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3月31日 ニュートン死す。 

 1727年の今日は、イギリスの大科学者ニュートンが亡くなった日です。

 ニュートンといえば、リンゴの木からリンゴが落ちるのを見て「万有引力の法則」を思いついたという有名なエピソードがあります。
 これはニュートンの家の窓からリンゴの木が見えることから作られた話です。リンゴの木ではなくトイレで気がづいたという説もあります。

 さて、ニュートンは3つの大きな発見をしました。

 1つめは、「プリズムによって太陽光を7色に分け、分けられた7色を混ぜ合わせると白い光になる」という発見です。

 2つめは、「微分積分法」といわれる新しい数学です。私は高校の3年生のとき習い、おもしろかったですが、すっかり忘れました。

 3つめが、「あらゆるものはたがいに引っ張り合っているという万有引力の法則」です。
 この発見で、地球や火星がなぜ楕円形を描いて太陽の周りを回っているかが明らかになりました。

 地球上で物体が落下するのも、惑星や月が太陽や地球の周りをまわって、飛び去らないのも、この「引力」によるものであることを明らかにしました。

 ニュートンの「万有引力の法則」は、アインシュタインの「相対性理論」があらわれるまでの約200年間に渡って、物理学の基礎とされていました。

 なお、引力は、地球上では重力ともいわれます。
 加齢にともなって、皮膚がたるんでシワ・たるみができるのもこの重力のせいなんですよね。

3月30日 マフィアの日?

 約700年前の1282年の今日、マフィアの名前の由来となったとされる「シチリアの晩鐘事件」がおこりました。

 当時のシチリア島はフランス国王の叔父であるシャルル・ダンジューの苛酷な支配下にありました。

 1282年のこの日は復活祭の翌日の月曜日で、晩祷のために教会の前に市民が集まっていました。
 
 そこへフランス兵の一団がやってきて、その土地の女性に手を出そうとしたため、女性の夫がいきなりその兵士を刺してしまいました。その場に居合わせたほかの市民もフランス兵に襲いかかり兵士の一団を全員殺してしまったのです。
 この事件は、そのとき晩祷を告げる晩鐘が鳴ったことから、「シチリアの晩鐘事件」とよばれています。

 この叛乱は全島に拡大し、フランス人は見つかり次第に殺されました。その数は4000人以上に及んだといわれます。
 シャルル・ダンジューのアンジュー王家はシチリアから追放され、代ってシチリアの支配者となったアラゴン王家との間に20年に及ぶ戦争がおこりました。

 この叛乱の合言葉「Morte alla Francia Italia anela(全てのフランス人に死を、これはイタリアの叫び)」の各単語の頭文字を並べると「マフィア(mafia)」となり、これがマフィアの名前の由来であるといわれています。

 しかし、この文はイタリア語として不自然で、後に創作された俗説であるといわれていて信用されていません。

 マフィアの語源には諸説あり定説は無いようです。

 有力なのはアラビア語で採石場を意味するマーハ (mafie) 、空威張りを意味するマヒアス (Mā Hias) から来たというものです。
 シチリアは9世紀から11世紀までイスラム教徒のアラビア人が支配しており、支配に反抗した者や犯罪者がしばしば採石場に逃げ込んだためということです。

 なお、元々、マフィアという言葉は肯定的な意味で使用されていた言葉です。
 「美しさ、優しさ、優雅さ、完璧さ、そして勇気ある人、大胆な人」という意味で使用されていました。
 犯罪組織を指す言葉として使われ始めたのは、150年ほど前からです。

 近年はアメリカの組織的な犯罪、暴力集団も指すことが多いですが、「金融マフィア」や「穀物マフィア」と呼ばれているものもあります。

 また、アメリカ以外の組織犯罪集団も「○○マフィア」と呼ばれています。「コロンビアマフィア」「ロシアンマフィア」「チャイニーズマフィア」などが有名です。

3月28日 三ツ矢サイダーの日 

 今日は、三ツ矢サイダーの日です。み(3)つ(2)や(8)の語呂合わせになっています。

 三ツ矢サイダー(みつやサイダー)の「三ツ矢」は、明治時代に「三ツ矢平野水」(みつやひらのすい)として販売されたときにはじめて登場します。平野水は夏目漱石の『行人』にも登場しており、平野水とは炭酸水の代名詞になりました。

 製造販売会社は、さらに次々と引き継がれ、戦後、朝日麦酒に継承されました。
名前も「全糖三ツ矢シャンペンサイダー」を経て、1968年「三ツ矢サイダー」に落ち着きました。

 キリンレモンやコカコーラ社のスプライトなどにおされ、売上は低迷していましたが、2004年に、香料を天然原料のものに、水を天然水100%に変えました。その結果、よりすっきりした味に仕上がりました。これが大ヒットを生み、業績不振から一転、V字回復を達成しています。
 
 また、近年流行の兆しを見せる微炭酸へ移行することもなく、ライバルのキリンレモンと並び、強炭酸の姿勢を守り抜くなどして、根強いファンを持っています。

 たびたび孫を遊園地に連れて行きますが、いつもいつもアトラクションに同乗をせがまれます。その日はドラムがぐるぐる回転する「ロックンロール」に同乗して気分を悪くしました。
 
 胃がムカムカしてきましたので、躊躇なくサイダーを見つけて一気に飲みました。炭酸でゲップを出したらすっきりしました。
 昔、おばあちゃん(実は父の姉)も体調が悪いような時に、よくサイダーを飲んでいました。

 「太田胃散」のゲップも同じですね。乗り物の酔い止めの薬としても、個人的な経験上効果がありますよ。

 なお、「三ツ矢」の由来は、平安時代中期に摂津源氏の祖・源満仲が住吉大社(大阪市住吉区)の神託に従い「三つ矢羽根の矢」を放ち、矢の落ちた多田(現在の兵庫県川西市市内)に居城を建てたという伝説によっています。
 平野鉱泉は満仲が狩の際に発見したと伝えられています。
 明治の初期らしい古い伝説によって名付けられています。

3月27日 サクラの日

 今日はサクラの日です。日本さくらの会が1992(平成4)年に制定しました。
 サクラと「3(サ)×9(ク)=27」の語呂合わせです。

 サクラは植物学上はバラ科に属しています。ウメ、モモ類も同じバラ科です。サクラ・ウメ・モモは比較的近い親戚なんですね。
 
 日本にはヤマザクラ、オオシマザクラなど9種を基本にして、変種をあわせると100以上のサクラが自生しているそうです。沖縄には野生化した1種があります。また、これらから育成された園芸品種は200種以上もあります。

 サクラはいいですねえ。ほんとにきれいです。

 サクラ前線が北上中ですから、我が大阪もそのうちに満開になるでしょう。楽しみです。

  2月ごろから、孫と城北川(前の城北運河)や鶴見緑地、大川に遊びに行くたびに、つぼみのふくらみが大きくなってきていますので、「楽しみだねえ、もうすぐサク(咲く)ラ!」とダジャレを言っているうちに、ほんとに咲く時期になってきました。
 
