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11月28日 バスケットボール考案者・ネイスミスが死去

 1939年の今日は、バスケットボールの考案者である「ジェームズ・ネイスミス」が死去した日です。
 ネイスミスは、19世紀から20世紀にかけて活躍したカナダ出身の体育教育者でした。

 さて、1人の人物によって考え出された競技というのはあまり多くありませんが、バスケットボールはその一つです。
 
 ネイスミスは、アメリカ・マサチューセッツ州のYMCAの訓練校で講師を務めていました。ニュー・イングランド地方の長い冬に外でスポーツができない間、室内で激しく行えるスポーツを求めていました。

 ネイスミスが、ラグビー、サッカー、ラクロスをヒントに考え出した競技は、ボールを持ったまま走ってはならない、身体接触・衝突をしてはならない、競技者の頭上に水平のゴールを置く、競技者はいつでもボールを奪って、得点することができる、という基本的なルールを持っていました。

 高い位置に水平のゴールを置くことで、得点するには力よりも正確さが必要になり、怪我の機会を少なくできると考えていました。
 この新しい競技は、上の方に物を置いてそれに石をぶつけるという子どもの遊びもヒントになっています。

 1891年12月、授業でこの競技を初めて行うとき、たまたま手に入れた桃の籠を体育館内のバルコニーの下に据え付けてゴールとし、サッカーボールを使って1チーム9人で行われました。
 
 そこで体育館のギャラリーに桃を入れる籠を下げて、そこにサッカーボールを入れ合う、今のバスケットボールの原形が生まれたのです。
 考案された当初は桃の籠にボールが入りショットが決まるたびにジャンプボールをして試合を再開してました。
 競技は学生の案により「バスケットボール」と名づけられました。
 その後、数度にわたるゴールの形状の変遷にあわせてルールも変遷し。最終的に現在のような形に定まったといわれています。

 当初には、人数を設定していなかったため100人近くでプレーする高校が出たり、籠を取り付けた2階には観客がおり、ゴールを妨害することがあったそうです。

 妨害を防ぐためにリングの後部に板を取り付けました。それが、現在も残っているバックボードです。
 このバックボードはシュートを決めるのに欠かせない重要な設備の一つです。
 本来は観客による妨害を防止する目的で設置されることになったというのは始めて知りました。

 バスケットボールは当初から人気があり、スミス大学の体育教師を務めていたべレンソンによって女子バスケットボールが始められるなど、その年のうちにアメリカ国内のあちこちで競技されるようになりました。

 そしてYMCAを通じ世界各国へ急速に広まり、1904年から20年間、オリンピックの公開競技として行われました。
 1932年6月には国際バスケットボール連盟(FIBA)が結成され、1936年のベルリンオリンピックから男子バスケットボールがオリンピック正式種目に採用されました。
 また、1976年のモントリオールオリンピックから女子も正式種目にも採用されました。

 アメリカ国内では、1946年に男子プロバスケットボールリーグBAAが創設され、3年後NBLと合併しNBAが誕生しました。
 NBAは現在も世界最高峰のリーグとして君臨し続けています。
 
 NBAには、ウィルト・チェンバレン、マジック・ジョンソン、ラリー・バード、マイケル・ジョーダンなど、忘れられないスーパースターがいました。
 
 ネイスミスは、デンバーのYMCAで体育の教官を務めた後、コロラド大学で医学を修めました。
 その後、1898年にカンザス大学に教職を得たのち、教授に昇格し、カンザス大学の初代バスケットボール監督も務めました。

 1939年11月に脳内出血を起こし、その9日後の11月28日に心臓発作で逝去しました。78歳でした。

 功績を讃えて、「ネイスミス記念バスケットボール殿堂」が設立され、選手や監督などバスケットボールに貢献した人物が殿堂に入れられるようになりました。
 競技の創始者であるネイスミスは「貢献者」の部門で殿堂入りしています。
 
 1969年から、大学のバスケットボール界で最も活躍した選手に対して「ネイスミス賞」が授与されるようになり、その名が残っています。
(『ウィキペディア(Wikipedia)』を参考にしました)

11月26日 侠客・黒駒勝蔵が斬首された

 今日は侠客(ヤクザ)の話題です。
 1871年(明治4年)の今日は、黒駒勝蔵が斬首されて世を去った日です。

 黒駒勝蔵(くろこまのかつぞう)は幕末の天保3年、甲州の上黒駒村(現山梨県笛吹市)の名主・小池嘉兵衛の次男として生まれ、
 本名を小池勝蔵といいました。

 幕末には、喰っていけない農民の子弟が無宿人となって江戸や上方にあふれましたが、侠客も急増しています。
 侠客の増加は、江戸幕府の弱体化(警察力の衰え)が表面に出たものといえるでしょう。  
 
 勝蔵も25歳で渡世人となり、隣村・竹居村の有力な侠客である竹居安五郎の子分になりました。
 この安五郎は当時甲州一の親分で、後に新島からの島抜けに成功して、世間を驚かした男です。  

 勝蔵は、安五郎が獄死したあと、安五郎の手下を黒駒一家としてまとめ、甲州博徒の大親分として勇名を関八州にとどろかせました。

 さて、時代は、幕末で尊皇か佐幕かという時代でした。
 勝蔵は尊皇倒幕運動に影響され、甲府城占領計画などを画策しています。
 王政復古がなった1968年、黒駒一家を解散し、池田勝馬と名を改めました。そして赤報隊に入隊し、官軍側について戊辰戦争に参加して、それなりの功績をあげています。

 しかし、維新がなった後、明治政府は、勝蔵が恩賞を求めてきたときの対処に困りました。
 要するに、黒駒勝蔵の時代にやってきた数々の旧悪を考えると、博徒を官職に付けるわけにもいかないというわけです。

 結局、黒駒勝蔵時代の悪事が露見したという理由で捕縛され、 1871年初冬、明治政府の手によって甲府市の山崎処刑場で斬首されました。39歳でした。
 かつて勝蔵が所属した赤報隊もまた、明治政府から切り捨てられ、同様の処置を受けています。

 同じ時代に清水次郎長がいましたが、生涯は対照的でした。
 次郎長は幕府方についていましたが、明治26年、72歳で世を去るまで長生きしました。
 それに対して、勝蔵は尊王攘夷派として活動し、功績をあげた末に、明治新政府によって切り捨てられたのです。

 講談やテレビ・映画では駿河(静岡県)の清水次郎長の敵役として知られています。
 ほとんどの「次郎長映画」は、次郎長を善玉、勝蔵を悪玉として描いており、次郎長の敵役になっています。
 これは浪曲の次郎長伝や講談などの影響によってつくられた虚像に過ぎないとする意見があります。
 1973年のテレビドラマ「風の中のあいつ」では、珍しく黒駒勝蔵の側から描かれています。
 
