10月9日 宇宙戦艦ヤマトがイスカンダルへ向けて発進

 2199年の今日は、 「宇宙戦艦ヤマト」がイスカンダルに向けて地球から発進した日です。
 もちろん人気アニメ「宇宙戦艦ヤマト」の中のできごとです。

 「宇宙戦艦ヤマト」は、1974年にテレビで放送されたアニメーション、およびその後に劇場公開された一連の作品をさしています。
 
  現在でも 宇宙戦艦ヤマトのプラモデルは子ども達にも大人気です。

 当時の私は仕事が忙しくて、7時という時間帯に家庭にいることはほとんどありませんでした。ですから、このアニメは見たことがなく、記憶に残っていないのです。
 ただ、主題歌の歌詞の一部分だけは知っていました。でも何のためにイスカンダルに行こうとしているのかな?、という程度の知識しかなかったのです。 

視聴率は低かったといわれています。
 放送当初は同時間帯の「アルプスの少女ハイジ」 が超人気番組で、この影響もあって予定の回数を待たずに打ち切られました。
 
 ところが、再放送のころから注目されはじめ、人気が出てきました。
 再編集され、劇場映画として公開されるころには大ブームだったそうです。SFに興味がない私は、ブームにはもちろん乗れませんでした。

 
 さて、ストーリーは、西暦2199年の地球から始まります。
 冥王星を前線基地とした宇宙人・ガミラス帝国の侵略を受けていた地球は無惨な姿でした。
 
 海水が蒸発した地球は赤茶けた姿に変貌していました。放射能の汚染で地上の生物は死滅していました。
 
 人類は地下都市を建設し、地球防衛軍を結成して抵抗を続けていました。しかし、地下都市にも放射能の汚染が進行し、人類の絶滅まであと1年余りと迫りました。

 そのころ火星に宇宙船が不時着しました。
 宇宙船には、「放射能除去装置・コスモクリーナーDをイスカンダルまで受け取りに来るように」との救援メッセージと、航海に必要な波動エンジンの設計図が納められていました。
 
 さっそくヤマトが作り直され、波動エンジンが搭載されました。
 放射能除去装置・コスモクリーナーDを受け取って、地球に帰還する任務が「宇宙戦艦ヤマト」に与えられたのでした。

 14万8千光年の彼方、大マゼラン星雲のイスカンダル星に向け、1年以内に帰還しなければ人類滅亡という状況のもと、宇宙戦艦ヤマトは人類最後の希望を託されて発進しました。

 ヤマトは、ガミラス帝国の攻撃と戦い、未知の宇宙空間における障害を乗り越えながら、イスカンダル星をめざして行きました。

 TV版「宇宙戦艦ヤマト」の最終話で、ヤマトの帰還とともに、荒廃した地球がもとの青さを取りもどすさまが描かれています。

 
 さて、現代において放射能は、「地球上の多くのガミラス帝国」によって実際に汚染され続けています。
 核戦争ともなれば「アニメの2199年」のような荒廃した地球になるのは目に見えています。

 現代の地球人が、イスカンダル星のコスモクリーナーDをほんとうに受け取りに行かなくてもいいように願っています。

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10月1日 記念日のオンパレード

 今日、10月1日は夏の衣装から冬の衣装に切り替わる「更衣」の日として、ふだんの生活にもとけ込んでいます。
 学生の制服(標準服)の冬服に切り替えられます。周囲の景色も違ったものになり、新鮮さを感じます。
 ただ、私の場合、6月の更衣は白色がぐっと増えて、社会が明るくなった気がして好きなんですが、10月の更衣は黒色の系統が増えて、暗いイメージになるので嫌いでした。

 さて、今日は記念日のオンパレードで、いろいろな記念日があります。どんな記念日があるか、羅列してみましょう。

  「日本酒の日」
  新米で酒造りを始めるのが10月で、酒壺を表す「酉」の字は十二支の10番目であることからこの日が記念日になりました。
 若者の日本酒離れがどんどん進んでいるようですね。

 「醤油の日」
 「醤」の文字に、十二支で10月を表す「酉」の字が含まれることからこの日になりました。

 「ネクタイの日」
 1884(明治18)年、小山梅吉が日本で初めてネクタイの製造を始めたことから記念日となりました。
 ネクタイを締める人は少なくなりましたね。
 私の場合は、年に0~5回程度です。 

 「国際音楽の日」
 ユーディ・メニューイン(バイオリン奏者)が、国際紛争が絶えないことを憂いて提唱しました。
 国際的な連帯のもとに音楽の記念行事を催すことが決定され、日本では1995年から施行されています。
 
 「赤い羽根の日」
 おなじみの赤い羽根共同募金運動開始の日です。 

「都民の日」
 東京都が1952(昭和27)年に制定しました。
 明治維新以後、東京は明治政府の全面的指導下の特別市でした。しかし、1898(明治31)年、自治権を持つ一般の市になりました。
 この日、都内の公立学校が休みになり、庭園・動物園・植物園等の入場料が無料になります。

