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5月30日 世界禁煙デー

 今日は、「世界禁煙デー」です。
 世界保健機関(WHO)が1989年に制定しました。国際デーの一つです。

 1995年時点では、世界の喫煙者は10億1000万人で約5人に1人の割合となっています。そして毎年世界で300万人が喫煙が原因とみられるがんや心臓病で亡くなっております。
 このままでは2030年代初頭には喫煙による死亡者が年間1000万人に達するとWHOは警告しています。

 私は、19歳のときに好奇心からタバコを吸い始めました。
 その後、何回も禁煙して、なかには10年間禁煙、5年間禁煙、1年間禁煙など数回の禁煙期間がありますが、何回やってももどってしまいました。

 禁煙してしばらくすると食事がおいしくなったように感じ、禁煙を破ると途端に不味くなっります。
 焼肉店で焼肉を食べてる途中で禁煙を破ったときは、同じ焼肉がこんなにも不味くなるのかとびっくりしたことがありました。
 そのうちに不味さに慣れてきますね。こわいものです。
 
 家族にも禁煙を公表していますのでトイレやベランダでコソコソ吸っていました。

 私は何回も禁煙していますが、また数度目の禁煙に踏み切りました。
 2006年7月からタバコ代が30円値上げされました。買いだめしていましたので7月10日ぐらいに最後の1箱になりました。
 その箱をギュッと握りつぶし、水道の水をぶっかけて、「もう吸わない」と決意を声に出してゴミ箱に投げ入れました。
 
 しばらくのあいだはニコレットの世話になりました。禁煙直後はおいしく感じたニコレットがだんだんまずくなってきました。体中のニコチンがなくなってきたのでしょう、ニコレットを口にしなくなり、それから約2年、禁煙が続いています。

 禁煙の効果は、食事がおいしくなったこと、体調がいいこと、火事の心配が一つ減ったことがあげられます。
 とくに無駄な出費が減りました。
 一日2箱(600円)×約2年(700日)=420、000円の節約ができました。
 
 あなたが喫煙者なら、何かきっかけをつくってタバコをやめた方がいいですよ。
 値上げのときには多くの人が,一度は禁煙を考えるそうです。
 6月1日からのタバコカードはきっかけになりませんか。
 血液検査の結果とか、体重が何キロをオーバーしたとか。

 警告文を外国のように厳しくするのはどうでしょう。<ライブドアニュースより>

 「タバコ煙のあるところに青酸ガスがある」(カナダ)  
 「喫煙は死因の最大部分を占める」(オーストラリア)
 「喫煙時あなたは砒素・ナフタリンなど鼠やゴキブリ用の駆除剤と同じものを吸入してい る」(ブラジル)
 「喫煙は人を殺す」(タイ)
 「喫煙者は早死にする」(EU)          

 寝たきりになったり、死んだときが「禁煙のきっかけ」にならないようにしましょう。

5月29日 エベレスト(チョモランマ)登頂記念日

 今日は「エベレスト登頂記念日」です。
 エドモンド・ヒラリーというニュージーランドの探検家が、1953年5月29日午前11時30分、世界最高峰のエベレスト(チョモランマ)に、ネパール人シェルパとともに世界で最初に登頂に成功しました。

 登頂成功後はイギリスの南極横断遠征隊に参加し、1958年にはトラクターで南極点に到達しました。

 また慈善団体「ヒマラヤ基金」を創設し、ネパール・ナムチェバザール地区の開発に力を注ぎました。この地区に彼が建設したクムジュン小学校の校庭にはヒラリーの銅像があります。

 なお「エベレスト」はインド測量長官だったイギリス人ジョージ・エベレストにちなんだものです。ジョージ・エベレストは現地名を優先する考えを持っていましたが、彼の死後に本人の意志に反して命名されてしまいました。

 現在は、チベット語で大地の母の意味を持つ「チョモランマ」が有力です。
 
 南斜面はネパール領ですが、ここではエベレストもチョモランマも否定されています。
 ネパールでは、「サガルマーター(サンスクリット語で世界の頂上)」という名が考案されました。

 標高は8848mがよく知られていますが、各国の測量値はすべて違っています。
 また、年に数ミリ上昇し、北東方向にも移動しているなど、話題にはこと欠かない山で
す。
 さらに、温暖化で氷雪が溶けるという現象がおこっています。

5月28日 曾我兄弟の仇討ち

 今日は、三大仇討ちといわれる「曾我兄弟の仇討ち」がおこなわれた日です。

 事件は、鎌倉時代が始まったばかりの時期におこりました。
 工藤祐経という男が悪者とされ、曾我兄弟に仇討ちされました。

 しかし、もともと工藤祐経は領地(伊東の荘)の跡継ぎでしたが、父を幼いときに亡くしたため、その領地は父の従兄に当たる伊東祐親(曽我兄弟の祖父)が預かっていました。
 やがて、伊東祐親は工藤祐経から領地の実権を奪ってしまいました。

 工藤祐経は、伊東祐親の助けを受けて育ち、成人すると祐親の娘を妻として迎えましたが、やがて伊東の荘の正統な領主は自分であることに気 づきました。
 祐親に対して、領地の返還を迫りましたが祐親がそれに応じませんでした。しかも、祐経は妻(祐親の娘)との仲も引き裂かれてしまいました。
 ここまでの悲劇の主人公は工藤祐経です。

 恨みをもった工藤祐経は、ある時、狩りから帰る伊東祐親をねらって、待ち伏せさせていた家来に弓を射掛けさせました。
 ところが矢はめざす伊東祐親には当たらず、そばにいた息子の河津三郎祐泰に当たりました。祐泰はその場で息絶えました。
 
 河津祐泰には五歳の一万丸と三歳の筥王丸の兄弟がいました。これが成長して曾我兄弟といわれるようになりました。
 父亡きあと、曽我の荘で育った兄弟は、元服して兄は曽我十郎祐成、弟は曽我五郎時致と名乗りました。

 このあと、源平の争乱がおこりました。平家についた伊東祐親は滅び、源氏についた工藤祐経は源頼朝に信頼され権勢をふるいました。 

 一方、曾我兄弟は、鎌倉幕府の執権となった北条時政の屋敷に出入りし、家臣として保護されました。しかし、父の仇討ちのことは一時も忘れず、機会をねらっていました。

 1193年、源頼朝が御家人たちを集めて、富士山麓の朝霧高原一帯で巻狩りを行いました。
 チャンスを伺っていた曾我兄弟は、母と別れの挨拶をすませ、巻狩り最後の日の夜(5月28日)、降りしきる雨の中を工藤祐経の宿所に押し入り、工藤祐経を殺戮して仇討ちを成し遂げました。
 しかし、兄弟は集まってきた御家人たちに取りかこまれて、兄は討たれました。

 弟は逃げ延び、このあと源頼朝の寝所を襲いました。が、失敗して捕らえられ、翌日、源頼朝の前に引き出されたあと、工藤祐経の子によって処刑されたといわれています。享年20歳でした。

 単なる私的な仇討ちは以上のとおりですが疑問が残ります。
 工藤祐経を討って本懐を遂げたあとに、なぜ弟が源頼朝をねらったのか疑問か残ります。

 平家の流れを汲む北条時政が曾我兄弟を使って、源頼朝を暗殺しようとした「暗殺未遂事件」が真の姿ではないかと指摘する歴史家もいます。

 後年、この仇討ち事件は、「曾我物語」として文芸化され、有名になりました。

5月27日 「小倉百人一首」が完成した

 鎌倉時代の1235年の今日、藤原定家によって「小倉百人一首」が完成されました。

 藤原定家が書いた「明月記」の文暦2年5月27日の項に、定家が親友の求めに応じて書写した和歌百首が、京都嵯峨の小倉山荘の障子に貼られたとの記述があります。
 「小倉百人一首」が5月27日に完成したという記事があります。

