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9月30日 クルミの日

 今日は「クルミ(胡桃)の日」です。
 「ク(9)ルミ(3)は丸(0)い」の語呂合せで、9月30日です。

 クルミの原産地はヨーロッパ南西部からアジア西部とされ、北半球の温帯地域に広く分布しています。
 生産はアメリカのカリフォルニア州と中国が多く、国内では長野県東御市(旧東部町)が「クルミ」の生産量が日本一です。
 古くから知られていて、紀元前7000年前から人類が食用にしていたと言われています。

 非常に硬いために、簡単には割れません。
 そのために専用のクルミ割り機もあります。手のひらにクルミを握り込んで転がすのが握力の鍛錬になるとか、老化の防止になるなどの効用もあります。

 木材としては、日本国内でも「ウォールナット」で通用しています。
 カナダなどで産出され、チークやマホガニーと共に世界三大銘木のひとつに数えられています。
 木質は、衝撃に強く、強度と粘りがあり、また狂いが少なくて加工しやすいという特性を持っています。
 落ち着いた色合いと重厚な木目から高級家具材や工芸材に用いられてきました。
 
 さて、よく知られているように、「クルミ」には、食物繊維、炭水化物、タンパク質、カルシウム、ビタミンB1、ビタミンE、鉄分、ミネラルなどが豊富にふくまれています。
 「クルミ」を食べると満腹度が増しますので、ダイエットの効果が出やすいという報告もあります。
 おなかにやさしく、美容効果、さらには老化防止効果もあり、女性にはうれしい食べ物ですね。
 失礼! 男性にもうれしい食べ物でした。

 また、心臓によい必須脂肪酸の一種を豊富に含んでいますので、現代病にもたいへんな効果を発揮できることがわかってきました。
 ほんの少々の「クルミ」でも、長く食べ続けることによって、コレステロールの低下や抗炎症作用以外に、血中コレステロール値を下げ、心臓病、動脈硬化といった生活習慣病の予防に大きな健康効果を示すことが証明されています。

 さらに、肉のタンパク質の代わりになるような良質なタンパク質が、「クルミ」に豊富にあろうとは知りませんでした。
 「クルミ」のタンパク質は、消化されやすく、「植物性の卵」ともいわれているそうです。

 また、「クルミ」にはメラトニンが豊富に含まれています。
 メラトニンは脳から分泌されるホルモンで、体内時計の調節に関係している成分ですが、抗酸化作用があるため、抗ガン作用があります。
 胃の粘膜を保護したり、抗ストレス作用も期待されています。
 メラトニンは、アルツハイマー病や心臓や血管の疾患を抑制する働きも期待されるようです。

 7月22日が「ナッツの日」ですので、当ブログでも「クルミ」と「アーモンド」を少し取り上げました。
 その日以来、「ナッツ」の詰め合わせをスーパーで買ってきてせっせと食べています。これからも「クルミ」は欠かせないですね。

 ただ、古くなったナッツのカビは、かなり強い発ガン性があることを今回知りましたので、気をつけたいと思います。

 手元の資料では、クルミについての詳細がわからなかったので、インターネットで「クルミの栄養」について調べていましたら、良いサイトが見つかりました。

カリフォルニアくるみ協会のホームページ(スミマセン。勝手にリンクしました)

9月29日 招き猫の日

 今日は「招き猫」の日です。
 「招き猫」が福を招くということから、「来(9)る福(29)」の語呂合わせで9月29日になりました。日本招猫倶楽部が制定しています。

 「招き猫」とは、前足で人を招く形をした、猫の置物のことです。
 「招き猫」の発祥にはいくつかの説があり、どれが真実かはわかりません。もっとも知られているのが、東京・世田谷区の豪徳寺説です。
 豪徳寺説の中にも7~8説に分かれていますが、話しのタネに一つ紹介します。

 「江戸時代に彦根藩第二代藩主・井伊直孝が、鷹狩りの帰りに豪徳寺の前を通りかかった。そのときこの寺の和尚の飼い猫が門前で手招きするような仕草をしていたため寺に立ち寄り休憩した。すると雷雨が降りはじめた。雨に降られずにすんだことを喜んだ直孝は、後日荒れていた豪徳寺を建て直すために多額の寄進をし、豪徳寺は盛り返したという。 和尚はこの猫が死ぬと墓を建てて弔った。後世に境内に招猫堂がたてられ、猫が片手をあげている姿をかたどった招福猫児(まねぎねこ)がつくられるようになった。」(『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

 ちなみに、これが縁で豪徳寺は井伊家の菩提寺になりました。幕末に暗殺された井伊直弼の墓は豪徳寺にあります。

 江戸時代から「招福猫児(まねぎねこ)」が作られていたとありますが、実際にはもっと新しく、置物の猫が作られるようになったのは明治以降という説が有力です。
 江戸時代の文献には「招き猫」は見あたらないという研究があります。
 豪徳寺発祥の話は、あきらかに後世の作り話だとおもいます。ただ、豪徳寺の作り話から「招き猫」が広がったというのであれば、豪徳寺が発祥ということも言えなくもありませんね。

 東京・新宿区の自性院が発祥の地とする説もあります。
 他にも、東京・豊島区の西方寺を発祥とする説、民間信仰説などいくつもの説があり、いずれが正しいかははっきりとわかっていません。

 さて、「招き猫」のファッション・スタイルですが、いろいろなものが創作されています。
 まず、右手(右前足)を挙げているか、左手(左前足)を挙げているかに大別されます。右手を挙げている猫は金運を招く御利益があるといわれています。左手を挙げている猫は人つまり客を招くとされています。
 
 金も客も欲しい場合は両手を挙げればいいのでしょうか。両手を挙げたものもあり、よく売られています。
 私見ですが、何か格好は良くないイメージです。欲張り過ぎて、「お手上げ万歳」にならないか心配になってしまいます。
 「お客さんが来れば、金が入る」と考えれば、左手を挙げた「招き猫」で十分ですね。

 一般には三毛猫が多いですが、白猫、赤猫、黒猫の他に、ピンク猫や青猫、金色猫もあり、色によっても意味がちがうとされています。
 青猫は学業向上や交通安全、ピンク猫は恋愛という具合です。黒猫は、魔除けや幸運の象徴とされています。赤猫は、疱瘡や麻疹が嫌う色といわれてきたため、病除けの意味を持っています。

 最近では、中国・台湾など外国でも「招き猫」は人気があります。
 アメリカ合衆国の中国人街のレストランにも、日本のものとほぼ同じ型の「招き猫」が置かれています。
 
 「招き猫」はアメリカ人の中でも人気があり、お土産用や輸出用としても製作されています。これらは 「dollar cat」「welcome cat」などと呼ばれています。
 ただし、手の方向が日本と逆向きです。
 手の甲に当たる部分を前に向けています。これは手招きする手のジェスチャーが、日本とアメリカでは逆だからです。 

9月28日 アメリカでトマトの安全性が証明された。

 1820年の今日は、 アメリカ合衆国のマサチューセッツ州で、ロバート・ジョンソンがトマトを食べてみせて、トマトが安全であることを証明した日です。
 現代人から見ると、何とばかばかしいと思いますが、当時は真剣そのものでした。

 トマトは南アメリカ原産で、スペイン人がその種を持ち帰ってヨーロッパに伝わりました。
 トマトは有毒植物であるベラドンナに似ていたため、当時は毒の果実であると信じられていて、食用にはされていませんでした。
 しかし、イタリアではやがて食用に適したトマトが開発されました。これがヨーロッパへと広まり、広く食用されるようになったのは18世紀のことです。

 ちなみにベラドンナという草はかなり毒性がきつい草です。
 ウサギやシカは食べても死なないそうです。ただし、ベラドンナを食べたウサギやシカなどの小動物を人間が食べたら、食中毒で死にいたるということですから、かなり注意しなくてはいけない毒草だといえます。
 トマトはそのベラドンナに似ているというのですから、なかなか食用にされませんでした。

 さて、南アメリカ原産とはいっても、白人が住む北アメリカでは、ヨーロッパで食用にされるようになってからも、しばらくは食用として認知されませんでした。
 そこで、前述のようにロバート・ジョンソンが、町の裁判所前の階段でトマトを食べて人々に毒がないことを証明したというわけです。

 このころ、トマトは「野菜」か「果実」か、の論争がまきおこっていました。
 当時、アメリカでは果物には関税がかからず、野菜には関税がかかりました。このため、トマトの輸入業者は、税金がかからないようにと「果物」と主張しました。これに対して農務省の役人は「野菜」だといい張りました。
 両者は一歩も譲らず、論争はエスカレートして、とうとう最高裁判所の判決を仰ぐことになってしまいました。
 
 判決は「野菜」でした。
 判決文には、判決理由として「トマトはキュウリやカボチャと同じように野菜畑で育てられている野菜である。また、食事中に出されるが、デザートにはならない」と書かれていました。
 現代では、科学的にナス科であることが判明していますので「野菜」は常識ですが、このときの裁判長はかなり苦労して判決理由を考えたように思います。

 日本には江戸時代の初期に長崎に伝わったのが最初とされています。
 青臭くて、また真っ赤な色が敬遠され、日本でも観賞用の植物で、「唐柿」と呼ばれていました。
 食用として利用されるようになったのは明治以降で、さらに日本人の味覚にあった品種が栽培されるようになったのは昭和に入ってからでした。

 食用としては新しい野菜ですね。
  私は、小・中学生時代まではよくトマトを丸かじりして食べていました。まるまる太ったトマトはすてきなおやつでした。
 ところが、しばらくすると、トマトの味がまずくなったので食べなくなりました。青くて種がつまっていないトマトばかりが出回りまっていたような気がします。

