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10月31日 ハロウィン

 今日はハロウィンの日です。
 ハロウィンは、キリスト教の聖人の祝日「万聖節」の前晩に行われる伝統行事です。

 もともとは古代ヨーロッパの原住民であるケルト人の収穫感謝祭がカトリックに取り入れられたものでした。
 イギリスなどアングロ・サクソン系諸国でおもに行われる行事で、地域性が強く、キリスト教会とは不可分の行事ではありません。
 キリスト教が広まっている地域であれば必ず祝われると行事ではありません。

 さて、ケルト人の1年の終わりは10月31日で、この夜は死者の霊が家族を訪ねたり、精霊や魔女が出てくると信じられていました。
 これらから身を守るために仮面を被り、魔除けの焚火を焚いたりしました。

 もともとは白色のカブをくりぬき、刻み目を入れ、内側からろうそくで照らしてたもので「お化けカブ、カブちょうちん」を作っていました。
 「お化けカボチャ」は、アメリカへ渡った移民たちが、カブよりも刻みやすいカボチャを使っていたので、それで広がりました。
 ハロウィンを祝う家庭では、カボチャを刻んで怖い顔や滑稽な顔を作り、悪い霊を怖がらせて追い払うため、ハロウィンの晩、家の戸口の上り段に置きます。

 10月31日の夜、魔女やお化けに仮装した子供たちが「お菓子をくれなきゃ、いたずらするぞ」と唱えて、近くの家を1軒ずつ訪ねてお菓子をもらいます。
 家庭では、カボチャの菓子を作り、子供たちはもらったお菓子を持ち寄り、ハロウィン・パーティーを開いたりします。

 ハロウィンのテーマは本来、不気味なものや怖ろしいもので、死霊、不死の怪物、黒魔術、怪物などが含まれます。
 ただし、最近はおどろおどろしいモチーフは廃れてきて、仮装のモチーフとしては、妖精や野菜など愛らしいものが好まれるようになりました。
 日本では、幽霊やお化けが出る怪談は夏が多いですが、この地域ではハローウィンの時期、つまり秋に出てきます。

 日本でのハロウィンは、英語教材やアメリカの映画(E.Tなど).・テレビなどを通じて、アメリカの子供たちの行う行事として知られてきました。
 首都圏の一部では盛んになってきました。内容は、仮装パレードの形式をとることが多くなっています。
 
 近年、東京ディズニーランドや東京ディズニーシー、ユニバーサルスタジオジャパンで日本人がハロウィンに接する機会が増え、クリスマスと同じような盛り上がりを見せ始めています。

 クリスマスのように宗教色を抜いて、お祭り的な行事に作り変えることが得意な日本人。ハロウィンはこれからどうなっていくのでしょうか。

10月29日 凌雲閣(浅草十二階)が竣工

 1890年の今日、東京・浅草に「凌雲閣」の建物が竣工しました。
 「凌雲閣」は、1890年から1920年までの約30年間、東京・浅草にあった、当時では珍しい12階建てのビルです。
 12階建てでしたので、「浅草十二階」という名でも知られています。

 10階まではレンガ造りでそれより上は木造でした。高さは52mといわれています。
 名称の由来は、「雲を凌ぐほど高い」ことを意味しています。
 そのころ郵便物として許可されて、大流行した絵葉書にも、まわりが平屋の家々の中に、雲を突くようなビルが立っている写真が残っています。
 まさに「凌雲閣」は、東京における高層建築物の先駆けでした。

 また、日本で初めてのの電動式エレベーターが設置されたことでも知られいます。
 「凌雲閣」の開業は予定より一日延期になって11月11日になりましたが、当初の開業予定日11月10日が、今日でも「エレベーターの日」に制定されています。

 完成当時は、12階建ての建築物はモダンでしたから、多くの客が集まり、歓楽街となって浅草の顔でもありました。外国の短編映画にもその姿が登場しています。
 建物の中は、8階までは世界各国の物産店でした。それより上の階は休憩室・展望室になっていました。
 176枚の窓があり、展望室からは東京界隈はもとより、関東平野を取りまく山々まで見渡すことができました。

 開業時にはもの珍しさで多数の人々で賑わいましたが、しだいに客足が減り、経営困難に陥っっていきました。
 明治の末に、「十二階演芸場」ができ、1914年には、それまで使用中止していたエレベーターが再設されたのをきっかけに、来客数が増えましたが一時的なものに終わり、その後は再び経営難に苦しみました。

 12階は、その高さゆえに浅草のランドマークとなり、石川啄木の「一握の砂」、北原白秋・金子光晴の詩歌や江戸川乱歩の短編「押絵と旅する男」など、数多くの文学作品にその姿は登場しました。

  石川啄木の短歌<「一握の砂」より> 
  浅草の凌雲閣のいただきに 腕組みし日の長き日記かな  

 1923年に発生した関東大震災は「凌雲閣」に決定的な打撃を与えました。
 建物の8階部分から上が崩壊してしまいましたが、経営難のために復旧が困難でしたので、同年に陸軍工兵隊により爆破解体されました。
 凌雲閣の跡地はその後、映画館の浅草東映劇場となっていましたが、現在はパチンコ店になっているようです。

 ちなみに、日本で初めての美人コンテストは1891(明治24)年に行われたという記録があります。
 そのわが国初のコンテストこそ「浅草凌雲閣」で開催された「百美人コンテスト」だといわれています。
 ただし、この美人コンテストの参加者は一般女性ではなく、赤坂、新橋、吉原、向島などの花街の芸妓たちでした。
 当時のことですから水着になるなんてとんでもありません。投票は写真を見ておこなわれました。
 「百美人コンテスト」では、同じ背景のもとで撮影した写真を、不公平のないように並べるなどかなり気を使って投票がおこなわれました。
 見事、第1位となったのは、新橋芸妓のおすずという女性でした。

10月28日 「自由の女神像」が完成

 1886年の今日は、アメリカ合衆国のニューヨーク港内、リバティ島にある「自由の女神像」が完成し、除幕式がおこなわれた日です。
 「自由の女神像」はアメリカ合衆国の独立100周年を記念して、アメリカの独立運動を支援したフランス国民の募金によって贈呈されました。

 ニューヨークといえば、必ず「自由の女神像」が思い浮かぶほど、この街のシンボルになっています。マンハッタンの南端にあるバッテリーパークから、フェリーで約15分の近さです。
 フェリーが女神像に近づいていくとその大きさがよくわかります。右手に持っているトーチの先端までの高さは海面から約92mで、総重量は225トンになります。

 右手では純金のたいまつを空高く掲げ、左手には「1776年7月4日」(アメリカ合衆国の独立記念日)とローマ数字で刻印されている銘板を持っています。
 足元には引きちぎられた鎖と足かせがあり、これを女神が踏みつけています。
 
 これは、すべての弾圧、抑圧からの解放と、人類は皆自由で、平等であることを象徴しています。
 さらに、女神がかぶっている王冠には7つの突起があります。これは、7つの大陸と7つの海に自由が広がるという意味だといわれています。

 この像のモデルは、ドラクロワの絵画「自由の女神」と、設計を担当したバルトルディの母親の厳格な表情をあわせもった顔だといわれています。
 設計にはエッフェル塔で知られるエッフェルも関わりました。
 資金集めに相当苦労しましたが、やっとパリで仮組みが完成され、214個に分解されてフランス海軍のイゼール号で運ばれました。

 新天地をめざしてヨーロッパやラテンアメリカを脱出し、期待に胸をふくらませてニューヨーク港に入港した移民が、いの一番に目にしたものは「自由の女神像」でした。
 未知の土地で新しい人生を切り開いていこうとする、新たな決意をさせたことでしょう。

 たしかに、この100年間のアメリカ合衆国の歴史は、移民や自国民にとっては自由と幸せをもたらしたかもしれません。
 
 しかし、一方で、ベトナム戦争やイラク戦争、「強いアメリカ」を標榜して各地でおこした戦争など、世界の人民に対しては自由と幸せをもたらしてきたとは言えない(むしろ抑えつけた)歴史も持っていることを忘れることはできません。

10月27日 山東京伝、世を去る

 1816年の旧暦の今日10月27日、江戸時代の戯作(ゲサク)者・山東京伝が胸痛の発作を起こし、56歳でこの世を去りました。
 京伝は戯作者(小説家)であるとともに絵師、それも単なる絵師ではなくデザイナーでもありました。
 俗称を京屋伝蔵といい、「紅葉山の東に住む京屋伝蔵」というところから、「山東京伝」というペンネームをつけたといわれています。

 黄表紙の挿絵画家としてデビューしましたが、のちに戯作者に転じました。
 「御存知商売物」、「江戸生艶気樺焼」など多くの黄表紙や洒落本を書き、大評判を得て売れっ子作家となりました。
 さらに、遊郭内部のようすを描いた洒落本を出し、これもベストセラーとなります。
 かの有名な曲亭馬琴も京伝に入門して、戯作者として出発しています。

 京伝以前は戯作者に対して原稿料を払うしくみはありませんでしたが、最初に原稿料が支払われるようになったのは山東京伝からであるともいわれています。初のプロ作家というべきでしょうか。
 
 しかし、順風にきていましたが、京伝の洒落本と黄表紙が、松平定信による寛政の改革で出版取締りによって罰を受け、手鎖50日の刑を受けました。
 手鎖という刑は、前に組んだ両手に鉄製で瓢箪型の手錠をかけ、一定期間自宅で謹慎させる刑罰です。
 
 京伝の場合は50日の手鎖でしたから、5日ごとに役人(同心)が来て錠改めを行いました。手鎖の中央の封印を確認し、もし無断で錠をはずしていたことが発覚した場合には、それより一段階重い罪が科せられるしくみになっています。
 自宅謹慎の執行期間中の日常生活は、食事に書き物、排便に更衣など不便この上なく、すべてに支障をきたしました。

 処分が解除されたあとは、洒落本からは手を切って、読本、合巻と呼ばれる小説を執筆する方向に転じて、江戸戯作界の第一人者として活躍し続けました。
 
 また、京伝は、江戸京橋に紙製の煙草入れの店を開きました。
 京伝は、目新しい商売スタイルを考えました。人出の多いところに京伝自身が描いたポスターを張って客を集めることでした。
 さらに京伝がデザインした包装紙で煙草入れをくるんで販売しました。包装紙欲しさに煙草入れは飛ぶように売れ、大流行しました。
 さらに「京伝張り煙管(キセル)」もヒットしています。

 なお、古い言葉ですが「京伝勘定」というのがあります。
 山東京伝は金もあり、遊び人のくせに、勘定に細かいところがあって、飲んだあともその場で頭割りで勘定をはじめました。
 つまり、「京伝勘定」とは、今では当たり前の「割勘」のことなんですね。

10月26日 柿の日

 今日は、「柿の日」です。
 明治の俳人・正岡子規が、1985年10月26日に「柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺」の句を詠んだことに由来しています。

 カキノキはカキノキ科の落葉樹で、雌雄同株です。5月ごろに白黄色の花をつけます。カキノキの果実を「柿」といいます。
 日本の甘い「柿」は、16世紀ごろにポルトガル人によってヨーロッパに伝えられ、その後アメリカ大陸に広まっていきました。
 今では、「柿」は世界中で「KAKI」の名で通用します。
 
 私は「柿」が大好きです。「柿」は体を冷やすといわれていても食べてしまいます。
 そこで、自分のためにもおいしい「柿」の見分け方について調べてみましたが、これといった決め手はありませんでした。
 