 歴史上の人物については、講談・歌舞伎・浄瑠璃などで一部分が一方的に強調されて、実像とかけ離れた虚像が広く信じられています。 
 悪者と言われてきた人物から見た実像をさぐる研究がさかんになることを期待しています。 

11月24日 鰹節の日

 今日は「鰹節の日」です。「 1(い)1(い)2(ふ)4(し)」の語呂合わせから、全国鰹節工業会が制定しました。
 もちろん「鰹節」は、カツオを原料とする日本の伝統的な保存食品のことです。

 現在の「鰹節」に似たものがあらわれるのは室町時代で、「鰹節」というよび方は江戸時代以前からすでに用いられていますす。

 江戸時代、紀州(和歌山県)の燻乾法で作られた「鰹節」は熊野節として人気を呼びました。
 土佐藩(高知県)は藩を上げて熊野節の製法を取り入れ、土佐節を作り出しました。

 一方、土佐は、大坂・江戸などの「鰹節」の消費地からかなり遠いので、カビの発生に悩まされました。
 しかし、土佐では研究をかさね、カビを利用して乾燥させる方法が考案しました。
 
 この改良された土佐節は、大坂や江戸までの長期輸送はもちろん、長期保存にも耐えることができました。
 さらに、味もよいと評判をよび、土佐節の全盛期を迎えることになりました。
 「鰹節といえば土佐」、といわれたものです。

 この製法は秘伝とされましたが、しだいに各地に伝えるものが現れ、伝わった薩摩(鹿児島県)、伊豆(静岡県)の鰹節が三大名産品とよばれるようになりました。

 さて、「鰹節」は、ビタミンB群など栄養分を豊富に含んでいるだけでなく、うま味成分のイノシン酸を含んでいるため、調味料として好んで用いられています。
 日本食の調味料の基礎と位置づけられていて、だし汁の素材として、昆布などとともに欠かせないものになっています。
 
 料理の仕上げとして最後に振りかける天盛りとしても使われています。
 名古屋のきしめんには、うすくスライスされた花がつおが大盛りで盛られていて、味と香りを引き立てています。
 大阪のお好み焼きにも花がつおが具として織り込まれたり、上にかけられたりします。

 現在では「鰹節」の状態で売られることは少なく、気密パックの状態で小分けした「削り節」が主流です、
 しかし、高級和食の料理人は風味を重視して、カビを生やした枯節(かれぶし)とよばれる「鰹節」を、料理に使う直前に削ることが多いといいます。
 
 そういえば、昔、わが家にも鰹節削り器があって、私もずいぶん削らされました。
 小箱の上にカンナの刃を上向きにして置いただけの簡単なもので、引き出しつきの小箱から削った「鰹節」を取り出しました。
 そのころはどの家庭にもあったことでしょう。
 確かに、家庭では使う前に必要な分だけ削っていました。
 
 早く削り終わって遊びたい年ごろでしたので、早く削り終わろうと力を入れすぎて削ると分厚い削り節になってしまうので、苦労したことを思い出します。
 小さくなった鰹節を削ろうとして爪先を削ってしまい、鰹節に混入してしまったということもありました。
 もう削れないぐらいに小さくなった「鰹節」は、ささやかなおやつになりました。

 なお、今日では、カビがついた枯節を、賞味期限が過ぎて悪くなったものと勘違いして捨ててしまうという、もったいない「事件」がよくおこっているそうです。
 枯節の方が、うま味成分やビタミン類が他の鰹節より多く含まれていますよ。
 捨てないように、気をつけてくださいね。

11月21日 モンゴルフィエ兄弟が気球による初の有人飛行に成功

 今日は、1783年のパリで、モンゴルフィエ兄弟が気球による初の有人飛行に成功した日です。

 熱気球は、球皮とよばれる袋の中の空気を、下部に取り付けたバーナーなどで熱して、外気との比重の違いによって発生する浮力を利用して上昇します。
 ただし、バーナーからの熱の調整による上昇と下降しかできません。飛行船のような自力の推進力は持っていないので風がたよりです。
 
 風の向きと強さは地上にいるだけではわかりませんから、風を利用して進むためには、進みたい方向の風を的確に見つけて高度を調節しなくてはなりません。

 モンゴルフィエ兄弟は、フランスのリヨンの南方の町で生まれました。父が製紙業を営んでいたため、幼いころから紙に親しんでいました。
 彼らは、焚き火をしたときに発生する煙を紙袋に溜めると、紙袋が浮かび上がることに気がついていました。

 最初は暖炉の煙を紙袋に詰めて実験し、自分たちの理論が正しいことを確かめると、より大きな袋(風船)を作りました。
 袋をもっと大きくすれば、人も浮かび上がることができるのではないかと考えた兄弟は、絹や麻布を材料にして、室内テストを行うようになりました。
 
  屋外でもテストを始め、18㎡ほどの絹製の袋を高度250mまで上昇させることに成功しました。
 実験で使われた袋が農村まで飛ばされてしまい、おばけが落ちてきた、と村人たちの間で大騒ぎになったこともあったというエピソードが伝わっています。

 二人は、1783年6月5日に無人での飛行に成功しました。
 その年の9月19日、ベルサイユ宮殿で、動物を乗せたデモンストレーション飛行に成功しました。
 
 11月21日には、ロジェとダルランドの二人をのせた気球が、ブローニュの森から飛び立って、90mの高さで25分間、約8.8kmを飛行した記録が残っています。
 
 人類で初めて気球に乗った飛行者のロジェは、2年後、自らが考案した新型気球でドーバー海峡を飛行試験中に、爆発で同乗者とともに墜落して死亡しました。
 人類初の気球による飛行者は、皮肉にも人類初の気球事故による死者にもなってしまいました。

 モンゴルフィエによる有人飛行の10日後には、シャルルが水素によるガス気球の有人飛行に成功しています。

 有人に限らなければ、ポルトガルの宣教師グスマンが、モンゴルフィエ兄弟よりも約70年ほど早く、熱気球の実用模型を飛ばしていたということです。
 4回の飛行実験を行いましたが、教会から異端として告発されたため、その後の実験は中止されることとなりました。

 ちなみに、発明者たちの名をとって、フランス語や英語では「モンゴルフィエ」が熱気球を意味する一般名詞となっています。
 
 また、今日では、熱気球による飛行は「バルーンニング」とよばれて人気になっています。
 ある熱気球のイベントでは搭乗者が10万人近くになっているそうです。この間、事故のニュースを聞いていませんから、バルーニングは安全なのですね。

11月19日 シューベルトが腸チフスで世を去る

 今日は作曲家のシューベルトが腸チフスのため31歳の若さで世を去った日です。

 シューベルトは小学校経営者の子として、1797年、オーストリアのウィーン郊外リヒテンタールで生まれました。
 11歳のときにウィーン礼拝堂の少年合唱隊員となりました。ここの音楽学校で専門教育をうけたシューベルトは、このころから作曲を始めました。

