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4月30日 国際盲導犬の日

 毎年4月の最終水曜日は、「国際盲導犬の日」となっています。今年は、今日4月30日が「国際盲導犬の日」に当たります。
 
 記念日と前後の休日には盲導犬に対する理解を深めるための行事が行われます。

 映画「クイール」を見た人はご存じですが、盲導犬とは、視覚障害者が安全に快適に歩けるよう誘導する犬のことです。
 盲導犬としての適性をもった親同士の血統を重視して、計画的な繁殖がおこなわれているといわれています。

 ラブラドール・リトリーバーやゴールデン・リトリーバー、ジャーマン・シェパードなどの中型犬が日本では多く活躍しています。

 以前、読んだ本の感想ですが、盲導犬にとって一番欠かせないのは、生後2ヶ月~1年、家族同様にくらす、ボランティアのパピーウォーカーだと思いました。
 なぜなら、人間という動物が信用できる相手かどうかを肌で感じる時期だからです。
 この時期に適切な愛情を受けなかったら、人間を信用できない経験を積んでしまい、盲導犬にはなれないのではないかと感じました。 

 また、盲導犬の訓練の基本は、よくほめるということだと聞きました。
 正しければ「グッード(good)」と繰り返し犬をよくほめることだといいます。
 ほめられたら、「これはやっていいことだ」と一つ一つ覚えていくようです。するべきことが何かがわかり、やる気が育っていきます。
 
 人間の子どもも同じですね、きびしく叱っているだけでは、盲導犬にも人間の子どもにも、「するべきことはなにか」を伝えることはできないでしょう。

 映画「クイール」を見たとき以来、盲導犬だけでなく、人間の子どもについても同じことがいえるなあと、ずっと考えていました。

 親の愛情を十分受けないで育った子、親の体罰で育った子、親に虐待されて育った子、こんなかわいそうな子どもがいるのは悲しいことです。

関西盲導犬協会(勝手にリンクさせてもらいました)

4月29日 たまの誕生日

 たまはネコです。といってもテレビで有名なサザエさんの磯野家のタマではなく、和歌山電鉄貴志川線の貴志駅長の三毛猫のたまです。
  今日は、駅長のたまの誕生日なのです。
 
 たまは、2007年1月5日に、駅長としての正式な辞令を交付されたことで話題をよびました。同居するちびと、たまの母親ミーコも助役に就任しました。
 おもな業務は「客招き」です。報酬はキャットフード1年分です。
 任期はなく、終身雇用だそうです。

 たま駅長らの勤務日及び勤務時間は、月曜日から土曜日の朝9時頃から夕方5時頃までということです。
 改札台や売店前のテーブルに上って乗降客を出迎えるのが日課です。
 また、「おもちゃ電車」のテープカットや、利用促進のための「貴志川線祭り」などのイベントで出張したこともあります。

 関西では、ネコの駅長就任の話題はテレビニュースや新聞でも報道されました。

 効果はあったのでしょうか。
 じつは大有りなのです。
 
 和歌山電鉄の「いちご電車」や「おもちゃ電車」と合わせて、たま駅長訪問が組み入れられるようにもなって、当駅の乗降客数が上昇しました。
 1日あたり約700人だったのが、就任直後の2007年1月には約17%増加しました。
 昨年のゴールデンウィーク期間中には、同社ではその前年の同じ時期とくらべて40%も収入が増加しました。

 このことから開業1周年記念式典で「スーパー駅長賞」がおくられました。
 昨年末には、「トップランナー賞・客招き部門」が贈られています。ちなみにトップランナー賞のご褒美は猫じゃらし、年末手当はカニカマのスライスだったそうです。
 なかなかほほえましいことです。

 さらに貴志川線の知名度と乗客数や売上を向上させたことから、たまは就任1周年の2008年1月5日をもって、駅長から「スーパー駅長」(課長職相当)に昇進しました。

 最初、このニュースが報道されたとき、ばかばかしいという反応も一部にありましたが、会社への貢献と、何よりも多くの人々を楽しませていることを知るとき、おもしろい企画だったと思います。外国人も来るようになったそうです。

 わが家にも、道路に面した2階の窓際で一日中寝ているネコが4匹います。通行人の親子連れが「かわいいね」と通りすがりにほほえんでくださるので、これだけで社会に貢献しているのかもしれませんネ。

4月28日 象の日

 1729年、江戸時代の中頃、交趾国(現在のベトナム)からの献上品として清の商人により初めて日本に象が渡来しました。この頃はだれもが歩いて移動します。もちろん、大阪に上陸した象は、のっそりのっそりと京街道を歩いて京都まで行ったんでしょうか。それしかないですね。淀川を上る船には乗せられないでしょう。

 そして、1729年の今日、中御門天皇の前で披露されました。その後、江戸に運ばれ、5月27日に、将軍徳川吉宗の前で披露されました。

 象の日のことを考えていたら「ランディ」を思い出しました。あの「星になった少年」にでてくる象です。
 「ちび象ランディと星になった少年」は、実在の「小川動物プロダクション」の小川哲夢くんの短い一生を描いた作品です。
 
 ストーリーは言わない方がいいにでいいませんが、ぜひ、ご覧になってください。DVDになっていてレンタルできます。
 
 すばらしい映画で、タイの自然と人情、映像と音楽が感動的です。感激して涙が止まりませんでした。
 2回目、3回目をみるたびに、映画の最後に少年がバイクで出かけたあと、象が鳴き出すところにくると、もう見てられません、その場から逃げ出します。

 なお、主人公の小川哲夢くんを演じた柳楽優弥が、カンヌ映画祭の最優秀男優賞を受賞しています。
 

小川動物プロダクションのホームページ

4月27日 駅伝競走誕生の日

 今や世界的に有名になり、外国選手もさかんに参加するようになった「駅伝」は、1917年の今日、始めて「駅伝」の名前で実施されました。

 この「駅伝」は、1917年4月27日、「東海道五十三次駅伝競走」の名前で実施されました。
 走る区間は、京都の三条大橋を午後2時に出発し、東京の上野の不忍池までの23区間、約508kmを走るというものでした。
 参加チームは関東軍と関西軍の2チームです。もちろん昼夜兼行です。関東軍の最終走者が不忍池に到着したのは翌々日の午前11時34分のことでした。
 この競走のスタートとゴールである三条大橋および上野不忍池の近くには「駅伝発祥の地」の碑がそれぞれ存在しています。