 咲いてしまったら、どうダジャレを言ったらいいのでしょうか。 

 日本サクラの会ホームページ

3月26日 ベートーベンが亡くなった日

 今日は、ドイツの作曲家で「楽聖」と呼ばれ、学校でもかならず習うベートーベンがウィーンの自宅で亡くなった日です。
 「運命」「英雄」「田園」「月光」「歓喜の歌」「悲愴」「エリーゼのために」などの名作を残しています。
 ベートーベンの作品は古典派音楽を集大成としたものと高い評価をされています。

 1770年12月17日ごろ(正確にはわかっていません)、ドイツのボンで生まれました。  ベートーベンの一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)であった祖父の支援により生計を立てていました。ベートーベンの父も宮廷歌手でしたが、アルコール依存のために喉を患っており、収入はほとんどありませんでした。
 
 このため、祖父が亡くなると一層生活が苦しくなりました。幼い頃より、ベートーベンは父から強制的に音楽の教育を受けることとなりますが、父の教育の目的は、才能を利用し収入を得ることだったといわれています。

 10代には、父に代わって家計を支えていました。母は父とは対照的にベートーベンを大切に育てました。ベートーベンの才能が認められ、収入を得た際には涙を流して喜んだといいます。

 1787年、16歳のベートーベンはウィーンでかねてから憧れを抱いていたモーツァルトに出会い弟子入りを申し入れました。
 しかし申し入れた矢先に母が死去し、父と幼い2人の弟の世話のためモーツァルトに師事することをいったん断念しました。
 
 1792年からウィーンに移住して活動を開始するものの、そのころすでにモーツァルトは死去しておりますので、ハイドンに師事しています。
 ウィーンでのベートーヴェンはピアノの即興演奏の名手として名声を高めました。

 20歳代後半ごろよりベートーベンは持病の難聴が徐々に悪化していきました。後年には聴覚を失いました。
 音楽家として聴覚を失うという死に等しい絶望感から自殺も考えました。しかし、後日、強い精神力で自らの苦悩と向き合い、再び生きる意思を得て新しい芸術の道へと進んでいくことになります。1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品がつくられます。

 晩年は、慢性的な腹痛や下痢など体調の悪化など、苦悩の日々を送りました。
 しかし交響曲9番などの大作を発表した前後からの晩年の作品群はベートーヴェンが到達した境地の高さを示すものとなっています。

 こうして名実ともに一流の作曲家となったベートーベンでしたが、長期間の飲酒癖(とくに質の悪いワインを好んだ)により肝硬変から黄疸と肝不全を患って、もはや治癒の見込みはなくなっていきました。

 1826年、ベートベンの病は命を脅かすほどまでに進行し、シューベルトなどが見舞いに訪れるなどしていましたが、1827年の今日、ついに波乱に満ちた56年の生涯を終えたのです。

 29日の葬儀には2~3万人の市民が参列し、宮廷歌手が棺を担いで弟子たちがそれに続きました。しかし、数々の作品を献呈され交際のあった貴族たちは誰も出席しませんでした。

 

3月25日 唐人お吉の命日

 今日は、いわゆる唐人お吉、斎藤きちの命日です。お吉の命日は3月27日ともいわれています。お吉の墓がある下田の宝福寺では27日に法要と「お吉まつり」がおこなわれます。

 斎藤きちは三河(現在の愛知県)出身ですが一家で下田に移り住みます。
 訳あって14歳で芸者となります。ところが瞬く間に下田一の人気芸者になりました。大変な美貌の持ち主だったといわれています。

 ある時、下田に来ていたアメリカ総領事ハリスが体調を崩して床に臥してしまいました。アメリカ人通訳は下田役人に看護婦を要求しました。ハリスの看護婦として役人に口説かれたのが下田一の芸者お吉だったのです。
 なぜ芸者かというと、病気の看護と身の回りの世話が混同されて、下田役人がアメリカの要求を、「めかけ」の斡旋依頼として誤解したからです。
 
 だれもが外国人に偏見をもっていた時代でもあり、婚約者もいたお吉は固辞しますがやむなくハリスのもとに赴きます。
 次第に羽振りが良くなっていくお吉に対して、人々の目は同情から嫉妬と軽蔑へと移っていきました。

 ハリスの病気が回復した3か月後、お吉は解雇されて芸者にもどりましたが、下田一の芸者だったにもかかわらず、冷たい目を向けられ続けられました。

 お吉は、しだいに酒色に溺れるようになりました。鶴松と同棲して髪結いを始めますが、2年後に廃業してしまいました。「唐人」という世間の罵声と嘲笑をあびつづけました。

 その後数年間、貧困から身を持ちくずし、物乞いを続けました。そして豪雨の夜、下田の稲生沢川の淵に身を投げて自ら命を絶ちました。51歳でした。

 下田では死後も冷たく扱われました。斎藤家の菩提寺は埋葬を拒否しました。

 哀れに思った下田宝福寺の住職によって境内の一角に葬られました。

 お吉の悲劇的生涯は十一谷吉三郎によって「唐人お吉」として小説になりました。舞台でも上演されています。
 墓石も芸能人によって新しく寄進されました。

3月24日 マネキンの日 

 1928年、上野公園で開かれた大礼記念国産振興東京博覧会で、高島屋呉服店が日本初のマネキンガールを登場させました。このため、今日が「マネキンの日」となりました。

 もともとマネキンという言葉はブティックなどの小売店の店の中で、そのお店の商品である衣服を着用したり、化粧品などの使用例を実演していた人たちのことです。こうすることで販売を促進するねらいがありました。

 衣服の展示に使われる等身大の人形のことをマネキン人形といいますが、人形のことを単にマネキンということもあります。

 マネキンガールとは、マネキン人形ではなく現在でいう「ハウスマヌカン」のことです。
 「招金」に通じるということで、フランス語のマヌカンではなく英語のマネキンという言葉を使いました。

 そもそも、マネキンの歴史の最古のものはエジプトにあったといいます。紀元前1350年代、今から約2350年前、王の墓に衣装作成用の木製人形が埋葬されていました。

 今日の衣装着装用のマネキンの始まりは14世紀のパリでした。

 日本の最古の歴史は1894年、東京・下谷の呉服店で木くず製の和装マネキンが登場しています。
 やがてロウでつくられますが、高価で変形しやすいものでした。

 1934年ごろになると、三越では輸入マネキンを約20体使用していました。その値段は1体が約1000円でした。
 ピンときませんが、背広注文服が約40円の時代でしたから、ものすごく高価な「お人形さん」だったのですね。

3月23日 世界気象記念日

 今日は世界気象記念日です。世界気象機関(WMO)が、発足10周年を記念して19605)年に制定しました。いくつかある国際デーの一つです。

 世界気象機関(WMO)は1950年に発足しました。世界気象機関(WMO)は、加盟諸国の気象観測通報を調整したり、気象観測や気象資料の交換を行っている世界組織です。日本は1953年に加盟しました。

 国際的なプロジェクトとしては、世界気象監視計画、南極観測、世界気候計画などがあります。
 本部はスイスのジュネーブにおかれ、2004年8月現在、181ヶ国・6領域が加盟しています。