 「香水の日」
 フランスでは新しい香水の発売日が毎年10月1日ごろであることからこの日が記念日になりました。

 「食物せんいの日」
  「1001」を「千一」と見立てて「せん(千)い(一)」の語呂合せです。

 「乳がん健診の日」
 乳がん患者などによる「あけぼの会」が制定しました。「乳がん早期発見強化月間」の1日目になります。
 私の胃癌発見の教訓は、「早期発見・早期治療」です。早い目の検査をかならず受けましょう。

 「磁石の日」
 N極を+、S極を-とし、+-を十一に見立ててこの日になりました。

 「荒川線の日」
 1974(昭和49)年、都電で最後に残された27・32系統が統合され「荒川線」の名称がつけられた日です。

 「土地の日」
 「十」と「一」を組み合わせると「土」の字になることから、当時の国土庁(現在の国土交通省)が1997年に制定しました。

 「コーヒーの日」
  国際コーヒー協会が定めた「コーヒー年度」の始りの日です。
  コーヒー豆の収穫が終り、新たにコーヒー作りが始る時期であることから、全日本コーヒー協会が1983年に制定しました。

 「印章の日,ハンコの日」

 「食文化の日」

 「国際高齢者の日(International Day of Older Persons)」
 国際デーの一つです。

 「メガネの日」
 1をメガネのつる、0をレンズとみなすとメガネの形になることからこの日になりました。

 「デザインの日」
 デザインに対する理解を深める日です。

 「展望の日」
 全日本タワー協議会が、「Ten(10)棒(1)」の語呂合せで制定しました。
 全国の展望・観光タワーでさまざまなイベントが開催されます。
 
 「福祉用具の日」

 「浄化槽の日」

 「法の日」 
 

 今日は、記念日にのっとって各地でさまざまな行事がおこなわれる予定です。 

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9月26日 伊勢湾台風が襲来

 1959(昭34)年の今日は、「伊勢湾台風」が襲来した日です。
 この年の台風15号は、伊勢湾周辺に未曾有の大被害をもたらしたため「伊勢湾台風」と名づけられました。

 この台風による被害は、明治以来最大で、死者・行方不明者は5、000人を超え、57万戸の家屋が被害を受けました。
 犠牲者の数は1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災まで、戦後の自然災害では最多のものでした。

 そのころ私は名古屋市立豊国中学校の1年生でした。台風が来れば学校が休みになると、前日の夕方までは台風に期待する気持ちが強かったのを覚えています。

 父は、台風の進路が紀伊半島に向かっているので、「紀伊山脈は高い山だから台風は乗り越えられなくて横に逸れるから、名古屋は大丈夫だ」と、どこかで聞いてきた話を私に聞かせてくれました。
 当時の大人達の間では、このような楽観的な話がされていたのでしょう。

 ところが、朝方、わりと土地が高い中村区にあったわが家でさえ床下浸水が始まり、天井からは雨水が染みこんできました。
 尋常ではないことを感じつつも、あれほどの大被害をもたらすとはまったく予想できませんでした。
 翌朝、休校になったので、のんきにも自転車で遠くまで街のようすを見に行きました。ところが被害の大きさをこの目で見てびっくりしてしまいました。

 被害のようすについては私がここで記すより、下記ホームページをご覧ください。

  怖ろしかった伊勢湾台風 (すみません、勝手にリンクを張りました。)
 
 <参考書籍> 忘れない伊勢湾台風50年 (楽天ブックス) 

 近くの母子寮が全壊して住居を無くした友人がいました。私の学級の一人で、やがて転校していきました。
 みんなが泣いて別れました。
 私は、セルロイドの筆箱に脱脂綿を敷いて鉛筆を6本並べて贈ったことを覚えています。

 海抜0メートル地帯であった鍋島干拓地、弥富町、名古屋市南部のむごたらしいニュース写真を連日見て、台風の恐ろしさに身震いしたのを覚えています。

 伊勢湾台風は、3,000人以上の犠牲者を出した台風として、室戸台風、枕崎台風とあわせて昭和の三大台風と呼ばれています。
 災害対策について定めた災害対策基本法は、この伊勢湾台風を教訓として成立したものです。
 従来の災害対策を根本からくつがえした台風でした。

 なお、本日9月26日は、台風襲来の特異日(統計上、台風襲来の回数が多い日)でもあります。
 「洞爺丸台風」(1954)で青函連絡船・洞爺丸が転覆したのも、「狩野川台風」(1958)が伊豆・関東地方に来襲したのもこの日でした。

 今年は、この日に台風が襲来せず、被害が出なくて良かったですね。

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9月24日 畳の日

 今日は「畳の日」です。全国畳産業振興会により制定されました。
 1年に2回あります。もう1回は4月29日です。

 4月29日は、いぐさの美しい緑色から旧「みどりの日」にちなんで決められ、9月24日は「清掃の日」にちなんで決められました。

 そもそも畳は、日本で発展してきた敷物で、その歴史は1万年以上も前の縄文時代の竪穴式住居にさかのぼるといわれています。
 そのころは土間に草を敷いて、その上に動物の皮などを敷いて寝ていました。