 近年はおいしい完熟トマトが再登場したのでよく食べます。
 広く料理に利用されていますが、グルタミン酸の濃度がひじょうに高いため、うま味があるからでしょう。

 栄養面からみると、トマトはビタミンCを多く含んでいますが、さらにガン予防に効果があるといわれています。
 トマトにふくまれるリコピンに強力な抗酸化作用があるからです。
 抗酸化作用とはガンを発生させる犯人である活性酸素を撃退する作用です。

 トマトを多く食べるイタリアでは、特に消化器系のガンの発生率が低く、「トマトを食べれば医者いらず」といわれています。
 私も、ガンの再発を防ぐためにも、もっともっとトマトを食べようと思います。

9月27日 ストックトン・ダーリントン鉄道開通(イギリス)

 1825年の今日は、イギリスの北部の町ストックトンとダーリントンを結んだ、40キロほどの世界最初の公共鉄道が開通した日です。

 その鉄道の開通の日は、蒸気機関車「ロコモーション号」が最初の列車を引いて走りました。
 列車には600人ほどの乗客が乗っていましたが、列車は快調に走りました。この成功は、鉄道と蒸気機関車の能力を天下に示しました。

 この計画では、最初には馬の利用も考えられていました。
 しかし、蒸気機関車を強くすすめる男がいました。それが年300ポンドの給料で技師に雇われていたジョージ・スチーブンソンです。
 この成功でイギリスでは本格的に鉄道が用いられるようになり、蒸気機関車がつぎつぎと作られました。

 さて、ジョージ・スチーブンソンは1781年、炭坑の機関夫の子として生まれました。父の助手をしながら技術を学んで、蒸気機関車改良して、実用化に成功したことでよく知られている技術者です。
 スチーブンソンの最初の成功は、1814年、ジェームズ・ワットの蒸気機関を改良して作った「ブリュヘル号」でした。
 その後、鉄道会社の技師長として、前述のように、1825年、ストックトン・ダーリントン間に開通した鉄道用に「ロコモーション号」を作って走らせました。

 1829年には、リバプール・アンド・マンチェスター鉄道に使用する機関車を選ぶコンテストに、息子のロバート・スチーブンソンと共同で設計・製作した「ロケット号」で参加して優勝しています。
 「ロケット号」は、その後、100年以上にわたって作られた蒸気機関車の基本的な設計をほぼ満たしており、その功績から、スチーブンソンは「蒸気機関車の父」として尊敬されています。
 イギリスのポンド紙幣の肖像にも登場しています。

  なお、日本の教科書や参考書では、スチーブンソンが蒸気機関車の「発明者」と記述されています。ところが実際は違うようです。
 私はずっと、「蒸気機関車はスチーブンソン、汽船はフルトンが発明した」と習った通り信じてきました。
 
 イギリスのリチャード・トレビシックが、1804年に蒸気機関車を世界で最初に作ったといわれています。
 その後も複数の技術者の手によって、いくつかの蒸気機関車が作られています。
 
 スチーブンソンは、改良を重ねて優秀な蒸気機関車を作った「蒸気機関車の父」というポジションがもっともふさわしいのかも知れません。

9月25日 シーボルトが国外追放になる

 江戸時代の1823年、オランダ商館付き医師として長崎に着任したシーボルトが、1828年に帰国する際に「大日本沿岸輿図全図」などの禁制品を持ち帰ろうとしたことが発覚し、翌1829年の今日、国外追放となりました。
 この事件は、「シーボルト事件」といわれています。

 シーボルトは、1796年2月17日、ドイツの医学界の名門の家に生まれました。
 大学では医学をはじめ動物学・植物学・民族学などを学びました。卒業したあと、近くの町で医者として働いていました。
 まだ見ぬ東洋の国に興味をもち、東洋へ行く準備をしていたところ、長崎のオランダ商館付きの医師として日本へ行く命令を受けました。
 それもただの医者としてだけではなく日本との貿易のために、日本のことについて調べるようにも命じられていました。

 長崎へ到着したあと、日本に来た外国人は出島から出てはいけないところ、シーボルトはすぐれた医者でしたので、長崎の町に出て病人を診察することが特別に許されました。
 長崎に来て1年たったころ、長崎の郊外の鳴滝で塾を開きました。
 鳴滝塾では、日本各地から集まってきた医者たちに、オランダ語や医学などを教えました。
 こうしている間にも、医師としての名を高めていきました。
 多くの若い蘭学者が彼のもとに集まりました。鳴滝塾で学んだ人々は、やがて医者や学者として活躍しました。
 
 シーボルトは、何人かの日本人の生徒たちといっしょに住み、日本研究の手伝いをしてもらいました。お返しに医学を勉強したことの証明書を発行したり、医学の本や器具などを与えたということです。
 また、シーボルトも日本人から日本のことをいろいろと教えてもらいました。
 シーボルトの指導法は、いろいろな問題を与えて、それについてオランダ語で論文を出させるものでしたので、彼のもとには、滞在5年の間に、日本の歴史・地理・植物・動物・鉱物・産業など、各方面の資料が集まりました。
 
 さて、シーボルトは、1826年の長崎商館長の江戸参府に同行しました。日本のことを調べる絶好の機会でした。
 旅の途中で植物や動物の採取をしたりしました。 
 江戸では、多くの日本人がシーボルトのもとに、病気やけがの治療法や西洋の知識を教わりにきました。  

 この旅行の時に集めた本や絵、いろいろな品物は、船でオランダまで送られました。
 シーボルトは、日本から帰った後に、調べたことを本で紹介したり、集めたものを博物館で見せたりしています。

 1828年、シーボルトが5年の任期を終えて帰国しようとしたとき、いわゆる「シーボルト事件」がおきました。
 彼が乗船することになっていたコルネリウス・ハウトマン号が、長崎を襲った暴風雨のため、稲佐の海岸に乗り上げて出港が延期されました。このときの荷物の中に日本地図や将軍家の家紋である葵の紋付きの着物など、そのころ日本から持ち出すことが禁じられていたものが含まれていたことが発覚したのです。

 シーボルトは出島に拘禁され、厳しい取り調べを受けることになりました。彼は、多くの協力者に罪がおよぶことを恐れて、その名前は一切あきらかにしなかったといわれています。
 取り調べの結果、シーボルトは国外追放を申し渡されました。シーボルトは、生徒たちに別れをつげて、オランダに帰国しました。
 シーボルトが日本を去ったあと、多くの協力者が幕府によって処罰されました。 

 さて、シーボルトが日本を去って30年後、国外追放がとかれ、ふたたび日本に来ることができました。
 長崎に到着したシーボルトは、なつかしい鳴滝に住み、昔の門人たちや娘・イネたちと交流しながら日本研究を続けました。
 また、幕府にまねかれて、外交顧問になり、江戸でヨーロッパの学問を教えました。
 3年後に日本を去り、1865年10月18日、ドイツのミュンヘンで70歳で亡くなりました。

 ヨーロッパに帰っていたとき、シーボルトは、日本についての研究書「日本」や、「日本植物誌」「日本動物誌」などを出版しています。
 「日本植物誌」のなかでは、アジサイ属に関して多く取り上げています。
 特に、日本における妻:お滝さんにちなんで、アジサイの学名を「ハイドランゲア・オタクサ(Hydrangea Otakusa Sieb.)」と名づけたことは有名です。
 美しいアジサイとお滝さんの面影を重ねています。
 
 なお、日本の妻:お滝との間にできた娘:イネは、14才から5年間、二宮敬作の指導によって、日本初の女医になり、東京で産科の医院を開院し、77歳で生涯を閉じました。

9月24日 西南戦争で西郷隆盛が自刃

 1877年の今日は、西南戦争で敗北した西郷隆盛が自刃した日です。

 西郷隆盛は、薩摩出身の幕末から明治にかけての政治家です。
 薩摩の貧しい家に生まれ、苦労が多かったといいます。また、人を引きつける誠実な人柄を持っていたともいわれています。

 幕末の尊皇攘夷運動のなかで、坂本竜馬の仲立ちのもと、薩摩を代表して長州の木戸孝允と薩長同盟を結んで、倒幕の方向に運動を導きました。
 さらに、王政復古の大号令が出されたあとの戊辰戦争では、新政府軍を指揮して旧幕府軍をつぎつぎ打ち破り、江戸城総攻撃の際、勝海舟との談判の上、江戸城を無血開城させたことなどはとくに有名です。

 さて、明治になって政府の参議になりましたが、1873年、政府内での征韓論争に破れた西郷隆盛は、役職を辞して故郷鹿児島に帰りました。鹿児島では、政治とは離れて、私学校を設立して子弟の教育に力を入れました。

 しかし、そのころ国内では、1873年に徴兵令が実施されたのにつづいて、1876年には士族への俸禄の支給が全廃されました。そして廃刀令で軍人警官以外の帯刀が禁止されたことなど、武士の特権がことごとく奪われ、現実の生活も貧しいなかで、士族の不平不満が高まっていきまました。

 こうした中で、佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱などの不平士族の反乱が各地でおきました。
 これらの反乱は、明治維新で中心的な役割を果たした下級武士たちが、新時代において不当に扱われ、強い憤りが爆発して反乱に発展したものです。 

 1877年1月 政府が鹿児島にあった軍の兵器・弾薬を大阪にひそかに移転しようと考えたことが、鹿児島の私学校の耳に入りました。私学校生徒はその機先を制してこれを奪い取り、占拠してしまいました。こうして鹿児島には、反政府熱が高まって、不穏な空気がただよい始めたのでした。

