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8月1日 小野妹子(第2回遣隋使)

 飛鳥時代の607年、推古天皇15年7月3日、新暦では8月1日、 小野妹子を使者として第2回遣隋使が派遣されました。

 小野妹子(おの の いもこ)は歴史の教科書にはかならず登場する人物です。中学生高校生にとっては有名な人物ですが、成人も含めて小野妹子を女性と思っている人がまだ多くいます。
 「妹子」でありますがれっきとした男性です。
 当時は「子」が男女のどちらにも用いられました。

 さて、教科書の記述にとると、遣隋使として隋に派遣されています。聖徳太子の命によって派遣されました。

 日本の通説では、 「日出づる処の天子(天皇)、書を日没する処の天子(隋の皇帝)に致す。恙なきや(お元気ですか)」の文言で知られる国書を携えた使者は小野妹子とされています。
 
 この文言は当時の日本(の天皇)が隋(の皇帝)に対等の立場で述べたものであったために、隋の皇帝・煬帝が激怒したことで知られています。

 小野妹子は隋の使者・裴世清を伴って帰国しましたが、煬帝の返書は帰る途中に百済で紛失したと伝えられています。
 これについては、煬帝の返書が日本を隋の属国とみなした内容であるため小野妹子がわざと紛失したことにしたのではないかという説があります。

 小野妹子は、一時は流刑されましたが、やがて恩赦で許されました。翌年、隋への返書と裴世清の帰国のため、第3回遣隋使としてにふたたび派遣されました。
 遣隋使というのは、生きて帰れるかどうかもわからない危険な旅でした。

  さて、小野妹子の子孫といわれている人物には小野毛人、小野岑守、小野篁、小野道風(書道の大家)、小野小町(世界三大美人の一人)などがいます。

 小野妹子については、資料が乏しく、詳しいことはよくわかっていないのが現状です。

7月31日 野生のコウノトリ、46年ぶりの巣立ち 

 2007年の今日は、兵庫県豊岡市の「兵庫県立コウノトリの郷公園」で人工飼育され、放鳥されていたコウノトリのヒナが、日本では46年ぶりに巣立ちをした日です。

 日本列島にはかつてはコウノトリが普通に人間とともに共存していました。
 明治期以後の乱獲や森林の伐採などによりコウノトリが棲息できる環境が悪化しつづけ、1956年には20羽にまで減少してしまいました。
 
 その後、「特別天然記念物コウノトリ管理団体」の指定を受けた兵庫県が豊岡市で一つがいを捕獲し、「コウノトリ飼育場」(現在の「兵庫県立コウノトリの郷公園」)で人工飼育を開始しましたが、関係者の努力と期待にもかかわらず、国内で繁殖する野生のコウノトリは絶滅しました。

 多摩動物公園では、中国のコウノトリを譲り受けて人工飼育を続けていた結果、1988年に国内初の人工繁殖に成功しました。
 続いて「コウノトリ飼育場」でも、旧ソ連からもらい受けていたコウノトリで人工繁殖に成功しています。これ以後、毎年、繁殖に成功しています。
 また、大阪市天王寺動植物公園、豊橋総合動植物公園でも人工繁殖に成功し、国内で飼育されてる数は増えています。

 「兵庫県立コウノトリの郷公園」では繁殖に成功した後、野生に復帰させる計画が開始されました。
 「公園」周辺地域で、農薬の散布をひかえ無農薬栽培にきりかえるなどの農民の協力もあって、コウノトリの棲息に可能な環境が整えられました。   
 世界初の放鳥にそなえて8羽のコウノトリに餌をとるなどの訓練がおこなわれました。

 そして、2005年9月24日、5羽(雄2羽・雌3羽)が放鳥されました。世界初の放鳥でした。34年ぶりにコウノトリが大空に羽ばたくこととなりました。

 その後2006年4月には放鳥されたコウノトリの産卵が2回確認されましたが、残念ながらこれらの卵は孵化しませんでした。

 2007年にも放鳥されたコウノトリによる産卵が行われました。今度は1つのペアから1羽が孵化しました。
 この雛は2007年7月31日に無事に巣立つことができました。
 コウノトリの野生での巣立ちは1961年に小浜市で野生最後の巣立ちが見られて以来、実に46年ぶりのことだということです。

 なお、その後放鳥されたペアから生まれた雛がつぎつぎと巣立っているということです。

「兵庫県立コウノトリの郷公園」  コウノトリファンクラブ

7月30日 プロレス記念日

 今日は、「プロレス記念日」です。
 1953年7月30日に力道山が日本プロレスリング協会を結成したことに由来しています。

 力道山は大相撲の力士の出身で、「日本プロレス界の父」と呼ばれているプロレスラーです。 
 身長176cm、体重116kgでしたから、外国のプロレスラーとくらべると小さいぐらいだったのを覚えています。

 力道山は、はじめに二所ノ関部屋に入門しました。
 1949年5月場所に関脇にまで昇進しましたが、1950年9月、場所前に突然廃業し、相撲界から引退してしまいました。

 建設会社で働いていましたが、ナイトクラブでのけんかもとでハワイ出身の日系レスラー・ハロルド坂田と知り合って、やがてプロレスにひかれていき、プロレス転向を決意しました。
 1952年にアメリカに渡り、翌年、帰国して「日本プロレス協会」を設立しました

 私の小学生のころ、テレビが普及しはじめたこともあって、力道山の人気はすさまじいものがありました。
 自分より大きな外人レスラーに始めのうちはやられるのですが、はらはらして見ているとやがて空手チョップが勢いよく飛び出し、相手を叩きのめします。これに私たち子どもは熱狂しました。大人も熱狂していました。
 でも、あの空手チョップはそんなに威力があるのかな、と思ったこともありますが・・・・。

