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9月1日 防災の日-関東大震災がおこる-

 今日は、防災の日です。
 1923年9月1日におきた関東大震災にちなんで制定された記念日です。

 9月1日は、その年にもよりますが、二百十日になることが多く、「災害への備えを怠らないように」との戒めを込めて、伊勢湾台風が襲来した翌年の1960年に制定されました。 
 「防災の日」となってからは全国各地で防災訓練が行われています。

 そもそも関東大震災とはどのような震災だったのでしょうか。 
 相模湾を震源とするマグニチュード7.9の海溝型の大地震でした。発生したのは1923年(大正12年)9月1日午前11時58分のことでした。
 死者・行方不明者は約14万人。負傷者は約10万人以上、避難人数は190万人以上、住家全壊は13 万戸弱、住家焼失は約45万戸といわれる未曾有の大被害をもたらしました。  
 
 9月1日は2学期の始業式でした。学校から帰ってきて腹を空かせた子どもらは昼ご飯を待ち望んでいたことでしょう。
 どの家庭も釜でご飯を炊き、鍋をのせた七輪で食事の用意をしていたことでしょう。釜や七論からは炭火や薪の炎が見えています。 
 
 ちょうどこの時、家が揺れ、釜や七輪の上にふすまや障子、屋根が崩れてきましたので、あちこちから火の手が上がり、わかっただけでも136件の火災がおこりました。 
 加えて台風が能登半島付近を通過中で、関東地方に強風が吹いていました。この強風にあおられて、火災は渦を巻き起こしながら広まり、東京市中をなめ尽くし、鎮火したのは2日後の9月3日午前10時ごろとされています。

 そのため、逃げまどう市民の多くは焼死したり、または火から逃れるために隅田川などに飛び込んで溺死しました。
 浅草の12階建ての凌雲閣が大破し、大蔵省、文部省、警視庁などの建物や、帝国劇場、三越日本橋本店など、多くの使節が焼失しました。

 東京の被害が多く語られていますが、震源に近かった横浜市の被害も甚大でした。官公庁やグランドホテル・オリエンタルホテルなどの石造・煉瓦作りの洋館は一瞬にして倒壊しました。内部にいたものは逃げる間もなく圧死しています。
 
 なお、東京の中央気象台の観測によると、9月1日21時ごろから異常な高温となり、翌2日の未明には最高気温46.4度を観測しています。
 このあと大規模な火災が気象台に迫り、ついに気象台の本館も焼失してしまいました。

 あまり知られていませんが、津波の発生による被害もおきています。
 津波は相模湾と房総半島の沿岸で発生し、高さ10m以上の津波が記録されています。
 神奈川県の根府川駅では、その時ちょうど通りかかっていた列車が駅舎・ホームもろとも土石流に巻き込まれて海中に転落し、100人以上の死者を出したといわれ、さらに村も山崩れにより壊滅したということです。

 このような大被害が発生したときに、当時、決定的に不足していたのは通信・交通手段の不足、つまり情報不足でした。 
  通信・交通手段が途絶したため、正確な情報が国民に届けられない状態でした。(ラジオ放送の実用化はこの直後、大正末期のことです。) 

  新聞紙上では「東京(関東)全域が壊滅・水没」・「津波、赤城山麓にまで達する」・「政府首脳の全滅」・「伊豆諸島の大噴火による消滅」などといった噂やデマが取り上げられました。
 その中には「朝鮮人が暴徒化した」「井戸に毒を入れ、また放火して回っている」という悪質なものもありました。

 このためパニック状態におちいり、噂やデマを信じる日本人が多く、朝鮮人・中国人、そして間違われた日本人、聾唖の障害者などの貴重な命が奪われることになりました。
 関東大地震という自然災害のなかで、このような悲惨な事件があったことを忘れてはならないとおもいます。

 防災そのものに対する取り組みを強化することは当然ですが、一方で、情報伝達手段の確保と、公正で正確な情報の公開がなによりも大切だとおもいます。  

8月31日 野茂英雄の誕生日

 今日は、元プロ野球選手の「野茂英雄」の誕生日です。
 1968年生まれですから、もう40歳になりました。  
 
 トルネード投法と名付けられた、背中を打者に向ける独特のフォームからキレのあるストレートとフォークボールが投げ出されました。
 
 そのフォームにこだわったメジャーリーグ時代の活躍はすばらしいものでした。
 1994年、近鉄を退団して、翌1995年、ロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結びました。 
 31年ぶりの日本人2人目のメジャーリーガーとなり、そのパイオニアとしての功績をたたえられています。 
 メジャー1年目から早くもオールスターに出場し、終わってみれば13勝6敗、236奪三振の成績で新人王、奪三振王のタイトルを獲得しました。
 日米両国で2つも新人王を受賞したのは野茂英雄ただ1人です。

 その後、ノーヒット・ノーランを達成したり、日本人メジャー1号本塁打を記録するなど活躍しましたが、シーズン途中でニューヨーク・メッツにトレードされたのを皮切りに、私も覚えられないぐらいの球団に籍をおきました。テレビのスポーツニュースでもあまり取り上げられなくなり、野茂英雄が今どうしているかよくわかりませんでした。 

 移った球団では地味ですがいろいろな記録を打ちたてていました。 
 デトロイト・タイガースでは日本人初の開幕投手になり勝利しました。ボストン・レッドソックスでは対ボルチモア・オリオールズ戦で大リーグ2度目のノーヒットノーランを達成しました。アメリカの両リーグでのノーヒットノーランはメジャー史上4人目という快挙でした。
 タンパベイ・デビルレイズでは、日米通算200勝を達成しました。  

 その後は、肩・ひじの故障のためパッとせず、契約がされても故障者リストに登録されたり、戦力外通告を受けて解雇されたりのくりかえしで、野茂英雄には厳しい時期でした。
 治療に専念するために球団に所属しない状態が続いた後、ベネズエラでのウインターリーグへ参加して1年半ぶりの登板を果たしました。
 右肘を手術して負担を減らすためにフォームを少し変えたのち、ロイヤルズで1000日ぶりにメジャーで登板しましたが、その後結果は残せず、4月20日に戦力外通告を受けました。

 2008年7月17日、「プロ野球選手としてお客さんに見せるパフォーマンスは出せないと思う」「まだまだやりたい気持ちが強いが」とコメントして現役引退を表明しました。
 私は、近鉄時代から野茂英雄が好きでしたが、今は、単なる大好きではなくて、えらい男やなあと思っています。
 引退表明を聞いて寂しかったです。
 
 さて、野茂英雄の出身高校である成城工高は自宅の近くにありますので親近感がありました。
 野茂は、本当は明るくてよくしゃべるらしいのですが、私はマウンドでむっつりして黙々と投げる姿が好きでした。速球とフォークをどんどん投げ込む、活きがいいタイプが好きでした。
 バッタバッタと三振の山を築くのも、スコンスコンと打たれるのも野茂らしさだと思います。

 さらに、野茂英雄は仰木監督を尊敬しているのでますます好きになりました。
 仰木監督は野茂の投球フォームと調整方法を認め、野茂をプロ野球でも通用する投手に育てました。イチローにしても同様です。 
 仰木監督が近鉄を去り、続いて監督になった鈴木啓示は野茂の投球フォームと調整方法を認めなかったので近鉄でやる気をなくしたということです。

 ところで、高校までは無名でしたが、日本での活躍もたいしたものです。
 新日鐵時代での1年目に「伝家の宝刀」フォークボールを習得し、2年目はエースとしてチームを都市対抗に導き、日本代表に選ばれ、1988年のソウルオリンピックでの銀メダルに貢献しています。 

 近鉄に入団した1年目には、新人ながら最多勝利、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率と主要四冠を独占し、ベストナイン、新人王、沢村賞、そしてMVPにも選ばれました。    1990年~1993年の4年間、最多勝利と最多奪三振のタイトルを独占しています。 
 新人の年から4年連続の最多勝利、4年連続の最多奪三振のタイトルを獲得した投手は野茂のみです。 
 立花龍司トレーニングコーチとの「太く長く」をめざしたトレーニングも功を奏しました。
 「太く長く」は、とても大事なトレーニング哲学だと思います。

 また、野茂は、2003年、野球を志す若者にチャンスを与えるために、社会人野球のクラブチーム「NOMO ベースボールクラブ」を設立しました。
 その他、「NOMO CUP」の創設や、ジュニアスポーツ教室や指導者向けのベースボールクリニックを開催したり、野球のすそ野の発展のためにも力を入れているところがすばらしいところです。
 NOMO Baseball Club(勝手にリンクしました。スミマセン) 

8月29日 宝塚歌劇「ベルサイユのばら」を初演

 1974年8月29日は、宝塚歌劇で、池田理代子原作の劇画を脚色した「ベルサイユのばら」(「ベルばら」と省略されていました)が月組によって初演された日です。

 この日の初演以来、再演を何度もくりかえし、2006年1月9日には通算上演回数1500回を突破しました。
 同年3月17日には、通算観客動員数400万人を記録した宝塚史上最大のヒット作です。