 あえて言えば、ヘタが果実に張り付いていて、すき間がないのが「良い柿」ということですね。しかし、イコール「おいしい柿」というわけではありません。
 スーパーの売り場で、同じ品種同士で比較するならば、赤くて大きい方がおいしいらしいです。
 色が赤くても、すき間があって赤いのは要注意だそうです。

 さて、柿の葉には、ビタミンC、K、B類などのミネラル分、フラボノイドなどを多く含んでいます。
 フラボノイドには毛細血管を保護して丈夫にし、その吸収力を調整する作用があることが知られています。
 最近では、抗酸化性、抗ガン性、血圧上昇抑制作用、抗菌・抗ウィルス作用、抗う歯(虫歯)作用、抗アレルギー作用などの作用を持っていることが分かってきました。
 
 また、血管を強化する作用や止血作用を持っているため、飲用するなどで民間療法に古くから用いられてきました。
 また近年では花粉症予防に有効とされ、サプリメントに加工されています。
 「柿の葉寿司」は、殺菌効果が高いことを利用した、健康的な押し寿司です。

 このように「柿」には有効成分が多いため、「柿が赤くなれば、(病人が減って)医者が青くなる」という言葉があるほど、「柿」の栄養価は高いのです。
 
 二日酔いに効くわけは、ビタミンCとタンニンが血液中のアルコール分を排出してくれるからで、豊富なカリウムの利尿作用のためといわれています。
 その他、むくみ、腹水、発熱性疾患にも効能があるのもカリウムが豊富だからでしょう。もしかしたら「柿ダイエット」なんて、できるかもしれませんね。

 ちなみに、絵画や写真で、数個の「柿」がカキノキに残ったままになっていることがありますが、あのような残った「柿」を「木守柿」(コモリガキ、キモリガキ)といいます。
 これは、豊作への祈願であるとも、野鳥のために残しておくともいわれている風習だそうです。

10月25日 広島「原爆の子の像」モデル、佐々木禎子の命日

 今日は、戦時中、広島市に住んでいた「佐々木禎子」(ササキサダコ)の命日です。
 「佐々木禎子」は、広島平和記念公園にある「原爆の子の像」のモデルになっている少女です。
 また、シアトルの平和公園にも銅像があります。
 
 佐々木禎子は1943年の生まれです。
 爆心地から1.7kmの自宅で、黒い雨により被爆しました。そのとき彼女は2歳でした。
 被爆したものの外傷もなく、その後元気に成長しました。しかし、9年後の小学校6年生の秋に突然、病のきざしが現れました。
 首のまわりにシコリができはじめ、シコリがおたふく風邪のようになって、顔が腫れ上がり始めました。翌年2月に白血病と診断され、広島赤十字病院に入院しました。長くても1年の命と言われました。

 入院してから、お見舞いとして送られてきた折り鶴を彼女も折り始めました。禎子だけではなく多くの入院患者も折り始めました。
 彼女は、折り紙で千羽鶴を折れば元気になると信じてひたすら折り続けました。1000羽を超えた時、さらに「もう1000羽折るわ」と、折り続けました。
 その後、折り鶴は小さいものになり、針を使って折るようになりました。当時、折り紙は高価でしたので、折り鶴は薬の包み紙のセロファンなどで折られました。
 
 彼女の病状は悪化し、回復を願って折り続けましたが、8か月の闘病生活の後、1955年10月25日に帰らぬ人となりました。
 死後、彼女が折った鶴は葬儀の時に2・3羽ずつ参列者に配られました。

 彼女の死をきっかけに、平和を願い、原爆で亡くなった子どもたちの霊を慰めるために像をつくろうという運動がおこりました。
 3年後の1958年、全国からの募金で平和記念公園内に「原爆の子の像」が完成しました。
 その後、この話は世界に広がり、今も「原爆の子の像」には、日本国内をはじめ世界各国から折り鶴が捧げられ、その数は年間約1000万羽にものぼります。
 こうして、折り鶴と平和の願いが結びついたのです。

 「原爆の子の像」の頂上には折り鶴を捧げ持つ少女のブロンズ像が立ち、平和な未来への夢を託しています。
 像の下の石碑には、「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」という碑文が刻まれています。
 
 塔の内部には、少年少女たちの気持に感動したノーベル物理学賞の湯川秀樹の筆による「千羽鶴」、「地に空に平和」の文字が彫られた銅鐸を模した鐘がつられています。
 その下に金色の鶴がつるされ、風鈴式に音がでるようになっています。

10月24日 ノルマントン号事件

 1886(明治19)年の今日は、「ノルマントン号事件」がおこった日です。
 小学校・中学校の社会科の教科書でかならず習う事件ですので、おぼえている方も多いことでしょう。
 フランス人画家ビゴーが、イギリス人が乗ったボートの横で、日本人が波間に顔だけ出してプカプカ浮いている風刺画を描いています。

 イギリス船籍の貨物船・「ノルマントン号」は、横浜を出航して神戸に向かっていたところ、暴風雨により紀州の大島沖(潮岬沖)で暗礁に触れ、船体が大破して沈没してしまいました。
 「ノルマントン号」に乗っていたのは、乗員乗客あわせて64人でした。
 内訳はイギリス人船員25名、イギリスの植民地(インド・中国など)の船員14名、日本人乗客25名でした。(人数については異説あり)

 ところが、イギリス人船員全員は救命ボートで避難していたため救助されました。日本人乗客と植民地の船員の全員が水死しました。
 このことは船長が適切な避難誘導をせずに、乗客である日本人を取り残したのではないかとの疑念から当時の世論が沸騰しました。
 
 残念なことですが、当時は外国人に治外法権があり、日本側に裁判権がないために、十分満足できる検証が得られませんでした。外国人が日本国内で犯罪を犯しても、日本の裁判所が外国人を裁くことができませんでした。
 江戸幕府が、幕末にアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスと調印した安政5カ国条約(修好通商条約)のためです。
 
 このため、ドレーク船長は、イギリス領事の裁判を仰ぐこととなりました。
 神戸のイギリス領事による裁判で、ドレーク船長は、「船員は救命ボートに移るように説明したが、日本人乗客は船内に籠もって出ようとしなかったのでやむなくそのままにした。ノルマントン号は貨物船なので、日本語が話せる乗客向けのスタッフはいない。」という証言しました。
 判決では、ドレーク船長らイギリス人船員全員が無罪となりました。

 イギリス人全員が無罪となった事実を知って、全日本国民の怒りが爆発しました。
 その後、国民の反発に押された日本政府の抗議により、再審理がなされ、船長のみに禁錮3ヶ月の刑が言い渡されました。
 
 この事件以降、不平等条約改正の動きが高まりました。
 「ノルマントン号事件」は、領事裁判の不当さを日本人に痛感させた事件として歴史に残るものになりました。
 
 条約改正は、結局は、ロシアの極東進出の対抗するイギリスの思惑で、1894年に、日英通商航海条約が締結されて、「治外法権が撤廃」されることになりました。

 なお、もう一つの不平等条約である、「関税自主権がない」ことについては、日露戦争後の1911年、アメリカとの交渉で関税自主権を回復して懸案の条約改正が完了しました。

10月23日 東京オリンピックで「東洋の魔女」が金メダルを獲得

 1964年の今日、東京オリンピック女子バレーボールで、「東洋の魔女」がソ連を下し金メダルを獲得しました。
 「東洋の魔女」というのは、1961年のヨーロッパ遠征で22連勝した日紡貝塚女子バレーボールチームにつけられたニックネームです。
 
 私たち日本人は、魔女という言葉を「不思議な力を持つ女性」としてとらえ、。「魔女の宅急便」などにみられるように悪意はありません。
 ところが、英語圏では、魔女と言うのは女性に対する最悪の罵声の一つだそうです。「東洋の魔女」というのは褒め言葉ではなく、野次であり侮蔑であるというのが実際のところでした。
 また、、「東洋の魔女」とよばれる前、当時のソ連の外電は、「東洋の台風」、「東洋の魔法使い」の異名をつけて世界的なヒロインとして伝えました。

 さて、1964年の東京オリンピックでは、6人制バレーボールが正式種目に採用されました。メダルが期待される種目でした。
 日本は、日紡貝塚を主体としたチームで出場しました。圧倒的な強さで、全5試合で落としたセットはポーランド戦の1セットのみというものでした。
 
 ソ連とは全勝同士の決勝戦であたりました。
 試合は、日本が順調に2セットを連取しました。3セット目も試合を優位に進めましたが、14対9のマッチポイントをとりましたが、その後ソ連の粘りが続きました。
 しかし、最後はソ連の選手のオーバーネットによる反則によって、セットカウント3対0のストレートで勝利し、金メダルを獲得しました。
  
 魔女に魅入られた一億人の人々は、決勝戦で視聴率85%(NHK)という高視聴率をひねり出したのでした。私も家族も、テレビに熱中して応援したことを思い出します。

 このころから、空前のバレーボール・ブームがおこりました。テレビ・漫画の「サインはV」、「アタックNo.1」などは人気番組になりました。
 中学校・高校のクラブではバレーボール部のない学校はない、というぐらいに普及しました。ママさんバレーもしかりです。

 回転レシーブや時間差攻撃、変化球サーブなど今では当たり前になっているさまざまな戦術をあみ出した功績は大きいと思います。
 これらの戦術は、当時の人々にとっては「魔法」のように見えたのかもしれませんね。

10月22日 平安遷都

 794年(延暦13)年の今日、桓武天皇が、長岡京から山背(ヤマシロ)国(現在の京都府)の新京に移りました。
 これをもって「平安遷都」がなされたとみなされています。なお、「平安京」と命名されたのは、その年の11月8日のことでした。

 奈良時代の平城京(奈良)から、平安京にストレートに都が移ったのではありません。遷都を決意した桓武天皇は、784年、長岡京に都を移しました。
 長岡京は山城国乙訓(オトクニ)郡に造られました。範囲は現在の京都府向日市、長岡京市、京都市西京区の一帯でした。

 桓武天皇が長岡京を造営して遷都した理由の一つに、貴族や寺院の勢力が集まる大和国の平城京から脱して、その影響を排除した新たな都をつくる意図があったといわれています。
 しかし、それからわずか10年後の794年、桓武天皇はあらためて山背国北部に遷都し、平安京を造営し遷都を実行しました。
 
 この再遷都の理由は何でしょうか。
 そもそも長岡京に遷都した翌年、長岡京を造営する責任者であった藤原種継が何者かによって暗殺されました。
 しかも その容疑が桓武天皇の皇太弟・早良(サワラ)親王にかけられ、このため早良親王が配流される事件がおきました。
 早良親王が恨みを抱いたまま死去しましたが、そのころ川の洪水などの災害や疫病、皇后や皇太子の発病などが続きました。
 占い師はこれらの数々の不幸は早良親王の怨霊が原因であると占いました。こうして広く怨霊が噂されるようになり、わずか10年たらずで、平安京へ再び遷都されたわけです。

 さて、平安京は、現在の京都市の中心部にあたります。
 京都盆地の北部に建設され、東西4.5km、南北5.2kmの長方形に区画された都城でした。。
 都の北端の中央に大内裏を設け、そこから市街の中心に朱雀大路を通して、その東側に左京、西側を右京としました。
 計画では平城京の造営を踏襲して、隋・唐の長安城に倣うものですが、唐の都と違うのは城壁が存在しなかったことです。
 