 ルー・テーズとの試合は好試合で気合いが入っていました。また、額に噛みついて相手を血まみれにする悪役ブラッシーとの試合では血だるまになって闘っていました。

 そんな私を見て、父は「プロレスはショーだから・・・」とよく言っていました。その意味を私が理解できたのはずっと後ですが、すでに1954年の日本ヘビー級王座の決定戦で、柔道王者の木村政彦に勝った試合が八百長崩れであることが明らかになっていました。

 当時はプロレスに一定のストーリーがあるということは当時まったく知られていなかったのです。
 1954年の日本ヘビー級王座決定戦以後、プロレスは三大紙やNHK等の一般メディアの取材対象から外れることになりました。
 現在でもストーリーがあるのでしょうか。
 最初から勝ち負けが決まっているのでしょうか。そんなように感じる試合もありますが、そうとは思えない、すごく緊迫感のある勝負もあります。

 さて、とにかく当時は力道山は日本中のヒーローでしたが、かなり粗暴だったのが残念なところです。
 1963年の暮れ12月、遊んでいた赤坂のキャバレーで、暴力団の構成員と足を踏んだ、踏まないで口論になりました。これは力道山が踏まれてもいないのにいちゃもんをつけたものです。
 馬乗りになって相手を殴っていたところ、下になってる相手が持っていた登山ナイフで下から腹部を刺されました。
 だが、自分から持ちかけたけんかということもあり表沙汰にはせず、知り合いの勤める産婦人科の病院に入院しましたが、その傷が原因で12月15日に化膿性腹膜炎で死去しました。

 粗暴でしたが、「日本プロレス界の父」といわれる功績を残しました。弟子にはジャイアント馬場、アントニオ猪木がいます。
 生前は朝鮮人であることを隠していました。彼は、日本人として生きざるを得なかったと思います。
 力道山が活躍した時代は、現代よりも数段に差別が厳しい時代だったからです。

7月29日 日米修好通商条約が結ばれた 

 日米修好通商条約は江戸末期、新暦1858年の今日、日本とアメリカ合衆国の間で結ばれました。
 
 4年前の日米和親条約により、日本初の総領事として下田に赴任したハリスは、当初から通商条約の締結を計画していましたが、日本側は消極的態度に終始していました。

 老中堀田正睦は孝明天皇の勅許を獲得して世論を納得させた上で通商条約を締結しようとしますが、許可が出なくて失敗に終わり、辞職に追い込まれました。
 ハリスは、中国でおこったアロー号事件で、清に出兵したイギリスやフランスが日本を侵略する勢いがあることを説明して、それを防ぐにはアメリカと通商条約を結ぶほかないと説得しました。

 大老の井伊直弼はハリスの説明を受けて脅威に感じ、天皇の勅許がないままでも独断で通商条約締結に踏み切りました。
 通商条約は神奈川沖の米軍艦上で調印されました。

 その結果、神奈川・長崎・箱館(函館)・新潟・兵庫を開港し、下田を閉鎖しました。
 さらに、 領事裁判権(治外法権)をアメリカに認めることと、関税自主権がないことを認めました。 おもにこの2点が不平等条約として日本に不利な内容を持っていました。

 領事裁判権(治外法権)を認めるということは、日本で犯罪を犯した外国人を日本で裁くことができないということです。
 関税自主権がないということは、輸入品にかける関税の率を日本だけで決められないということです。
 どれも不当な内容でした。

 こうして外国との貿易が始まったわけですが、この貿易の影響は計り知れないものでした。生糸と茶は大量に輸出されたので国内では品不足になり、値段が10倍以上に跳ね上がりました。
 一方、外国からの安い綿糸や綿織物は、国内の織物業者に大打撃を与えました。

 物価は高騰し、貧しい庶民たちの暮らしを圧迫しました。討幕運動がさらに燃え上がっていきました。

 この不平等条約の改正はそう簡単にできるものではなくて、治外法権の撤廃に成功するのは日本が日清戦争において清に勝利した後の1899年です。
 また、関税自主権の回復を果たすのは日露戦争後の1911年でした。
 
 軍事力次第で対等の条約を結んでもらえるかどうかが決まる厳しい時代でありました。
 ただ、不平等条約を撤廃したいと切に思っていた明治のはじめごろ、朝鮮に対する武力威嚇をして結ばせた日朝修好条規では朝鮮に不平等条約を押しつけています。
 人間でも、政治でも、こういうタイプは好きません。

7月28日 江戸川乱歩の命日 

 今日は、「江戸川 乱歩」の命日です。 
 江戸川乱歩はアメリカの文豪であるアドガー・アラン・ポーをもじったペンネームです。

 乱歩は大正時代から昭和時代にかけてたくさんの作品を世に出しました、
 いわゆる探偵小説をポピュラーな地位に押し上げた、推理小説を得意とする作家だと思います。
 
 戦後は推理小説専門の評論家としても活動し、日本推理作家協会の設立にも携わり、初代理事長を務めるなど多大な業績を残しました。
 江戸川乱歩賞が創設されています。

 私は、江戸川乱歩の作品は一つも読んだことがありませんが、名前だけはよく知っていました。
 戦後のラジオや映画では有名な存在だったのではないかと思います。

 私が小学生のころ、東映の二本立て映画を見たとき、「怪人二十面相と少年探偵団」の映画を見たことをうっすら覚えています。明智小五郎を演じた俳優は忘れましたが、怪人二十面相は伊藤雄之介という名優が演じていました。少年探偵団には当時の少年スターの山手弘とか小畑やすしとかがいました。ストーリーも題名もさっぱり覚えていません。
 
 しかしラジオから流れる「少年探偵団」の主題歌だけが耳に残っています。
 「ぼ、ぼ、ぼくらは少年探偵団。勇気、りん、りん、瑠璃の色、空に燃える、呼び声は、朝焼け空にこだまする。ぼ、ぼ、ぼくらは少年探偵団」(少しちがうかも・・)という歌詞だったように思います。(正しい歌詞教えてください。)
 なんとなく何回も口ずさんだものです。