 やがて声変わりをきっかけに音楽学校を離れ、父の学校の教員をしながら作曲に力を注ぎました。
 このころ「野ばら」「魔王」など、多くの歌曲と2つの交響曲を書きましたが認められませんでした。

 1816年、教員生活からのがれて友人の家に同居しました。
 しばらくの間、彼は音楽を教えることで家具類を買い増そうとしましたが、じきにやめて作曲に専念しました。
 「私は一日中作曲していて、1つ作品を完成するとまた次を始めるのです」と、訪問者の質問に答えていたほど、作曲に熱中しました。
 
 教えることをやめたシューベルトは完全なすっかんぴんでした。
 家も職もなく、ウィーンの町を転々とする生活を送るようになりますが、友人たちが暖かく援助しました。。
 このようにシューベルトは友人に恵まれていましたが、また彼は身近な仲間たちのサークルの中心的存在でもあったのでした。
 
 このような中で、庶民のかざらない情感を映しだした、親しみやすい音楽をつぎつぎに生み出していきました。
 
 1828年、シューベルトが31歳のとき、腸チフスのために生涯を閉じました。
 短い生涯の中で、実に600を越える歌曲を始め、あらゆるジャンルにわたって作品を残した天才でした。
 シューベルトのもっとも重要な作品は歌曲です。それまであまり注目されなかったこの分野を、始めて独立した音楽として完成させました。
 この功績として、彼は「歌曲の王」とよばれています。

 また、交響曲をはじめとする器楽曲でも名作を残しています。
 美しいメロディーと古典的な整った美しさ、ロマン的な叙情性にあふれていると専門家に評価されています。
 
 その中でも交響曲第8番の別名である「未完成」はとくに有名です。
 曲は第1、第2楽章までが完全に書かれており、第3楽章は9小節だけで終わっていて、未完成のままのためにこの名があります。
 彼の死後、指揮者ヘルベックによって発見されました。
 
 「未完成」は、2つの楽章ともメロディーが美しく、ロマン派音楽を代表する名曲として愛好されています。 
 ベートーヴェンの「運命」、ドヴォルザークの「新世界」とならんで三大交響曲とよばれている名曲です。、

 その他の代表作としては、歌曲集「冬の旅」、歌曲「ます」・「野ばら」・「魔王」・「子もり歌」、ピアノ曲「楽興の時」、「軍隊行進曲」などがあります。

11月17日 レンコン(蓮根)の日

 今日、11月17日は「レンコン(蓮根)の日」です。
 これは1994年11月17日、レンコンの大産地である茨城県土浦市で、全国の蓮根産地の代表が集まって「蓮根サミット」が開催されました。
 このサミットを記念して、11月17日が「蓮根の日」として制定されました。  

 漢字では「蓮根」と書きますが、そもそも「スイレン」と「ハス」の違いがよくわからなかったので調べてみました。 

 まず、「スイレン」は水の上に咲くので「水蓮」と書くものとずっと思っていました。
 正しくは「睡蓮」です。 
 ハスに似ていて、明るくなると開き,暗くなると閉じることで,「睡る蓮」という漢字があてられたのでしょう。
 現代ではDNA鑑定で、「睡蓮(スイレン)」と「蓮(ハス)」はかなり距離を隔てた植物だとうことがわかってきました。

 「睡蓮」は花が水面に咲き、葉も浮き葉のみです。
 「蓮(ハス)」は花が水面から数cm~数10cmほど高いところに咲いて、葉は浮葉もありますが、水面より上に出る葉もあります。
 学名も別々の名がついています。
 なお、英語では、どちらもLotus(ロータス)といわれています。

 さて、レンコン(蓮根)とは「ハス」の地下茎です。
 蓮根は穴が開いているのが最大の特徴です。
 これは呼吸をする空気を取り込むためで、花の中央の穴から地下茎までずっとつながっています。

 蓮根の節から茎が伸びて水面に葉や花を出して成長します。
 「蓮の実」は砂糖漬けなどにして食べると美味しいといわれています。漢方薬の材料にも使われます。

 「蓮の実」の表面はとても硬いので、とても長い間発芽能力を維持することができるといえわれています。
 大賀博士が1951年3月に、2000年も前の縄文遺跡から見つかった蓮の実の発芽を成功させたことは、当時、「縄文蓮」と呼ばれて大きな話題となりました。

 さて、食べられる部分の80%以上が水分で、残りは炭水化物が多いです。
カリウム、ビタミンCも含んでいますが、その他の水溶性ビタミン類の含有量はわずかです。
 近年、レンコンに含まれる成分が、花粉症の治療に効果があるという発表があり、注目を集めつつあります。
 漢方薬に使われるほどですから、分析はできなくても知られざる効能があると信じています。

 また、睡蓮や蓮のことを「蓮華」とよんだことから、中華料理で使用するレンゲも、蓮華の花弁と形が似ているとしてその名前がつけられました。

11月15日 岡本綺堂の誕生日

 今日は、明治時代の小説家「岡本綺堂」の誕生日です。
 
 「岡本綺堂」は、1872年、東京高輪に生まれ、麹町にて育ち、旧制中学を卒業後、1890年、東京日日新聞に入社しました。
 その後、24年間を新聞記者として過ごしました。

  1891年、東京日日新聞に小説「高松城」を発表後、1896年、「歌舞伎新報」に処女戯曲「紫宸殿」を発表しました。
 続いて、「維新前後」や「修禅寺物語」を発表して成功をおさめました。

 「修善寺物語」はとりわけ大成功をおさめ、名台詞が豊富なことで知られています。
 また、歌舞伎の作品にしてはたいへん珍しいですが、各国語に翻訳されていて、フランスでもフランス人俳優によって上演されています。
 
 「修善寺物語」(あらすじ)
 鎌倉時代、伊豆修善寺の川のほとりに夜叉王という面作りの名人がいました。二人の娘がいましたが、美人の姉はまだ独身で、名前をかつらといいました。
 
 ある晩、鎌倉二代将軍・頼家が、夜叉王の家にやってきました。
 自分の顔を後の世にも残すために、夜叉王に面の制作を半年も前に注文してあったのに、なかなかできあがらないので催促に来たのでした。

 面はできあがってはいたのですが、そのたびに面に死相が現われるので自信がなくなっていました。
 その夜、夜叉王は得心がいかないために渡せないとことわりました。
 
 怒った頼家が夜叉王を斬ろうとしたので、姉のかつらが死相がでる面の一つを頼家に渡しました。
 面を見て大いに満足した頼家は、面を持ち帰るとともに、美人のかつらをも側女として館に連れて帰りました。

 しかし、その夜、頼家は北条氏の追っ手に入浴中を襲われて殺されました。
 かつらは頼家の面をつけ、影武者となって戦いましたが、瀕死の体で夜叉王の家に逃げ帰りました。
 父・夜叉王は、血にそまった自作の面を見て、将軍の運命を暗示するほど面を作ったことに満足の笑みを浮かべるのでした。
 