 平安京の範囲は、現在の京都市街より小さかったようです。
 北限は一条通、南限は九条通、東限は寺町通、西限は阪急京都線西京極駅のあたりになるといわれています。

 都の中に走る東西南北の大路・小路の幅は思ったより広く、小路でも約12m、大路では約24m以上あったようです。

 現在の京都市内の道路は、ほとんどの場所でこれよりずっと狭くなっています。当時、朱雀大路は約84mもの幅がありました。
 名古屋市が自慢する100m道路に近い大通りだったのですね。

 平安京は、右京の地域は桂川の湿地帯にあたるため、9世紀に入ってもなかなか宅地ができず、しだいに農地へと転用されることすらありました。

 貴族の住む宅地は多くは左京に設けられ、藤原氏のような上流貴族の宅地は左京北部へ密集しました。
 一方、貧しい人々は平安京の東限を越えて、鴨川の川べりに住み始め、鴨川東岸には寺院や別荘が建設されて、市街地がさらに東に広げられる傾向が生じました。
 こうしてしだいに平安京の本来の範囲より東に偏った京都の街が形作られていきました。

 日本の都(首都)としての形式的な位置は明治維新まで続きましたが、関東地方を基盤とする鎌倉幕府や江戸幕府の成立によって行政府としての機能をしだいに失っていきました。

 私たちは「平安京」を音読みの「へいあんきょう」と読みますが、当初は「たいらのみやこ」と訓読みしたそうです。
 前述したように、長岡京での怨霊事件に懲りて、再び遷都された新京では悪いことがおこらず「平安」(訓読みは「たいら」)であって欲しいという意味が込められていました。

 なお、京都では、平安遷都1100年を記念して、1895(明治28)年に創建された平安神宮の例祭である時代祭が開催されます。

10月21日 マゼランがマゼラン海峡を通過(発見)

 1520年の今日、世界一周を成し遂げたことで有名な、フェルディナンド・マゼランが南アメリカ大陸の南端にある「マゼラン海峡」を通過した日です。ヨーロッパ人としては「発見」でした。

 マゼランは7日間をかけてここを通過し、後に彼の名前をとって「マゼラン海峡」とよばれるようになりました。
 航海の難所として有名な海峡で、全長600kmの狭い海域に、早い潮流と多くの暗礁が点在しています。マゼランの艦隊がわずか7日で通過できたのは、当時としては奇跡だといわれています。
 
 さて、マゼランは、25才のときから、ポルトガルの東方遠征で命がけで戦い、試練を積んで、10年後にリスボンへ帰りました。
 ところが、苦労した割りには功績をたたえてもらえませんでした。
 ポルトガルに見切りをつけ、西回りでモルッカ諸島に達する航海について、スペイン国王の後援をとりつけました。
 モルッカ諸島は香料の産地として有名でした。

 1519年9月20日、5隻のスペイン船隊と237人の乗組員を率いて出帆しました。
 前述のマゼラン海峡を通過できたのはヴィクトリア号を含む3隻だけでした。サンティァゴ号はマゼラン海峡で難破して遭難しました。サン・アントニオ号はマゼラン海峡で反乱をおこし、逃亡して帰国してしまいました。
 
 マゼラン海峡をぬけて、広くて大きな海に出てからは、嵐にもあわず、穏やかなことを喜んで、マゼランはこの海を「マール・パシフィコ(平和の海)」と名づけました。
 英語では、「Pacific Ocean」といいます。
 これらが日本語に素直に直訳されて、「平和・泰平の海=太平洋」という名が付けられました。
 しかし、太平洋に入ってからは食料が思うように手に入らず、飢餓と壊血病に苦しめられました。

 3ヶ月ほどたってやっと島をみつけました。グアム島です。
 この島では、村落を襲って、島民らを殺して食料を強奪しましたが、現地住民によって奪いかえされました。怒ったマゼランが焼き討ちをかけたので戦闘になりました。マゼランは、ここを泥棒諸島と名づけました。
 一行はフィリッピン諸島を経て、セブ島に向かいました。
 
  セブ島では、現地の指導者をキリスト教に改宗させ、彼を王として認めるように周辺の島々に要求しました。これには隣島のマクタン島の領主が反対しました。
 マゼランはマクタン島を攻めましたが、このときの浅瀬の白兵戦で、ラブ=ラブとの交戦中に戦死しました。マゼラン、41歳のことでした。
 
 ヨーロッパ人の世界進出は、略奪の歴史でもあります。
 マゼランを殺したラプ=ラプはフィリピンでは、侵略者を撃退した英雄として伝説になっています。
 
 残りの一行はそのまま、当初の目的地であったモルッカ諸島に何とかたどり着くことができました。
 そこで香料を積荷したのち、スペインに直行しました。
 1522年9月6日、出発したサンルカル・デ・パメタ港に帰港しました。生存者は18名だけでした。
 この世界一周の航海によって地球が丸いことや日付に一日のずれがあることが実証されました。

 なお、マゼラン海峡を通過した3隻の船隊のうち、コンセプシオン号はセブ島で乗員不足のため焼き捨てられました。
 トリニダート号はモルッカ諸島で香料を積み過ぎて沈没しました。
 最後まで残ったヴィクトリア号だけが世界一周を達成したことになります。

10月20日 二宮尊徳(金治郎)が他界

 幕末の天保の大飢饉のとき、小田原領民4万人を救済した二宮尊徳(金治郎)が、1856年の今日、下野国(現在の栃木県)にて70歳で他界しました。
 注:金次郎よりも、「金治郎」が正しいといわれています。

 金治郎の名を歴史に残したのは、大災害が次から次へとおこった幕末に、独創的な手法で村々の復興を成功させたことにあります。
 金治郎は幕藩体制のなかの一農民としての制約をうけながら飢饉と闘いました。
 あるときは規則に縛られる役人たちと対立しながら、死ぬか生きるかの瀬戸際の困窮した農民の支援に奮闘しました。
 こうした努力が実って、小田原領民4万人を、一人の餓死者もなく救うことに成功しました。

 さて、金治郎は相模国足柄郡(現在の小田原市)の貧しい農家に生まれました。早くに両親を亡くした金治郎は、叔父に預けられ、荒れ地を開墾するなど苦労をかさね、若くして地主になりました。
 その手腕を買われて、大名の財政立て直しや、各地の荒廃した村々の復興を任されました。
 自らの農業体験に加えて、読書家だったことから、豊富な知識を持っていたので、明快な指導をおこなうことができました。役人からも農民や町人からも人気がありました。
 
 めったに人を誉めることの無かった勝海舟でさえ、二宮尊徳のことを、「いたって正直な人だったよ。だいたいあんな時勢にはあんな人物がたくさんできるものだ。時勢が人を作る例は、おれは確かに見たよ」と格別の評価をしています。(考古歴史紀行ホームページの「二宮尊徳スーパースター」による)

 そういえば、私の母校の名古屋市の則武小学校には、校舎の隅に「二宮金治郎」が薪を背におって、本を読みながら歩いている像がありました。
 先生から、ことさら説明をうけた覚えは残っていませんが、「二宮金治郎さんをみてみい」といったことがありましたが、私はちらっと見ただけで、本が好きなんやなあ、どんな本やろか、と思ったことを覚えています。 
 
 二宮尊徳は立派な人物にはちがいありませんが、人間臭く、科学的で合理的な思想家だったと思います。
 ところが、戦前の軍国主義の教育の中で、金治郎は貧乏人の刻苦勉励・立身出世の象徴として取り上げられていきました。
 修身の教科書に取り上げられるようになって、誤ったイメージが付いてしまいました。
 今日では、二宮金治郎のほんとうの姿が、多くの人々に理解されてきていると思います。

 下野国(現在の栃木県)で指導していたとき、こんなエピソードが残っています。
 「村人の仕事ぶりを見て回り、木の根しか撤去できない、周りの村人から馬鹿にされていた老人には15両もの褒美を与え、逆に他の村人より3倍近く働いている(人が見ている時だけ働いているように見せかけ、普段はサボっている)若者を厳しく叱った。」(ウキペディア「二宮尊徳」) 

 なお、兵庫県神戸市に甲子園にもよく出場している、報徳学園という学校があります。
 この学校は、二宮尊徳を敬愛し、その教えである報徳思想を実践していた大江市松が「以徳報徳」の精神を身につけた青年を育成したいと願って創立した学校です。

10月19日 「ガリヴァー旅行記」のスウィフトが死去

 今日は、イギリスの作家である「ジョナサン・スウィフト」が死亡した日です。
 スウィフトは1667年生まれですから、日本でいえば、江戸時代の中期のころにイギリスで活躍したことになります。

 スウィフトはアイルランドで生まれ、叔父の家で育てられました。
 ダブリン大学を卒業して、テンプルという政治家の秘書になりました。この時期に古典や歴史に興味をもち、政治にも関心をよせるようになっていきました。
 
 スウィフトは、当時のイギリス社会のいろいろな害悪を、書物によって批判しようとしていました。
 まず、1704年には、キリスト教会内部の争いを風刺した「桶物語」と、学問の世界を風刺した「書物合戦」を出版しましたが、これはかなりの評判になりました。

 テンプルが死んだ後は、当時のイギリスの二大政党の一つ、ホイッグ党のために政治論を書きました。
 のちに、ダブリンの聖パトリック寺院の首席司祭(僧職)になりましたが、アン女王の死をきっかけに失意のうちに引退しました。持病のメニエール症候群によるめまいと耳鳴りがひどくなっていたからです。

 なお、そのころ、デフォーが「ロビンソン・クルーソー」を出版して好評を得ていました。
 スウィフトは、これをきっかけに「ガリヴァー旅行記」を書き始めました。スウィフトは、軽蔑していたデフォーの成功に対抗心を燃やしていたといわれています。
 そして、1726年、59歳のとき,「ガリヴァー旅行記」を出版しました。

 「ガリヴァー旅行記」は4部からなっています。
 「リリパット国渡航記」では,身長15センチほどの小人の住む国にガリヴァーが漂着したところから描かれています。一番有名な場面です。
 ここでは戦争、奴隷制度、植民地主義など、当時のイギリスの政治を描いています。

 「ブロブディンナグ国渡航記」では巨人国を描いています。この国には、人間の12倍もある巨人が住んでいます。
 平和が保たれたこの農業国をスウィフトは好意を持って描いています。

 空飛ぶ島の「ラピュータへの渡航記」を経て、馬の国へ行きますが、ここの「ラピュータ」は、宮崎駿のアニメーション映画「天空の城ラピュタ」の名の由来です。
 
 最後の「フウイヌム国渡航記」は、いわゆる馬の国の旅行記です。
 フウイヌム国の支配者であるフウイヌムは、馬の姿をしていますが、理性のある動物です。
 一方、人間によく似た姿のヤフーという動物は、野蛮で下品な下等動物として登場します。
 簡単にいえば、”理性のある馬”と”野蛮で下品で下等な人間”を対比させています。
 この国におかれたガリヴァーは、何が正常で、何が異常なのか、かなり混乱してしまうというストーリーです。
 なお、インターネットで有名なヤフー(Yahoo)はここからとった名前です。

 スウィフトは、「愚か者」(gullible:だまされやすい)の意味をこめて「ガリヴァー(Gulliver)」という名前を主人公に付けました。
 この「だまされやすい者」に旅行をさせて、イギリスの政治・社会を直接に風刺しています。
 