 弥生時代になると、草が薦(コモ)・筵(ムシロ)になり、飛鳥時代になると、板の床の上に敷く「たたみ」が誕生しました。
 
 奈良時代の文献では、古事記などに「畳」の字が現れています。
 このころの「畳」は、高貴な人の寝床や座る場所にしく、「畳んだり敷いたりするもの」という意味でした。
 皮でも絹でも、藁(ワラ)でも「たたみ」でした。
 つまり、使わない時は折り畳んでいたのです。「畳」とは「たたむ」ことを意味していたようですね。

 しだいに現在のような畳に進化していったのですが、畳が敷き詰められるようになるのは室町時代の書院造のころからです。
 一般の民家に畳が普及するのはずっと後のことです。
 
 部屋内に何枚の畳が敷き詰められているかで部屋の大きさ(床の面積)を表す単位として畳(じょう)が使われてきました。
 4畳半とか6畳とかがおなじみで一般的ですが。
 
 関西では、京間と呼ばれて、畳の寸法はもっとも大きいのですが、江戸間の寸法は少し小さ目になっています。
 このような畳のサイズが異なったのは、もともと一間(いっけん:畳の長辺の長さ)について課税された時代の影響だそうです。

 さらに中京間、団地サイズなどが加わり、4サイズが有名ですが、ほかにもさまざまなサイズがあるようです。
 関西の京間の家屋で育った人が、結婚して団地に引っ越した人が、一部屋の実質的な狭さに息が詰まりそうなストレスを感じたといいます。

 近所の畳屋さんが店を畳みました。しゃれのつもりではありません。畳の需要が減り、日本の伝統的な畳産業はピンチです。
 
 一方で、売り上げを伸ばしている畳店もあります。24時間営業に変更したら売り上げが伸びたそうです。
 深夜に畳を入れ替える料亭や飲食店からの注文が増えたからです。

 最近は畳に触れる機会がぐんと減りましたね。日本家屋でも内装は洋間というものが増えていますね。

 私の友人や娘のマンションは、畳の間がまったくありません。全室フローリングです。何かもの足らない淋しい感覚がします。
 友人の家では 健康いぐさ を敷いて、昼寝をしているそうです。

 一般の家庭で、畳が見直されて、もっと地位が向上するといいです.

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9月14日 コスモスの日

 今日は「 コスモスの日」と言われています。いつ、どこで制定されたかはよくわかりません。
 
 「コスモス」は、秋に桃色、白、赤、黄色などの花を咲かせる美しい花で、人々に好かれている花の一つです。
 花は本来、一重咲きですが、花が丸まったものや、八重咲きなどの品種が作り出されています。
 
 原産地はメキシコの高原地帯です。
 18世紀末にスペインのマドリードの植物園に送られ、コスモスと名づけられました。

 日本には明治20年ごろに渡来したと言われています。
 俳句では、秋の季語としても用いられています。

 コスモスの花畑が観光資源となっていたり、多くの市区町村がコスモスをシンボルとしています。

 たとえば、東京都の西東京市、奈良県の大和高田市、大阪府の貝塚市、香川県の坂出市、福岡県の久留米市、名古屋市北区、大阪市都島区など40数市区町村にのぼっています。

 埼玉県深谷市長野県の佐久高原など、各地でコスモス祭りがひらかれています。

  ちなみに、赤いコスモスの花言葉は「愛情」です。
 バレンタインデーから半年近くたった今日9月14日は、プレゼントにコスモスを添えて交換し、お互いの愛を確認しあう日といわれています。

 このためかどうか、「メンズバレンタインデー」として、男性から女性に下着を贈って愛を告白する日と言われています。
 あまり定着しているとは言えませんね。
 商魂だけで制定された記念日の一例です。

 また、反対に「セプテンバーバレンタイン」とも呼ばれ、 別れを切り出す日でもあるということです。
 
 バレンタインデーがらみの記念日は拡張の一途ですね。

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9月10日 映画「羅生門」がベネチア国際映画祭で金獅子賞

 1951年の今日、「ベネチア国際映画祭」で、黒澤明監督の映画 「羅生門」 が日本映画では初の金獅子賞を獲得しました。

  この受賞によって、ヨーロッパ・アメリカなど世界に黒澤明や日本映画が紹介されるきっかけとなりました。

 この映画は大きな影響を与えました。
 影響を与えたのは、一つの事実に対して、相反する複数の視点にもとづいて、まったく違うように回想し、はたして真実はどうだったのかと、観客を混乱させる手法です。
 この後、アメリカなど多くの国の映画や小説に影響を与えました。

 芥川龍之介は「今昔物語集」などの古典から多くの素材を得て自分なりの創作をおこなっています。
  「今昔物語集」 巻29・第23話には、「丹後へ旅する途中、若い盗人に弓も馬も何もかも奪われたうえに、藪の中で杉の木に縛られ、妻が手込めにされるようすをただ見ていただけの情けない男の話」があります。ただ、ここでは殺人事件はおきていなくて、この夫婦はそのあと丹後へ旅を続けています。

