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7月1日 弁理士の日

 今日は「弁理士の日」です。
 弁理士の前身である特許代理業者制度が発足して100周年を記念して1999年に制定されました。

 恥ずかしながら、私は「弁理士」という職業を知りませんでした。今日のブログの資料を調べていて始めて目にしました。
 調べてみると、現代の社会には欠かせない、重要な役割がわかってきました。
 
 さて、知的財産権ということばをよく聞きます。発明者の汗と努力の結晶として生まれたものが知的財産権です。
 日本では知的財産権のうち産業の発展との関連性の高い4つの「産業財産権」を保護しています。
 
 4つの「産業財産権」とは特許権、実用新案権、意匠権、商標権です。
 特許権は発明、実用新案権は考案、意匠権はデザイン、商標権はトレードマークやサービスマークを保護します。

 このうち特許権、実用新案権は、発明、考案、デザインを秘密にせずに社会に公表する代償として期間を限って与えられる独占権で、盗用、模倣から発明者等を保護しています。
 また研究開発の重複を防ぎ、他の研究を刺激したり促進させています。

 現代の世界で産業財産権制度なくして発展している国はありません。それほど大切な制度なのです。
 
 過去にもたくさんの発明や改良があり、現在も、MD、DVD、コンピュータ、携帯電話、デジタルカメラ、デジタルテレビなどが産業財産権で保護されて、続々と登場し話題を集めています。
 これからもどんどん産業財産権は蓄積されていくにちがいありません。

 もし、私が何か発明した場合、特許庁への出願、そして登録を経なければ独占権が付与されませんので、かならず特許庁に登録申請しなければなりません。
 登録申請は自分一人でもできるのですが、やはり不安です。
 そんなときに、この特許の権利化のために、法律に暗い私に力を貸してくれるのが、法律と専門技術に精通した弁理士なのです。

 ようするに、「弁理士」は知的財産制度の専門家ですね。

6月30日 雪印集団食中毒事件

 2000年の今日は、雪印乳業大阪工場で製造した加工乳を飲んだ人が嘔吐や下痢などの集団食中毒の異状を訴えた日です。 
 今日から7月にかけて集団食中毒で発症した人が14,348人にのぼり、戦後最大の集団食中毒事件となりました。

 被害は大阪府、和歌山県など15府県に広がりました。

 原因は、大阪工場で生産された低脂肪乳の原料となる脱脂粉乳が原因でした。この脱脂粉乳は北海道の大樹工場でつくられていました。
 大樹工場の生産設備で停電が発生したとき、病原性黄色ブドウ球菌が増殖して発生した毒素が混入していたことが原因と推定されました。

 同時に大阪工場において、原材料を再利用するとき、不衛生な取り扱いをしていたことも調査であきらかになりました。 
 このため、雪印乳業のグループ各社への批判が高まり、全生産工場の操業が全面的に停止する事態にもなりました。
 スーパーなど小売店から雪印乳業グループ商品が全品撤去され、ブランドイメージも急激に低下しました。
 私は「雪印ブランド」を全面信用していて、毎日、「雪印牛乳」をたっぷり飲んでいました。

 また、報道陣に事件を追及された当時の社長と報道陣とのやりとりが、映像を通じて広く配信されました。
 このやりとりは社長の失言とされ、多くの国民からの信用失墜に拍車をかけました。

 また、乳業以外の食品メーカーでも衛生管理をめぐる不祥事が明るみにされました。トマトジュースなどをはじめとした食品への異物混入騒ぎなど、食品業界全体に大きな影響を与えました。
 
 8年前の衛生管理をめぐるこの種の事件は、2008年の今も後をたちません。次から次へと「あの会社もか!」「この会社もか!」と不正が発覚せています。

 大阪の船場吉兆などは最低です。人の食べ残しを回して再利用してるんですから。雪印食品、北海道のミートホープ、岐阜の丸明、、赤福、不二家・・・・・・どこもひどいもんです。
 中国食品の安全性も心配ですが、日本でも「利潤」を最優先している「儲け主義」の経営者のもとでは、これからも「不正発覚」のニュース報道は続くでしょう。

 ごまかしきれると思って、今現在も不正を隠している会社があると思いますか。
 私は「ナイ!」と断言したいのですが自信はありません。

 残念ですが、それほど食品業界のモラルが低下しているということです。

6月29日 佃煮の日

 今日は「佃煮の日」になっています。
 佃煮とは、東京都中央区佃島が発祥とされる海産物の煮物のことです。

 佃島は、1590年8月1日、徳川家康が関東に下るにあたって、摂津国(大阪府)佃島 (現:西淀川区佃)の漁夫33人が江戸に移りました。
 1645年には現在の地に土地を埋め立てて、永住することになり、この島を故郷にちなんで佃嶋と命名しました。

 永住して漁業に従事するにあたり、漁の安全を祈願するために大阪の住吉神社の流れをむ田蓑神社を分身し、正保3年(1646年)の6月29日に江戸の住吉神社として遷座させました。
 この6月29日が今では「佃煮の日」になっています。

 このときも、豊富な魚貝を献上するかたわら、あふれる魚貝の有効利用するために作られていた佃煮をお供えしたことでしょう。
 当時は塩だけで煮込んだのでさぞ白っぽかったようです。

 やがて小魚、アサリなどの貝類、昆布等の海藻類、山地ではイナゴ昆虫類などを醤油と砂糖で甘辛く煮詰めたものにしだいに変わっていきました。
 現在では牛肉の佃煮も目にするようになりました。ふき、ごぼうなどの根菜類の佃煮もあります。

 ご飯と一緒に食べるとおいしくて、一膳余分に食べてしまいますね。(だから太るんですよ。) 

 そもそも佃島の人々はなぜこのような煮物を作り始めたのでしょう。
 もともとは小さすぎて出荷できない魚を漁民が自家用に保存食としたものです。濃い味付けのために保存性が高まりました。
 本来の佃煮は、冷蔵庫や真空包装のない時代に、常温で夏でもおにぎりや弁当に入れても傷まない辛口のものが安心で重宝されたのです。
 参勤交代の武士や旅人が、江戸からの土産物として持ち帰ったため広まったといわれています。

 なお、余り物を使った保存用の食品であったことから、物がありあまって、もてあますさまを「佃煮にするほど・・・・」などと表現したりすることがあります。

6月28日 雨の特異日

 今日6月28日は「雨の特異日」になっています。雨が降る確率が高い日ということです。
 
 特異日とは、気象学的な理由は不明ですが、統計上、その日には特定の天気があらわれる傾向が強いということです。
 特異日は日本だけでなく外国でも認められております。

 日本(おもに東京)の特異日には、次の日があります。
  1月16日 - 晴れの特異日。
  3月14日 - 晴れの特異日。
  3月30日 - 雨の特異日。
  4月6日 - 寒の戻りの特異日。
  6月1日 - 晴れの特異日。
  6月28日 - 雨の特異日。東京では53%の確率で雨が降ります。
  8月18日 - 猛暑の特異日。
  9月17日 - 台風襲来の特異日。統計上、台風が日本列島に上陸する回数が多い。
  9月26日 - 台風襲来の特異日。統計上、台風が日本列島に上陸する回数が多い。
  10月10日 - かつては東京の晴れの特異日でした。
         1964年の東京オリンピッ クの開会式の日に選ばれました。
  11月3日 - 晴れの特異日

