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8月20日 豊臣秀次が切腹 

 今日は豊臣秀次が高野山にて切腹して生涯を閉じた日です。

 豊臣秀次は、豊臣秀吉の姉・日秀の子で、戦国時代の武将として大名に取り立てられ、関白にもなりました。
  
 信長の死後、秀吉が信長の後継者としての地位を築いていく時期には、数少ない血縁の者として重く用いられました。
 小牧・長久手の戦いでは奇襲隊の総指揮をとりましたが、逆に徳川軍の奇襲を受けて惨敗し、命からがら敗走したのを除き、多くのいくさで武功を挙げています。
 この時期から羽柴秀次と名乗りました。

 領国では善政を行ったといわれており、近江八幡には「水争い裁きの像」などが残っているなど逸話が語り継がれています。
 
 1591年、秀吉の嫡男・鶴松が死にました。そのため秀吉の養子となり、後継者として、豊臣姓を贈られ、関白職も継ぐこととなりました。
 この時期が秀次にとってもっとも充実していた時期ではなかったかと思います。

 しかし運命が大きく回転し始めました。
 1593年、秀吉と淀君の間に、実子・秀頼が生まれたのです。しだいに秀吉から疎まれるようになりました。関係は悪化の一途をたどります。

 1595年、秀次は、秀吉によって謀反の疑いをかけられ失脚しました。高野山に追放され、出家しました。
 やがてそこで切腹を命じられて世を去りました。享年28でした。若い死です。

 その年の9月5日には三条河原にて秀次の遺児(4男1女)および正室・側室・侍女ら、あわせて39名が処刑されました。
 さらに秀次に関連した大名は監禁させられ、聚楽第も破却されました。
 家臣の多くも切腹を命じられました。
 さらに秀次の首は、京都の三条河原に曝されました。
 
 これらの厳しい処置は、実子である秀頼を後継者として不動のものとし、秀吉の直系を守るためでした。
 そのためには秀次の子孫を根絶やしにしておかなければならなかったのです。

 秀頼が誕生してから、秀次は酒色に溺れ、女狂いになったなどの奇行があったといわれています。
 また、秀次は嗜好殺人などの非道行為をくりかえしたともいわれ、「殺生関白」(摂政関白を皮肉ったもの)ともよばれていましたが、実情は不明で、疑わしい点も多いといわれています。
 秀次を悪者に仕立てて、処罰を正当化するために流言がなされたのかもしれません。

 秀次の切腹に関係し、秀次の助命を嘆願したりして、秀吉の不興を買った大名は総じて関ヶ原の戦いでは東軍に属することになりました。
 秀吉の大失敗ですね。 

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