 さて、「小倉百人一首」を選んだのは藤原定家ではないのではないかといわれたことがありました。
 現代では、やは り百人一首を選んだのは定家本人であるといわれています。

 藤原定家は、「三大和歌集」の一つ、「新古今和歌集」の撰者として知られています。しかし、必ずしも定家はこの和歌集に満足しておりませんでした。
 ですからあらためて百人の歌人の歌を一首ずつ選びなおしたといわれています。定家がなぜ選びなおしたのか、真のねらいの解明はなかなかおもしろいものがあります。

 定家はある目的をもって「百人から一首ずつ」選んだということです。
 「林直道の百人一首の秘密ホームページ」をご覧ください。(勝手にリンクしました) 

 何はともあれ、百人一首は実におもしろいですね。
 私は、父母が好きでしたから小学校に入りたてのころから遊んでいました。お正月にはじめたカルタ遊びは、わが家では夏休みまで続いていました。

 名古屋の姉夫婦の世話になっている97歳になる母の病状が、おかげで回復してきましたので、ときどき「百人一首」の相手をするため名古屋に帰っています。
 私が帰ると岐阜の姉も来て、めいも加わってカルタ大会が始まります。
 「昔、取った杵柄(きねづか)」というのはすごいですね。97歳になってもよく覚えています。

 これやこの~
 いにしえの~
 ひさかたの~
 きりぎりす~
 ほととぎす~

 みんなで人の十八番をチェックして取り合うのがまたおもしろいです。
 いつまでできることやら、今のうちにもっと楽しんでおきたいものです。

 私の十八番は「秋の田のかりほの庵のとまを荒みわが衣手は露に濡れつつ」です。

5月26日 「位置について、用意、ドン」

; 今日は、運動会や国内の陸上競技大会のスタートの合図で、「位置について、よ~い、ドン」が使われるようになった日です。
 今では定着してますが、この合図は、1928年の今日、東京・明治神宮競技場で開かれた第1回全日本学生陸上競技大会ではじめて使われました。

 

スタート合図をどうするかについては、関係者としては苦労したようで、この移り変わりはなかなかおもしろいです。  

 

1883年の東京大学と大学予備門の陸上運動会では、「いいか、ひ、ふ、み」のあとスタートしました。
 評判がよくなかったのかどうか、その後、同じ運動会のスタート合図は、「よろしゅうごわすか、用意」になりました。(今なら、ずっこけそうですね)

 1913年の「第1回陸上競技会」でのスタート合図は「支度して、用意」になり、少しスマートになりました。
 1917年の「第3回極東選手権」では「オン ユア マーク、 ゲット セット、 ゴー」と英語になってしまいました。(「On your mark、 get set、 go」)

 しかし、日本の陸連は日本語でいいスタート合図はないかどうか、国民から募集することになりました。その結果、「山田秀夫」という方の案が採用されて、「位置について、用意、ドン」に決まりました。
 1928年の先述の競技大会で使われてから後は、一回も変更されていません。

 なお、現在の国際大会では、「Ready、(get)set、go!」となっています。

5月25日 食堂車の日

 今日は、「食堂車」の日です。
 1899年の今日、日本で最初の食堂車が、私鉄山陽鉄道(現在の山陽本線)の京都~三田尻(現在の防府)間の急行列車に登場したことを記念して「食堂車の日」に制定されました。

 当時、食堂車を利用できたのは、この急行列車の1・2等車の客だけで、メニューは洋食のみでした。
 若い方はびっくりされたのではないですか。1・2等車の客専用ということは3等車もあったのか?
 その通りです。庶民はほとんど3等車に乗っていました。
 3等車が廃止されたあと、元1等車がグリーン車になりました。
 
 私は、新幹線が開通していても、運賃の節約のため大阪から東京までわざわざ在来線で行ったことが数度あります。時間はかかりましたが、のんびりしていて楽しかったです。
 よく食堂車に行きました。
 食堂車の窓側に座れば、広い窓の外の景色がよく見え、童謡さながらに景色がつぎつぎとうしろに飛んでいきました。楽しい時間でした。食事は、ゆっくり済ませました。

 ところが、新幹線に乗るようになって、はじめはビュッフェとかいうものがありましたが、最近は食堂車らしいものはなにもなくなりましたね。
 
 現在は列車の速度が向上して運転時間が短縮されました。ですから食堂車を連結する列車は減少する傾向にあり、現状では本州~北海道を結ぶごく少数の夜行列車に限られているようです。

 正確かどうかわかりませんが、現在の日本のJRでは、夜行列車の「北斗星」・「カシオペア」(上野~札幌)と「トワイライトエクスプレス」(大阪~札幌)にのみ本格的な食堂車が連結されているようです。かなり豪華ということです。

 ビュフェは、九州を走る「つばめ」にありましたが廃止されました。現在はJR九州の久大本線を走っている「ゆふいんの森」だけに連結されています。

 食堂車も歴史的文化財となって消えていくのは寂しいかぎりです。

5月24日 横溝正史が生まれた日

 今日は、1902年に横溝正史が神戸市で生まれた日です。
 怪奇趣味とミステリ-を融合させた作品で一時代を築いた小説家です。

 デビューは19歳のときの「恐るべき四月馬鹿」です。雑誌「新青年」の懸賞に応募して、1等入選を果たしたときの作品です。

 やがて、専業の作家活動をはじめますが、すぐに肺結核になり、長野県での転地療養に行かざるをえませんでした。療養中に苦労して書き上げた「鬼火」など傑作は検閲のため大幅にカットされるという辛い時期を迎えます。

 戦 時中は国家権力によって探偵小説の発表を抑圧される時期が続きました。経済的にも苦しかったにもかかわらず、密かにトリックを練り、 大作の構想をいくつもまとめていたといわれています。
 これが戦後の飛躍につながりました。

 1945年4月から3年間、岡山県へ疎開していましたが、終戦を迎えるや猛然と筆をとり、本格推理長編の名作を連発していきました。
 1948年、「本陣殺人事件」で第1回日本探偵作家クラブ賞を受賞しました。
 その後10年ほどの間に名作をつぎつぎ発表しました。

 「獄門島」・「犬神家の一族」・「悪魔が来たりて笛を吹く」・「八つ墓村」・「悪魔の手鞠唄」など、後にブームになった「金田一もの」は、ほとんどこの時期に書かれています。

 松本清張らの社会派推理小説の台頭とともに長い低迷期に入りました。
 しかし1968年、少年週刊誌「週刊少年マガジン」誌上で「八つ墓村」が漫画化・連載されたことをきっかけとして注目が集まりはじめました。

 今から思えば、私がはじめて横溝作品に出会ったのもこの「週刊少年マガジン」の誌上の「八つ墓村」でした。
 小竹・小梅の双子のお婆さんが登場する作品ですが、不気味な感じがして、あまり読まなかったのを覚えています。

 さらに角川文庫として出版され、主要な作品が角川映画や民放テレビでドラマ化されるに至って、ふたたびブームとなりました。
 「犬神家の一族」をはじめとする黄金期の作品がその後もつぎつぎと映画化されました。

 これによって70歳を迎えた著者自身の執筆意欲がふたたびわきおこり、「悪霊島」「仮面舞踏会」「病院坂の首くくりの家」(金田一耕助の最後の作品)などの作品が発表されました。

 なお、1980年から角川書店の主催による長編推理小説新人賞、横溝正史ミステリ大賞が開始されています。 

5月23日 キスの日、ラブレターの日

 今日は「キスの日」です。キスに記念日があるとは知りませんでした。

 敗戦直後の1946(昭21)年の今日、日本で初めてキスシーンが登場する映画が封切りされました。その映画は佐々木康監督の「はたちの青春」です。

 1946(昭21)年当時は、アメリカ軍を中心とする連合国軍総司令部(GHQ)の日本占領がはじまった直後のことでした。
 映画製作もGHQの検閲下にありました。
 完成した脚本がその前に見せられたものと違うことを民間情報教育局(CIE)のコンデという人物に指摘されました。コンデはそのうえで、接吻の場面を入れることを要求しました。
 キスの場面は、主演の大坂史郎と幾野道子がほんのわずか唇をあわせただけでしたが、それでも話題をよび、映画館は連日満員になったということです。