 初演時に演出を担当したのは俳優の長谷川一夫です。原作に一番忠実な演出だったといわれています。
 この「ベルばら」を企画するにあたって、当初は首脳陣から「漫画が原作ではだめだ」ときびしく却下されていました。
 また、原作のファンからの反対も強かったといわれています。企画に反対する脅迫の投書も送られてきました。

 しかし、初演は大成功をおさめ社会現象にまでなりました。
 この作品はテレビの普及で、わざわざ劇場まで足を運ばなくても、という波に押されて人気が低迷気味であった宝塚歌劇の人気を復活させるきっかけになった作品です。
 もっと重要なことは、宝塚には縁がなかった一般人でさえ「タカラヅカ」を知って、見る気をおこさせて劇場に足を運ばせたことです。

 はじめて宝塚大劇場まで足を運んだうちの1人が私です。
 1975年の夏、名古屋から姉2人とめい姉妹が大阪へ遊びに来たのでさっそく行きました。藤井寺から近鉄電車で出かけました。
 そういえば、電車のなかで缶コーラを開けた途端、プシュっと泡が飛び散って、近くの男性の白いシャツを汚してしまいました。出がけの事件でしたがクリーニング代を渡して、謝罪して許していただきました。

 さて私たちが観たのは、初演の翌年1975年の花組の公演だったと思います。この作品からすべて一本立て興行になりました。
 この作品は、原作で人気のあった榛名由梨が演じたアンドレと安奈淳が演じたオスカルのカップルに的を絞った脚本でした。
 貴族の世継ぎが生まれないために女でありながら男として育てられた「オスカル」と、幼いころ両親を亡くして、オスカルの乳母をつとめる祖母に引き取られ、オスカルの世話役を仰せつかった「アンドレ」が人気の筆頭でしょう。
 オスカル役の安奈淳とアンドレ役の榛名由梨、この2人のトップスターの役をどちらにどう当てるかでかなりもめたそうです。

 はじめてのタカラヅカ。
 きれいではなやかで、感激しました。時々、流行していたギャグを入れたりして、笑いも誘っていました。
 めいたちも喜んでくれてたと思います。
 この「ベルばら」は、その後上演すればかなりの集客をつねに期待できたため、「ここ一番の勝負」というときに上演されてきただけあって、今も心に残っています。

 それから30数年たった昨年。
 双子の孫娘を連れて、妻と4人で宝塚大劇場を訪れました。
 やっぱり、きれいな舞台でした。

8月28日 民放テレビスタートの日・テレビCMの日

 今日は、「民放テレビスタートの日」「テレビCMの日」に制定されています。
 1953年8月28日午前11時20分に、日本テレビが開局され、本放送を開始したことに由来して、2005年に制定されました。

 このとき同時に、日本初のテレビコマーシャルも放映されました。
 それは精工舎(現セイコー)のもので、「精工舎の時計が正午をお知らせします」という内容でした。
 しかし、当時、まだ放送機材の操作に慣れていなかったため、フイルムが裏返しだったために音がまったく出ず、音なしの状態で30秒間放映されました。
 なお、時報音はフィルムと関係なく挿入されたため正確に出ました。
 ちなみに同日の午後7時の時報は無事に放映され、これが現存する日本最古のテレビCMです。

 CMは限られた秒数内で企業や商品のイメージ、購買意欲などをそそるような効果を目的として制作されていますが、中にはかえって反感を買うようなCMもあります。
 
 一方、見ていてほほえましい、おもしろいCMもあります。
 広告の宣伝業界では「美(もしくは美女)・野獣(動物)・幼児(乳児)」の「Beauty, Beast, Baby」の、いわゆる「3B」が重視されています。
 たしかに「3B」は、取り上げ方をまちがえなければ、気持ちのよいものであり、目にとまりやすいという心理的効果がありそうです。

 テレビでくりかえしくりかえし流されて、頭から抜けきれないで、住み着いてしまったCMがあります。たとえば、・・・・
 
 クシャミ3回、ルル3錠(風邪薬ルル)
 なんである、アイデアル(アイデアル洋傘)
 ハヤシもあるでよ~(ハウス食品)
 わたしにも写せます(富士フィルム)
 俺がこんなに強いのも、あたり前田のクラッカー(前田ランチクラッカー)
 大きいことはいいことだ!!!!(森永エールチョコレート)
 わんぱくでもいい、たくましく育ってほしい(丸大ハム)
 ピッカピカの一年生(小学館:学習雑誌)
 ファイト!一発!(リポビタンD)
 ユンケルンバでガンバルンバ(ユンケル)
 5時から男のグロンサン(グロンサン)
 亭主元気で留守がいい(金鳥ゴン)
 ちちんブイブイ だいじょーブイ(アリナミンVドリンク シュワルツネッガー)
 勉強しまっせ引越しのサカイ ほんまかいなそうかいな(サカイ引越センター)
 もっともーっとタケモットー・ピアノ売ってちょーだい(タケモトピアノ工房)

 日常の会話でも使った経験があり、なつかしいですね。
 CMはヒットすると売上が急上昇します。
 たしかに、私たちも「どこかで聞いたことあるなあ」という商品は、「いい商品」になって、「買う商品」となり、買う行動につながりやすくなります。

 CMは、茶の間にいきなり飛び込んできますから、気分が悪くなるCMはゴメンです。見てても気持ちがよくて、情報が正確で、「ふふっと笑えるようなCM」を期待したいですね。

8月27日 「男はつらいよ」の日,「寅さんの日

 今日は「『男はつらいよ』の日」,「寅さんの日」といわれています。
 1969年のこの日、山田洋次監督・渥美清主演の映画「男はつらいよ」シリーズの第1作が公開されたからです。

  「フーテンの寅」が最初に登場したのはテレビドラマでした。この時は最終回で寅さんは死亡しました。
 しかし、あまりの反響が大きかったので映画で復活しました。以来48作、約25年にもおよぶ世界最長のシリーズとなりました。

 ところで、フーテンとは、漢字では瘋癲と書きます。
 手元の国語辞典では「精神状態が異常なこと及び、そういった人」「定職を持たず、盛り場などにたむろしている人」と説明されています。
 
 フーテンとは、たしかに「仕事も学業もせず、ぶらぶらしている人」のことですが、ここから1960年代の後半、新宿東口に集まる長髪にラッパズボン、サングラスといった格好で、ある者はシンナーを吸い、ブラブラしていて、無気力な若者集団をフーテン族と呼ぶようになりました。
 フーテン族は、アメリカのヒッピーに近いイメージで使われてきました。
  
 しかし、「フーテンの寅さん」は、テキ屋という「定職」に就いていましたし、無気力でぶらぶらして、たむろしているわけではありません。
 家族思いで人情はあるが尻を落ち着かせることができないだけの男でした。「瘋癲」という言葉には合わない男だったとずっと思っていました。
 
 さて、映画は、「フーテンの寅さん」こと車寅次郎が、何かの拍子か気まぐれに、故郷の葛飾柴又にもどってくる度に、何かと大騒動をおこす人情喜劇シリーズでした。
 どの作品も腹をかかえて笑いました。
 
 旅先で出会ったマドンナに毎度のことながら惚れつつも、結局いい人どまりで終わってしまうことはわかっているのですが、その恋愛の模様を日本各地の美しい風景と人情を背景におりまぜながら描いていました。
 オープニングに画面いっぱいに風景が映し出されますが、ほんとに美しい風景でした。
 マドンナ役には、そうそうたる女優が名を連ねています。びっくりしました。

 私の家族では、毎年正月、大阪天満宮で初詣をすませたあと、梅田まで歩いて、松竹の映画館で「寅さん」を見るのがお決まりのコースでした。
 「寅さん」は、年の始まりを明るい笑いで包んでくれた、いつまでも心に残る映画です。

 いつまでも続きますようにと願っていましたが、渥美清の死亡により48作で幕を閉じたのは残念です。
 渥美清は、癌で体調が悪いのに、フラフラの体でよくがんばったと思います。

 なお、2001年8月4日、奇しくも渥美清の5回目の命日に、柴又八幡神社古墳から、帽子や顔の輪郭などが「寅さん」そっくりの埴輪が出土したそうです。
 現在は複製が「寅さん記念館」に展示してあります。
 
 もう一度、最初から見直してみたい気になりました。
 
 葛飾柴又「寅さん記念館」ホームページ(スミマセン。勝手にリンクしました) 

8月24日 ヴェスヴィオ火山噴火、ポンペイ埋没

 西暦79年の今日は、イタリアのヴェスヴィオ(英語ではヴェスヴィアス)火山が突然噴火して、麓のポンペイの市街が約8メートルの火山灰により埋没した日です。

 1738年に近くの農夫がこの遺跡を発見して発掘されました。
 歴史小説家・リットンの「ポンペイ最後の日」は、この大噴火を題材にしたものです。

 さて、ヴェスヴィオ火山は、イタリア南部のナポリ市に近いナポリ湾岸にあります。このためかナポリはとても美しい港で、世界3大美港の1つに数えられています。
 ヴェスヴィオ火山は現在は噴火していませんが、歴史的には何回となく噴火しています。最近では1944年3月22日に大噴火して、近くの村を埋没させました。
 標高は1,281mでそれほど高くありません。

