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10月22日 平安遷都

 794年(延暦13)年の今日、桓武天皇が、長岡京から山背(ヤマシロ)国(現在の京都府)の新京に移りました。
 これをもって「平安遷都」がなされたとみなされています。なお、「平安京」と命名されたのは、その年の11月8日のことでした。

 奈良時代の平城京(奈良)から、平安京にストレートに都が移ったのではありません。遷都を決意した桓武天皇は、784年、長岡京に都を移しました。
 長岡京は山城国乙訓(オトクニ)郡に造られました。範囲は現在の京都府向日市、長岡京市、京都市西京区の一帯でした。

 桓武天皇が長岡京を造営して遷都した理由の一つに、貴族や寺院の勢力が集まる大和国の平城京から脱して、その影響を排除した新たな都をつくる意図があったといわれています。
 しかし、それからわずか10年後の794年、桓武天皇はあらためて山背国北部に遷都し、平安京を造営し遷都を実行しました。
 
 この再遷都の理由は何でしょうか。
 そもそも長岡京に遷都した翌年、長岡京を造営する責任者であった藤原種継が何者かによって暗殺されました。
 しかも その容疑が桓武天皇の皇太弟・早良(サワラ)親王にかけられ、このため早良親王が配流される事件がおきました。
 早良親王が恨みを抱いたまま死去しましたが、そのころ川の洪水などの災害や疫病、皇后や皇太子の発病などが続きました。
 占い師はこれらの数々の不幸は早良親王の怨霊が原因であると占いました。こうして広く怨霊が噂されるようになり、わずか10年たらずで、平安京へ再び遷都されたわけです。

 さて、平安京は、現在の京都市の中心部にあたります。
 京都盆地の北部に建設され、東西4.5km、南北5.2kmの長方形に区画された都城でした。。
 都の北端の中央に大内裏を設け、そこから市街の中心に朱雀大路を通して、その東側に左京、西側を右京としました。
 計画では平城京の造営を踏襲して、隋・唐の長安城に倣うものですが、唐の都と違うのは城壁が存在しなかったことです。
 
 平安京の範囲は、現在の京都市街より小さかったようです。
 北限は一条通、南限は九条通、東限は寺町通、西限は阪急京都線西京極駅のあたりになるといわれています。

 都の中に走る東西南北の大路・小路の幅は思ったより広く、小路でも約12m、大路では約24m以上あったようです。

 現在の京都市内の道路は、ほとんどの場所でこれよりずっと狭くなっています。当時、朱雀大路は約84mもの幅がありました。
 名古屋市が自慢する100m道路に近い大通りだったのですね。

 平安京は、右京の地域は桂川の湿地帯にあたるため、9世紀に入ってもなかなか宅地ができず、しだいに農地へと転用されることすらありました。

 貴族の住む宅地は多くは左京に設けられ、藤原氏のような上流貴族の宅地は左京北部へ密集しました。
 一方、貧しい人々は平安京の東限を越えて、鴨川の川べりに住み始め、鴨川東岸には寺院や別荘が建設されて、市街地がさらに東に広げられる傾向が生じました。
 こうしてしだいに平安京の本来の範囲より東に偏った京都の街が形作られていきました。

 日本の都(首都)としての形式的な位置は明治維新まで続きましたが、関東地方を基盤とする鎌倉幕府や江戸幕府の成立によって行政府としての機能をしだいに失っていきました。

 私たちは「平安京」を音読みの「へいあんきょう」と読みますが、当初は「たいらのみやこ」と訓読みしたそうです。
 前述したように、長岡京での怨霊事件に懲りて、再び遷都された新京では悪いことがおこらず「平安」(訓読みは「たいら」)であって欲しいという意味が込められていました。

 なお、京都では、平安遷都1100年を記念して、1895(明治28)年に創建された平安神宮の例祭である時代祭が開催されます。

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