 この「駅伝」は、江戸時代における東海道五十三次における伝馬制からヒントを得たといわれています。
 駅伝という言葉自体は、日本書紀にも記載されているほど古いものです。
 都と地方の間の道路網の中継所を「駅」といい、ここに宿泊施設があり、人や馬も配置されていました。駅に朝廷の使者が到着すると、次の駅まで乗り継ぎの馬を用意する仕組みが整っており、この制度を「駅制と伝馬制」といいました。ここから「駅伝」という名前が考え出されたようです。 

 テレビ中継技術の発達とともに、国内での駅伝人気は増す傾向にあります。
 毎年正月2日と3日の両日にかけて行われる箱根駅伝は1920年に第1回が開催された伝統の競走です。
 もう一つ、元日に行われる全日本実業団駅伝(ニューイヤー駅伝)と合わせて正月の催事として完全に定着しています。

 日本にとどまらず世界的に行われる競技となっています。
 そのきっかけとなったのが、1983年に開かれた駅伝の最初の国際大会である横浜国際女子駅伝だと言われています。
 その後、国際千葉駅伝で男女の国際大会も開設され、国際的な駅伝認知が高まりました。
 特に元々マラソンや中距離トラック競技の強豪国であるエチオピアで盛んになってきており、国内でも駅伝大会が行われるほどです。

 国際的には、rord relay、またはekidenとよばれています。

4月26日 よい風呂の日

 毎月26日は、ふ(2)ろ(6)の日ですが、4月はよい(4)が加わって、「良い風呂の日」となります。語呂合わせ記念日です。
 
 私は風呂が大好きで、若いころは自宅に風呂があっても、毎日銭湯へ通っていました。
銭湯で手足を伸ばして、ゆっくり入浴し、サウナ風呂やスチーム風呂、薬風呂、露天風呂と巡って1時間以上かかっていました。
 
 そのころは、首いっぱいにお湯につかる「全身浴」でしたが、「半身浴」の本を読んで、共感してからは断然「半身浴」党になりました。

 私の「半身浴」は20分~25分ぐらい腰から下だけをお湯につける方法です。季節によりますが、汗が玉のように流れ出て、爽快な気分になります。体を洗ってから仕上げに10分ほど「半身浴」をしてからあがります。

 「半身浴」は汗といっしょに老廃物や有害物質を排出します。私は冷え性なので足のつま先まで温まるので効果的でした。

 自宅の風呂でゆっくり「半身浴」をするようになったので、銭湯はご無沙汰になりました。  サウナで我慢して無理するよりも、腰から下だけの半身浴の方が体のためにいいですよ。とくにお年寄りと高血圧の方は絶対だと思います。

 何人かの友人に勧めましたら、実践していただいている方がいてうれしいことです。

 なお、最近、ジャグジーということばをよく聞きますが、「噴流式泡風呂」とか「ジェットバス」といっていたものですね。最初はとまどいました。
 ジャクージ兄弟の「Jacuzzi社」が開発した「噴流式泡風呂」のことで、日本では、ジャクージが訛ってジャクジー、あるいは、ジャグジーと呼ばれるようになったということです。

4月25日 ギロチンが実用化された

 今日は、1792年、フランスでギロチンが実用化された「ギロチンの日」です。

 ギロチンとは、ご存じ斬首刑の処刑装置です。2本の柱の間につるした刃を落とし、柱の間に寝かせた人の首を切り落とすしくみです。断頭台、断首台ともいわれます。

 当時のフランスは革命後の恐怖政治によって、毎日何百人もが処刑されていました。貴族は断首、平民は絞首刑と区別されていました。
 
 また断首の場合、死刑執行人が熟練していない場合、、何度もやりなおして切り付けるので、受刑者に多大な苦痛を与えることが多かったといわれています。切腹のときに介錯の腕が悪いと非常に苦痛を与えるのと同じです。

 そこで、受刑者に苦痛を与えず、しかも身分に関係なく同じ方法で処刑をおこなえるようにとの提案が議会でされました。
 この提案をしたのがギヨタンという国会議員でした。この提案が採用され、刃をナナメにするなどの改良を加えた断頭台が完成しました。

 刃がナナメになって落ちてきたら、包丁で肉を切るのと同じで、確かにスパッと頭が切り落とされます。
 一瞬のできごとで、それまでとくらべて苦痛ははるかに少なくなったということです。

 この装置は、ギヨタンから名前をとってドイツ語読みで「ギロチン」という呼び名が定着しました。
 ギロチンのおもちゃも制作されて、子どもらはそれを使って小動物の首をはねていたそうですし、公開処刑が実施されて、多くの見物人が集まったともいわれています。

 フランスでは1981年9月に死刑が廃止されましたので、それとともにギロチンの使用もなくなりました。

 ギロチンは、フランスだけでなくヨーロッパ各地に広がり、ナチス支配下のドイツでは3000人近いギロチン処刑がおこなわれました。フランスの植民地であった南ベトナムでも使われていました。

 ベルギーでも死刑廃止までギロチンによる死刑が実施されていました。 

 ギロチンをこの目で見てみたいという方は、日本国内では唯一、明治大学博物館に展示・収蔵されており、見学することができます。

 

4月24日 デフォーの命日

 今日はダニエル・デフォーの命日です。
 デフォーを知らない人でも「ロビンソン・クルーソー」という名前を知らない人はいないでしょう。「ロビンソン・クルーソー」の生みの親です。

 デフォーは今から300年も前の、「ロビンソン・クルーソーの生涯と冒険」を刊行したイギリスの作家です。

 第1部では、ロビンソンの誕生、船乗りになって無人島に漂着、そして独力で生活を築いてゆくところが書かれています。
 この無人島にはときどき近くの島の住民が上陸してきて、捕虜の処刑や食人が行なわれていました。ロビンソンはその捕虜の一人を助け出して、フライデーと名づけて家来にします。
 その島で28年間を過ごした後、帰国するまでが描かれています。

 第2部は、再び航海に出たロビンソンが、以前暮らした無人島やインド・中国などを訪れます。第3部もが刊行されました。

 カール・マルクスの『資本論』や、マックス・ウェーバーの著書でロビンソン物語がとりあげられるなど注目を集めました。
 同じ時代のスウィフトの代表作『ガリヴァー旅行記』にも大きな影響を与えたといわれています。

 日本の幕末に、オランダ語の訳書から邦訳されました。明治5年には『魯敏遜全伝』という題で刊行されています。
 子供向けの冒険物語として編集されたダイジェスト版で親しんでいる方も多いでしょう。