 「怪人二十面相と少年探偵団」の一連の作品は、1936年1月から1962年12月にかけて「少年倶楽部」や「少年」に連載された少年向けの小説でした。

 怪人二十面相のライバルは名探偵明智小五郎ひきいる少年探偵団です。
 怪人二十面相は変装の天才で、腕前は二十面相自身も、ほんとうの顔をわすれてしまっているかも知れないほどたくみであったといわれています。

 ちなみに、平和主義者であったのか、血を見るのが嫌いなので殺人はしません。
 初期のころは美術専門の盗賊だったそうですが、やがて着ぐるみを着たりして世間をあっと驚かす愉快犯になったようです。

7月26日 幽霊の日

 今日は「幽霊の日」です。
 幽霊が出る怪談でもっとも有名な鶴屋南北作の「東海道四谷怪談」が、1985年7月26日に江戸中村座 で初演されたことに由来して制定されました。

 東海道四谷怪談は、夫である民谷伊右衛門に毒殺された四谷左門の娘「お岩」が伊右衛門を復讐する話です。
 江戸の町で実際におこった事件をモデルにしています。
 現在でも四谷怪談が演じられると怪我人が出るとの言い伝えが残っていますので、上演するにあたって演劇の関係者は必ず四谷町の御岩稲荷にお参りしているということです。  

 「東海道四谷怪談」では、田宮家ゆかりの女性の失踪事件などの「お岩」伝説に、当時の不倫の男女が戸板に釘付けされ神田川に流されたという実話や砂村隠亡堀に心中者の死体が流れ着いたという実話などが取り入れられて改変されています。

 私はあまり怪談物は見ないのですが、それでも印象に残っている舞台の場面は、「お岩」が毒薬を飲まされて、顔半分が醜く腫れ上がったまま髪を梳き、悶え死ぬところです。
 それから、最後の方で伊右衛門がものすごい数の鼠と怨霊に苦しめられるところです。

 さて、幽霊とは、人間の肉体が消滅したあとも、この世に未練や恨みがあるために成仏できず、浄土にゆけない魂がさまよい、それらしき姿と声を持って、因縁ある人物の前に出現するという日本の民間信仰がもとにあると言われています。
 
 幽霊のそれらしき姿とは「乱れた髪に三角頭巾をつけ、死装束をまとった女性で足がないこと」です。
 日本の怪談の幽霊には、たしかに男性はいないですね。皿屋敷も牡丹灯籠も女性です。たしかに足もないです。
 この「日本型幽霊」は、江戸期に浮世絵の題材として描かれてから定着したものだそうです。
 
 一方、海外の幽霊には足があるものが多いです。

7月25日 最高気温記念日

 1933年(昭和8)年に山形市で日本の最高気温40.8℃が記録されたことを記念して、「最高気温記念日」とされています。

 山形市は最高気温を保持していたのは、2007年8月16日14時19分までです。
 同日14時20分には岐阜県多治見市で、さらに22分後の14時42分には埼玉県熊谷市で40.9℃の日本の最高気温が記録されて、第3位に後退しましたが、記念日はそのまま残っています。

 これほどの記録が出た原因として、多治見市は高気圧の中心付近が上空にあったためだといわれています。
 山形市や熊谷市の場合は、近くの山から吹き下ろす風によるフェーン現象のためとされています。

 気温とは、大気の温度のことで、WMO (世界気象機関)の規則では地上から1.25~2.0m の高さ、日本の気象庁の基準では1.5mの高さで、温度計を直接外気に当てないようにして測定することになっています。
 そのために、温度計や湿度計は送風機ファン付きの通風筒や百葉箱に入れられています。

 百葉箱って聞いてなつかしく感じました。小学生のころには運動場の隅にあったのをよく見かけましたが最近はあまり見なくなりました。
 まだあったんですね、といったらお天気キャスターや理科の先生から怒られそうです。

 さて、今日は「夏氷の日」でもあります。日本かき氷協会が制定しました。
 「夏氷」とはかき氷のことです。
 「な(7)つ(2)ご(5)おり」の語呂合せと、この日が日本の最高気温が記録された日であったことから選ばれています。

7月23日 米騒動がおこった

 1918年の今日は、富山県魚津の漁師の家の主婦たちは、米の県外移出を阻止する集団行動をおこしました。
 これが全国にまで広がった「米騒動」の始りとなりました。

 1918年といえば第1次世界大戦の真っ最中です。ヨーロッパが戦場ですから、イギリスやフランスに替わって、アジアへの輸出が増えたので日本の企業は大もうけしました。
 この時期、各地に一時的に成金が出現しました。

 大もうけしたのは大会社と成金だけで、ほとんどの国民は景気が良くなるにつれて物価がうなぎのぼりに上昇していくので、かえって生活は苦しくなっていきました。

 とくに、春から夏にかけて米価はすさまじく上昇しました。
 ロシア革命に干渉するシベリア出兵を見越して、米商人・成金たちが米の買い占めをおこなったからです。
 春には米1升が20銭だったのが、夏には55銭とナント倍になっていました。
 だれもが「なんとかしてほしい」という思いだったといわれています。

 そんなとき、魚津の港では米倉庫から米が船に運び込まれているではありませんか。
 米は無いものと思っていたのに、それを知った漁師の女房たちは、米屋に押しかけて「安売り」を要求しました。

 このようすが「越中女房一揆」として新聞で報道されると、東京や大阪、名古屋、神戸、そして九州で「米よこせ」「米を安く売れ」という運動がおこり、広がっていきました。
 
 8月10日には名古屋と京都で大騒動がおこりました。騒動は9月17日まで続きました。神戸では、成金の鈴木商店が群衆のために焼き討ちされました。
 
 また民本主義の普及によって反政府的気分が高まりました。
 警察だけではおさえきれずに軍隊まで投入され、30人の死者と多数の負傷者を出しました。
 この一連の民衆の運動を「米騒動」と呼んでいます。