 また、今日は「ラブレターの日」でもあります。映画会社の松竹が制定しました。
 
 「こい(5)ぶ(2)み(3)」(恋文)の語呂合せと、浅田次郎原作の映画『ラブ・レター』の公開初日であったことから決定しました。 
 毎月23日は当時の郵政省が制定した「文(ふみ)の日」です。ふ(2)み(3)=文=手紙の語呂合わせです。
 もっとも、現代では、文(ふみ)はEメールにとって変わられましたが・・・。

5月22日 チリ地震津波、日本を襲う

 1960年5月22日19時11分(日本時間:昭和35年5月23日04時11分)にチリ沿岸のバルディビア近海を震源として巨大地震が発生しました。
 「チリ地震」とよばれ、地震の規模を示すマグニチュード(M)は8.5(モーメントマグニチュード(Mo)は9.5)で、世界でも最大級の地震でした。

 まず前震がM7.5で始まり、M7クラスの地震が5~6回続いた後、本震がM8クラスで発生しました。また余震でさえもM7クラスであったために、首都サンチャゴ始め、チリ全土が壊滅状態になりました。
 
 また、海溝が盛り上がり、海岸沿いの山脈が2.7メートル沈み込むという大規模な地殻変動も確認されました。
 また有感地震が約1000キロメートルにわたって観測され、地震波は地球を3周したことが確認されました。

 チリの海岸では最大20m以上に達する津波が襲ったといわれています。
 
 チリ沿岸を出発した津波は約15時間後にハワイ諸島を襲いました。ハワイ島ヒロでは約11mの高さを記録し、その他のハワイ諸島やサモア諸島でも数mの高さの津波が観測されています。

 日本への津波の来襲は、地震からなんと約22.5時間後の24日の早朝に北海道東部沿岸に到着しました。その後、太平洋岸の各地を次々と襲っていきました。太平洋岸のほとんど全域 で津波が観測されました。
 
 波の高さは1~4mでしたが、三陸海岸の沿岸の湾奥などでは、特殊な地形のために、波が増幅されて5mを超えたところもありました。
 全国で死者・行方不明者142名、家屋の倒壊や流出、住家の浸水、橋梁破壊、道路決壊、田畑の冠潮、船舶 の流失などの多大な被害が出ました。 
 被害が大きかった岩手県大船渡市では津波により53名が亡くなりました。
 
 一方で歴史的に度重なる津波被害を受けてきた田老町(現在の宮古市)では、高さ10mの巨大な防潮堤が功を奏して人的被害は皆無でした。
 高さ10mの防潮堤をつくっていたとは驚きです。(南海大地震の津波に備えるためには、このぐらいの防潮堤が必要といわれています。)

 このようにチリ地震津波は、「津波は遠方まで伝播する」という顕著な例としてあまりにも有名です。
 地球の裏側から突然やってきた津波(遠隔地津波)に対する認識が甘かったことが指摘され、このチリ津波が契機となって、気象庁は海外で発生した海洋型巨大地震に対しても、たとえばハワイの太平洋津波センターと連携を取るなどして津波警報・注意報を出すようになりました。

5月21日 「翼よ、あれがパリの灯だ」

 今日は、リンドバーグが大西洋単独無着陸飛行に初めて成功した日です。

 1927年5月20日5時52分(出発時の現地時刻)、ニューヨークのルーズベルト飛行場を飛び立ったリンドバーグは、5月21日22時21分(到着時の現地時刻)に、パリのル・ブルジェ空港に着陸しました。

 飛行距離は5,810kmで飛行時間は33時間29分30秒でした。
 この成功により、リンドバーグは、ニューヨーク-パリ間を無着陸で飛んだ者に与えられるオルティーグ賞とその賞金25,000ドルを得ました。さらに、確固とした世界的な名声を得ました。
 大西洋単独無着陸飛行に成功した際、ル・ブルジェ空港につめかけた人たちは、空港に入りきれない人たちも含めて、延べ75万人とも100万人ともいわれています。

 リンドバーグの飛行機はスピリットオブセントルイス(The Spirit of St. Louis)号はかなり改造されていました。
 多量の燃料(ガソリン)を積み込むために操縦席の前方に燃料タンクを置いたため、座席からは直接前方が見えなかったといいます。
 無名の操縦士だったリンドバーグには出資者が少なかったので、機材の性能を低くせざるをえず、前方視界を犠牲にしても燃料の搭載量を増やすことで対処したのです。
 
 さらに、交代の操縦士も乗せることもできなかったため、パリまで一人で操縦し続けるというたいへん過酷な飛行を行うことになりました。
 飛行中、リンドバーグは強い睡魔に襲われますが、これを克服してパリに到達しました。

 パリ上空で「翼よ、あれがパリの灯だ!」と叫んだいう有名な話がありますが、実はリンドバーグは叫んではいません。
 出所は自伝 "The Spirit of St. Louis" の和訳タイトルにありました。日本語ではたいへん印象的に聞こえるのでかなり広く知られていますが、英語圏ではこれにふさわしい文は存在していません。
 日本語タイトルを付けた邦訳者はすばらしいセンスをもっていますね。

 なお、大西洋無着陸飛行そのものは1919年にオルコットとブラウンによって成功しています。複数で成功しています。
 リンドバーグは、大西洋無着陸飛行に世界で初めて単独で成功したところに値打ちがあるのです

5月20日 森林の日(森が魚を育てる)

 あまり知られていませんが、今日は「森林の日」です。
 
 なぜ5月20日かというと、「森林」には「木」が5つあるから5月、また「森林」の総画数が20なので20日となりました。 

  岐阜県美並村など村名に「美」の字がつく村10村で結成した「美し村連邦(うましさとれんぽう)」が制定しました。

 最近はあまり釣りには行きませんが以前はよく行っていました。船頭さんや釣具屋さんは「魚が減った」と口をそろえます。
 テレビでも新聞でも日本近海の漁獲量が激減していると報道しています。私の小学生の時は日本近海は世界4大漁場の一つであると教わりました。

 獲りすぎをやめる、 これも大事ですね。

 あるときテレビで三陸海岸の若い漁師が近くの山を買って、荒れていた森に植林を始めたというドキュメントを見ました。

 「えっ、漁師が植林?」
 不思議に思って見続けると、「森が魚を育てる」という言葉が私の耳に飛び込んできました。

 「森が魚を育てる」

 「山の森が育てば、鳥獣が増えて糞尿を落とす、秋になれば落葉がある。それらが自然の肥料(栄養分)になる。雨で川に流されて海に注ぐ。豊かな海で魚が増える。大きく育つ。魚を増やしたければ森を育て直す」

 なるほど、こんな簡単な理屈を私は知らなかったのです。心に焼きついたドキュメントでした。
 森は、森林浴などで私たちをリフレッシュさせてくれますが、もっともっと大きな役割をもっていると知りました。
 
 それなのに、太古から森と強く結びついて生きてきた人間は、今、森をどんどん減らしています。
 地球温暖化の森の減少と不可分なはずです。
 もう一度、森を見直したいものです。

 なお、これとは別に「森の日」というのがあります。毎月第3木曜日です。
 私は、「森・森林」の大切さから考えて、もっと大規模で公的な記念日であってもいいと思います。

