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8月14日  鎌倉幕府第2代将軍・源頼家が殺された

 1204年の今日は、鎌倉幕府第2代将軍・源頼家(みなもとのよりいえ)が、北条氏の手によって殺害された日です。

 頼家は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡男として生まれました。母は北条政子です。
 待望の源氏の跡継ぎとして誕生しました。乳母には主に比企氏の一族から選ばれました。
 生まれながらの将軍である頼家は、武芸の達人として立派に成長しました。
 
 ところが父頼朝が急死したために18歳で家督を相続し、第2代将軍となりました。
 若年の頼家は頼朝以来の習慣を無視した独裁的な判断が目立ちました。これが御家人たちの反発を招きました。
 母方の北条氏は疎外されていました。そして北条氏の巻き返しで頼家の独断はしだいに抑えられていきました。
 
 頼家は比企氏を中心としてこれに反発しますが、急病にかかり、危篤状態におちいりました。
 頼家がまだ存命中にもかかわらず、弟実朝を第3代将軍にするべく謀議がすすめられていました。
 その後、頼家の後ろ盾である比企氏と、弟実朝を担ぐ北条氏との対立が激しくなり、北条氏一派の攻撃により比企氏は滅亡してしまいました。

 頼家は将軍を奪われ、実母北条政子によって伊豆の修禅寺に幽閉されたのち、北条氏の手によって暗殺されました。
 「愚管抄」によると、頼家は、入浴中を襲撃され、激しく抵抗しましたが首に紐を巻き付けられ、押さえつけられて刺し殺されたということです。満21歳でした。

 頼家追放により、弟実朝を立てて鎌倉幕府の実権を握ることになったのはこの兄弟の母方の北条氏でした。
 この実朝も北条氏の謀略でまもなく命を落とします。

 また「吾妻鏡」という北条氏が編集した歴史書があります。
 この中では、頼家のことを遊興にふけったり、家来の愛妾を寝取る暗君として描かれていますが、頼家をことさらおとしめる記述が多く、そのまま信用はできません。

 また、殺された当日の「愚管抄」によると、 頼家は幽閉されていた修禅寺では近くの子ども達と山々を遊びまわったりしていて、子ども達の面倒見がよかったといわれています。
 現代でも「愛童将軍地蔵」というものが当地には残されているそうです。
 頼家の墓がある修善寺温泉街では、毎年7月に「頼家公祭り」が行われています。

 私は、高校時代に「源頼家」を習ってから、なぜかよくわかりませんが興味を持っていました。
 「御家人の期待を一身に受けていた」「武芸達者な若者で能力はあったと思われる」「若くして将軍になった」「反発を受け実母によって幽閉された」「実母の北条政子の手先によって激しい抵抗の末に殺された」「歴史上の評価は低い」・・・「無念だっただろう」
 
 殺されて、息絶える間際の頼家の叫びを聞いてみたいと思っていました。

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