 私学校の生徒の動きに対して、「おきてしまったことは仕方ない」と西郷は兵を率いて上京することを決意し、その年の2月、鹿児島を出発して熊本に向かいました。
 こうして、西南戦争が始まりました。 
 
 やがて、熊本に入った3万の西郷軍に対して、政府は4万の兵を送り、激しい戦いが繰り広げられました。
 そして西郷軍はしだいに政府軍に追い込まれ、9月になると、鹿児島に退却して城山にこもりました。しかし、500を数えた兵員も城外に去るものが多く、総勢372名に減り、そのうち銃を持つものは150名内外に過ぎなくなりました。
 
 9月24日、総攻撃を受ける中、ついに西郷隆盛は自刃に、最期をとげました。
 西郷隆盛みずからの強い意志で反乱をおこしたのではなく、私学校生徒ら、西郷を慕うまわりの不平士族に祭り上げられて、反乱の首謀者になった面が強いと思われます。

 最大で最後の士族の反乱が西南戦争でした。この西南戦争の結果、武力による反政府運動はなくなり、言論による政府打倒、つまり自由民権運動へと変化していきました。
 

9月23日 海王星が発見された日

 1846年の今日、ベルリン天文台のガレが天文学者・ルベリエの予言にもとづいて、「海王星」を発見しました。

 「海王星」は、太陽系の太陽に近い方から数えて8番目の惑星だということは学校で習いましたが、名前だけしか知りませんでした。
 冥王星が惑星からはずされた段階で、太陽系の中で太陽からもっとも遠い惑星になってしまいました。
 
 しかも、「海王星」は地球から遠くはなれていたため、なかなか観測ができませんでした。ガリレオ・ガリレイによっても観測されていましたが、当時は、恒星と思われていました。
 恒星とは、太陽のように自ら光を発し、天球上の位置をほぼ変えない星のことで、太陽や星座を構成する星は恒星にあたります。

 「海王星」の発見には数学が大きく貢献しました。
 イギリスのジョン・アダムスとフランスのウルバン・ルベリエの2人の数学者は、1781年、先に発見された天王星の軌道を計算しました。
 ところが、天王星を観測したときの実際の軌道が、計算上の軌道と食い違っていました。この誤差が生ずるのは、未知の惑星の重力のために天王星が影響を受けているからだとしました。
 
 2人は、おそらく天王星の外側にまだ発見されていない、もう一つの惑星があるのではないかと考え、独自にその見えない惑星のあるべき場所を計算で求めました。
 「ここにあるはずだ」ということを計算で求めていたのです。
 ガレは彼らの計算を利用して、計算通りの場所に新しい惑星「海王星」を見つけたのです。

 すごいことが計算できるものなんですね。

 「海王星」の公転周期(太陽を回ってくるのにかかる年数)は約165年です。つまり、165年かかって太陽をぐるっと一回りするということですね。ずいぶん遠くにあることがわかります。
 2011年には最初に発見された時点の位置に戻るだろうといわれています。

 「海王星」は、天王星と同じように大気に含まれるメタンのために美しい青色をしています。
 青みの理由は、メタンが太陽のオレンジ色や赤色の光を吸収して、青色の光のみを反射するからではないかと考えられています。
 
 「海王星」の表面では、ハリケーンのような大嵐が吹き荒れています。その風は風速2000キロメートルで、太陽系で最も速い風です。
 
 さて、「海王星」は、英語では「ネプチューン」と呼ばれています。
 「ネプチューン」はローマ神話の海の神で、ギリシャ神話のポセイドンにあたります。その他にも、惑星には神話の大物の名前が付けられています。
 たとえば、木星=ジュピター、土星=サターン、天王星=ウラヌス(→ウラニウム)、元惑星の冥王星=プルート(→プルトニウム)のようにです。

 

9月21日 世界アルツハイマーデー

 今日は、「世界アルツハイマーデー」で、国際アルツハイマー協会によって定められました。

 アルツハイマー病とは、脳にベータ・アミロイドという特殊な蛋白質がシミのようにたまり、脳細胞が破壊されて、少しずつ脳が小さくなって行く病気です。
 遺伝性のものが一割程度ありますが、それ以外はまったく原因が不明です。
 原因不明というのがもっとも不安視されているところです。誰でも、自分がアルツハイマー病になっていくのかどうか、実に不安なものです。

 私たちとしては、原因がわからなくても、アルツハイマーになりにくい
方策があるのなら知りたいところですね。

 アメリカのある大学の研究によると、野菜ジュースやフルーツジュースを飲んでいる人は、アルツハイマーを発症するリスクは少ないと発表しています。これは、抗酸化物質の中でも強力なポリフェノールの働きによるものと言われています。
 ジュースに加えて、豆類、シリアル(穀類)、魚類を多く食べている人ほど、また、肉類、乳製品が少ない人ほどアルツハイマー病の発症率が小さかったということです。
 ふだんの食生活で、栄養バランスを工夫するだけで、アルツハイマー病の発症を最大で40%も低く抑えられるというのが調査の結論になっています。
 運動不足も「アルツハイマーへの道」になっています。週に4時間以上の運動を続けてきた人は、そうでない人とは88%も発症率が少なかったというデータもあります。 

 こうして見るとアルツハイマー病はメタボリックシンドロームと同じように「生活習慣病」ということが言えますね。

 三ヶ月ほど前のニュースなどの出来事を思い出せなくなったら危険信号と、あるテレビ番組で報道していました。
 私は、まだ思い出せるので、今のうちにメタボリックの治療と一体化して、ボケ防止に励みたいと思います。

9月20日 イチローが日本人初の200本安打

 1994年の今日は、当時、オリックスに在籍していたイチロー選手が、日本人初の年間200安打を達成した日です。
 
 プロ3年目のこの年、オリックスは着任した仰木監督は、イチローの天才的な打撃センスを見抜き、2番打者に抜擢(後に1番)しました。
 新井宏昌コーチにも理解され、2軍に落ちることもなく年間通じて出場し、終わってみれば、前人未踏の210安打の大記録を樹立していました。
 
 同年から創設された最多安打の初のタイトル保持者になりました。
 また、初の首位打者にもなりましたが、これは日本を離れるまで7年連続してタイトルを保持しました。

 日本での年間200安打はこの年の1回だけですが、アメリカのマリナーズに移籍した2001年からは、毎年、年間200安打を達成しています。
 そして、つい先だっての2008年9月17日には、大リーグタイ記録の8年連続年間200本安打を達成しました。

 イチローについてはこれ以上記録を並べませんが、一言でいうなら、私は「スゴイ」という月並みな言葉しか出てきません。
 「スゴイ」のは記録もさることながら、「継続は力なり」の信念のもと、天才的能力の上に努力を重ねたことが、一番「スゴイ」と思います。

 8年連続の記録樹立を報じるスポーツ新聞によると、マリナーズが成績不振なため「このチームの状況ではマイナスの空気がどうしても皮膚から入って来るので、それを避けたかった」と語り、自分の世界を作り上げることに工夫したようです。

 プロに徹した強い意思、強い精神力を感じました。
 一流の人物の不可欠の要素ですね。

9月19日 平民にも苗字が許された

 1870年の今日は、明治新政府が、太政官布告を出して、平民が苗字を持つことを許した日です。

 平安時代の中ごろに登場したといわれる苗字は、江戸時代になると、切り捨て御免、帯刀などとならんで武士の特権になりました。
 一部の大商人、大庄屋などを除いて、一般庶民は苗字を持つことを禁止されていました。
 たしかに時代劇や時代小説では、〇〇村の次郎兵衛とか〇〇長屋のお松だとか、農民・町人は苗字を名乗っていません。

 さて、苗字を許された平民は喜んで、我先にと苗字をつけたかというとそうではありませんでした。長い間、苗字を持たなくてもなんの不便を感じなかったのですすんで付けようとはしなかったのです。
 面倒くさがってなかなか苗字を名乗らないので、政府は5年後に「かならず苗字をつけること」との命令を出しました。

 仕方がないので、樹木とか近所の地形を基準にして、新しい苗字が出来上がっていきました。中にはよく考えないで、いい加減な名前を付ける者も出てきました。
 それでも付けるのを渋っていると、警察官が強制的にイヤミのある苗字を決めて押し付けていきました。

 政府はなぜ、これほど強く苗字を求めたのでしょうか。
 それは、税金が米から金納に変わり、徴兵制で兵士を集めるようになり、学校制度を進めて行くのに、一人一人を判別できる戸籍が不可欠だったからです。

 江戸時代とちがって移動が自由になったので、〇〇長屋(店)の熊では不便だったに違いありません。

 ちなみに、日本の苗字トップ10は、佐藤、鈴木、高橋、田中、渡辺、伊藤、中村、小林、山本、加藤の順だそうです。(明治生命保険調べ)

9月18日 関東軍が満州事変をおこした

 今日は、日本の関東軍によって「満州事変」が引きおこされた日です。
 満州というのは、現在の中国東北地方のことです。

 1931年9月18日の夜のことでした。
 奉天(現在のシェンヤン)の町の人々は、夜もふけたというのに突然響きわたる大きな音に驚かされました。
 10時40分、奉天の日本領事館に「中国軍が鉄道を爆破したので、日本軍が出動した。すぐ来てほしい」という内容の電話がありました。
 爆破されたのは日本が利権を持っていた南満州鉄道の線路です。

 その後あきらかになったことは、日本の関東軍が自分たちで鉄道に爆薬を仕掛けて爆破させたのでした。
 爆破したあとも列車が通過し、損傷はたいしたことはありませんでした。