 ポンペイを埋没させた噴火より17年前の紀元62年2月5日、ポンペイは激しい地震に襲われました。この地震でポンペイや他の諸都市が大きな被害を受けました。
 すぐに再建され、以前より立派になりましたが、その再建が完全に終わりきらないうちに、紀元79年8月24日の大噴火がおこり、一昼夜に渡って降り積もった火山灰は、翌25日にはポンペイを完全に埋没させてしまいました。

 ローマの軍人でもあった博物学者の大プリニウスは、ポンペイの市民を救助するために船で急行しましたが、煙(二酸化硫黄か?)に巻かれて死んだことが甥の小プリニウスによってあきらかにされています。
 この噴火のようすは歴史家タキトゥスにあてた小プリニウスの手紙にくわしく書かれています。

 この手紙によると、「ヴェスヴィオ火山の山頂、火口付近から、松の木のような形の暗い雲が見られ、雲は山の斜面を急速に下り、海にまで雪崩れ込んで、そして雲は火口から海までを覆った」と書かれています。
 この現象は、現在では火砕流とよばれています。火砕流は火山が噴火したときに、高温ガスや灰や岩石が雪崩れのように流れくだる現象です。

 さらに手紙は「爆発した時に地震を感じ、地面は非常に揺れた。灰がどんどん積もり、村から逃げなければならなかった。そして、海の水がみるみる引いていき、津波がおきた。」と続けています。(当時は津波という言葉はありませんでしたが・・・)

 逃げ遅れた人々は火山灰の中に埋もれて死にました。
 発掘のとき火山灰の中に空洞ができていました。これは生き埋めになった人の遺体の部分だけが腐ってなくなってポッカリ穴ができたものです。
 ここに石膏を流し込んで、逃げまどうポンペイ市民が死んだときのようすを再現しています。
 母親が我が子をかばって火山灰から我が子だけでも守ろうとしたようすも、飼われていた犬がもだえ苦しむようすも、生々しく再現されました。

 町は、古代ローマ人の生きた生活のようすをそのまま伝え、焼いたままのパンや、テーブルに並べられたままの当時の食事と食器、コインなどが見つかりました。
 いろいろな店や職業、奴隷の手足を縛る鎖、当時のラテン語で書かれた壁の落書き、保存状態のよいフレスコ画は、当時の文化をそのまま伝えています。

 ポンペイは、ほぼ直角に交差する直線の大通りによって規則的に区切られ、計画的に設計された町であることがわかりました。

 ところで、1880年には山麓から火口まで登山電車が開通しました。
 これを記念して作られた歌がナポリ民謡「フニクリ・フニクラ」です。この登山電車は1944年の噴火で破壊されましたが、のちに1990年に復旧・再開されています。

 なお、火山が近くにあるという地形が類似していることから、これをもとに桜島のある鹿児島市とナポリ市とは姉妹都市の提携を結んでいます。

 そのポンペイ遺跡は世界遺産になっています。
 ナポリ・ポンペイ(スミマセン。勝手にリンクしました)

8月23日 白虎隊の日

 1868(明治元)年8月23日は、会津藩の白虎隊が飯盛山で自刃した日です。
 したがって今日は「白虎隊の日」といわれています。

 さて、会津藩(今の福島県の西部)の会津松平家(藩主:松平容保)は御三家につぐ家格を持っていました。
 幕府の力が衰えると、京都の警備のために京都守護職が創設されましたが、幕府の重臣たちはその困難な職を松平容保に強引に引き受けさせました。
 会津藩では反対意見が多数をしめており、松平容保も固持していたにもかかわらず、会津藩は薩長などの倒幕勢力の矢面に立たされてしまったのです。
 
 1868(慶応4)年1月、ついに薩長を主力とする新政府軍と旧幕府軍のあいだで戊辰)戦争が始まり、全国に拡大しました。
 
 会津藩の軍制は年齢別に編成され、玄武・青龍・朱雀・白虎という隊名がつけられていました。玄武隊は50歳以上、青龍隊は36歳から49歳、朱雀隊は18歳から35歳、白虎隊は16,17歳の隊士でした。

 「白虎隊」は約340名おり、身分別に5隊に分けられていました。
 この中の上級武士の子弟で構成されていた42名が、この年8月23日(旧暦)に猪苗代湖近くの戦闘で敗退し、死傷者を出しました。
 そのうちの20名が飯盛山に逃れてきましたが、飯盛山から眺めた戦闘による市中の火災の模様をみて、若松城が落城したものと誤認して自刃したのです。

 実際には城は落ちておりませんでした。
 残った白虎隊の隊士は、その後1ヶ月の籠城戦を経て、最終的には新政府軍に降伏しました。
 20名が自刃しましたが、実際は1名が農民により助けられています。
 飯沼貞吉です。
 飯沼の生還により、後年、飯沼貞吉を含む20名が落城したと誤認して自刃していたことがあきらかになりました。
 
 飯沼貞吉の遺骨の一部は、遺言により飯盛山に埋葬されましたが、生き残った飯沼に対して、武士としての最期を遂げず生き恥をさらしたとして非難する声もあります。そのため、飯盛山の墓は他の隊士の墓から離れたところに建てられているそうです。

 なお、飯沼貞吉の生還により明らかとなった誤認による自刃ばかりが「白虎隊」としてとりあげられ、何度も映像化されて、英雄化されてきました。
 今回、資料を調べてみて、実際には全体の8割以上の若者が生き延びていたということを知りました。
 このことは一般に知られていないことではないでしょうか。

 籠城戦で降伏した隊士には、新しい時代に向けて、追い腹を切ることが禁じられたのではないかといわれています。
 幕末の新撰組とか白虎隊とかは、個人的には好きではないのですが、生き残って世の中のためにつくした「白虎隊」の隊士もいるという側面も付け加えた「白虎隊ドラマ」はできないものでしょうか。

8月22日 チンチン電車の日

 1903(明治36)年の今日は、新橋と品川の間を東京電車鉄道の路面電車(チンチン電車)が初めて走った日です。 そのため「チンチン電車の日」になっています。 

 日本で初めて路面電車が走ったのはそれより古く、1890年の上野公園で開催されていた内国勧業博覧会の会場内でした。 
 また、日本で最初の一般の道路を走る路面電車は1895年に開業した京都電気鉄道でした。

 「チンチン電車」という通称は車掌と運転士とのあいだで合図を送り合うために鳴らしていた鐘(ベル)の音に由来しています。
 私の少年時代の名古屋市には多くの路線が開かれ、性能のよい電車が走っていました。バスよりもよく利用し、路面電車が大好きでした。
 道路の真ん中にあるプラットホームから乗車して座席に座ると、車掌さんが「チンチン」と鐘の音をならしていました。
 今でもなつかしい快適な音として耳に残っています。

 この「チンチン」の合図には約束事がありました。
 走行中に電車が停留場に近づいたときに、「チン」と1回鳴らせば「停車」という合図でした。
 停車中に「チンチン」と2回鳴らした場合は「乗降がすんだので発車しても良い」という合図でした。
 
 都市によって多少の約束内容に違いはあるかもしれませんが、現在でもこの鐘による合図が用いられています。
 ブーブーというブザーに変わった都市もあります。
 でもやはり鐘がいいですね。「ブーブー電車」ではどうも路面電車の風情がありません。

 鉄道マニアだった私は、名古屋の路面電車(市電)をよく利用しました。同居していた叔母と大門通りから本山や唐山までよく乗車しました。
 中学生になったころから市電の全区間に搭乗してやろうと日曜日に出かけましたが、お小遣いの少ない身で、時間もなく、果たせないまま大阪に出て来ました。

 大阪の路面電車(市電)もよく発達していました。あべの橋から上六までの区間はとくによく乗車しました。
 大阪でも全区間制覇の挑戦しようと考えましたが、ヒマがなくて果たせないうちに、全線が廃止されてしまいました。
 前後して名古屋・京都・横浜などの大都市の市電が姿を消していきました。
 さびしかったです。

 日本の路面電車は、1932年には65都市、総路線長1479kmで最盛期でした。戦前から戦後にかけては、都市の重要な交通手段で、とても便利な乗り物でした。
 
 ところが1960年代の高度成長時代に自動車が増加するとともに、路面電車は渋滞の元凶だとされ、1970年代の末にかけて各地で廃止されていきました。
 運営コストの安いバスが選択され、地下鉄が建設されたのも全廃の一因でした。ある意味、自然の流れかもしれません。
 2007年現在、日本で路面電車が走っているのは20都市以下と少なくなりました。

 しかし近年、公害を出さない、空気を汚さない、つまり環境に負荷を与えないという観点から路面電車が見直されてきています。
 またバリアフリーの立場から乗降しやすいということも大切です。
 世界各地では、路面電車が見直され、路線の復活が行われており、市民から好評を博しています。