 物語の奇抜さから、一部分を抜き出せば、子どもにもおもしろい読み物として世界中の人々によく知られる物語になりました。

 ガリヴァーの晩年は、精神障害をおこし、廃人のようになって、78歳で世を去りました。

10月18日 冷凍食品の日

 今日は、冷凍食品の日です。
 冷凍の凍(とう=10)と、冷凍食品の標準管理温度がマイナス18℃であることから、日本冷凍食品協会が10月18日を「冷凍食品の日」に制定しました。

 「標準管理温度がマイナス18℃である」というのは、貯蔵温度をマイナス18℃以下に保てば、1年間は最初の品質を維持できるということです。
 マイナス18℃度では、細菌は活動できず静菌状態になるので、細菌繁殖の心配はまったくないそうです。
 保存温度をさらに下げれば、魚に寄生するアニサキスのような寄生虫を殺すこともできるということです。 

 さて、アメリカの博物学者・クラレンス・バーズアイによって急速冷凍技術が開発されたことによって、美味しい冷凍食品がが作られるようになったといわれています。
 また、水産物を船上ですぐに冷凍するなどの技術が改良されたことも美味しくなったもう一つの大きな理由です。
 現在、品質を落とさず凍結できるように、より低温で(マイナス約70度)、より早く冷凍する技術の改良が進められています。

 日本では、東京オリンピック以後、ファミリーレストランなどの外食産業だけでなく、家庭用でも冷凍食品が広く受け入れられるようになりました。
 ピザやグラタンなどの焼き物料理も 技術の向上によって美味しくなり、今日では、喫茶店のケーキ(ホットケーキやチーズケーキ、ショートケーキ)、ホイップクリームの類もあり、業務用冷凍食品として流通しています。
 先だって、喫茶店でホットケーキを注文したら、芯が冷たかったです。冷凍のホットケーキだったのですね。 

 また、病院食や学校給食のメニューにも取り入れられるといった動きもあり、従来にはなかった食材としての商品も出始めています。
 中には弁当に凍ったまま入れ、お昼にちょうど食べごろの解凍状態になって手間が要らなくて、保冷の役目を果たすというものも登場しています。

 私の家では、冷凍食品には害があるのではないかという認識が強かったため、あまり使っていませんでした。
 しかし、最近では、行楽地の店でたこ焼きを注文しても、焼きそばを注文しても、カレーライスを注文しても、どれもレンジでチーンですから、冷凍食品に慣らされてきて家庭でもだんだん使うようになりました。
 ただし、品質などの吟味は厳しくやり、冷凍食品の安売りは買わないようにしています。

 2002年には中国産のほうれん草から残留農薬が検出され、2008年にも中国製餃子から有害物質が検出されて、輸入冷凍食品に不信感が広がっています。
 また、2007年には赤福餅の冷凍保存による製造日を偽装する事件がおこりました。例を挙げればきりがないぐらい、同じような事件が多発しています。
 中国製だけでなく、日本製でも信用できない事態ではないでしょうか。
 これらの事件は国民に不安を与えました。これをきっかけに、冷凍食品の売り上げが激減しました。

 さらに現在、中国産冷凍インゲンから基準の3万倍を超す有機リン系の殺虫剤ジクロルボスが検出されて問題になっています。
 中国と日本の政府にキチンとした対応を要求したいのは、私だけではないとおもいます。

 結論としては、安全性についての信頼感を前提に、上手に冷凍保存して使用すれば、価格の影響を受けにくいので、生鮮品より割安になることもあり、冷凍食品の利点はあると思います。

 なお、冷凍食品を保存するには注意すべき点があります。
 かならず低温(マイナス18℃以下)で保存することです。マイナス18℃以下がほんとの冷凍保存です。
 一度溶けたものは再凍結させると風味がおちたり、鮮度もおちるそうです。
 結露した冷凍食品を油で揚げると、水分が急速に気化し、熱い油が飛び散り、やけどや火災の原因になるので、水分を拭き取ることが大事ですね。
 賞味期限を守ること。あまり長く保存すると、水分がなくなって乾燥してしまい、美味しくなくなるそうです。

 冷凍されているものを買って帰るうちに「溶けちゃった」ということありませんか。これは不味くなる原因だそうです。
 購入する場合には、買い物の最後にまわして、早く家庭の冷凍庫に入れるのがコツです。または、ドライアイスをつけてもらうといいですよ。

10月16日 マリーアントワネットが処刑された

 今日は、フランス革命でルイ16世の王妃「マリー・アントワネット」が処刑された日です。  

 マリー・アントワネットはオーストリアから、政略結婚でフランスへ嫁いできました。 
 当時のオーストリアは、プロイセン(プロシャ)の脅威をうけて、外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようとしていました。その一環として母マリア・テレジアは、アントワネットとフランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(のちのルイ16世)との政略結婚を画策しました。
 周囲に反対意見があったものの、1770年5月16日、アントワネットが14歳のとき、ルイとの結婚式がベルサイユ宮殿にておこなわれました。  

 アントワネットとルイとの夫婦仲は、趣味・気質などの不一致などで思わしくなかったといわれています。
 彼女は、寂しさや慣れない生活を紛らわすため奢侈にふけり、夜ごと仮面舞踏会で踊り明かしました。
 また、気の優しいところがある反面、たいへん移り気なところがあって、かつ享楽的な性格だったということです。母マリア・テレジアは娘の身を案じ、たびたび手紙を送って諌めましたが、効果はありませんでした。
 さらに賭博にも熱狂的で、向こう見ずな浪費家でしかないように語られていました。

 1774年、ルイ16世の即位によりフランス王妃となりました。王妃になったアントワネットは、ベルサイユ宮殿の慣習や儀式を廃止したり緩和させましたが、家来たちからは、逆に反感を買ってしまいました。
 宝塚歌劇の「ベルサイユのばら」でも知られるスウェーデン貴族フェルセンとの浮き名が、宮廷ではもっぱらの噂となりました。
 
 一方、ルイ15世の娘・アデライード王女やルイ15世のデュ・バリー夫人とも対立し、宮廷の内部だけでなく、ベルサイユ宮殿以外の場所、特にパリではアントワネットへの中傷がひどかったといわれています。
 多くは流言飛語の類でしたが、結果的にこれらの中傷が信じられて、パリの民衆の憎悪をかき立てることとなりました。
 マリー・アントワネットの名を騙った事件や騒動が絶えなかったといわれています。

 アントワネットも含めたフランスの支配層(貴族・僧など)は、旧体制を維持するために農民を搾取し、市民の権利を認めず、民衆の中には不満がうっせきしていました。

 こうした中で、1789年7月14日、フランスの王政に対する民衆の不満がついに爆発し、フランス革命が勃発しました。
 国王一家はベルサイユ宮殿から、パリのテュイルリー宮殿に身柄を移されました。このあと、アントワネットは、フェルセンの力を借りて、フランスを脱走してオーストリアに助けを求めようと国外脱出を計画しました。
 国王が国を捨てるという、大胆な行動でした。

 1791年6月20日、脱出計画が実行に移されました。
 国王一家は庶民に化けてパリを脱出しました。ルイは女装し、アントワネットは家庭教師に化けました。 
 フェルセンは革命軍の兵士から疑われないように、ルイとアントワネットは別行動がのぞましいと説得しましたが、アントワネットは家族全員が乗れる、広くて足の速い豪華な馬車に乗ることを主張して譲りませんでした。
 (この期に及んで何をいうか、とフェルゼンは思ったことでしょう。)
 用意されたベルリン馬車に、銀食器、衣装箪笥、食料品など日用品や咽喉がすぐ乾く国王のために酒蔵一つ分のワインが積めこまれました。
 (フェルゼンのあきれた顔が浮かぶようです。)

 この荷物のため、馬車のスピードをさらに遅らせてしまい、逃亡計画は大きく狂ってしまいました。
 脱出を知った革命軍が追跡してきて、国境近くのヴァレンヌで身元がばれてしまいました。(私の高校時代の世界史の先生が、ヴァレンヌで身元がばれたというダジャレをいったのでこの事件はよく覚えていました・・・失礼)
 パリへ連れもどされました。
 このヴァレンヌ事件により、国王一家に対する反感が燃え上がり、親国王派の国民からも見離されてしまいました。
 
  1792年、諸外国がフランス革命をつぶそうとしてたことに対して、革命を守るためのフランス革命戦争がおこりました。
 すると、マリー・アントワネットが敵軍にフランス軍の作戦を漏らしているとの噂が立ちました。このようにアントワネットはまったく信用されていませんでした。
 
 1793年1月、国王一家に対する裁判がおこなわれ、ルイ16世には死刑判決が下され、ギロチンによって処刑されました。
 アントワネットはコンシェルジュリー牢獄に移された後、裁判が行われ、1793年10月15日、死刑判決を受けました。
 翌10月16日、コンコルド広場において夫ルイの後を追ってギロチンで処刑されました。

 通常はギロチンで処刑されるときは顔を下に向けますが、アントワネットの時には顔をわざと上に向け、上から刃が落ちてくるのが見えるようにされたという噂が流れていますが、真実ではありません。
 むしろこのような噂が流れるほど、アントワネットに対するフランス国民の憎悪が激しかったという証拠にはなります。

 遺体は夫ルイ16世など、フランス君主の埋葬地であるサン=ドニ大聖堂に葬られました。 

10月15日 新渡戸稲造が永眠

 1933年の今日は、農学者であり、教育者であり、国際連盟事務次長も務めた新渡戸稲造が死去した日です。
 日本銀行券の五千円券の肖像にもなったことがあり、名前のわりに人物・業績については知られているとはいえません。

 稲造は、札幌農学校の第2期生として入学しました。
 クラーク博士の影響を受けていた第1期生が、ほぼ全員がキリスト教に入信していたので、その影響もあって、稲造たちも入学早々続々とクラーク博士が残した「イエスを信ずるものの誓約」に署名していきました。
 後日、同期の内村鑑三らとともに函館で洗礼を受けています。

 さて、アメリカ留学中にアメリカ人女性と出会い、結婚しました。
 帰国後、札幌農学校の教授をしていたころ、子どもが生まれましたが、生後1週間あまりで亡くなりました。
 夫婦の、特に稲造の悲嘆は大きく、わが子を失った悲しみを思い出すだけで苦しい時期が続きました。しばらく口に出すことはありませんでした。20年もたって、やっとそれほどでもなくなったと、悲しみについて語れるようになりました。

 そんな悲しみの中、アメリカの妻の実家で引き取って育てていた孤児の女性が亡くなり、遺産1000ドルを夫人に残したということで送金がありました。
 思いがけないお金をどう使おうかと夫妻は相談して、働く青少年のための夜学「遠友夜学校」を札幌につくることにしました。幼い子どもを亡くした稲造夫婦の子どもに対する思いがそうさせたのでしょう。
 
 この「遠友夜学校」の教師は札幌農学校の生徒が中心となっていました。授業料は無料で、教科書などもすべて学校が用意しました。手弁当、今でいうボランティアでした。
 しかし、その後、軍事教練を拒んだことをきっかけに、廃校に追いやられてしまいました。
 50年間も運営されているうちに、約1000人の生徒を世に送り出しています。中退者なども含めると6000人もの生徒が学んだということです。