 ところが関東軍は、この爆破は中国側がやったことであるといって、それを理由に各地で軍事行動に出たのです。
 日本の新聞は、関東軍の発表をそのまま報道しました。

 そもそも爆破事件の背景には、当時の政党内閣は中国との対立をできるだけ話し合いで解決していこうという考えでした。
 それに対して関東軍は、生ぬるいと不満をもち、「満州は日本の生命線だ」と勝手に理由をつけて事件をおこしました。実力行動をおこせば、やむを得ず政治の方があとからついてくるだろうという強引な独断行動でした。

 日本政府は不拡大の方針を声明しましたが、関東軍はまったく無視して独自の軍事行動を展開していきました。
 そして、全満州を占領して、日本のかいらいにすぎない「満州国」を作ってしまいました。
 この満州国の皇帝に担ぎ出されたのが映画「ラストエンペラー」で描かれた〈フギ〉でした。

 なお、中国政府は爆破の事実は一切認めませんでした。さらに、日本の侵略行動を厳しく非難し、国際連盟に提訴して世界に訴えました。
 国際連盟のリットン調査団は、日本の侵略と断じました。
 1933年、国際連盟総会でも42対1で、日本の満州撤兵を勧告する決議案が可決されました。

 このあと日本はどうしたのでしょうか。
 国際連盟を脱退し、世界の孤児になる道を選んだのでした。
 前年には五一五事件で、「話せばわかる」と言った犬養首相は、「問答無用」と射殺されています。
 
 以後、日本は軍部中心の政府が続いていきました。

 戦争を引き起こす国は、自分勝手な理由をつけたがります。
 大量破壊兵器があると断じて、遠い異国の地でイラク戦争を始めたアメリカなどは、今までいくつ理由を作ってきたでしょうか。

9月17日 楊太真が貴妃になった日

 中国の唐の玄宗は、溺愛していた楊太真を、745年の今日、妃の最高位である貴妃としました。この時から、彼女は楊貴妃とよばれるようになりました。

 顔をめぐらして微笑みを投げかけるとき、その容姿はこのうえなくなまめかしいと、唐の詩人白楽天の歌にも詠まれています。
 楊太真は頭がよく、歌舞音楽がたくみで、世界三大美人のうちの一人にも名前が上がっています。
 
 さて、彼女はもともとは玄宗の皇子・寿王の妃でした。
 玄宗は絶世の美女が目にとまり、やがて離婚させて、道教の尼にしました。このとき太真という名を与えています。
 尼としていったん宮廷から出されたと思いますが、4年後、還俗させられて、玄宗の妃になりました。22歳のときでした。
 このため一族のものも高位高官を得たと言われています。 
  
 さて、玄宗が帝位についたのは、712年、28歳のときでした。はじめはすぐれた役人を用いて、乱れていた政治をひきしめ、人々のくらしを安定させたので「開元の治」とよばれ、貴族の文化も発達しました。
 都の長安には世界各地から人々が集まり、大いに繁栄しました。
 そのころの日本は奈良時代でしたが、遣唐使がたびたび派遣されていました。

 しかし、玄宗は老年になって政治にあいてきて、若い楊貴妃を溺愛するようになると、政治を放り投げたため国が乱れてきました。
 人々のくらしが苦しくなり、不満が高まってきても、宮廷の中は栄華に酔っていました。

 ところが、755年、突如として玄宗の忠実な家臣だった安禄山が大反乱をおこしました。
 安禄山の反乱軍は洛陽を占領し、長安にせまってきました。
 玄宗と楊貴妃は長安を捨てて四川省に逃れましたが、楊貴妃は途中で兵士に絞殺されました。
  
 楊貴妃の絞殺は、反乱軍の圧力に屈服した玄宗の指示だったとも言われています。
 貴妃の地位についてから約10年しかたっていませんでした。

 翌年、玄宗は退位しましたが、唐はさらに150年間続きました。

9月16日 モース博士が大森貝塚を発見

今日は、アメリカ合衆国の動物学者モースが、「大森貝塚」を発見した日です。

 モースはハーバード大学で海洋生物学を学び、ボードウィン大学では教授として、動物学や比較解剖学を教えていました。

 1877年、39歳になった誕生日に、モースは横浜港に降り立ち、始めて日本の土を踏みました。
 来日の目的は相模湾に多く棲息する腕足類(形が二枚貝に似ているホオズキガイ)の仲間の採集したり研究するためでした。しかし、東京大学の動物学の教授が足らないというので目をつけられ、頼み込まれ、来日3ケ月で「お雇い外国人」になりました。

 モースは、東京大学での講義で、ダーウィンの進化論を日本の学会に紹介しています。日本人が始めて進化論に触れた瞬間でした。モースは聴衆に大きな感動を与えたとのちに書いています。
 モース以前の「お雇い外国人」の教授たちの多くはキリスト教の宣教師だったので、進化論を聞いても信じるなと講義をしているほどでした。

 さて、「大森貝塚」は東京都の大森駅付近にある縄文時代の貝塚です。
 モースは来日した当日、横浜から新橋へ汽車で向かう途中に、通過中の窓から見つけていて、この貝塚を調べてみたいと思っていました。
 その年の10月には発掘調査が行われ、日本で最初の貝塚の発見となりました。

 モースは丹念に研究し、調査結果をイギリスで発表しました。その時、出土した土器を「コードマークの土器」と名付けました。当時は、索文土器と日本語に訳されましたが、のちに縄文土器の名前が一般的になりました。

 貝塚とは縄文時代の人々のごみ捨て場ですが、死者を埋葬する場でもありました。貝殻はもちろん、土器・石器・骨角器のほかに人骨や動物・魚・鳥などの骨が出土しています。
 これらのごみは当時の人々の生活を知るための重要な資料になっています。

 縄文時代の人々は竪穴住居に住み、集落とその周辺で貝を取ったり、小動物を狩りしたり、栗やくるみなどの木の実を採集したりして暮らしていました。
 生きていくための自然条件がとても厳しかったことが、ある人骨からわかっています。

 縄文時代初期のある人骨に樹木の年輪のような筋が見られるのです。飢餓線と呼ばれています。成長期に長期的な飢えによって餓死寸前になり、成長が一時的に停止したからだろうと言われています。筋は11本もありました。
 また、15歳まで生きた場合の平均死亡年齢は男女共31歳だと言われています。15歳以下の生存率はとても低かっただろうと推定されています。
 縄文時代は9000年間も続きました。不安な日々の連続だったことでしょう。

 このように現在では、各地で貝塚・遺跡が発見され、考古学の研究も進んでいますが、モースが来日した明治の初めには日本には考古学はありませんでした。
 
 モースは、東京大学の教授たちと熱心に発掘調査と研究を行い、日本の考古学の基礎を築きました。
「日本の考古学の父」と言ってもいいように思います。


9月15日 「老人の日」で、2008年度の「敬老の日」

 2008年度の今日は「敬老の日」で、国民の祝日の一つになっています。

 2002年までは、毎年9月15日を「敬老の日」としていましたが、祝日法の改正(いわゆるハッピーマンデー制度の適用)で、翌年からは9月の第3月曜日となりました。
  なお、「敬老の日」を第3月曜日に移すにあたって、9月15日を「老人の日」としました。

 そもそもの由来は、兵庫県の野間谷村(現在の多可町)が、1947年から始めた「としよりの日」にあります。
 「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村作りをしよう」と、9月15日を「としよりの日」と定め、敬老会を開いてきました。これが兵庫県全体で行われるようになり、後に全国に広がっていきました。
 その後、「老人の日」となり、1966年には「敬老の日」として国民の祝日になりました。
 
 また、9月の第3月曜日に変更されましたので、9月20日や21日が「敬老の日」となるケースが発生することになりました。
 祝日法では「前後を祝日に挟まれる平日は国民の休日」と見なされます。そのため、「敬老の日」と秋分の日が、9月20日と22日、もしくは9月21日と23日になる場合、「敬老の日」の前日の日曜日から4連休、週休2日制であれば5連休となります。
 
 そうなれば春の「ゴールデンウィーク」のような大型連休(「シルバーウィーク」?)が誕生するともいわれています。
 実は、このケースが最初に発生するのは来年2009年です。来年の「敬老の日」が9月21日で、秋分の日は9月23日ですので初の5連休(4連休)になります。
 次いで2015年、2026年に発生する見込みです。

 さて、祝日法では、「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」ことを「敬老の日」の趣旨としていますが、近年の老人をとりまく環境は、趣旨とは裏腹にきびしいものがあります。
 
 私自身も長寿を祝われる入り口に立っていますから、深刻です。兄弟にも、友人にも老人がたくさんいます。
 病院通いができる体力があればまだしも、入院中の介護が必要な老人でさえ病院から追い出されて、自宅で体力が弱った配偶者に介護されているケースや、配偶者がいない場合の孤独死、自殺のニュースも報道されています。
 ほんとうに老人が「敬愛」されているのかといいたいです。

 さらに追い打ちをかけているのが「後期高齢者医療制度」だと思います。私のまわりでも批判が高まっています。こんなに不人気なのに、なぜやめないのでしょうか。
 
 さて、知っている人は少なくなりましたが、1970年代、「老人医療費無料」の時代がありました。
 東北地方の小さな村のしくみが、東京・大阪をはじめ、全国に広がったのです。国民の声に圧されて、国でも実施されました。
 これは約10年間続きました。
 
 しかし、80年代から政府は、老人医療費の有料化に逆戻りさせてしまいました。
 そのころ、大蔵大臣経験者(故人)が、「長生きにはコストがかかる。出したかない人は早く死んだ方がいい」といい放ちましたが、この考えが実行されていると思えてなりません。
 