 「修善寺物語」は、綺堂が修善寺を訪れたとき、古いお面をみてストーリーを創作したといわれています。
 修善寺は源頼家が北条氏によって幽閉されていた名刹です。
 
 明治44年、東京明治座で2世市川左団次が夜叉王を演じて、大好評を博したといわれています。
 この成功によって、歌舞伎を代表する劇作家となり、「綺堂物」といった言葉も生まれました。

 新聞連載の長編小説や、探偵物、スリラー物を多く執筆し、生涯に196篇の戯曲を残しました。
 なかでもシャーロック・ホームズの影響を受けて、日本最初の岡っ引捕り物小説「半七捕物帳」の執筆を1918年から開始しました。
 私は時代物の捕り物小説をよく読むほうですが、「半七捕物帳」が岡本綺堂の作品とは知りませんでした。

 その他の代表作としては、「番町皿屋敷」「玉藻の前」「鳥辺山心中」などがあります。

11月14日 近松門左衛門作「心中天網島」のモデルが心中 

 江戸時代前期の上方の浄瑠璃の脚本家・近松門左衛門の代表作の一つ「心中天網島(しんじゅうてんのあみしま)」のモデルが、1720(享保5)年の今日、心中しました。

 心中があったのは現在の大阪市都島区網島町、大阪城の近くで藤田美術館のあたりです。京阪電車がすぐ近くを走っています。
 すぐ近くに大阪市長公邸や太閤園があります。

 近松門左衛門は、大阪南部の住吉の料亭にいたとき、心中の知らせをうけ早駕籠で大阪にもどりました。
 その途中の駕籠の中で、早くもこの事件をモデルにした浄瑠璃の書き出しを考えていたといわれています。

 浄瑠璃「心中天網島」は早くもその年の暮れ、12月6日に大坂竹本座で初演されました。その後、歌舞伎でも上演されています。
 愛と義理がもたらす束縛が描かれており、近松の世話物の中でも、特に傑作と高く評価されています。

 あらすじは、ざっと次のようなものです。
 大坂天満の紙屋の主人「紙屋治兵衛」は曽根崎新地の「遊女小春」と三年にわたる深い仲になりました。商売にまで支障をきたすほどの入れ込みようで、見るに見かねた者が二人の仲を裂こうとあれこれ画策しますが、なかなかうまくいきません。

 離れ離れになるのを悲しむ小春と治兵衛は、二度と会えなくなるようならその時はいっしょに死のうと、心中の誓いを交わすほどでした。
 
 治兵衛には女房おさんがいました。
 おさんは、小春に、「夫と別れて欲しい」という手紙を出し、一方、治兵衛の兄・孫右衛門も侍に変装して小春に会いにきて、「別れてほしい」と頼みます。

 小春は、おさんの気持ちを汲んで「ほんとうは死にたくない」といいますが、とぼとぼと小春に会いきた治兵衛が、玄関先で孫右衛門が治兵衛のことを思い切るように頼んでいるのもすべて聞いてしまいます。

 小春は、おさんの心根を思い、治兵衛から身を引こうとします。そして偽りの愛想づかしをして治兵衛と別れました。
 別れたあとの治兵衛は、仕事に精を出すわけでもなく寝転がってばかりいる有様でした。
 
 その後、小春が治兵衛の恋敵である太兵衛に身請けされるということが耳に入ってきました。これを聞いたおさんは、小春は死ぬ覚悟ではないか察しました。
 おさんは女同士の義理のため、小春を身請けするように治兵衛にすすめます。
 
 おさんは、子どもと自分のありったけの着物を質屋に入れて、身請けのための費用を捻出しました。
 そこへ、おさんの父・五左衛門がやってきて、力づくでおさんを実家に連れ戻し、親の権力で離縁させてしまいます。
 
 望みがなくなった小春と治兵衛はふたたび心中を約束しあい、淀川河畔の網島の大長寺で心中して果てたのでした。

 二人は俗世との縁を絶つために髪を切ったあと、治兵衛が小春の喉首を刺し、自らは首を吊りました。

 さて、大長寺の敷地は明治末期、豪商藤田伝三郎の邸宅用地として買収されたために、少し離れた東野田交差点の北に移りました。
 大長寺のあとに藤田美術館が建てられ、大長寺の山門は、そのまま藤田美術館の正門として残っています。

 なお、大長寺には、治兵衛と小春の比翼塚があります。この比翼塚は、寺ととも現在地へ移っています。

11月13日 サトーハチローの忌日

 今日は、詩人サトウ・ハチローが心臓発作のために、70歳で亡くなった日です。
 サトーハチローは1903年、小説家の佐藤紅緑の長男として東京都新宿区で生まれました。
 中学時代、舞台女優と同棲をはじめた父への反発から中学を落第、退校、勘当、留置場入りを重ねました。転校8回、落第3回、勘当されること17回のおよびます。
 少年時代から放浪生活を送ったことはよく知られています。
 小説やテレビドラマでも取り上げられています。 

 八チローは、16歳で詩を作り始めて、西条八十に師事しました。
 小笠原島の感化院に入ったとき、生活をともにした福地幸次郎の紹介でした。福地は八チローにとって生涯の恩師ともいうべき人でした。
 弟子入りのあと、八チローは童謡を作り、数々の雑誌や新聞に掲載されるようになりました。

 昭和の時代となってからは、歌謡曲の作詞を始めました。
 このころの代表的な作品には、「麗人の唄」「あなたと呼べば」などがあります。

 戦時中はカタカナ名前を禁じられましたが、”佐藤八郎”を拒否してサトーハチローで通し、「もずが枯木で」を作詞しました。 

 戦後は、このブログでも紹介した「リンゴの唄」を作詞しました。この歌は、並木路子の歌によって大流行し、戦後の日本を象徴する歌となりました。
 また「長崎の鐘」も作詞しています。またNHKラジオの「話の泉」に出演して人気を得ました。この番組ではレギュラーとして、1964年まで出演しました。
 1951年、NHKのラジオドラマ「ジロリンタン物語」の原作を執筆しました。

「文学者掃苔録」より(スミマセン。勝手にリンクしました。)

(心のうた)
 一番苦手なのは
 おふくろの涙です
 何にもいわずに
 こっちを見ている 涙です
 その涙に 灯りがゆれたりしていると
 そうして 灯りがだんだんふくらんでくると
 これが 一番苦手です
 一番苦手なのは
 おふくろの瞳です
 なんにもいわずに
 あっちむいてる瞳です
 そのまつ毛を 静かにとぢたりしていると
 そうして 空気がだんだんよどんでくると
 これが 一番苦手です                      

 童謡の詩を作ることに専念してからは、1955年に「ちいさい秋みつけた」を作詞、レコード大賞童謡賞を受賞しました。
 
 母親への想いなどをうたった情感のある優しい作風で知られる反面、私生活は放蕩で奇行が多かったといわれています。
 作品に表現されている「母親への想い」はフィクションだということです。