5月19日 ボクシング記念日

 今日は、「ボクシング記念日,チャンピオンの日」です。
 1952年の今日、5月19日は、日本初のボクシング世界チャンピオンが誕生した日だからです。

 その日、東京後楽園球場の特設リンクで、世界フライ級選手権をかけて世界チャンピオン・マリノ(米)と挑戦者・白井義男(当時28歳)が対決し、判定で、白井がマリノを破ったのです。

 過去、白井はマリノと2度戦い、1勝1敗と星を分けていました。
 ですから、会場に詰めかけたていた4万5千人の観衆とラジオにかじりついていた国民は、白井の勝利に期待していたのです。
 そして、期待通りに日本初の世界チャンピオンが誕生したのですから、日本中が沸き返ったのも当然でした。

 まだアメリカを中心とする連合国軍の占領下にあった当時、3つめの明るい話題になりました。
 1つ目は、1949年の湯川秀樹博士のノーベル賞受賞です。
 2つ目は、同年のロサンゼルスで行われた水泳の全米選手権で古橋広之進の世界新記録でした。
 敗戦でショックを受けた日本人の心に希望の灯をともしてくれたといわれています。

 白井義男は、小学6年生時の夜祭りの余興で行ったカンガルーとのボクシングに負けて以後、ボクシングにのめり込んだというエピソードの持ち主です。
 
 戦時下にプロデビューしましたが、海軍に従軍し、戦後復帰します。しかし、腰痛のため引退寸前に陥りました。
 ちょうどそのころジムでGHQ職員のカーンに見出され、全面的な支援をうけました。

 カーンを全面的に信頼し、科学的な栄養管理、健康管理を徹底し、防御主体のテクニカルなスタイルに矯正したことによって息を吹き返した話は、テレビでも放映されてよく知られています。
 
 白井義男は、穏やかな人格者でした。
 「やっぱり『健全なるスポーツ』であるボクシングをしなきゃいかんと、これはみんなに言い聞かせてるんです。殴られて殴るのは子どもでもできる。打たせないで打つところに、やっぱり妙技があるんでね」
 亀田親子・兄弟に聞かせてやりたいです。
 
 2003年末、80歳で永眠しました。
 

5月18日 南方熊楠が生まれた日

 今日は、日本が生んだ世界的な博物学者・南方熊楠の誕生日です。
 
 民俗学者、細菌学者、天文学者、人類学者、考古学者、生物学者でもあります。歩くエンサイクロペディア(百科事典)とも称されていました。

 南方熊楠は幼い時から驚くべき記憶力の持ち主でした。次々と読んだ本を写していきました。写し方は、外出先で読んだ本を暗記して帰り、自宅で思い出して書き記すというものでした。まさに脳がコピー機の役割をしていました。

 反骨の世界的博物学者でもあります。
 東京大学を退学して19才の時に渡米、粘菌の魅力にとりつかれ、その研究に没頭しました。
 その後、苦学しながら渡英し、その抜群の語学カと博識で東洋関係文物の整理を依頼される一方、科学雑誌「ネイチャー」に数多くの論文を発表しています。

 また、イギリス滞在中の孫文と知りあって意気投合し、以後ずっと親交を結んでいます。

 33才で帰国、紀州の田辺が気に入って定住し、亡くなるまでの37年間をこの地で過ごしました。 
 日本が生んだ大学者というよりも、和歌山県が生んだ大学者といっても良いぐらい、熊野や神島にて、精力的に研究に打ち込みました。その採集のなかで、数々の粘菌の新種を発見しました。
 また、神島や紀州の自然保護運動に命をかけてたたかって、現在の熊野古道の森を守ったのも熊楠でした。

 天衣無縫な言動によって奇人とされた反面、「南方先生」とか「南方さん」と呼ばれて、町の人々に親しまれたそうです。

南方熊楠記念館ホームページ

5月17日 源義経が自刃 

 今日は、源義経が藤原秀衡の死後、兄源頼朝の追及を受けた当主藤原泰衡に攻められて、衣川館で自刃して果てた日です。

 源義経は河内源氏の嫡流である源義朝の九男として生まれ、幼名を牛若丸とよばれていたことはあまりにも有名です。
 鞍馬寺に預けられていた牛若は、自分の出自を知って、奥州の藤原秀衡をたよって、後に奥州平泉へ下りました。
 
 兄頼朝が平氏打倒の兵を挙げたことを知ると馳せ参じ、兄弟の対面をします。頼朝の家来として一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦をへて平氏を滅ぼしました。
 その最大の功労者であることは疑うべくもありません。

 ただ、その後、兄の許可を得ることなく官位を受けたことは大きな過ちでした。(義経は以前から官位がほしかったようです。)
 兄の推薦を得て、朝廷から官位をもらえば良かったのですが、しなかったために頼朝の怒りを買い、それに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵となってしまいました。

 全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ、ふたたび奥州の藤原秀衡を頼りました。
 秀衡の死後、頼朝に屈した藤原泰衡に衣川の館を攻められて、妻と娘を殺してから自刃しました。
 この最期は多くの人の同情をひき、判官贔屓(ほうがんびいき)という言葉や、多くの伝説・物語を生みました。
 また、忠実な家来だった弁慶の「弁慶の立ち往生」という言葉もこのとき生まれました。

 歌舞伎やドラマでは、弟義経は悲劇の主人公になっていて、兄源頼朝は悪者になっています。しかし、歴史の流れから考えると、兄頼朝の方が「先までよく見えていて」、弟義経は「目の前しか見えていない」という違いがありました。

 頼朝は、法皇・貴族の政権から、武士の政権をつくるというはっきりした展望をもっていました。
 鎌倉政権の基盤となる御家人を「御恩と奉公」の信頼関係でつなぎとめておくためには、武士の政権づくりに害をなす義経の動きには、たとえ弟であっても厳しく対応しなくてはなりませんでした。
 
 義経は、頼朝の意図が理解できず、平氏がもっていた院御厩司という地位も継承してしまったのです。法皇がそうさせたともいえます。
 陰謀指数は後白河法皇の方が一枚上ということです。

5月16日 第1回アカデミー賞の授賞式

 1929年の今日、第1回アカデミー賞の授賞式がアメリカ合衆国のハリウッドでおこなわれました。

 第1回授賞式は、「映画芸術科学アカデミー」の夕食会の一環として始められ、「ちょっとした内輪の集まりだった」ようで、授賞式は5分程度で簡単に済まされていました。

 第2回から地元ラジオ局により実況が開始され、第17回から全国放送となりました。
 エンタテインメント色が強くなったのは、第2次世界大戦で前線にいた兵士たちの耳を喜ばせるためだったということです。
 TV中継が開始されたのは第25回の授賞式からです。

 回を増すごとにスケールが拡大していき、やがて収容人数の多い映画館で行われるようになりました。

 「アメリカ映画の祭典」という冠詞をつけられることが多いことからもわかるとおり、基本はアメリカ映画を対象とした映画祭です。
 
 アカデミー賞は、国際映画祭ではありません。
 知名度は抜群ですが、世界三大映画祭を中核とするFIAPF(国際映画製作者連盟)公認の映画祭にも含まれてもいません。

 (注:世界三大映画祭=日本では「カンヌ国際映画祭」・「ヴェネツィア国際映画祭」・「ベルリン国際映画祭」を指すことが多い)

 しかし、その知名度はマーケットへの影響力が絶大で、国際映画祭の各賞以上に受賞結果が各国の興行成績に大きな影響を与えています。
 このため日本をはじめとして各国は、「アメリカ映画の~」という表現を抑えて、「映画界最高の栄誉」などと、あたかも世界一の映画賞のように報道する傾向にあります。
 
 私も世界一の国際映画賞だと思っていました。

 アカデミー賞は、受賞すると賞の名称を刻印したオスカー像とよばれる金メッキの人型の彫像が贈られますが、賞金は一切ありません。

5月15日 沖縄本土復帰記念日(沖縄復帰記念日)