 ロビンソン・クルーソーは架空の人物ですが、実際に無人島で生活したスコットランドの航海長セルカーク の実話をもとにしているといわれています。
 セルカークは約4年半の間、無人島(チリの沖合にあるマス・ア・ティエラ島)で自給自足生活をしています。1966年にマス・ア・ティエラ島はロビンソン・クルーソー島と改名され、今日では約600人が住む島になっています。

 ちなみに、日本人探検家の高橋大輔がこの島の調査を始め、実際に現地で自給自足生活を試みるなどしてセルカークの足跡を追った結果、2001年にセルカークの住居跡と思われる場所を発見しています。

4月23日 サンジョルディの日

 今日は「サンジョルディの日」です、といっても知らない人が多いでしょう。記念日になっているのはスペインと日本だけなのです。
 スペインは国柄として記念日になる理由がありますが、本来、日本には何の関係もない日なのです。

 元来は、今日は聖ゲオルギウスの祝日でイングランドではナショナルデーとされています。聖ゲオルギウスはキリスト教の聖人で、イングランド、スペイン(カタロニア地方)などの守護聖人でした。
 聖ゲオルギウスはカタロニア語でいうとサンジョルディとなります。
 
 カタロニア地方では、伝統的にこの祝日に男女が赤いバラなどを贈りあうというバレンタインデーと似た風習がありました。

 話が飛びますが、今日は「ドン・キホーテ」の作者セルバンテスの命日です。さらにイギリス最大の劇作家シェークスピアの誕生日かつ命日でもあります。
 文学にも縁が深い日でもあったのです。
 
 1923年に、カタロニア地方の本屋が、商魂たくましく、「サンジョルディの日」と「文学に縁の深い日」であることを結びつけて、プレゼント用に本を買うとか、赤いバラを添えて本を贈るという風習を広めました。
 現在では、カタロニア地方では、この日には男性は女性に赤いバラを贈り、女性は男性に本を贈る日とされており、男女ともに本を贈りあうことも多いといわれます。

 日本では、日本書店組合連合会と日本カタルーニャ友好親善協会が中心になり、1986年に、4月23日を「サン・ジョルディの日」と定めました。
 もっとも、日本における知名度はそれほど高くありません。当初より、宣伝にはそれほど力を注いでいませんでした。

 4月23日は、聖ゲオルギウスを守護聖人とする国および地域をはじめとするキリスト教徒の間で祝われていますが、「サン・ジョルディの日」という名の記念日としているのはスペインと日本のみであります。

 ユネスコは、今日を1996年から世界図書・著作権デー(「世界本の日」)としました。現在は国連の国際デーになっています。
 
 日本では、「子ども読書の日」に定められています。
 スペインでは、「本の日」でもあります。

4月22日 真言宗の開祖、空海が永眠

 835年の今日は、日本人がとてもよく知ってる空海がなくなった日です。

 空海は、791年、讃岐の国(今の香川県)で豪族の子として生まれました。小さいころから学問が好きで、母方のおじから多くの学問を学びました。

 18歳のとき、奈良に出て大学に入りました。しかし、なぜか辞めてしまいます。働いたり、遊んだり、山で修行したりしました。
 そうこうするうちに、儒教・道教・仏教のうち仏教がいちばんすばらしい教えであると確信して、出家をしました。
 自分にあった学問は何かを見極めようとしていたのかもしれません。

 空海の若いころの迷いは、現代の青年にもあてはまることです。この時期の試行錯誤の経験はあとになって生かされるものです。

 その後の空海は、遣唐使船で唐に渡って真言密教を学んで帰国しました。
 高野山に金剛峰寺を建立し、京都の東寺を密教の道場としました。

 日本ではじめて、一般庶民のための綜藝種智院という学校をつくりました。
 また、各地をまわって多くのかんがい用のため池や井戸を掘ったといわれています。香川県の満濃池は、空海の指揮のもとで、讃岐山脈の北のふもとの谷をせき止めてつくられたものです。
 空海は腕のいい建築技師でもあったのです。

 また、書道にもたくみで、嵯峨天皇・橘逸勢とともに「三筆」とよばれました。
 
 空海は、まさに万能の才能をもっていました。

 

4月21日 渋谷駅前のハチ公像の除幕式

 1934年の今日は、渋谷駅前の忠犬ハチ公像が完成し、除幕式が実施された日です。

 ハチは、秋田県大館市で生まれた秋田犬です。
 秋田から連れてこられたハチは、東京帝大の教授・上野英三郎に飼われていました。上野英三郎の存命中は、玄関先や門の前で上野を見送り、時には最寄駅である渋谷駅まで送り迎えすることもありました。

 1925年5月、上野が急死した後も、毎日、渋谷駅前で主人の帰りを待ち続けたとされています。
 しかし、最初は通行人にいじめられていました。かわいそうに思った人がハチのことを新聞社に投書しました。
 東京朝日新聞の記事により世間に知られるようになりました。
 主人を慕うハチの一途な姿が人々に感銘を与えました。やがてハチ公とよばれてかわいがられるようになり、「忠犬」ともよばれるようになりました。

 1935年3月、ハチ公はフィラリア(寄生虫)により、稲荷橋付近の路地で死にました。13歳でした。葬式は渋谷駅前で、僧侶の読経もされて盛大に行われたそうです。
 亡骸は剥製にされては国立科学博物館に保存されています。 

 渋谷駅前の銅像はハチ公が生きているうちに完成し、4月21日の除幕式にはハチ公自身も出席しています。

 ハチ公の銅像は第二次世界大戦中に、金属資源不足により戦争に供出されました。
 昭和20年8月14日、浜松工機部で溶かされて機関車の部品になってしまいました。この部品は東海道線を走っていた機関車に使われました。(戦争が終わる直前に溶かされてしまいました。)

 現在のものは1948年8月に再建されたものです

 JR東日本渋谷駅の改札口の一つは、「ハチ公口」という名前がつけられています。
 ハチ公広場とよばれる駅前広場が拡張されたときに場所が移動し、ハチ公は北向きから東向きに修正されました。
 この広場は、待ち合わせの定番になっています。

 出生地である秋田県の大館駅前にもハチ公の銅像が建っています。

 2006年、日本テレビの「ドラマコンプレックス」では、『伝説の秋田犬ハチ』のタイトルでハチ公のエピソードが放送されました。

 2008年、松竹映画『ハチ公物語』のリメーク版が、リチャード・ギア主演で映画化されることが決定しています。

4月20日 郵政記念日

 今日は「郵政記念日」です。
 1871年4月20日にそれまでの飛脚制度に代わって、郵便制度が始まったことにちなむ記念日です。

 逓信記念日、郵政記念日とたびたび改称されて記念行事が行われてきましたが、2001年の4月20日からは再び「郵政記念日」の名称で実施されています。

 さて、郵便制度といえば、生みの親の前島密(まえじま・ひそか)の名前はよく知られています。1円切手の人です。
 「郵便」・「郵便切手」という呼び方を考えだしたのも前島です。 