 時代はもどりますが、稲造は著書「武士道」がベストセラーになったことや、立派な教育者としても諸外国での評価が高まっていました。
 このため、第2次世界大戦後の1920年に国際連盟が設立されたときには、事務次長に選ばれました。

 稲造の自己の限られた立場で、平和のために奔走しましたが、晩年は、日本が国際連盟を脱退して軍国主義思想が高まる中、彼の言動が新聞紙上に取り上げられ、軍部や右翼の激しい反発を買う一方、多くの友人や弟子たちも稲造のもとを去っていきました。

 また、反日感情を少しでもやわらげようとアメリカに渡って、日本の立場を訴えましたが、軍部の代弁者として受け止められて、アメリカの友人からも理解されず、失意の日々だったといいます。

 1933年、カナダで開かれた太平洋調査会会議に、最後の力を振り絞って日本代表団団長として出席するためカナダに渡りました。
 演説を済ませ、会議が終了した後、カナダ西岸ヴィクトリア市で倒れて、71歳で永眠しました。

 稲造の死後、第2次世界大戦がおこり、人々は大きな被害をうけ、多くのものを失いました。
 

10月14日 鉄道の日

 新暦の1872年10月14日は、新橋液と横浜駅の間で、日本で始めて鉄道が開業した日です。
 当時の新橋とは後の汐留貨物駅(廃止)のことで、横浜駅は現在の桜木町駅のことです。
 ”汽笛一声 新橋を・・・”の新橋は、今の新橋ではありませんね。

 この日を記念して、1922年に「鉄道記念日」として制定されましたが、1994年に「鉄道の日」と改称され、JR以外の民間鉄道も巻き込んだ記念日となりました。

 さて、鉄道が文明にとっていかに大切なものであるかということを訴えたのは福沢諭吉でした。江戸時代の末に書かれた「西洋事情」をいう書物の中で、蒸気車について説明しています。
 
 鉄道を建設するにあたり、技術面でも資金面でも、日本だけの力ではできませんので、イギリスの援助をうけました。
 さて、まず、線路の幅を広軌にするか、狭軌にするかが問題になりました。
 イギリスの技術者は、自分の経験を生かしたい思いから狭軌(1067mm)を主張し、日本側代表の大隈重信は「日本は国土が狭いから、線路は狭くてもいいだろう」ということで狭軌になったということです。
 現在のJR在来線は、この時以来、狭軌になっています。

 開業した区間は約29kmで、この区間を53分で走りました。東京湾の汽船を使うより、2時間も短縮されました。
 陸蒸気(オカジョウキ)とよばれた機関車、客車、レール、燃料の石炭などはイギリス製でした。
 レールの下におく枕木も、イギリスから鉄製のものを輸入する予定でしたが、今後の鉄道建設のことを考えると、加工しやすい日本の材木に変更になりました。
 当初から国産を予定していたのは、ボイラーの中の”水”だけでした。

 また、全区間の運賃は、3階級に分かれていました。上等が1円12銭5厘、中等が75銭、下等が37銭5厘でした。
 当時の米の値段が、下等運賃の金額で米が5升半(約10kg)も買えるほど高額なものでした。
 また、鉄道員には士族が多かったため、乗客への態度は横柄なものであったといわれています。

 こうして、鉄道の歴史が始まりましたが、軍事上の必要もあって、またたく間に全国に広がり、大都市近郊の私鉄も発達し、今日では世界有数の鉄道国になりました。
 
 今日の「鉄道の日」をきっかけに、安全で快適な、そして低運賃の鉄道に向かって経営努力をしてほしいものです。

10月13日 グリニッジの世界標準時が定められた

 1884年の今日、国際子午線会議において、イギリスのグリニッジにある王立グリニッジ天文台で使われていたこの地方の標準時が、世界の時刻の基準に選ばれました。
 
 グリニッジが選ばれた理由は、1884年当時に世界で使われていた海図と地図の約3分の2がすでにグリニッジ子午線(経線のこと)を本初子午線として採用していたためです。 
 グリニッジ天文台は、ロンドン郊外にあった天文台です。1675年にイングランド国王チャールズ2世が設計しました。天文台は、1990年にケンブリッジに移転しましたので、現在は天文台としての機能は終わり、博物館になっています。

 さて、経度0度にあるグリニッジ天文台は、経度および時刻の基準点として観測を行なってきました。グリニッジ天文台での天体観測をもとに決められる時刻のことを、世界標準時(GMT)として普及していました。
 今日でも世界標準時を中心に使用していると思っている人が多いと思いますが、現在では原子時計によって決定される協定世界時(UTC)が使われています。
 
 GMTもUTCも、両者はほとんど同じですが、海の潮汐運動のために、地球の自転の速度が安定せず、時間の経過により差が生じています。
 その差が0.8秒を超えた場合に「うるう秒」として差を詰めて調整されることになっています。

 旧グリニッジ天文台を通る経度0度の経線を基準として、世界各国の標準時を決められていることは以前と変わりません。
 日本は、世界標準時つまり経度0度のイギリスとの時差は何時間になるのでしょう。 
 地球を1周した時の経度は360度、1日は24時間ですから、360度÷24時間=15度、つまり経度15度ごとに1時間の時差となります。
 日本の明石市とイギリスとの経度差は135度、よって135度÷15度=9時間となります。
 
 標準時が導入される以前は、町々ごとに太陽の位置に合わせて時計を合わせていました。
 人々の移動が少なかった時代はこれで十分に間に合っていましたが、鉄道によって早く移動できるようになると、不便が生じてきました。
 この問題を解決するために、もっと広い地域内で同じ時刻を用いるという標準時のしくみが生まれました。
その標準時がによってまとめられた地域で時刻帯が生まれ、規模が大きくなって、世界的規模で時刻帯に分割されるようになりました。

 日本の標準時は1つですが、東西に広いアメリカ合衆国ではハワイ・アラスカを含めて6つ、ロシアでは10こもあります。 

10月12日 コロンブスがサン=サルバドル島に到達

 今日は、学生時代にだれもが聞いたことがある「意欲に(1492)燃えたコロンブス」がアメリカ大陸の近くの海域のサン=サルバドル島に、ヨーロッパ人として始めて到達したといわれている日です。
 1492年にアメリカ大陸を発見したというのは、正確に言えば間違っています。

 「コロンブス」はイタリアのジェノバ出身の探検家であり、航海者であり、商人でもありました。大航海時代に最初にアメリカ海域へ到達したイタリア人です。
 「コロンブス」は、エラトステネスやトスカネリの「地球球体説」(地球は丸いということ)に影響され、西へ西へと西回りで進み続ければアジアへと到達できるという考えに達しました。
 当時、一般民衆は、世界は平らな板だと信じていました。
 中央に大陸があり、周囲を海が取り巻き、板の端からは海水が滝のように流れ落ちていて、陸地から遠ざかると船が滝から落ちるという恐怖が常にありました。

1492年8月3日、スペイン女王から援助を受けて、「コロンブス」らは3隻の船団で、大西洋を西回りでインドをめざしてスペインのパロス港を出帆しました。
 総乗組員数は約90人(120人という説もあります)。
 ところがヨーロッパ大陸が視界から消えて、四方が海ばかりの大西洋に出ると乗組員はパニックになったといわれています。
 コロンブスに迫って、「あと3日で陸地が見つからなかったら引き返す」と約束させました。

 出帆から約2ヶ月後の今日、ついに一行はある小島にたどり着きました。
 その島は、現地の名前ではグアナハン島でしたが、コロンブスは、救世主を意味するサン=サルバドル島と名付けました。
 
 さて、「コロンブス」の当初の目的はインドへ行くことでした。そのためには危険を冒してまでも西回りでインドをめざしました。
 なぜ、インドだったのでしょうか。
 ずばり、それは胡椒を安く手に入れたかったからです。インドの胡椒はヨーロッパ人の肉の保存には欠かせませんでした。ところが、イスラム商人の手を経ると価格が暴騰してしまうのです。ヨーロッパ人はイスラムの商人から高い胡椒を買わざるを得ませんでした。
 
 インドの胡椒を直接手に入れて大もうけしたいというのが、ヨーロッパの商人とそこから分け前をぶんどる国王のねらいだったのです。
 「コロンブス」の真のねらいは胡椒による金儲けだったのではないでしょうか。純粋な探検なんて、当時ではありえません。

 「コロンブス」は、その後4次に渡って航海を続けますが、胡椒はみつかりませんでした。
 また、しだいに立場も悪くなり、やがてすべての名誉を剥奪されて、1506年、スペインで失意のうちに死去しました。
 「コロンブス」は最初の到達地がインドだったと死ぬまで信じていました。
 
 なお「コロンブスの卵」という言葉がありますが、これは、「人がやったことは簡単そうに見えて、誰がやってもできそうなことでも、最初にやることはむつかしい。」という意味です。
 大陸を見つけるのは簡単なことだといわれたコロンブスが、それではこの卵を机に立ててみて下さいと言いましたが誰もできませんでした。そこでコロンブスは軽く卵の先を割ってから机に立ててみせたという話がもとになっています。
 要するに、「そんな方法なら誰でもできる」という人々に対し、「人がやった後では簡単なことだ」といい返したということです。
 ただし、この話は後世の作り話だといわれています。

 コロンブスの死後、ドイツで発行された地図には、南米大陸の発見者として、アメリゴ=ヴェスプッチの名前が記録されていました。
 この結果、ヨーロッパでは新大陸全域をあらわす地名として、「コロンビア」ではなく「アメリカ」が使われるようになり、今日に至っています。

10月11日 「リンゴの唄」の日

 「リンゴの唄」は、戦後初めて制作された松竹映画「そよかぜ」の中で、主演の並木路子が歌った歌です。
 その映画「そよかぜ」は、1945年10月11日(10日という説もあります)に、封切られましたので、今日は「リンゴの唄」の日に制定されています。

 松竹歌劇団出身の並木路子が明るく歌い、戦後を象徴する大ヒットとなりました。
 作詞はサトウハチロー、作曲は万城目正でした。
 
(1)赤いリンゴに 唇よせて
   だまってみている 青い空
   リンゴは なんにもいわないけれど
   リンゴの気持はよくわかる
   リンゴ可愛や 可愛やリンゴ

(2)あの娘よい子だ 気立てのよい娘
   リンゴに良く似た 可愛い娘
   どなたがいったか うれしいうわさ
   かるいクシャミも とんで出る
   リンゴ可愛や 可愛やリンゴ

(3)朝のあいさつ 夕べの別れ
   いとしいリンゴに ささやけば
   言葉は出さずに 小くびをまげて
   あすも又ねと 夢見顔
   リンゴ可愛や 可愛やリンゴ

(4)歌いましょうか リンゴの歌を
   二人で歌えば なおたのし
   みんなで歌えば なおなおうれし
   リンゴの気持を 伝えよか
   リンゴ可愛や 可愛やリンゴ

 ほんとに、いい歌詞だと思います。
 かわいい少女の思いを、赤いリンゴに託して、明るく歌う並木路子の姿と、戦時中の重くるしさからの解放感とがうまくマッチしたのでしょう、空前の大ヒットとなりました。

 ただ、明るく歌った並木にも戦時中のつらい思い出がありました。
 並木は母と戦火の中を逃げまどい、火の手があまりにも早くて強かったために、多くの人と同じように隅田川に飛び込みました。隅田川にしか逃げるところはありませんでした。
 飛び込んだものの、水の流れが早くて深くて大きな川です。溺れそうになりましたが、まわりの人々も溺れまいと必死です。だれもが自分の身を守るのが精一杯の状況でした。
 その時、1人の男性が出してくれた手に必死にしがみついて並木路子は助かりました。しかし母は飛び込んだ人たちと同じように流されてしまったそうです。