 不況のなかで物価高、貧困化がすすみ、消費税の増税とか生活苦がじわじわ押し寄せている今日の世相とよく似ています。
 毎日報道される事件の一つ一つをとってみても、人心のすさみ方がひどくなっています。

 「騒動」の起こし方は真似られませんが、何らかの民主主義的な方法(世論・選挙など)で「騒動」がおきても良いのではと思います。

7月22日 ナッツの日

 今日は「ナッツの日」です。「ナ(7)ッ(2)ツ(2)」の語呂合せです。
 日本ナッツ協会が1996(平成8)年12月に制定し、1997(平成9)年から実施しています。

 普通、「ナッツ」というとピーナッツを思い浮かべますが、ピーナッツはマメ科の1年草ですから、「ナッツ」には含まれません。
 
 本来の「ナッツ」は木の実のことで種子の胚や胚乳を食用としています。
 一般的には、クルミ、アーモンド、カシューナッツ、ピスタチオナッツ、マカデミアナッツなどをさしています。

 人類の歴史の中でも、採集が中心だった古代からナッツ類は貴重な保存食でした。遺跡からもよく発見されています。

 私が大好きな「ナッツ」はクルミとアーモンドです。
 クルミの歴史はかなり古くて、紀元前7000年ごろから食用とされていました。メソポタミアから中国・朝鮮を通って日本に伝わってきましたので胡桃という漢字が当てられました。なるほど形は桃に似ています。

 現在、日本には、カリフォルニア産と中国産が多く輸入されているようです。
 クルミは健康的な食品の一つとして輸入量が飛躍的に伸びています。クルミの栄養価は、とても高く、おいしいので人気があります。
 必須脂肪酸のリノール酸などを含み、ビタミン、ミネラル、食物繊維が含まれています。現代人に不足しがちなビタミンB1、ビタミンEを含んだヘルシー食品といえます。

 クルミを食べると頭が良くなるとよく聞かされました。
 クルミは、和菓子、洋菓子、パンにクルミが入っていると味覚がグンとアップした気がします。

 「ナッツ」の代表といってもいいのは「アーモンド」です。「アーモンドチョコレート」は大好きです。
 日本では粒の形が偏平なことから「扁桃」という漢字を当てました。
 咽頭部の両側にあるリンパ組織の形がこれに似ていることから「扁桃腺」の語源となりました。扁桃腺=「アーモンド腺」だったなんて驚きです。

 アーモンドは、世界の約7割をアメリカ合衆国のカリフォルニアで生産され、日本などの消費国へ輪出されます。
 アーモンドには、悪玉コレステロールを抑制するオレイン酸が豊富です。また、ナッツ類の中でもカルシウム、鉄、マグネシウム、亜鉛といったミネラルがバランスよく含まれています。
 食物繊維も非常に多いです。

 最近、脳の掃除をする細胞を活性化して、脳梗塞やボケの防止に役立つ食品として注目されています。理由は抗酸化作用が強く、活性酸素を抑制して、あらゆる細胞の老化を防止するのに役立つビタミンEがたいへん多く含まれてからです。

 「ナッツ」を調べているうちに、アーモンドを日常的に食べてみようと思いました。

7月21日 エジプトのアスワン・ハイ・ダム完成

 1970年の今日は、エジプトのナイル川にアスワン・ハイ・ダムが完成した日です。
 
 古いアスワンダムは、アスワン・ロウ・ダムとも呼ばれていて、1901年に完成しています。アスワン・ハイ・ダムは、アスワン・ダムの6.4km上流に建設されました。

 ナイル川といえば「洪水」と歴史で習ったとおり、ナイル川の氾濫(洪水)を防ぐことはエジプトに人々の願いでした。もう1つは砂漠の農業利用です。
 アスワン・ハイ・ダムは氾濫の防止と農業用水の確保を目的に、当時のナセル大統領がソビエト連邦の支援を受けて国家的事業として計画を立てて建設しました。

 10年かけて建設されました。高さ111m、全長3,600mの巨大ロックフィルダムです。 アスワン・ハイ・ダムにせき止められてできた巨大な貯水池はナセル湖と名付けられました。その面積は琵琶湖の8倍もの大きさです。

 アスワン・ハイ・ダムの完成によって、毎年のようにおこっていたナイル川の氾濫を防止することができました。
 また、12基の水力発電装置から210万キロワットの電力を供給することができるようになりました。
 ダムにより出現したナセル湖から供給される水は不足がちの農業用水を安定させ、砂漠の緑化も行われました。
 エジプトからスーダンにいたる広大な感想地域で耕作ができるようになりました。周辺国でかんばつがおきても、エジプトではまったくかんばつがおきないといわれています。
 また、ナセル湖の漁業はとても活発になり、豊富な水産物は重要な食料として活用されています。
 今では、周辺の遺跡とともに、観光地となっています。

 しかし、良いことばかりではありませんでした。いくつかのリスクをともなったのです。
 ナイル川は、毎年夏に定期的に洪水が発生していたので、下流域に肥沃な土壌を形成することに役立っておりました。このため古代文明がおこったことはよく知られています。

 ところが、上流から流れてくる栄養豊かな水がアスワン・ハイ・ダムでせき止められ、その時に栄養分が湖底に沈んで積もるので、ナイル川下流域では、土壌痩せが深刻となっています。
 地中海にそそぐ三角州地帯ではナイル川からの土砂供給の減少によって、侵食が激しくなるという影響がでました。
 また河口付近の地中海の生態系への影響もありました。地中海の魚類の成長が遅くなり、漁獲高が減少したという報道を聞いたことがあります。栄養豊かな水が海にそそがなくなったからです。
 ナイル川の生態バランスを破壊したなどの批判もあります。

