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5月17日 源義経が自刃 

 今日は、源義経が藤原秀衡の死後、兄源頼朝の追及を受けた当主藤原泰衡に攻められて、衣川館で自刃して果てた日です。

 源義経は河内源氏の嫡流である源義朝の九男として生まれ、幼名を牛若丸とよばれていたことはあまりにも有名です。
 鞍馬寺に預けられていた牛若は、自分の出自を知って、奥州の藤原秀衡をたよって、後に奥州平泉へ下りました。
 
 兄頼朝が平氏打倒の兵を挙げたことを知ると馳せ参じ、兄弟の対面をします。頼朝の家来として一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦をへて平氏を滅ぼしました。
 その最大の功労者であることは疑うべくもありません。

 ただ、その後、兄の許可を得ることなく官位を受けたことは大きな過ちでした。(義経は以前から官位がほしかったようです。)
 兄の推薦を得て、朝廷から官位をもらえば良かったのですが、しなかったために頼朝の怒りを買い、それに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵となってしまいました。

 全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ、ふたたび奥州の藤原秀衡を頼りました。
 秀衡の死後、頼朝に屈した藤原泰衡に衣川の館を攻められて、妻と娘を殺してから自刃しました。
 この最期は多くの人の同情をひき、判官贔屓(ほうがんびいき)という言葉や、多くの伝説・物語を生みました。
 また、忠実な家来だった弁慶の「弁慶の立ち往生」という言葉もこのとき生まれました。

 歌舞伎やドラマでは、弟義経は悲劇の主人公になっていて、兄源頼朝は悪者になっています。しかし、歴史の流れから考えると、兄頼朝の方が「先までよく見えていて」、弟義経は「目の前しか見えていない」という違いがありました。

 頼朝は、法皇・貴族の政権から、武士の政権をつくるというはっきりした展望をもっていました。
 鎌倉政権の基盤となる御家人を「御恩と奉公」の信頼関係でつなぎとめておくためには、武士の政権づくりに害をなす義経の動きには、たとえ弟であっても厳しく対応しなくてはなりませんでした。
 
 義経は、頼朝の意図が理解できず、平氏がもっていた院御厩司という地位も継承してしまったのです。法皇がそうさせたともいえます。
 陰謀指数は後白河法皇の方が一枚上ということです。

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