 映画「そよかぜ」制作のとき、このようなつらい思い出を持つ並木路子に、明るく歌わせるのはどうかとまわりが心配していたそうです。
 この「リンゴの唄」は、歌っている並木路子だけでなく、聞いている人々も、さらに口ずさんでいる人々も、みんなそれぞれにつらい体験を持ちあわせていました。

 なお、「森の水車」「可愛いいスイートピー」「ボクは特急の機関手で」などの明るくほがらかな歌は、並木路子が歌っていたといいます。
 並木路子が歌っていようとは、ぜんぜん知りませんでした。
  
 並木路子は、1995年の阪神・淡路大震災の慰問で神戸を訪れたときに、仮設のステージで「リンゴの唄」を歌って、神戸の人々を励ましました。

10月10日 マグロの日

 今日は、「マグロの日」です。
 日本の奈良時代、726年のこの日、山部赤人が聖武天皇の御供をして明石地方を旅した時、鮪漁で栄えるこの地方を「しび(鮪)釣ると海人船散動き」と詠んだことが「万葉集」にあります。
 このため、日本鰹鮪漁業協同組合連合会が、1986年に「マグロの日」として制定しました。

 マグロは、暖海に住み、外洋性の大型の肉食魚で、日本をはじめとする世界各地で重要な食用魚として漁獲されています。
 一般に、マグロは、全世界の熱帯・温帯海域に広く分布しています。
 
 海中では口と鰓蓋を開けて遊泳し、ここを通り抜ける海水で呼吸しています。泳ぎを止めると窒息するため、たとえ休息時でも止まらない、つまり止まったら死ぬ魚であるということはよく知られています。
 肉食で、海水の表面を泳ぐ小魚類、甲殻類、頭足類などを捕食しています。
 
 海洋の食物連鎖においては、クジラ、アザラシ、カジキ、サメなどと並ぶ高次の消費者です。そのために生物濃縮によって汚染物質を蓄積しやすいため、さまざまな問題も起きています。
 海洋の食物連鎖の頂点に存在するマグロは、水銀等の有害物質を蓄積しやすいという指摘がなされています。
 アメリカのFDAは、2003年に、妊婦のマグロ摂取量制限の勧告を行っています。実際にニューヨーク市では、2007年、幾つかのすし料理店において基準値を越す水銀が検出されました。

  日本人は古くからマグロを食用とし、縄文時代の貝塚からマグロの骨が出土しています。
 古事記や万葉集にも、シビの名で記述されていますが、江戸の世相を記した随筆「慶長見聞集」ではこれを「シビ」と呼ぷ声が「死日」と聞えて不吉であるとといわれて。むしろ下魚とするのが普通でした。
 古くから食べられてきたマグロですが、腐りやすいこともあって高級魚としての扱いは受けなかったようです。

 脂身の部分である「トロ」は、とくに腐りやすいことから不人気でした。冷凍保存の技術が進歩してきて、生活の洋風化にともなう味覚の変化で、1960年代以降は生食用に珍重される部位となり、現在では人気があります。

 なお、マグロの品質が低下しないように-50℃の超低温冷蔵庫にて保管していますが、一度解凍したマグロを再凍結すると組織が破壊され、非常に質が劣化するといいますので、注意が必要ですね。
 また、乱獲防止と資源保護のため漁獲量が2割減が決まり、さらに価格が高騰するといわれています。
 世界中でマグロが乱獲され、国際的な資源保護が叫ばれています。絶滅が危惧される生物を記載したIUCNレッドリストには、マグロ8種のうち5種が記載されています。

 漁獲高が減少一途のマグロでしたが、養殖も研究されてきました。
マグロは長距離を遊泳すること、成熟に時間が掛かること、小さな傷が死につながるほど皮膚が弱いことなどがあり、蓄殖や養殖は困難とされてきました。「蓄殖」とは捕獲したマグロの稚魚や若魚を養殖することで、卵から成魚まで育てる「養殖」が困とは難である。捕獲したマグロの稚魚や若魚を養殖する「蓄養」

 しかし、2002年に近畿大学水産研究所が30年余かけて、世界で初めてクロマグロの完全養殖に成功し、2004年には市場へと出荷が開始されました。
 
 刺身や寿司には欠かせられないマグロです。いつまでも、安くておいしいマグロが手に入ったらいいですね。

 

10月9日 春日八郎が生まれた

 演歌歌手の春日八郎は1924年の今日、福島県の会津坂下町で生まれました。

 春日八郎は、当時すでに大歌手だった藤山一郎のステージを見て歌手に憧れ、歌手をめざして上京しました。東洋音楽学校を卒業したものの、なかなかヒットに恵まれず、苦しい下積みの時代をすごしました。

 1949年にキングレコードに入社した3年後、大ヒット作に恵まれました。
 「赤いランプの終列車」です。この大ヒットで忙しくなり始め、活動の場が広がっていきました。
 さらに春日八郎をスターに押し上げたのは「お富さん」(1954年)の大ヒットでした。発売半年で50万枚、最終的には100万枚を超える大ヒットです。当時の100万枚というのはものすごい数字です。

 私は、この「お富さん」がラジオから流れてくるのを何度も何度も聞いているうちに、覚えてしまいました。まだ小学生だったのに、歌詞の意味もわからないままさかんに歌っていました。懐かしいです。
 当時、流行のブギのリズムを入れてつくられた曲で、とても軽快です。
 「粋な黒塀」、「見越の松」、「他人の花」といったあだっぽい歌詞だけでなく、伴奏(特に前奏)がすごく耳に残っていて、離れません。
 
 この曲は、急きょ若手歌手であった春日八郎が歌うことになったそうです。春日にツキが回ってきました。
 そのころ、春日八郎とともに若手の「三羽烏」といわれていたうちの一人にビクターの三浦洸一がいました。
 ビクターはキングの「お富さん」に対抗して三浦洸一に「弁天小僧」を歌わせました。
 この「弁天小僧」もヒットしました。
 三浦洸一は歌唱力のある、まじめな歌手でした。ラジオから流れてくる「弁天小僧」の歌も、歌詞の意味ががわからないまま、私はさかんに歌っていました。いまでも歌詞は覚えています。

 1955年には、「別れの一本杉」が60万枚の大ヒットをしました。それまでの流行歌とは少しちがう、ふるさとを偲ぶ、哀愁にみちた歌謡曲をたて続けにヒットさせました。
 この曲は「演歌」という新天地を切り開いた作品といわれています。

 泣けた 泣けた
 こらえきれずに 泣けたっけ
 あの娘と別れた 哀しさに
 山のかけすも 泣いていた
 一本杉の 
 石の地蔵さんのよ 村はずれ(「別れの一本杉」)

 そのころ三橋美智也が登場し、二人の高音の歌声と高度の歌唱力に国民は魅せられました。
 地方から都会に出てきた人々は、ふるさとを思い出して歌ったといわれています。

  その後、「あん時ゃどしゃ降り」、「ごめんよかんべんナ」、「山の吊橋」、「あれから十年たったかなァ」、「長崎の女」などのヒットを飛ばし、演歌の発展につくしました。

 1991年10月22日に肝硬変のため死去しました。
 67歳でした。
 声質・声量共に一流で、その声は今なお多くの人を魅了しています。

  出身地の福島県会津坂下町では、春日八郎の功績をたたえ「春日八郎記念公園・おもいで館」を建設しました。
 遺品の展示コーナーなど春日八郎の作品も揃えられています。
 会津坂下駅前の広場には、銅像と「赤いランプの終列車」の歌碑が建立されています。

10月8日 石川五右衛門が釜茹でにされた日

 1594年の今日、盗賊・「石川五右衛門」が京都三条河原で釜茹でにされて処刑されました。  
 伊賀流忍者の抜け忍であったのではないかという説もあります。村山知義の「忍びの者」の主人公です。

 手下や仲間を集めて、頭となり悪事を繰り返しました。手下や華族を養うための強盗でしたが、相手は権力者に限られていました。
 また時代の背景としては、秀吉の圧政のもとで多くの農民が苦しんでいました。朝鮮出兵の失敗で秀吉が嫌われていたこともあり、五右衛門は庶民のヒーロー的存在になっていきました。
 秀吉暗殺を引き受けて、秀吉の寝室に忍び込見ましたが、暗殺寸前で捕えられました。その後、すさまじい拷問の末、捕えられた配下の一人がすべてを自供したため、今まで悪事がすべて暴かれてしまいました。

 当時、日本に滞在していたあるヨーロッパの貿易商が書いた「日本旅行記」によると、「かつて京都を荒らしまわる集団がいたが、15人の頭目が捕らえられ、京都の三条河原で生きたまま油で煮られた」との記述があります。
  
 「豊臣秀吉譜」(林羅山編)によると、「文禄のころに石川五右衛門という盗賊が強盗、追剥、悪逆非道を働いたので秀吉の命によって京都所司代に捕らえられ、母親と同類20人とともに釜煎りにされた」と記録しています。
 こうしてみると、石川五右衛門という人物が安土桃山時代に徒党を組んで盗賊を働き、京都で処刑されたという事実は間違いないと考えられています。

 また、五右衛門を煮た釜というのが戦前まで東京の刑務所協会に保存されていましたが、戦時中どこかに消失してしまったということだそうです。
 想像ですが、戦時中のことですから、密かに鉄砲の弾になったのではないでしょうか。

 江戸時代にはすでに伝説の大泥棒として知られていますが、盗賊の彼が人気を博した理由は、浄瑠璃や歌舞伎の演題としてとりあげられたからです。
 義賊としてあつかわれたのに加えて、時の権力者・豊臣秀吉の命を狙うという筋書きが庶民の心を捉えたました。
 また、徳川の時代ですから、秀吉の命をねらった盗賊を持ち上げることは、幕府に対しての点数稼ぎにもなりました。

 歌舞伎で、「絶景かな、絶景かな、春の眺めは値千金とは小せえ、ちいせえ」とキセルを片手に持って見得を切る場面は特に有名です。
 また、熱さに耐えながら「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」と辞世の句を詠む場面も有名です。

 なお、「釜茹で」は熱湯で煮殺すのですが、「釜煎り」 という説もあります。「釜煎り」は油を引いた釜の中にで煎り殺されたというのが真実のようです。
 どちらにしても、ぞっとする処刑方法ですね。

 大阪府三島郡島本町にある水無瀬神宮に石川五右衛門がつけたといわれる手形が残っています。
  風呂釜を直火で温めた風呂のことを五右衛門風呂という名前は、釜茹でにされた(正確には釜煎りされたらしい)とされるこの事件にならっています。

 アニメの「ルパン三世」に登場する架空の人物で「石川五ェ門」というのがいますが、石川五右衛門の子孫という設定です。
 ゲームソフトでも石川五右衛門をモデルにしたものができています。
 
 当時、相当の極悪強盗だった「五右衛門」は、現代では人気キャラクターに変身しています。

10月7日 「かい人21面相」が、グリコに続いて森永を脅迫

 1984年3月、江崎グリコ社長の誘拐に始まったグリコ・森永事件で、「かい人21面相」の次の犯行ターゲットが、グリコから森永製菓に向けられたのは、同年の今日、10月7日のことでした。