 郵便が始まったころのエピソードが残っています。
 切手を買った客がどこに貼るかわからず、局員が「おもてに貼ってください」といったら、いきなり外に飛び出していったという笑い話があります。ほんとうの話です。
 切手を貼ることも知らないで、「東京にて おばさま まつより」などと書いて、お金を手紙にくくりつけて「書状集箱」と書かれたポストに直接入れる人もいたそうです。

 お米の値段が1.8リットルで7銭の時代に、東京~大阪間の手紙一通は3日もかかって15銭もしました。非常に高価でした。

 1枚の切手が何度も使われて困ったようです。
 これも前島が解決しました。
 前島が外国に行くときの郵便船で、スタンプで消印を押しているのを知って、さっそく手紙にスタンプのことを書いて日本に送ったといわれています。

 今日、たしかに郵便は便利です。
 新しい郵政民営化によって不便にならないように、便利さはさらに強化されるように期待したいものです。


 

4月19日 地図の日(最初の一歩の日) 

 今日4月19日は、江戸時代、伊能忠敬が蝦夷地(北海道)の測量のため、江戸を出発した日です。
 よって、それにちなんで「地図の日(最初の一歩の日)」となっています。

 忠敬は、18歳の時に、下総国(しもうさ・今の千葉県)の伊能家に婿養子に入り、以来しばらくは商人として活動しました。商人としてはかなりの才覚の持ち主であったようで、かなりの財産を築きました。

  さて、1794年、50歳で隠居した忠敬は、江戸に出て、測量・天文観測などを習得しました。
 56歳の時に、蝦夷地(現在の北海道)、北関東、東北地方に中心に第1次測量を行いました。
 忠敬の測量が極めて高度なものであったことから、その後しだいに幕府からの支援は増強されて、測量は全国におよびました。

 こうして作られたのが「大日本沿海輿地全図」です。たいへん精度の高い日本地図として評価されています。
 残念ながら、完成したのは忠敬の没後の1821年のことでした。

 シーボルトが帰国するとき、国外に持ち出した忠敬の地図の写本を、日本に開国をせまったペリーも持ってきていました。
 ペリーはそれを単なる見取図だと思っていたそうですが、ペリーが日本の海岸線を測量してみて、その正確さに驚愕したといわれています。

 忠敬は「すごい男」です。井上ひさしの「4千万歩の男」を読んでみてください。
 間縄と歩測だけで日本を35000kmも歩いて測量したのです。
 それも50歳過ぎてからの挑戦です。
 忠敬のセカンドライフ、すごいです。

4月18日 お香の日

 今日は「お香の日」です。
 日本にはじめて香木が流れ着いたと言われているのが、今から1400年ほど前の、595年4月だったという最初の記録が日本書紀にあります。
 
 この「4月」と、「香」という漢字を分解したら「一」「十」「八」「日」になる語呂合わせから、4月18日が「お香の日」として全国薫物線香組合協議会によって1992年に制定されしました。

 日本書紀によると、推古天皇の時代、「沈水、淡路島に漂着」と記され、淡路島にひと抱えもある香木が漂着しました。この沈水(じんすい)というのが一般にいわれる沈香という香木のことです。
 
 島民がその木を焼くとよい香りがあたり一面に広がったので驚き、木片は朝廷に献上されました。
 今も淡路島ではその香木がご神体として枯木神社に祭られているそうです。
 この日本書紀のエピソードがお香に関する日本最古の記述になっています。

 さて、お香にもいろいろな香りがあります。 
 沈香(じんこう)と白檀(びゃくだん)の2種類が代表的です。

 沈香の中でも、伽羅(きゃら)は古くから品位の高い最上の香りとして珍重されてきました。 
 白檀(びゃくだん)はさわやかな甘い香りのする香木です。 インドのお香といえばやはりこの白檀が一番の人気で、とても有名です。

 日本でもなじみ深い白檀ですが、特にインドこの白檀は傷薬や神像の彫刻、そしてお香…とかなり広い用途に使われています。
 現在、インドでは、この白檀の木が非常に少なくなり、 原木そのものの輸出は禁止されています。

 私は仏事の時のお香と蚊取り線香ぐらいしかわからない無粋なものですが・・・。
 アロマテラピーのハーブのように使えば、心身のリフレッシュ、ストレス発散に効果があるでしょうね。
 

4月17日 なすび記念日

 今日は「なすび記念日」です。

 実は、徳川家康がなすびが好きでよく献上されていました。徳川家康の命日が、今日4月17日(旧暦)です。
 さらに、4月が冬春ナスの最盛期でありますし、ヨ(4)イ(1)ナ(7)ス」の語呂合わせもできるということで、冬春なす主産県協議会が2004年に制定しました。

 なすびは、平安時代に、奈須比(なすび)として伝わってきました。女房言葉によって茄子となりました。
 日本人にとってなじみのある野菜になりました。

 品種によってさまざまな食べ方があります。
 栄養的にはさほど見るべきものはないそうですが、東洋医学では体温を下げる効果があるとされています。
 また皮の色素ナスニンは抗酸化作用があるアントシアニンの一種です。今日ではこういう作用を持っている野菜が貴重なんですね。

 生では食べられないものが多いですが、水なすとよばれる茄子は生食ができる茄子です。
 皮を剥いてみそだれで食べれます。または漬け物(ぬかづけ)などにします。わが大阪の泉州水茄子が有名です。漬け物はとても美味しいです。大好きです。
 一度、ご賞味してください。

 なお、「秋なすは嫁に食わすな」について、次の3説がありました。国語辞典では優劣をつけずに紹介しています。
●<嫁いびりのたとえ>秋なすは味がいいから嫁に食べさせるな。
●<嫁を大事にするたとえ>秋なすは体を冷やすから、嫁に食べさせるな。
●<縁起をかつぐたとえ>秋なすは種子が少ないので、子種が少なくなると困るから、嫁に食べさせるな。