 芥川は、この情けない男を殺して、殺人事件に仕立て上げて小説「藪の中」を創作しました。(この作品が映画「羅生門」の原作になりました)
 
 小説は、藪の中でおこった殺人事件を7人の証言者が証言・告白するという形式でなりたっています。
   第1発見者の木樵
   妻を連れた男と道で遭った旅法師
   盗人を捕らえた放免
   媼(妻の母)
   捕らえられた盗人   
   清水寺で懺悔する男の妻
   巫女の口を借りて現れた男の死霊
   
 それぞれの証言はなるほどと思うほど説得力があります。しかし、武士の死因については、殺人または自殺というふうに見事にくいちがっています。
 
 結局、真相はどうなっているのか、犯人はいったい誰だったのかはまったくうやむやのままになっています。それぞれの供述調書を並べただけといえます。
 
 私の勝手な想像ですが、芥川は、関係者があまり多すぎても、つまり情報提供が多すぎてもかえって真実がわからないこともあるといいたかったのでしょうか。
 情報のねつ造や情報操作もあり、真実はどこにあるのか特定できないこともあるといいたかったのかもしれません。
 
 私たちは、関係者の言い分がくいちがったりして、真相がはっきりしない時に、「~は闇の中」とか「~は霧の中」とかいいますが、この小説の題名をそのまま使って「まるで藪の中」というふうにも使っています。
 なお、海外では、これを映画化した「羅生門」の題を借りて、「まるでラショーモンのよう」といいあらわすこともあるといいます。

 この作品は推理小説の一種としても高い評価を得ています。
 映画が完成した時に、当時の大映社長は「この映画はわけがわからん」と批判していたそうです。

 私が「羅生門」を最初に見たのはたしか20歳前後でした。人生の経験不足で、私も、その時はまったく訳がわかりませんでした。
 芥川の小説にある 「羅生門」とは関係がありません。

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9月6日 黒酢の日

 今日は、「黒酢の日」です。
 9月6日の「96」が「クロ」と読めることから、語呂合わせで決まりました。
 
 黒酢は、米酢の一種であり、主に玄米を主原料にしています。色は褐色または黒褐色をしています。小麦、大麦を含んでもかまいません。
 近年、リンゴ、きんかんを使った黒酢も登場しつつあります。

 黒酢にこだわらず、酢一般のことですが、酢は肉を柔らかくする効果があります。鶏肉などを茹でるときに酢を煮汁に加えると柔らかくなります。
 また、肉が骨から離れやすくなるため食べやすくなります。
 このような使い方をするときの酢は、黒酢ではもったいないですね。もう少し安物でいいでしょう。

 疲労回復のために、黒酢はすすんで飲まれています。
 上質な黒酢ほど舌触りがまろやかで、そのまま飲用するのにはいちばん適しています。
 
 黒酢にはクエン酸や豊富なアミノ酸が含まれています。これらが疲労の原因となる乳酸を分解します。そのため、血行の循環不良をおさえたり、疲労のもととなる乳酸をおさえる効果があります。
 さらに糖を加えて摂取すると効果があがるといわれています。運動によって消耗されたグリコーゲンが回復されるため、疲労の回復がさらに早くなるからだといわれています。

 ダイエットに効用があるとされて、健康食品の一つとしてさまざまな商品が開発されて発売されています。ブームになった時期がありましたし、今も人気があります。
 
 私は、以前、クエン酸健康法に取り組んでいた時期があります。薬局でクエン酸の粉末を購入して、小さなカプセルに入れ直して食後に飲んでいました。手間がかかるのでいつの間にか止めてしまいました。
 
 また、黒酢は高いので、玄米酢を水で割って飲んだことがあります。
 空腹の時に飲むと胃を荒らしてしまいますので、食事の一部として摂取するために食後に飲みました。
 
 水割り酢などクエン酸を摂取した後の尿の色はきれいな透明色になりますよ。気持ちいいぐらいたくさん出ます。
 疲れたときの濃い黄色とくらべると、科学的にはどうだかわかりませんが、きれいな尿を見ているとなんだか健康になったみたいな気がしていました。

 今は、食事で玄米図やポン酢を多用することに心がけ、紙パックの黒酢ドリンクを中心にクエン酸を摂取しています。

 なお、酢を飲むと身体が柔らかくなるというのは、まったくの誤解です。
 サーカスの団員が疲労回復のための飲料として購入することを、「あんなに大量の酢を飲むから、サーカス団員は身体が柔らかい」と噂されたということから信じられた誤解です。
 日本では古くから南蛮漬けなどにした魚の骨が酢の作用によって柔らかくなっていることからも誤解が生まれました。これはm唐揚げの効果だとおもいますが。
 
 体が柔らかくなるのは、訓練によって、靱帯を柔らかくし、関節が動く範囲を広げる意外にありえません。
 ただ酢を飲めばいいというものではありません。
 私は、恥ずかしいことですが、高校生のころまでは信じていました。