 今日は「沖縄本土復帰記念日(沖縄復帰記念日)」です。沖縄の施政権がアメリカから日本に返還され、沖縄県が誕生しました。

 1971年に結ばれた「沖縄返還協定」が、1972(昭和47)年5月15日午前0時をもって発効したためです。

 アメリカとの交渉で、日本政府は「本土並み」の復帰をめざしました。その結果、実際には30以上の米軍基地や弾薬庫、演習場等が残され、その面積は全県の12%にものぼりました。
 ベトナム戦争ではアメリカの最前線基地の役割をはたしました。

 昨年の沖縄タイムスのWebページに興味深い記事がのっています。
 沖縄の施政権返還から35年を迎えるにあたり、外務省アメリカ局長として返還交渉にあたった吉野文六氏(88)が、「日本は返還の時にもっと沖縄の基地削減を主張するべきだった。日本の安全保障政策に中長期的な将来像がないまま、沖縄の基地は35年間、放置されたことになる」と語っていました。
沖縄タイムス2007年5月16日付 (勝手にリンクしました)

 沖縄は、米軍基地が多く残り、米兵の犯罪が今でも繰り返されています。また米軍基地の移転のためにかけがえのない自然がどんどん壊されていっています。

 今後の沖縄はどうなっていくのでしょうか。
 平和できれいな沖縄であってほしいです。


  

5月14日 種痘記念日

 今日は「種痘記念日」です。1796年、イギリスの外科医ジェンナーが初めて種痘の接種に成功した日です。 

 種痘とは、天然痘の予防接種のことです。
 天然痘とは、天然痘ウイルスを病原体とする感染症一つです。

 天然痘は、世界中で不治、悪魔の病気と恐れられてきた代表的な感染症です。発症すると、高熱に引き続いて、全身に化膿性の発疹ができます。死亡率は高く、運よく治った人もあばた面になりました。
 
 奈良時代にも大流行して藤原氏の4兄弟が死亡しました。豊臣秀頼も伊達政宗も天然痘の傷跡を持っていました。
 
 一方、一度天然痘にかかった人は、二度とこの天然痘にかからないことはかなり広く知られていました。

 ある時、イギリスのジェンナーは、乳絞りの女性から「牛痘(牛の天然痘)にかかると(人間の)天然痘にはかからない」ことを聞きました。
 そこで、牛痘にかかった乳絞りの女性の手の水疱からとった膿を、近所に住んでいた8歳の男児の腕に接種しました。
 10日後に発症しましたがすぐに治癒し、その後天然痘を接種しても感染しませんでした。
 この実験は、学会には認められませんでしたが、ジェンナーは貧しい人たちに無料で種痘の接種を行い、しだいに認められるようになりました。

 ジェンナーの種痘は世界中に広がり、天然痘は激減していきました。

 1958年、世界保健機関(WHO)は天然痘根絶計画を始めました。
 当時、もっとも天然痘の害がひどいのはインドでした。
 インドでは天然痘にかかった人々には、幸福がもたらされるという宗教上の観念が浸透していたため、根絶が困難でした。
 
 WHOは天然痘患者が発生すると、その発病1ヶ月前から患者に接触した人々に種痘を行いました。ウイルスの伝播・拡散を防いで孤立させ、天然痘の感染拡大を防ぐためです。
 これが大きな効果を生みました。根絶が困難と思われていたインドで天然痘患者がみるみるうちに減っていきました。

 この方法は他の地域でも用いられ、流行地域が減少しました。その結果、アフリカのエチオピアとソマリアが最後の流行地域として残りました。

 さらに努力が続けられ、1977年のソマリアの患者が最後の天然痘患者になりました。さらに3年が経過した1980年5月8日にWHOは天然痘根絶宣言を行いました。
 
 人類が天然痘ウイルスに勝ったのです。
 すばらしいです。感動的なできごとです。

5月13日 大阪ミナミの「千日デパート」火災

 1972年の今日、大阪ミナミの「千日デパート」で火災がおき、死者118名を出しました。

 当時は5階までがショッピング、6階がゲームコーナー、7階がキャバレー『プレイタウン』でいわゆる雑居ビル状態でした。
 その上、6階がボウリング場へ改装中であり、また3階のニチイの洋品売場も改装工事中でした。

 1972年5月13日、閉店直後の22時27分頃、改装工事中の3階婦人服売り場より出火しました。
 原因は工事関係者のたばこの不始末でした。

 延焼は5階まででしたが、建材の燃焼による有毒ガスが発生し、そのガスが階上にまで充満しました。
 避難設備の不備と従業員の不手際が重なって、死者118名・重軽傷者78名の大惨事となりました。

 逃げ道であるはずの階段が煙突の役目を果たしました。当時、この時間帯で唯一営業していた最上階のキャバレー(当時はアルサロ)に煙が充満しました。

 この時、キャバレー従業員はパニックに乗じて客が飲み逃げしないように、避難扉の外側から施錠したため被害が大きくなったといわれています。
  
 逃げ場がなくなった客の多くはやむなく窓ガラスを割り、15m下の地上めがけて飛び降りました。しかし、無事に飛び降りた客はほとんどどおらず、飛び降りた24名の内22名が全身挫折や頭蓋骨折などで死亡(即死の客も)しました。
 
 飛び降りなかった客の多くは一酸化炭素中毒で窒息死しました。98名が7Fフロアで折り重なるように倒れていたということです。
 この内一部の遺体は、窓枠にしがみつき半身を乗り出した状態で絶命していました。
 
 また、非常誘導路に当たる箇所に間仕切りがされて、事実上非常誘導路がなくなっていたことなど、商業至上主義の雑居ビルの欠陥を露呈させる事件となりました。

 家主の日本ドリーム観光は賃料の収入を確保しようとして、多くのテナントを無理して入れていました。この結果、全館の管理責任体制がかなり散漫となっていました。

 火災発生から消防署への通報まで相当な時間があったともいわれています。
 新しい建築基準法にも不適合の状態でした。防火シャッターが自動作動せず、スプリンクラーが未設置でした。
 日本ドリーム観光側の管理体制に手抜かりがあったことは明らかです。

 裁判では第一審は被告全員は無罪でしたが、控訴審(大阪高裁判決)では一転して全員が有罪、上告審(最高裁判決)において変わらず、有罪が確定しています。

 また、翌年におきた大洋デパート火災(熊本市)では103人の方が亡くなっています。
 これらの火災は、新しい建築基準法に対して、「既存不適格」の物件を早急に無くすために、建築基準法及び消防法の大改正が行われる契機となりました。

 ビル火災の恐さをあらためて感じました。

5月12日 看護の日

 今日は「看護の日」です。ナイチンゲールの誕生日にちなんで制定されました。

 白衣の天使といわれたナイチンゲールは、イタリア生まれのイギリス人で、裕福な家庭に育ちました。

 ナイチンゲールは看護婦を志しますが、両親に大反対を受けました。そのころ、看護婦は貧しい女性がする仕事と見られていたのです。

 しかし決心を変えず、ヨーロッパの病院を見て回り、看護法と病院の管理法を勉強しました。帰国して、看護の訓練を受け、ロンドンの貴婦人病院の看護婦長になりました。

 このころ、クリミア戦争が勃発しました。クリミア戦争とは、ロシアとトルコ・フランス・イギリスの連合軍とが黒海沿岸のクリミア半島でたたかった戦争です。
 クリミア戦争の戦場の悲惨な状況がタイムス紙の報道されると、翌1854年、志願して38名の看護婦を率い従軍しました。

 最初に行ったのはスクタリ野戦病院でした。ところがひどい建物で、食料も医薬品も不足していて、衛生状態も劣悪でした。ナイチンゲールは寝食を忘れて負傷兵の看護にあたりました。