4月16日 「Boys,be ambitious!」

 今日は、「ボーイズビーアンビシャスデー」です。

 1877年、札幌農学校(現在の北海道大学農学部)に教頭として赴任していたクラーク博士が、「Boys,be ambitious.(少年よ、大志を抱け)」という有名な言葉を残したといわれている日です。最近の若い方はあまりご存じないようです。

 クラーク博士は、明治時代のはじめに多かったお雇い外国人のひとりです。 教頭として学校をきりまわす一方、植物学・自然科学を英語で教えました。
 
 また、学生たちに聖書をくばり、キリスト教についても話をしました。
 第1期生はクラークの影響でほぼ全員がキリスト教に改宗しました。第2期生の学生たちの中にもキリスト教の信仰に入る決心をしたものが出てきました。
 新渡戸稲造や内村鑑三もこのとき、在学中に入信しています。

 江戸時代から耶蘇(ヤソ)といわれて、差別と偏見が根強く残る中での入信は勇気がいったと思います。このあたりのようすは三浦綾子の「塩狩峠」に描写されています。この作品には泣きました。

 さて、クラーク博士はわずか8ヶ月の札幌滞在の後、翌年の5月に離日しました。

 彼は札幌農学校の校則について、開拓使長官の黒田清隆に「この学校に規則はいらない」「 Be Gentlemanで十分である」と進言したといわれています。
 
 それまで士族の子弟が封建的なしきたりや人間関係に縛られていたのと比べると、「紳士であれ」だけとはいかにも簡単明瞭なことでした。
 
 しかし、何をして良いのか、何をしてはいけないのかは自分で判断しなければならないため、自由でありながら厳しいものとなっています。

 学校であれ、会社であれ、規則づくめというのは、(必要な場合もありますが)、クラーク博士のように「自分で考えなさい」というのは基本中の基本だと思います。
 まともでないことを自分で考える子どものような大人が増えている今、子どもたちが「自分で正しく考える力」を身につけてくれることを願いたいものです。

 なお、クラークの進言は実際には実現しませんでした。 

 

4月15日 梅若忌(木母寺)

 今日は「梅若忌」です。東京都墨田区の木母寺(もくぼじ)でおこなわれます。

 今から1000年ほど昔、平安時代の中ごろ、吉田少将惟房と花御膳のあいだに生まれた梅若丸という男子がいました。父は若くして他界しましたので、梅若丸は5歳で比叡山月林寺で修行に励むようになります。

 しかし、同輩とのいさかいがもとで居づらくなったので、ひそかに寺をぬけ出た梅若丸は、道をまちがえて琵琶湖のほとりに出てしまい、大津の浜で人買いの信夫藤太と出あいます。
 
 信夫藤太は梅若丸をだまして奥州へ行こうと旅を始めます。奥州で梅若丸を売るためにです。

 二人が現在の東京の隅田川までやってきたとき、幼い梅若丸は長旅の疲れから、動くことができなくなり、病にかかってしまいました。 信夫藤太はそんな梅若丸を隅田川に投げ捨てました。梅若丸はいったんは助けられましたが、里人たちに見まもられてわずか12歳の生涯を閉じました。

 梅若丸は、 『尋ね来て 問わば応えよ 都鳥 隅田川原の 露と消えぬと』 という辞世の句を残しています。

 一方、母の花御膳は梅若丸を探し求めてさまよい歩きました。梅若丸が死んでから1年後、隅田川までたどりつきました。川をわたる舟の中から、塚の前で大勢の里人が念仏を唱えている光景を目にしました。
 舟から上がった花御膳は、1年前の今日、当時12歳の梅若丸という幼子が病気になり、此の地で亡くなったことを知りました。

 『其は我子なり 梅若丸は此処にて果てたるか』

 我が子がすでに死んでいたことを知った花御膳は深くなげき悲しみ、菩提を弔いますが、やがて悲しみに耐えきれず鏡ケ池の水面に身を投げ、自ら命を断ってしまいました。

 言い伝えでは、母親は妙亀大明神として祀られ、梅若丸は山王権現として生まれ変わったとのことです。

 墨田区の「梅柳山・木母寺」は、梅若丸を供養するために建てられた庵が起源とされています。
 梅若丸が世を去ったのは3月15日ですが、梅若忌は毎年4月15日におこなわれています。

4月14日 バレンタインデーに続け?

 キリスト教国ではない日本で、2月14日のバレンタインデーキャンペーンの結果、チョコレート売り上げが激増したことは製菓企業・販売者側からみると大成功でした。

 1ヶ月後の3月14日のお返しをするホワイトデーも、いただいたらお返しをするという義理堅い日本人に受け入れられて定着してきています。まずまず成功の域に入ったでしょうか。

 そこでさらに1ヶ月後の今日4月14日は「オレンジデー」といわれています。愛媛県の柑橘類(みかん類)生産農家が1994年に制定し、日本記念日協会に登録しています。
 
 2月14日の「バレンタインデー」で愛を告白し、3月14日の「ホワイトデー」でその返礼をした後で、その二人の愛情を確かなものとする日とされています。オレンジ(またはオレンジ色のプレゼント)を持って相手を訪問するになっているようです。
 日本ではバレンタインデーやホワイトデーのようには定着していません。

 欧米では、オレンジが多くできることから繁栄のシンボルとされ、花嫁がオレンジの花を飾る風習が確かにあります。オレンジは結婚と関係の深いものとなっていますが、日本のようなキャンペーンはされていないようです。

 佐賀県佐賀市が1998年に4月14日を「パートナーデー」として制定しました。バレンタインデー、ホワイトデーを経て、その1ヶ月後で、家庭・職場・地域等でたがいを思いやって、男女が共に参画する社会をめざす日となっていますが、恋人同士がうまくいってことが前提になっています。

 それに対して、うまくいっていない、相手にされなかった人に目をむけた記念日が韓国にあります。「ブラックデー」といわれています。
 
 日本のバレンタインデーなどは韓国や台湾にも広がりましたが、「ブラックデー」はバレンタインデーやホワイトデーで贈り物を受け取れないで、そのまま恋人ができなかった人の記念日です。
 黒い服を着て、チャジャン麺(黒いあんをかけた韓国の麺料理)やコーヒー(ブラックコーヒー)を飲食する日とされています。
 ということは、明日、韓国では黒い服を着てブラックコーヒーを飲んでる人は、・・・・の人と思われる、ということでしょうか。

 韓国のドラマや小説で「今年もチャジャン麺を食べることになりそう・・」のようなセリフがあった場合は「今年も恋人ができそうにない」という意味でしょう。

 韓国では、5月以降の各月の14日にも「ローズデー」・「イエローデー」(5月14日)、「キスデー」(6月14日)などの恋愛に関わる記念日がそれぞれ設定されています。食品会社によって作られたものが多く、記念日が多すぎるという批判もあるようです。