 日本でも再評価の動きが高まっています。
 富山ライトレールが開業したり、岡山や広島などでは廃止された路線の復活や新規路線の建設といった計画もあります。

 さて、大阪には阪堺電車という路面電車が残っています。廃止されないでいつまでも「楽しい路面電車」を走らせてほしいものです。 

8月21日 献血の日・献血記念日

 今日は、「献血の日・献血記念日」です。
 1964年のこの日、すべての輸血用血液を「献血」によって確保する体制を確立するよう閣議で決定されたことをきっかけに、この記念日が制定されました。
 
 ちなみに、「献血」とは、輸血や血液製剤を製造するために、無償で血液を提供することです。
 現在、日本では日本赤十字社がすべて手がけており、提供された血液は感染症の検査の後、各医療機関へ提供されています。  

 私の少年時代、貧しい労務者風の男が、道ばたで意識を無くし、そのまま死んでいたというニュースを見たことがあります。当時はどうしてもお金がないとき、血を売って収入を得ていたということを聴いたことがありました。
 
 1960年代には、まだ感染症の検査が不十分で、売血者の血液は肝炎のウイルスに汚染されていました。
 血液を買い取る血液銀行も商業主義(儲け優先)のため、売血者に負けずモラルは低いものでした。また売血者集めは暴力団の資金源でもありました。

 結果としてウイルスに汚染された輸血用血液によって医療現場では輸血後に肝炎が頻発していました。
 一説には、輸血時に肝炎を併発するリスクは4~5人当たりに1人もあったとされていました。当時の医師達の中には、これを手術の際には当然おこるリスクとして考えていた人もいたほどです。
 輸血後に肝炎になるのはあたりまえに近かったのですね。
 この話、確か中学校の保健の授業で聞いたことあります。  

 そのような状況の中、1964年、アメリカのライシャワー駐日大使が刺されるライシャワー事件がおきました。大使は一命をとりとめましたが、手術時の輸血により、肝炎を発症したことが明らかになりました。
 
 この事件をきっかけに黄色い血追放キャンペーンが張られました。
 こうした動きにより、提供者のモラルが期待できる「献血制度」へと血液行政は大きく替わっていきました。
 5年後の1969年に売血が終息しています。

 5年後の1969年には売血が終息しているはずですが、現実には表だった売血が減っただけで、血液の貯金ともいえる預血制度を悪用した売血は続いていたのです。
 血液銀行から売血者に渡される預血証書が売買されたりしました。預血制度が廃止され、輸血用血液が完全に献血によるものに切り替わったのは1974年のことです。

 しかしまだまだ続きがありました。
 血液製剤の原料の確保は、製薬会社によって供血者に対して有償で行われていました。つまり売血がまだ続いていたことになります。
 原料になる血液を最後まで有償で確保していた(つまり売血行為を続けていた)のはミドリ十字と日本製薬でした。

 なお、業界トップ企業としても知られているミドリ十字は、薬害エイズ事件を引きおこしています。また薬害肝炎の原因となったフィブリノゲン製剤の主要な製造企業としても知られています。
 ミドリ十字は1990年7月27日、日本製薬は9月21日に有償での血液確保を終了しています。  

 いずれにしても、人間の血液に代わる人工血液はまだ開発されていないのですから、輸血には人の血液を使用せざるをえません。 
 安心して輸血を受けることができるように、汚染されていない輸血用血液の確保を切実に望みます。 
 
 輸血の事故をよく耳にしますので、昨年9月、私が胃癌の手術をしたときも、緊急時の輸血の承諾書のサインには最後まで渋っていました。
 でも、輸血をしなくても済んだのでホッとしました。

8月20日 豊臣秀次が切腹 

 今日は豊臣秀次が高野山にて切腹して生涯を閉じた日です。

 豊臣秀次は、豊臣秀吉の姉・日秀の子で、戦国時代の武将として大名に取り立てられ、関白にもなりました。
  
 信長の死後、秀吉が信長の後継者としての地位を築いていく時期には、数少ない血縁の者として重く用いられました。
 小牧・長久手の戦いでは奇襲隊の総指揮をとりましたが、逆に徳川軍の奇襲を受けて惨敗し、命からがら敗走したのを除き、多くのいくさで武功を挙げています。
 この時期から羽柴秀次と名乗りました。

 領国では善政を行ったといわれており、近江八幡には「水争い裁きの像」などが残っているなど逸話が語り継がれています。
 
 1591年、秀吉の嫡男・鶴松が死にました。そのため秀吉の養子となり、後継者として、豊臣姓を贈られ、関白職も継ぐこととなりました。
 この時期が秀次にとってもっとも充実していた時期ではなかったかと思います。

 しかし運命が大きく回転し始めました。
 1593年、秀吉と淀君の間に、実子・秀頼が生まれたのです。しだいに秀吉から疎まれるようになりました。関係は悪化の一途をたどります。

 1595年、秀次は、秀吉によって謀反の疑いをかけられ失脚しました。高野山に追放され、出家しました。
 やがてそこで切腹を命じられて世を去りました。享年28でした。若い死です。

 その年の9月5日には三条河原にて秀次の遺児(4男1女)および正室・側室・侍女ら、あわせて39名が処刑されました。
 さらに秀次に関連した大名は監禁させられ、聚楽第も破却されました。
 家臣の多くも切腹を命じられました。
 さらに秀次の首は、京都の三条河原に曝されました。
 
 これらの厳しい処置は、実子である秀頼を後継者として不動のものとし、秀吉の直系を守るためでした。
 そのためには秀次の子孫を根絶やしにしておかなければならなかったのです。

 秀頼が誕生してから、秀次は酒色に溺れ、女狂いになったなどの奇行があったといわれています。
 また、秀次は嗜好殺人などの非道行為をくりかえしたともいわれ、「殺生関白」(摂政関白を皮肉ったもの)ともよばれていましたが、実情は不明で、疑わしい点も多いといわれています。
 秀次を悪者に仕立てて、処罰を正当化するために流言がなされたのかもしれません。

 秀次の切腹に関係し、秀次の助命を嘆願したりして、秀吉の不興を買った大名は総じて関ヶ原の戦いでは東軍に属することになりました。
 秀吉の大失敗ですね。 

8月18日 作曲家・古関裕而逝く

 作曲家の「古関裕而」は1989年の今日、81歳の生涯を閉じました。

 古関裕而は福島市の呉服店に生まれました。 
 父親が音楽好きだったため、当時では珍しかった蓄音機が家庭にあり、いつもレコードをかけて聴いていました。
 幼ないころから音楽の中で育ちましたが、ほとんど独学で作曲家への道を歩いていきました。 

 裕而は10歳のころにはすでに楽譜が読めるようになっていました。しだいに作曲に夢中になり、小・中学生のころから作曲することに親しんでいきました。 
 商業学校時代はハーモニカを放さず、学業よりも作曲に夢中だったという生徒でした。  

 卒業後は銀行員をするかたわら、学生時代から憧れていた山田耕筰の事務所へ楽譜を郵送したりしています。
 古関はクラシックの作曲家をめざしていました。
 20歳の時、古関が作曲した管弦楽のための舞踊組曲「竹取物語」がロンドン市のチェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールに応募して入賞しました。
 このことはほとんど知られていませんが、これは日本人が国際的作曲コンクールに入選した最初の快挙でした。 

 1930年、裕而が21歳の時、山田耕筰の推薦でコロムビア専属の作曲家に迎え入れられました。 
 古関は、実家が経済的に破綻していましたので一族を養なわなくてはならなかったので、次第にクラシックの作曲から離れざるをえなくなったのです。 

 1935年(昭和10)、三浦環が吹き込んだ「船頭可愛や」が大ヒットしました。 
 しかし、戦争の色が濃くなるにつれて戦時歌謡を作曲せざるを得なくなり、ヒット曲を出しています。
 どちらかというと、「若鷲の歌」のように戦意を高揚させる歌もありましたが、「暁に祈る」のような哀愁をおびたせつない旋律のものが多かったといえます。

 古関は、前線の悲惨な体験したり、見聞したことが「暁に祈る」などに結びついたと証言しています。
 また、自らの作品で戦地に送られ、死んでいった人に対して自責の念を持っていたようです。

 終戦後は、戦後の日本を音楽によって明るくするための活動に力を注ぎました。
 藤山一郎が歌った鎮魂の名曲「長崎の鐘」、戦災孤児救済がテーマになっていたラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の主題歌「とんがり帽子」などを発表しました。
 その他の有名な作曲では、東京オリンピックの「オリンピック・マーチ」、甲子園の高校野球大会の歌「栄冠は君に輝く」、「フランチェスカの鐘」、「君の名は」、「イヨマンテの夜」、「高原列車は行く」などの格調高い曲を多く創作しました。 

 古関の流行歌はクラシックの雰囲気がただようメロディーを持っています。 
 その他、阪神タイガース応援歌「六甲おろし」は今も歌い継がれる名曲で、阪神ファンでなくてもつい口ずさんでしまうリズムを持っています。
 読売ジャイアンツや中日ドラゴンズの応援歌も作曲しています。 
 早稲田大学や慶応大学の大学の応援歌も作曲していました。  