<おもな作品>
童謡:「ちいさい秋みつけた」「かわいいかくれんぼ」「うれしいひなまつり」「わらいかわせみに話すなよ」「とんとんともだち」「お山の杉の子」 「めんこい仔馬」など。

歌謡曲:「リンゴの歌」「長崎の鐘」「うちの女房にゃ髭がある」「目ン無い千鳥」など。

 「とんとんともだち」
 
 1番
 とんとんともだち みんなで九にん 
 一ちゃん 二ろくん 三ちゃん 四げぼう 
 五ろやん 六んぼ 七ちん 八ちゃんこに 九どんどん 
 だれかがしかられた みんなでごめんなさい

 2番は最後の行の歌詞だけ
 だれかがくしゃみした みんながかぜひいた

 3番も最後の行の歌詞だけ
 だれかがけがをした みんながべそかいた

 他にも校歌、CMソングなど多数の作品を発表しました。
 私たちのまわりの名曲もサトーハチローの作詞だったのですね。

11月10日 トイレの日

 今日は「トイレの日」です。1986年に日本トイレ協会が制定しました。「いい(11)ト(10)イレ」の語呂合わせです。

 今日は、クサイ話になって、恐縮です。

 日本語では、古くは、あからさまに口にすることが「はばかられる」ために「はばかり」とよばれ、「雪隠(せっちん)」「厠(かわや)」「手水(ちょうず)」ともいわれてきました。
 また「お手洗い」「化粧室」「ご不浄」といい替えたり、「トイレ」「W.C」「LAVATORY」などと外来語になったり、男女を示すマーク(図柄)で表したりすることが多くなりました。
 「お便所」とか「おトイレ」とか、丁寧に?いう人もいますね。

 古くは糞便をそのまま河川に放流していましたが、他方、日本では肥料として売り買いされていました。
 かつて私が育った家の糞尿を近くの農家の人が直接汲みにきていました。天秤棒の前後にあふれんばかりの桶を担いでいました。
 田舎には、そのために肥だめが作られていました。田舎に行くとクサイので「田舎の香水」なんて呼んでいたものです。
 肥だめに落ちて、命を落とす幼児もおりました。
 
 また、豚小屋の上に便器を置いて、飼育している豚に糞便を食べさせた豚便所というのもかつては日本にもあったそうです。私は初耳です。
 同じように、糞便が直接、あるいは豚便所から流れるところに池を作って、そこで魚を育てていた例もあります。
 
 私たちは、水洗トイレでトイレットペーパーで処理しますが、紙を使うことが文明的とは限りませんが、紙を使うのは世界中の人口の3分の1にすぎません。
 トイレにも、民族性があるのです。

 世界的に見れば、完全に他人を遮断する日本式のトイレのほうが例外的で、欧米では完全に密室にすることのほうが、犯罪の温床となって危険だと考えられているのです。
 非行で荒れている中学校では、たしかに密室が仇になっているケースもあります。

 仕切りがないオープンタイプのトイレで知られているのが中国の便所(厠所)です。
 しかし近年は外国人観光客が増加していることもあり、また衛生上の問題などからも、個室タイプの水洗トイレが多くなってきています。
 古くから、中国では、むしろ便所は住民同士が会話をかわう場と見なされて来たそうです。

 トルコ式という言葉があることからもわかるように、トルコの大便器は、またがり式です。
 また、一部外国人向けのものを除いて、用便の後始末には、トイレに備え付けてある小型の容器に入った水と、左手を用いて肛門を直接洗いますので、紙は使用しないようです。
 これは、上達すれば驚くほど少ない水量で洗浄が可能であるということです。
 この方法は痔になりにくいといわれていますが、たしかにその通りでしょう。
 肛門を洗うのは左手です。
 左手は不浄の手と見なされ、食品を扱ったり、握手をしたりすることはありません。

 アラビアなど砂漠が多い乾燥地帯では、砂に混ぜて乾燥させてしまう処理の方法もあります。
 また、エジプトやヨルダンなどアラブ世界や、タイなど東南アジアにおける便所も、トルコの便所とほぼ同じです。街中の公衆便所は原則として有料です。

 ヨーロッパでは、トイレは部屋の一つとして発達しなかったのでしょうか。
 中世のヨーロッパ都市では、部屋の中の出窓のように拡張された一角で、目隠しのついたてをした中でおマルを使っていました。排泄物は、窓から通りに投げ捨てられていました。
 そのため、路地の汚物で衣裳の裾が汚れないよう、オーバーシューズやハイヒールが発明され、街頭から建物の中に入るのに段差をつけたりしたといわれています。
 本当かなあ、と思ってしまいますね。

 そういえば貴族の館・ヴェルサイユ宮殿などでは、トイレがなく、広大な庭園の花壇が用足しの場所であったということは有名なお話です。
 貴族の女性の大きなフレアの広がりのあるスカートは、そのまましゃがんで、他人から見られることなく、用を済ませるための工夫でもあったといいますが、これも本当かなあと思いますね。
 こうした不衛生きわまる不幸な結果が、コレラやペストの大流行でした。

 富士山などの高い山に設置されるトイレの場合、物理的に汚物の処理が困難なことから、シーズンが終わると貯留された汚物をそのまま山肌に放流することがが行われていました。
 富士山が世界自然遺産の登録から漏れたのは、このトイレ問題のためといわれています。
 トイレの使用は有料であることが多いので、道をそれて、直に用をたす行為も多いといわれています。
 
 飛行機のトイレは、古くは汚物を空中散布していたこともあったそうです。ウソーッといいたいところですが事実らしいです。
 現代では、水を節約するために飛行機内の与圧と外部との気圧差を利用して汚物を吸引するタイプの真空吸引式トイレに置き換わりつつあるとのことです。
 宇宙船の中では乾燥させたりするようです。 .

 鉄道の列車内のトイレでは、在来線では長い間汚物を線路上に落下させる「垂れ流し式」でした。
 トイレに入ると便器の穴から線路が見えていました。停車中は使用をひかえるように注意がありました。
 線路脇の民家も、踏切で列車の通過を待っている人も、いわゆる「黄害(おうがい)」の被害者でした。
 窓を開けて風に当たっているつもりが、冷たい水が私の顔に当たったということがありました。
 この飛散問題に対する苦情のため、古い車両の廃止、新車への取り替えが進められ、2000年以降は垂れ流し式はほとんど姿を消しました。
 しかし、逆に、車内のトイレ設置自体がなくなってしまう路線が発生し、大きな問題となっています。

 どこに移動してもトイレの問題は重要で、小中学生・幼児の遠足や、孫を連れた外出、登山や釣り、災害が発生したときなど、あらかじめ対策を練っておかないとたいへんなことになります。

 なお、近年ではバイオトイレとよばれる新たなしくみのトイレが注目されています。しくみは単純で、便槽の中におがくずが詰め込んであり、攪拌することで排泄された糞尿をオガクズの中に住み込んでいる好気性のバクテリアが分解し、最終的には土と水のみが生成されるものです。
 災害時の仮設トイレには有効に使えそうですね。