 あまりやりすぎるとうんざりしますね。もう、うんざりしてきたのではないですか。

 今日のテーマは、食品会社の販促キャンペーンには冷静に対処しましょうと言いたかったから取り上げました。

4月13日 決闘の日

 1612年4月13日は、二刀流の使い手・宮本武蔵と燕返しの名手・佐々木小次郎の決闘がおこなわれた日です。よって今日は「決闘の日」に制定されています。

 決闘の場所は、豊前小倉の沖合の島、現在の山口県の巌流島で行われました。この巌流島は小次郎の別名・巌流からとられています。

 武蔵の「小次郎、破れたり」は有名です。
 決闘は、武蔵がわざと遅刻してきます。小次郎がそれを怒り、冷静さを失っているところ、小次郎が「さっさと行くぞ」といって刀の鞘を投げ捨てました。そのことを指して、武蔵が小次郎に放った言葉です。
 「勝負のあと刀を納めるべき鞘を捨ててしまったのは、もうそれに納められないということだ」と指摘して、更に小次郎の動揺を誘ったといいます。
 
 腕にそう差がない場合、こういう心理戦の比重というのは大きいのかも知れません。   「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とす」を有言実行した武蔵の精進に軍配があがりました。

 宮本武蔵は1584、美作国(現在の岡山県)宮本村の生まれです。幼名は弁之助といったといいます。関ヶ原の合戦にも参加しています。

 13歳の時以来、生涯60回以上の果たし合いを行いました。特にこの小次郎との対決と、京都での吉岡一門との対決は有名です。
 
 巌流島の決闘以後、肥後(今の熊本県)の細川忠利に召しかかえられ、1645年5月死去しました。

 吉川英治の「宮本武蔵」がとくに有名で、映画化もされています。


			

4月12日 パンの記念日

 江戸時代の終わりごろ、1842年の今日、日本で初めてパンが焼かれたといわれています。だから、「パンの記念日」として制定されました。
 また、毎月12日が「パンの日」となっています。

 パンとはポルトガル語のpãoから派生しています。英語ではブレッド(bread)といいます。

 安土桃山時代、ポルトガルの宣教師によって日本に伝えられました。このころポルトガルやスペインからいろいろなものが伝わってきました。鉄砲やキリスト教はよく知られていますが、その他今も使われているなじみ深いものにはカステラ、ボタン、メリヤス、カッパ、カルタ、コンペイトウなどがあります。イソップ物語もこのころ伝わります。
 
 さて、日本で最初にパンを焼いたのは江戸時代の末の江川英龍です。軍用の携帯食糧として乾パンを作ったときとされ、彼はパン祖とよばれています。

 日本人にパンが広く受け入れられるのは、明治時代のあんパンの発明からです。
 
 軍隊ではその場で調理する必要のないパンは常食として使われてきましたが、一般に普及したのは戦後です。GHQによる小麦粉の援助とそれによる学校給食によるパン食開始がきっかけです。
 
 日本においては、外国にくらべ惣菜パンや菓子パンとよばれる具入りのパンが多いといわれています。
 パン食の広がりとともに米を食べる習慣が減り、政府の農業政策の失敗もあって日本の食糧自給率が低くなってしまいました。

 私は、パンは大好きです。お米も美味しいので大好きです。両方食べられて、自給率も向上、さらに「安い」がつけ加われば最高です。

4月11日 ガッツポーズの日

 今日は「ガッツポーズ」の日です。

 1974年の今日、東京日大講堂で、ボクシングの世界ライト級タイトルマッチがおこなわれました。
 大方の予想をくつがえして、挑戦者のガッツ・石松がチャンピオンのロドルフォ・ゴンザレスに対して8回KO勝ちをおさめました。

 ガッツ・石松はコーナーポストに上がり、両手を挙げて勝利の喜びを全身で表しました。その姿を、それを見ていた新聞記者が、喜びのポーズとして「ガッツポーズ」と表現しました。これが喜びのポーズ「ガッツポーズ」の始りと言われています。

 なお、「ガッツ」は、英語ではgutの複数形で「guts」と書きます。意味は、「ガッツ、根性、度胸、勇気」と訳されています。ガッツは日本語になっていますね。

4月10日 語呂合わせ4連発

 今日は「建具の日」です。
 日本建具組合連合会が1985(昭和60)年に制定しました。「良い(4)戸(10)」の語呂合せです。

 二つめは「ヨットの日」です。
 ヤマハ発動機が制定しました。「ヨッ(4)ト(10)」の語呂合せです。

 三つ目は「駅弁の日」です。
 日本鉄道構内営業中央会が1993(平成5)年に制定しました。「弁当」の「とう」から10日、さらに「4」と「十」を合成すると「弁」に見えることから、語呂合わせで決定されました。うーん、ちょっと無理な感じもしますが・・・。
 日本で初めて駅弁が売り出されたのは1885(明治18)年7月16日です。この日が「駅弁の日」には最適ですが、7月は暑さのために弁当がいたみやすいこともあって避けられました。
 4月は駅弁の需要拡大が見込まれる行楽シーズンでもありますから、今日4月10日に設定されました。
 地域色の濃い駅弁はほんとにいいですね。旅の楽しみにしておられる方も多いことでしょう。

 最後は「四万十(しまんと)の日」です。
 高知県中村市の四万十の日実行委員会が1989(平成元)年に制定しました。「し(4)まんと(10)」の語呂合せです。
 高知県の四万十川は全長196kmで、本流にダムがなく、日本最後の清流と言われているきれいな川です。
 
 日本各地、無駄なダムがたくさん造られ、森が減り、川が汚れました。
 四万十川がいつまでも美しい川であってほしいものです。

4月9日 大仏の日

 旧暦の752年の今日は、奈良東大寺の大仏の開眼供養が行われました。これにちなんで「大仏の日」に制定されました。

 東大寺の大仏は、一般には「奈良の大仏」と呼ばれていますが、本名は「東大寺盧舎那仏像(とうだいじるしゃなぶつぞう)」といいます。
 東大寺金堂(大仏殿)の本尊です。

