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2月1日 テレビ放送記念日

 今日は、1953(昭和28)年、NHK東京放送局が日本初のテレビの本放送を開始した日で「テレビ放送記念日」です。

 この日の午後2時、東京・内幸町の東京放送会館から「JOAK-TV、こちらはNHK東京テレビジョンであります」の第一声が放送されました。当時の受信契約数は866台、受信料は月200円でした。 
 同年には日本テレビ、翌年にはNHK大阪(BK)と名古屋(CK)、少しあとにラジオ東京(現在の東京放送(TBS))でもテレビ放送が開始されました。

 ちなみに当時の市販されていたテレビの値段は約18万円ほどでした。公務員の初任給が約5400円という時代でしたから、テレビを買えるのは裕福な家庭だけでした。ですから台数はまだまだ少なく、街角に設置された「街頭テレビ」に大勢の人がつめかけたました。

 私は、そのころ小学生でした。力道山の試合があると、裏の菊谷さんの家に友だちみんなで押しかけて見せてもらいました。確か「ジャングルジム」とかいう外国の番組を毎週見させてもらったことがありました。「ポパイ」もやっていたような気がします。
 そのほかの場所では銭湯にテレビがありました。プロ野球ナイターや紅白歌合戦は銭湯で場所取りをして見ていました。
 
 いまやテレビは「家庭に1台」どころか「ひとりに1台」といえるほどに普及しました。携帯電話でテレビを見られる時代になりました。
 ひとつだけ注文します。いい番組をつくってください。 

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1月31日 生命保険金の受取人第一号 

 今日は、「生命保険の日」です。これは日本で最初に生命保険の保険金が支払われた日、1882(明治15)年1月31日にちなんだものだそうです。

 この「生命保険の日」のもとになっている最初の死亡保険者は警察関係の人物です。殉職ではなく心臓麻痺で死亡されました。生命保険会社へ支払った保険料が30円、遺族が受け取った保険金は1000円とのことです。
 当時の物価ですが、明治15年にお米が10kgで82銭ほどでした。米の値段の基準でいえば、今なら保険料10万円、保険金は約300万円と思われます。
 
 生命保険のもとは「香典講」だと言われています。日本でも、西洋でも、仲間内で誰かが亡くなったら一定の金額を遺族に支払うという約束事が結ばれ、運用されることがしばしばありましたが、参加者が減ると確実に破綻するためあまり長続きしませんでした。

 近代的な生命保険会社の最初は1762年にイギリスで設立されます。
 日本で最初の生命保険会社が設立されたのは、1881(明治14)年の7月9日で有限明治生命保険会社でした(現・明治安田生命保険相互会社)。

 また、今日は「そばの日」です。毎月月末(みそか)がそばの日として、日本麺業団体連合会が制定しました。昔、江戸の商人が毎月月末に縁起物としてそばを食べていたことに由来しています。細くて長いそばの形状から、身代(しんだい=家の財産)が長続きするようにという願いを込めていたようです。

 また、もう一つ。日本愛妻家協会が制定した「愛妻家の日」です。なぜ? 語呂合わせ?
 そうです。1月の1をI(アイ)に見立て、「あい(I)さい(31)」の語呂合わせです。
 「愛妻家協会」は、「地球温暖化よりも家庭寒冷化現象の方を気にして」おられるときいています。


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1月30日 長谷川町子が誕生

 TVアニメの超長寿番組「サザエさん」の原作者、長谷川町子は、大正9年のこの日、佐賀県多久市で生まれました。

 初めは画家をめざしますが、やがてマンガを書くようになります。デビュー作は「狸のお面」です。よく知られているおもな作品としては「サザエさん」「いじわる婆さん」「いじわる看護婦さん」「エプロンおばさん」などがあります。

 「サザエさん」の構想は、浜辺を散歩していたときに浮かんだものです。最初は、福岡の「夕刊フクニチ」に1946(昭21)年から連載されていましたが、その連載が終了するとき、町子はサザエさんを唐突に結婚させてしまいました。

 その後、町子は東京へ引っ越してきました。ところが連載の続きを書くことなど思ってもおらず、東京で連載を復活するときになってこまったことがおこりました。福岡で連載を打ち切るとき、サザエさんと突然結婚させた相手(マスオ)の顔を忘れていたのです。このとき、福岡まで新聞の縮刷版をみせてもらいにいって思い出しました。

 朝日新聞の連載は順調でした。最初は夕刊でしたが1951年から朝刊に移り、1974年2月、「フジ三太郎」にバトンタッチして終了するまで、朝日新聞の掲載分だけでも25年間の長期連載でした。連載回数は6477回、25906コマにおよんでいます。

 「サザエさん」でも売れない時期がありました。自費出版に近い形で出版した第1巻が売れずに返品の山、第2巻は未出荷のまま自宅に積まれていました。要するにこの時の本のサイズが横長の変形版であったため本棚に並べにくかったことが理由のようでした。第3巻も心配しながら普通のサイズに直して出版しました。

 町子姉妹が直接本屋さんを訪ねて売り込む毎日が続きますが、幸いなことにポツポツと売れ始め、そのうち1巻や2巻もないかという問い合わせが少しずつ来るようになります。こうしてだんだん認められ人気が出ていきました。

 1948年には早くも映画化されました。私は小学校のころ、父に連れられて、江利チエミがサザエさん役をした映画をみたことがあります。これがきっかけで江利チエミのファンになったような記憶があります。
 父はあまりマンガを認めませんでしたが、なぜか「サザエさん」だけは例外でした。学校の懇談会で「うちではサザエさんだけは読ませています」と先生に話していたのを思い出します。
 ほのぼのとした家族の雰囲気、悪者がいないところが気にいっていたようです。

 TVの「サザエさん」は1969年から放映が始まり、現在まで30年間放映され続けました。そのテーマ曲はいまだにヒット・ランキングの上位にあるというとんでもないロングセラー曲です。孫もカラオケではいつも歌います。
 現在は、日曜日の6時30分に放映されており、よく見ていますが、この番組が終了したとしたら多くの人々が寂しい思いをするのだろうなとおもいます。

 1978年、朝日新聞に連載された自伝「サザエさんうちあけ話」は、NHKの朝の連続ドラマ「マー姉ちゃん」として放映されました。
 1992年5月27日死去。

 なお、東京都世田谷区に長谷川町子美術館があります。      http://www.hasegawamachiko.jp/

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1月29日 世界救らいの日

 1月29日は、「世界救らいの日」とされています。「癩(らい)」とは、ハンセン病の旧称のことで、癩菌による慢性伝染病です。1874 年、ノルウェーの.ハンセンによって発見されたので、現代では、ハンセン病とよばれています。