 WMOは地球の大気や気候などに関して、国連機関の中では指導的機関となっています。
 とくに「オゾン層保護のウイーン条約」や地球温暖化防止を目的とする「気候変動に関する国際連合枠組条約」にも貢献しています。

 世界気象機関(WMO)は、毎年の大気中の温室効果ガスの状況をとりまとめたWMO温室効果ガス年報を刊行しています。
 
 気象庁はこの年報において温室効果ガス濃度の解析を担当しています。気象庁の今回の解析によると、二酸化炭素、メタン、一酸化二窒素は2004年の世界の年平均濃度がこれまでの最高になりました。
 
 また、日本の観測による二酸化炭素などの濃度も長期的にみると増加を続けています。
 温暖化を何としても食い止めなければ「人類の明日はない」のに、このことがわかっていない国と企業が腹立たしいです。

3月22日 国連「水の日」  

 今日は、1992年に国際連合が決定し、翌年から実施された国連の「水の日」です。

 地球的な視点から水の大切さ、貴重さを世界中の人々がともに見つめ直そうとする日とされています。
 日本では、8月1日が「水の日」となっていますので、この日は「地球と水を考える日」としています。

 さて、宇宙空間に浮かぶ地球の写真はまさに「青く輝く水の惑星」です。
 こんなに水があれば、少しぐらい水の無駄遣いをしても、水不足には縁がないように思われがちです。
 ところが地球表面にある水の97%までが海水です。海水は飲料水にも生活水にもまったく適していません。
 
 つまり地球上の60億人の人間が、海水以外の、現実にはそのままではつかえない残りの3%の水に頼っているのです。
 
 したがって、人間が直接使用できる水は、全体のたったの0.0001%にすぎないといわれています。 

 使える水は少ないのにさらに人間が環境を破壊して、水を減らしたり(砂漠化)、汚染させたりしていrます。
 
 身近なことで注意しなければいけないことは、日常的に使っている水道水です。
 水道水の中には、水質基準値以下ではあるようですが、トリハロメタンやトリクロロエチレン、シマジンなどの有害物質、気になるカビ臭や残留塩素などの「おいしさを阻害する成分が含まれています。
 東京・大阪など大都市の水道水は汚染された川の水をさまざまな薬品で浄化しています。有害物質や塩素の含有量が多いといわれています。 

 大阪の味はズバリまずいです。
 甲子園の高校野球に出場した高校生は大阪の水道水を飲んで、「まずい!」といってはき出したという話をかなり以前に聞いたことがあります。わかります、その気持ち。

 私は名古屋出身ですが、名古屋の水道水の取り入れ口は、当時は(今は知りません)岐阜県の兼山ダムにあって木曽川のきれいな水からつくられていました。

 おいしい水でした。
 
 大阪に来て、最初に飲んだ水道水の不味さを思い出しました。残念ながら今は慣れてしまいました。
 浄化装置をつけようと思いながら長年すぎてしまいました。

3月21日 国際人種差別撤廃デー

 今日は「国際人種差別撤廃デー」です。1966年の国連総会で制定された国際デーの一つです。

 1960年、南アフリカのシャープビルで、人種隔離政策(アパルトヘイト)に反対する平和的デモ行進に対して警官隊が発砲し、69人が死亡しました。この事件をきっかけに国連が人種差別に取り組む姿勢を打ち出しました。

 明日は、世界中で人種差別の撤廃を求める運動が展開される予定になっています。

 さて、南アフリカの人種隔離政策(アパルトヘイト)は、各地の人種差別の中でも最悪の物でした。国家権力を使った強制力のある政策だからです。国際連合は「人類に対する犯罪」と呼びました。

 白人政府は、「南アフリカにはたくさんの民族が住んでいて、それぞれ違う伝統や文化、言語を持っている。それぞれの民族が独自に発展するべきだ。アパルトヘイトは差別ではなく、分離発展である」と表向き主張していました。
 そらぞらしい弁明です。分離発展とは何という言いぐさでしょう。

 白人政府のねらいは、少数の白人による政治的経済的な特権を維持して、安いな労働力を非白人から供給することにありました。

 黒人達は白人が経営する農園や工場で働き、給料は白人の10分の1以下でした。
 しかも失業が多いため、1人の給料でたくさんの親戚を養うことも多かったといいます。住む家も、狭くて非衛生的な空き地に粗末な小屋を立てて生活せざるを得ませんでした。

 黒人達が住むホームランドや黒人居住区の道路は舗装されていない道が多く、舗装されていても穴が多く、維持・管理が不十分でした。

 隔離(別々に分けるという意味)するのがアパルトヘイトですから、何から何まで分けられました。広くきれいな白人専用の浜辺、豪華な白人専用の列車と駅舎、白人専用のバス、白人選用の豪華なホテル・・・。

 黒人専用のものはどれにも「狭い」「汚れた」などの形容詞をつければ実態があらわされます。

 隔離された人々には、黒人、アジア人、カラード(白人と原住民との混血)がいました。
 
 日本人は、南アフリカ共和国にとって重要な貿易相手国なので、「名誉白人」の扱いでしたが、白人との結婚も、人種の違う人間がおなじ場所に住むことも許されませんでした。 

 1980年代に入ると、国内各地でますます反対運動が激化してきました。また、国際的な経済制裁を受けました。
 世界各国がアパルトヘイトに反対して経済制裁を進める中で、日本は南アフリカにとって最大の貿易相手国になっていきました。これには国際的は非難が日本に寄せられました。

 オリンピックや各種の大会でも南アフリカ共和国は参加を認められませんでした。

 これらの国際的な非難・反発を受け、白人政府は方針を転換し、撤廃に向けての改革を進めていきました。
 
 そしてネルソン・マンデラを釈放されたのに続いて、国会でアパルトヘイト政策の廃止を宣言し、6月には人種登録法、原住民土地法、集団地域法が廃止され、アパルトヘイト政策は完全に廃止されたのです。

3月20日 地下鉄サリン事件

 1995年の今日、あの忘れることのできない「地下鉄サリン事件」がオウム真理教によって引きおこされました。

 当時、私は職場で流されるテレビの臨時ニュースではじめて事件を知りました。同僚と、テレビ画面をみていて、「まだ何かわからいけど、すごく怖いことがおこった。大阪でもおこるかもしれない。」と心配になりました。
 
 あとになってわかったことですが、やっぱり大阪でもオウムに抵抗する青年が、毒薬を首筋に数滴かけられて死因不明のごとく殺されていました。
 オウムの残党がどこで何をするかわからないから不気味でした。
 
 事件から2日後の3月22日に、警視庁は新興宗教団体オウム真理教に対する強制捜査を実施し、事件への関与が判明した教団の幹部クラスの信者を逮捕しました。

 林郁夫の自供により全容が明らかになりました。
 東京地方裁判所は主犯の麻原彰晃(本名:松本智津夫)を始め、林郁夫を除く実行犯全員に死刑を言い渡しました。

 オウム真理教は目黒公証役場事務長拉致事件、坂本弁護士一家拉致事件などをおこしていました。警察の疑惑追及の動きが進んでいました。警察の強制捜査があることを朝原はどこからか察知しました。