 特異日も変化しています。特異日は固定されたものではありません。
 長周期の変動が見られるものも多いです。
 
 たとえば、「晴れの特異日」とされている文化の日(11月3日)は、戦前は確かに晴天の回数が多く、「晴れの特異日」でありましたが、1950年代から1960年代初めにかけてはしばしば雨になり、気象学関係者の間では特異日からはずす意見もありました。
 その後持ち直し、晴れることが多くなっています。

 また「台風の特異日」である9月26日は、1950年代は極めて明瞭で、洞爺丸台風・狩野川台風・伊勢湾台風のような顕著なものだけでなく、台風の接近・上陸が多い日でした。(私は、名古屋で伊勢湾台風に襲われましたから、この日はよく覚えています)
 しかし、1960年代からその傾向は弱まり始め、特異日の資格を失っているようです。

 こうした変動の理由は、特異日の発生原因が不明であることと関連して、まだはっきりしていません。幾つか仮説は立てられています。

 その一つに、地球外に原因を求めるものがあります。すい星とか太陽とか・・・・。
 一方、特異日には直接的な原因は存在せず、単なる偶然であるともいわれています。

 実際、今日の天気は、梅雨前線が北上して、西日本から東日本へと全国的に雨になるだろうと予報されています。
 たしかに「雨の特異日」の面目躍如というところですが、私は「単なる偶然」を支持したいと思います。

6月27日 奇跡の人ヘレン・ケラーが生まれた

 「希望は人を成功に導く信仰である。希望がなければ何事も成就するものではない」・・・目が見えない、耳が聞こえない、口がきけないという三重苦を背負ったヘレン・ケラーが、1880年の今日、アメリカ・アラバマ州で生まれました。

 ヘレンケラーは美しい田園住宅ですくすくと育ち、生後6カ月目には早くも片言ながら「こんにちは」をいい、1歳の誕生日にはヨチヨチ歩き出すほどの成長ぶりだったといいます。

 ところが1歳9カ月目に、原因不明の高熱と腹痛におそわれました。
 医師の努力で辛うじて一命だけはとりとめましたが、耳と目をおかされ、光と音の世界を完全に失ってしまいました。
 しかし、
両親はヘレンの教育には決して希望を捨てませんでした。

 私は、中学校時代の国語の教科書に、ヘレン・ケラーとサリバン先生との出会いが載っていました。サリバン先生がヘレンの手を水につけて「ウォーター、ウォーター」と指文字で教えている場面を覚えています。

 さて、ヘレンの能力もすばらしいですが、50年もの長きにわたってヘレンを「奇跡の人」に育てあげたサリバン先生もすばらしい女性でした。
 先生は瞬時もヘレンの側を離れず、ヘレンの目となり、口となり、耳となって、考え方を教え、学問・芸術を授け、科学を伝えました。

 私は、ヘレンケラーが自分の声で講演することができたことにたいへん驚きました。
 自分の声で話をするためには発音ができなくてはなりません。ヘレンはサリバン先生の口の中に指を突っ込んで舌の動きで発音を覚えていきました。指を突っ込まれたサリバン先生は何度も嘔吐したことがあったそうです。
 
 こうして矯正されながら発音を覚えていきました。
 ヘレンは声に出して話しますが、ヘレンには自分の声は何一つ聞こえてはいないのです。これがどんなに困難なことか、自分の耳をふさいでしゃべってみればすぐにわかります。

 ヘレンは盲ろうあ者として世界で始めて大学を卒業したあと、「わが生涯」を発表し、社会福祉活動に力を入れました。3度、来日しています。
 1968年6月1日、死去。87歳没。
 

 日本ヘレンケラー財団(ヘレンケラー物語)

6月26日 露天風呂の日

 今日は、「露天風呂の日」です。「ろ(6)てん(.)ぶ(2)ろ(6)」の語呂合わせです。
 岡山県湯原町うるおいあるまちづくり委員会が1987(昭和62)年に制定しました。

 「露天風呂の日」を制定した湯原温泉は、岡山県の北部の真庭市(旧:湯原町)にあります。
 鳥取県との県境に近いところにあって、諸国露天風呂番付で西の横綱にランクされた「砂湯」で知られています。
 湯郷温泉、奥津温泉とともに美作三湯に数えられています。

 「砂湯」とは、湯原温泉を代表する名所で湯原ダムの下にある巨大な共同露天風呂のことです。
 川底から砂を噴きながら温泉が湧いていることから砂噴き湯(砂湯)の名称で呼ばれるようになりました。足下噴出源泉露天風呂です。
 川の中にあるお風呂ですが住民により管理され無料で開放されています。

 この砂湯は湯原温泉の古代からのお風呂のようすを唯一残すもので、市の文化財として指定されています。
 なお、砂湯は、混浴ですので女性は入浴しづらいようです。そのため女性にも入浴してもらえるようにと、2km下流の下湯原温泉に男女別の有料露天風呂が設けられました。

 また、ここにはペット専用(犬猫)の露天風呂もあるそうです。

 湯原温泉では、温泉は自然環境の恵みであるという視点から湯原町旅館協同組合が中心になって環境問題にも取り組んでいます。
 
 川の水質悪化の原因の一つである廃食用油があります。
 湯原町では、温泉が湧き出る川の水質悪化を防ぐために、宿泊施設、飲食店、一般家庭の廃食用油を回収して、宿泊施設や市のコミュニティーバスのバイオディーゼル燃料にリサイクルする活動を行っています。
 特に民間レベルで行っている点で全国の先駆的な地域となっています。

6月25日 琴の宮城道雄が事故死

 1956年6月25日未明、箏曲の第1人者であった宮城道雄が、大阪公演へ向かう途中、愛知県の刈谷駅付近で夜行急行列車「銀河」から転落して死亡しました。
 
 現在でも事故か自殺か、真相は不明のままです。当時の急行「銀河」は列車だったので、乗降口の開閉は自由にできる仕組みでした)

 宮城道雄は生後200日で目の病気をわずらい、また、4歳のころには生母と生き別れ、祖母のミネに育てられました。8歳で失明を宣告されました。
 
 11歳で生田流箏曲の免許皆伝となり、13歳のとき一家で朝鮮へ渡り、箏と尺八を教えて家計を助け、14歳で第一作の箏曲「水の変態」を書き上げています。
 
 その後、作品発表会を開催して作曲家としてデビューし、自作や古典曲の演奏を行う一方、古典楽器の改良や新楽器の開発を行いました。
 
 昭和4年に発表した名曲「春の海」は、フランス人女流ヴァイオリニスト、ルネ・シュメーと競演され、世界的な評価を得ることになりました。今もデパートやショッピングモールなどでもよく流されています。