 古賀政男や吉田正などとともに私たちの青年時代には、古関裕而は代表的な作曲家でした。流行歌のヒット曲はどれも名曲で、大好きな曲も多いです。
 「六甲おろし」が古関裕而の作品とは知りませんでした。

 反面、曲目は伏せますが、こんな曲は作曲してほしくなかったとブーイングが出したくなる曲もあり、それが残念です。

8月17日 パイナップルの日

 今日は「パイナップルの日」です。パ(8)イ(1)ナ(7)ップルの語呂合せです。

 パイナップルは、単に「パイン」と省略してよばれることもありますので、その場合は8月1日が「パインの日」になっています。

 「パイナップル」の名前の由来は、果実の形が松かさ(パイン)に、味がリンゴ(アップル)に似ているからという説が有力です。
 原産地はブラジルで先住民によって果物として栽培されてきました。やがて南北アメリカ大陸の各地に広がっていきました。

 コロンブスの第2次探検隊が西インド諸島のある島で「パイナップル」を発見してから急速に旧大陸に伝わっていきました。
 まずスペインにもたらされ、次いでインド航路に乗ってたちまちアフリカ、インドの熱帯地方へ伝わり、次いでジャワ、フィリピン、マカオ、福建、台湾に伝わって、日本には江戸時代のおわりごろの1830年に小笠原諸島の父島に初めて植えられました。
 1845年にオランダ船が長崎へもたらした記録もあります。

 さて、「パイナップル」の果実は香りがよく、水分が豊かで、甘さと酸味がほどよく混ざって、日本産のリンゴやミカンの美味しさとは別の美味しさがあります。
 私は大好きで、スーパーで小さく切ってケースに入っているのを買ってきます。
 
 おもな効能としては、疲労回復、高血圧・動脈硬化・脳梗塞・心筋梗塞の予防、消化促進に効果があるといわれています。 
 パイナップルに多く含まれているマンガンは骨や関節を強化し、クエン酸やビタミンB1は疲労回復には大きな効能が期待できます。
 また、カリウムも多く含まれているので高血圧や動脈硬化の予防などに効果があります。
 健康にはとてもよいフルーツですね。
 
 また、「パイナップル」の果汁にはタンパク質分解酵素が含まれいます。これは肉をやわらかくする効果があり、肉といっしょに食べることで消化を促進してくれます。
 ただ、このタンパク質分解酵素は熱に弱いので、加熱する料理に使うのではなくて、肉を食べながらか食べた後でデザートとして食べた方がいいようです。加熱しては意味がないのです。
 
 私の小さいころは缶詰でしか「パイナップル」を食べたことがなく、丸い穴が開いたおもしろい果物だと思っていました。
 少し長じて生の「パイナップル」を食べられるようになったときには、大きな木から垂れ下がって実っているものだとばかり思っていました。
 多年草で、ユリやアマリリスのように、大きな細長い葉の間から茎が上に伸びて、花が咲き、実がなると知ったのは成人してからのことでした。

8月16日 京都・五山送り火

 京都の「五山送り火」は、毎年8月16日に、如意ヶ岳(大文字山)などで行われます。
 「五山送り火」は、京都の夏の夜空を焦がす、かがり火による宗教的な伝統行事です。
 五山で炎が上がり、ふたたび冥府にかえる精霊を炎とともにあの世へ送りとどける行事であるとされています
 
 「葵祭」・「祇園祭」・「時代祭」とともに京都4大行事の一つです。
 
 送り火としては東山の大文字山(如意ケ嶽)の「大文字」がもっともよく知られています。したがって、送り火の代名詞のごとくいわれ、「大文字の送り火」と呼ばれることがあります。
 大文字山(如意ケ嶽)の地元では、古くから山そのものを「大文字さん」と呼ぶ人が多いそうです。

 「大文字」のほかに金閣寺大北山の「左大文字」、松ヶ崎西山(万灯籠山)・東山(大黒天山)の「妙・法」、西賀茂船山の「船形」、および嵯峨曼荼羅山の「鳥居形」があります。
 これらが、今夜、20時ごろから相前後して点火されます。

 以前は点火していたとされる送り火があります。
 「い」とか 「一」とか 「蛇」とかの文字の送り火も他の山でありましたが、戦後になって、現在の五山に減少しました。このころから「五山送り火」という名が生まれました。

 大文字に代表される「五山送り火」の起源については、それぞれ多くの俗説がありますが確実なことはわかっていません。
  一般庶民も含めた年中行事として定着するようになったのは室町時代から江戸時代以後のことであるといわれています。
 
 私は、毎年、点火されて燃え上がっていくところをテレビで見ています。
 一度この目で見たいとは思っていますが、マンションやビルの屋上からならよく見えそうですが、電車に乗っていくような観光客にも見えるかどうか心配で、今年も行けそうにありません。

 京都には、京都市眺望景観創生条例というのがあって、この条例にもとづいて、各五山への「しるしへの眺め」が損なわれないように建築物に規制が課せられています。
 ですから、建造物による眺望の妨害は少ないように感じますが・・・・・やっぱりテレビで見ます。

 このような伝統行事がいつまでも続くといいですね。

8月15日 ポツダム宣言受諾を発表

 1945年の今日、8月15日は、「ポツダム宣言受諾」を連合国に通告したことを日本国民に発表した日です。
  
 ポツダム宣言は、「全日本国軍隊ノ無条件降伏」(同宣言13条)などを定めていましたので、その受諾は日本が降伏することを意味していました。
 つまり日本の敗北を内外に示したものでした。

 さて、前夜8月14日、御前会議で決定され、閣議で確定された「ポツダム宣言受諾」の詔書案は、昭和天皇によって裁可され、終戦の詔書として発布されました。
 
 昭和天皇が詔書を朗読してレコード盤に録音させ、翌15日正午からラジオ放送によって国民に「ポツダム宣言受諾」を告げることになりました。
 いわゆる「玉音放送」です。

 しかし陸軍の一部には徹底抗戦をとなえ、放送用の録音レコードをクーデター的に奪い取ろうとする動きがありました。
 近衛師団長が惨殺され、録音を行った東京放送局の職員が拘束されましたが、決起は失敗に終わっています。
 東宝映画「日本のいちばん長い日」に克明に描かれています。

 国民には、あらかじめ「15日正午には必ず放送を聴くように」との注意が行われていました。
 この「玉音放送」ですが、劣悪なラジオのために音質がきわめて悪いものでした。
 さらに天皇の朗読に独特の節回しがあり、難解な語句のために内容がよく解らなかったという人々の証言が多いようです。
 日本が負けたという事実は、「玉音放送」のあとの解説で事情をつかんだ人によって周囲に知らされたようです。

 8月15日以後も、ソ連や中国とは戦闘が8月下旬まで続いていました。また、戦闘の停止命令が届かなかった部隊などでは小規模な戦闘が続いていました。
 さらに沖縄の久米島では日本軍による住民の殺害が行われていたといわれています。

 9月2日、東京湾に停泊していたアメリカ軍艦上で、日本政府と軍代表が降伏文書に署名して、4年にわたった太平洋戦争が正式に終了しました。

 戦争の犠牲者はどのぐらいあったかはっきりしていないようです。
 一説には、太平洋戦争に兵士として参加した日本人は約1000万人、そのうち戦死者は約200万人といわれています。
 一般国民の死者は約100万人で、家を焼かれ、財産を失った者は約1500万人といわれています。
 日本国民は未曾有の被害を受けました。
 このような惨状で戦争が終わり、同時に新しい戦後が始まりました。

 そのころ私の家族は名古屋が空襲を受けていたので木曽川沿いの犬山に疎開していました。
 父は徴兵されて満州に出征していました。
 戦地の体験など具体的なことを聞かずじまいで父は逝ってしまいましたが、無事に帰ってきてくれたお陰で今の私が存在します。

 戦後63年目を迎える今日、戦争で亡くなった人々を慰めるとともに、もう2度と戦争をしてはならないと強く思います。
 
 「日本国憲法第9条」があるから大丈夫、という時代はとうの昔になくなっています。
 しかし、「日本国憲法第9条」を守る声の大きさが戦争を食い止める力になることはまちがいないでしょう。

8月14日  鎌倉幕府第2代将軍・源頼家が殺された

 1204年の今日は、鎌倉幕府第2代将軍・源頼家(みなもとのよりいえ)が、北条氏の手によって殺害された日です。

 頼家は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡男として生まれました。母は北条政子です。
 待望の源氏の跡継ぎとして誕生しました。乳母には主に比企氏の一族から選ばれました。
 生まれながらの将軍である頼家は、武芸の達人として立派に成長しました。
 
 ところが父頼朝が急死したために18歳で家督を相続し、第2代将軍となりました。
 若年の頼家は頼朝以来の習慣を無視した独裁的な判断が目立ちました。これが御家人たちの反発を招きました。
 母方の北条氏は疎外されていました。そして北条氏の巻き返しで頼家の独断はしだいに抑えられていきました。
 