 老人の医療費の負担が大きくなるということは、介護する若い世代の人々の負担も大きくなるということです。
 若い人たちの中には、「老後の問題は、老人だけの問題ではない。」「自分の老後はどうなる?」と、老後の生活に不安をかきたてられている人が急速に増えているそうです。

 「敬老の日」の趣旨通りの社会になってほしいものです。
 今日はいささか興奮して書いてしまいました。

9月14日 シャンポリオンがロゼッタストーンのヒエログリフを解読

 今日は、フランス人で「エジプト学の父」といわれるシャンポリオンが、ロゼッタストーン(ロゼッタ石)の碑文にあるヒエログリフを解読した日です。
 今から186年前の1822年の今日、「私はやり遂げたのだ!」と日記にこのようにペンを走らせました。

 ロゼッタ・ストーン(ロゼッタ石)は、1799年、ナポレオンがエジプト遠征を行ったとき、エジプトの港湾都市ロゼッタで発見されました。
 縦は114.4cm、横は72.3cm、厚さは27.9cm、重量は760kgです。
 ストーンには文字が刻まれており、エジプト語とギリシャ語の合計3種類の文字で書かれていました。
 エジプト語は神聖文字(ヒエログリフ)と民衆文字(デモティック)で、ギリシャ語はギリシャ文字で記されていました。

 シャンポリオンは、11歳のとき、兄に連れられて行った数学者フーリエのサロンで、初めてエジプトの神聖文字(ヒエログリフ)を見せられました。
 このとき、「この謎の絵文字を読んだ人物がまだだれもいない」ということを聞いて、シャンポリオンは大いに興味を持ち、「大きくなったら自分が必ず読んでみせる」とその場で公言したということです。
 さて、それからの彼はこの遠大な目標に向かって進みました。
 彼は語学の天才で、すでに9歳までにラテン語をマスターしていました。さらに、17歳までに13ヵ国語をマスター、わずか18歳でグルノーブル大学の歴史学教授となるほどでした。

 彼は、ロゼッタストーンの解読に取りかかりました。
 ロゼッタストーンは3種類の紀元前の文字で書かれており、最後の文字は古代ギリシャ語でした。
同じ内容のことを3種類の文字で書かれてあると推測され、すでに何人もの学者が解読を試みていました。多くの学者が解読に挑戦しましたが、ついに誰ひとりとしてなしえていませんでした。
 最初にトマス・ヤングがファラオ名など固有名詞の解読に成功していました。
 これをヒントに、最終的にシャンポリオンが解読に成功しました。この結果を手がかりに、エジプト語の文書も続々と解読されるきっかけとなりました。

 彼が解読に成功するまでに、この間、実に20年が経過していました。
 この偉業によって2000年間忘れ去られていた文字が復活したのです。

 ストーンの碑文の内容は、ヘレニズム時代のエジプトのプトレマイオス王朝プトレマイオス5世の施政下で、紀元前196年に開かれたメンフィスの宗教会議の布告を書き写したものでした。
 やはり同一の内容が、エジプト語は神聖文字(ヒエログリフ)と民衆文字(デモティック)、ギリシア語はギリシア文字で刻まれていました。

 「新しい王は、王の父から王位を継承した」という書き出され、その内容は、プトレマイオス5世をたたえ、プトレマイオス5世などに対する皇帝礼拝の実施方法を記したものでした。
 
 シャンポリオンは、その後も精力的に古代エジプト研究を続け、1828年と1830年に、長年の夢であったエジプトへの調査旅行を果たしています。

 しかし、あまりにも熱心に研究に打ち込んだために、健康を害してしまったシャンポリオンはわずか41歳の若さでこの世を去りました。

 なお、ロゼッタ・ストーン(ロゼッタ石)は、現在、イギリスの大英博物館で展示されています。  

9月13日 杉田玄白の誕生日(旧暦)

 旧暦の今日、9月13日は、「杉田玄白」が誕生した日です。

 杉田玄白は中学校の歴史ではかならず習うため、多くの日本人が知っている有名人で、江戸時代の蘭方医です。
 代々小浜藩の医家で、玄白で3代目にあたります。なお、同族には江戸時代に間宮海峡にその名を残す探検家である間宮林蔵がいます。

 父が西洋流の外科医であったことから、西玄哲からオランダ流の医学を学びました。しかし、当時は長崎とちがって、江戸ではオランダ語を学ぶことはむつかしく、玄白はオランダ語を学ぶことを断念していました。   
 小浜藩医になったのち、1757年、25歳のとき江戸日本橋でオランダ流外科を開業しました。

 さて、玄白は、2~3年前に、山脇東洋が京都で処刑された罪人の腑分け(人体解剖)をして、人体の内部を確かめたことに大きな刺激を受けていました。
 39歳の時、玄白はオランダ語訳のドイツの医学書「ターヘル=アナトミア」を手に入れることができました。
 また、江戸小塚原の刑場で処刑された老婆の腑分け(人体解剖)がおこなわれると連絡を受け、玄白はそれを見学できることになりました。

 腑分けの当日、玄白が「ターヘル=アナトミア」を持っていくと、前野良沢も同じ本を持ってきており、お互いに驚きました。さらに驚いたのは、体の内部をあらわした図がきわめて正確だったことでした。
 驚くを通り過ぎて感激してしまった2人は、この本を日本語に翻訳することを決意したのでした。
 
 翻訳のために前野良沢の家に集まりましたが、オランダ語がわかるのは前野良沢一人だけでした。
 玄白、中川淳庵らは良沢からオランダ語を学びながら訳しはじめました。十分な辞書もなく,苦心をかさねて、翻訳の作業はゆっくりとした速度で、しかも確実に続きました。
 のちに加わった桂川甫周、石川玄常らの助けも借りましたが原稿が完成するまでに3年半もの歳月がかかってしまいました。。
 1774年8月、「ターヘル=アナトミア」は、ついに「解体新書」5巻が完成し、江戸で出版されました。

 こうして、玄白は蘭学の祖といわれるようになりました。
 玄白の偉さはこれだけではなく、外科の実際の診察においては、多くの病人を治療し、すぐれた医師として評判が高かったのです。
 しかも、診察をしながら、蘭学塾をひらいて多くの門人を育てました。のちに江戸の蘭学の中心になった大槻玄沢もこの塾の出身でした。
 
  晩年には翻訳にあたっての回想録として「蘭学事始」を執筆しましたが、これは明治になってから福沢諭吉により公刊されました。

  墓所は東京都港区愛宕の栄閑院にあります。

9月12日 マラソンの日

 今日は、「マラソンの日」です。 マラソン競技の名前のおこりになったマラトンの戦いがおこった日です。

 マラトンの戦いは古代ギリシャのアテネと古代ペルシャとの間でおきた戦いです。紀元前450年、マラトンに上陸したペルシャの大軍をアテネの奇策でこれを撃退しました。
 この結果を伝令のフェイディピデスという兵士がアテネの城門まで走りに走って、「喜べ、勝った」と勝利を告げたまま絶命したという故事が残っています。

 1896年、第1回オリンピックがアテネで開かれるにあたって、この故事をしのんでマラトンからアテネ競技場までの競走が加えられ、初めてのマラソンが行われました。
 マラトンの英語読みがマラソンになります。

 それにしても中途半端な距離ですね。42.195キロという距離はどのようにして決められたのでしょうか。
 私は、アテネとマラトンの実際の距離を測ってきめたものではないかなと思っていました。しかし、マラトン~アテネ間の実際の距離は36.750キロしかないそうです。
 実は、その距離は後で考えられたものだったのです。  
 
 1908年、イギリスでおこなわれたロンドン大会までは、マラソンの距離は40キロ前後というぐらいにしか決められていませんでした。
 ロンドン大会では、42キロの予定で準備が進んでいました。

 しかし、時のイギリス女王アレクサンドラが横ヤリを入れました。
 本人または子や孫たちがスタート地点もしくはゴール地点を見やすいように変更を求めてきました。
 当時、まだアメリカをしのぐ世界一の強国の女王の要求です。
 横ヤリを受け入れた結果、スタート地点か、ゴール地点を延長しましたので、その分の距離195mほど長くなりました。どちらを延長したのかは2論ありました。
 こうして、この年のマラソンの距離は「26マイル385ヤード(約42.195キロ)となったということです。

 オリンピックのマラソンはその後はだいたい25マイル前後で、開催地の都市の状況に合わせて微妙にちがっていました。
 ところが、1921年の国際陸上競技連盟の会議で、「ロンドン・オリンピックのときの距離を正式な距離として採用する」と決定されたそうです。
 第1次世界大戦の戦勝国・イギリスの国威が感じられます。

 なお、フルマラソンの距離を測定するときは、規定によって巻き尺を使用して人間の手で計測されています。使用される巻き尺は、ワイヤー製の巻き尺です。
 原則として計測するのは、歩道から1メートル離れた車道の上を計測します。
 
 この計測法が必ずしも正確というワケではなく、長かったり、短かったりしたことがあったそうです。ボストンマラソンでは1.085mも短かったこともあり、逆にイギリス・ウィンザーマラソンでは196mも長かったこともあったそうです。

 なお、マラソンには世界新記録という記録はないそうです。
 マラソン大会が、開催された場所や季節によって条件が変わってしまうので、記録を更新した時には「世界最高記録」というのだそうです。