 また、その曲風に西洋音楽の息吹を感じられます。それは幼少の頃、神戸のレコード屋の前で熱心に立ち聞きして覚えた旋律にあると言われています。

 さて、私の母が琴の師範の資格を持っていましたので、家で琴の練習をよくしていました。
 小学生のころには演奏会に連れて行かれたことがありました。名古屋の八事の会場でおこなわれたときのことをよく覚えています。
 
 私ら兄弟も遊び半分で母から琴を習いました。私は「さくら」「青い目の人形」のほか、「六段」のほんのさわりの部分など今もなんとなく覚えています。
 
 私の結婚式では、母と「青い目の人形」を合奏しました。そのときの大きな琴は、大阪の式場へ兄姉たちが新幹線で運んでくれました。(合奏はまったく下手でした)

 このように琴の音色を聞いて育っていたため、お正月などに箏曲が流れてくると、心からなつかしい気持ちにひたります。「琴っていい音してるなあ」とつくづく思います。
 
 こういう環境でしたので、私はまだ小学生でしたが、宮城道雄が事故死したときのニュースはおぼろげに頭に残っています。
 今日、宮城道雄を取り上げたのも、古い記憶があったからです。

 なお、命日の本日6月25日は遺作の歌曲にちなみ、「浜木綿忌」と呼ばれています。

6月24日 UFO記念日

 1947年のこの日は、UFOが始めて目撃されたといわれている日です。UFOライブラリーが「UFOの日」として制定しました。

 この日、自家用機で旅行中のアメリカの実業家ケネス・アーノルドが、時速2700kmもの速度で急降下や急上昇を行っている9機の見慣れない飛行物体を発見しました。

 アーノルドはこの物体を「空飛ぶ円盤(flying saucer)」と名付けました。これがUFO最初の目撃とされ、全米で報道されました。
 すると同様の目撃証言が相次ぎました。

 事態を重視したアメリカ空軍が、この飛行物体を「UFO(Unidentified Flying Object」(:未確認飛行物体)と名づけ、調査に乗り出しましたが、正体はつかめませんでした。
 結局、1969年に「目の錯覚の類」との報告を出しました。

 一方、この日、UFOの実在を世界中のUFOマニアがこぞって観測を行うことになっています。

 UFOがの正体がはっきりしていないため不明な面もありますが、目撃された例が世界各地であるというのは事実であります。
 私だけなら「目の錯覚」かもしれませんが・・・・。

 「UFOなんて元々ない」とは断言できないようにおもえます。円盤とかの「物体」では無いかもしれませんが、気象の現象の可能性もあるのではないでしょうか。

 ぜひ、科学的に解明してほしいと思います。

6月23日 詩人・三木露風が生まれた

 1889年の今日は、大正・昭和の詩人である三木露風が生まれた日です。三木露風は兵庫県揖西郡龍野町(前・龍野市、現たつの市)の生まれです。

 中学生時代から詩や俳句・短歌を新聞や雑誌に寄稿していた文学青年でした。
 17歳で処女詩集を出版し、20歳で代表作の『廃園』を出版するなど早熟の天才であり、北原白秋とともに注目されました。

 1918年ごろから鈴木三重吉の赤い鳥運動に参加して童謡を手掛けるようになりました。
 1921年には、童謡集『真珠島』を出版しました。この中の「赤とんぼ」は山田耕筰によって作曲され、広く知られている三木露風の代表作です。

 個人的には、この「赤とんぼ」は高校時代から25歳ぐらいまでの時期にほんとうによく歌っていました。高校や大学のサークルやピクニックのときにはかならず歌いました。
 今も歌が頭の中を通り抜けて行きました。

 夕焼小焼の、赤とんぼ 負われて見たのは、いつの日か 
 山の畑の、桑の実を 小籠に摘んだは、まぼろしか
 十五で姐やは、嫁に行き お里のたよりも、絶えはてた
 夕焼小焼の、赤とんぼ とまっているよ、竿の先

 実にじーんとくる歌詞です。

 1964年12月21日にタクシーにはねられ、同月29日に脳内出血のため死去しました。享年75でした。

 出身地の龍野市では1985年から「三木露風賞・新しい童謡コンクール」を毎年開催しています。現在はコンクールの運営はたつの市に引き継がれています。

6月21日 夏至

 今日は夏至(げし)です。夏至は、二十四節気の1つです。
 
 二十四節気が成立するのに先立って、「二至(冬至と夏至)」・「二分(春分と秋分)」がまず考えられたようです。
 その後に二至二分の間に「立春・立夏・立秋・立冬」が配置されて加えられ、合計八節ができたと考えられています。二十四節気はこれを更に細分化したものです。
 夏至というのは、重要な季節の転換点だったのです。

 科学的に説明すると、太陽黄経が90度のときで、太陽が最も北(北回帰線の真上)に来るためにおこる現象です。北半球では一年中で一番昼が長くなり、夜が短くなる日のことです。
 北極圏では白夜の真っ只中ですが、その範囲が最大に広がる日でもあります。南極では夜ばかりの極夜になっています。
 
 たしかに1年でもっとも昼の時間が長くなる日ですが、実際には日本の場合、夏至の時期は梅雨の真っ只中なので、現実の日照時間は冬よりも短くなることが多いようです。

 「夏至」とは、この日を過ぎると本格的な夏が始まると意味です。
冬至にかぼちゃを食べるように、この日も何かを食べる習慣がありますが、何を食べるかは地方によってまちまちです。
 たとえば関西地方では、タコの八本足のようにイネが深く根を張ることを祈願してタコを食べます。
 また、夏至の日に無花果田楽(いちじくでんがく)を食べる風習がある地域もあります。

 昔から、各地で太陽の生命力を得るために夏至の日を祝うお祭りが開催されるようになりました。
 また、2003年から、夏至の日は昼の時間が長いので「電気を消してスローな夜を」というタイトルで節電を呼びかけるイベントが各地で行われています。

6月20日 相沢忠洋(岩宿遺跡を発見)が生まれた

 現在の中学生の歴史教科書で、日本の歴史の始まりは旧石器時代としています。
 日本の旧石器時代は約10万年前のことです。縄文時代よりも古い時代です。

 旧石器時代の一番の特徴は、当時の人類が打製石器を作って使っていたかどうかということです。日本では打製石器が発見されていなかったので、学界では日本には旧石器時代はなかったとされていました。

 1949年の夏、納豆の行商をしながら独学で考古学の研究を行っていた相沢忠洋が岩宿(群馬県)の関東ローム層(赤土)の中から、明らかに人類の手が入っていると認められる槍先形石器を発見しました。
 (相沢は1946年に岩宿の切り通し関東ローム層の露頭した断面から、細石器に酷似した石片を発見していました。ただし、旧石器と断定するまでには至らず、確実な旧石器を採取するため、相沢は岩宿での発掘を独自に続けていた最中でした。)

