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11月26日 侠客・黒駒勝蔵が斬首された

 今日は侠客(ヤクザ)の話題です。
 1871年(明治4年)の今日は、黒駒勝蔵が斬首されて世を去った日です。

 黒駒勝蔵(くろこまのかつぞう)は幕末の天保3年、甲州の上黒駒村(現山梨県笛吹市)の名主・小池嘉兵衛の次男として生まれ、
 本名を小池勝蔵といいました。

 幕末には、喰っていけない農民の子弟が無宿人となって江戸や上方にあふれましたが、侠客も急増しています。
 侠客の増加は、江戸幕府の弱体化(警察力の衰え)が表面に出たものといえるでしょう。  
 
 勝蔵も25歳で渡世人となり、隣村・竹居村の有力な侠客である竹居安五郎の子分になりました。
 この安五郎は当時甲州一の親分で、後に新島からの島抜けに成功して、世間を驚かした男です。  

 勝蔵は、安五郎が獄死したあと、安五郎の手下を黒駒一家としてまとめ、甲州博徒の大親分として勇名を関八州にとどろかせました。

 さて、時代は、幕末で尊皇か佐幕かという時代でした。
 勝蔵は尊皇倒幕運動に影響され、甲府城占領計画などを画策しています。
 王政復古がなった1968年、黒駒一家を解散し、池田勝馬と名を改めました。そして赤報隊に入隊し、官軍側について戊辰戦争に参加して、それなりの功績をあげています。

 しかし、維新がなった後、明治政府は、勝蔵が恩賞を求めてきたときの対処に困りました。
 要するに、黒駒勝蔵の時代にやってきた数々の旧悪を考えると、博徒を官職に付けるわけにもいかないというわけです。

 結局、黒駒勝蔵時代の悪事が露見したという理由で捕縛され、 1871年初冬、明治政府の手によって甲府市の山崎処刑場で斬首されました。39歳でした。
 かつて勝蔵が所属した赤報隊もまた、明治政府から切り捨てられ、同様の処置を受けています。

 同じ時代に清水次郎長がいましたが、生涯は対照的でした。
 次郎長は幕府方についていましたが、明治26年、72歳で世を去るまで長生きしました。
 それに対して、勝蔵は尊王攘夷派として活動し、功績をあげた末に、明治新政府によって切り捨てられたのです。

 講談やテレビ・映画では駿河(静岡県)の清水次郎長の敵役として知られています。
 ほとんどの「次郎長映画」は、次郎長を善玉、勝蔵を悪玉として描いており、次郎長の敵役になっています。
 これは浪曲の次郎長伝や講談などの影響によってつくられた虚像に過ぎないとする意見があります。
 1973年のテレビドラマ「風の中のあいつ」では、珍しく黒駒勝蔵の側から描かれています。
 
 歴史上の人物については、講談・歌舞伎・浄瑠璃などで一部分が一方的に強調されて、実像とかけ離れた虚像が広く信じられています。 
 悪者と言われてきた人物から見た実像をさぐる研究がさかんになることを期待しています。 

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