太閤記」の「三成は諫に付ては、我が気色取らず。諸事有る姿を好みし者なり。」の記述で、三成は主君を諫めるべきときには堂々と諫めていたことがわかります。

 また、秀吉のまちがいを指摘した三成の書状も現存しています。 最近は、石田三成の名誉を回復する研究が進んでいます。文献も多く出されています。 
 あるホームページで「石田三成名誉回復論」を発見しました。勝手に紹介させてもらいます。
 たとえば、作家の司馬遼太郎は「三成には、近代人のにおいがする。」と評価しています。
 
 日本の歴史の中で悪役にされていた、明智光秀・吉良上野介・田沼意次なども今までと違った角度からの研究がなされています。
 私には、これらの人物像がだぶって映ります。

 さて、関ヶ原の戦いで敗走した三成は、近江国に身を潜めて匿まわれていましたが、裏切った男のために捕らえられました。
 京都に送られて、斬首される前に、三成が「のどがかわいた」というと、干し柿が勧められました。
 三成が「柿は身体に悪い」といって断りました。

 これに対して「すぐに死ぬ身が、身体を気にする場合ではなかろう」と役人が笑うと、「大事を思う者は最期の最期まで命を大事にしてあきらめないものだ」と答えたというエピソードが残っています。  

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