 今日6月20日は、その相沢忠洋が誕生した日です。
 相沢は尋常夜学校が最終学歴ですが、考古学に深い興味を持った青年で、考古学研究の時間が取りやすいために納豆の行商をしていました。

 相沢は生涯の師となる芹沢長介に相談し、芹沢からの連絡を受けた明治大学助教授杉原荘介(当時)のもとで岩宿の発掘調査がおこなわれました。
 その結果、旧石器(打製石器)が確認され、日本における旧石器時代の存在も同時に証明されることとなりました。
 
 歴史の定説をくつがえす大発見でした。

 しかし、驚くべきことは、当時この重大な発見について、相沢の功績はいっさい無視され、明治大学や学界やマスコミでは旧石器時代を発見したのはすべて杉原荘介の功績とされたのです。
 
 さらに相沢に対して売名行為・詐欺師などと、事実に反する誹謗・中傷が加えられました。「行商風情が・・」などと蔑視して、彼の功績を否定しました。
  
  しかし相沢の考古学への情熱は冷めることはありませんでした。地道な研究活動を続け、数多くの旧石器遺跡を発見しています。
 こうした中でしだいに相沢への不当な批判は消えていきました。
 1961年には群馬県から表彰され、1967年に吉川英治賞を受賞しました。
 
 現在では日本の旧石器時代の存在を発見した考古学者として正当な評価がなされています。
 相沢忠洋記念館のホームページ

6月19日 理化学研究所の創設

 1917年の今日、理化学研究所(理研)が、わが国で初めての基礎および応用研究を行う機関として、東京都文京区本駒込に設立されました。

 この研究所の創設を提唱したのはタカジアスターゼの発明者である高峰譲吉でした。財界の重鎮・渋沢栄一がこれに賛同して、ときの内閣総理大臣・大隈重信が決定を下しました。

 この研究所からは鈴木梅太郎、寺田寅彦、中谷宇吉郎、長岡半太郎、池田菊苗、本多光太郎、湯川秀樹、朝永振一郎、仁科芳雄らのそうそうたる顔ぶれの科学者を輩出しています。

 1958年に「理化学研究所法」にもとづく特殊法人になり、1957年から1966年の10年間もかけて、現在の埼玉県和光市に移転しました。また、国の内外に各種の研究拠点を設置しています。

 2003年からは独立行政法人となっています。
 私にはあまりなじみのない研究所ですが、日本の科学研究の第一線級の組織で、無くてはならない研究所だと実感しました。

6月18日 沖縄戦でひめゆり学徒隊の悲劇

 太平洋戦争末期、日本の敗北が確定的になった中で、1945年3月24日以来、従軍して看護活動をしていた16歳~20歳の女子生徒たち(ひめゆり学徒隊・222名)の悲劇が始まりました。

 彼女らは、沖縄陸軍病院で看護活動をしていましたが、旧陸軍第1~3外科壕に部隊が移動してからも,、外科壕で看護活動を続けていました。
 しかし、6月には医薬品や食糧も底をついていました。
 病院の名に値しない状況でした。
 
 さらに戦局が絶望的になりました。
 
 1945年の今日、6月18日、ひめゆり学徒隊は突如、解散を命じられました。
 すでに沖縄のほぼ全域をアメリカ軍が支配しており、また周辺もすでに激しい砲撃にさらされていました。すでに沖縄住民が20万人は死亡していたとおわれています。
 地下壕から出ることはほとんど死を意味していました。そんなときに解散命令とは、・・・・どこにいけばいいのか。

 外科壕から脱出する直前にアメリカ軍のガス弾が打ち込まれ、兵士や学徒の多くが死亡、生還者はわずかでありました。

 このとき生き残った者も、さらに荒崎海岸に追い込まれ、自決したりしました。

 「ひめゆり部隊」の犠牲者194人のうち、「解散命令」をうけた後の死者が128人であることが示すとおり、命を守ろうとしない日本軍の無責任さが多くの犠牲者を生んだといわれています。

 戦後、戦死した女子生徒の親らによって外科壕が発見され、真和志村の人たちによって遺骨が集められました

 「ひめゆりの塔」は、この外科壕の上に建てられています。壕の中は傾斜がきつく、この中で泥や雨、砲弾にさらされながら生活していたとは、想像することができない状況だといわれています。負傷した者の助かる命も助からなかっただろうと予想できます。
 事実、陸軍病院から外科壕に移るときにも、回復の見込みのない負傷兵・学徒を置き去りにしています。外科壕に移ってから、負傷兵に原隊への復帰を命じて追い出しています。

 塔の横には「ひめゆり平和祈念資料館」が建てられています。
 生き残った女性が貴重な証言を聞かせてくれます。
  ひめゆり平和祈念資料館

6月17日 世阿弥「初心、忘れるべからず」

 今日は、室町時代の能役者で能作者でもある世阿弥が81歳で没した日です。
 
 能には興味がない方でも、「観阿弥・世阿弥」といえばどこかで聞いたことはありませんか。観阿弥は世阿弥の父です。
 ところで、世阿弥は優れた能楽論書を残しています。最も有名なのは「風姿花伝」(花伝書)です。

 また、「初心忘れるべからず」という有名な言葉が「花鏡」に書かれています。

 「成功したり、上達した人が、物事を始めたばかりの未熟でひたむきな時期の気持ちを忘れてはいけない」という意味です。
 つまり「初心者」だったときの気持ちを忘れないように、謙虚な気持ちを持ち続けることの大切さを教えていると思います。

 しかし、多くの若者には、決めた目標や計画を最後までやり遂げるまで忘れてはとならないいう意味で理解されているようです。
 「初志貫徹」と混同して使われています。

 「初心に返る」というのも、「初心忘れるべからず」と同じく慢心を戒める意味を持っていますね。、

 「初心忘れるべからず」・・・・・いい言葉ですね。 

6月15日 ネス湖のネッシーが目撃された

 1938年の今日は、ウォドロウ夫妻がネス湖に船を浮かべていたところ、約100m先の水面を怪獣があらわれ、猛スピードで走り去っていったのを目撃した日です。

 いつの日からか、ネス湖に怪獣が住んでいるという噂がたっていました。1000年以上昔から、目撃したとの記録があります。西暦600年頃の「聖コロンバの生涯」という本です。
 
 「コロンバとその一行は、ネス湖に訪れ、葬式をしていた人たちの姿を目にし、地元の人間が巨大な生物に襲われて食い殺されたという話を耳にした。コロンバは、従者を向こう岸まで渡らせることにし、従者が恐る恐る湖に入っていくと、巨大なカエルのような生物が現れたので、コロンバは、手で十字架を形どり、「止まれ!すぐに立ち去れ!」と言うと、その巨大生物はすぐに姿を消したという。」(「聖コロンバの生涯」)

