« 5月27日 「小倉百人一首」が完成した | トップページ | 5月29日 エベレスト(チョモランマ)登頂記念日 »

5月28日 曾我兄弟の仇討ち

 今日は、三大仇討ちといわれる「曾我兄弟の仇討ち」がおこなわれた日です。

 事件は、鎌倉時代が始まったばかりの時期におこりました。
 工藤祐経という男が悪者とされ、曾我兄弟に仇討ちされました。

 しかし、もともと工藤祐経は領地(伊東の荘)の跡継ぎでしたが、父を幼いときに亡くしたため、その領地は父の従兄に当たる伊東祐親(曽我兄弟の祖父)が預かっていました。
 やがて、伊東祐親は工藤祐経から領地の実権を奪ってしまいました。

 工藤祐経は、伊東祐親の助けを受けて育ち、成人すると祐親の娘を妻として迎えましたが、やがて伊東の荘の正統な領主は自分であることに気 づきました。
 祐親に対して、領地の返還を迫りましたが祐親がそれに応じませんでした。しかも、祐経は妻(祐親の娘)との仲も引き裂かれてしまいました。
 ここまでの悲劇の主人公は工藤祐経です。

 恨みをもった工藤祐経は、ある時、狩りから帰る伊東祐親をねらって、待ち伏せさせていた家来に弓を射掛けさせました。
 ところが矢はめざす伊東祐親には当たらず、そばにいた息子の河津三郎祐泰に当たりました。祐泰はその場で息絶えました。
 
 河津祐泰には五歳の一万丸と三歳の筥王丸の兄弟がいました。これが成長して曾我兄弟といわれるようになりました。
 父亡きあと、曽我の荘で育った兄弟は、元服して兄は曽我十郎祐成、弟は曽我五郎時致と名乗りました。

 このあと、源平の争乱がおこりました。平家についた伊東祐親は滅び、源氏についた工藤祐経は源頼朝に信頼され権勢をふるいました。 

 一方、曾我兄弟は、鎌倉幕府の執権となった北条時政の屋敷に出入りし、家臣として保護されました。しかし、父の仇討ちのことは一時も忘れず、機会をねらっていました。

 1193年、源頼朝が御家人たちを集めて、富士山麓の朝霧高原一帯で巻狩りを行いました。
 チャンスを伺っていた曾我兄弟は、母と別れの挨拶をすませ、巻狩り最後の日の夜(5月28日)、降りしきる雨の中を工藤祐経の宿所に押し入り、工藤祐経を殺戮して仇討ちを成し遂げました。
 しかし、兄弟は集まってきた御家人たちに取りかこまれて、兄は討たれました。

 弟は逃げ延び、このあと源頼朝の寝所を襲いました。が、失敗して捕らえられ、翌日、源頼朝の前に引き出されたあと、工藤祐経の子によって処刑されたといわれています。享年20歳でした。

 単なる私的な仇討ちは以上のとおりですが疑問が残ります。
 工藤祐経を討って本懐を遂げたあとに、なぜ弟が源頼朝をねらったのか疑問か残ります。

 平家の流れを汲む北条時政が曾我兄弟を使って、源頼朝を暗殺しようとした「暗殺未遂事件」が真の姿ではないかと指摘する歴史家もいます。

 後年、この仇討ち事件は、「曾我物語」として文芸化され、有名になりました。

« 5月27日 「小倉百人一首」が完成した | トップページ | 5月29日 エベレスト(チョモランマ)登頂記念日 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/503568/41348511

この記事へのトラックバック一覧です: 5月28日 曾我兄弟の仇討ち:

« 5月27日 「小倉百人一首」が完成した | トップページ | 5月29日 エベレスト(チョモランマ)登頂記念日 »