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8月25日 川柳発祥の日

 今日は、1757年8月25日に柄井川柳が川柳評万句合を開始したことによる「川柳発祥の日」です。
 柄井川柳(からいせんりゅう)は、江戸時代中期の人物です。
 
 当時、江戸庶民に人気のあった文芸に前句付というものがありました。
 前句付というのは、出題された七七の前句に対して、五七五の付け句をすることです。柄井川柳はこの句会を主催し、優れた付け句を募集して世間に発表するすぐれた点者(判定者)でした。

 俳諧(俳句)には季語や切れ字の制約がありますが、柄井川柳の付け句には、季語や切れ字などの制約はありませんでした。
 また、ふだんの口語を使って、人生の機微や世相・風俗をこっけいに、また風刺的に描写する特色を持っていました。
 付け句の一句そのもののおもしろさに重点がおかれました。

 柄井川柳が新しい趣向を好み、選句眼にもすぐれていたことが、上級武士もふくめて好まれました。1765年7月、刊行された「誹風柳多留」は、前句付の流行に拍車をかけました。
 そののち、前付句の五七五が独立し、初代柄井川柳の力で隆盛をきわめました。しかし、まだ「川柳」という名はなくて、当時は雑俳と呼ばれていました。
 雑俳? 何だか、そんなの俳諧(俳句)じゃないよと冷たく扱われていた感じがします。どんなものでも始めはこんなもんですね。
 
 「川柳」と言われるようになったのは明治になってからで、柄井川柳の名前にちなんだものです。
 人名が文芸のジャンルになっているのは「川柳」だけです。
 
 なお、私の理解がまちがっていました。川柳とは、俳諧(俳句)からいきなり季語や切れ字をなくしたものだと思っていましたが、前句付の文芸から派生したものでした。

 江戸時代の狂歌とならんで「川柳(当時は雑俳)」はおもしろいものあります。
  役人の子はにぎにぎをよくおぼえ(賄賂への皮肉)
  いくらいりますかと質屋はずらり抜き(武士が質屋に持って行った刀は本物かな?)
  一年を二十日で暮らすいい男(職人・花魁・若旦那の暮らしっぷり)
 江戸時代の「川柳」には、当時の人々の庶民の生活の生きざまが、生き生きと描かれています。

 現代の「川柳」は、新聞でも募集されていますが、あいかわらず高い人気を誇っています。
 おもしろい名作を見つけました。
 名作川柳

 私も一句、と思いましたが出来ませんでした。また後日発表します。 

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8月19日 鼠小僧次郎吉が刑死

 鼠小僧次郎吉は、1932(天保3)年の今日、処刑されて人生の幕を閉じました。

 鼠小僧は、江戸時代に大名屋敷を特にねらって荒らしたまわった盗賊です。
 中村座の木戸番の長男で、建具職人となりましたが、バクチに身をくずしてやがて無宿人に落ちぶれました。

 小さな体と身軽な運動神経を生かして、大名・武家屋敷を専門に忍び入り、人を傷つけることなく現金だけ盗み去りました。
 1825年、一度は捕まりましたが、初めて盗みに入ったと嘘をついて切り抜け、入れ墨を入れられて中追放の刑を受けました。
 江戸を去り、上方へ行きましたが、密かに江戸に舞い戻り、遊ぶ金欲しさにまた盗みをはじめました。

 二度目は1832年、日本橋浜町の松平宮内少輔邸に忍び込んだところを捕えられました。
 北町奉行所で取り調べを受けたのち、裸馬に乗せられて江戸市中を引き廻しののち、鈴ヶ森の刑場で処刑され、さらし首(獄門)になりました。

 忍び込んだ大名屋敷は、1回目の捕縛までが28カ所32回、江戸に舞い戻ってからが71カ所90回におよびます。盗んだ金の総額は3000両以上といわれています。
 しかし、この数字は鼠小僧の供述であって、記憶があいまいなところがありますので正確な数字は今も不明です。

 鼠小僧は大名屋敷ばかりをねらって、一人で盗みに入ったことから、反権力の大泥棒として祭り上げられ庶民は溜飲を下げたようですが、鼠小僧にはそんな意図はまったくありませんでした。

 大名屋敷を専門に狙った理由については、屋敷は広いわりに警備は少人数という警備が手薄であったこと、女性ばかりの奥で発見されても逃亡しやすい の2点からというのが本人の供述でした。
 つまり、江戸でもっとも大金を盗みやすいところだったということです。
 
 町人長屋には大金はありませんし、逆に商家は金はありますが警備は厳重です。
 それにひきかえ大名屋敷は財政的に苦しく、諸般の事情からも警備を厳重にできませんでした。
 また盗賊に入られて金を盗まれたととは、体面上、公にしにくいという事情も利用しました。

 当時の重罪には近親者などに連帯責任がとらされましたが、鼠小僧はすでに勘当されていたために肉親とは縁が切れており、妻や数人の妾にも捕えられる直前に離縁状を渡していたために、連帯責任(連座制)はおよばず、天涯孤独の身として刑を受けました。