 奈良時代、聖武天皇の発願で制作が開始され、752年に開眼供養会(かいげんくようえ、魂入れの儀式)が行われました。

 「銅造盧舎那仏坐像」の名で彫刻部門の国宝に指定されています。 

 聖武天皇は、なぜ大仏の建立を思い立ったのでしょうか。それは、仏教の力で国家を安定させたかったからだといわれています。
 逆に言えば、奈良時代の日本は社会不安が深まり、決して安定した状況にはなかったということです。
 天然痘が大流行して多くの人が死にました。当時の政治の中枢にいた藤原氏4兄弟も天然痘で次々死亡しています。
 毎年、かんばつ・飢饉が続いて農民の生活はどん底です。
 大地震で大きな被害をうけました。
 さらに九州では藤原広嗣の乱がおこるなど、社会不安にさらされた時代でした。
 
 しかも、このような大規模な建設工事は農民の労役の負担と税の負担を激増させました。平城京内では浮浪者や餓死者、農民の夜逃げが後を絶ちませんでした。
 聖武天皇の思惑とはほど遠い現実がつきつけられました。
 
 国家の安定どころか、租庸調の税制が崩壊寸前になる地方も出るなど、始まったばかりの律令政治が崩壊しはじめるきっかけにもなりました。

 大仏には、完成後数十年にして亀裂や傾きが生じ、855年の地震では首が落ちるという事故がありました。
 源平争乱期と、戦国時代の2回、兵火で焼失しています。
 
 現存する大仏像は、補修がはなはだしく、当初の部分は台座、腹、指の一部などごく一部が残るにすぎませんが、大仏のスケールは見る人を圧倒しています。

4月8日 花祭り

 今日は花祭りの日です。「えっ、何という花の祭り?」という声が聞こえてきそうです。日本ではもうほとんで日常的には話題にならなくなりました。私の部屋の行事カレンダーにも載っていません。花祭りは灌仏会ともいいます。

 中学生が、歴史で習うまでは「お釈迦さん」「仏教」を知らない時代になったんですからしかたありません。三蔵法師や鑑真、親鸞や日蓮、キリスト教やイスラム教は知っていても「釈迦」や「仏教」は知らないのです。

 さて、今日4月8日は、仏教の祖、釈迦の誕生日です。

 釈迦の本名は「ゴータマ・シッダールタ」といいます。釈迦と呼ばれるのは、シャカ族の王子であったからです。王子の身分を捨てて、修行を続け、悟りを開いたといわれています。
 生まれてすぐに東方へ7歩あるいて、両手で天と地を指して、「天上天下唯我独尊」と叫んだという伝説が残っています。

 花祭りの日には、ほとんどのお寺で境内に、さまざまな花で飾った花御堂と呼ばれる小さなお堂をつくり、その中に灌仏桶を置いて甘茶を満たし、その中央の水盤の上に釈迦の立像を置きます。
 参詣人はこの釈迦像の頭上に、竹でできた杓子で甘茶を注いで拝む風習があります。

 花祭りはインドでおこり、日本には奈良時代に伝わったといわれています。当時は釈迦像に5種の香水を注いでいましたが、江戸時代に入って甘茶を注ぐようになったといわれています。

 なお、失敗して物をダメにする(役に立たなくする)ことを「おしゃかになる」と表現します。これは花祭り(灌仏会)にちなんでいるのです。
 江戸の鍛冶職人(鋳物師)の隠語として、あぶり過ぎてダメな金物をつくってしまったとき、江戸っ子訛りで「しがつよかった(火が強かった)」=「四月八日だ」=釈迦の誕生日だ、とのつながりで成立したと言われています。

4月7日 メートル法が誕生

 1795年の今日、長さの基準単位にメートル法が使われることが国際的に決められました。

 長さの単位が地方ごとに異なっていたフランスでは、1790年に「だれにも便利な新しい単位をつくるように」とフランス科学学士院に依頼がありました。
 依頼をうけた2人の天文学者は、フランスのダンケルクとその真南にあるスペインのバルセロナの間の距離を計測し、それをもとに地球の南北を一周する子午線(経線)の長さを割り出し、その4分の1、つまり赤道から北極までの距離の1000万分の1を「メートル」と名づけました。

 日本は1885(明治18年)にメートル条約に加入しました。1889年にメートル原器の交付を受け、尺貫法と併用する形で導入されました。
 使い慣れた単位を移行することへの庶民による根強い抵抗もあり、本格的な普及はメートル法の使用を義務づけた1951(昭和26年)施行の計量法まで待たねばなりませんでした。

 現在では、約180カ国で長さの単位としてメートルが使われています。
 中国も1985年からメートル法を施行し、定着しつつあります。欧州連合(EU)も2010年からは駅構内で販売される全商品にメートル法だけを表記することにしました。

 メートル法を使っていな国は残り3国になりました。ミャンマー、リベリアそして、マイル・ヤード・フィートを使い続けているアメリカ合衆国です。
 イギリスは公式にはメートル法ですが、ポンドなどの伝統的な単位を使い続けています。

 なお、1983年の国際度量衡総会で、1メートルの定義は、「1秒の2億9979万2458分の1の間に、光が真空中を伝わる行程の長さ」と決定されました。

4月6日 ピアリーが北極点に到達 

 1909年の今日、アメリカのピアリーが西洋人としてははじめて北極点に到達しました。

 ピアリーは、4度にわたるグリーンランド探検を行ったあと、1989年に初めて北極点到達に挑戦して失敗しています。このとき、凍傷にかかって足の指8本を失っています。
 のち4度目の挑戦で北極点まで280kmの地点まで到達しました。
 そして、1908年7月、ルーズベルト号に乗って北極圏に向かい、ベースキャンプを作って、翌年2月、133頭の犬が引くそりで北極点をめざしました。

 出発した時の総勢は24名でした。しかし体調不良のため多数の隊員を途中で引き返さ
せます。そして1909年4月6日、北極点に到達したときは、ピアリーとヘンソン、そして4名のイヌイット(エスキモー)の計6名だけになっていました。

 この北極点到達の探検から帰還すると、元の仲間であるフレデリック・クックが、「自分は、1908年4月21日にすでに北極点に到達していた」と主張しました。
 
 調査委員会が設けられましたが、結局、クックの訴えは退けられ、クックは詐欺罪で収監されました。(このクックは、オーストラリアの東海岸に到達したり、ハワイ島を発見したキャプテン・クックとは別人ですよ)

 こうしてピアリーが最初の北極点到達者と認定されました。
 現在では、この時、ピアリーが証人を買収したことがわかっています。しかし、クックは実際にも北極点の数100キロ手前までしか到達していなかったようでした。