11月9日 青木昆陽が流行性感冒で死去

 1698年の旧暦の今日は、青木昆陽が流行性感冒で死去した日です。享年72でした。
 昆陽は、江戸時代中期の儒学者ですが、蘭学者でもあり、蘭学の祖ともよばれています。
 
 江戸日本橋小田原町の魚屋の一人息子として生まれました。
 京都で儒学を学んだ後、江戸町奉行所大岡忠相に取り立てられ、「蕃薯考」を発表しました。

 昆陽は、すでに西日本では飢饉の際の農村の荒廃を防ぐ作物として知られていた甘藷(サツマイモ)の栽培を、8代将軍徳川吉宗に命じられました。
 小石川薬園と下総国の現在の千葉市花見川区幕張と上総国の現在の千葉県九十九里町とで試作しました。

 この結果、享保の大飢饉以降、関東地方や離島で薩摩芋の栽培が普及しました。天明の大飢饉では多くの人々の命を救ったと評されています。
 
 このため、昆陽は薩摩芋によって名声を得て、後世「甘藷先生」と称され、墓所の瀧泉寺(目黒不動)には「甘藷先生之墓」があります。
 また、甘藷の試作が行われた幕張では昆陽神社が建てられ、昆陽は芋神さまとしても祀られています。

 このほかにも各地にサツマイモの伝来や栽培に関する逸話が残っています。
 薩摩国指宿郡では、漁師・前田利右衛門が、琉球から甘藷の苗を持ち帰ったのが、いわゆるサツマイモのルーツと言われています。
 南九州一帯にひろがったサツマイモは、享保の飢饉の飢餓を救いました。このため、前田利右衛門は甘藷翁として徳光神社にまつられています。
 愛媛県大三島では、サツマイモを伝えてその後の飢饉を救った下見吉十郎を顕彰した「いも地蔵」があります。

 私の好物の一つのサツマイモですが、サツマイモには多くの食物繊維やビタミンなどの栄養素がふくまれています。
 たいていの芋類は栄養が豊富ですね。さつまいもは、身体にはとてもやさしい健康食品ですよ。
 食物繊維は特に整腸作用があり、昔から便通をよくする食べ物として知られていました。
 また、サツマイモのビタミンCは加熱しても壊れにくい特長があるそうです。
 
 ベニハヤト、ハヤトいもなど黄色みを帯びた品種にはカロチンが多く含まれています。  β-カロチンは、体内でビタミンAに変わり、抗酸化物質として ガン等の生活習慣病の抑制に効果があると考えられています。

11月8日 レントゲンがX線を発見

 私たちは病院で、「レントゲンをとってみましょうか」とか、「レントゲンでは異常はありませんでした」とか、医師との会話で登場するあのレントゲンのこと です。
 X線写真はレントゲン写真とよばれることが多いですが、レントゲンとは物理学者の人名です。
 1895年の今日は、ドイツの物理学者・レントゲンがX線を発見した日です。
 

 さて、レントゲンは、1869年には博士号を取得した後、物理学の研究をすすめました。 いくつかの大学を経て、ふたたびストラスブール大学に戻ってからは、おもに物理定数の精密測定を行ないました。
 その業績から1879年にギーセン大学の物理学の正教授に就任することができました。ギーセン大学では、光学や電磁気学に関する研究を行なっています。
 まだ、X線とは深い関係もありません。
 
 のち、ヴュルツブルク大学に教授として招かれ、1894年には学長に選ばれるほどでした。
  ヴュルツブルク大学では、圧力をかけたときの固体や液体の物性の変化を研究し、1895年10月から放電管の実験を始めました。
 これがX線の発見へとつながっていく研究になりました。

 当時、真空放電や陰極線の研究は、すでにヘルツやレーナルトらによって進められていました。
 陰極線は電子の流れですが、金属を透過することから、当時の物理学では粒子の流れではなく、電磁波の一種と考えられていました。
 レントゲンもこれらの現象に興味を持ち、研究をはじめました。

 レントゲンは、クルックス管から陰極線のようなものが出ているかも知れないとレントゲンは考えました。
 もしも陰極線が出るならクルックス管よりも弱いはずだと思い、見やすくするため同様に黒い紙で全体を覆いました。
 さらに、検出のためにシアン化白金バリウムの蛍光紙を用意しました。
 
 1895年11月8日、クルックス管を用いて陰極線の研究をしていたレントゲンは、机の上の蛍光紙の上に暗い線が発光したのに気づきました。
 この発光は光が照射されておこるわけですが、クルックス管は黒いボール紙で覆われており、光は遮蔽されていました。
 普通なら発光が外にもれるはずがないのです。

 状況的に作用の元は外部ではなく装置だと考えたレントゲンは、クルックス管から2メートルまで離しても発光がおきることを確認しました。
 これにより、光とは比べものにならないほどの透過性をもつ、目には見えないが光のようなものが装置からでていることを発見したのです。
 
 実験によって分厚い本や金属も透過することがわかりました。しかし鉛は透過せず遮蔽されることがわかりました。
 また検出には蛍光板ではなく写真乾板を用いることで、鮮明な撮影が可能になりました。
 
 光のようなものは電磁波でした。
 この電磁波は陰極線のように、磁気を受けても曲がらないことから、レントゲンは放射線の存在を確信しました。
 そして、数学の未知の数をあらわす「X」の文字を使い、仮の名前として「X線」と名づけたので。

 さらに翌年の1月には、妻の薬指に指輪をはめて撮影したものや金属ケース入りの方位磁針など、数枚のX線写真を発表しました。
 X線写真という直観的にわかりやすい結果をともなっていたことで、発表は急速に受け入れられていきました。
 またそれまでの研究で、レントゲンが物理学の世界で名声を得ていたことも大きく影響しています。
 
 日本には、発見から3ヶ月後に、水野敏之丞によって紹介されました。
 
 透過性の高いX線の発見は、ただちにX線写真として医学に応用されました。このため、レントゲンの功績に対し、1901年、最初のノーベル物理学賞が贈られました。
 
 レントゲンは科学の発展は万人に寄与すべきであると考え、X線に関し特許などによって個人的に経済的利益を得ようとは一切しませんでした。
 そして、癌のため1923年2月10日に逝去しました。
 
コリカーという解剖学教授がX線はレントゲンとも呼ぶ提案をしたことで、レントゲン写真という言葉が生まれました。
 ただ、レントゲン本人はレントゲンとよばれることを好まず、常に「X線」と呼んでいました。