 朝原は強制捜査の直前に大規模なテロ事件をおこせば、警察の捜査の目をそらすことができると考えました。そして、朝の通勤時間帯で混雑する地下鉄内でのサリンの散布を信者達に命じたのです。

 
 さて、この事件で散布された兵器用の神経ガス・サリンによって、乗客や駅員ら12人が死亡、5,510人が重軽傷を負いました。

 犠牲者のうち何名かは列車の乗客を救助することでサリンの被害を受けた人たちです。
 被害者は現在もストレス障害(PTSD)に苦しみ、地下鉄に乗車することに不安を感じると語っています。
 また、今なお慢性的疲れ目や視力障害を負った被害者も多いということです。
 

3月19日 ミュージックの日

 今日は、ミュージックの日です。音楽関係者の労働団体「日本音楽家ユニオン」が1991年に制定しました。
 「ミュー(3)ジック(19)」の語呂合せから日がきまりました。

 「日本音楽家ユニオン」は、日本の音楽文化と音楽家の現状について広く理解を求め、その改善の為の支持を得ようと、全国各地でさまざまな活動をしている労働団体です。

 現在6000名の音楽関係者が加入しています。

 「日本音楽家ユニオン」は日本演奏家協会と日本音楽家労働組合の組織合同により、1983年10月に 発足しました。

 音楽家の個人加盟による組織で、労働組合の法人格を有し、前身の団体から数えて約25年にわたって音楽家の社会的、経済的地位の向上と音楽文 化の発展のための活動を続けてきました。
 特にNHK、民放、レコード協会などとの間で出演料の取り決めを行っているほか、オーケストラにおける労働条件の改善におい ても大きな成果をあげています。また、商業用レコードの二次使用料の増額にも取り組んでいます。

 国内の音楽家に対しては、機械的失業についての対策や生音楽の振興をめざす事業に取り組んでいる ほか、会員のための福祉共済制度の充実などに取り組んでいます。

 国際的には、68か国79団体が加盟する国際音楽家連盟 (FIM)に日本を代表する唯一の団体として加盟しています。

 日本音楽家ユニオンホームページより参照にしました。

 音楽家の地位向上は、文化国家の試金石の一つだといえますね。

3月18日 レオーノフ、人類初の宇宙遊泳 

 1965年の今日の午前10時、ソ連の宇宙衛星船ウォストーク2号が宇宙にむけて出発しました。
 搭乗していたアレクセイ・レオーノフ飛行士は、地球を17周まわる間に船外作業を24分間おこない、うち10分間を宇宙遊泳に当てました。これが人類最初の宇宙遊泳です。

 このとき、宇宙服のなかの気圧が上がりすぎ、服全体が膨張し、手を握ることもできず、エアロックを通って船内にもどることができなくなりました。レオーノフは、与圧バルブを開いて空気を逃がしてようやくことなきを得ました。
 しかし、この事実は当時は発表されることはありませんでした。

 私はこのときのニュースを見て、感動したのを覚えています。ここまで来たか、という感想でした。今から見れば初歩的な一歩ですが、この成果が積み重なって、今日の発展があるとおもいます。
 ウォストーク2号が帰着したのは翌日、午後0時2分でした。

 レオーノフは、ソビエト連邦において、ガガーリンらとともに最初の宇宙飛行士として空軍から選抜された20人のうちの一人でした。ソ連ではよく知られた宇宙飛行士です。

 レオーノフは、1968年からソビエトの月着陸計画のメンバーに選抜されています。しかし、宇宙船の開発のおくれとアメリカ合衆国のアポロ計画の成功により、ソビエトの月着陸計画はキャンセルされました。

 1975年にアポロ18号とのドッキング(アポロ・ソユーズテスト計画)に参加しましたが、それ以降は宇宙飛行士の育成にあたり、1991年に引退しています。

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3月17日 ショパンが初の演奏会

 音楽家・ショパンが、1830年のこの日、独奏会を開いてピアニストとしてデビューしました。

 ショパンはポーランドの誇り高い音楽家で、当時のヨーロッパではピアニストとしても、作曲家としても有名でした。それまでにはなかったピアノ音楽の新しい境地を切り開いた偉大な作曲家の一人です。

 私が多少でも知ってる作品としては、次のようなものがあります。中学・高校で習った程度ですが・・・・。

▼「ノクターン」
 映画『愛情物語』に使われた有名な旋律で、生前ショパン自身はこの曲に愛着を感じて   いたともいわれます。
▼「 別れの曲」
 ショパン自身が「生涯でこれほど美しい旋律を書いたことはない」と語ったという曲です。
▼「革命のエチュード」
 祖国ポーランドの独立運動がロシア軍に弾圧されたという悲報を聞いて、作曲されたといわれています。
▼「葬送行進曲」
▼「英雄ポロネーズ」
 ショパンのポロネーズのなかで、最も演奏される機会が多い曲です。
▼「子犬のワルツ」
 ショパンワルツのなかで、最も短くかつ最も演奏される機会が多い曲の一つです。犬が自分の尻尾を追いかけてくるくる回っている様子を描いたともいわれています。

 ショパンは、第1次世界大戦で解放されるまで他国によって虐げられたポーランド人の誇りでした。第1次世界大戦後、ポーランド人は、ショパンの名を冠した国際ピアノコンクールを、ショパンの生誕日を中心とした期間に開催することにしました。

 数多い国際音楽コンクールの中で、この「ショパンコンクール」こそが近代コンクールのさきがけというべき伝統を持っています。
 現在も続いている国際音楽コンクールの中では最古のもので、5年に一度の、若手ピアニストにとっての最高の登竜門でもあります。

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3月16日 三浦按針が漂着した

 三浦按針とはすなわちイギリス人ウィリアム・アダムスのことです。
 
 1600年の今日、按針が航海長として同乗していたオランダの東インド会社の船が暴風雨に襲われ、うち1隻のリーフデ号が豊後(今の大分県)に漂着しました。

 彼は1564年の生まれで、数学、天文、航海、造船のことを学んでいました。さらに、海外事情にも詳しかったといわれています。

 1600年といえば、日本では関が原の戦いで徳川家康が勝利し、家康の覇権が確立した年です。江戸幕府を開いた家康に謁見して信任をうけ、彼の外交顧問となりました。
 知行地を三浦郡逸見村に賜り、貿易、測量、造船、兵の装備強化等の指導にあたりました。

 再三、家康に帰国を願いましたが許されませんでした。
 ようやく許されたのにもかかわらず、ある事情で航海中の身の危険を感じて日本に止まらねばならなかったこともあり、結局帰国は果たせませんでした。

 イギリスに妻子を残したまま、1620年5月16日、彼は病のために平戸の住宅で逝去しました。享年57歳でした。(日本にも妻子がいました)