 ネス湖に住むから「ネッシー」と名付けられた未確認生物は、数々の目撃証言や写真があります。にもかかわらず、正体を特定する決定打がないまま時間が過ぎてきました。

 目撃の写真の中には、あきらかにねつ造されたものと判明した事例もあります。その一つが1934年に撮影された写真で、真相は「潜水艦の模型を撮影したもの」でした。

 さて、私が感じていたことをもっと詳しく解説しているサイトがありました。時間があればどうぞ。ネス湖のネッシー(スミマセン。無断リンクです)

 ネッシーが大昔の恐竜だとすると・・・・
 ネッシーの一族は数が少ないようだ、1匹や2匹、いやたった10匹でも数億年もの間にわたって子孫を残せるのか。
 それとも寿命が桁違いに長いのか、死骸が見つからないのはなぜだ、数百年も死んでいないからか。
 何を食べているんだろう、普通ならネス湖の食料がなくなってしまうはずなのに、ネッシーをみたという漁民がいることは魚がいる証拠だ。
 恐竜だったとしたら陸に上がらないのかな。
 なぜ恐竜が逃げていく写真が多いのだろう・・・・私はずっとこんなふうに考えていました。

 さきほどのホームページでは、「ネッシーは脊椎動物ではない」と断言していました。私は「なるほど」と思いました。ネッシーの骨が見つからないのですから。
 脊椎動物ではないなら、突然変異で巨大化したグロテスクな無脊椎動物ということになりますが、気色悪いですね。

 真実は知りたいけど、正体がわかるより、ネッシーの愛称で親しまれているままの方がいいのかもしれませんね。
 
 日本の池田湖には「イッシー」と名付けられた巨大生物がいるといわれていますが、正体は2mにも成長したウナギという説が有力だそうですよ。 

6月14日 オリンピックマークが制定された

今日は、オリンピックマークが制定された日です。

 オリンピックマークは青・黄・黒・緑・赤の5色をリングでつないだ形になっています。
 これは世界5大陸(ヨーロッパ、南北アメリカ、アフリカ、アジア、オセアニア)とその相互の結合、連帯を意味しています。
 何色がどの大陸をさしているということはありません。
 
 このマークは、IOC設立20周年記念式典で発表されました。初めて旗が掲揚されたのは1920年のアントワープオリンピック(ベルギー)からです。
 この大会からはオリンピック宣誓が始められました。

 このデザインを思いついたのはオリンピックの父といわれているクーベルタン男爵です。

 彼は、ギリシャの歴史書のオリュンピアの祭典の記述に感銘を受けて、近代オリンピックを提唱しました。そして賛同者によって国際オリンピック委員会 (IOC) を設立し、1896年第1回アテネオリンピックの開催を実現しました。

 「オリンピックは、参加することに意義がある。」という名言を残しています。

6月13日 鉄人の日

 1987年の今日、プロ野球広島カープの「鉄人」とよばれた衣笠祥雄選手が、2131試合連続出場の世界記録を作りました。

 1970年10月19日の読売ジャイアンツ戦から始まった連続試合出場記録は、1987年6月13日の対中日ドラゴンズ戦で2131試合に到達しました。
 この日、それまでルー・ゲーリッグ(ニューヨーク・ヤンキース)が保持していた世界記録を更新し、それ以降10月22日の引退まで、2215試合連続出場を果たしています。
 同年、国民栄誉賞が授与されました。
 
 さて、広島カープのファンは衣笠選手に「鉄人」というニックネームをつけました。
 なぜ「鉄人」なのでしょう。
 たしかに衣笠選手は鉄のような頑丈な飛び抜けた頑丈な体の持ち主でしたが、「鉄人」のニックネームの謎は、横山光輝のマンガにありました。
 「鉄人28号」です。
 衣笠選手のはじめの背番号が28番だったのです。(後に3番になります)

 衣笠選手は京都府・平安高校出身で、第36回選抜高等学校野球大会(春のセンバツ)、第46回全国高等学校野球選手権大会(夏の甲子園)に捕手として出場しています。
 いずれもベスト8の成績を残しています。
 
 翌年、広島カープに入団しました。監督の方針で内野手に転向し、一塁手のレギュラーに定着しました。後には三塁手にコンバートされて三塁手になりました。
 1975年、5番打者として4番の山本浩二と共にクリーンナップの一翼を担い、球団初のセントラル・リーグ制覇に大きく貢献しました。

 その後も赤ヘルの主砲として、1984年のチームのリーグ優勝・日本選手権シリーズ制覇に貢献し、最優秀選手にも輝きました。
 1970年代後半から 1980年代の広島カープ黄金時代を築き上げる原動力となった選手の一人です。

 私は、プロ野球はのめり込むほど熱心ではありませんが、広島カープの山本浩二はよく知っていましたが、衣笠祥雄の影は、私の中では薄いものでした。

 ところが、衣笠選手の成績がすばらしいことを知りました。
 連続試合出場記録2215(現在は世界第2位、アメリカのカル・リプケンjrが記録更新)
 通算安打2543本(歴代5位)
 通算本塁打504本(歴代7位)
 通算打点1448(歴代10位)
 通算得点1372(歴代5位)
 さらに盗塁王になった年もあります。

 長期にわたって安定した高い打撃成績を残しており、史上屈指の強打者であったことがわかりました。

 なお、1996年に野球殿堂入りしています。

6月12日 日記の日

 今日は、1942(昭和17)年、ユダヤ人の少女アンネ・フランクによって「アンネの日記」が書き始められた日です。
 したがって、「日記の日」に制定されました。

 アンネの家族は、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害を逃れて、オランダのアムステルダムの隠れ家に身を隠していました。
 日記帳は隠れ家に入る少し前の13歳の誕生日に父から贈られたものでした。

 「アンネの日記」はナチスの追及をかわして、隠れ家に潜んでいたときの8人のユダヤ人たちの生活を描写したものです。
 日記は、密告(密告者の詳細はいまだ不明)により、1944年8月1日にドイツ秘密警察に捕まるまでのおよそ2年間に及んでいます。
 
 アンネはこのあと、現在のポーランドにつくられていた悪名高いナチスのアウシュビッツ強制収容所に送られました。
 そして、1945(昭和20)年3月31日にドイツのベルゲン・ベルゼン強制収容所で病死しています。

 彼女の死後、父オットー・フランクの尽力によって「アンネの日記」として出版され、世界的ベストセラーになりました。

 
 さて、何か実行するとき、きっかけが必要な私ですが、「日記の日」にあたり、日記を書こうかという気にはどうしてもなりませんでした。
 続かないことに自信?があるからです。