 自分の犯罪に対して、あらゆる近親者を巻き込まないように手をうっていたというところは、鼠小僧が講談などで義賊として扱われていく一つ要因になっています。

 さて鼠小僧が義賊だったかどうかということですが、ほんとうのところはどうだったのでしょう。
 講談や芝居では義賊として扱われています。
 鼠小僧は「金に困った貧しい者に、汚職で金を増やした大名や悪徳の商家から盗んだ金銭を分け与え」ていたというものです。
 
 彼が捕えられたとき、役人による家宅捜索が行われましたが、盗まれた金銭はほとんど発見されませんでした。
 その上、彼の生活が質素で慎ましやかなものでもあったことから、盗んだ金の行方について噂になり、このような伝説が生まれたものと考えられています。

 しかし現実の鼠小僧の記録を見ると、このような義賊らしい事実はどこにも記されておりません。
 現在の研究家の間では「盗んだ金のほとんどは博打と女と飲酒に浪費した」という説が定着しています。
 鼠小僧ファンには何とも気の抜けた結論になってしまいました。

 それでもなお、鼠小僧と同業の方や、受験生には人気があって、鼠小僧次郎吉の墓石が削り取られています。
 受験生には「するりと入れる」という御利益があるようです。

 墓は、両国の回向院にあります。また、義賊に恩義を受けた人々が建てたと伝えられる墓が各地にあります。
 ところによっては墓石はすっかり砕かれてしまっているということです。
 国定忠治の墓と同じ運命ですね。

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8月10日 健康ハートの日

 今日は「健康ハートの日」です。
 日本心臓財団と当時の厚生省が1985年に制定しました。「ハー(8)ト(10)」の語呂合せで8月10日に決まりました。

 夏の間に心と体のチェックをして、心臓病の多発する冬に備える日とされています。
 心臓病は悪い生活習慣を改めることで予防できることを知ってもらおうとキャンペーンを行っています。
 ちなみに、心臓病予防の3原則は「まず歩こう、煙草を吸うまい、太るまい」となっています。

 大事な心臓ですが、毎日、毎時間、毎分、毎秒、休み無く働くので、休ませる方法があるのかと調べてみましたら、心臓というのは、1日の半分は休んでいるということでした。
 心臓を動かしているのは心筋という筋肉ですが、この筋肉が収縮するたびに、心臓は強い力で血液を全身へと送り出していますが、1回収縮してもとの大きさに膨張して次に収縮するまでのごく短い時間は休んでいるのです。

 大人の心臓が収縮するのは1分間に平均70回です。この回数が脈拍です。1回収縮してもとのもどるのに0.8秒かかります。
 0.4秒収縮のために働き、残りの0.4秒はもとにもどって収縮を待って休んでいる時間ということになります。つまり半分の時間、1日12時間は休んでいることになるのです。

 ところで、脳と心臓は怖いですね。何が怖いかといって、ポックリ逝ってしまう可能性が高いことです。
 脳梗塞・くも膜下出血・心筋梗塞などナンとしても避けたいです。
 
 さて、私事ですが、2年前にタバコをやめました。
 体重はまだ多いですが胃癌の手術をしてから8~10キロほど減量できました。
 
 手術前はかなり肥満でしたので、メタボリックの治療を受けていましたが、「手術を受けたら食べられなくなって痩せるから、血液検査も正常になるから気にしないで。」と手術担当の医師からいわれていました。
 今のところその通り数値は正常になっています。
 減量の効果てきめんです。
 減量は、食べる量さえ減らせばかならず効果ありですね。
 
 「まず歩こう」ができていません。どうしても自転車やバス、エレベーターやエスカレーターに頼ってしまいます。
 運動ができていないのが一番の反省点です。

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8月4日 箸の日

 今日は、「箸の日」です。
 ある民俗学者が「箸を正しく使おう」という話をしたことがきっかけになって、1973年から「箸の感謝祭」がはじめられました。
 東京の日枝神社では、長さ1mほどの大箸を御神火で燃やし、供養が行われます。

 さて、箸のおこりは5000年前の中国です。
 煮えたぎった鍋から食べ物を取り出すのに二本の木の枝を使ったのが箸の始まりといわれています。
 中国では、厨房やと畜場で使う刃物を食卓では使わない習慣になったので、料理は、箸にとりやすい大きさに切りそろえられてから食卓に出されるようになりました。そのため箸が普及していったといわれています。

 中国文化が周辺地域に影響力をおよぼしていくと、周辺地域の民族は外交的に中国の漢民族から、野蛮人と見られたくないこともあって、さかんに箸が使われるようになっていったといういきさつがあります。

 日本でも、6世紀以前までは箸の文化はありませんでした。
 食事は手で食べていましたが、遣隋使が日本へ箸を持ち帰ったあと、聖徳太子によって広められたとされています。

 日本の箸は、先が細くなっている短い塗り箸が標準です。箸の先が細くなっているのは、骨付きの魚の骨と身をより分けやすくするためであるといわれています。なるほど先が細いと魚は食べやすいです。