 按針は旗本の称号をもらっています。厚遇されているのがわかります。

 なお、按針とは羅針盤をあやつる航海士の意味です。按針の屋敷があった現在の日本橋室町1丁目は、1932年まで「安針町」とよばれていました。

 さらに、按針とともに入国したヤン・ヨーステンの屋敷の区域から「八代洲町」が誕生しています。現在の千代田区八重洲、東京駅の八重洲口のあるところがその区域です。

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3月15日 シーザー(カエサル)、暗殺される

 今日は、古代ローマの最大の将軍で政治家、カエサル(英語ではシーザー)が暗殺された日です。

 ポンペイとの戦いに勝ち、ローマに凱旋したジュリアス・シーザーを、ローマ市民は歓喜して迎えました。
 一方、陰謀者たちはシーザーの命を狙っていました。独裁政治を強化していくシーザーに対して、ローマの伝統である共和制を守ろうとしたのです。
 
 彼らはシーザーの寵愛するブルータスを陰謀の仲間に加えました。シーザーは占い師から、3月15日に用心するよう忠告されていました。妻の説得によって、一度は外出を取り止めました。しかし、陰謀者の口車に乗せられて、結局、元老院に出かけました。その元老院で陰謀者たちに次々と刺されて殺されました。

 シーザーはいくつかの有名な言葉を残しています。

 ▼「我が子よ、おまえもか」
 殺されたとき、暗殺者の中に愛していたブルータスの姿を見て、その瞬間、「我が子よ、お前もか」といって、抵抗をやめたといわれています。
 シェークスピアの劇では「ブルータス、お前もか」となっています。どちらも言わなかったという説も有力です。
 
 ▼「賽(さい)は投げられた」
 三頭政治をすすめていたころ、ガリア(今のフランス)、ブリタニア(今のイギリス)を平定してローマに戻ろうとしましたが、シーザーの実力を恐れたポンペイウスが軍隊を解散して帰国するよう命令しました。
 シーザーはこの時、「賽(さい)は投げられた」といって、ルビコン川を渡ってローマに進み、無血入城をはたしました。
 賽はサイコロのことで、「事をおこした以上、後には引けない」という意味で使われます。
 
 ▼「(私は)来た、見た、勝った」
 美しいクレオパトラをエジプトの女王の地位につけて、さらに愛人にした後、小アジア(今のトルコ)に攻め込んで勝利したとき、ローマに出したたった3語の手紙のことです。
 
 ▼ちなみに、英語で7月はJuly(ジュライ)ですが、英語読みのジュリアス・シーザーからとられています。 

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3月14日 ホワイトデー

 今日は、ホワイトデーといわれています。

 2月14日のバレンタインデーにチョコレートを贈られた男性が、返礼のプレゼントをする日となっています。バレンタインデーのチョコレートに対しキャンデーやマシュマロなど白っぽいものをお返しするのが一般的になっています。

 日本でバレンタインデーが定着するにしたがって、若い世代の間で、それにお返しをしようという風潮が生まれました。
 これを受けたお菓子業界では個々に独自の日を定めて、マシュマロやクッキー、キャンデー等を「お返しの贈り物」として宣伝して販売するようになってきました。

 1978年、「キャンデーを贈る日」として制定され、そして1980年に第1回のホワイトデーが開催されました。

 ちなみに、ホワイトデーを3月14日に定めたのは、269年2月14日、兵士の自由結婚禁止政策にそむいて結婚しようとした男女を救うため、バレンタイン司教が殉教し、その1か月後の3月14日に、その2人があらためて永遠の愛を誓いあったといわれていることに由来しています。

 ところで、またまた、販売促進キャンペーンが実を結びました。

 私は、ほぼ毎年、バレンタインデーにもらうチョコよりも、ホワイトデーのお返しの方が何倍も高価なことが多いです。
 それは、チョコ+気持ち(たとえ義理チョコでも)だから、高価になってもいいかと思うことにしています。
 このような行事があるから、「贈り、贈られ」のつながりができると考えるようにしています。

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3月13日 サンドウィッチデー

 今日は、サンドウィッチデーです。1が3で挟まれている(サンド1=サンドウィッチ)ことからつけられました。

  サンドウィッチの名前は、サンドウィッチの生みの親とされるイギリスのサンドウィッチ伯爵にちなんでいることはよく知られています。

 彼は、なぜこのようなパンの食べ方を工夫したのでしょうか。

 彼は食事をする時間もおしむほどトランプゲームが好きでした。
 そこで、ゲームの合間に片手で食事が取れるよう、パンに具を挟んだものを用意させていたことから、いつしかこれがサンドイッチと呼ばれるようになったといいます。

 ただし、これは彼を「貴族のくせに、庶民の食べ物で済ませる」だらしない人物だと印象付けるために、彼のライバルが流したデマであるという説もあります。

 パンに具を挟むという料理自体は古代ローマのオッフラ、インドのナン、中東のピタ、メキシコのタコスやブリート等、古くからありました。

 だから、パンで挟んで食べる食べ方(サンドイッチ)の発明者を彼とするのに疑問の声もあります。
 そうでしょう、挟んで食べるぐらいのことはだれでも考えつくでしょう。

 最も有力な説は、やはり伯爵がトランプ賭博に夢中になるあまり、食事の時間も惜しんでそればかりを食べていたという上記のエピソードから、彼の名前があとになって付けられただけということが正解の感じがします。

 確かに作るのに多少の手間はかかっても、食べる側からすれば美味しい食べ物です。私は大好きです。
 孫が遊びに来たときには、ネタを自分で選んでつくる手巻き寿司のように、「手挟みサンド」をときどきします。自分の好みで「○○サンド」ができますし、調理をする者にとっても具を並べるだけですから簡単にできます。

 日本語ではいつものことながら省略して「サンド」と呼びますが、イギリス人やアメリカ人からすれば、sand(砂)で挟むパンって何?と不思議でしょうね。

 さて、今日とは別に、サンドウィッチ伯爵の誕生日・11月3日が「サンドウィッチの日」となっています。イ(1)イ(1)サン(3)ドの語呂合わせも合っています。

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3月12日 日曜日が休日になった

 1876(明治9)年の今日、官公庁で土曜は半日の休日・日曜が全日の休日になる制度が実施されました。

 それまでは休日はなかったのかというと、1868(明治元)年9月に、31日を除く1と6のつく日を休日としていました。しかし、欧米との交易等で不便があったため、欧米と同じ仕組みに改めることとしました。

 土曜日の午後の休日のことを、「半ドン」といいますが、おこりはどこにあるのでしょう。

 一つは、以前から皇居で毎日正午に大砲(午砲・ドン)を撃っており、土曜日はドンとともに仕事が終わることから、丸の内に勤める人たちの間で「半ドン」と呼ばれるようになったという説。ドンは全国の都市で行われるようになり、それとともに「半ドン」という言葉も全国に広まったといいます。

 また、私が信じていた二つめの「半ドン」のエピソードは、オランダ語で日曜日を意味するzondag(ゾンターク)が訛って「ドンタク」となったという説です。
 土曜日は半分が休日であることから「半ドンタク」、略して「半ドン」となったとする説です。
 若い方には「半ドン」という言葉は死語または古語ですかね。