 感染・発症すると、神経がおかされ、皮膚症状があらわれたり、病状が進むと身体に変形が生じてしまうこともあります。癩菌の感染力は極めて弱く、感染しても発病するのは稀で、体力や抵抗力が非常に弱くなっている時に発病します。
 
 その外見上の特徴や、遺伝病だと思われていたことなどにより、患者に対する偏見は強く、「らい予防法」によって療養所に強制的に隔離されていました。
   
 「らい予防法」は、従来から強い社会的な批判をうけていました。全国ハンセン病患者協議会などの入所者団体の運動の成果もあって、入所者の実質的処遇は少しずつ改善されてはいましたが、まだまだ不十分でした。
 
 日本らい学会は、国際的非難が高まってきたことなどをきっかけとして、1995年4月、「長期にわたって現行法の存在を黙認したことを深く反省する」として、長年の方針を転換し、「らい予防法」の廃止を求める見解を発表しました。
 
 こうした背景があり、「らい予防法」は1996年(平成8年)にようやく廃止されました。にもかかわらず今もなお社会には誤解や偏見が残っていいます。

 なお、現代においては、1940年代のプロミンをはじめとして,リファンピシン,DDSなど,すぐれた治療薬が開発されたため、確実に治せるようになりました。
 治療後も、障害を残すことなく、外来治療によって完治する病気になりました。

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1月28日 スペースシャトル、チャレンジャー号爆発

 1986年の今日、アメリカのスペースシャトル・チャレンジャー号がフロリダ州ケープカナベラルから打ち上げられましたが、打ち上げから73秒後に突如大爆発をおこしました。

 シャトルは空中分解した後に大西洋に落下し、クルー7名全員が死亡しました。遺体の司法解剖の結果、死因は海面へたたきつけられたことによる激突死と判明しました。このためクルーの一部は海中に墜落するまで生存しており、意識もあったのではないかと見られています。この犠牲者の中には、初の民間人として注目されていた女性高校教師が含まれていました。彼女は軌道上から「宇宙授業」を行う予定でした。

 爆発の原因を調査した結果、シャトルの各部のつなぎ目に使っているゴムが寒波による異常低温で弾性を失って、それがもとで炎が漏れ、その炎によって外部燃料タンクが爆発したことがわかりました。
 NASAの責任は、一つには設計ミスが見抜けなかったことがあります。もう一つは当日の打ち上げを急いだことがあります。
 
 もともとの打ち上げ予定日は1月20日でしたが、前のロケットの打ち上げが遅れていて1月25日に延期されていました。さらに天候悪化で28日に延期されていました。28日当日、異常寒波にもかかわらず、打ち上げが強行されました。

 ロックウェル社の技師はシャトルについたツララを心配してNASAに発射延期を要請したということです。
 しかし、NASAは問題なしと判断して発射を強行したのでした。なぜNASAが打ち上げを急いだかといいますと、一説には、当時のレーガン大統領の一般教書演説が一月末に予定されており、その原稿には、チャレンジャー号の打ち上げのことがすで書かれていたので、ホワイトハウスがNASAに打ち上げを急ぐよう圧力をかけていたといわれています。

 もしこれが真実ならば、亡くなったクルーは、つまらない政治的なショーの犠牲となり、無念な死に方をされたとおもいます。

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1月27日 アウシュビッツ収容所が解放された

 今日は、1945(昭和20)年、第2次世界大戦末期、ソ連軍によってナチスのアウシュビッツ強制収容所が解放された日です。

 ナチスが行った大虐殺による犠牲を忘れてはならないとして、1996年から、「ナチス犠牲者記念日」に制定されました。この日の前後には、全国の公立学校(中学・高校レベル)で、ナチスによるユダヤ人抑圧の歴史が教えられます。
 他にも、イギリス、イタリアなどでも、この日をホロコースト(組織的な大量虐殺)犠牲者の追悼記念日としています。

 アウシュビッツに収容されたのは、ユダヤ人、政治犯、精神障害者、身体障害者、同性愛者、捕虜、聖職者、さらにはこれらをかくまった者など広範囲にわたります。その出身国は28カ国に及びます。
 アウシュビッツは、ナチスが戦争をすすめていく上で欠かせない、労働力の確保のための施設でもありました。その中で、労働力として適さない女性・子供・老人などをどうするか、どう始末するかという問題がおきました。そして即刻処分する、というしくみができました。
 即刻処分するという結論が、数多くの悲劇を生み出しました。一説には強制収容所に列車で連れてこられた直後の選別で、70~75%の人々がなんらの記録も残されないまま、その足で即刻、ガス室に送り込まれて殺害されたとされております。このため収容されていた総人数など正確な数は現在にいたっても把握できていません。即刻の処分をまぬがれ、労働力として認められて生き延びたとしても、多くは半ば使い捨てであり、非常に過酷な労働を強いられました。

 解放時には約7,500人の被収容者がおりました。西方へ移動した者のうち、生存者を加えると約5万人が生き残ったことになります。一方で収容されていた者のうち9割以上が命を落としたとされています。

 ドイツでは、過去の誤りを率直に認め、過ちを繰り返さない決意と努力がなされています。わが国はどうでしょうか?

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1月26日 法隆寺金堂の火災

 1949(昭和24)年の今日、法隆寺の金堂から火災が発生しました。

 現存する世界最古の木造建築で、修理解体中だった法隆寺金堂(7世紀末建立)から火が出て、金堂内部の柱と壁画を焼失しました。この壁画は、白鳳時代に描かれた「十二面壁画」で、敦煌のそれにも優るとも劣らない世界的な遺産だっただけに、痛恨の焼失でした。社会的に大きな衝撃をあたえました。
 なお、焼失した壁画を復元する事業がはじまり、多くの画家が携わりました。現在は復元された壁画が金堂の壁面に収められています。

 法隆寺は、大阪府の四天王寺とならんで聖徳太子ゆかりの寺です。、1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。

 法隆寺の火災のあとも文化財を焼失する火災が続きました。これらの反省から、、「文化財を守ろう」という世論が高まり、1950年、文化財保護法が成立しました。そして、1955年、文化庁と消防庁によって、1日26日が「文化財防火デー」と定められました。

 

1月25日 菅原道真が大宰府に左遷された

 平安時代、901年の今日、時の右大臣であった菅原道真が藤原氏の陰謀によって、九州の大宰府に左遷されました。
 
 京都の自宅で大事にしてきた梅と別れる前に歌った和歌が有名です。「東風吹かば匂いおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」
 その梅が、京の都から一晩にして道真の住む大宰府の屋敷の庭へ飛んできたという  「飛び梅伝説」があります。