 逆に、毎日、日記をつけている方を心から尊敬してやみません。

6月11日 ハワイ初代国王カメハメハが誕生

 1758年の今日はハワイ諸島を始めて統一し、1810年にハワイ王国を建国した大王「カメハメハ1世」が生まれた日です。

 「カ・メハメハ」というのが正しく、「孤独な人」「静かな人」という意味です。
 日本では童謡「南の島のハメハメハ大王」の題材になったり、ダービー馬「キングカメハメハ」に名付けられたり、愛着を感じさせる有名な名前です。

 「カメハメハ1世」は、イギリスから武器を購入して、マウイ島などのハワイ島周辺の島々を征服していきました。このころ、ハワイ島内の政敵は火山の噴火の被害のために壊滅状態になっていました。これが彼の統一事業にプラスに働き、統一を達成することができました。
 18世紀末までにはカウアイ島・ニイハウ島を除く全地域を支配下におさめ、1810年には、この2島も「カメハメハ1世」に服属して国家統一をなしとげました。

 「カメハメハ1世」は外交手腕に優れていました。
 西洋諸国との友好関係を維持してハワイの独立を守り、伝統的なハワイの文化の保護と繁栄に貢献しました。
 また彼が作ったママラホエとよばれる法律は、戦時における非戦闘員の人権を保護するものであり、今日では世界中で受け入れられている先駆的なものでした。

 カメハメハ王は5世まで続きましたが、やがて途絶えました。そして選挙で国王が選ばれる時代を迎えました。

 アメリカと関連の深いサトウキビをあつかう業者らが、アメリカ寄りの政権を打ち立てるため、国王の政権の転覆を計画しました。
 アメリカ軍艦が、転覆計画の首謀者ドールとサーストンを保護する名目でホノルルに到着し、国王(女王)を幽閉しました。
 ドールは臨時政府を打ち立て、王政の廃止を宣言しました。
 (アメリカが他国を侵略する手段は昔も今も同じですね)
 
 その後、1898年、アメリカの準州の地位になりました。
 このとき、イオラニ宮殿に掲げられていたハワイ王国国旗が降ろされ、星条旗が揚げられました。古来のハワイ住民は悲しみの声をあげたということです。

 こうして、「カメハメハ」のハワイは終わりました。

6月10日 時の記念日

 今日6月10日は「時の記念日」です。

 1920年に東京天文台と生活改善同盟会によって制定されました。
 日本国民に「時間をきちんと守り、欧米並みに生活の改善・合理化を図ろう」と呼びかけ、時間の大切さを尊重する意識を広めるために設けられたといわれています。

 なぜ、6月10日が選ばれたかというと、「日本書紀」に「天智天皇の時代の西暦671年6月10日(旧暦4月25日))に、日本初の時計が鐘を打った」ことが書いてあるからです。     なお、「漏尅」すなわち「漏刻(ろうこく)」とは水時計のことです。

 もっとも、日本書紀によれば漏刻は、もっと以前にすでに設置されていました。しかし、その日付が不明であるため、日付の明確な天智天皇10年の方が「時の記念日」に採用されています。

 だいたいの目安しかはかれない日時計に比べて、水時計は正確な時刻をはかることができるものとして重く用いられて来ました。
 その発明は古く、紀元前の16世紀(今から3600年前)には、エジプトですでに使用されていたという記録が残っています。

 この水時計の管理をしていたのは漏刻博士たちです。
 二人で交替で水量をチェックして鐘や太鼓で時報を告げていました。たいへん重要な役目です。居眠りなどできません。もし居眠りしたり遅刻した場合は出勤停止や罷免など、たいへん厳しい罰があったようです。

 なお、この当時使用されていた時刻は、私たちが現在も使用しているような、夏でも冬でも一定の時を刻む定時法というものです。
 ちなみに、江戸時代は不定時法といって、日の出と日没の間を等分したものです。現在は使われていません。

 何はさておき、時間にルーズな人は、「時の記念日」をきっかけにあらためることが大切ですね。私を筆頭に!

6月9日 ドナルド・ダックの誕生日 

 今日は、ディズニーのあひるのキャラクター「ドナルド・ダック」が1934年に初登場した日です。「ドナルド・ダック」の誕生日とされています。
 
 初出演した作品では脇役としての登場でしたが、その独特なキャラクターからすぐさま支持を集め、同年短編映画であるミッキーマウス・シリーズの「ミッキーの芝居見物」に登場してミッキーマウスと競演を果たしています。

 それ以降、ドナルドダック・シリーズの製作が始まるなど短編出演作品は170本以上を数え、ミッキーマウスを上回っており、ディズニーキャラクターの中でも特に人気が高い存在となっています。

 釣りを好み、人をからかうことが好きで、これでもかというぐらいにイラズラや悪さをつぎつぎ考えます。
ディズニーキャラクターの中でもっとも喜怒哀楽が激しく短気で、自己中心的です。
 しかもとても騙されやすい面をもっています。ということは気のいいところもあるんでしょう。ですから、ひどい目に遭って終わるオチが多くあります。
 口調はかなりの毒舌ですね。

 服装は、上半身だけのセーラー服にセーラー帽、これは水兵をイメージしています。服につけていたボタンは、現在では蝶ネクタイへ変わっていますが、それ以外はあまり変わってはいません

 ライバルは、チップとデール。お互いにイタズラでは負けていませんから、アニメを見ていると飽きません。おもしろいです。
 トムとジェリーのような追っかけあいの泥仕合をこれでもかというぐらいにくりひろげます。
 私は、孫から要求されてレンタルで「チップとデール」を借りてきていっしょに見ることがありますが、大人も楽しめますよ。

6月8日 「方丈記」の鴨長明死去

 「方丈記」は、鴨長明によって書かれた日本の中世文学の代表的な随筆です。その鴨長明が1216年の今日、死去しました。

 晩年、日野山に方丈(3m四方、今の4畳半)の庵を結んだことから、随筆の名前を「方丈記」と名づけました。乱世をいかに生きるかというテーマの自伝的な人生論です。

 清少納言の「枕草子」、吉田兼好の「徒然草」とをあわせて日本三大随筆ともよばれています。
 なお、吉田兼好が「徒然草」を書いたのは、この後およそ100年も後のことであります。

 鴨長明は無常観の文学と言われています。「方丈記」の冒頭で移り行くもののはかなさをこう語りました。

 「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。」

 また、鴨長明は、自身が生きた平安~鎌倉時代や過去の災厄について記述を残しました。

 たとえば、1177年、4月28日午後8時ごろ、都の東南で、舞人の宿屋が火の不始末が原因で出火したこと、災はまたたく間に都の西北に向かって燃え広がり、朱雀門・大極殿・大学寮・民部省などが一夜のうちに灰燼に帰したこと、公卿の邸宅だけでも16軒、一般家屋に至っては都の3分の1が焼失したこと、死者は数10人であったことなどを記しています。

 1180年4月の中御門大路と東京極大路の交差点付近に大きな竜巻(辻風)が発生したこと、風は周囲にあるものをあっという間に飲み込み、家財道具や檜皮、葺板などが、あたかも冬の木の葉のように宙を舞ったこと、風の通ったあとには、ぺしゃんこに潰れたり、桁や柱だけになった家が残されたこと、竜巻は市街地を南南西に向かって走り抜け、現在の東本願寺 の手前辺りで消滅したことなどを記しています。