 さて、現在では週休二日制、学校五日制が定着して、家族そろって土日が休日という家庭が増えてきました。

 休日が増えたことはうれしいことですが、土曜日の昼に一週間の仕事を打ち上げたときの解放感はなつかしいですね。
 職場の仲間と昼食を食べにいって、しゃべりまくり、仲良くなり、それで職場の雰囲気が良くなるという好循環が当時はありました。
 
 現在のような能力主義ではなく、みんなで団結しなければやっていけない職種でしたから、今、それを思えば土曜日は貴重な日でした。

 週休二日制になってからは、私は、お出かけは土曜日に済ませ、日曜日はゆっくりというパターンにできるだけしていました。

 歳をとると、週休二日制は助かります。

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3月11日 ヨーロッパ人がパンダを知る

 1869年の今日、中国・四川省の民家で、フランス人神父が白と黒の奇妙な熊の毛皮を見せられました。これが、ヨーロッパ人にパンダが知られるきっかけとなりました。

 パンダには白黒の大きな体をもつジャイアントパンダと後ろ足で立つという小さなレッサーパンダの2種があります。

 初めはレッサーパンダが単に「パンダ」と呼ばれていましたが、後にジャイアントパンダが発見されて有名になると、単に「パンダ」といった場合はジャイアントパンダの方を指すようになってしまいました。
 このため、従来のパンダの方には「小さい方の」という意味の英語「レッサー 」 を付けて、レッサーパンダと呼ぶようになりました。

 中国語では、単にパンダは「熊猫」、ジャイアントパンダは「大熊猫」、レッサーパンダは「小熊猫」といいます。

 かつてはこの2種は近い種類に考えられていましたが、現在では「名前にパンダが入っている動物」という程度のつながりしかない、遠い関係の両者であります。

 最近の子どもたちはパンダのことをよく知っていますが、もともとパンダ(ジャイアントパンダ)は日本人が知らない動物でした。私が知ったのも20歳代後半ではなかったかと思います。
 日本へは、パンダの大ファンの黒柳徹子によって紹介されました。 
 その後、日中国交正常化により上野動物園に中国から2匹送られてきました。日本中にパンダ・ブームがおこりました。
 
 先日、大阪市立天王寺動物園に孫を連れて行ってきましたが、レッサーパンダはジャイアントパンダに劣らずたいそう人気がありました。
 愛くるしさや希少さからパンダの人気は高く、パンダのいる日本の動物園ではパンダ目当ての来園客が非常に多いということです。

 興行などで集客力を持つために使われる人気者のことを、「客寄せパンダ」といいますが、ここに起源があるようです。

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3月10日 東京大空襲

 太平洋戦争末期の1945年3月10日は「東京大空襲」の日です。

 アメリカ軍による空襲は106回ありました。「東京大空襲」という場合、とくに規模がもっとも大きかった、この日の空襲のことをいいます。
 
 太平洋戦争中に行われた空襲の中でも、とりわけ民間人に大きな被害をもたらした空襲として知られています。
 なぜかといいますと、もともと家を焼くことが目的だったからです。爆弾を落として、家を焼けば、戦争に直接関係のない民間人を殺傷することがわかっていての空襲だったのです。
 やり方も市街地と市民そのものを攻撃の対象にした低高度夜間爆撃でした。

 B-29爆撃機325機(うち爆弾投下機279機)による爆撃は、午前0時7分に深川地区へ初弾が投下されました。その後、爆撃地域がしだいに広がり、午前0時20分には浅草地区でも爆撃が開始されました。
 
 火災の煙は高度7000mまで達し、秒速20mと台風並みの烈風が吹き荒れました。当夜は低気圧の通過に伴って強い北西風が吹いており、この強風が大きな被害をもたらしたといえます。 

 この時使用された焼夷弾は日本家屋を標的にしたものであり、爆発力ではなく、燃焼力を主体とした「焼夷弾」が開発されていました。これが木造を主とする日本家屋を直撃しました。

 火災から逃れるために、燃えないと思われていた鉄筋コンクリート造の学校などに避難した人も多くいました。
 しかし、火災の規模があまりにも大きいため、火災旋風がいたるところで発生し、建物に炎が滝のように流れ込み、焼死する人や、炎に酸素を奪われて窒息死する人も多かったということです。

 また、川に逃げ込んだものの、水温が低く凍死する人が多く、翌朝の隅田川は凍死・溺死者で川面が溢れていたといいます。

 こうして8万人以上(10万人以上とも言われる)が犠牲になり、焼失家屋は約28万戸に及び、東京の3分の1以上の面積(約40平方キロメートル)が焼失しました。

 この「東京大空襲」を振り返ると、どんなことがあっても平和が大切だということですね。
 平和を守って行きましょう。

3月9日 アメリゴ・ヴェスブッチの誕生日

 今日は、イタリアの探検家で商人のアメリゴ・ヴェスプッチ(Amerigo Vespucci)が生まれた日です。アメリゴ・ヴェスブッチってだれ?という声が聞こえてきそうですが、有名な人物ですよ。

 コロンブスがアメリカ新大陸を発見したのは、有名な「意欲に(1492)燃えたコロンブス」の1492年です。(コロンブスは、島を発見したときはインドであると信じていました。)
 
 ヴェスブッチが生きた時代はコロンブスと同じ時代でした。

 ヴェスプッチは、1497~1504年の間に4回も新大陸に航海しています。南アメリカ大陸など各地を探検する中でコロンブスと違う考えを持ちました。
 
  それは、アメリカ新大陸をコロンブスを始めとするヨーロッパ人が「東アジア」であると考えたのに対し、ヴェスプッチは「アジアとは別の大陸」であると主張しました。

 そしてこの事実が確認されたとき、当時の世界地図を作ったドイツの地理学者バルトぜーミュラーによって、「アメリゴ」のラテン語名からこの新大陸に「アメリカ」という名前がつけられたのです。

3月8日 ミツバチの日

 3月8日は語呂合わせで「み(3)つばち(8)」の日です。そして8月3日は「はちみつ」の日になっています。どちらも、全日本はちみつ協同組合と日本養蜂はちみつ協会が定めたものです。

 ハチミツは私たちの健康や嗜好でお世話になっていますが、花の蜜をせっせと集めてくれているのがミツバチです。人間が横取りしてるのです。
 
 特に日本人が好んで買い求めるレンゲやアカシアの蜜はさっぱりした味なので人気があります。ミカンの蜜も、ミカン栽培の時期に多く集められています。

  人類はかなり古い時代からハチミツを知っていました。あの芸術家の人類・クロマニョン人のアルタミラ洞窟の壁にもそのようすが描かれています。彼らは少なくとも1万年より少し昔の人類です。そのころにはミツバチの巣を見つけ出して食していたと考えられチェいます。量は少なかったでしょうが、当時としては最高の甘味料だったに違いないでしょう。