 京阪神のスーパーで、「どくいりきけん たべたら死ぬで かい人21面相」と書いてあるシール付きの森永製品が発見されました。
 森永の製品12点から、致死量の青酸ソーダが検出されています。
 さらに、犯人から、10日後にシールなしの青酸入り菓子を全国に置くとの予告がありました。
 このためスーパーなどは森永製品を一斉に撤去しました。

 その後、犯人はその他の食品メーカーや警察、マスコミ宛に脅迫状や挑戦状を送りつけてきました。後になって、丸大食品、不二家、ハウス食品も脅迫されていたことがわかりました。
 現金を要求されていた食品メーカーは現金を用意しました。犯人は現金を受け取るため指示は出しますが、用心深く、ついに犯人を捕まえることはできませんでした。

 ただ、犯人に接近した場面はありました。 
 11月14日、ハウス食品が脅迫されていた時、現金1億円を犯人に渡すべく、社員に変装した警察官が輸送車に乗りました。
 何回かの犯人の指示で、名神高速道路の草津パーキングエリアから東へ5kmの地点へ、午後9時過ぎに向かっているころ、犯人の車らしき白いワゴン車が高速道路下の県道に停まっていました。高速道路から投下された現金を下で受け取る役目でしょう。

 この白いライトバンが、暗くて人気のないところに停まっているので、偶然通りかかった滋賀県警のパトカーが不信に思って近づいたところ、この白いライトバンには男が乗っていましたが、急発進して逃走しました。
 後を追いましたが、このあたりの地理に明るいようで、パトカーは追いつくことはできず、商店街あたりで見失ってしまいました。
 後日、この白いワゴン車は盗難車とわかりました。

 滋賀県警は、捜査本部から「この地点が、最重要事件の現金取引所である」という連絡を受けていませんでした。
 この時の警察の失態はかなり批判にさらされました。滋賀県警本部長は、翌年、辞職のあと滋賀県警本部の中庭で責任をとって焼身自殺をしました。
 
 なお、1985年8月、犯人は、「くいもんの 会社 いびるの やめても まだ なんぼでも やること ある 悪党人生 おもろいで   かい人21面相」と終息宣言を出しました。

 この後、子ども達のおやつが店頭に復活するとともに、かい人21面相は姿を消しました。

 「かい人21面相」の目的は何だったのでしょうか。目的は達したのでしょうか。目的といえば「金」ですが、公式発表では現金は奪っていません。
 脅迫された企業が裏取引に応じたと見られる新聞広告を出していますので、密かに手にしたのかもしれません。
 
 また、脅迫された企業の株価を操作するために、仕組んだのではないかともいわれています。
 グリコの事件では、グリコに恨みをもつものの犯行ではないかともいわれました。
 また、警察の内部に犯人がいるのではということで、ふだんの行動が良くない警察官も密かに洗われていました。
 犯人は複数の人間がいるのに、仲間割れが一切なく、団結を守っているのも、他の事件とは何かちがいますね。

 とにかく、1994年6月をもって、一連の事件は時効になりました。

10月6日 結合双生児の兄 グエン・ベトが死去

 今日は、ベトナム戦争でアメリカ軍による枯葉剤散布の被害者と思われる、下半身がつながった結合双生児「ベトちゃんドクちゃん」の兄、グエン・ベトが死去した日です。

 二人のショッキングな姿は、世界中にショックを与えました。特に日本ではベトナム戦争被害のシンボルとなり、さまざまな支援の手が寄せられました。
 
 ベトが急性脳症で意識不明の重体になったことをきっかけに、2人とも死亡してしまう
事態を避けるため、2人の分離手術が実施されました。
 日本の高度な医療技術が提供され、17時間におよぶ大手術は成功し、ベトには左足が、ドクには右足がそれぞれ残されました。 
 
 長じてドクは病院事務員となり結婚もしましたが、ベトは脳症の後遺症により最期まで寝たきりの状態でした。  
 分離後、ドクは障害児学校から中学校に入学しました。やがて、ツーズー病院の事務員となりました。ボランティア活動も行っています。そして、結婚もしました。

 一方、ベトは重い脳障害を抱え、寝たきりの状態が続きました。弟ドクの結婚式にも出席できませんでした。
 2007年10月6日、ベトは、ドクの必死の願いにもかかわらず、腎不全と肺炎を併発して死去しました。
 26歳の若さでした

 さて、ベトナム戦争中、アメリカはナパーム弾、黄リン爆弾、ボール爆弾などを投下しましたが、ジャングルを消滅させる目的で広い範囲に枯葉剤を撒きました。
 ベト・ドクの母親フエは終戦の1年後に枯葉剤のまかれた地域に移住し、農業を行っていました。
 彼女は枯葉剤のまかれた井戸で水を飲んだといっています。
 
 枯葉剤には猛毒ダイオキシンが含まれていました。ダイオキシンは発がん、先天性障害、身体機能障害の原因物質とされ、散布地域では障害を持った子どもが多数生まれています。
 ベトナム人300万人以上が影響を受け、土中や水中に残留したダイオキシンにより、いまも影響が続いているとみられます。
 枯葉剤の撒かれた地区では、散布前に比べ、奇形児が13倍に増えています。被害者はベトナム人だけではありません。
 枯葉剤を扱った米軍兵士の子どもには、15倍の奇形児が発生したとされています。

 そもそも、ベトナム戦争とは、日本が敗戦した後、ホーチミンを中心とするベトナムの民族独立のための戦いを、フランスやアメリカが押しつぶそうとした戦争でした、
 アメリカは最大54万人、延べ650万人の兵力を動員してベトナム人のたたかいを押しつぶそうとした戦争です。
 この時代、アメリカ本国でもベトナム反戦の運動が大きく盛り上がりました。
 もちろん日本でもベトナム反戦の運動が盛り上がりました。
 若かった私は、集会に、デモに、大忙しでした。

 結局、アメリカは目的を達せず、1973年に撤退しました。南ベトナムの首都サイゴンも1973年4月30日に陥落しました。
 そして、約30年ぶりに戦争が終わり、平和が訪れ、南北が統一したベトナム民主共和国が成立し、今日に至っています。
 そして、サイゴンはホーチミンと名前を変えました。

10月5日 達磨忌(達磨大師の命日)

 今日、10月5日は「達磨(だるま)忌」です。
 ご存じの達磨大師の命日です。全国の禅寺で法要が営まれます。

 「達磨大師」は禅宗の祖とされる人で、6世紀ごろの人です。
 インドの香至国の第三王子として生まれました。のちに出家し、釈迦から28代目の教えを継いで、中国に渡り崇山少林寺で9年間座禅を組んで悟りに達したといいます(面壁九年)。
 あまり長い間座禅をしていたために足が腐ってしまったという俗説があのユーモラスなダルマ人形を生んだともいいます。
  ただ、達磨大師については伝説が多く、その歴史的な真実性には疑問視されていることが多いです。
 
  ところで、人形のダルマさんの発祥の地は、群馬県高崎市にある黄檗宗少林山達磨寺だとの説があります。
 この寺を開いた心越禅師が書いた一筆書きの達磨像を、1783年、9代目住職が木型に作り、天変地異の邪気を祓う呪物として農民たちに授けたのが始まりだとのことです。
 
 静岡県にある臨済禅富士見山達磨寺には、身の丈5mの本尊の達磨座像があり、日本一の大きさです。
 立ち達磨、忍行達磨がありますが、手も足も揃っています。願掛け達磨と癌封じ達磨は手足のない、いわゆる張り子のダルマさんになっています。
 なお、この寺は健康寺とも称され、ています。

 顔面以外を赤で塗りつぶして、底を重くする張り子のダルマさんは健康や受験などの縁起物として広く使われて、特に選挙の時には必需品になっています。
 「面壁九年」、「七転八起」など不屈の精神や、「起き上がり小法師(小坊師)」や「ダルマサンガコロンダ」は宗派を越えて多くの人々から親しまれ、慕われています。
 

10月4日 イワシの日

 今日は、「イワシ」の日です。
 「1(い)0(わ)4(し)」の語呂合わせで、10月4日が「イワシ」の日となりました。

 「イワシ」は、昔とくらべるとほんとに獲れにくい魚になってきました。「イワシ」も高級な魚の仲間入りをしつつありますね。

 関東では千葉の九十九里浜・大阪では大阪湾が有名な産地です。江戸時代には各地でたくさん獲れていました。
 中でも九十九里浜は「イワシ」の産地として名高く、「イワシ」を干した「干鰯(ほしか)」は貴重な農作物の肥料になりました。この干鰯は農業生産力を向上さてたことはよく知られています。

 「イワシ」は漢字では「鰯」とかきます。
 「魚+弱=鰯」ですが、私は、大きな魚に餌として食べられるから、大きな魚から身を守るために群れをなすゆえ弱い魚だから「弱い魚=鰯」と思っていましたら、鮮度が落ちやすく身も崩れやすいため付けられた漢字であるともいわれています。
 鮮度が落ちやすく、崩れやすいのは事実で、そのため身が固いものや丸々太ったものを選ぶのがポイントになっています。

 1980年代にブームになったことがあります。
 当時はまだ漁獲量も多く、値段も安めであったこともあります。今では捕獲量も減り、高価な魚になりつつあります。
 ブームになったのはイワシの栄養価が高いからです。
 「イワシ」のDHAは脳細胞を活発化して、それを向上させる働きがあるといわれています。また、EPAは肝臓の機能を高めて、中性脂肪を取り込み分解して排出させる働きがあります。
 なかでも「マイワシ」には中性脂肪を下げるEPAだけでなく、頭が良くなるとされているDHAも多く含まれています。
 お酒を飲んだ時など、おつまみには「イワシ」料理を一品注文すれば効果抜群です。
 
 人間の体に吸収しやすい状態に加工されたものがイワシペプチドとよばれるものです。「イワシ」から抽出されたペプチドには血圧の降下作用があるとされています。

 名古屋にいる大正元年生まれの母は、数年前に倒れて、一時は覚悟をしましたが、周囲の看病で立ち直り、車椅子での移動はやむを得ませんが、びっくりするほど頭は正常で、ボケていません。新聞を読んだり、百人一首では歌の読み手をするほどです。
 なぜ、元気になったのかという秘訣は、十何年来、「イワシ」の佃煮・甘露煮などを食卓に欠かさなかったからではないかと思っています。
 9月に見舞いに行ったときも、イワシの甘露煮を食べていました。
 
 調理しにくいときは、みりん干し・しらす干し・チリメンジャコ・かまぼこ・イワシつみれ・缶詰などがあって、比較的摂取しやすい魚です。
 チリメンジャコも栄養豊富ですが、「イワシ」そのものを毎日2~3匹ずつ食べることは、体にとてもいいことだとテレビでも放送されていました。 

10月3日 三宅島が噴火(1983年)

 1983年の今日、東京都の伊豆七島の一つ、「三宅島」で大噴火がありました。

 「三宅島」は、島の全域が富士箱根伊豆国立公園となっている自然豊かな美しい島です。冬は暖かく、夏に涼しい気候です。
 雄山を中心としてしばしば激しく噴火をする火山島で知られ、日本の気象庁によって火山活動度ランクAの活火山に指定されています。
 常時観測対象火山にも指定されています。
 
