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8月13日  吉田岩窟王事件が発生

 1913年の今日、「吉田巌窟王事件」とよばれた冤罪事件のもとになる犯罪が名古屋でおきました。  
 8月13日の夜、路上で小売商の男性が殴り殺されて、1円20銭が奪われるという殺人事件が発生しました。翌日、2人の男が逮捕されましたが、彼らは自分らの罪を軽くするために、同じガラス工場で働く吉田石松を主犯に仕立て上げました。
 
 自白偏重主義の捜査当局は2人のウソを信じて、吉田石松(当時34歳)を逮捕し、連日の拷問で自白をせまりましたが、吉田はどんな拷問にも屈せず終始否認しました。
 終始否認を続けたにもかかわらず、1審では男2人には無期懲役、主犯とされた吉田には死刑が言い渡されました。

 控訴審、上告審では無期懲役が確定して吉田は服役しました。
 吉田は獄中からアリバイを主張して2度の再審請求を行いましたが棄却されました。

 ところが無実を訴えて暴れる吉田を見て、秋田刑務所の所長がこの事件の不審な点について調べなおし、吉田が関与していないことに気づきました。
 そして吉田を仮出所させ、再審請求を薦めました。 (この所長は立派です)
 
 吉田は、1935年に仮出獄すと、自分を陥れた2人を探し始めました。ついに2人が先に仮出所して埼玉県にいるのを新聞記者の協力で探し出し、ウソの自白をしたことを認める詫び状を取りました。
 この詫び状をもとに3度目の再審請求を行いましたがこれも棄却されました。
 
 戦後には新聞社や弁護士にも訴え、4度目の再審請求を行いましたがこれも棄却されました。

 しかし、この頃になると世論の関心も高まり、日本弁護士連合会や国会も人権擁護の観点から動き出しました。
 そのため1960年の5度目の再審請求でようやく再審が決定しました。

 1962年12月6日から名古屋高等裁判所で再審公判が始まりました。
 翌1963年2月28日、小林裁判長は吉田石松に無罪を言い渡しました。
 
 小林裁判長は、吉田石松を吉田翁とよび、「我々の先輩が翁に対して犯した誤審をひたすら陳謝するとともに、実に半世紀の久しきにわたり、よくあらゆる迫害に耐え、自己の無実を叫び続けてきたその崇高な態度、その不撓不屈のまさに驚嘆すべきたぐいなき精神力、生命力に深甚なる敬意を表しつつ翁の余生に幸多からんことを祈る」と読み終えました。
 
 読み終えると、小林裁判長を含め3人の裁判官は立ち上がり、被告席の吉田に向かって頭を下げました。

 無実を勝ち取った瞬間、吉田は「万歳」と法廷で叫びました。
 この時、吉田84歳でした。逮捕されたのが34歳。じつに50年にわたる闘いでした。
 
 無実を勝ち取った9ヵ月後の12月1日、身も心も安らかになったのか老衰によって永眠しました。

 ところで、なぜ「吉田巌窟王事件」とよばるいうになったかというと、吉田に協力した新聞記者によってこの事件が都新聞(現:東京新聞)に掲載されたとき、フランスのデュマの小説「モンテ・クリスト伯(日本では巌窟王)」になぞらえて「今様巌窟王」として紹介したからです。
 このときの記事が事件名の由来となりました。

 さて、吉田石松のように冤罪で人生を奪われた人々が、この判決以後も後をたちません。
 45年前、私はこの判決の新聞記事を必死で読み、涙したことを覚えています。機会があればこの事件を多くの人に伝えてきました。
 いつ犯人に仕立て上げられるか、いつ犯人と間違われるかわからない「怖い社会」だという思いは変わりません。  

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