 ナイル川流域には数々の重要な遺跡があります。もともと低い土地にあったのですが、ナセル湖底に沈むのを防ぐため、ユネスコの援助で、高い土地に移築されました。
 ところが、川の水が安定した水位を保つようになったので、水分が周辺の土壌にしみ込み、その上に建つ遺跡へ水分が侵入することになりました。
 史跡の保存上、悪影響があると考えられ、対策の必要性が論じられています。

 プラス・マイナス、双方の影響がありますが、アスワン・ハイ・ダム無しにエジプトは生きてゆけないでしょう。
 マイナス面をいかに克服するか、大きな課題です。
 なぜなら、中国の黄河も三門峡ダムができてから、洪水はなくなり、農・工業用水の需要は満たされましたが、下流では断水という現象がおきていました。
 黄河に水がないとは・・・・。

 日本でも、ダム建設がさかんですが、流域の環境を大きく変える建造物なので、地域住民の意見を取り入れて、慎重に進めてほしいと思います。

7月20日 オリンピック聖火リレーが始まった

 オリンピックの開会式にあわせ、聖火をメインスタジアムの聖火台まで運んで点灯する「聖火リレー」は1936年の今日から始まりました。

 1936年のドイツはヒトラーが政権を取っていた時期でした。
 ヒトラーはベルリン大会を国威発揚の宣伝の場にしようと考えました。ヒトラーはオリンピックの時期だけユダヤ人への弾圧をゆるめるポーズをとり、大会を成功させようと力を入れていました。そこで「聖火リレー」が考え出されました。

 当初、諸外国は、ナチス政権が「聖火リレー」をはじめるのは、軍事目的のために他国の実地調査をすることにねらいがあると批判しました。
 「聖火リレー」ではナチスの宣伝のための演出がおこなわれ、沿道はナチスの「かぎ十字」一色に埋まったといいます。

 清らかであるべき「聖火リレー」の誕生秘話は、生ぐさい臭いがします。

 
 さて、聖火はどのように採火されるのでしょう。
 伝統的に、聖火は古代オリンピックが行われていたギリシャのオリンポス山で太陽を利用して採火されます。
 聖火トーチへは、太陽光線を一点に集中させる凹面鏡に11人の(女優が演じる)巫女がトーチをかざして火をつけています。
 
 古代ギリシア人にとって、火はプロメテウスが神々の元から盗んできたものだと考えられており、神聖なものでした。
 火はオリンピアの祭壇で燃え続けているように、オリンピック開催期間中は、メインスタジアムで燃え続けています。

 間近にせまった北京オリンピックでは、チベットへの対応に抗議するデモがフランス・イギリス・インドなど世界各国でおこり、その影響で三度ほど聖火を消したり、予定されていたルートを変更する国が続出する事態となりました。
 
 せめてオリンピック期間中は、選手は競技に熱中できて、我々は観戦を楽しめるように平和であることを祈りたいです。

7月18日 光化学スモッグの日 

 今日は「光化学スモッグの日」です。
 
 1970年7月18日は、太陽がかんかんと照っていた暑い日でした。
 杉並区の学校の運動場で体育の授業を受けていた多数の女子高生が、目の痛みや頭痛を訴えて倒れ、病院に運ばれて治療を受けるという事件が発生ました。

 彼女らの痛みの原因は「光化学スモッグ」によるものと判明しました。
 アメリカのロサンゼルスではすでに知られていましたが、日本でこの日にはじめて確認されました。
 光化学スモッグが日本ではじめて確認され日なので「光化学スモッグの日」とされました。

 この光化学スモッグは1970年代には猛威をふるいました。
 注意報・警報が出されると、学校では校庭に旗で知らされ、屋内に入るよう指示されたり、体育の授業やクラブ活動が中止になったりしました。
 
 1960年代までの「スモッグ」といえば、大阪や東京など大都市に冬の朝に、白くて濃い霧が発生して、ひどいときには2~3m先が見えないことがありました。
 大阪では環状線や私鉄・バスなど交通機関がマヒしたことが何回もありました。
 自動車はスピードを出せないままノロノロ運転です。

 都会に発生したこの霧の核になっていたのは工場の煤煙でした。
 細かい煙の粒子に冷やされた水滴がくっついて霧になっていましたので、煙(smog)+霧(fog)からスモッグ(smog)の新語が生まれました。
 
 (ちなみに、日本人が得意な和製英語かと思っていましたら、英和辞典にも載っていました。)
 冬の白いスモッグは大気汚染が根本的な原因でした。煤煙によるぜんそく患者が急増した時期でもあります。空だけでなく、海も川も土地も汚染された時期でした。

 さて、「光化学スモッグ」は夏の暑い日だけでなく、4月~10月の間の、陽射しが強くて気温があがり、 しかも風が弱いなどの気象条件が重なったときに発生します。

 原因は工場や自動車の排気ガスに含まれる窒素酸化物(NOx)です。これが紫外線によって有毒な物質に変化しておこります。

 さて、この「光化学スモッグ」ですが、ここ数年、関東地方を中心に再発しています。2004年には全国22都府県で発生しています。
 北九州での多発の原因は、中国の大気汚染が原因だといわれています。

 「光化学スモッグ」が発生中とわかったら次のことを守りましょう。
 「目を洗い、うがいをする。」
 「できるかぎり屋外へ出ない。屋外にいる場合は、すみやかに屋内に入る。」 
 「窓やカーテンを閉める。体調が悪い人は、なるべく屋内で休む。」
 「めまいがしたり、目の痛みを覚えるので、自動車の運転はしない。」