 2年後、道真は逝去します。大宰府から少しはなれた土地に墓が作られ、のちに太宰府天満宮が建てられます 
 
 さて、道真が世を去ったころから、京都では落雷など天変地異が相次ぎました。これは道真のたたりにちがいないと恐れられました。とくに清涼殿への落雷で死者がでてからは、道真の怨霊は雷神と結びつけられました。京都の北野に北野天満宮が建立されました。朝廷は道真の罪を許すとともに、官位を贈り、たたりをしずめようとしました。

 以降、百年ほどのあいだは、大災害がおきるたびに道真のたたりとして恐れられて、天神信仰は全国に広まっていきます。
 やがて、各地に祀られたたたりを封じるはずの「天神様」は、道真が優れた学者であったことから、天神は「学問の神様」として信仰されるようになっていました。

 初詣の時、高校入試や大学受験をめざす学生が多いのもうなづけますね。

 なお、流刑された朝廷の役所または地名を”大”宰府と書き、天満宮は”太”宰府と書きます。昔、誰かが書きまちがえて、そのまま伝えられたという説があります。

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1月24日 カリフォルニアでゴールドラッシュが始まった  

 ゴールドラッシュ(Gold-Rush)のそもそものきっかけは、1848年の今日、カリフォルニアの農場の使用人が、川で砂金を発見したことから始まっています。カリフォルニアには金の鉱脈を目当てとする山師や開拓者が、全アメリカから殺到することになりました。
 この結果、1852年にはカリフォルニアの人口は20万人まで急増し、州に昇格しました。こうして西部の開拓が急速に進展することになりました。 
 
 ゴールドラッシュにおしよせたのはアメリカ人だけではありません。カリフォルニアの金を求めて、ヨーロッパ中から人がいなくなったということです。当時、農民、労働者、商人、乞食や牧師までもが、一攫千金を夢見て、新大陸をめざしたことが記録されています。
 土佐出身の漂流民として有名なジョン万次郎も、このころアメリカに滞在しており、カリフォルニアへ金を取りに行っています。ゴールドラッシュにおしかけた唯一の日本人でしょうか。
 リーバイという男がいました。金を掘っていると、今までのズボンではすぐ破れてしまいます。これに目をつけた「リーバイ・ストラウス」は、テント用の厚手の布でつくった新しいズボンを商品化しました。これがジーンズの始まりです。リーバイは「リーバイス(LEVI'S)」の創業者になりました。
 
 また、ゴールドラッシュによって、被害を受けた人々がいることを忘れてはいけません。それは、もともとアメリカ大陸に住んでいた先住民です。
 突然やって来たよそ者の白人に、昔から守ってきた土地をふみにじられたうえに、西部劇にあるように、悪者にされて、傷つけられ殺された、先住民にとっては受難の時代でした。
 なお、先住民は、インディアンと呼ばれていましたが、現在では「ネイティブアメリカン」とあらためられています

 ガンマンやカウボーイ、アウトローなどが、この時代の特徴として小説や映画(西部劇などで描かれました。私の少年時代には、深いことは何もわからないまま、テレビの西部劇をよくみました。
 「ララミー牧場」「アニーよ銃をとれ」「名犬リンチンチン」「ローンレンジャー」「ローハイド」「シャイアン」など、とてもなつかしいです。

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1月23日 八甲田山死の彷徨 

 1902(明治35)年といえば、日清戦争で大陸に進出したあと、次はロシアとの戦争を想定して、日本陸軍は冬季の訓練を緊急の課題としてすすめていました。

 この日、青森の第八師団第五連隊の兵士210名が、酷寒の八甲田山に向かって行軍に出発しました。
 猛吹雪のなかでたちまち道をうしない、寒さと空腹と疲労の仲で、発狂して川に飛び込む者、服を脱ぎ始める者も出るなど、つぎつぎと遭難していきました。結局、210人中、死者は199人にのぼりました。生存者は11人。生き残った兵卒でも、多くは四肢切断どなりました。酷いことです。
 生存者の証言によれば、あの時、予備の軍手、靴下の一組でも余計にあれば、自分は足や指を失わなかっただろうし、半分の兵士が助かっただろう」と後年、供述しています。

 厳しい気象条件、稚拙な装備、指揮系統の混乱、極端な情報不足、知識不足が大惨事の原因と考えられています。   

 世界山岳史上最大といわれる犠牲者を出した事件は、世論の批判を恐れて秘密にされてきました。。
 1971年、新田次郎により、『八甲田山死の彷徨』として小説化されました。私も読みましたがすごい迫力で、冬山遭難の恐さを知りました。一読をおすすめします。
 さらにこの小説を原作として映画『八甲田山』で、事件が一般に広く知られることになりました。

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1月22日 カレーの日 ジャズの日

 今日、1月22日はカレーの日です。1982年、学校給食が開始されてから35周年を期に制定されました。

 1982年、「学校給食のメニューを考える栄養士の全国協議会」で、1月22日の給食のメニューがカレーに決められ、全国の小中学校の給食で、一斉にカレーライスが出されたことに端を発します。それ以来、今日のこの日をカレーの日というのだそうです。制定されたいきさつには、カレールーのメーカーはからんでいませんでした。

 ちなみに、「小学生の孫に今日の給食はカレーだったか?」と聞いてみましたら、カレーではなかったそうです。そりゃそうでしょうね。

 もともとカレーは明治時代に西洋料理として日本に伝わってきましたが、日本の家庭料理として定着します。カレーのふるさとであるインドのカレーとはかなり違います。
最近はインド料理のお店で、インド風のカレーを食べられる機会が増えました。日本流のカレーはカレーで美味しく、インド風の本場カレーもまた美味しいものです。

 また、今日はジャズの日になっています。どんな語呂合わせでしょうか。
 ジャズ(JAZZ)のJAは、1月(January)の最初の2文字、ZZは22に似てるということです。東京の老舗ジャズクラブによる「JAZZ DAY実行委員会」が、2001年に記念日として制定しました。なかなか工夫して考えられたと思います。

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1月21日 薩長同盟がむすばれた

 1866(慶応2)年のこの日、京都薩摩藩邸にて薩長同盟が結ばれました。

 江戸時代末期、藩の財政難を強引な手法で改革した薩摩と長州は、討幕の思想では共通していました。当時、西郷隆盛・大久保利通らの薩摩藩は、幕府方の会津藩と手を結んで長州藩を京都から追放したり、幕府による第一次長州征伐などでは長州藩を屈服させたりしていましたので、長州は薩摩に強く反発していました。これ以来、両藩は感情的な敵対関係にありました。

 感情的にはしっくり行かない両藩でしたが、長州藩は第二次長州征伐を控えて、薩摩藩の力を借りて軍備の充実をはかりたいと思っていました。
 一方、薩摩では、江戸幕府に対抗していくには、長州と手を結ぶ必要があると考えていました。
 しかし、いろいろないきがかりがあって、仲が悪く、お互いにそっぽをむきあっている両藩でした。