 また1181年~1182年ごろ、2年間にわたって飢饉があり、諸国の農民で逃散する者が多かったこと、朝廷はさまざまな加持祈祷を試みたが甲斐なく、諸物価は高騰し、さらに疫病が人々を襲ったこと、仁和寺の隆暁法印という人が無数の餓死者が出たことを悲しみ、行き交うごとに死者の額に「阿」の字を書いて結縁し、その数を数えたところ、四万2300余に達したということも記しています。

 なお、この飢饉は自然発生的なものではなく、源頼朝・木曽義仲 の挙兵や平氏が福原京に遷都したことによって都への貢米が押しとどめられ、食糧難に襲われたものであると想像されています。
 1185年7月9日、大きな地震が都を襲いました。山は崩れ海は傾き、土は裂けて岩は谷底に転げ落ちた、余震は3ヶ月にもわたって続いたということです。

 「方丈記」はこのように今日的な防災という観点から見ても、きわめて貴重で興味深い資料となっています。

6月7日 日本母親大会記念日

 1955(昭和30)年の今日、東京・豊島公会堂で第1回母親大会が開催されました。

 1954(昭和29)年、ビキニ環礁での水爆実験実施をうけ、日本婦人団体連合会は国際民主婦人連盟に原水爆禁止を提案していました。
 そして、提案にもとづいて世界母親大会がスイスで開かれることになったことに先立ち、第1回日本母親大会が開催されることになりました。

 スローガンは「生命を生みだす母親は、生命を育て、生命を守ることをのぞみます」です。
 このスローガンの下に、生命と暮らし、子供と教育、平和、女性の地位向上などに関する分科会や講演会が開催されました。

 第1回母親大会には、全国から約2000人の参加者が集いました。
 子育て中の母親は、会場の隣の会館の保育所に子どもを預けて参加しました。

 各地からの報告や発言、とりわけ久保山愛吉さんの未亡人すずさんの訴えなどがありました。(久保山愛吉さんはビキニ水爆実験の被爆者で亡くなられていました)
 参加者一同がもらい泣きで会場は全員がひとつにとけあった大会だったといわれています。

  また、60~61年にかけて全国的に小児マヒが集団発生したとき、「ソ連の生ワクチンの輸入」を要求して、医者・労働者とともに政府と交渉しました。
 母親たちは毎日のように厚生省をとりまき、ついにソ連から1000万人分、カナダから300万人分の輸入を実現させるなど、小児マヒの流行は終わらせるのに大きな力を発揮しました。
 
 なお、日本母親大会は毎年開かれています。
 日本母親大会のホームページ(また勝手にリンクしました。スミマセン)

6月5日 世界環境デー・環境の日

 今日は、1972年12月15日の国連総会で制定された「世界環境デー」です。国際デーの一つになっています。

 1972年、ストックホルムで開催された国連人間環境会議で「人間環境宣言」が採択されて国連環境計画(UNEP)が誕生しました。
 国連では、日本の提案によりこの日を「世界環境デー」と定め、日本では1993年に「環境基本法」で「環境の日」と定められました。

 世界各国でも、この日に環境保全の重要性を認識し、行動の契機とするため様々な行事が行われています。

 先ほどテレビで「人類だけが滅亡した後の地球はどうなるか?」という内容で外国の科学者のシュミレーションを放映していました。
 私はなんとなくチャンネルを回しただけでしたが、続けて見ていくうちにびっくりしました。

 「簡単にいえば、植物の生命力が、地球を森林が広がる自然の姿に戻す」というものでした。
 「200年も経てば、地球上の建築物は完全に崩れ落ちて、人間がいた痕跡は、ピラミッド・万里の長城のような石造の建築物を除いて、ほぼ完全に無くなるだろう」というナレーションがありました。

 「人間さえいなければ大自然がもどってくる。」
 まさに、自然の敵は人間だということでしたが、認めざるを得ない面があります。

 このブログでも取り上げたことがある「旧ソ連のチェルノブイリ原発事故」の周辺地域は当時30万人の人々が移住させられ、草木は枯れて不毛の土地になりました。
 しかし、事故から20年たった現在、植物の生命力で青々とした森や草原が復活し、小動物が住みついているところがテレビにうつっているではありませんか。
 
 キーワードは「20年間、そこには人類がいなかった」ということです。「人類がいなくなれば、自然がもどる」とは、なんという皮肉でしょうか。

 人類が地球上からいなくなるわけにはいきませんから、学ぶべきは「何も手を加えないでほっておいてやる土地をつくってやればいいのだ。自然の回復力はすごい」ということではないでしょうか。
 
 もちろん、地球温暖化の防止、森林の乱伐禁止とか砂漠周辺地域への植林、森林への適度な手入れなど人間による努力は欠かせませんが・・・・。 

6月4日 オオウミガラスが絶滅した日 

 かつて北大西洋・北極海に分布していたオオウミガラス(大海烏)という海鳥の一種が、乱獲が原因で、1844年の今日(6月3日説もある)を最後に絶滅しました。

 オオウミガラスは全長約80cm、体重5kgぐらいの大型の海鳥です。外見も動作もペンギンに似ています。
 「北極ペンギン」として語りつがれています。
 翼は短く、長さ20cmほどで、飛ぶことはできませんでした。脚は黒くて短く、極端に尾の近くに寄っていました。

 海中に潜水してイカナゴなどの魚類やイカを捕食していました。水中では短い翼と脚を使って高速で泳ぐことができましたが、陸上では体を立ててよちよちと歩いていました。
 
 人間は、オオウミガラスの肉や卵を食用にするため、または羽毛や脂肪を採取するために、少なくとも8世紀ごろから捕獲していました。
 
 オオウミガラスは人間に対する恐怖心がなく、かえって好奇心を持って人間に近よってきて殺されたといわれています。
 その後の大規模な乱獲により、数百万羽いたとされるオオウミガラスがたちまち数を減らしていきました。

 1534年、大航海時代のフランス探検家カルチェの隊が、北アメリカ大陸のニューファンドランド島に上陸し、1日で1000羽以上のオオウミガラスを殺したという記録があります。
 このころの探検家とは一攫千金の野心家で、残酷な略奪者でした。
 
 この話がヨーロッパ中に広がって、各地の海岸ではオオウミガラスが次々と狩られ、卵が持ち去られることになりました。
 その後も乱獲が続きました。

 社会の発展段階からみても、当時の人間には、環境保護とか動物愛護とかの感覚はまったくありませんでした。
 
 1820年ごろ、ついにオオウミガラスの繁殖地はアイスランド沖のウミガラス岩礁だけになりました。
 さらに1830年にその小島が噴火しました。小島は地震とともに海に沈んでしまいました。
 この災害から生き残った50羽ほどが、近くのエルデイ島に移りました。