 これからは楽しい夏の盛りです。
 「光化学スモッグ」に注意して夏を乗り切りましょう。

7月17日 徳川家茂(14代将軍)が誕生

 1846年の新暦7月17日は、江戸幕府の第14代将軍・徳川 家茂(とくがわ いえもち)が誕生した日です。
 家茂は徳川家斉の孫にあたり、4歳で紀州藩主になりました。第13代将軍の徳川家定とは従兄弟の関係でした。
 
 NHKテレビの大河ドラマ「篤姫」で知られているように、将軍に最も近い血筋の人物であるとして、慶喜(よしのぶ)らの一橋派を抑え、井伊直弼ら南紀派の支持を受けて、徳川家定の死後、13歳で第14代将軍となりました。

 衰えた江戸幕府の崩壊をいかにしてもちこたえるかが将軍・幕臣の最大の課題でした。  このとき幕府は200年余り抑え続けてきた朝廷の権威を利用しようとしました。
 
 1862年、公武合体策を決断した家茂は、朝廷から和宮(かずのみや・孝明天皇の妹)を迎えて結婚しました。
 幕府と朝廷を結びつけて討幕派を抑えようとする政略結婚ではありますが、2人の関係は良好で、たいへん夫婦仲が良いといわれていました。
 
 その後、家茂は長州征伐の途上、大坂城にて倒れました。
 知らせを聞いて、朝廷からも江戸城からも医師が派遣されてきましたが、その甲斐なく、家茂は同年7月20日に大坂城にて逝去しました。享年21といわれています。

 朝廷から派遣されてきた漢方の医師らは脚気の診断しました。江戸から派遣された西洋医の幕府奥医師らはリウマチと診断しました。
 両者には診断をめぐる厳しい対立があって、家茂に対して適切な診療ができなかったことが、家茂の命を早く奪ったのではないかと指摘されています。

 1958年、増上寺の徳川将軍家の墓地の改葬の際に、徳川家の人々の遺骨の調査がおこなわれました。
 調査によると、家茂の虫歯の状態はことのほかひどく、虫歯が30本もあったといいます。
 歯が弱い体質に加えて大の甘党だったことが虫歯の原因だったといわれています。
 その虫歯が家茂の体力を弱めたのかもしれません。
 
 また墓地改葬の際に、和宮の墓の中から家茂と思われる男性の肖像写真が発見されました。
 これまで家茂は義兄の孝明天皇にならって、写真撮影はしていなかったとされていました。死の直前に大坂で撮影されたものと推定され、江戸にいる和宮に贈ったとみられています。
 ところが写真発見の翌日に、再度写真を検証しようとすると画像は失われており、そこにはガラス板があるのみだったそうです。
 ミステリーですね?
 知られてはいけない別の人物の写真でしょうか。

 とにかく徳川家茂は、血筋だけでなく、聡明でまじめな品格をもっており、勝海舟ら幕臣からの信望が厚い将軍だったといわれています。
 
 

7月16日 世界最初の核実験(アメリカ)

 第二次世界大戦中の1945年の今日、世界で最初の核実験がニューメキシコ州アラモゴードの近郊の砂漠でおこなわれました。

 核実験までに道すじは直接的には1938年から始まります。
 1938年にハーンによって核分裂が発見されました。この発見をきっかけに軍事利用がクローズアップされ始めました。

 この後、オッペンハイマーを中心に原子爆弾の開発が大急ぎで進められて行きました。そしてついに、7月16日の原爆実験となったのです。

 ここで実験の成功を受けて、原子爆弾は実戦で使用されることになりました。
 その原子爆弾とは、太平洋戦争末期の1945年に広島市に投下されたリトルボーイ(濃縮ウラン型)と長崎市に投下されたファットマン(プルトニウム型)の2発です。

 アメリカは、戦後の国際的な力関係でソ連よりも優位に立つために原爆の製造を急ぎ、投下も急いだのです。

 これらの原子爆弾は大量の放射線を放出し、また放射能を含んだチリを多量に吹き出しました。
 原子爆弾の被害は、爆発の際の熱線や爆風だけにとどまりません。原爆症とよばれる放射線障害や白血病や癌などの重大な病気を引きおこしました。
 その影響は60年後の現在も続いています。
 まさに悪魔の兵器です。
 
 さらに今日では、原子爆弾より威力が勝る「水素爆弾」、建造物の破壊する範囲よりも生き物を殺傷する範囲がひろい「中性子爆弾」などが製造・貯蔵されています。

 「世界初の核実験の日」にあたって、一日でも早く地球上から核兵器が無くなるよう期待します。

7月14日 ニホン・ニッポンどちらが正しい?

 1970年7月14日、当時の佐藤栄作内閣が、日本政府としては国名としての「日本」は「ニッポン」と読むことを閣議で決定しました。
 ただし、国民への強制力はありません。

 「ニホン」ではなく「ニッポン」のほうを採用するにあたってあまり深い吟味はなされませんでした。オリンピック以後、「NIPPON」というローマ字表記が外国で通じやすくなっていたからという現実があるようです。

 ところで 「日本海」「日本酒」「日本晴れ」「日本語」「日本庭園」などの言葉のように、「ニホン」でないとイメージが損なわれたり、使いにくいものがあります。

 とくに企業名・団体名・大学などで「日本‥‥」と名乗るところは、個別に「ニッポン」と読むか「ニホン」と読むかを決めているのが普通です。
 
 私たちは、その名前をよぶときには、それぞれが決めている呼称を尊重する必要があります。
 たとえば「日本大学」は「ニホンだいがく」で、スポーツ選手のユニーホームに「NIHON」と入っています。日本大学ではニホンと読むことに決めていますので私たちはこれを尊重すべきです。
 
 日本銀行自身は「ニッポン」と呼んでいます。日本のお札(日本銀行券)にもNIPPONと印刷されています。私たちはこれを尊重すべきですが、私はつい「ニホン銀行」と読んでしまいます。