 このような事態の中で、長州・薩摩が手を結ぶことの重要性を感じていた、土佐藩を脱藩していた坂本龍馬らが仲介にのりだしました。薩摩藩の京都藩邸において、西郷隆盛と木戸孝允の会見が行われ、倒幕運動に協力する6か条の同盟が成立しました。二人の努力がようやく実りました。

 この薩長の秘密同盟を知らない幕府は、第二次長州征伐を行いましたが、今度は薩摩藩の協力が得られず、幕府が藩に破れるという事態をひきおこし、幕府の無力さをさらけだす結果となりました。こうして、討幕運動が大きく前進することになるのです。
 
 薩摩にも長州にも知り合いがおり、しかも藩というせまい枠にとらわれないで行動し、考えることができた坂本龍馬でなければ、同盟の立役者にはなれなかったでしょう。
 司馬遼太郎の「竜馬がゆく」をおすすめします。広く世間一般の龍馬像は、この作品によって作られましたが、「竜馬」を通してこの時代のことがよくわかります。

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1月20日 アメリカがモスクワオリンピック不参加表明

 1980年のこの日、カーター・アメリカ大統領は、テレビのインタビュー番組で、ソ連軍によるアフガニスタン侵攻に対して、「1カ月以内に撤兵しなければ、モスクワオリンピックをボイコットする」ことを表明しました。
 一方、史上最高の規模の大会をめざしていたソビエト連邦は、問題のアフガニスタンからの期限内撤兵はならず、アメリカ・韓国・西ドイツ・日本・中国などの不参加が続出しました。
 原因とされるソ連軍によるアフガニスタン侵攻は、許すことができない侵略行為です。しかし、アメリカもベトナムその他への侵略を続けてきました。どちらも「非」であることは明白です。東西の冷戦の中で、スポーツが政治に利用された事件でした。

 日本の不参加は、オリンピックを楽しみにしていた多くの国民を失望させました。がんばって代表の座を勝ちとった選手には、もっと大きな打撃だったとおもいます。
  
 個人の競技者では、4年間の目標にしていたオリンピック出場の機会が、自分たちの手の届かない理由で奪われたことへの失望には大きなものがありました。
 当時、金メダルは確実といわれたレスリングの高田裕司(当時、日本の第1人者で、世界的にみても当時を代表するレスリング選手のひとり)は、絶頂期で迎えるはずのモスクワオリンピックが、日本のボイコット同調で不参加となり、柔道の山下泰裕らと無念の心情を涙で訴えるシーンがテレビで放映され、多くの国民の共感を呼びました。
 山下泰裕やマラソンの瀬古利彦、競泳の長崎宏子は4年後を待つことになりました。
  
 モスクワ大会そのものは平穏に終わりました。ソビエト連邦の失望と怒りは深く、次のロサンゼルスオリンピックでは、東側諸国を巻き込んだ報復ボイコットにつながりました。

 大会後、大量のボイコットを回避するための措置がとられました。一つは、政治的独立です。二つめは、その裏づけになる経済的自立でした。特に、後者の「経済的自立」は、結果的にテレビ放映権や大型スポンサー契約に依存する方向へ傾斜していきました。プロ選手の出場を解禁するなど、ますます商業主義への傾斜を深めています。、

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1月19日 森鴎外が生まれた日

 江戸時代末期のこの日、明治の文豪、森鴎外が現在の島根県津和野で生まれました。明治になって東京に出て、医学を学びました。20歳で東京大学医学部を卒業した鴎外は、軍医となってドイツに留学することになりました。
 「舞姫」「青年」「ヰタ・セクスアリス」「雁」などの作品を紹介してもありきたりでおもしろくないな、思って資料を読み進めますと懐かしい作品が目にとまりました。
 鴎外は、「阿部一族」「高瀬舟」など歴史小説にも筆を染めますが、「山椒大夫」も有名です。これは小さいころ絵本で読んだ記憶があります。若い方はご存じない方も多いと思いかもしれませんが・・・。

 安寿(16歳)と厨子王(13歳)と母の3人は、筑紫に流罪になった夫・父をさがす旅の途中、越後で人買いにだまされました。母は佐渡へ、子の安寿と厨子王は、強欲な山椒大夫に買われて丹後由良に送られました。
 安寿と厨子王の姉弟は奴隷として酷使されます。二人はたがいに励ましあって、辛い仕打ちにたえました。姉に脱走を勧めれられ、機会をねらっていた厨子王は、山椒大夫の手から逃れることに成功します。しかし安寿は山椒大夫に責められ、いじめ殺されてしまいます。
 やがて厨子王は、離ればなれになっていた母と佐渡で出会います。めでたしめでたしという物語です。私の記憶によると、ここで終わっているように思います。

 ただ、簡単に母に会えたことになっていますが、厨子王は逃亡したあと、丹後国分寺に逃げ込みました。僧に助けられて京都に送られ、摂津で某の養子になり、父の冤罪を朝廷に訴えて父は許されます。やがて旧国を与えられて地位を回復します。
 そのあと朝廷に願って佐渡と丹後に少しの土地を許されて領主になると、山椒大夫とその子を捕まえ、鋸引きにして退治したということです。越後の人買いも捕らえて殺しました。
 
 佐渡で「あんじゅ恋しやホーラホイ ずしおう恋しやホーラホイ」と歌っている老婆を見て、厨子王はこの老女こそ母と確信し、かけよってすがりつき再会することができました。

 平安時代の平正氏の史実におおよそはもとづいているようです。しだいに民話になり、江戸時代には絵本になり、明治以降は児童文学になりました。
 しかし、「鋸引き」で仇を討ったとは知りませんでした。ネタは「現実的」なんですね。

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1月18日 振袖火事(江戸の大火)

 350年も前の今日1月18日、明暦の大火とよばれる大火災が江戸でおこりました。
 この火事が有名な「振袖火事」です。
 次のような伝承があります。

 花見に来ていた上野の商人の娘・おきくは、美しい寺の坊主に一目惚れし、小坊主が着ていた着物の色や柄がよくにた振袖をつくってもらい、毎日、小坊主をおもいつづけました。やがて、恋の病にふせったまま1月16日、16歳で亡くなってしまいました。
 寺の法事が済むと、しきたり通り振袖を古着屋へ売りはらいました。その振袖は本郷の麹屋の娘・お花の手にわたりました。ところが、それ以来お花は病気になり、翌年の同じ日に死亡しました。
 振袖はふたたびび古着屋に売られ、麻布の質屋の娘・おたつのもとにわたりました。おたつも同じように翌年の1月16日に亡くなりました。
 おたつ、おきく、お花を亡くした三家は相談して、振袖を供養してもらうことにしました。本妙寺の和尚が振袖を火の中に投げ込みました。そのとき、突如、吹いた強風によって、振袖がふわふわ舞い上がり、まず本堂に火がついて焼けました。それが市中に燃え広がって大火事となったといわれています。
 この伝説は小泉八雲が記録しています。