 頼家は比企氏を中心としてこれに反発しますが、急病にかかり、危篤状態におちいりました。
 頼家がまだ存命中にもかかわらず、弟実朝を第3代将軍にするべく謀議がすすめられていました。
 その後、頼家の後ろ盾である比企氏と、弟実朝を担ぐ北条氏との対立が激しくなり、北条氏一派の攻撃により比企氏は滅亡してしまいました。

 頼家は将軍を奪われ、実母北条政子によって伊豆の修禅寺に幽閉されたのち、北条氏の手によって暗殺されました。
 「愚管抄」によると、頼家は、入浴中を襲撃され、激しく抵抗しましたが首に紐を巻き付けられ、押さえつけられて刺し殺されたということです。満21歳でした。

 頼家追放により、弟実朝を立てて鎌倉幕府の実権を握ることになったのはこの兄弟の母方の北条氏でした。
 この実朝も北条氏の謀略でまもなく命を落とします。

 また「吾妻鏡」という北条氏が編集した歴史書があります。
 この中では、頼家のことを遊興にふけったり、家来の愛妾を寝取る暗君として描かれていますが、頼家をことさらおとしめる記述が多く、そのまま信用はできません。

 また、殺された当日の「愚管抄」によると、 頼家は幽閉されていた修禅寺では近くの子ども達と山々を遊びまわったりしていて、子ども達の面倒見がよかったといわれています。
 現代でも「愛童将軍地蔵」というものが当地には残されているそうです。
 頼家の墓がある修善寺温泉街では、毎年7月に「頼家公祭り」が行われています。

 私は、高校時代に「源頼家」を習ってから、なぜかよくわかりませんが興味を持っていました。
 「御家人の期待を一身に受けていた」「武芸達者な若者で能力はあったと思われる」「若くして将軍になった」「反発を受け実母によって幽閉された」「実母の北条政子の手先によって激しい抵抗の末に殺された」「歴史上の評価は低い」・・・「無念だっただろう」
 
 殺されて、息絶える間際の頼家の叫びを聞いてみたいと思っていました。

8月13日  吉田岩窟王事件が発生

 1913年の今日、「吉田巌窟王事件」とよばれた冤罪事件のもとになる犯罪が名古屋でおきました。  
 8月13日の夜、路上で小売商の男性が殴り殺されて、1円20銭が奪われるという殺人事件が発生しました。翌日、2人の男が逮捕されましたが、彼らは自分らの罪を軽くするために、同じガラス工場で働く吉田石松を主犯に仕立て上げました。
 
 自白偏重主義の捜査当局は2人のウソを信じて、吉田石松(当時34歳)を逮捕し、連日の拷問で自白をせまりましたが、吉田はどんな拷問にも屈せず終始否認しました。
 終始否認を続けたにもかかわらず、1審では男2人には無期懲役、主犯とされた吉田には死刑が言い渡されました。

 控訴審、上告審では無期懲役が確定して吉田は服役しました。
 吉田は獄中からアリバイを主張して2度の再審請求を行いましたが棄却されました。

 ところが無実を訴えて暴れる吉田を見て、秋田刑務所の所長がこの事件の不審な点について調べなおし、吉田が関与していないことに気づきました。
 そして吉田を仮出所させ、再審請求を薦めました。 (この所長は立派です)
 
 吉田は、1935年に仮出獄すと、自分を陥れた2人を探し始めました。ついに2人が先に仮出所して埼玉県にいるのを新聞記者の協力で探し出し、ウソの自白をしたことを認める詫び状を取りました。
 この詫び状をもとに3度目の再審請求を行いましたがこれも棄却されました。
 
 戦後には新聞社や弁護士にも訴え、4度目の再審請求を行いましたがこれも棄却されました。

 しかし、この頃になると世論の関心も高まり、日本弁護士連合会や国会も人権擁護の観点から動き出しました。
 そのため1960年の5度目の再審請求でようやく再審が決定しました。

 1962年12月6日から名古屋高等裁判所で再審公判が始まりました。
 翌1963年2月28日、小林裁判長は吉田石松に無罪を言い渡しました。
 
 小林裁判長は、吉田石松を吉田翁とよび、「我々の先輩が翁に対して犯した誤審をひたすら陳謝するとともに、実に半世紀の久しきにわたり、よくあらゆる迫害に耐え、自己の無実を叫び続けてきたその崇高な態度、その不撓不屈のまさに驚嘆すべきたぐいなき精神力、生命力に深甚なる敬意を表しつつ翁の余生に幸多からんことを祈る」と読み終えました。
 
 読み終えると、小林裁判長を含め3人の裁判官は立ち上がり、被告席の吉田に向かって頭を下げました。

 無実を勝ち取った瞬間、吉田は「万歳」と法廷で叫びました。
 この時、吉田84歳でした。逮捕されたのが34歳。じつに50年にわたる闘いでした。
 
 無実を勝ち取った9ヵ月後の12月1日、身も心も安らかになったのか老衰によって永眠しました。

 ところで、なぜ「吉田巌窟王事件」とよばるいうになったかというと、吉田に協力した新聞記者によってこの事件が都新聞(現:東京新聞)に掲載されたとき、フランスのデュマの小説「モンテ・クリスト伯(日本では巌窟王)」になぞらえて「今様巌窟王」として紹介したからです。
 このときの記事が事件名の由来となりました。

 さて、吉田石松のように冤罪で人生を奪われた人々が、この判決以後も後をたちません。
 45年前、私はこの判決の新聞記事を必死で読み、涙したことを覚えています。機会があればこの事件を多くの人に伝えてきました。
 いつ犯人に仕立て上げられるか、いつ犯人と間違われるかわからない「怖い社会」だという思いは変わりません。  

8月12日 淡谷のり子の誕生日

 今日は、私が好きな歌手「淡谷のり子」の誕生日です。
 「ブルースの女王・淡谷のり子」は1907年8月12日、青森市で豪商の長女として生まれました。

 青森大火によって生家が没落し、母・妹と上京しました。
 東洋音楽学校ではオペラ歌手を目指すためクラシックの基礎を学びました。
家が貧しくなったため休学し、絵画の裸婦のモデルをして生活費を稼ぎながら、首席で卒業しました。
 オール日本新人演奏会では「10年に1人のソプラノ」と絶賛されました。
 
 しかし、クラシックでは食べて行けないと判断した淡谷は流行歌を歌い始めました。コロムビアでは映画主題歌を中心に外国のポピュラーソングを吹込みました。
 1935年の「ドンニャ・マリキータ」はシャンソンとしてヒットし、日本のシャンソン歌手の第1号となりました。
 
 日中戦争が勃発した1937年には、「別れのブルース」が大ヒットして、一躍スターになりました。
 その後も数々のヒットソングを送り出し、「淡谷のり子」の名をとどろかせました。

 戦時下では多くの慰問活動を行っていますが、淡谷は強い信念を持っていました。
 ・・・「もんぺなんかはいて歌ってもだれも喜んだりはしない」
 ・・・「化粧やドレスは贅沢ではなく、歌手にとっての戦闘服」
 こうして、戦時中にもかかわらず、厳しく禁止されていた化粧をし、パーマをかけ、ドレスに身を飾って兵士たちを慰め、歌い送っていました。
 
 戦後は、「君忘れじのブルース」などヒットをとばし、1953年にはNHK紅白歌合戦に初出場していきなりトリをつとめました。
 私は、このころに「淡谷のり子」を知りました。
 体の前で軽く腕を組んだ姿勢で、ブルースを歌う「淡谷のり子」の歌唱力はすばらしいものがありました。
歌唱技術の高さは定評がありました。

  しばらくするとオーディション番組の審査員やバラエティ番組などにテレビ出演しますが、音楽的な基礎を学んできた淡谷の自信と経験から、辛口の発言が多く飛び出しました。
 自分の思ったことを遠慮しないで、「イヤなものやイヤ」「ダメなものはダメ」と言い切れるところに人気があったと思います。

 一方、ほめる(評価する)とき時には愛情をこめてキチンとほめる(評価する)ところも好きでした。
 淡谷は物真似の清水アキラを嫌っていましたが、ある特清水アキラにとっては珍しくまともな物真似をしました。
 10点満点を出して清水アキラを真顔でほめていました。「やればやれるのよ」・・・
 
 また、「淡谷のり子」は、戦争に反対して平和のための活動に数多く参加しています。
 「区民のための平和コンサート」、「甦れ、地球」などの平和を願うコンサートが数多く参加しました。
 戦時中に、軍部からの再三の圧力に屈することなく、頑固に自分の歌唱スタイルを貫き通したという「反骨精神」が、このような平和を願う活動の原動力だったと思います。
 私はこの点の「淡谷のり子」も好きなんです。

 晩年はほぼ寝たきりの状態でした。
 1999年、92歳で逝去。

8月11日 「前畑、ガンバレの日」

 今日は「前畑、ガンバレの日」です。
 戦前の1936年8月11日、ベルリンオリンピックの女子200m平泳ぎ決勝で、前畑秀子が優勝し、日本人女性として初めての金メダルを獲得しました。