 ヴィルヘルム・レントゲンは、かなりの人格者だったと感じました。  

11月6日 石田三成が斬首された日

 1600年の今日は、安土桃山時代の武将「石田三成」が関ヶ原の戦いに敗れた後、家康の命によって斬首され、その生涯を終えた日です。

 織田信長が桶狭間で今川義元を破った年、石田三成は近江国(現在の滋賀県)で生れました。
 少年のころ、観音寺で学問をしていたとき、鷹狩りの途中の豊臣秀吉がたまたま立ち寄って、お茶が飲みたいと要求しました。
 このとき三成は、一杯目はぬるく、だんだん熱い茶を出したので、その気配りに感心した秀吉が家来になることをすすめました。
 この時から二人の主従の関係が成立しています。

 その後、三成は秀吉の信頼をますます深め、重要な戦いにはかならず参加しました。
 秀吉が天下統一を達成するのを助けるとともに、その政権の中枢で活躍しました。秀吉が関白に昇進したときも、いろいろなアドバイスを送って地位を高めていきました。
 
 朝鮮出兵では軍需品や食料の調達などを指揮して能力を発揮し、太閤検地をはじめとして、九州や関東の征服地での政治を安定させました。
 三成は、朝鮮出兵がやがて泥沼化してゆくことを見抜いて、早期の講和に力をつくしたという書状などの資料が発見されています。

 1595年、近江の佐和山城主になったのち、19万石の大名になりました。
 実務能力を認められて「五奉行」の一人となり、その政策執行に活躍しました。
 秀吉の重臣の中でもすぐれた能力の持ち主でしたが、そのあまりな謹厳実直さが、融通のきかない傲岸不遜、横柄な態度と映りました。
 他の大名からもねたまれ、反感を買うこともあり、秀吉の死後、加藤清正らの武功派の武将から襲撃されたこともありました。

 この事件のあと、佐和山城で謹慎していましたが、豊臣政権防衛のため、西軍(豊臣方)を組織して「関ヶ原の戦い」をおこしました。
 この組織力が、小さな大名にすぎない石田三成を歴史上の人物として特に有名にしています。

 さて、ほとんどの日本人が石田三成を、陰険な性格で悪者だと思っています。
 石田三成悪人説はテレビ・小説では定着しています。
 しかし、歴史の事実の伝承を作りかえることが出来るのは勝者だけです。石田三成は敗者であったため、徳川の政権を正当化するために、徳川によって徹底的に悪者にされてしまいました。

  .「太閤記」の「三成は諫に付ては、我が気色取らず。諸事有る姿を好みし者なり。」の記述で、三成は主君を諫めるべきときには堂々と諫めていたことがわかります。

 また、秀吉のまちがいを指摘した三成の書状も現存しています。 最近は、石田三成の名誉を回復する研究が進んでいます。文献も多く出されています。 
 あるホームページで「石田三成名誉回復論」を発見しました。勝手に紹介させてもらいます。
 たとえば、作家の司馬遼太郎は「三成には、近代人のにおいがする。」と評価しています。
 
 日本の歴史の中で悪役にされていた、明智光秀・吉良上野介・田沼意次なども今までと違った角度からの研究がなされています。
 私には、これらの人物像がだぶって映ります。

 さて、関ヶ原の戦いで敗走した三成は、近江国に身を潜めて匿まわれていましたが、裏切った男のために捕らえられました。
 京都に送られて、斬首される前に、三成が「のどがかわいた」というと、干し柿が勧められました。
 三成が「柿は身体に悪い」といって断りました。

 これに対して「すぐに死ぬ身が、身体を気にする場合ではなかろう」と役人が笑うと、「大事を思う者は最期の最期まで命を大事にしてあきらめないものだ」と答えたというエピソードが残っています。  

11月4日 坂本弁護士一家殺害事件

 1989年の今日は、坂本堤弁護士一家がオウム真理教の幹部6人によって殺害された日です。

 坂本弁護士がオウム真理教にかかわるきっかけになったのは、子どもがオウムの出家信者になっている母親から、脱会についての相談をされたことでした。
 相談に応じてオウム真理教について調べをすすめ、オウム真理教の反社会性を批判して追及していました。
 1989年10月にオウム真理教幹部との話し合いがもたれましたが決裂していました。

 その後、坂本弁護士は、オウム真理教の宗教法人の認可取り消しなどの民事訴訟の準備に入りました。
 これを知った麻原彰晃(松本智津夫)は活動の邪魔になると考え、信者に坂本弁護士の殺害を命じました。

 自宅に侵入したオウム真理教幹部6人によって、坂本弁護士(当時33歳)、妻(当時29歳)と長男(当時1歳)が殺害されたのは、11月4日の未明のことでした。
 3人の遺体は車で運ばれ、坂本弁護士の遺体は新潟県名立町(現・上越市)の山中に、妻は富山県魚津市の僧ヶ岳に、長男は長野県大町市日向山の山中に埋められました。
 
 各地のサリン事件など国民を震撼させた事件がオウム真理教のしわざであることがあきらかになる中で、この事件の全容があきらかになってきました。
 捜索によって坂本夫妻の遺体は1995年9月6日、長男の遺体は9月10日に発見されました。
 3人が不憫に思えてなりません。
 3人は、一家の墓所である鎌倉・円覚寺「松嶺院」でいっしょに眠っています。

 さて、坂本弁護士一家が失踪した直後のことです。
 11月21日には、弁護士有志の団体として「坂本弁護士と家族を救う全国弁護士の会」が結成されています。
 私も新聞でこのときの記事を読んだことがありました。
 この会は、遺体が発見されるまでの間、日本全国でビラ配りやキャラバン活動など、救出のための活動を続けていました。

 事件を調べていると、オウム真理教についての怒りは当然のこととして、神奈川県警とTBSに対する怒りがこみ上げてきました。
 
 失踪当初、坂本弁護士が所属する横浜法律事務所の関係者は、オウム真理教の関与を強く指摘していました。
 しかし、神奈川県警は一貫して事件性を否定する立場をとり続けました。
 
 これは、横浜法律事務所が労働問題や日本共産党幹部宅盗聴事件など、警察側と対立していたためといわれています。
 あろうことか県警は、記者クラブで、「借金を抱えて失踪した」とか「大金を持ったまま逃げた」などのデマを流していて、まともに捜査をしていなかったことが判明しています。
 
 翌1990年2月に神奈川県警に一通の差出人不明の封筒が送られてきました。その内容は「長男は長野県大町市日向山の山中に埋めてある」と書かれていました。
 埋められている場所の手書きの地図も同封されていました。

 神奈川県警は長野県警と合同で示した場所を捜索しましたが遺体は発見できませんでした。(後の捜索でわかったことですが、実は数メートル離れたところに埋められていました)
 神奈川県警は、広い範囲を熱心に捜索するのでなく、早々と「警察の捜査かく乱を狙った、悪質ないたずら」と断定して、捜索も1日で終わってしまいました。

 再捜索の要望に対しても、県警側はまったく聞く耳を持たず、再捜索は検討にすら値しないと言い切りました。
  結局、実行犯の1人である岡崎が自首をしたことで、事件の真相が明らかになるまで神奈川県警は一切の捜査をしませんでした。