 その看護の成果があらわれて、死亡する兵士の数が非常に減少してきました。兵士から感謝されるだけでなく、イギリスでも人気になって、「クリミアの天使」とよばれるようになりました。

 帰国後聖トマス病院に看護学校を作って、看護婦を育てる正式の教育を実施しました。

 ナイチンゲールは、赤十字の活動には参加しませんでしたが、赤十字を創設したデュナンから高く評価されていました。
 
 低い立場にあった看護婦の職業を名誉あるものにすることなどで、はかりしれない功績をのこしました。

 赤十字社では、ナイチンゲールの誕生日を記念し、世界各国の優秀な看護師に「フローレンス・ナイチンゲール記章」を授与しています。

(歴史的記述に限り、看護婦の呼称をつかいました)

5月11日 母の日

 今日は5月の第2日曜日ですから、日本やアメリカ合衆国では「母の日」となっています。
 「母の日」は、日ごろの母親の苦労をいたわり、母への感謝を表す記念日です。

 世界の「母の日」の起源はさまざまで、日付もちがっています。たとえばスペインでは5月の第1日曜日、北欧スウェーデンでは5月の最後の日曜日が「母の日」にあたります。

 アメリカの「母の日」の起源は、1907年にさかのぼります。
 
 アンナという女性が、亡き母親を偲び、母が日曜学校の教師をしていた教会で記念会をもち、白いカーネーションを贈りました。アンナに感動したた人々は、母をおぼえる日の大切さを認識し、翌1908年の5月10日、同教会に470人の生徒と母親たちが集まり、最初の「母の日」を祝いました。
 
 アンナは参加者全員に、母親が好きであった赤いカーネーションを手渡しました。このことから、赤いカーネーションが母の日のシンボルとなりました。アンナは友人たちに「母の日」を作って国中で祝うことを提案しました。
 
 この風習がアメリカのほとんどの州に広まり、1914年、その時のアメリカ大統領だったウィルソンが、5月の第2日曜日を「母の日」と制定してアメリカの祝日に定められました。

 日本で初めての「母の日」を祝う行事が行われたのは明治の末期で、1915年に教会で祝われはじめ、徐々に一般に広まっていきました。

 また、一般に広く知れ渡ったのは1937年、森永製菓が告知を始めたことがきっかけになったとも言われています。
 
 日本では、母の日には、やはりカーネーションなどを贈るのが一般的となっていますが、最近ではカーネーションに限らず、バラ、ガーベラなども贈られるようになってきています。

 「いつまでも明るい笑顔 優しい手 母になり素直に言えた ありがとう」
                    (「母の日コム」のホームページより拝借しました

 

5月10日 帝銀事件の平沢貞道が獄死

 帝国銀行の犯人として、死刑が確定していた平沢貞通が今日5月10日、獄死しました。享年95歳でした。
 「帝銀事件」とは、帝国銀行椎名町支店で、男が行員らに毒物(青酸化合物)を飲ませ、16人中12人を死亡させた事件です。

 平沢貞道は、1913年、日本水彩画会結成に参画し、1919年には第1回帝展に出品しました。第9回光風会展で今村奨励賞を受賞。1930年、日本水彩画家会委員に就任しており、実力派の画家としての地位を確立していました。

 ところが、1948年8月21日、「帝銀事件」の犯人として、突如、警視庁に逮捕されました。出所不明の、説明できない現金を持っていたのが決め手ともいわれています。
 
 そもそも帝銀事件は、同年1月におこっています。7ヶ月も経っています。この間、事件はどのように捜査されたのでしょうか。

 始めに、遺体から青酸化合物が検出されたため、その扱いを熟知している、あの生体実験で知られた旧陸軍細菌部隊(731部隊)関係者を中心に捜査されていました。

 次に、陸軍第9研究所(通称9研)に所属していた伴繁雄から有力情報が入手されました。
 それによって、事件発生から半年後の6月25日、刑事部長から捜査方針の一部を軍関係者に移すという指示が出ています。こうして陸軍関係の特殊任務関与者に的が絞られていきました。
 しかし、突如、GHQから旧陸軍関係への捜査中止が命じられてしまいます。(クサイ)

 そこで捜査の方向が転換され、他の類似事件でも使われた松井蔚の名刺の捜査に焦点が当てられていきます。
 そして8月21日、松井と名刺交換した人物の一人である画家の平沢貞通が北海道小樽市で逮捕されました。

 平沢は公判で無実を主張しましたが、1955年に死刑が確定しました。
 しかし、歴代の法務大臣が死刑執行命令書に署名しなかったため執行されませんでした。
 新聞記者の前で一度に23人の死刑執行に署名した田中伊三次という法務大臣でさえ、「これは冤罪だろ」と言って死刑執行を命じなかったといいます。

 長年宮城刑務所に収監されていましたが、その後高齢のため体調を崩し、1987年5月10日に八王子医療刑務所で肺炎を患い、獄中で病死しました。

 平沢に対する冤罪事件として、平沢の無実を信じる人々は、今、第19次の再審を請求中です。 

5月9日 アイスクリームの日

 今日は、「アイスクリームの日」です。  
 1964年のこの日、東京アイスクリーム協会が各地の施設へアイスクリームをプレゼントしました。
 アイスクリームのシーズンに入る時期におこなわれたこの行事を記念して、この日を「アイスクリームの日」と制定し、各種のイべントを実施しています。

 さて、アイスクリームはいつごろからあったのでしょうか。 

 製品を天然の氷や雪で冷やして食べる習慣は、2000年以上前のローマ時代からありました。
 カエサル(シーザー)やアレキサンダー大王が乳や蜜に氷や雪を入れて飲んだという話が伝わっています。
 また、マルコ・ポーロは中国で乳を凍らせたものを食べ、その製法をイタリアに伝えたという話もあります。

 今につながるアイスクリームは、イタリアからフランス・イギリスを経て、アメリカで大量生産されるようになっていました。

 日本人で初めてアイスクリームを食べたのは、江戸時代の末に咸臨丸でアメリカに渡った使節団であるとされています。

 日本で最初にアイスクリームを作って売ったのは、1869年(明治2年)7月、この使節団のメンバーであった町田房蔵です。彼は横浜の馬車道通りに開いた「氷水屋」で製造・販売しました。
 
 町田のアイスクリームは、「あいすくりん」という名称で、一人前の値段は2分、現在のお金でナント約8000円と大変高価なものでした。
 当然、民衆には敬遠されて、なかなか浸透しませんでした。

 この「あいすくりん」は生乳、砂糖、卵黄を原料とするシンプルなものでした。これはいまでは「カスタードアイス」ともいわれるものだそうです。
 富士の氷穴および函館の天然氷をもちいて製造したと書き残されています。
 
 後に1899年7月、東京銀座の資生堂主人、福原有信が売り出して世に広まりました。

 私の小学生時代は、アイスキャンデーが食べられる初夏が来るのが待ち遠しかったものです。現代では真冬でも食べられるお菓子になりました。
 おとぎ話の王子でもうらやましがる時代になりましたね。
 「冬にアイスクリームなんて!」とはじめは抵抗があったものです。はじめだけ。

 なお、2006年の国内販売額のトップ5は、森永乳業(12,5%)、江崎グリコ(約12,0%)、ハーゲンダッツジャパン(11,8%)、明治乳業(10,5%)、 ロッテ(9,8%)となっています。(日本経済新聞社推計)。

5月8日 ゴーヤーの日

 今日は、「ゴーヤーの日」です。ゴー(5)ヤー(8)の語呂合せで5月8日です。
 また、5月からゴーヤーの出荷が増えることもあってこの日が選ばれました。JA沖縄経済連と沖縄県が1997(平成9)年に制定しました。