9月11日 剛速球の怪童・尾崎行雄の誕生日

 今日は、剛速球で知られた野球投手の尾崎行雄の誕生日です。 
 議会政治の父といわれる政治家・尾崎行雄にあやかって同じ名前を付けられたということです。

 1961年、当時の浪商高校2年生の時、夏の甲子園で優勝投手となり、怪童とよばれました。
 前年夏の甲子園から3度にわたる法政二高の柴田勲(→巨人)との対決は名勝負として知られています。

 さて、尾崎行雄は豪速球の持ち主で、1年の時からエースでした。
 一方、このころの法政二高は投打のバランスがとれていて、史上最強とまでいわれた超高校級チームでした。尾崎の浪商高校は甲子園で、この最強チームと3季連続で当たってしまいました。
 1回目の対戦は夏、2回目の対戦は春の選抜でしたが、チームとしての総合力が勝る法政二高に敗北しました。
 
 尾崎にとって3度目の正直である2年生の夏の大会では、柴田勲がエースの法政二高との準決勝で当たりました。
 試合は、前半で2点を失うという苦しい展開でした。打線は不振で柴田勲に8回までわずか1安打と完璧に抑え込まれていました。打線は反撃の糸口さえつかめないほど不振でした。

 2点リードされたままで最終回、2死ながら満塁のチャンスを迎えました。ヒットが出れば同点、アウトになれば万事休すという絶体絶命の場面でした。
 その時の打者は尾崎幸雄でした。この土壇場で尾崎は柴田から同点タイムリーを放ち、ゲームは延長戦へ突入しました。
 押せ押せムードの浪商は延長11回、尾崎の犠牲フライとダブルプレー崩れで2点を勝ち越しました。その裏は、法政二高の反撃をかわして、尾崎の浪商高校がついに宿敵を倒しました。

 翌日の決勝は、尾崎の豪速球が冴えに冴え、当時、強かった桐蔭高校(和歌山)に対して「1対0」の完封勝ちをおさめて優勝旗を手にしました。

 その後、2年で高校を中退して、水原茂が監督をしていた東映フライヤーズに入団しました。背番号は19で、1年目には17歳ながら20勝9敗、防御率2.42の成績で新人王を獲得しました。
 1964年から3年連続で20勝を達成しています。1965年には27勝をあげて最多勝利投手になっています。

 しかし、以降はオーバーワークがたたり、肩を痛めて不振におちいりました。野球選手としては早すぎる29歳の現役引退でした。
 当時は、今とちがって投手を酷使する傾向があり、20勝投手・30勝投手が多くいたのもそのためです。早くして現役引退した剛速球投手が多かったように思います。

 私が尾崎行雄を知ったのは、高校野球を見ているときでした。うなるような剛速球と、やんちゃっぽい雰囲気が印象に残っています。

 プロに入ってからの尾崎行雄は、周囲が大人の選手なので、可愛く写りましたが、マウンドではニコニコ笑っていたので、度胸があるんやなと思っていました。
 あとで知ったところによると、笑っていたのはワザとしていたのであって、内心は緊張の連続だったというようなことをいっていました。

  剛速球で勝負するタイプの投手なので、球団に関係なく好きな野球選手の一人でした。若くして引退したことは残念でした。
 現在も元気で活躍されてるようです。

9月10日 映画「羅生門」がベネチア国際映画祭で金獅子賞

 1951年の今日、「ベネチア国際映画祭」で、黒澤明監督の映画「羅生門」が日本映画では初の金獅子賞を獲得しました。

  この受賞によって、ヨーロッパ・アメリカなど世界に黒澤明や日本映画が紹介されるきっかけとなりました。

 この映画は大きな影響を与えました。
 影響を与えたのは、一つの事実に対して、相反する複数の視点にもとづいて、まったく違うように回想し、はたして真実はどうだったのかと、観客を混乱させる手法です。
 この後、アメリカなど多くの国の映画や小説に影響を与えました。

 さて原作「藪の中」とはどういう作品だったのでしょうか。
 芥川龍之介は「今昔物語集」などの古典から多くの素材を得て自分なりの創作をおこなっています。
 「今昔物語集」巻29・第23話には、「丹後へ旅する途中、若い盗人に弓も馬も何もかも奪われたうえに、藪の中で杉の木に縛られ、妻が手込めにされるようすをただ見ていただけの情けない男の話」があります。ただ、殺人事件はおきていなくて、この夫婦はそのあと丹後へ旅を続けています。

 芥川は、この情けない男を殺して殺人事件に仕立て上げて小説「藪の中」を創作しました。
 小説は、藪の中でおこった殺人事件を7人の証言者が証言・告白するという形式でなりたっています。
   第1発見者の木樵
   妻を連れた男と道で遭った旅法師
   盗人を捕らえた放免
   媼(妻の母)
   捕らえられた盗人   
   清水寺で懺悔する男の妻
   巫女の口を借りて現れた男の死霊
   
 それぞれの証言はなるほどと思うほど説得力があります。しかし、武士の死因については、殺人または自殺というふうに見事にくいちがっています。
 
 結局、真相はどうなっているのか、犯人はいったい誰だったのかはまったくうやむやのままになっています。それぞれの供述調書を並べただけといえます。
 
 私の勝手な想像ですが、芥川は、関係者があまり多すぎても、つまり情報提供が多すぎてもかえって真実がわからないこともあるといいたかったのでしょうか。
 情報のねつ造や情報操作もあり、真実はどこにあるのか特定できないこともあるといいたかったのかもしれません。
 
 私たちは、関係者の言い分がくいちがったりして、真相がはっきりしない時に、「~は闇の中」とか「~は霧の中」とかいいますが、この小説の題名をそのまま使って「まるで藪の中」というふうにも使っています。
 なお、海外では、これを映画化した「羅生門」の題を借りて、「まるでラショーモンのよう」といいあらわすこともあるといいます。

 この作品は推理小説の一種としても高い評価を得ています。
 映画が完成した時に、当時の大映社長は「この映画はわけがわからん」と批判していたそうです。

 私が「羅生門」を最初に見たのはたしか20歳前後でした。人生の経験不足で、私も、その時はまったく訳がわかりませんでした。

9月9日 重陽の節句(菊の節句)

 「重陽(ちょうよう)」とは五節句の一つで、今日9月9日のことです。

 旧暦では菊が咲く季節であることから「菊の節句」とも呼ばれています。
 ちなみに五節句とは、「人日(じんじつ)(1月7日)」・「上巳(じようし)(3月3日)」・「端午(たんご)(5月5日)」・「七夕(7月7日)」・「重陽(9月9日)」の5つです。
 節句の名には桃、菖蒲、そして秋の菊と季節を代表する花が配されています。

 重陽の節句は中国から伝来した祭日です。
 中国の陰陽思想では、奇数は陽の数であり、陽の数の一番大きな数字の9が重なる日なので「重陽」と呼ばれていました。この9が二つ重なる9月9日は大変めでたい日とされていました。

 ただし、もともとは奇数の重なる月日は陽の気が強すぎるため不吉とされ、それを払う行事として節句が行なわれていました。とくに9は素数として最大の「陽」であり、特に負担の大きい節句と考えられていました。
 後になって、陽の重なりを吉祥とする考えに変化していって、祝い事をする日となったものです。

 邪気を払う一方、長寿を願って、菊の花を飾ったり、菊の花びらを浮かべた酒を酌み交わして祝ったりしていました。
 また前夜、菊に綿をかぶせておいて、露を染ませ、身体をぬぐうなどの習慣があったようです。

 しかし、現在では、他の節句と比べてあまり実施されていません。それは、明治時代初めに新暦に切り替わって、季節感が変わったからでしょう。
 現代人が、9月9日は「菊の節句」といわれてもピンときませんね。
 
 もともとは新暦の10月が旧暦の9月で、菊の盛りに重陽の節句がありましたが、 現代では、忘れ去られた節句となってしまいました。
 知らない人が多いのではないでしょうか。

9月8日 湯川秀樹の誕生日

 湯川秀樹は1907(明治40)年の今日、東京で誕生しました。 
 
 1929年、京都帝国大学理学部物理学科卒業。しばらくして、大阪胃腸病院の院長湯川家の婿養子となり、小川姓から湯川姓となりました。

 1934年、有名な中間子理論構想を発表し、素粒子論に新しい分野を開きました。
 1935年、「素粒子の相互作用について」を発表して 中間子の存在を予言しました。素粒子論とは、原子を構成している基本的な微小粒子である中性子や陽子・中間子などのはたらき合いについて研究する学問です。
 日本にはこの分野のすぐれた学者が多いです。

 この研究が評価され、戦前に学士院恩賜賞、最年少(36歳)での文化勲章を受章しました。
 さらに1949年、ノーベル物理学賞を受賞しました。
 ノーベル賞受賞は、日本人として初めての受賞であり、このニュースは敗戦後の日本国民に大きな力を与えました。
 その後も後進の指導にはげむかたわら、革新的な理論を提唱しつづけました。
 
 またその一方で、世界平和七人委員会のメンバーとして核兵器に対する警告を発し、核戦争の危機を訴えるなど、核兵器廃絶を訴える平和運動にも積極的にかかわりました。
 ラッセル=アインシュタイン宣言にも共同宣言者として名前を連ねています。

 1981年、肺炎に心不全を併発し、最後まで第一線級の物理学者であり続けた湯川秀樹は、ついに京都市の自宅で死去しました。74歳でした。

  私の小学生のころ、父や担任の先生から、「湯川博士は立派だ。」「湯川博士は・・・・」「湯川博士は・・・・」と、説教のときにも雑談のときにも、枕詞のように付いていました。
 
