« 10月15日 新渡戸稲造が永眠 | トップページ | 10月18日 冷凍食品の日 »

10月16日 マリーアントワネットが処刑された

 今日は、フランス革命でルイ16世の王妃「マリー・アントワネット」が処刑された日です。  

 マリー・アントワネットはオーストリアから、政略結婚でフランスへ嫁いできました。 
 当時のオーストリアは、プロイセン(プロシャ)の脅威をうけて、外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようとしていました。その一環として母マリア・テレジアは、アントワネットとフランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(のちのルイ16世)との政略結婚を画策しました。
 周囲に反対意見があったものの、1770年5月16日、アントワネットが14歳のとき、ルイとの結婚式がベルサイユ宮殿にておこなわれました。  

 アントワネットとルイとの夫婦仲は、趣味・気質などの不一致などで思わしくなかったといわれています。
 彼女は、寂しさや慣れない生活を紛らわすため奢侈にふけり、夜ごと仮面舞踏会で踊り明かしました。
 また、気の優しいところがある反面、たいへん移り気なところがあって、かつ享楽的な性格だったということです。母マリア・テレジアは娘の身を案じ、たびたび手紙を送って諌めましたが、効果はありませんでした。
 さらに賭博にも熱狂的で、向こう見ずな浪費家でしかないように語られていました。

 1774年、ルイ16世の即位によりフランス王妃となりました。王妃になったアントワネットは、ベルサイユ宮殿の慣習や儀式を廃止したり緩和させましたが、家来たちからは、逆に反感を買ってしまいました。
 宝塚歌劇の「ベルサイユのばら」でも知られるスウェーデン貴族フェルセンとの浮き名が、宮廷ではもっぱらの噂となりました。
 
 一方、ルイ15世の娘・アデライード王女やルイ15世のデュ・バリー夫人とも対立し、宮廷の内部だけでなく、ベルサイユ宮殿以外の場所、特にパリではアントワネットへの中傷がひどかったといわれています。
 多くは流言飛語の類でしたが、結果的にこれらの中傷が信じられて、パリの民衆の憎悪をかき立てることとなりました。
 マリー・アントワネットの名を騙った事件や騒動が絶えなかったといわれています。

 アントワネットも含めたフランスの支配層(貴族・僧など)は、旧体制を維持するために農民を搾取し、市民の権利を認めず、民衆の中には不満がうっせきしていました。

 こうした中で、1789年7月14日、フランスの王政に対する民衆の不満がついに爆発し、フランス革命が勃発しました。
 国王一家はベルサイユ宮殿から、パリのテュイルリー宮殿に身柄を移されました。このあと、アントワネットは、フェルセンの力を借りて、フランスを脱走してオーストリアに助けを求めようと国外脱出を計画しました。
 国王が国を捨てるという、大胆な行動でした。

 1791年6月20日、脱出計画が実行に移されました。
 国王一家は庶民に化けてパリを脱出しました。ルイは女装し、アントワネットは家庭教師に化けました。 
 フェルセンは革命軍の兵士から疑われないように、ルイとアントワネットは別行動がのぞましいと説得しましたが、アントワネットは家族全員が乗れる、広くて足の速い豪華な馬車に乗ることを主張して譲りませんでした。
 (この期に及んで何をいうか、とフェルゼンは思ったことでしょう。)
 用意されたベルリン馬車に、銀食器、衣装箪笥、食料品など日用品や咽喉がすぐ乾く国王のために酒蔵一つ分のワインが積めこまれました。
 (フェルゼンのあきれた顔が浮かぶようです。)

 この荷物のため、馬車のスピードをさらに遅らせてしまい、逃亡計画は大きく狂ってしまいました。
 脱出を知った革命軍が追跡してきて、国境近くのヴァレンヌで身元がばれてしまいました。(私の高校時代の世界史の先生が、ヴァレンヌで身元がばれたというダジャレをいったのでこの事件はよく覚えていました・・・失礼)
 パリへ連れもどされました。
 このヴァレンヌ事件により、国王一家に対する反感が燃え上がり、親国王派の国民からも見離されてしまいました。
 
  1792年、諸外国がフランス革命をつぶそうとしてたことに対して、革命を守るためのフランス革命戦争がおこりました。
 すると、マリー・アントワネットが敵軍にフランス軍の作戦を漏らしているとの噂が立ちました。このようにアントワネットはまったく信用されていませんでした。
 
 1793年1月、国王一家に対する裁判がおこなわれ、ルイ16世には死刑判決が下され、ギロチンによって処刑されました。
 アントワネットはコンシェルジュリー牢獄に移された後、裁判が行われ、1793年10月15日、死刑判決を受けました。
 翌10月16日、コンコルド広場において夫ルイの後を追ってギロチンで処刑されました。

 通常はギロチンで処刑されるときは顔を下に向けますが、アントワネットの時には顔をわざと上に向け、上から刃が落ちてくるのが見えるようにされたという噂が流れていますが、真実ではありません。
 むしろこのような噂が流れるほど、アントワネットに対するフランス国民の憎悪が激しかったという証拠にはなります。

 遺体は夫ルイ16世など、フランス君主の埋葬地であるサン=ドニ大聖堂に葬られました。 

« 10月15日 新渡戸稲造が永眠 | トップページ | 10月18日 冷凍食品の日 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

マリー・アントワネットは、ルイ16世とともに、ギロチン処刑されたのですね。


大昔の話なんですね。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/503568/42822573

この記事へのトラックバック一覧です: 10月16日 マリーアントワネットが処刑された:

« 10月15日 新渡戸稲造が永眠 | トップページ | 10月18日 冷凍食品の日 »