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6月18日 沖縄戦でひめゆり学徒隊の悲劇

 太平洋戦争末期、日本の敗北が確定的になった中で、1945年3月24日以来、従軍して看護活動をしていた16歳~20歳の女子生徒たち(ひめゆり学徒隊・222名)の悲劇が始まりました。

 彼女らは、沖縄陸軍病院で看護活動をしていましたが、旧陸軍第1~3外科壕に部隊が移動してからも,、外科壕で看護活動を続けていました。
 しかし、6月には医薬品や食糧も底をついていました。
 病院の名に値しない状況でした。
 
 さらに戦局が絶望的になりました。
 
 1945年の今日、6月18日、ひめゆり学徒隊は突如、解散を命じられました。
 すでに沖縄のほぼ全域をアメリカ軍が支配しており、また周辺もすでに激しい砲撃にさらされていました。すでに沖縄住民が20万人は死亡していたとおわれています。
 地下壕から出ることはほとんど死を意味していました。そんなときに解散命令とは、・・・・どこにいけばいいのか。

 外科壕から脱出する直前にアメリカ軍のガス弾が打ち込まれ、兵士や学徒の多くが死亡、生還者はわずかでありました。

 このとき生き残った者も、さらに荒崎海岸に追い込まれ、自決したりしました。

 「ひめゆり部隊」の犠牲者194人のうち、「解散命令」をうけた後の死者が128人であることが示すとおり、命を守ろうとしない日本軍の無責任さが多くの犠牲者を生んだといわれています。

 戦後、戦死した女子生徒の親らによって外科壕が発見され、真和志村の人たちによって遺骨が集められました

 「ひめゆりの塔」は、この外科壕の上に建てられています。壕の中は傾斜がきつく、この中で泥や雨、砲弾にさらされながら生活していたとは、想像することができない状況だといわれています。負傷した者の助かる命も助からなかっただろうと予想できます。
 事実、陸軍病院から外科壕に移るときにも、回復の見込みのない負傷兵・学徒を置き去りにしています。外科壕に移ってから、負傷兵に原隊への復帰を命じて追い出しています。

 塔の横には「ひめゆり平和祈念資料館」が建てられています。
 生き残った女性が貴重な証言を聞かせてくれます。
  ひめゆり平和祈念資料館

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