 また、後のくわしい測量により、ピアリーらが北極点だとしていた点は正確には北緯89度57分(北極点から約6kmの地点)であったことがわかっています。
 
 また、北極点への旅程が不自然に順調であることなどから、到達そのものを疑問視する説もあります。

4月5日 イタイイタイ病 

 4大公害病として有名な富山県の神通川の中流域で発生した「イタイイタイ病」は、その原因物質がカドミウムであるということが、1967年の今日、発表されました。

 骨がもろくなり、ほんの少しの身体の動きでもあちこちで骨折し、患者が「痛い、痛い」と泣き叫んだ、と地元の開業医はいいます。
 
 「痛い、痛い」。こうして、「イタイイタイ病」と病名がつけられました。

 症状は、戦前の1920年代から発生していましたが、「イタイイタイ病」として注目されるようになったのは、1950年代のころからです。

 長い間、神通川の上流にある神岡鉱業所は、亜鉛を製錬したあとにでるカドミウムを含んだ排水をそのまま神通川にながしていました。

 神通川の中流域では川の水をかんがい用水や飲料水として使っていました。カドミウムは農作物や川魚、飲み水を通して地元の人々の体内に蓄積されていきました。  

 しかし、当時カドミウムという物質はよく知られていなかったために、原因究明はかなり遅れてしまいました。
 地元の開業医らの努力によって、カドミウムが原因物質であることがつきとめられるまでには長い年月がかかりました。

 「イタイイタイ病」の被害者は、責任を認めない神岡鉱業所に対して裁判に訴えて救済を求めました。そして、公害病の被害者として歴史上はじめて裁判に勝利しました。画期的なことでした。
 この裁判のあと、新潟水俣病裁判、四日市ぜんそく公害裁判、そして水俣病裁判の被害者側勝利へと続いていきます。
 いわゆる四大公害裁判です。

 「イタイイタイ病」の裁判で勝訴をつかみ取れたのは、被害者はもちろんのこと、地元や全国の医師、弁護士の必死の活動のたまものだったことを忘れてはならないでしょう。
 彼らはすべて無報酬でした。

4月3日 「心頭滅却すれば・・・・」

 今日は、「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」の言葉で有名な快川(かいせん)禅師が火中に滅した日です。

 快川禅師は戦国時代の臨済宗の僧です。
 美濃(現在の岐阜県)に生まれ、妙心寺の住持となりますが、当時の美濃の国守の斎藤竜興とは合いませんでした。

 やがて甲斐(現在の山梨県)の武田家のもとへ逃亡しました。
 武田信玄に厚遇された彼は、由緒正しき慧林寺の住持となり、甲斐の国中に禅の道を説きました。

 ところが、武田信玄の没後、その子の武田勝頼が織田信長との合戦に破れて、武田家は滅亡してしまいました。

 織田信長は快川禅師の徳をよく知っているので、自分の師に迎えたいと申し入れましたが禅師は辞退しています。
 
  やがて、信長は快川禅師が武田家の一味に好意を寄せていることを知ります。その上、寺の中にかくまった六角義弼の引き渡しを拒んだために、1582年の今日、寺を囲んで火を放ちました。

 快川禅師は、死に望んで法衣を着、扇子を持って端座し、「心頭滅却すれば・・・」の言葉を残して、火中に滅したのです。

 「心頭滅却すれば・・・」の意味は、「無念無想の境地に至れば火も熱くはないという意から、どんな苦難でもそれを超越して意に介しなければ苦しさを感じない」と、手元の国語辞典にあります。

4月2日 歯列矯正の日 

 今日は歯列矯正の日です。「し(4)れ(0)つ(2)」の語呂合せです。

 小児、こどもについての歯列矯正はとても重要です。
  
  脳の発達や、その学習能力に「よく咬む」ことが関係していることは疑いようがないようです。こどもの身体的成長はもちろんのこと、脳の働き、情緒形成、コミュニケーション能力のも影響を与えています。
 歯並びがよく、よく咬む子は、計算能力が相対的に高いという実験結果も報告されています。

 「よく咬む」イコール、よい「歯並び」ですね。

 私が若いに読んだ本に、病弱で無気力な息子に、母親が「100回咬むこと」を実行させた結果、たくましく実行力のある好青年に生まれ変わったというアメリカの話が載っていました。
 私も少しやってみました。100回咬むとお粥状態になります。だから胃にはとてもいいですよ。確かにアタマもすーっとした感じでした。
 しかし、時間に追われて、長続きしませんでした。  

 成人で歯列矯正の治療を受ける人が最近増加してきています。しかし、その理由は子どもとは少しちがいます。
 
 歯並びは人目を引くポイントです。
 ある調査での「キレイな歯並びに受けるイメージ」についての設問には「笑顔が素敵」、「清潔感」、「健康的」といった良いイメージが圧倒的でした。
 
  自分の第一印象を大切にしたいと思うなら、歯並びの悪い人は、まず歯列矯正と考える人が増えているのですね。

4月1日 エイプリルフール

 今日は、日本では「四月馬鹿」といって、この日は人をからかうような罪のないウソが許される風習がありました。エイプリルフールともいいます。漢語的表現では「万愚節」、フランス語では「ポワソン・ダヴリル(四月の魚)」と呼ばれています。
 イスラム教においてはこの習慣はコーランに著しく反しているため、強く禁止されています。

 この風習は4月1日自体を指すこともありますが、本来は当日の午前中がその対象になっています。 
 エイプリルフールの起源は全く不明です。
 いつ、どこでエイプリルフールの習慣が始まったかわかっていません。有力とされる起源説はありますが、いずれも確証が無いことから仮説の域を出ていません。

 その昔、ヨーロッパでは3月25日を新年として、4月1日まで春の祭りを開催していました。ところが、1564年、フランスの国王が1月1日を新年とする暦の採用に踏み切りました。これに反発した人々が、4月1日を「ウソの新年」として馬鹿騒ぎをするようになったのが、エイプリルフールの始まりという説。

 また、インドでは悟りの修行が春分の日から始まり、月末に終わりますが、すぐに迷いがおこることから、4月1日を「揶揄説(やゆせつ)」と呼んでからかったことから始まったという説。

 私の感想ですが、最近はあまり話題にならなくなったように思います。悪気なくからかっても本気にされるかもしれない(または本気にされてしまったことがある)という「危ない人間関係」や「危ない社会的関係」が目立ってきているからでしょうか。
 
 年中、「四月馬鹿」をしてる人が増えているのかもしれませんが・・・・。
 
 なお、日本では4月1日は、「日ごろの不義理を詫びる日」だったそうです。この方が大事ですね。

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