 ラジオ実況のアナウンサー河西三省の第一声は、このレースがラジオ中継の開始予定時刻の午前0時を過ぎたため、「スイッチを切らないでください」という言葉から始めたといいます。
 実況中、河西三省は、興奮のあまり途中から「前畑ガンバレ! 前畑ガンバレ!」と20回以上も絶叫し、真夜中にラジオ中継を聴いていた当時の人々を熱狂させました。
 
 この放送を聴いていた名古屋新聞の支局長が興奮のあまりショック死してしまうという事件もおこったほどでした。
 このブログを書きながら、目頭が熱くなってきました。この話題にはいつも感激するんです。
 さて、その実況放送は現在でも語り草となっており、レコード化もされています。

 前畑秀子は、和歌山県の生まれですが、名古屋の椙山(すぎやま)女学園の出身で、幼少期より数々の記録を打ち立てていました。
 
 1932年(昭和7年)に開催された第10回大会ロサンゼルスオリンピックの200メートル平泳ぎに出場し、銀メダルを獲得しています。
 この銀メダルはあまり知られていません。

 この後引退も考えましたが、母親の「自分ひとりで泳いでいるのではない」という励ましもあって現役を続行することを決意しました。
 そして、当時はコーチもいませんので、独自に練習を工夫して努力し,1933年には200m平泳ぎの世界新記録を樹立しました。
 
 3年後の1936年(昭和11年)には前述したように、ベルリンオリンピックの200m平泳ぎに出場し、ドイツのマルタ・ゲネンゲルとデッドヒートを繰り広げて、1秒差で見事金メダルにかがやきました。
 その後も世界記録を何度も樹立しています。

 引退後は、ママさん水泳教室を開くなど水泳人口の拡大に力を入れ、後輩の育成にも熱心に取り組みました。 
 1981年、五輪功労賞を授与され、世界水泳殿堂入りを果たしました。
 1995年、80歳で永眠しました。

 「前畑ガンバレの日」から82年後の2008年の今日、ペキンオリンピックで北島康介が男子100m平泳ぎで金メダルを獲得しました。
 両人とも偉大な選手です。

8月9日 ピサの斜塔が着工される

 イタリアのピサ大聖堂の鐘楼である「ピサの斜塔」 は、1173年の今日、8月9日から建設工事がはじめられました。

 着工の時は垂直に立てられましたが、工事後まもなく傾きはじめました。
 100年後の第2期工事では傾きを修正しつつ建設工事がすすめられました。さらに約100年後には傾いていることがはっきりしていました。第3期工事では傾きを修正できず、最上階のみ地面に対して垂直に立てられました。
 高さも当初の設計から後退してしまいました。

 「ピサの斜塔」は、高さ地上55m、階段は297段、重量は14,453tです。
 なぜ傾いたのでしょうか。
 その原因は、地盤の土質に問題がありました。塔の南側の土質が北側の土質にくらべると柔らかい土質であったからであると考えられています。
 土質が不均等だったのです。
 塔の南側が大きく沈み込んでいます。沈んでいくにしたがい、重力で沈下の進行が進むという悪循環におちいっていました。

 1935年、地下水が地盤をやわらかくしてしまうのを防ぐため薬液を注入するという応急処置がとられました。
 しかし、沈下はかえって進んでしまいました。
 
 1964年、ついにイタリア政府は「ピサの斜塔」を崩壊から回避するための支援を世界に求めました。世界から提案がなされました。

 1990年1月7日、安全上の問題により公開を休止し、傾斜角を是正するために改修工事が行われました。
 北側の地盤を掘削するという工法が採られました。
 2001年6月16日、10年間にわたる作業が終了し、公開は再開されました。少なくともあと300年は倒れる危険がないとの見解が示されています。

 なお、「ピサの斜塔」は世界遺産にも登録されており、世界中で最も傾いている建物として多くの人に知られていましたが、ギネスブックは15世紀に建てられたドイツのエムデンにある教会の尖塔の方が傾斜度が大きいと判定しました。
 2009年のギネスブックからは「ピサの斜塔」に代わってエムデンの教会が掲載される予定になっています。

  ガリレオは、「ピサの斜塔」の頂上から重さがちがう2つの玉を落として、同時に地上にとどくことを確かめ、物体の落下速度は落とした物体の重さには関係しないことを実証したといわれています。

8月8日 語呂合わせ14連発

 今日8月8日は、語呂合わせの記念日がずらりとならんでいます。それを紹介しましょう。

 「そろばんの日」 
 そろばんを習う人が減ってきたといっても、まだ全国大会では高いレベルの熱戦が繰り広げられています。
 そろばんを弾く音「パチ(8)パチ(8)」の語呂合わせです。
 そろばんの普及とその優れた機能をアピールする日で、全国珠算教育連盟が1968年に制定しました。

 「ヒゲの日」
 日本ワーナーランバード(シック)が1978年に制定しました。漢字の「八」が髭の形に似ていることからの語呂合わせです。

 「ひょうたんの日」
 全日本愛瓢会が制定しました。数字の「8」がひょうたんの形に似ていることからです。

 「タコの日」
 蛸の足の数が8本であることからこの日に決まりました。

 「笑いの日」
 笑い声「ハ(8)ハ(8)ハ」の語呂合わせです。
 「笑いの日を作る会」が1984年に制定しました。

 「白玉の日」
 全国穀類工業協同組合が制定しました。
 制定理由は88という形から団子をイメージされているのだろうと我流で分析しました。

 「米の日」
 米の字を分解すると八(8)と十八(18)になるところから、毎月8日18日28日が米の日になっています。

 「デブの日」
 大日本肥満者連盟(大ピ連)が1978年に制定しました。
 「8」の字のふくよかなイメージと、肥満体型こそ水着がよく似合うということから決められました。
 真夏の8日、つまり8月8日ということでしょうか。
 デブの日、はじめて知りました。(入門ぎりぎりです。)

 「パチンコ供養の日」
 パチンコ台メーカーの平和が1994年に制定しました。
 同社が株式を公開した記念日であり、また、玉を弾く音「パチ(8)パチ(8)」の語呂合わせと、漢字の「八」が末広がりであることから日が決まりました。
  パチンコ台に感謝する供養祭が行われます。

 「まるはちの日」
 名古屋市が1996年に制定しました。
  1907年に、尾張徳川家が合印として使っていた「まるはち印」を市章に決定し、その88年後の1996年に記念日を制定しました。

 「親孝行の日」
 親孝行全国推進運動協会が1989年に制定しました。
  「88」が「は(8)は(8)」、「パ(8)パ(8)」と読めることと、「ハチハチ」を並びかえると「ハハ(母)チチ(父)」となることからです。

 「発酵食品の日」
 万田発酵が1994年に制定しました。 「はっ(8)こう」の語呂合わせです。
 チーズや納豆等の発酵食品の大切さをPRする日になっています。

 「プチプチの日」
 クッション材の気泡シート(「プチプチ」)の専門メーカー・川上産業が制定しました。
 気泡シートをつぶした時の音の語感から、88がイメージされました。

 「パパイヤの日」
 アメリカ・ハワイ州のパパイヤ管理委員会日本事務所が1978年にパパイヤの販路拡充のために制定しました。
  「パ(8)パ(8)イヤ」の語呂合わせです。

8月6日 広島への原爆投下

 今日8月6日は、「広島に原子爆弾が投下された日」です。広島市では「平和記念日」ともいわれます。

 第2次世界大戦末期、1945年8月6日午前8時15分、広島に原子爆弾が投下されました。
 核兵器が世界ではじめて実戦で使用され、大都市を選んで攻撃されました。
 
 この1つの爆弾により一瞬に約20万人が死亡し、被爆者数は40万人前後におよんでいます。
 相生橋上空あたりが爆心地でした。そこから500mの圏内では閃光と衝撃波がほとんど同時に広島の市民に襲いかかりました。
 すさまじい爆風が建造物のほとんどを一瞬にして破壊しつくしました。木造建築はすべてが全壊し、火を吹き始めました。
 
 また強力な熱線を屋外で受けた人は瞬時に体の水分を奪われ、全身の皮膚が炭化し、内臓組織に至るまで高熱で水分が蒸発しました。
 私が「原爆写真集」で見たのと同じような、苦悶の姿を残した黒焦げの遺骸が道路などに大量に残されたといいます。
 
 爆心地を通過していた路面電車は炎上したまま、黒焦げの遺骸を乗せてそのままはしりつづけていました。
 
 黒こげにならなかった人は全身やけどの状態で肉がふき飛ばされて、皮や筋がぞうきんのように垂れ下がり、水を求めてさまよい、川に飛び込んで溺れて亡くなったといわれています。