 国立国会図書館では、題名に「日本」が含まれる約16万8000冊の読みを「ニホン」に統一して分類しているとのことでした。

 国立国語研究所では話し言葉では「ニホン」が断然多く、外国を意識した時に「ニッポン」が多いとの調査結果を発表しています。
 なるほど、バレーボールの国際試合の応援は「ニッポン、チャチャチャ」ですね。「ニホン、チャチャチャ」ではリズムがでません。

 昔、「日本橋と書いて、東京はニホン橋で、大阪はニッポン橋」と、父から聞いていました。一般にもそのように区別して読まれているようです。
 私は、大阪の日本橋はニッポンバシと読むことが多いですが、知らず知らずに両方使っています。

 ちなみに、歴史的にはどのような経過があるかというと、奈良時代は「ニッポン」と読んでおり、のちに文字の通り「ニホン」と発音する人が出てきたと推測されています。
 「ニホン」は元々は誤読だったとのことです。
 そうすると奈良時代に成立した「日本書紀」は「ニッポン書紀」が正しい読みだったということになります。

 たとえ誤読であっても多くの人が使えば「正しい読み」になります。言語は生き物だと思いました。

7月11日 世界人口デー

 今日は「世界人口デー」です。
 国連人口基金(UNFPA)が1989年に制定した国際デーの一つです。世界の人口問題への関心を深めてもらうことが目的です。

 制定のきっかけになったのは、1987年のこの日に、地球の人口が50億人をこえたことです。
 50億人目の赤ちゃんは、1987年7月11日に、当時のユーゴスラビアのザグレブで生まれた男の子でした。国連が正式に認定し、当時のデクエヤル事務総長が祝福にかけつけています。
 
 その後1999年10月12日には早くも60億人を突破し、毎年約7800万人のペースで増加しています。

 世界の人口は、1秒に2~3人、1分に140人、1日で20万人、1年で8千万人のペースで増えているといわれています。
 世界中で、1年に6000万人が亡くなり、1億4000万人が産まれています。

 世界の人口は現在も増え続けていますが、その全体の増加率は1970年をピークに低下しています。
 地域別に差が大きく、発展途上国なかでもアフリカは最大の人口増加率です。

 この結果、国連による世界人口推計は、2000年の60億から2025年には78億に、2050年には89億に増加するとしています。
 すなわち、今後50年で世界人口は29億人増加し、現在の約1.5倍になると予測されています。
 (ちなみに日本は、2050年までに2650万人減少するという予測がされています。深刻!)

 世界人口の急速な増加は、食料不足、飢餓の発生、貧困の拡大、エネルギー消費の増加に加えて緑地の砂漠化、地球の温暖化などの地球環境破壊の大きな原因になっています。

 世界にはほかにも問題が山積です。
 石油の枯渇が着々と近づいています。バイオ燃料は新しい食糧問題を引き起こしています。
 森林が失われています。古代文明がおこったほどの大河の水がなくなりかけています。こんなに地球が危ないのに、大国はエゴを出して、解決のイニシアチブをとろうとしません。
 戦争なんかしている場合ではないのに・・・・と、叫びたいです。

7月9日 ジェットコースターの日

 1955(昭和30)年の今日、初の都市型遊園地として東京の「後楽園」に日本初のジェットコースターが設置されました。
 このことから、「ジェットコースターの日」に制定されました。

  日本では「ジェットコースター」と呼ばれていますが、英語では「ローラーコースター」とよばれています。つまり「ジェットコースター」は和製英語です。
 「ジェット機のようなスピードが体験できる乗り物」ということで、後楽園遊園地が「ジェットコースター」と命名したのが全国に広がっていったというのです。

 私は、恐がり屋なのでジェットコースターとは無縁の人生でした。遊園地そのものが好きではなかったのです。
 家族旅行には何回も行きましたが子どもたちを遊園地に連れて行った覚えはほとんどありません。

 50歳過ぎたある時、事情があって友人たちと富士急ハイランドに行きました。有名なFUJIYAMAという日本一の高さを誇ったジェットコースターがあります。
 「人生、最初で最後の体験」と自分に言い聞かせてみんなでわいわい言って乗りました。乗って上昇を始めた途端、後悔に変わりました。
 ほんの2~3分だったと思いますがほとんど目をつぶっていました。

 「人生・最初で最後の体験」のはずが、最近、双子の孫を連れて歩くうちに、付き添いをさせられ、かなりの体験者になってしまいました。
 2007年3月、北名古屋市の老母を見舞ったあと犬山モンキーパークで、孫にせがまれるまま各種のジェットコースターに付き添いました。
 
 発車して上昇していくと途中から後ろ向きに落下して、1回転して上昇し、また1回転して下降するコースターがありました。今はなくなったようです。孫に付き添いをせがまれて、いやだいやだと断りつづけていましたがついに敗北。合計7回乗り終わったころは、「何も怖くないぞ」と強気でした。

 ところが、その1ヶ月後、大阪エキスポランドで死亡事故がありました。「やっぱり怖い」と弱気になり、二度と乗らない決意をしました。
 北名古屋市の姉からも「乗りゃぁすな」と言われました。
 
 しかし、もっと怖いのは、一時、乗るのをやめていたのに、事故のことを知りつつ、またまた付き添ってる神経だと思いました。

7月8日 質屋の日

 今日は「質屋(しちや)の日です。「しち(7)や(8)」の語呂合わせです。

 質屋は何らかの物品を質(質草・担保)に取って、金銭を貸し付けるう事業者のことです。物品を質草にして金銭を借り入れることを質入といいます。
 期限までに返済できない時は、質入れした物品は取り戻せなくなります。こうした物品は質流れ品と呼ばれます。

 起源は鎌倉時代といわれています。
 時代劇などの映画やドラマでは「質屋」がしばしば登場していました。
 貧しい家の奥さんが家計の不足を補うため、嫁入りで持参した着物や帯やかんざしを質入れする場面です。
 とくに江戸時代の下級武士の家に嫁いだ奥方は着物を一枚二枚と質入れしなければ生きていけなかったといわれています。