 そのため、その後は親しみをもって湯川秀樹という大学者を見ることができました。さらに湯川博士が反核平和運動に積極的だと知ったときは大いに感激しました。

9月7日 吉川英治が死去

 今日は、大衆小説で幅広い読者をひきつけた作家・吉川英治が亡くなった日です。

 吉川英治は1892年、横浜市で生まれました。 
 英治が生まれた当時、父は牧場経営に失敗し、寺子屋のような塾をしたり、貿易の仲買人のようなことを始めていました。
 やがて横浜桟橋合資会社を設立して、一時期、生活は安定しましたが、トラブルがもとで裁判で敗訴すると、刑務所に入れられ、出所後は生活が荒れて英治の家運が急激に衰えていきました。

 英治は10歳のころから雑誌に投稿をするようになり、雑誌「少年」に作文が入選したこともあります。 
 家運が衰えたのはこのころで、小学校を中退しました。 
 英治はいくつもの職業を転々としつつ、独学しました。 1910年に上京して、浅草に住みました。このときの浅草の町並みが、後になって江戸の町を書くにあたって印象に残っていたといいます。 

 またこのころから川柳をつくり始め、「大正川柳」に参加しています。また、「江の島物語」が「講談倶楽部」に3等当選しましたが、生活は向上しませんでした。

 1921年に母が没すると、翌年より東京毎夕新聞社に入りました。しだいに文才を認められていきましたので「親鸞記」などを執筆するようになりました。
 ところが関東大震災で被災して同社が解散すると、これを機に文学で生計を立てることを決意しました。
 
 作品をさまざまなペンネームで発表しましたが、「剣魔侠菩薩」で作家として一本立ちすることができました。そのころ創刊された「キング」に連載した「剣難女難」で初めて吉川英治のペンネームを使いました。
 「キング」では、「坂東侠客陣」「神洲天馬侠」の2長編を発表し、さらに多大な読者を獲得しました。
 執筆の依頼は増え、阿波の蜂須賀重喜の蟄居を背景とした傑作「鳴門秘帖」を完成させました。
 これらの作品の売れ行きはよく、また作品も多く映画化されました。ますます人気が高まり、時代小説家として大衆文学界の重鎮となりました。

 こうして巨額な印税が入って生活は急激に好転して行きましたが、家庭の問題では安穏ではありませんでした。貧しいときから寄り添っていた妻とはうまくゆかず、ついに離婚しました。

 1935年、「親鸞」を発表し、同年の8月からはじめた「宮本武蔵」の連載は4年後まで続きました。「宮本武蔵」は、新聞小説史上かつてない人気を得た大衆小説の代表作となりました。
 つづいて「新書太閤記」、「三国志」を連載しました。

 1945年、終戦後は「高山右近」「大岡越前」で本格的に復活しました。
 やがて、「新・平家物語」の連載を開始しました。これは連載7年におよぶ大作で、この作品で第1回菊池寛賞を受賞しました。
 「新・平家物語」終了後は、「私本太平記」「新・水滸伝」を連載しました。
 「私本太平記」は、従来逆賊とされてきた足利尊氏を描いた作品です。

 1960年、文化勲章を授与されています。
 「私本太平記」の連載終了まぎわに肺がんがわかりました。翌年夏にはがんが転移し悪化しました。
 1962年9月7日、闘病の甲斐なく肺がんのため国立がんセンターで死去しました。70歳でした。

 私が30代のころ、長編小説に飢えていたとき、書店の吉川英治コーナーで「新・平家物語」の16巻がふと目に飛び込んできました。「よし、これを読んでやろう」と思って2巻(一・二)を買って帰ったのが、吉川英治との縁の始まりでした。

 その「新・平家物語」のおもしろいこと、おもしろいこと、バス・電車・喫茶店・寝床の中でも読みふけりました。
 この後、「私本太平記」、「新・水滸伝」、「鳴門秘帖」、「親鸞」、「宮本武蔵」、「三国志」、「高山右近」、「神州天馬侠」と立て続けて読みふけりました。

 特に、戦前では天皇に背いた大悪人とされていた足利尊氏の若き日々からの成長を取り上げた「私本太平記」が気に入りました。
 もう一つ二つ取り上げるとしたら、「三国志」と「宮本武蔵」です。長編ですから、読み応えがありました。

 なお、横山光輝は、英治の「三国志」をもとに、「三国志」として漫画化しています。
 井上雄彦が「宮本武蔵」をベースにして漫画化した「バガボンド」も有名で、超おもしろいです。

 吉川英治の作品は、読みやすくておもしろいです。

9月5日 マザー・テレサが生涯を閉じる

 インドで貧しい人々のために献身的につくした「マザー・テレサ」は、1997年の今日87年の生涯を閉じました。

 「マザー」というのは指導的な立場の修道女への敬称で、「テレサ」というのは彼女が選んだ修道名です。本名はアグネス・ゴンジャ・ボヤジュといい、アルバニア人のカトリックの家庭に生まれました。

 18歳のとき、ロレト修道女会に入りました。そして、1931年、修道女としてインドのダージリンに赴きました。 
 その時に選んだ修道名が「テレサ」でした。

 その後20年余りの間、カルカッタの学院では上流階級の子女の教育にあたりましたが、「テレサ」の目には貧しい人々の姿が目から離れませんでした。
 
 やがて、テレサは、汽車に乗っていたとき、「最も貧しい人の間で働くように」という啓示を受けました。
 テレサは啓示が自分に与えた使命にもとづいて行動しようとしました。

 1948年、教皇から修道院の外で居住してもよいとの特別許可を得ると、テレサは修道院を出て、カルカッタのスラム街の中へ入っていきました。
 彼女はインド女性の着る質素なサリーで身をまとって、学校に行けないホームレスの子どもたちを集めて街頭での無料授業を行うことからはじめました。
 やがて学院の教え子たちの協力が彼女のもとによせられ、教会や地域の名士たちからも寄付が寄せられるようになりました。
 ほかのシスターたちと奉仕活動を開始して、行き倒れの人々の世話にあたりました。

 このあと1950年には修道会設立の許可を得ました。これが「神の愛の宣教者会」です。 
 この会の目的は「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からも世話されない人のために働く」ことでした。

 「テレサ」の活動が多くの人に知られるようになったのは、1969年、アメリカ人のマゲッリッジによるドキュメンタリー映画「すばらしいことを神様のために」と書籍によってでした。
 アメリカ合衆国のみならず、「マザー・テレサ」の名前と活動が全世界で知られるようになりました。
 
 1971年、「教皇ヨハネ23世平和章」の最初の受章者となると、これをきっかけに多くの賞がテレサに与えられることになりました。
 ケネディー賞、シュバイツァー国際賞、アメリカ合衆国大統領自由勲章、アメリカ上院議会金賞、アメリカ合衆国名誉市民権、これらにくわえて数多くの大学の名誉学位を受けました。

 1979年にはノーベル平和賞を受賞しました。
 「テレサ」はカルカッタの貧しい人々のために賞金6000ドルをうけとり、「このお金でいくつのパンが買えますか」といったそうです。
 心はいつも貧しい人たちの方に向いています
 授賞式では、「・・・私は受賞に値するような人間ではないけれど、世界の最も貧しい人々に代わってこの賞を受けます。」とスピーチしました。
 
 1997年、転倒して首の骨にひびが入り、8月にはマラリアに罹患しました。すでに心臓の状態が悪化していました。
 9月5日、世界が見守る中、「マザー・テレサ」は87年の生涯を終えました。
 
 宗派を問わずにすべての貧しい人のために働いた「テレサ」の葬儀は、インド政府によって国葬として盛大に行われました。
 インドの大統領や首相以外で国葬されたのは彼女だけです。

 なお、テレサの場合は生前から聖女の誉れが高かったため、2003年10月には、教皇ヨハネ・パウロ2世によって、「マザー・テレサ」は福者であると宣言されました。(福者は聖人の前段階)。

 「テレサ」は北京で行われた第5回世界女性会議へ宛てたメッセージのなかで、「・・・・家庭が崩壊したり、不和になったりすれば、多くの子は愛と祈りを知らずに育ちます。家庭崩壊が進んだ国は、やがて多くの困難な問題を抱えることになるでしょう。・・・」と述べています。
 最近の日本の社会現象はこのとおりの道を進んでいるように思えてなりません、

 また、1981年の初来日の時には「・・・・、日本人はインドのことよりも、日本のなかで貧しい人々への配慮を優先して考えるべきです。愛はまず手近なところから始まります。」と話しています。
 格差社会と貧困化が進んでいる日本の政治もこのようであればいいですね。
 
 

9月4日 空襲にそなえて動物を薬殺(上野動物園)

 1943年、東京の「上野動物園」では空襲に備えて動物が薬殺されました。

 動物の処分命令は、1943年7月1日、東京都の初代首長によって出されました。
 上野動物園では、近いうちに命令が来るのではと感じていたようです。処分命令が出される約2年前には動物園非常処置要綱が制定され、万が一空襲があった場合の非常処置が細かく記載されてあってからです。
 
 その要綱には、猛獣の危険度によって、第一種(熊・ライオン・象・虎など)から、一番危険度の低い第四種まで分類されていました。
 また動物たちの処置の時期については、 空襲が来たら動物の毒殺を開始するということが指示されていました。

 実は、1936年に上野動物園内からクロヒョウが逃げ出して問題となった事件がありました。上野動物園黒ヒョウ脱走事件とよばれています。
 その上、すでに戦局が連合軍優位のもとで激しい空襲を受けていたドイツでは、 空襲をうけたとき、動物園から数匹のヒョウが逃げ出して、市民(数人の小学生・消防隊員)が食い殺されるという事件がおこっていました。
 このような事件が、動物の処置につながっていったという見方ができます。