 このほか、江戸の都市改造上、江戸幕府が火を放ったという説があります。
 また、真の火元である老中屋敷(阿部家)の代わりに、隣にあった本妙寺を火元にしたという説があります。(これは、大火後の本妙寺が責任をとらされて取りつぶされなかったどころか、かえって大きくなり、阿部家から毎年多額の供養料が納められていたことが、論拠になっています) 
 なお、本妙寺は、江戸幕府が崩壊してからは、この説を主張しています。

  真犯人の替玉工作を隠蔽するために「振袖火事」が創作されたということが大いに考えられます。
 とにかく、火事は怖いです。「火の用心」「火の用心」

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1月17日 阪神・淡路大震災

 この日の午前5時46分、M7.2の地震が発生しました。阪神・淡路大震災です。死者6,308人、負傷者43,177人、行方不明2人、神戸では震度7の烈震を記録しました。

 私は大阪市の東部に住んでいまして、被害は風呂のタイルと自宅のの小さな亀裂程度で済みましたが、多くの知人友人が被害にあいました。特に亡くなられた方には心から哀悼の意を表したいと思います。
 当日朝、揺れる直前、まず廊下でのんびり寝ていた4匹の飼い猫が突然走り出し、机の下に逃げ込みました。おかしいなと妻が気づきました。揺れ始めると、多少の揺れでも目が覚めない私でも飛び起きました。妻と二人で必死にタンスや本棚を押さえようとしましたが、立ってはおれない揺れの強さに恐怖を覚えました。
 さっそくテレビをつけると、阪神高速道路が横倒しになっていました。神戸の街に火の手があちこちであがっています。出勤時間なので、とりあえずターミナル駅まで行きましたが、もちろん交通はマヒしていました。

 その後は、新聞やテレビ・ラジオで報道されたとおりの惨状でした。
 被災者のお一人お一人が辛い思いを持っておられます。

 職場の先輩の友人の奥様が亡くなられました。その奥様は、生きながら家の下敷きになり、呼びかけに対して、応答はあるのですが、あたり一面ががれきの山ですからレッカー車はたとえあっても入れません。焦るばかりで、助け出すことが容易にできません。そこへ彼方から火の手がじりじり迫ってきます。ご主人は狂いださんばかりに奥様の名を呼びます。その声に奥様は応えますが、火の手はとうとう奥さんを巻き込んで通り過ぎていってしまいました。
 とても酷いことでした。

 毎年、この日になるとこの話を思い出します。

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1月16日 アメリカで禁酒法が実施された日 

 1920年のこの日、アメリカで、悪名高い「禁酒法」が実施されました。

 アメリカ合衆国では、20世紀のはじめまでに18の州で、禁酒法がすでに実施されていました。宗教的理由に加え、男性が不健全な酒場に入りびたり、家庭生活に支障をきたすことに対する女性からの批判は大きく、女性を中心とする禁酒運動には根強いものがありました。
 
 「禁酒法」では、飲料用アルコールの製造・販売・運搬等が禁止されました。自宅内における飲酒は禁止されなかったので、多くの富裕層は施行前に酒を大量に買い溜めしていたそうです。
 
 しかし、飲酒禁止によって抑えようとした犯罪は、酒をめぐって逆に増加しました。また、密造業者やアル・カポネをはじめとする、密売に関わるギャングに買収される執行官が多かったといいます。これは「禁酒法」の執行官の待遇が悪かったためだといわれています。
 密造酒による健康問題も深刻でした。
 密売に関わるギャングやマフィア同士の抗争による、治安の悪化も問題となりました。
 
 しかし医療目的と称して薬局を通すと、ウイスキーを手に入れることができました。ちなみに、病院に行けば、医者は1枚2ドルで処方箋を書いていました。
 
 隣国カナダで合法的に販売された酒類が、アメリカへと持ち込まれ、不健全な非合法酒場が横行しました。なくすることが目的の一つだった不健全な非合法酒場が逆に増加してしまいました。
 
 禁酒法は結局、1933年12月に廃止されました。19年10ヶ月の間の実施に過ぎませんでした。禁酒法は、悪法の代名詞として後世に記憶されました。

 アメリカ合衆国では、現在でも、18州が酒類の販売を州営の店舗等、特定店舗のみに規制しています。また、酒類の販売を全面的に禁止している郡も、南部及び中西部を中心に多数存在しています。

1月15日 双葉山、69連勝でストップ

 1939(昭和14)年のこの日、大相撲春場所は4日目を迎えました。3年前の1936(昭和11)年の春場所から勝ち続けていた横綱双葉山は、西前頭3枚目の安芸の海の外掛けにやぶれ、連勝記録は69でストップしました。
 
 69連勝は大相撲史上に輝く大記録です。
 
 現代は年6場所ですが、そのころは年に2場所しかありませんでした。
 双葉山は足かけ3年にわたり無敵だったことになります。父からも双葉山の強さを耳にタコができるぐらい聞かされたものです。そのころの4横綱は、栃錦、鏡里、吉葉山、千代の山でした。
 千代の山(親方・九重)にスカウトされた千代の富士の53連勝が、双葉山に次ぐ大記録です。

 しかし、最近は相撲の放送をめっきり見なくなりました。

1月14日 タロとジロの日

 1959(昭和34)年の今日、南極に置き去りにされていた、南極観測隊の2匹のカラフト犬・タロとジロの生存が確認されました。

 1958年、第2次越冬隊を送り込むため、ふたたび南極に向かった南極観測船「宗谷」は、厚い氷にはばまれて昭和基地に近づくことができませんでした。越冬隊員11人はヘリコプターで「宗谷」に救出されましたが、15頭のカラフト犬は助けることがどうしてもできず、やむをえず鎖につないだまま氷原に置き去りにされました。

 このニュースが伝わると、観測隊に対して激しい非難が浴びせられました。しかし、鎖につないで置き去りにせざるを得なかった観測隊員の心情は辛かっただろうと思います。
 いっしょに過ごした犬ですから、情は移ります。
 
 ところが、翌1959(昭和34)年1月14日、第3次越冬隊のヘリコプターから、昭和基地に2頭の犬が生存していることが確認されました。
 
 大きく成長していて、どの犬だったのか判別がつきません。頭を撫でながら次々と犬の名を呼び掛けると、1頭はタロの名のところで反応して尻尾をふり、もう1頭もジロの名に反応したことから、この兄弟が生存していたことが確認されたということです。
 