 古代エジプトでは「蜂を飼う」ということをはじめました。ハチミツを集める時に巣をこわして蜜を絞り取っていたそうです。もったいないですね。巣をこわされた蜂たちも大変、ハチミツをとる側の人間も非能率的です。

 現代では、養蜂家は継続して使用できる巣箱でミツバチを飼っています。この方法では巣箱の板を一枚ずつ取り出してはそこについている蜂蜜を取り出し、また巣箱にもどしています。そしてこの板を遠心分離機にかけて一気に蜂蜜を取るやりかたが最もよく行われていて能率的です。

 養蜂をする人たちはこの巣箱を持って花の咲いている所を求めてあちこち移動しながら蜂を飼っています。

 ハチミツの王様、ローヤルゼリーはとくに栄養価が高く、免疫強化や老化防止、虚弱体質の人の体力増進などに効果があります。これはハチミツの中でも、女王蜂を育てるために特別に調合されたものです。

 また、最近人気があるののがプロポリスです。ミツバチが巣を守るために塗りつけているニカワ状の物質です。強い抗菌・消炎作用があり、飲むとウィルスに対する抵抗力をつける力があるとされます。癌や糖尿病・喘息などにも効果があるという説もあります。
 ブラジルなどからたくさん輸入されています。少々高価ですが買い求める人は多いですよ。

 私は、ハチミツは、紅茶に入れたり、マーガリンを塗ったトーストにつけたり、ホットケーキにかけたりして使っています。安物ですが・・・・。
 ハチミツは何の花の蜜かを明記した、混じりけのないブランドものが一番いいということを聞いたことがあります。

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3月7日 玄奘の忌日

 今日は、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)の忌日です。

 玄奘は、10歳のときに出家し、玄奘と名づけられました。隋末の動乱によって各地を転々としながらも、学問に励みました。その後、長安入りを果たしますが、戦乱がまだまだ収まらず、戦さを避けて長安をでて成都にうつりました。その後も各地を巡っています。

 やがて、仏典の研究には原典によるほかほかないとし、また、同時に仏跡の巡礼を志し、唐の国禁を犯して国を出ました。

 仏教の原典を手に入れるためには、天竺(てんじく)へ行かなくてはなりません。天竺とは今のインドです。
 中国から海で行くことは当時では考えられません。西にそびえ立つ高い山々を越えるしか道はありません。玄奘は天山山脈をぐるっとまわって中央アジアから天竺へ入りました。
 天竺のナーランダ寺で学び、また各地の仏跡を巡った後、天山南路を通って無事帰国しました。657部という膨大な経典を長安に持ち帰りました。
 
 旅の記録は『大唐西域記』として残されています。帰国した彼は、持ち帰った膨大な梵経の翻訳に専念しました。

 この『大唐西域記』をもとに描かれたフィクションが「西遊記」です。「西遊記」は中国四大奇書の一つに数えられています。

 子どものころ、この物語は映画でもテレビでもよくみました。マンガもおもしろかったです。今の子どもたちも好きな物語でしょうね。

 今日の小中学生は、仏教の行事には葬式・法事以外にはあまり参加しないので、仏教がインドでおこったこと、仏教をおこした人物が釈迦であることを知らないです。でも、玄奘三蔵の名前だけはよく知っています。釈迦の名前は聞いたこともないらしいです。

 現代の小中学生がよく知ってる仏教のお坊さんは、玄奘と鑑真がダントツです。いつかは鑑真を取り上げてみたいです。

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3月6日 ミケランジェロの誕生日

 今日は、イタリアルネサンスの偉大な芸術家・ミケランジェロの誕生日です。

 ミケランジェロの作品はよく知られています。
 ヨーロッパでもっとも巨大な絵画の一つともいわれるバチカンのシスティーナ礼拝堂の天井フレスコ画や『最後の審判』を描いたことでよく知られています。
 
 もともとは彫刻家であり、『ピエタ』や『ダビデ像』等の傑作のほかにも有名な作品を多く残しています。バチカンの『サン・ピエトロ大聖堂』の設計者でもあります。 

 代表作のダビデ像は高さ4.34mの巨大な像です。
 敵であるゴリアテを見据える激しい表情をしています。
 
 ダビデ像は折り曲げた腕に持っているのは投石器です。
 私が思うには、袋に石を入れてブンブン振り回して、パッと放すと石が入っている袋(石の武器)が勢いよく飛んでいきます。その袋の投石器がゴリアテに向かって飛ばされる直前の動きだと聞いたことがあります。筋肉の迫力はすごいですね。

 日本ではミケランジェロは中学校でも習うのでよく知られています。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロとともにルネサンスの三大巨匠と呼ばれています。
 
 しかし、彼は、極端にレオナルド・ダ・ヴィンチを嫌っていました。
 同じ絵に一緒に描かれるのも嫌だったらしく、ラファエロの代表作『アテナイの学堂』にアリストテレス(ミケランジェロ)とプラトン(ダ・ヴィンチ)が並んで描かれているのを知ると、激怒したといいます。

 貴族や王の庇護をうけていた「万能の天才」と名声が高かったダ・ヴィンチと、庶民的で気むずかしい努力家だったミケランジェロでは、まったく気があわなかったのです。

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3月5日 日本初のミス・コンテスト

 今日は、日本ではじめてミス・コンテストがおこなわれた「ミス・コンテストの日」です。

 時事新報社は、ヘラルド・トリビューンの依頼によって、『世界美人コンクール』の日本予選として、「良家の淑女」の写真を募集しました。
 1908(明治41)年のこの日、その審査結果を公表しました。これが日本初のミスコンテストとなりました。

 こんなエピソードが残っています。
 小倉市長・末弘直方の四女・末弘ヒロ子が最優秀賞を獲得しました。ところが彼女はまだ学習院女子部3年に在学中の身でした。彼女のコンテスト参加は学習院で大問題となり、学長の乃木の怒りが大きく、ついに退学処分になってしまいました。
 ちなみに、この写真は彼女の義兄が、無断で主催者宛に郵送したものだそうです。 

 さて、「ミス○○」は、未婚女性を中心としたコンテストです。
 そのため、最近では「ミス○○」という表現が差別的だとして「○○大使」などと名称を変更し、既婚女性や男性でも参加可能としているところも出てきています。

 ミス・コンテストに関する反対意見の中では、男性による女性の商品化という批判というが多いです。
 また、美的センスは本来、人それぞれによって異なるのに、客観的な美人の評価基準があるかのように思わせるのは不当ではないかという批判もあります。
 また、美的評価を序列化することへの批判もあります。

 一方、ミスコンはモデルや女優など芸能界を志望する人にとっての登竜門でもあります。それらをめざし自分の意思で出場する女性もたくさんいるので、「男性による女性の商品化」とはいえないとの意見があります。

 また、水着審査に対する反発も根強いです。現在ではほとんどのミスコンで水着審査が廃止されました。
 かつてグラビアアイドルの登竜門であったクラリオンガールでも、水着審査が廃止されています。ミス日本などの一部ミスコンにおいてのみ、水着審査が行われています。