 中国のものはやや長く、それほど細くはなっていなくて、円柱型や四角柱型が多いです。
 朝鮮半島では戦乱が多かったため、丈夫な箸が求められました。そのため短く、やや平たい金属製のものを使うことが多いです。
 歴史上では、暗殺を未然に防ぐために、支配階級は銀の箸を使いました。なぜ銀の箸かというと、銀は猛毒の硫黄や砒素に触れると反応して変色するからです。

 また、日本の割箸は弁当や食堂などで多く提供されていますが、安価な使い捨て用の割箸の材料になる東南アジアの熱帯林がどんどん伐採されていくのは辛いことです。
 
 ▼さて「箸」にはたくさんの格言があっておもしろいです。
  箸が転んでも可笑しい年頃(日常のささいなできごとや、たわいないことにもよく笑う)
  箸が進む(食欲旺盛でよく食べる)
  箸にも棒にも掛からないやつ(取り扱いようがなくてどうしようもないこまったやつ)
  箸の上げ下ろしにも小言をいう(ささいなことにもいちいち口やかましく小言をいう)
  箸を付ける(食べかける、食べようとする)
  箸を取る(食事する)

 最近では宇宙飛行士が宇宙で食事をとるときに、食べ物をしっかりとつかむことができるのでよく利用されていると聞きました。

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7月27日 スイカの日

 今日は「スイカの日」です。
 スイカの縞模様を綱に見立て、27日の27を「つ(2)な(7)」(綱)とよむ語呂合せから、7月27日に決まりました。ちょっと無理矢理こじつけた感じがありますが・・・・・。

 さて、スイカは「野菜か、果物か」と孫に聞かれました。
 西瓜と書きますからウリ科の野菜ですね。
 
 ただし、栄養学上の分類では果物あるいは果実と分類されています。

 スイカの原産は熱帯アフリカのサバンナ地帯や砂漠地帯でした。日本には室町時代以降に伝わったのではないかといわれています。

 スイカは喉の渇きを癒すために食べることが多いですね。
 果肉に含まれるカリウムは疲労回復ならびに利尿作用があるため、夏バテに効果があるとされています。
 
 その他、むくみの解消や高血圧・動脈硬化・脳梗塞・心筋梗塞・がんの予防にも効果があるようです。
 何といっても昔からいわれてきた「水気(すいけ)おろし」が有名です。
 体がむくむ腎臓病にはスイカがいいといわれていました。
 
 私が、中学2年生の秋、急性腎炎を患って、学校を2が月休みました。
 スイカの季節が過ぎていたので、スイカの缶詰を食べさせられました。生のしゃりしゃり感がなかったので、不味かったのを覚えています。

 また赤肉すいかの色素にはβカロテンなどが含まれているので、がんや老化を予防する抗酸化作用が期待できるということです。
 血圧を下げる働きもあるので高血圧の予防にも効果が期待できます。
 また呼吸器系の免疫力を高める成分も含まれているといわれています。

 スイカはすごい健康野菜だったのですね。大好きですからしょっちゅう食べていて、良かったです。
 皮を炒めて食べる料理もテレビで紹介されていました。

 甘いか甘くないか、すいかの見分け方をテレビで報道していました。指で叩いてみるのは当たりはずれがあって一般人にはむつかいとのことです。
 甘いスイカは、つるが付いていたヘタが周りとくらべてへこんでいるのがおいしいともいわれていますがどうでしょうか。
 
 最近では、スーパーでカットしたものを買う機会が増えました。
 カットスイカの場合は、切り口から見える種まわりをよく見ることです。
 種と果肉の間にすきまがあるほうがよく熟していて甘いといわれています。

 運が悪いのか、安物を買っているからか、今年はまだ「甘い!」と叫ぶほどのスイカを口にしていません。
 スイカの旬はこれからです。
 甘い甘いスイカを食べたいです。

 大阪近郊では奈良盆地のスイカが有名ですが、北海道の デンスケスイカもすごく美味しいと評判です。(リンクは楽天市場)

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7月24日 芥川龍之介が自殺

 1927年7月24日、芥川龍之介が東京の田端の自室で多量の睡眠薬を飲んで自殺しました。芥川龍之介の自殺は社会に衝撃を与えました。
 代表作の河童 から、命日は「河童忌」と名附けられました。<注:リンクは楽天市場>

 竜之介は死の数日前から大量の睡眠薬でべろべろになっていたということです。起きたと思ったらまた眠っているという状態でした。
 すでに自殺を決意し、体を睡眠薬に徐々に慣らしていたのだろうと推測されています。

 自殺するのに体を慣らす必要はないので、自殺をすると思わせて助けてもらいたいという狂言自殺のはずが、本当に自殺になってしまった、という説もあります。

 竜之介は、夏目漱石の門下です。
 「鼻」「芋粥」で注目され、「羅生門」「地獄変」「歯車」「或阿呆の一生」などの作品を残しました。
 
 この世で信じられるものは自分の神経だけだと繰り返し書いています。
 そのとぎすまされたするどい感性と知性が「トロッコ」などの名作を生み、大正時代の代表的な短編小説家になりました。

