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10月20日 二宮尊徳(金治郎)が他界

 幕末の天保の大飢饉のとき、小田原領民4万人を救済した二宮尊徳(金治郎)が、1856年の今日、下野国(現在の栃木県)にて70歳で他界しました。
 注:金次郎よりも、「金治郎」が正しいといわれています。

 金治郎の名を歴史に残したのは、大災害が次から次へとおこった幕末に、独創的な手法で村々の復興を成功させたことにあります。
 金治郎は幕藩体制のなかの一農民としての制約をうけながら飢饉と闘いました。
 あるときは規則に縛られる役人たちと対立しながら、死ぬか生きるかの瀬戸際の困窮した農民の支援に奮闘しました。
 こうした努力が実って、小田原領民4万人を、一人の餓死者もなく救うことに成功しました。

 さて、金治郎は相模国足柄郡(現在の小田原市)の貧しい農家に生まれました。早くに両親を亡くした金治郎は、叔父に預けられ、荒れ地を開墾するなど苦労をかさね、若くして地主になりました。
 その手腕を買われて、大名の財政立て直しや、各地の荒廃した村々の復興を任されました。
 自らの農業体験に加えて、読書家だったことから、豊富な知識を持っていたので、明快な指導をおこなうことができました。役人からも農民や町人からも人気がありました。
 
 めったに人を誉めることの無かった勝海舟でさえ、二宮尊徳のことを、「いたって正直な人だったよ。だいたいあんな時勢にはあんな人物がたくさんできるものだ。時勢が人を作る例は、おれは確かに見たよ」と格別の評価をしています。(考古歴史紀行ホームページの「二宮尊徳スーパースター」による)

 そういえば、私の母校の名古屋市の則武小学校には、校舎の隅に「二宮金治郎」が薪を背におって、本を読みながら歩いている像がありました。
 先生から、ことさら説明をうけた覚えは残っていませんが、「二宮金治郎さんをみてみい」といったことがありましたが、私はちらっと見ただけで、本が好きなんやなあ、どんな本やろか、と思ったことを覚えています。 
 
 二宮尊徳は立派な人物にはちがいありませんが、人間臭く、科学的で合理的な思想家だったと思います。
 ところが、戦前の軍国主義の教育の中で、金治郎は貧乏人の刻苦勉励・立身出世の象徴として取り上げられていきました。
 修身の教科書に取り上げられるようになって、誤ったイメージが付いてしまいました。
 今日では、二宮金治郎のほんとうの姿が、多くの人々に理解されてきていると思います。

 下野国(現在の栃木県)で指導していたとき、こんなエピソードが残っています。
 「村人の仕事ぶりを見て回り、木の根しか撤去できない、周りの村人から馬鹿にされていた老人には15両もの褒美を与え、逆に他の村人より3倍近く働いている(人が見ている時だけ働いているように見せかけ、普段はサボっている)若者を厳しく叱った。」(ウキペディア「二宮尊徳」) 

 なお、兵庫県神戸市に甲子園にもよく出場している、報徳学園という学校があります。
 この学校は、二宮尊徳を敬愛し、その教えである報徳思想を実践していた大江市松が「以徳報徳」の精神を身につけた青年を育成したいと願って創立した学校です。

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