 彼らはペンギンの肉を食べて生きていました。タロとジロの生還は日本中に感動をもたらしました。後に『南極物語』という映画も制作されています。私もこの映画を見ました。

 (なお、ジロは昭和基地で5歳で病死しました。タロは4年半振りに日本に帰国して、14歳7ヶ月で老衰のため死亡しました。人間でいえば約80~90歳という大往生でした。)

 地球環境の保護など生態系への見方が大きく変化した現在では、この事件は、当時とはちがう視点で考えられ始めています。
 
 もしも、犬の群れが鎖につながれないで、放されることになったらどうなっていたでしょう。野生化した多数のカラフト犬の群れが、ペンギンなどを食糧とし、かえって南極の自然や生態系を乱してしまった可能性があったのではないか、この点を考慮すればやむをえないことではなかったかとする見方が多くなっています。
 
 この事件は、人間から見れば「美談」ですが、ペンギンの立場から見れば、獰猛な肉食動物を人間が置いていったために、大被害を受けたという「悲劇」ではないかと考える作家もいます。
 このように見方が変化していることを裏付ける国際的な動きがあります。

 それは、現在では生態系保護の為、「南極に犬など外来の生物を持ち込む事はできない」という取り決めがなされたことです。

1月13日 勝海舟が咸臨丸で出航

 咸臨丸は、1857年オランダで造られてました。江戸幕府が購入して長崎海軍伝習所の練習艦となっていました。
 
 勝海舟が、その咸臨丸の艦長として、日本人ではじめて、太平洋を横断するという快挙を成し遂げたことはあまりにも有名です。
 だが勝海舟は船酔いがひどくて咸臨丸を操舵できず、苦しい航海だったという話が残っています。操縦していたのはアメリカ人ブルック大尉でした。
 
 その咸臨丸が品川を出航したのが1860(文久2)年の今日、1月13日のことです。咸臨丸は、3本マストの木造帆船で、約300トン、大砲12門を備えていました。
 
 日本に帰ってからの咸臨丸はかなり酷使されています。小笠原諸島を巡視したり、探検したり、疲弊が激しく故障を頻発していた蒸気機関を取り除いて帆船となりました。
 
 1868年に戊辰戦争で新政府軍の攻撃が江戸におよぶと、品川沖から脱走しましたが、銚子沖で暴風雨に遭って下田港に漂着しました。救助に来た船とちもに清水へ入港して修理にとりかかります。
 しかし、修理が遅れたため新政府軍艦隊に追いつかれ、新政府軍艦隊に敗北しました。乗組員の多くは戦死または捕虜となりますが、乗組員の遺体は逆賊としてそのまま放置されました。その乗組員の遺体を、清水市(今の静岡市の清水区)の築地町に埋葬したのが清水次郎長です。
 
 その後、北海道小樽へ向け出航しましたが、輸送途中の1871年、北海道沖で暴風雨により遭難し、破船、沈没しました。
 
 1887年、清水次郎長が清水市の清見寺に咸臨丸乗組員殉難碑を建立ました。
 
 最近になって咸臨丸の錨らしき物が発見されました。また、空撮によって船体の形らしきものが撮影されました。
 
 咸臨丸は14年あまりの短い生涯でしたが、名前は今でもなお残っています。

1月12日 桜島の日

 1914年(大正3)年のこの日、鹿児島県の桜島で大噴火が始り、流出した熔岩によって対岸の大隅半島と地続きになりました。

「大正の大噴火」といわれています。

 その後、約1ヶ月間にわたって頻繁に爆発が繰り返され、大量の溶岩が流出しました。一連の噴火によって死者59名を出しました。
流出した溶岩のため、それまで海で分かれていた桜島と大隅半島とが陸続きになりました。
  また、このときの火山灰は九州から東北地方に及ぶ各地で観測されました。軽石等を含む降下物と溶岩を含めた噴出物総量は東京ドーム約1,600個分に達したといわれます。鹿児島市で降り積もった火山灰は45cmに達しました。

 桜島の御岳は活火山ですから、噴火活動がさかんです。噴火のときに吹き出される火山灰などの降下物は、市民生活に大きな被害をもたらします。
 
 降灰による停電、自動車のスリップ事故、鉄道架線の障害、列車の遅れや運休、踏切の誤作動による交通事故、航空機の操縦室の窓ガラスに傷が付くなどの被害が報告されています。家庭の洗濯物が汚れるという被害もあります。
 
 火山灰による農作物の被害も甚大です。
 1986年には、桜島古里地区のホテルに直径約2m、重量約5トンの噴石が落下し、建物の屋根と床を突き破り、宿泊客と従業員の合わせて6名が負傷した事故がおきています。

 全島が溶岩や軽石など火山の噴出物でできているため、生育に適する農作物は限られています。
 特産品は、桜島大根(世界一大きな大根)と桜島小みかん(世界一小さなみかん)が有名です。おもしろい取り合わせですね。

1月11日 塩の記念日 

 皆さんは、「敵に塩を送る」という言葉をご存じですか。国語辞典には「相手の弱みにつけ込まず、逆に苦境を救う」と書かれています。

 1569年、越後の上杉謙信は甲斐の武田信玄と戦いの最中でした。謙信は、武田領内の領民が、駿河の今川氏によって塩を絶たれていることを知り、武田の領民を助けるために、越後の塩を信玄のもとに届けたとされています。このことから、「敵に塩を送る」という言葉ができました。この故事があったとされるのが今日、1月11日です。「塩の日」になっています。
 
 こうして、敵対関係にある相手でも、相手が苦しい立場にあるときには助けてあげる、ということを「敵に塩を送る」というようになりました
 
 なお、明日は「鏡開き」です。
 正月に供えた鏡餅を雑煮や汁粉にして食べ、家族の円満を願う昔からの行事です。包丁などで餅を切ったらだめですよ。切るという縁起の悪い言葉はこの日は使いません。

1月10日 110番の日 明太子の日

 今日は、「110番の日」です。
 語呂合わせからみてなんとなくうなづけます。警察庁が1985年12月に制定しました。なお、110番ができたのは戦後の1948年で、全国で110番が統一されたのは、1954年のことでした。統一される前は、東京では最初から110番だったが、大阪・京都・神戸では1110番、名古屋では118番でした。

 もう一つ、「明太子の日」でもあります。
 なぜ1月10日? 語呂合わせでは浮かんできませんね。明太子は福岡の食品会社「ふくや」が、1949(昭和24)年、明太子を初めて店頭に並べ、福岡名産「からし明太子」として売り出した日なのです。だから、この日は「ふくや」が制定したことになります。なぜ、この日がえらばれたのでしょうか? 「ふくや」のホームページには次のように書いてあります。