 ゴーヤーとはニガウリ(苦瓜)のことです。正式和名を「ツルレイシ」といいます。

 果肉が苦いのが最大の特徴ですが、ニガウリは西日本の各地や東南アジアでもつくられてきて、種類もたくさんあり、呼び名もたくさんあります。

 沖縄県ではご存じのように「ゴーヤー」といわれています。県外の人はしばしば「ゴーヤ」と発音しますが、正しくは語尾が伸びます。ゴーヤーが正しいです。焙煎してお茶として飲用することもあります。
 
 宮古島では「ゴーラー」、八重山地方(石垣島や西表島など)では「ゴーヤ」、九州では「レイシ」「ニガゴリ、ニガゴイ」などとよばれています。

 海外では、インド、バングラディシュや東南アジア諸国で普通に食べられている野菜です。フィリッピンでは「アンパラヤ」と呼ばれています。
 英語ではBitter melonといいます。苦い瓜の意味です。

 「ツルレイシ」はゴツゴツしていて、エネルギッシュなパワーを秘めているように感じます。外観も力強い緑色をしています。この地方では代表的な夏野菜です。 

 大きさはまちまちです。沖縄産の太くて巨大なものから、九州産に多い長くて細いものまで、いろいろあります。
 
 NHKテレビの連続ドラマ「ちゅらさん」以降、ゴーヤーブームがおこり、ゴーヤーは全国区になりました。今ではどこででも手に入れることができます。

 その名の通り、苦味に特徴のある野菜です。この苦味こそがおいしさですが、沖縄の人はみな食べてるのかと思っていましたら、嫌いで食べない人もいるようです。人それぞれだから当然のことですが、そのときはびっくりしました。
 沖縄のこどもも、大きくなって大人の味がわかるまではなかなか好きにはなれないようですね。まさに大人の味。この苦味こそがおいしさですね。

 もちろん、体にもたいへん良く、食欲のない時や、疲れたときに食べると、もりもり力がわいてくるようにいわれています。
 暑さでバテた時の夕食にゴーヤー料理を食べると、次の日は元気が回復していると経験者である「ゴーヤ通の友人」が語っていました。

 現在では、品種改良で汐風(しおかぜ)という品種が生まれました。これは、ハウスで栽培されるようになり、1年中食べることができるようになりました。
 全国で冬でも購入できるのは、この汐風です。

 

5月7日 コナモンの日

 今日は「コナモンの日」です。コ(5)ナ(7)モン、「こ(5)な(7)」の語呂合せです。

 つまりお好み焼き、たこ焼き、うどんなど粉を使った食品「コナモン」の魅力をPRする日です。日本コナモン協会が2003(平成15)年に制定しました。

 大阪はコナモンをよく食べる町です。店も多いです。
 その代表はうどん、お好み焼き、たこ焼きでしょう。私のおすすめはお好み焼きとたこ焼きです。

 お好み焼きは週に1回ぐらいの割で食事としてとります。各家庭独特の味があります。
 
 外食するときは店をだいたい決めています。
 千林・京橋・放出・寺田町などにチェーン店がある風月(風の街)がおすすめです。おいしいですよ。焼きそばの麺は太いですが、これがうまいのです。

 また、大阪の家庭には、一家に1台はたこ焼き器があるといわれていますから、わが家でも何かイベントがあったらたこ焼きをします。千枚通しでくるくる、ひっくり返して焼くのがおもしろいですよ。

 おいしいたこ焼きのコツをテレビで取り上げていました。NHKの「ためしてガッテン」です。
 そのマネをしたら、たしかにおいしくなりました。簡単なコツです。

 そのコツとは、たこ焼きをひっくり返すとき、ぐるっとすっぽりひっくり返してはダメ。半分だけで止めて、口を半分開けておくのです。焼けてきたら、あと半分を回して丸い形をつくります。

 たったこれだけでほんとうに味がアップします。
 「ためしてがってん」2007.4.18放送

 しかし、コナモンは小麦の高騰で食べにくくなりますね。

 

5月6日 「てなもんや三度笠」の放送開始

 藤田まこと(あんかけの時次郎)の「俺がこんなに強いのも、あたり前田のクラッカー!」で有名なテレビ番組「てなもんや三度笠」は、1962年の今日から放送が開始されました。

 全部で309回されました。放送時間は、毎週日曜日18:00~18:30でした。提供スポンサーは、この放送で一躍有名になった菓子メーカーの前田製菓です。
 多くの人がクラッカーというお菓子を知ったのはこの番組をみるようになってからではないでしょうか。
 「当たり前田のクラッカー」のギャグは、普段の会話でも使われるほど浸透していきました。

 また、時代劇風なコメディで、数々の流行語を生み出しました。
 今、藤田まことの「ドタマ、かち割って、ストローで血ぃ~吸うたろか!」「手、つっこんで奥歯ガタガタいわしたろか」などのギャグを思い出しました。後年ミュージカルで活躍した財津一郎の「非ッ常にキビシ~ッ!」は印象に残っています。

 出演者は、藤田まこと(あんかけの時次郎)、白木みのる (珍念)、財津一郎(蛇口一角・桜富士夫)、南利明(ネズミ小僧次郎吉)、その他、美空ひばりの弟の花房何とか?も出演していました。
 脇役には原哲男、伴淳三郎、堺駿二(堺マチャアキの親父さん)らがいました。

 この他ゲストも豪華で、てんぷくトリオ、漫画トリオ、かしまし娘、エオケン(榎本健一)、柳家金語楼、芦屋雁之助、平参平、コント55号、やすしきよし、清川虹子ら東西の人気スターが毎回入れ替わって出演しました。鶴田浩二の出演しています。

 残念ながら映像が残っていません。ただ、個人的にホームビデオで撮ったものが一部あるようで、商品化されています。

 当時、名古屋の中・高校生だった私は、ほとんど毎週欠かさず、笑いこけていました。 舞台上で立ち回りをするので勢い余ってセットを壊してしまうこともよくあり、これも生放送ならっではのおもしろさでした。
 これより少し古い時代に、日曜日の昼に「ダイラケのスチャラカ社員」という喜劇がありましたが、これも抱腹絶倒の番組でした。
 大阪とか大阪弁に親しみを感じた番組でした。

 上方のお笑いが全国に広がるのも、この「てなもんや三度笠」がきっかけをつくったように思います。
 この後、漫才、落語、吉本新喜劇もしだいに発展していって、今日のお笑いブームにつながっていきました。

 団塊の世代以上の方は、「てなもんや三度笠」にはいろいろな思い出をお持ちではないでしょうか。

5月5日 端午の節句

 今日は、五節句の一つ、「端午の節句」です。「菖蒲の節句」ともいいます。邪気を払うため、菖蒲や蓬を軒にさし、菖蒲湯(菖蒲の束を浮かべた風呂)に入る風習が残っています。
 また、粽(ちまき)や柏餅を食べる風習もあります。

 「端」は物のはし、つまり「始り」という意味です。また、「午」は「五」に通じることから、元々「端午」は月の始めの五の日のことでした。
 その中でも数字が重なる5月5日を「端午の節句」と呼ぶようになりました。

 平安時代までは、日本ではこの日、男性は戸外に出払い、女性だけが家の中に閉じこもって田植えの前に身を清める神聖な儀式の日だったようです。
 端午の節句は、このようにもともとは女性の節句でした。

 ところが、「菖蒲」の節句ともいわれているように、「菖蒲(しょうぶ)」が「尚武(しょうぶ=武事・軍事を尊ぶこと)」と同じ読みであることから、武士の社会になった鎌倉時代ごろから男の子の節句とされました。
 さらに江戸時代にかけて、甲胄・武者人形等を飾り、庭前に鯉のぼりを立てて男の子の成長を祝うように変わっていきました。

 なお、国民の祝日に関する法律(祝日法)では「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」ことを趣旨として、5月5日を「子どもの日」と制定しました。
 ゴールデンウイークを構成する日の一つになっています。