 私の少年時代にマンガ「はだしのゲン」に描かれていたような地獄絵でした。
 どれほどむごいようすを書いても書き尽くせることではありません。

 この日、広島では犠牲者の霊を慰め、世界平和を祈念する式典が行われます。夜には、市内の各河川で灯籠流しが行われます。

 また、1955年から毎年続いている原水爆禁止世界大会も開催されています。
 今年の世界大会には、現職の国連代表が初参加して注目されました。代表のセルジオ・ドゥアルテ国連軍縮問題担当上級代表は、「核のない世界の追求に貢献することを誓い合いましょう」と表明しています。
 秋葉忠利広島市長が来賓のあいさつをしています。

 核兵器の全面禁止に向けた運動の広がりに期待しています。

8月5日 二の丑(夏2回目の土用の丑の日) 

 今日は、今年の夏の2回目の「土用の丑(うし)の日」です。
 「土用」といわれるのは中国の五行思想にもとづく、各季節の終りの約18日間のことです。私流にいいかえれば季節の始めである立春・立夏・立秋・立冬の直前の約18日間ともいえます。
 
 「土用」の期間中で、十二支が丑にあたる日が「土用の丑の日」といわれます。「土用」の期間は春夏秋冬と年に4回ありますので、「土用の丑の日」も、春夏秋冬にそれぞれに1~2日あるのです。
 
 私は、「土用の丑の日」は年に1日、夏にしかないと思っていました。恥ずかしいです。
 
 それぞれの季節の「土用」の期間中に丑の日が2回ある場合があり、2回目を「二の丑」といいます。今年2008年は今日8月5日が「二の丑」にあたります。

 夏の「土用の丑の日」は、暑い時期を乗り切る栄養をつけるために、うなぎを食べる習慣があります。 
 うなぎを食べる習慣の始まりにはいろいろ説がありますが、江戸時代の学者・平賀源内が発案したという説がもっともよく知られています。

 商売がうまくいっていなくて困っていたうなぎ屋が、夏には売れないうなぎを何とか売るためのいい方法はないものかと平賀源内に相談しました。
 源内は、丑の日に「う」の字がつくものを食べると夏負けしないから、「本日丑の日」と書いて店先に貼って商売することをすすめました。

 そのようにすると、そのうなぎ屋はたいそう繁盛しました。その後、他のうなぎ屋もそれをまねるようになり、土用の丑の日にうなぎを食べる風習が定着したといわれています。

 源内は丑の日の「う」の字がつくものをすすめたのは民間伝承を根拠にしたのですが、それならば「うどん・ウリ・梅干し」などでもいいということになります。
 「うどん・ウリ・梅干し」でも十分滋養になります。
 「暑いから食べたくない」のではなく、「暑くて食欲がなくても、がんばって食べる」というのであれば何だっていいと思います。
 
 しかし、夏の時期にビタミンBが豊富なうなぎを食べることは、理にかなった習慣であることはまちがいありません。

 バレンタインデーのチョコレートや節分の恵方巻きなどと同じように、業者の販路拡大の作戦が功を奏したということでしょう。
 最近、うなぎの養殖業者らが中心となって、夏以外の土用の丑の日にもうなぎを食べる習慣を普及させようという動きがあります。
 「土用」という時期は、前述したように季節の変わり目でもありますから、その時期に栄養価の高いうなぎを食べて力をつけようとすることは理にかなっています。

 ただ、おいしくて安全なうなぎを「安心」して食べたいですね。

8月3日 ハサミの日

 今日は、「ハサミの日」になっています。
 語呂合わせで8月3日に定められました。

 始まりは芝の増上寺に聖鋏観音像が建立され、開眼されたことに始まります。
 毎年8月3日には、つとめを果たし終えたハサミをあつめてこの塚に納め、ハサミ供養法要がおこなわれます。
 針供養や人形供養などと似ています。

 ハサミは、紀元前1000年ごろの古代ギリシアではすでに使われていました。その時代のハサミが発見されています。

 日本では6世紀に中国から伝わったらしく、古墳から出土しています。しかし数はとても少なくて貴重品でした。

 数多くつくられるようになったのは江戸時代からだといわれています。
 今日では、スーパーで売られている子供用の安物から、服飾・理容・美容などの専門職の方の高価なものまでつくられています。

 最近、ハサミを使う頻度は増えているのでしょうか。
 個人的には使うことが多くなっています。使っても元の場所に片づけないでポンと置いていくのでいつも探し回っています。
 恥ずかしいことですがハサミの数だけはいっぱいあります。子どもらの昔の工作用のハサミがあちこちから見つかりました。まだまだ使えるのでハサミ供養はしないで十分に働いてもらおうと思っています。

 幼児や子供の工作などでは、ハサミのほうが安全ですよね。ハサミを使わせると指先が器用になって、脳の発達によいといわれているのでもっと使わせましょう。

 さて、正当な理由なしに、隠して持ち歩くと軽犯罪法に抵触します。その結果、科料、勾留されることがあるということです。
 また、刃体の長さが8センチを超える洋バサミの場合は、銃刀法違反になります
 たしかに凶器にもなりますね。そのため所持には注意が必要です。
 
 正当な理由とは、たとえば、はさみを購入して自宅に持ち帰る道中とか、ハサミを使うことが業務の場合などのケースがあります。

 先が丸くて安全な小型のハサミでも、不意の使用のためにカバンに入れておくのも軽犯罪になるのでしょうか?

8月2日 足尾鉱毒事件の田中正造倒れる

 今日は「足尾鉱毒事件」で有名な田中正造が支援者宅で倒れた日です。

 1890年、渡良瀬川で大洪水がありました。
 それまでにも足尾銅山では銅をとったカスを川に垂れ流していたため、洪水があると流れ出した鉱毒が田畑にかぶさって、稲が立ち枯れる現象がみられていました。
 この年の洪水でも流域各地の村々で被害が確認され、騒ぎとなりました。
 この事件は「日本の公害第1号」ともいわれています。
 
 田中正造は、1891年以来、鉱毒の害をつぶさに視察し、農民の鉱毒反対運動とともに闘い、帝国議会でも鉱毒問題に関する質問と演説を行いました。
 しかし、政府も足尾銅山を経営する古河財閥も、何の対策も立てようとはしませんでした。
 
 1906年には、2度の大洪水が渡良瀬川流域を襲い、広大な地域が鉱毒の被害にあいました。
 正造は被害を受けた人たちのために、請願の文章を書いてやったり、現地に事務所を置いたりして、農民を援助しました。
 また、本格的に鉱毒問題に取り組む決意をかため、政府と足尾銅山をはげしく追及しました。
 しかし、政府の答弁はあいかわらず誠意のないもので、被害にあった農民の怒りをかうばかりでした。

 1900年、請願のために4度目の上京を計画して、数千の農民が利根川の川岸まで来たとき、待ち受けていた警官隊が襲いかかり、多くが逮捕されるという事件が発生しました。
 ついに政府が弾圧という行為に出たのです。
 
 この事件に怒りを感じた正造は翌年、議員を辞職しました。
 鉱毒被害を訴える活動は続け、おもに東京のキリスト教会などで鉱毒に関する演説をたびたび行いました。

 1901年12月10日、足尾銅山の操業停止を明治天皇に直訴しようと馬車に駆け寄りました。警官に取り押さえられて直訴は失敗しましたが、東京市中は大騒ぎになりました。
 新聞の号外も配られ、直訴状の内容が広く知れ渡りました。

 正造はすぐに拘束されましたが、政府は「狂人が馬車の前によろめいただけの事件」として不問にすることにしました。
 
 このころからしだいに足尾銅山鉱毒事件に対する世論が高まってきて、政府は何らかの対策を立てなければならなくなってきました。
 1902年、政府は谷中村をつぶして、渡良瀬川流域に広い遊水池をつくるという提案を出してきました。

 谷中村を強制廃村とし、貯水池に作りかえるための工事がはじめられました。
 正造は小屋を建てて谷中村に移り住み、谷中村の農民とともに反対運動をおこない、その後も谷中村に住み続けました。
 政府は村民を買収する一方、「村に残れば犯罪者となり逮捕される」と圧力をかけました。
 このため、多くの農民が村から出ていきました。
 正造の小屋は、最後まで抵抗していた16軒の農家とともに強制的に壊されました。

 正造は古参の支援者らへの挨拶まわりに出かけたその途上の今日、8月2日、ある支援者宅で倒れ、約1ヵ月後の9月4日に息を引き取りました。

 財産はすべて鉱毒反対運動などに使い果たしました。死んだときは無一文だったといわれています。
 死亡時の全財産は信玄袋1つでした。
 中身は書きかけの原稿と新約聖書、鼻紙、川海苔、小石3個、日記3冊、帝国憲法とマタイ伝の合本だけであったといいます。
 なお、病死前の1月22日に、邸宅と田畑は寄付していました。

 本葬では、数万人の参列者だったといわれています。
 私もそのとき生きていれば葬儀に参列したいと思うほど、尊敬する人物の一人です。家族と全財産を失ってまで、貧しい被害農民のためにたたかったなんて、実にすばらしいことではないでしょうか。
 
 一方、政府や古河財閥の態度は、今の時代も変わっていないなあと感じています。

 足尾銅山は1973年に閉山となりましたが、現在でもその跡は残っています。
 

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