 伊豆七島の中でも噴火活動がもっともさかんな島で、最近500年間では、平均して50年に1回の間隔で計13回の噴火がおきています。(記録がなかった時代もあり、実際はもっと多いと言えそうです)
 明治時代以降だけでも5回を数えています。その中でも「三宅島」の火山活動で特に語られるのは直近の2回、1983年と2000年の噴火です。

 1983年に発生した噴火では、10月3日の正午ごろから、阿古地区などの島の南部で小さな地震が感じられるようになりました。その後、北部の三宅島測候所で火山性地震を観測しました。
 15時をすぎたころに南西山腹に生じた割れ目から噴火しました。
 噴火開始から20分後には、小火口の列が南北に延びていきました。 割れ目火口から列をなして高さ100m以上に吹き出た溶岩流は時速約1.7kmで流下し、民家を焼き、阿古地区の一部を飲み込みました。

 その後、火柱が目撃され、激しい爆発が発生し、そして水蒸気爆発が発生しました。これらは未明まで続きました。
 この一連の火山活動によって、周辺に大量の岩塊や火山礫や火山灰が降下しました。住宅の埋没・焼失は約400棟でした。
 山林耕地などで被害が出ましたが、幸いにも人的な被害はありませんでした。
 
 2000年の噴火は、6月26日、群発地震が始まったのを受けて、気象庁が噴火の恐れが高いとして「緊急火山情報」を出しました。
 翌朝までに住民が島の北部に避難したあと、島の西方約1kmの海上で海底噴火が発生しました。
 噴火の噴煙は上空15,000mに達し、火山弾が住宅地にも落下しました。
 29日の噴火では、低温の火砕流のような噴煙が海まで達し、雨による泥流が頻発しました。この時住民が数名飲み込まれましたが、低温だったことが幸いして死傷者は出ませんでした。

 1983年の測量では最高点の標高は814mでしたが、2000年にはじまった噴火によって、火口などが500m以上陥没し、現在の最高点の標高は775.1mとなっています。 爆発がどれほど大きかったかを示しています。
 
 その後も、噴火が沈静しないまま夏が過ぎ、2000年9月2日より全島民が島外へ避難を開始しました。
 その後、2005年2月1日に避難指示が解除されるまで、島民は慣れない環境のもと避難生活を余儀なくされました。

 避難指示が解除されても、雄山中腹は数mの火山灰が積もったままで、島の45パーセントは未だに立ち入り禁止となっています。
 一時的な観光客も含めた島の滞在者全員に脱硫マスクの携帯が義務付けられているほど、まだ安全とは言い切れない状況です。

 この4年5か月におよぶ避難生活によって、東京や伊豆諸島の他の島に生活基盤を移した人々も多くいました。
 2008年10月現在、2900人の島民が生活していますが、平均年齢54歳と高齢化がすすんでいます。 

 島を訪れる観光客には、火山性ガスへの対策としてガスマスクの携行が今も求められています。
 2000年の噴火による火山ガスや噴火による泥流によって、周辺海域を含めた島の広範囲が影響を受けており、環境が激変しています。
 かつては200種以上の野鳥がおり「バードアイランド」と呼ばれ、バードウォッチングの愛好者が良く訪れていましたが、これらの野鳥も回復しつつあるということです。

 一方、火山活動の影響が少なかった海域では、数年間人間の活動が無かったことから、イセエビ・サザエなどが豊富に棲む良い環境になっています。
 昨日のテレビで、三宅島周辺の巨大サザエの漁が紹介されていました。ほんとに大きなサザエでした。
 数年間、島が閉鎖状態にあったということで、好漁場として釣り客が多数訪れているようです。

 なお、江戸時代は八丈島など他の伊豆七島と同じく流刑地でした。
 江戸幕府の大奥の絵島との密会疑惑で裁かれた「絵島生島事件」の役者・生島新五郎もここへ流されて死亡しました。生島新五郎の墓があります。
 小さな島のわりに神社が多いのに驚きました。特に噴火に 関する神社が多くあります。昔から島の人々は、火山の噴火のたびに、神に祈ることで災害を克服してきたのでしょう。 

10月2日 豆腐の日

 今日は、「豆腐の日」です。
 日本豆腐協会が1993年に制定しました。「とう(10)ふ(2)」の語呂合せです。また、毎月12日も「豆腐の日」になっています。

 冷や奴でそのまま食べてもおいしく、鍋に入れても、みそ汁の具にしてもおいしく食べられて、栄養価が満点の食材、それが「豆腐」ですね。
 「豆腐」は、今から2000年ほど昔に、淮南の王であった劉安によって作られたのではないかといわれています。
 この劉安は漢王朝を立てた劉邦の孫で、名著「淮南子」を著したことで知られています。しかし、「豆腐」の歴史についてははっきりしていないというのが真実です。

 私は、なぜ「豆腐」なのだ、なぜ「豆が腐る」のか、と素朴に思っていました。
 調べてみると、「腐」という漢字には、「納屋の中で肉を熟成させる」という本来の意味から変化して、柔らかく弾力性があるものを意味するようになりました。さらに「集める」・「ぶよぶよした」という意味もあるそうです。
 なるほど、「豆でできたやわらかいもの」ですか。半分、納得しました。

 なお、日本では食品に「腐る」という字を用いることを嫌って、豆富などと記すこともあったそうですが、一般には普及してません。
 
 「豆腐」の製造方法は、ごく簡単に説明すれば、細かく砕いた大豆汁を煮沸して、豆乳とオカラとに分離します。
 豆乳に凝固剤を入れ固めれば「豆腐」のできあがりです。
 大豆そのものにもイソフラボンなどの栄養がありますが、凝固剤にもミネラルなどが豊富です。
 
 「もめん豆腐」は、豆乳を凝固させ、布を敷いた型箱に入れ込み、重しをかけて、脱水して作ります。
 「絹ごし豆腐」は、豆乳全体をそのまま固めたものです。
 「もめん・絹ごし」とも布でこすわけではありません。「絹ごしとうふ」は、きめ細かくてなめらかになっていることから名付けられました。
 もめん豆腐は粗い感触から名付けられたと考えられています。

 「豆腐」用の大豆は年間約50万トンが使用され、昨年は、国産大豆は6万トンしか使用されませんでした。
 あとの44万トンは輸入大豆です。アメリカ産が28万トン、カナダ産が14万トン、中国産が2万トンでした。
 
 いずれも非遺伝子組み換え大豆ですが、アメリカはどんどん遺伝子組み換え大豆に移行しており、非組み換えの大豆はその3倍ほど高値です。
 また、アメリカ合衆国のエネルギー安全保障政策で、バイオ燃料作物への転作が進んえいます。そのため大豆の価格が急激に高騰してることなどが、国内の「お豆腐やさん」の経営を圧迫しています。

 おいしい「豆腐」を作るにも、経営が成り立たなくては作ってもらえない、つまり日本から「豆腐」がなくなることになるのでしょうか。
 日本の食糧問題は危機的状況ですね。さらに偽装や毒物の問題もありますし・・・・。
 
 また、かならず出てくる「おから」は、法的には産業廃棄物扱いになるそうです。
 あのおいしくて栄養価が高い「おから」が産業廃棄物だとは知りませんでした。「おから」を処分する費用が高くて、不法投棄もあるようです。
 「おから」のおいしい料理法とか、 その他の使い道を考えて行かなくてはなりませんね。

 まず、国民が「おから」をもっと食べるようにしてはどうでしょうか。ダイエットに有効だとおもいます。

10月1日 コーヒーの日

 今日は「コーヒーの日」です。
 1983年、全日本コーヒー協会が制定しました。

 さて、コーヒーはいつごろから飲まれるようになったのでしょう。
 9世紀のペルシャの医師ラーゼスが、コーヒーの医学的な効き目を自書で述べているのが、最古の文献です。

 人類がコーヒーを知ったきっかけについては、各地に伝説が残っています。
 共通しているのは、鳥や家畜が食べているのを見て、自分も試しに食べてみたら、疲れが取れて気分壮快になったとか、病気が良くなったとか、全身に活力がみなぎってきたとかいう筋書きです。
 キリスト僧やイスラムの僧たちが、夜通し続ける長い祈りの時に、この実を使って眠気を払っていました。
 そして、この実は睡魔に勝つ秘薬として、修行僧の間で広まったのです。

 日本には江戸時代初期に伝わっていますが、本格的な普及は明治以降になります。
 日本で最初のコーヒー店は明治の中ごろ、東京の上野に開業した「可否茶館」でした。あまりはやらず4年で閉鎖に追い込まれたそうです。

 さて、コーヒーの医学的な効用の研究はどうなっているのでしょうか。 

 1日3杯以上のコーヒーの飲用は、飲酒の機会が多い人においては、高血圧を改善することが明らかになりました。
 飲み始めて1週間後ぐらいから効果が出るそうです。

 コーヒーは、疲れた筋肉を元気にします。
 マラソン選手のなかには競技中に摂るオリジナルドリンクの中に、コーヒーを入れている人もいるそうです。
 スポーツの後は、コーヒーを飲みながらゆっくりとリラックスすることもお忘れなく。

 コーヒーに含まれるカフェインは、運動能力を向上させることが知られています。
 強い運動については効果が表れやすく、疲労するまで運動を続けられる時間が長くなります。つまり疲れにくくなるということでしょうか。このことはさまざまな実験で確かめられています。
 これは、コーヒーのカフェインが、脂肪の分解を早めるからであるといわれています。
 脂肪が分解されると、運動のためのエネルギーとなる糖が作り出されるため、長いこと運動が続けられるわけです。

 この効果は国際的に認められています。国際オリンピック委員会(ICO)は、2004年1月、カフェインを摂取禁止物質から除外しているほどです。
 運動の途中でも、終わってからでも、適量のコーヒーは運動の「強力な助っ人」になることでしょう。

 二日酔いの頭痛に有効なのが、コーヒーに含まれるカフェインです。飲み過ぎた翌朝、頭がズキズキと痛んだら、いや痛む前にも1杯のコーヒーを飲むのは効果有りでしょう。

 コーヒーは肝機能を正常に保ってくれるという研究結果が出ています。お酒をよく飲む人は、お昼などにコーヒーも飲むと良いようです。

 生活習慣の悪さがもとの糖尿病の予防に効果的としてコーヒーが注目を集めています。世界各国から相次いで「予防に効果あり」という報告がされています。

 コーヒーの香りにもリラックス効果があります。
 コーヒーの苦味と酸味も精神的ストレスを手軽に解消することができます。カフェインに強いリラックス効果があることがわかりました。

 コーヒーを飲むと、自律神経が調整され、脂肪の代謝を高める効果が得られるということがわかってきました。
 コーヒーを活用するダイエット法があります。体重の減少、血圧の低下、悪玉コレステロール値の低下などについて効果が得られています。

 コーヒーを1杯飲むと、2時間ほど血流がよくなるといわれています。
 コーヒーが心臓の拍動を高めて、血流を良くしてくれるため、朝が苦手な低血圧の方も、体を動かしやすくなる効果を得ることができます。
 高血圧の人には、毛細血管の拡張させる作用で末端の血管が開きますので、やはり血流がよくなって、血圧を下げる働きをするといわれています 

 少年時代に、誰からか、(アメリカンのように)薄いコーヒーで薬として飲まれていたという話を聞いていましたが、その通りで薬効がすばらしいですね。
 ただ、砂糖は入れない方がいいですね。薬効が台無しです。
 ストレートでいきましょう。

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