「この日は商売の神様・恵比寿様の縁日にあたります。ふくや創業者川原俊夫は、自ら作り出した明太子がたくさんの人々に愛されることを願って、この日を発売の日としました・・・・」

 明太子は、すけそうだらの卵(鱈子)の塩辛です。朝鮮の人々の家庭に伝わる食べ物でしたが、日本人の口に合うように味つけして、「からし明太子」が作られました。
ちなみに、最初はあまり売れなかったそうです。現在は大人気食品ですね。

1月9日 クイズの日 風邪の日 

 今日はクイズの日(とんちの日)であり、風邪の日でもあります。私は始めて知りました。

 とんちで有名な一休さん(一休宗純:室町時代)から、「一」と「九」の語呂合せで決められたことはすぐ想像できます。
 一休宗純は、厳しい修行がされる禅宗の僧です。6歳で京都の安国寺に入り、早くから天才の才能をあらわしました。ところが当時の禅宗は楽な修行で済まそうとする僧が多く、権力と結びつこうとする風潮がありました。一休はこれに反発して、あえて奇妙な行動をとったといわれています。

 たとえば、印可の証明書や由来ある文書を火中に投じたり、飲酒·肉食や女犯を行いました。朱鞘の木刀を差して、風変わりな格好で街を歩きまわりました。交流があった蓮如の留守中には、阿弥陀如来像を枕に昼寝をしました。
 しかし、こんな一休でも、民衆には人気がありました。戒律や形式にとらわれない僧臭くない生き方は民衆の共感を呼びました。江戸時代に一休をモデルとして「一休咄」などの「とんちばなし」がこうしてできあがりました。

 また、風邪の日でもあります。1975年1月9日、名横綱・谷風梶之助がインフルエンザで亡くなったのにちなんでいます。インフルエンザのことを「谷風」と呼ぶようになったのもこの理由によるらしいです。筈かしながら知りませんでした。

 私たちとしては、これから寒さが厳しくなりますので、風邪を引かないように注意しましょう、という日として覚えておきましょう。

1月8日 偉大な科学者 ガリレオ=ガリレイが死去 

 ルネサンス時代のイタリアの優れた科学者、ガリレオ=ガリレイは1642年1月8日、77歳でその生涯を閉じました。
 
 ガリレオは、当時のヨーロッパで最高権威とされていた、アリストテレスの著作に疑問を持ち、実験によってその誤りを証明しました。有名なピサの斜塔での実験です。アリストテレスの物理学では、重いものほど早く落下するとなっていました。ガリレオは大小二つの鉄の玉を、ピサの斜塔のてっぺんから同時に落としてみました。鉄の玉が地面に着いた音は1つだけでした。
 また、ガリレオ自身がつくった天体望遠鏡で天体を観測して、「木星の4つの衛星」「金星の公転と満ち欠け」「太陽の黒点」「月面の凹凸」などを発見し、コペルニクスの地動説を証明しました。天動説を否定することは、キリスト教を否定することになる時代でした。宗教裁判にかけられ、ローマ教皇から破門されました。ガリレオの亡骸は家族の墓地に葬ることも、碑を建てることも許されませんでした。しかし、1980年、ガリレオの宗教裁判の誤りを認めたローマ法王庁によって、ガリレオの破門は350年ぶりに解かれました。
 
 ガリレオが2度目の宗教裁判で、終身禁固刑をいい渡されたのは69歳のことでした。地動説を破棄するよう命じられたときの「それでも地球はうごく」というつぶやきはあまりにも有名です。
 ガリレオの功績は、「実験によって証明する」という、近代自然科学の基礎を築いたことにあります。

1月7日 初の千円券発行 図案は聖徳太子

 戦後のインフレの進行により、1950年(昭和26年)の今日、初の千円券(一般には千円札)が発行されました。その千円券の図案は聖徳太子でした。多くの人たちの世代は、学校で聖徳太子に関する政治や文化を学ぶより前に、大金の代名詞として聖徳太子を知っていました。聖徳太子はやがて五千円札、一万円札の図案にも使われて、ますます高額紙幣の代名詞になりました。
  
 なお、聖徳太子は戦前から各種の紙幣に登場していますが、戦後の登場人物をあげてみましょう。
  1946年 二宮尊徳(一円券)
  1951年 岩倉具視(五百円券) 高橋是清(五十円券)
  1953年 板垣退助(百円券)        
  1963年 伊藤博文(千円券)
  1984年 一斉に新紙幣が発行されて、図案はそれまでの近代政治
                家から文化人に変わりました。
        夏目漱石(千円券)
        新渡戸稲造(五千円券
        福沢諭吉(一万円券)
  2000年 裏の図案として紫式部(二千円券)
  2004年 樋口一葉(五千円券)
        野口英世(千円券)

1月6日 良寛和尚逝く、74歳

 江戸時代末期の僧、良寛がこの日死去しました。74歳でした。
 良寛は俗界ばなれの生き方をした僧で、名誉や地位を求めることもなく、つつましく暮らしました。越後の山ろく近くの村に住んでいた良寛は、温かくきれいな心を持って子どもたちと遊びたわむれ、村人たちとも、わけへだてなく温かい交わりを重ねました。そのため、多くの人から尊敬され、愛されました。
 明るく温かい歌風をもつ歌人であり、優れた書家でもありました。

良寛の歌:「霞立つながき春日を子供らと 手鞠つきつつこの日くらしつ」

1月5日 夏目漱石が生まれた

 「坊つちゃん」「こころ」など、数多い名作を残した、国民的作家・夏目漱石が1867年(慶応3年)の今日、東京の牛込で生まれました。ユーモアと風刺に満ちた作風で、当時の文壇に衝撃を与えました。現代でも高校の教科書に取り入れられるほか、根強い人気を持っています。
 漱石と言えば多くの人が読んだことがある(教科書であっても)のが「坊っちゃん」です。四国の中学に勤めた江戸っ子の先生が、持ち前の正義感からまわりの人たちと次々衝突し、ついに辞表をたたきつけて東京へもどるというユーモア小説です。漱石のデビュー作は、前年に発表した「吾輩は猫である」です。これはかなり評判をとりました。
 この後、漱石は教師をやめて作家の道に進みます。名作がつぎつぎ発表されました。「虞美人草」「三四郎」「それから」「門」、胃潰瘍で入院して一命をとりとめた後は、「行人」「こころ」のように、人間の内面、エゴイズム(利己主義)を追求していきます。さらに「道草」「明暗」(絶筆)で人間と人生を広く深くとらえようとしていた矢先、ふたたび倒れ、十数日後に息を引き取りました。50歳でした。
 私が、高校時代に読んだ「漱石」は、入院前のものが多かったです。入院後の作品は難解でした。

