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8月2日 足尾鉱毒事件の田中正造倒れる

 今日は「足尾鉱毒事件」で有名な田中正造が支援者宅で倒れた日です。

 1890年、渡良瀬川で大洪水がありました。
 それまでにも足尾銅山では銅をとったカスを川に垂れ流していたため、洪水があると流れ出した鉱毒が田畑にかぶさって、稲が立ち枯れる現象がみられていました。
 この年の洪水でも流域各地の村々で被害が確認され、騒ぎとなりました。
 この事件は「日本の公害第1号」ともいわれています。
 
 田中正造は、1891年以来、鉱毒の害をつぶさに視察し、農民の鉱毒反対運動とともに闘い、帝国議会でも鉱毒問題に関する質問と演説を行いました。
 しかし、政府も足尾銅山を経営する古河財閥も、何の対策も立てようとはしませんでした。
 
 1906年には、2度の大洪水が渡良瀬川流域を襲い、広大な地域が鉱毒の被害にあいました。
 正造は被害を受けた人たちのために、請願の文章を書いてやったり、現地に事務所を置いたりして、農民を援助しました。
 また、本格的に鉱毒問題に取り組む決意をかため、政府と足尾銅山をはげしく追及しました。
 しかし、政府の答弁はあいかわらず誠意のないもので、被害にあった農民の怒りをかうばかりでした。

 1900年、請願のために4度目の上京を計画して、数千の農民が利根川の川岸まで来たとき、待ち受けていた警官隊が襲いかかり、多くが逮捕されるという事件が発生しました。
 ついに政府が弾圧という行為に出たのです。
 
 この事件に怒りを感じた正造は翌年、議員を辞職しました。
 鉱毒被害を訴える活動は続け、おもに東京のキリスト教会などで鉱毒に関する演説をたびたび行いました。

 1901年12月10日、足尾銅山の操業停止を明治天皇に直訴しようと馬車に駆け寄りました。警官に取り押さえられて直訴は失敗しましたが、東京市中は大騒ぎになりました。
 新聞の号外も配られ、直訴状の内容が広く知れ渡りました。

 正造はすぐに拘束されましたが、政府は「狂人が馬車の前によろめいただけの事件」として不問にすることにしました。
 
 このころからしだいに足尾銅山鉱毒事件に対する世論が高まってきて、政府は何らかの対策を立てなければならなくなってきました。
 1902年、政府は谷中村をつぶして、渡良瀬川流域に広い遊水池をつくるという提案を出してきました。

 谷中村を強制廃村とし、貯水池に作りかえるための工事がはじめられました。
 正造は小屋を建てて谷中村に移り住み、谷中村の農民とともに反対運動をおこない、その後も谷中村に住み続けました。
 政府は村民を買収する一方、「村に残れば犯罪者となり逮捕される」と圧力をかけました。
 このため、多くの農民が村から出ていきました。
 正造の小屋は、最後まで抵抗していた16軒の農家とともに強制的に壊されました。

 正造は古参の支援者らへの挨拶まわりに出かけたその途上の今日、8月2日、ある支援者宅で倒れ、約1ヵ月後の9月4日に息を引き取りました。

 財産はすべて鉱毒反対運動などに使い果たしました。死んだときは無一文だったといわれています。
 死亡時の全財産は信玄袋1つでした。
 中身は書きかけの原稿と新約聖書、鼻紙、川海苔、小石3個、日記3冊、帝国憲法とマタイ伝の合本だけであったといいます。
 なお、病死前の1月22日に、邸宅と田畑は寄付していました。

 本葬では、数万人の参列者だったといわれています。
 私もそのとき生きていれば葬儀に参列したいと思うほど、尊敬する人物の一人です。家族と全財産を失ってまで、貧しい被害農民のためにたたかったなんて、実にすばらしいことではないでしょうか。
 
 一方、政府や古河財閥の態度は、今の時代も変わっていないなあと感じています。

 足尾銅山は1973年に閉山となりましたが、現在でもその跡は残っています。
 

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