 この処分命令は都道府県を通じて全国の動物園にも一斉に発令されていますので、各地の動物園でも、多くの動物が殺されていきました。
 
 その結果、終戦時には、日本国内では生きた象は名古屋の東山動物園にいた2頭だけになっていました。
 これは、当時の園関係者が相当の懇願をしたものとおもわれます。
 その東山動物園でも、ライオン・虎などの肉食獣に関しては処分に踏み切っています。

 上野動物園で処分対象となった猛獣は以下のとおりです。
 ホクマンヒグマ(1頭)・北極熊(2頭)・マレー熊(1頭)・アカ熊(1頭)・日本熊(3頭)・ヒグマ(1頭)・朝鮮クロクマ(1頭)・トラ(1頭)・ヒョウ(2頭)・黒ヒョウ(2頭)・コヨーテ(1頭)・シマハイエナ(1頭)・チーター(1頭)・ライオン(4頭)・満州狼(5頭)・河馬(3頭)・アメリカ野牛(2頭)・クロザル(1頭)・ブタオザル(1頭)・マントヒヒ(6頭)・象(3頭)・ガラガラヘビ(1頭)・マムシ(2頭)・ニシキヘビ(2頭) 
 
 処分は、命令された当日の閉園後からただちに実行に移されました。また秘密を厳守するために飼育員の家族にも口外禁止とされました。

 象にも硝酸ストリキニーネを入れた毒入りじゃがいもを与えましたが、繊細な象には分かってしまい吐き出しました。
 そのため、餓死させるという苦渋の選択が取られたのです。
 
 これは「かわいそうなぞう」「象のいない動物園」「トンキー物語」などの児童用物語のもとになった実話です。   

 飼育係職員は、気性の荒いジョンの処分は仕方ないと思っていました。
 気性が穏やかで性格も優しかったトンキーとワンリーは何とか救ってやりたいと、園長代理だった福田三郎に懇願したということです。
 
 また福田自身の考えも、トンキーとワンリーを救いたいというものでした。
 そのために他の動物園にトンキーたちを譲る話を持ちかけてみると、仙台の動物園が引き取ってもいいと前向きな姿勢をみせました。
 しかし、東京都の大達長官の反対で話しはつぶれてしまいました。

 そして、1943年(昭和18年)9月23日の真夜中午前2時42分、最後まで生き残ったトンキーがにこの世を去りました。
 実に絶食開始から30日という、象にとっても、関係者にとっても、長き苦痛と苦悶と悲哀に満ちた日々だったことでしょう。

 軍がどの程度の直接的関与をしているかは意見の分かれるところですが、戦争中でなければ「薬殺」はあり得なかったのは事実でしょう。
 「薬殺」が2度とおこらないような平和な社会でありたいものです。

 参照:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 
 

9月3日 「ドラえもん」の誕生日

 「ドラえもん」は、2112年の今日9月3日に「トーキョーマツシバロボット工場」で製造されたネコ型ロボット第1号です。

 のび太の家には2123年4月5日にタイムマシンでやってきましたが、のび太の家にやってきたのには理由があります。
 実は、「ドラえもん」は製造中の事故でネジが1本抜けて不良品と認定されて、特売所で売られていたロボットなのです。
 
 その特売所に来ていたのび太の子孫であるセワシ(このときはまだ幼児)が、まちがって購入ボタンを押してしまいました。
 こうした経過で買われて、セワシの家で働いていました。
 その後、セワシを幸せにするために、もっともできの悪かった先祖、つまりのび太の未来を変えるために、のび太の家へと送り込まれたのです。

 なお、ネズミに耳をかじられたのは、セワシの家にいたころの2122年8月30日のことです。  
 親類としては妹のドラミがいますが、ドラミは子守用ネコ型ロボットのサポートのために特注で作られました。

 「ドラえもん」のサイズです。129.3がベースになっています。
  身長(129.3センチメートル)     体重(129.3キログラム)  
  頭の周り(129.3センチメートル)   胸囲(129.3センチメートル) 
  座高は100センチメートルです。  

 「ドラえもん」の能力も、やはり129.3がベースになっています。 
  パワー(129.3馬力) ネズミを見たときに飛び上がる高さ(129.3センチメートル) 
  ネズミを見たときにネズミから逃げる速さ(時速129.3キロメートル)

 「ドラえもん」といえば、ドラ焼きが大好物ですが、その由来は、22世紀にいたころ、ダンス用ネコ型ロボットからドラ焼きをもらったことです。
 ドラ焼きの味には相当うるさく、ドラ焼きを売る菓子屋の主人と、味をめぐって言い争ったこともあります。
 ドラ焼き大食いコンテストでの優勝経験もあり、ドラ焼き3つの早食い競争の記録は0.1秒でした。
 
 ドラ焼きを食べない日が3日続くと禁断症状がおきるといわれています。
 ドラ焼きの成分は、「ドラえもん」のエネルギー源に最適だとされています。私たち人間にとっても、適量のドラ焼きはエネルギー源に十分なりますね。

 「ドラえもん」は、アジア各国、ロシア、中東、北アフリカ、中・南アメリカ、イタリア、スペインなどでは人気があります。
 意外とアメリカ合衆国とヨーロッパでは思ったほど浸透していません。なぜでしょうか。
 
 日本では、子どもたちからはもちろん、元子ども(大人)からも人気があります。
 また、「ドラえもん」だけでなく、のび太・静香ちゃん・ジャイアン・スネ夫たち全員がおもしろいキャラクターです。
 特に私が大好きなのはジャイアンです。
 ふだんの生活のなかでも同じような体型や腕白な子(人)がいたりすると、親しみをこめて「ジャイアン!」などのニックネームをつけられていることがあります。
 ジャイアンは、悪ガキですが憎めないですね。

 小学3年生になる孫も「ドラえもん」のファンですが、保育園児のころには「『どこでもドア』があったらすぐにおうちに帰れるのに」とか、「『タケコプター』があったら、こんなに歩かなくてもいいのに」とか言っていたものです。
 たしかに四次元ポケットからつぎつぎ出てくる秘密道具には、作者はよく考えたものだと感心させられています。

9月2日 宝くじの日

 今日は「宝くじの日」です。
 「く(9)じ(2)」の語呂合わせです。第一勧業銀行(現在のみずほ銀行)が1967年に制定しました。
 当せんしても引き換えられず時効となってしまう宝くじが多いことから、時効防止のPRのために制定されました。ナントもったいないことでしょう。ちなみに時効は1年です。
 時効になった当たりくじの年間総額は226億円でした。(2005年度)  

 宝くじの前身はすでに江戸時代からありました。
 当時は「富くじ」といわれていました。おもに神社や寺の修復費用を集めるためにおこなわれていました。
 「富くじ」は、江戸から明治に変わったとき、明治政府の命令で禁止されました。以後80年弱にわたって、日本の宝くじは行われてきませんでした。
 
 再開されたのは1945年7月です。
 太平洋戦争の末期、軍事費調達のために、その名も「勝ち札」として復活しました。1枚10円で、発売期間は7月16日~8月15日でした。 
 締切の日に敗戦のラジオ放送があったように、この「勝ち札」の抽選は行われていません。だから「負け札」と呼ばれたようです。
 その後、「勝ち札」の当選番号が発表されたのかどうかわかりません。

 現代につながる「宝くじ」は1945年10月に発売されました。
 ただし、宝くじ自体は、刑法では犯罪だということです。販売できるのは当せん金付き証票法という法律で保護されているからです。
 宝くじの正式名称は「当せん金付き証票」といわれるのはこのためです。
 
 なお外国の「宝くじ」を日本国内で購入できないのは、当せん金付き証票法が外国の宝くじを対象外としているからです。

 今日では、「宝くじ」の種類が豊富になり、特定の売り場の前には列ができています。風水とか運勢とかを信じて行動されているようです。
 あるロトの運気の本には、自宅よりも西にあって、西向きの売り場が良いと書かれていました。 ところが、探してみると西向きの売り場ってなかなか見つかりませんでした。
 大阪では数10件の売り場を知っていますが、北向きか南向きが多いです。東向きもあります。
 西向きは1件だけでした。売り場の向きも意識して作られているのでしょうか。
 
 さて、現在の日本の宝くじには、開封くじ、被封くじ(スクラッチ) 、数字選択式宝くじの大きく分けて3つの方式があります。
  開封くじとは、番号が印刷された券を買って、当せん番号が一致すれば当せん金を受け取ることができる宝くじです。ジャンボくじなどはこの方式であり、単に「宝くじ」といえばこの方式のくじをさしています。
 私は、この宝くじを最近はほとんど買ったことはありません。理由は、当たりそうに思えないからです。
 他の公営ギャンブルにくらべて、還元される率が極端に低く、空くじが多いことから、皮肉って「多空くじ」という漢字を当てられることもあるようです。

 私が好きなのは数字選択式宝くじです。これは、自分で選んだ番号の組み合わせと抽せん番号が一致すれば当せん金を受け取ることのできる宝くじです。
 これはときどき買います。しかし、あまりあたっていません。 
 ナンバーズ3・ナンバーズ4・ミニロト・ロト6の4種類あります。
 
 その他、青少年に対して悪影響をおよぼすとの批判が根強いサッカーくじなどがあります。

 宝くじで大金を手に入れると、人生が変わるというより、人間が変わるといわれます。昔、仲の良い4人兄妹が金を出し合って共同購入していましたが、何億とかいう大金に当せんした直後から、骨肉の争いをする兄妹に変貌したという記事を読んだことがあります。
 
 当たっていないのでどう変わるかわかりませんが、少額でいいから、人間が変わらない程度に当たってみたいものです。 

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