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10月15日 新渡戸稲造が永眠

 1933年の今日は、農学者であり、教育者であり、国際連盟事務次長も務めた新渡戸稲造が死去した日です。
 日本銀行券の五千円券の肖像にもなったことがあり、名前のわりに人物・業績については知られているとはいえません。

 稲造は、札幌農学校の第2期生として入学しました。
 クラーク博士の影響を受けていた第1期生が、ほぼ全員がキリスト教に入信していたので、その影響もあって、稲造たちも入学早々続々とクラーク博士が残した「イエスを信ずるものの誓約」に署名していきました。
 後日、同期の内村鑑三らとともに函館で洗礼を受けています。

 さて、アメリカ留学中にアメリカ人女性と出会い、結婚しました。
 帰国後、札幌農学校の教授をしていたころ、子どもが生まれましたが、生後1週間あまりで亡くなりました。
 夫婦の、特に稲造の悲嘆は大きく、わが子を失った悲しみを思い出すだけで苦しい時期が続きました。しばらく口に出すことはありませんでした。20年もたって、やっとそれほどでもなくなったと、悲しみについて語れるようになりました。

 そんな悲しみの中、アメリカの妻の実家で引き取って育てていた孤児の女性が亡くなり、遺産1000ドルを夫人に残したということで送金がありました。
 思いがけないお金をどう使おうかと夫妻は相談して、働く青少年のための夜学「遠友夜学校」を札幌につくることにしました。幼い子どもを亡くした稲造夫婦の子どもに対する思いがそうさせたのでしょう。
 
 この「遠友夜学校」の教師は札幌農学校の生徒が中心となっていました。授業料は無料で、教科書などもすべて学校が用意しました。手弁当、今でいうボランティアでした。
 しかし、その後、軍事教練を拒んだことをきっかけに、廃校に追いやられてしまいました。
 50年間も運営されているうちに、約1000人の生徒を世に送り出しています。中退者なども含めると6000人もの生徒が学んだということです。

 時代はもどりますが、稲造は著書「武士道」がベストセラーになったことや、立派な教育者としても諸外国での評価が高まっていました。
 このため、第2次世界大戦後の1920年に国際連盟が設立されたときには、事務次長に選ばれました。

 稲造の自己の限られた立場で、平和のために奔走しましたが、晩年は、日本が国際連盟を脱退して軍国主義思想が高まる中、彼の言動が新聞紙上に取り上げられ、軍部や右翼の激しい反発を買う一方、多くの友人や弟子たちも稲造のもとを去っていきました。

 また、反日感情を少しでもやわらげようとアメリカに渡って、日本の立場を訴えましたが、軍部の代弁者として受け止められて、アメリカの友人からも理解されず、失意の日々だったといいます。

 1933年、カナダで開かれた太平洋調査会会議に、最後の力を振り絞って日本代表団団長として出席するためカナダに渡りました。
 演説を済ませ、会議が終了した後、カナダ西岸ヴィクトリア市で倒れて、71歳で永眠しました。

 稲造の死後、第2次世界大戦がおこり、人々は大きな被害をうけ、多くのものを失いました。
 

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