 私は、ミスコンにはまったく興味がわきません。
 ただ若いときから、「美人」かどうかは、たとえ自分が美人だと思っていても、周りの人が認めてくれるのが先で、自分の方から美人を主張しようというのには軽い反発を感じていました。

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3月4日 三線の日

 語呂合わせでは何の日かなと考えていましたら、まず、ミ(3)シ(4)ンの日でした。「ミシン」という名前は、 "sawing machine"(裁縫機械)の"machine"(マシーン)がなまったものです。

 次の語呂合わせは、3と4でサッシ。「サ(3)ッシ(4)の日」でした。

 まだありました。三線の日です。沖縄の楽器で「サンシン」といいます。サ(3)ンシ(4)ンの語呂合わせです。
 沖縄県の琉球放送が制定しました。

 三線は、蛇味線とも呼ばれ、三味線の元となったとされています。

 ただ、蛇皮線とよぶのは本土で、沖縄では言わないようです。沖縄では三線(サンシン)、あるいは単に三味線といいます。
 ヘビの皮(現在はニシキヘビの皮)が使われています。
 最近では人工皮を張ったものや人工皮の上に本皮を張った二重張りとか強化張りと呼ばれるものも普及しつつあるといいます。
 
 人工皮はその性質上高く鋭い音になりやすいので、好みの別れるところだそうです。ただし、人工皮でも張り方次第でかなり柔らかい音にできる製作者もいるため、オーダーメイドの場合はある程度の調整が可能な場合もあります。

 過去には蛇の本皮に手が出ない庶民が使った渋紙張りの三線がつくられました。
 第二次世界大戦後の物資の乏しい時期には馬の皮張り、セメント袋張り、米軍払い下げの落下傘生地などがありました。

 また空き缶を材料とした「カンカラ三線」(かんからさんしん)と呼ばれるものも代用品として製作されました。
 カンカラ三線は近年になって学校教育でも使われるようになり、また手軽なお土産としても人気を博しています。

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3月3日 雛祭り

 3月3日は、雛祭りの日です。

 もともとは上巳(じょうみ/じょうし)の節句といわれていました。五節句の一つです。上巳とは陰暦3月の最初の巳(み/へび)の日のことです。後に3月3日が上巳の節句の日になりました。
 旧暦では3月3日は桃の花が咲く季節であることから、「桃の節句」とも言われるようになりました。

 古来、中国では、上巳の日に川で身を清め不浄を祓う習慣がありました。これが平安時代に日本に取り入れられました。
 
 後の人々は、紙で小さな人の形(形代)を作ってそれに自分のけがれを移し、川や海に流して不浄を祓うようになりました。
 この風習は、現在でも「流し雛」として残っています。

 人形に穢れを移して川や海に流していたのが、その人形がしだいに華美で精密なものになっていくにつれて、ひな壇に飾っておくようになり、雛祭りとして発展して行きました。

 江戸時代から、女子のいる家庭では、雛人形をかざり、白酒・菱餅・あられ・桃の花を供えて祀るようになり、こうした雛祭りはしだいに庶民の行事となっていきました。

 もともとは、5月5日の端午(たんご)の節句とともに男女の別なく行われていました。
 しかし、豪華な雛人形は女の子に属するものとされたのに対して、端午の節句は菖蒲の節句ともいわれることから、「尚武」にかけて男の子の節句とされるようになりました。

 ちなみに、五節句とは、次の通りです。
1月7日の「人日(じんじつ)の節句」 七草粥
3月3日の「上巳(じょうし/じょうみ)の節句」「桃の節句」 雛祭り
5月5日の「端午(たんご)の節句」「菖蒲の節句」 鯉のぼり
7月7日の「七夕(しちせき/たなばた)の節句」 星祭り、七夕祭り
9月9日の「重陽(ちょうよう)の節句」「菊の節句」

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3月2日 ミニの日

 今日は、ミニの日といわれています。ミ(3)ニ(2)」の語呂あわせでこの日が決められました。最初に言い出したのはBMWの日本支社であるBMWジャパンということです。

 ここでいうミニとはイギリスで40年にわたって生産されてきた小型自動車のミニ(Mini)をさしています。
 Miniに代わって、新しくMINI(MINIクラブマン)が売り出されています。今日、3月2日が納車日に決められるなど、同社では「ミニの日」にちなんでいろいろなイベントが計画されています。

 さて、英語でminiという単語は、名詞の前につけられる「小型・小さい」という意味を持つれっきとした接頭語です。
 
 日本では「ミニ」という言葉はほとんど日本語化しています。日本では何にでもくっつけて使います。この言葉がくっつくと、とたんに「かわいらしく」なります。ミニスカート、ミニバスケット、ミニバイク、宝くじのナンバーズミニ・・・・というふうに。

 だから、今日はミニチュアや小さいものを愛そうという日でもあります。

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3月1日 ビキニデー

 今日は3.1ビキニデーとよばれています。しかし、残念なことですが、最近はあまり知られていません。

 私の小学校時代、隣のお兄さんが紙芝居屋さんでした。夕方、太鼓をたたきながら町内を一周すると、子どもたちが集まってきて、5円だったか10円だったかでお菓子を買って紙芝居を見ました。

 その出し物のなかで妙に頭から離れないのが、ある女将さんの頭がキノコ雲のようなヘアスタイになっている「原爆アタマ」「原爆マグロ」という話でした。そのときは何の意味かわからず、みんなといっしょに紙芝居の絵を見て笑っていました。

 ところが、高校生になってから、「原爆マグロ」が、ビキニで水爆の被害を受けたマグロ漁船「第五福竜丸」事件とつながったのでした。

 遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」は、1954年3月1日、米国が設定した危険水域外のマーシャル諸島近海で操業していたにもかかわらず、船体、船員、捕獲した魚類が放射性降下物(いわゆる死の灰)にさらされました。
 実験当時、危険を察知して海域からの脱出を計りましたが、延縄(はえなわ)の収容に時間がかかり、数時間に渡って放射性降下物の降灰を浴び続けることになったのです。
危険区域を狭く設定していたアメリカの過ちでした。
 
 第五福竜丸の船員23名は全員被曝しました。無線長久保山愛吉がこの半年後の9月23日に血清肝炎で死亡しています。

 この水爆実験で放射性降下物(いわゆる死の灰)を浴びた漁船は、数百隻にのぼるとみられ、被曝者は2万人以上とみられています。 

 また事件が一般に報道されると「放射能マグロ」の大量廃棄や、放射能に対する不安感から魚肉の消費が落ち込むなど国民生活にも大きな影響を与えました。(私が紙芝居を見たのはこのころでしょう。)

 「原水爆による犠牲者は、私で最後にして欲しい」(久保山愛吉の遺言)

 第五福竜丸の水爆被害は、当時の日本国内に強烈な反核運動をおこすきっかけになりました。そして国民的運動が大いにもりあがり、核兵器廃絶を求める署名運動が行われました。
 そして翌年の8月、「第一回原水爆禁止世界大会」が開催されました。

 日本は「被爆国」ですが、日本国民は「広島、長崎、第五福竜丸」と、三たび被爆したといわれるようになりました。

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