 「草枕」巻頭の「山道を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ、情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兔角に人の世は住みにくい。」はよく知られた一節です。

1月4日 青酸コーラ事件で死者が出る

 約30年前、正月早々、不気味な青酸コーラ事件がおきました。
 1977年1月3日、午後11時半ごろ、男子高校生が品川駅近くの公衆電話におかれていた未開封のコカ・コーラ(当時はびん詰めでした)を拾い、翌4日の午前1時過ぎに飲んだところ、異様な味を感じ、すぐに吐き出し水道水で口を漱ぎましたが、突然倒れてしまいました。男子高校生は直ちに病院に運ばれましたが、まもなく死亡しました。死因は青酸中毒死で、「第一の青酸コーラ事件」です。
 「第二の事件」は、1月4日の午前8時15分頃、「第一の事件」の公衆電話の近くの歩道上で、中年の作業員が倒れているのが発見され、こちらも病院に運ばれましたが死亡が確認されました。死因は青酸中毒でした。男性が倒れていた場所の近くには、コーラのびんが発見され、残っていたコーラから青酸反応が検出されています。
 警察の捜索によると、最初に事件があった電話ボックスの近くの商店街の赤電話に、青酸入りのコーラが置かれているのが発見されました。このコーラは当時15歳の少年が用事で出かける際に発見して、飲もうとしましたが、用事の後にしようと思い、そのまま出掛けたため、間一髪で難を逃れています。
 警察は一連の事件を受け、同一犯の可能性が高いとみて、コーラを好む若者や、青酸化合物を入手しやすい塗装業・加工業者をあたりましたが、物証に乏しく、犯人・犯行を特定することが出来ず、事件は謎を多く残したまま1992年1月4日午前0時をもって時効となっています。
 東京の事件から約1ヶ月後、大阪府藤井寺市の会社員の男性が公衆電話におかれていた、中身の入ったコーラを飲んだところ、突然意識不明に陥り、病院に運ばれました。男性が飲んだコーラのびんからは青酸反応が出ています。男性は一命を取り留めましたが、退院した翌日に自宅でガス自殺しました。この男性には「誰もコーラを飲んだ場面を見ていない」「男性の症状には青酸中毒特有の症状(体全体がピンク状に染まる)がなかった」という疑問点がありました。これが「第三の事件」です。

 当時、私は拾った物はぜったいに飲食しないぞと、変な「決意」をしたことを思い出しました。
 

1月3日 アラスカが49番目の州に昇格

 中学生だけでなく高校生までも、アラスカを国の一つに数えてしまいます。アラスカはれっきとしたアメリカ合衆国の州です。1959年の今日、49番目の州に昇格しました。

 アラスカは州に昇格する約90年前にアメリカ合衆国の領土になりました。その前はどこの国の領土だったのか、知らない人が意外と多いです。実はロシア帝国なのです。

 歴史時代以前のアラスカは、エスキモーとインディアンの土地でした。ユーラシア大陸から人と動物が、海面が低くなって陸続きになっていた、現在のベーリング海峡を渡って移動してきました。

そのころのアラスカはエスキモーとインディアンの土地でした。
 近代に入ると、「凍らない港」を求めて、北部ユーシア大陸を東進してきたロシア帝国がアラスカに到達しました。西洋人として初めてアラスカを発見したのは、海に名を残したベーリングです。
 
  その後、ロシアが植民を行ないましたが、ロシア帝国の中心部から遠い位置にあり、さらにクリミア戦争後の財政難などの理由により、1867年アメリカ合衆国に720万ドル(1km²あたり5ドル)で売却されました(アラスカ購入)。

 この交渉をまとめた国務長官は、当時のアメリカ国民から「巨大な冷蔵庫を買った男」などと非難されましたが、その後豊富な資源が見つかり、現在では高く評価されています。
 
 アラスカには、小さいものを含めると数千、地図にある氷河だけでも170もあります。最大の氷河は、アラスカ湾岸にあるマラスピナ氷河で、2,200平方km、世界最大です。それらの氷河が、地球温暖化の影響で崩れ落ちていく映像をテレビでよく見ます。アメリカ最大の州アラスカの広大な大自然は、「小さな地球」のようにおもいます。

 各地にある「小さな地球」を守ることが、大きな地球を守ることにつながるようにいつも感じています。
 アラスカの大自然が、このままいつまでも残りますように!

1月2日 初夢

 1月2日は「書き初め」と「初夢」の日です。「初夢」は一年間の吉凶を占うもの、という習わしの一つですから、いい夢ならば見たいものですね。

 「初夢」はいつ見た夢が初夢というのでしょう?辞典には、一般的には1月1日か1月2日の夜に見る夢が初夢、と説明されていますが、江戸時代ごろは1月2日に床に入って見る夢とされていたようです。
 いい夢のナンバーで有名なのは「一富士、二鷹、三茄子」です。富士は「無事」、鷹は「高い」、茄子は「成す」の語呂合わせですが、これは徳川家康が駿府にいたので、家康が好きな駿河のものを並べたにすぎない、ともいわれています。
 昔は、七福神や宝船の絵を枕の下に敷いて眠ると、良い夢が見られるとされていました。これらの絵には「なかきよの、とおのねふりの、みなめさめ、なみのりふねの、おとのよきかな」(永き世の、遠の眠りの、皆目覚め、波乗り船の、音のよきかな)という回文(前から読んでも後ろから読んでも同じ言葉)の歌が書いてあるのが多く、「どこから見ても良き夢」をしゃれていたようです。   注:遠(とお)  眠(ねぶ)り
 それでも悪い夢を見てしまったら、翌朝、その宝船の絵を川に流せば縁起直しになりました。

1月1日 一年の計は元旦にあり

 一年のスタート、新年の幕開けの日です。広く知られていることわざに「一年の計は元旦にあり」というのがあります。正確には、「一日の計は晨(あした)にあり。一年の計は春にあり。一生の計は勤めにあり。一家の計は身(あるいは、和)にあり。」とあるところからでたものです。ふつう、そのはじめの二つをとって、
    「一日の計は朝にあり、一年の計は元旦にあり」
と、いいます。あるいは三つ目に「一生の計は少壮のときにあり」を付け加えることもあります。三つ目は、一生の計画は若いうちにしっかりとたてるべきであるというのですが、これは現在でも立派に通用する名言だと思います。

 平均寿命が延びた現在、セカンドライフの過ごし方が話題になっています。勤め人ならば「セカンドライフの計は還暦にあり」とでもいえるでしょうか。定年退職前にはセカンドライフの絵を描いておきましょう。退職後、ぶらぶらしているうちに、生活の変化がもとで病に倒れたりしないように気をつけましょう。
 それにしても満60歳で退職して、年金が支給される満65歳までの5年間はほんとに長いですよ。

 

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