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8月18日 作曲家・古関裕而逝く

 作曲家の「古関裕而」は1989年の今日、81歳の生涯を閉じました。

 古関裕而は福島市の呉服店に生まれました。 
 父親が音楽好きだったため、当時では珍しかった蓄音機が家庭にあり、いつもレコードをかけて聴いていました。
 幼ないころから音楽の中で育ちましたが、ほとんど独学で作曲家への道を歩いていきました。 

 裕而は10歳のころにはすでに楽譜が読めるようになっていました。しだいに作曲に夢中になり、小・中学生のころから作曲することに親しんでいきました。 
 商業学校時代はハーモニカを放さず、学業よりも作曲に夢中だったという生徒でした。  

 卒業後は銀行員をするかたわら、学生時代から憧れていた山田耕筰の事務所へ楽譜を郵送したりしています。
 古関はクラシックの作曲家をめざしていました。
 20歳の時、古関が作曲した管弦楽のための舞踊組曲「竹取物語」がロンドン市のチェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールに応募して入賞しました。
 このことはほとんど知られていませんが、これは日本人が国際的作曲コンクールに入選した最初の快挙でした。 

 1930年、裕而が21歳の時、山田耕筰の推薦でコロムビア専属の作曲家に迎え入れられました。 
 古関は、実家が経済的に破綻していましたので一族を養なわなくてはならなかったので、次第にクラシックの作曲から離れざるをえなくなったのです。 

 1935年(昭和10)、三浦環が吹き込んだ「船頭可愛や」が大ヒットしました。 
 しかし、戦争の色が濃くなるにつれて戦時歌謡を作曲せざるを得なくなり、ヒット曲を出しています。
 どちらかというと、「若鷲の歌」のように戦意を高揚させる歌もありましたが、「暁に祈る」のような哀愁をおびたせつない旋律のものが多かったといえます。

 古関は、前線の悲惨な体験したり、見聞したことが「暁に祈る」などに結びついたと証言しています。
 また、自らの作品で戦地に送られ、死んでいった人に対して自責の念を持っていたようです。

 終戦後は、戦後の日本を音楽によって明るくするための活動に力を注ぎました。
 藤山一郎が歌った鎮魂の名曲「長崎の鐘」、戦災孤児救済がテーマになっていたラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の主題歌「とんがり帽子」などを発表しました。
 その他の有名な作曲では、東京オリンピックの「オリンピック・マーチ」、甲子園の高校野球大会の歌「栄冠は君に輝く」、「フランチェスカの鐘」、「君の名は」、「イヨマンテの夜」、「高原列車は行く」などの格調高い曲を多く創作しました。 

 古関の流行歌はクラシックの雰囲気がただようメロディーを持っています。 
 その他、阪神タイガース応援歌「六甲おろし」は今も歌い継がれる名曲で、阪神ファンでなくてもつい口ずさんでしまうリズムを持っています。
 読売ジャイアンツや中日ドラゴンズの応援歌も作曲しています。 
 早稲田大学や慶応大学の大学の応援歌も作曲していました。  

 古賀政男や吉田正などとともに私たちの青年時代には、古関裕而は代表的な作曲家でした。流行歌のヒット曲はどれも名曲で、大好きな曲も多いです。
 「六甲おろし」が古関裕而の作品とは知りませんでした。

 反面、曲目は伏せますが、こんな曲は作曲してほしくなかったとブーイングが出したくなる曲もあり、それが残念です。

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