 現場の状況が失踪・夜逃げとは考えられない状況であったにもかかわらず、まともに捜査しなかったことが事件の長期化につながりました。
 さらに、坂本弁護士が労働運動に関わっていたということへの反発を神奈川県警が持っていたこと、つまり警察が思想・信条で国民を差別していたことが大きな批判をうけました。

 TBSビデオ問題というのがあります。
 坂本弁護士一家が殺害される約1週間前の10月26日のことです。
 東京放送(TBS)の番組で「3時にあいましょう」というワイドショーがありました。
 社会問題化し始めていたオウム真理教の問題について、ワイドショーで取り上げるにあたり、坂本弁護士のインタビューを収録していました。
 
 不思議なことに、その情報をオウム真理教がなぜか察知しました。
 オウム真理教幹部らがTBSに抗議したことによって、坂本弁護士のインタビューは放送中止になりました。
 さらに、TBSは抗議にきたオウム真理教幹部に、インタビューのようすを放送直前に見せているのです。 
 
 この約1週間後、11月4日に坂本弁護士一家が殺害されました。
 TBSの問題点は2つあります。
 
 1つ目は、取材源の秘匿というジャーナリズムの原則に反していること、それだけでなく殺人事件のきっかけをつくったことです。
 2つ目は、坂本弁護士一家が行方不明になって、事件が報道されているにもかかわらず、オウム真理教にビデオを見せたことを警察や弁護士会に伝えなかったことです。TBSはオウム真理教をかばい続けたことになります。
 
 TBSは、その後も、番組中の「やらせ」や「ねつ造」、収録中の事故、発言の「改編や一部抜き取りによる歪曲」など問題の多い放送局ですが、罪もない善良な市民の殺害にも結果的に荷担していたのです。

11月3日 文化の日

 今日は、国民の祝日の一つ、「文化の日」です。
 国民の祝日に関する法律(「祝日法」)では「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことを趣旨として制定されました。

 1946年に日本国憲法が公布された日でもあり、日本国憲法が平和と文化を重視しているということで、祝日法によって「文化の日」に定められたという経過があります。
 
 日本国憲法と「自由と平和と文化」が、かつては強く結びつけられて考えられていたことがわかります。
 それなのに、平和の危機、文化行政の後退が進み、「文化の日」の本来の趣旨とは大きくかけはなれた現実が、残念ながら目の前にあります。
 
 文化が軽視されていることに、ますます憂慮しています。
 
 特に、府政の借金を減らすためという理由にせよ、大阪の地場の上方文化や、こつこつ築いてきた市民の娯楽や文化・研究をばっさり切り捨てられつつある大阪のように、全国的に地方自治体での文化予算の削減が深刻になっています。
 伝統的な文化を受け継ぐなど、貴重な文化活動に携わっている人々の収入が減少して、生計の維持さえもむつかしいという深刻な事態もおきています。

 文化の日を中心に、文化庁主催による芸術祭が開催されます。
 レベルの高い芸術祭にするためには、文化をうみだす専門家や芸術団体を大事にして、舞台芸術の実演家の収入を安定させ、さらに、民間の劇場や映画館の閉鎖を食い止め、文化活動のすそ野を広げることが大切だとおもいます。

 
 話はまったくかわりますが、11月の大型連休案をご存じですか。
 体育の日を仮に11月1日、勤労感謝の日を仮に11月5日に移すことによって、11月3日の文化の日と併せて秋に大型連休を作る案があります。
 これが実現した場合、祝日に挟まれる11月2日、4日が国民の休日となります。その結果、最低でも11月1日~11月5日までの5連休になります。曜日の配列によっては最大で9連休となることもあるそうです。
 
 私は、祝日をまとめないで、あちこちに散らしておいてくれた方がうれしいのですが、みなさんはいかがですか。

11月1日 紅茶の日・・大黒屋光太夫が日本人で始めて紅茶を口にした日

 1791年の今日は、大黒屋光太夫が、ロシアの女帝・エカチェリーナ2世に招かれ、日本人で初めて紅茶を口にした日です。
 この日を記念して、1983年、日本紅茶協会が「紅茶の日」として制定しました。

 さて、大黒屋光太夫は伊勢の船頭で、廻船問屋に雇われて江戸と伊勢を往復して米など荷物を運んでいました。
 ところが、1791年、江戸に向かっていた光太夫たちの船が暴風雨にあって遭難し、北へ北へと漂流し、7ヶ月後、ロシア領のアリューシャン列島の孤島に漂着しました。
 光太夫たちは、その極寒の孤島で4年間も耐えた後、ロシアの当時の首都ペテルブルクまでシベリアを横断する大移動しました。

 日本に帰りたいという一心で、帰国の許可を得るための厳しい移動でした。
 その長い移動の間、光太夫はたくさんのロシア人たちに助けられました。また、服装や言葉・習慣が違うさまざまなな民族とも接して、日本と異なる文化をその目に焼き付けました。
 ペテルブルクでは、女帝に面会して、切々と帰国の許可を願いました。
 願いがかなって、光太夫がラクスマンに伴われて帰国したのは、漂流から10年後、1792年9月5日のことでした。
 
 さて、女帝エカテリーナに招かれた時に口にした紅茶は、当時ではたいへん貴重なものでした。
 イギリス人は、アジアから持ち帰った茶の葉と芽を乾燥させ、もみ込んで完全発酵させて紅茶を作りました。茶葉をポットに入れ、沸騰した湯をその上に注いで抽出して飲料としました。

 紅茶はヨーロッパで多く飲まれており、3回の食事のときだけでなく、食間の休息のときのもお茶を楽しんでいます。
 これらは日本人が、かつては緑茶を一日中欠かさないとことと同じですね。
 なお、最近のデータでは、イギリス人よりもアイルランドの方が、国民一人当たりの消費量が多くなっています。

 紅茶が日本に初めて輸入されたのは明治の始めでしたが、日本には緑茶があるため、すぐには定着しませんでした。
 日本で初めての紅茶専門店は、1952年、大阪に開店しました。東京都内には1974年に初めてできました。
 専門店の歴史は、まだ新しいですね。

 最後に、紅茶の効能が最近は評判になっています。
 紅茶の種類によってちがいますが、一般的には、アミノ酸、カフェイン、ビタミンA・B・P、タンニン(ポリフェノール)が多く含まれていて、それだけでも健康にいいともいわれています。
 また、特有の香りは心身をリラックスさせ、α波をだす効果があることも知られています。

 紅茶のカフェインには、疲れ回復やストレス発散、強心作用、利尿効果があります。
 紅茶のテラフラビンは、活性酸素を押さえる働きがあるそうです。また、紅茶カテキンには脂肪の吸収を抑える作用があるとされています。
 ストレートで飲めば、ダイエット効果が期待できますね。

 ただし、紅茶でもコーヒーでも。ストレートに慣れたら美味しいですよ。ミルクや砂糖はダイエット効果を台無しにするそうです。 

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