 明治以後も庶民の一般的な金融であった当時でも、質屋通いは世間体が悪いものでした。ですから質屋とは呼ばないで、「七つ屋」・「セブン屋」・「セブン銀行」・「一六銀行」などの隠語が用いられたがありました。

 こうして1960代ごろまでは庶民金融の主力でした。良心的な質屋も多く、庶民にとってはなくてはならない店でもありました。
 しかし、1970代頃から、消費者金融がおこり始め、それにともなって廃業する質屋が多くなりました。

 現在の質屋は、貸付よりも、流通の価値を持つ有名ブランド品の宝飾品や貴金属の買取や仕入れ、販売などがおもな仕事になっているといわれています。
 とりわけ、地域の質屋組合が行う質流れ品の販売イベントには、毎回多くの客が訪れるようです。

 金銭を借りずに金利相当分だけ払って、古美術品などの倉庫の代わりとして利用される変わった利用方法もあります。

 私が幼いころ「質」と書いた店らしくない店のショーケースに、時計とか指輪・ネクタイ・ブラウス・ネクタイピン・カバン・麻雀パイ・ブローチなど妙な取り合わせの商品が置いてあるのが不思議でなりませんでした。
 
 そんなある時、親父が麻雀パイを買ってきました。豊かではなかったのにどうやって金の工面をしたのかと思っていたら、質流れで買ったと言っていました。
 質屋の仕事を始めて知った瞬間です。

 後日、大阪に出た私に、質流れの麻雀パイを買ってくれました。20年来、麻雀からは遠のいていますが、パイは今も押し入れに眠っています。
 「質の日」から、親父を思い出しました。

7月7日 七夕、日中不再戦の日

 今日7月7日は、「七夕の日」です。
 
 「七夕」というのは「棚機(たなばた)」の意味です。
 昔の日本では、祖先の霊が旧暦の7月15日の夜にもどって来るといわれていました。家々ではもどってきた祖先の霊に着せるための衣服を機織(はたおり)して棚に置いておく習慣がありました。
 棚(たな)に機(はた)で織った衣服を備えることから「たなばた(棚機)」という言葉が生まれました。
 
 その後、仏教が伝来すると、7月15日は仏教上の行事「盂蘭盆(盆)」となりましたので、棚機は盆の準備をする日ということになって7月7日に繰り上げられたのです。

 織姫・彦星の話はこれとはまったく関係ありません。
 中国から伝わった織女・牽牛の伝説が結び附けられ、天の川を隔てた織姫(織女星、こと座のベガ)と彦星(牽牛星、わし座のアルタイル)が年に一度の再会を許される日というのがつけ足されました。
 現在では、こちらの話の方が主流になっています。

 また7月7日は「日中不再戦の日」でもあります。「日本と中国がふたたび戦争をくりかえさない」という意味です。
  
 1937年7月7日の夜半、北京郊外の盧溝橋付近で、日本の支那駐屯軍が中国側に通告なしに夜間演習を実施していました。
 その最中の午後10時40分ごろ、数発の射撃音があり、点呼してみたら日本の2等兵1人が足りなかったのです。
 これは「中国軍の奇襲にちがいない!やられた兵士の仇を討つのだ!」という騒ぎになり、事態を重視した牟田口廉也連隊隊長は日本の主力部隊の出動を命じ、7月8日未明から中国軍を攻撃したのです。
 
 なぜ足りなかったのかというと、兵士1名が下痢のため、演習直後に草むらにかけ込んだためであり、直後に無事帰還していたことがわかりました。しかし、発砲してしまってからは後にもどれません。
 この発砲事件をきっかけに、日本軍と中国国民党軍は戦争状態に突入し、戦線が拡大していきました。
 「盧溝橋事件」(中国では七七事変)は長い日中戦争のきっかけになった事件なのです

 中国侵略をねらっていた日本は、たとえ草むらに駆け込んだ兵士がいなくても、何か別の理由をつけて戦争を拡大していたでしょう。

 「日中不再戦の日」に思うことは、日本がこの先いつまでも戦争には縁のない国であってほしいということですね。 

7月6日 サラダ記念日

 歌人の俵万智が1987年に出版した歌集『サラダ記念日』の中の一首に次の歌があります。

 「この味がいいねと君が言ったから  七月六日はサラダ記念日」

 この歌から、今日7月6日が「サラダ記念日」になりました。
 この歌集がきっかけで短歌ブームがおきました。また、「記念日」という言葉を一般に定着させた功績も大きいといわれています。

 この歌集は刊行前から話題となっていました。初版の発行部数はわずかに3000部だったにもかかわらず、出版されるや人気を博して280万部のベストセラーとなりました。

 ちなみに表題の「サラダ記念日」のほか、第32回角川短歌賞を受賞した「八月の朝」などを含む434首を収録しています。新しい現代短歌の先駆けとなり、後に続く若手の歌人たちに影響を与えました。

 俵は、元々「月刊カドカワ」の企画で注目を浴びていました。その初の歌集ということで角川書店からの出版になるはずでした。
 ところが角川書店社長の角川春樹が大反対をしたようです。俳人でもある角川春樹自身が、歌集、句集などの書籍は売れないということを経験的に知っていたためです。

 結局、河出書房から出版されたこの『サラダ記念日』はミリオンセラーとなり、角川書店はみすみすそのチャンスをのがしてしまいました。

 俵万智は、早稲田大学在学中から短歌を作り始め、神奈川県立橋本高校の教諭時代に、歌人としてデビューしました。
 日常会話で使われるカタカナ語を巧みに使い、親しみやすい歌風は多くの人々の心をつかんでいます。

 なお、「サラダ記念日」ということで、スーパーやドレッシングのメーカー等が、商品の売り上げを伸ばそうとPRを行っています。

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