 この時点で絶滅寸前だったにもかかわらず、おどろくべきことは、かえって標本に希少価値がついて、収集家や博物館に高値で買われるようになったので、残ったオオウミガラスも次々と狩られて数を減らしていったのでした。

 1844年6月4日(3日説有り)、エルデイ島で抱卵中のつがいのオオウミガラスが発見されました。これが最後の生体の発見になりました。
 発見と同時に、発見者に1羽は棍棒で殴り殺され、もう1羽は絞め殺されました。残された卵は殻が割れてしまっており、その卵を手に取ると、岩の上に投げ捨てたということです。

 アホか、何してんねんと、叫びたい気持ちです。

 現在では約80体の剥製と約70個の卵殻が知られるのみです。
 こうして、オオウミガラスは、動物に対する人間の不思慮のシンボルともなっています。

6月3日 ムーミンの日

 今日は、「ムーミンの日」です。「ムー(6)ミン(3)」の語呂合せで6月3日になりました。「ムーミン」を愛する日本のファンらによって制定されました。

 「ムーミン」は、フィンランドの作家トーベ・ヤンソンのムーミン・シリーズの小説・漫画作品です。
 
 アニメ「ムーミン」について少し調べてみました。
 私は「ムーミン」というのは主人公の少年の名前だと思っていましたが、本来はムーミン族という種族の名前だったのです。
 主人公のムーミンの本名は「ムーミントロール」といい、妖精のような生物とされていますが、モデルとなった動物はコビトカバに似ているといわれています。
 
 コビトカバ? 
 コビトカバを見たことがないので図鑑で調べてみましたら、やはりよく似ていました。世界3大珍獣の1つだそうです。(あと2つはジャイアントパンダとオカピです)
 
 ムーミントロールは、父のムーミンパパや母のムーミンママたちと一緒にムーミン谷に住んでいます。ムーミン谷はフィンランドのどこかにあるとされています。
 ムーミン一家の家庭のムードはとてもなごやかで、アニメを見ているうちに気持ちがほのぼのしてくることがたびたびありました。ムーミンパパの声優の声がとても落ち着いていました。
 
 原作者ヤンソンは9本のムーミン作品を書いていますが、そのうちの1つ「楽しいムーミン一家」シリーズは、1990年に日本でアニメ化されて大ヒットしました。
 
 この「楽しいムーミン一家」シリーズはフィンランドのテレビでもくりかえし放映されました。ムーミンブームが世界中で爆発的に巻きおこるきっかけとなった作品です。
 この沸騰した人気のなかで、各種のキャラクターグッズが作られるようになり、フィンランドにはテーマパークの「ムーミン・ワールド」が開園しました。

 私は、若いころから周囲の人々に「ムーミンパパ」とよばれていたので、ムーミンパパはとても愛着を感じているキャラクターです。(時折、「ムーミンカバ」に変化しましたが・・・・)
 
 ムーミンがお好きな人はどうぞムーミン公式サイト

6月2日 本能寺の変

 今日は、あの有名な「本能寺の変」で織田信長が自刃した日です。

 1582年、天下統一を目前にひかえた織田信長は、中国地方の毛利勢を滅ぼすために備中高松城で苦戦している羽柴秀吉の援軍として、明智光秀を差し向けました。

 ところが光秀は播磨へは向かわず、京都の町に入りました。
 部下たちは進路の変更にとまどいますが、光秀は「我が敵は中国に無し。京都四条の本能寺にあり。」(簡単にして「敵は本能寺」と伝えられている)と命令を下しました。

 こうして謀反を実行したのは、6月2日の未明のことでした。不意打ちをくらった織田信長は、無念のうちに燃えさかる火の中で自刃して果てました。
 
 死に際に、それまでも好んで舞っていた「敦盛」の一節を口ずさんだといわれています。
 「人生五十年、外天のうちに比ぶれば、夢幻のごとくなり 一たび生を得て 滅せぬもののあるべきか」

 享年は49歳でした。

 光秀が信長になぜ謀反をおこしたのか、さまざまな理由があるといわれていますが、はっきりした原因や理由がわかっているわけではありません。

 ただ、光秀は吉良上野介のときのように、悪者にされていますが領民には善政をおこないました。学問にも明るい文化人でした。
 亀岡城を築城したことから、京都府亀岡市では「亀岡明智まつり」が毎年開かれています。

 光秀の生誕地は現在の岐阜県可児市です。(私事ですが、姉夫婦と姪が住んでいます)
 
 「三日天下」、「裏切り者」のイメージが強い明智光秀の汚名返上をめざしている方がおられます。
 ホームページ「明智光秀生誕の地にて」 (すみません。勝手にリンクしました)

6月1日 夏服に衣替え

 今日から6月。日本では「衣替え」といわれる日です。

 衣替えとは、名前のごとく、
季節の移り変わりに応じて衣服を替えることをいいます。
 必然的に着なくなった冬物を片づけて、夏物を出してくるなど、衣服の収納する場所を変更する作業がともないます。

 さて、今日はほどよく涼しかったので、衣替えをしないで一日を過ごされた方も多かったのではないでしょうか。

 多くの学校や企業では、今日から制服・標準服の(夏服・冬服)を変更するところが多いです。前後1~2週間は準備期間となっています。
 日本では、梅雨前線が活発になる6月と秋雨前線の活動が鈍くなってきた10月(沖縄県と奄美群島は5月と11月)に衣替えが行われることが多いといわれています。
 季節感と衣替えの時期はほぼぴったりしているように思います。

 衣替えは習慣ですから、一般的には強制されるものではありません。
 近ごろは、電車やバス、ビル、オフィスなどどこも冷房がガンガン効いているので寒くて、冷え性の方は辛い目にあっています。
 ですから、意識的に衣替えをしない人も増えているようです。

 現代では、私たちは服を着替えるときは更衣といっています。着替える部屋を更衣室と呼んでいます。
 でも平安時代はそうやすやすと「更衣」という言葉を使ってはならなかったようです。
 なぜでしょうか。
 衣替えの習慣が始まった平安時代には、中国の風習にならって4月1日および10月1日に、夏服と冬服とを着替えると定めていました。
 これを現代と同じように更衣と呼んでいました。
 
 ところが、平安時代の天皇の日常の着替えの役目を持つ女官の職名をも「更衣」とよんでいたのです。さらに、後には天皇の寝所に奉仕する女官で、女御に次ぐ地位の人も「更衣」とよぶようになりました。
 そのため、「更衣」という言葉は下々の者は使えなくなり、「衣替え」という言葉を使うようになっていったというわけです。

 江戸時代ごろから、衣替えは6月1日と10月1日に行うようになりました。
 明治のはじめに太陽暦が採用されてからも、官庁・企業・学校が旧暦の日附をそのまま新暦に移行して6月1日と10月1日に行うようになり、現代に続いています。 

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