5月4日 ラムネの日

 日本で初めてラムネの製造販売をはじまったのは、1872(明治5)年の今日でした。
 東京の千葉勝五郎がレモン水に砂糖と水を加えた飲み物「レモネード」の製造・販売を始めました。
 「レモネード」がなまって「ラムネ」の呼び名が一般化したといわれています。
 このため、 5月4日は「ラムネの日」とされています。

 わが国に初めてラムネの元祖となる炭酸飲料が伝わったのは江戸時代の終わりごろです。
 アメリカのペリーが浦賀に来航したときにこんな話が残っています。
 幕府の役人にラムネ(このころはまだラムネという名前はありません)が振る舞われました。当時もラムネの栓を開けたときのポン!という音がしました。銃声と勘違いした江戸幕府の役人たちが、いっせいに刀の柄に手を掛けたということです。
 及び腰の幕府の役人ですから、さぞびっくりしたことでしょう。 

 ラムネの特徴でいちばんに思い浮かぶのは、やはりビー玉ですね。ビー玉はどんな役割をはたしているのでしょうか。
 
 はじめにラムネのびんを立てておいて(このときビー玉は下に落ちています)原液と炭酸を入れます。
 次に急激にびんを下向きにすると、中のガス圧でビー玉がびんの口に押しつけられ、口にあるゴム(パッキンの役割)にビー玉が密着して口をふさぐしくみです。

 ビー玉がなければびんのラムネはできなかったのです。サイダーも同じ炭酸飲料ですが、どう違うのでしょう。

 区別は簡単です。びんの口をビー玉で栓をした炭酸飲料を「ラムネ」、王冠を使って栓をしたものを「サイダー」と分けています。

 さて、ラムネは、150年近くも中小企業の工夫と努力により育てられてきました。
 大企業が生産しているラムネはありません。
 何か合意・取り決めみたいなものがあって大企業はラムネの生産には参入しないことになっています。中小企業の生産が保護されています。中小企業を応援するドリンクでもあります。

 ガラスのびんを利用したラムネは、環境保護の面からも考えても、いっさいの資源を無駄にしないで再利用している最優秀作品です。

 さわやかなビー玉の音とともに、ラムネを見直したくなりました。

5月3日 憲法記念日

 今日は、日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する国民の祝日、つまり「憲法記念日」です。

 1947(昭和22)年の5月3日に日本国憲法が施行されたのを記念して制定されました。

 日本国憲法が公布されたのは、前年の1946(昭和21)年11月3日です。半年の準備期間を経て翌年5月3日から施行されました。

 日本国憲法は、前文と11章103条の本文で構成され、「国民主権」「平和主義」「基本的人権の尊重」を基本理念としています。
 学生時代は、憲法の三大原則(三大原理)として習いました。

 前文もすばらいいですが、とりわけ有名なのは第9条の「戦争放棄」の条項です。いま、この条項が話題になっています。どんな内容でしょうか?

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<憲法第9条>

 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の 発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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 久しぶりに読みましたがすばらしい文章です。内容もいいし、読んでいてリズムがいいです。
 
 要するに、「国際平和をまじめに求める。戦争をしない。国と国との争いには武力を使わない。だから軍隊は持たない。国には戦争をする権限はない。」という意味ですが、このおかげで戦後60年、日本に平和がもたらされてきました。
 
 第9条は日本の宝だけではなくて、世界遺産だといった人がいましたが、同感です。

 第9条を廃止しよう、変えようという動きが、財界だけでなく、なんと憲法を守る義務がある内閣や国会議員から出ていますが、今日の朝日新聞(asahi.com)は、「9条改正反対66%に増、賛成23%に減」と報じています。

 以前より、改正反対が増えて、賛成が減って、差が開いたということです。
 「九条の会」というのがあって、どんどん運動が広がっています。 

5月2日 エンピツ記念日 

 1887年(明治20)年の今日、日本で始めて鉛筆の工場生産が始まったといわれています。

 鉛筆の生産を始めた会社は眞崎鉛筆です。後の三菱鉛筆ですが、三菱鉛筆では実際の生産開始の日は不明で、記念日の制定もしていないということです。
 「エンピツ記念日」の制定者は不明のままです。

 鉛筆は16世紀の半ばごろ、イギリスで発明されました。
 その後、黒鉛を粉末にして粘土と混ぜて固めた鉛筆が考え出されました。この粘土を使う方法が現在でも主流になっています。
 徳川家康もオランダ人から手に入れて、鉛筆を持っていたということです。

 さて、おもしろいことを知りました。ホームページで「鉛筆記念日」のことを調べていたら、三菱鉛筆と大企業の三菱とはまったく関係のない会社だというのです。てっきり三菱グループの傘下だと思っていました。

 眞崎鉛筆は創業まもなく三菱マークを使用していました。1952年に社名を三菱鉛筆に変更しています。三菱財閥も三菱マークを使っていました。

 そっくりの三菱マークですが、その由来はそれぞれの家紋の違いにありました。眞崎家は三鱗、岩崎財閥は三階菱です。
 同じ三菱でも両者は全く関係がなかったのです。
 
 三菱鉛筆のUNIブランドですが、やはり書きやすくて、小学生のころは欲しかったものでした。
 私は、トンボとかコーリンとかを使っていました。コーリンが1本5円のとき、UNIは50円ぐらいで高価だったと思います。コーリン・・・なつかしい名前です。

 コロコロころがしてクジの代わりに遊びに使ったり、テストの答えがわからない時にも、コロコロころがして(結果は別として)、役に立ったものです。

 現代ではシャープペンシルの方が便利だというので、需要が減った鉛筆ですが、使ってみるとなかなか気持ちがいいものですよ。
 手触りがよく、気持ちがリフレッシュされるようです。 

5月1日 水俣病公式発見の日

 1956年の今日は、当時の新日本窒素(現在のチッソ)水俣工場附属病院院長の細川一は、新奇な疾患が多発していることに気づき、「原因不明の中枢神経疾患多発」と保健所に報告した日です。これが「水俣病」の水俣病公式発見の日とされています。

 すでに1942年ごろ(まだ戦争中)から、水俣病らしき症例が見られたとされていますが、顕在化したのは戦後の1953年ごろからです。
 
 このころより、水俣湾周辺の漁村地区を中心に、ネコ・カラスなどの不審な死が多く発生しはじめました。空を飛んでいる鳥が落ちてきました。ネコが苦しさのあまり狂ったように走り回って死にました。
 やがて、特異な神経症状を呈して死亡する住民がみられるようになりました。 

 水俣病の患者はほんとに悲惨でした。

 当初、患者の多くは漁師の家庭から多く出ました。原因が分からなかったため、はじめは「奇病」(猫踊り病)などとよばれていました。
 
 水俣の近海でとれた魚介類は価値がなくなり以上では売れなくなりました。水俣の漁民たちはたちまち貧困におちいりました。
 貧困のため食糧を今まで以上に魚介類によらざるをえなくなりました。こうして水銀の被害が拡大されていくことになりました。
 
 元気な孫見たさに、水銀が濃縮されている魚をせっせと妊娠中の娘に食べさせた老漁師、生まれてきた孫は生まれながらの水俣病患者、という残酷な話を聞いたことがあります。
 テレビで見た若くてたくましそうに見える漁師の青年は水俣病患者でした。彼は、水銀で神経をやられているため腕(それとも指?)の力がないのでした。
 力が出せないので、物が運べず、漁師はできません。

 現在では、すでに明らかなように、水俣病は、公害病の一つで化学工場(チッソ)が海に流した廃液により引きおこされたことがはっきりしています。
 
 まさに世界最大の水銀公害病でした。

 政府は積極的な解決をはかるとしていますが、水俣病の認定基準を改めるなどの努力をしてほしいものです。
 まだまだ苦しんでいる人がいます。

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