 しかし、大正末期ごろから、神経衰弱や胃腸病に悩みました。
 一方、そのころさかんになってきたプロレタリア(労働者)文学の新しい波に自分がついて行けないのではないかという不安が大きくなっていきました。
 このころから、作品はしだいに暗く、苦しげになっていきました。
 そして、ついに服毒自殺を遂げたのです。

 なお、竜之介の死から8年後、親友で文藝春秋社主の菊池寛が、芥川の名を冠した新人文学賞「芥川賞」を設けました。
 芥川賞は直木賞と並ぶ文学賞として現在まで続いています。

 さて、竜之介の作品は短編が多いので、少しだけですが学生時代に読みました。
 「鼻」「杜子春」「蜘蛛の糸」「芋粥」「羅生門」「トロッコ」など、懐かしさを感じます。

 なお、黒澤明監督の映画「 羅生門 」は、龍之介の「羅生門」とは別物です。<注:リンクは楽天市場>

 

 映画は、龍之介の「藪の中」という作品を原作に映画化されたのですが、「藪の中」のタイトルではヒットしないからと、営業上の理由で「羅生門」に変えられてしまったということです。
 このことを知るまでは、原作と映画のあまりにもかけはなれた内容にとまどっていました。

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7月19日 映画「青い山脈」の封切り日

 1949年の今日は、戦後の民主主義を象徴する青春映画「青い山脈」が封切られた日です。

 「青い山脈」は石坂洋次郎原作の日本映画です。
 この映画はキャストを替えて5回も制作されています。1949年・1957年・1963年・1975年・1988年の5回です。

 戦後の昭和22年、地方の城下町の女学校を舞台に、新旧の世代の対立と青春の歓びを描いた作品です。
 
 女学校に転校してきたばかりの寺沢新子と、大学浪人の金谷六助がふとしたことから仲良くなりました。
 このことを知った女学校のある生徒がニセのラブレターを書いて新子に送ったことから端を発して、新子の担任の島崎雪子が、「この町の古い伝統や、男女間の交際を歪んでとらえる風習を、あらためさせようとした」ところから大きな騒ぎになり、物語が進んで行きます。

 ニセのラブレターを読み上げる場面で、「戀(恋)しい戀しい」というところを「變(変)しい變しい」と、字をまちがえてしまったエピソードは笑いを誘い、とても有名です。
 
 さて第1作では、金谷六助を池部良が、寺沢新子を杉葉子が演じていました。
 第2作では金谷六助を久保明が、寺沢新子を雪村いづみが演じています。

 私は日活の第3作を見ました。金谷六助を浜田光夫が、寺沢新子を吉永小百合が演じていました。
 高橋英樹も出演しており、日活の青春映画全盛時の作品でした。このころの日活映画はほんとうによく見ました。

 ちなみに第4作は三浦友和と片平なぎさが、第5作は野々村真と工藤夕貴がそれぞれ共演しています。

 また、主題歌の「青い山脈 」は映画以上にすばらしい歌です。藤山一郎の若い声がより一層明るい歌にしています。名曲中の名曲といっていいでしょう。
 若者の集まりでも、中高年の宴会でもよく歌われました。
 
 久しぶりに口ずさんでしまいました。

1.若くあかるい 歌声に
  雪崩は消える 花も咲く
  青い山脈 雪割桜
  空のはて
  今日もわれらの 夢を呼ぶ

2.古い上衣よ さようなら
  さみしい夢よ さようなら
  青い山脈 バラ色雲へ
  あこがれの
  旅の乙女に 鳥も啼く

3.雨にぬれてる 焼けあとの
  名も無い花も ふり仰ぐ
  青い山脈 かがやく嶺の
  なつかしさ
  見れば涙が またにじむ

4.父も夢見た 母も見た
  旅路のはての その涯の
  青い山脈 みどりの谷へ
  旅をゆく
  若いわれらに 鐘が鳴る

 メロディーも、歌詞も、日本人が大好きな歌ですね。

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7月15日 世界一長身のロバート・ワドロー死去

 今日は、世界一の長身記録を持つ「ロバート・ワドロー」が息を引き取った日です。
 
 ワドローが亡くなったときの身長は272cm(体重は200kg)でした。

 ワドローは「疑う余地のない医学的な記録がある中で、最も身長の高い人間」としてギネスブックに記載されています。

 ワドローが生まれたときの体重は3800g、普通の大きさでした。身長も正常でした。
 ところが、2歳のときのヘルニアの手術以後、急速に成長を始めました。
 
 8歳の時にはすでに188cmになり、10歳で198cm(体重100kg)、14歳では224cmに伸びていました。 

 16歳で240cm(166kg)、17歳で248cm(180kg)、18歳で254cm(177kg)とまだまだ伸びる勢いは衰えませんでした。
 なお、靴のサイズは約49cmでした。

 1937年、19歳の時、人類の身長の記録を塗りかえた記録260cm(197kg)になりました。
 しかし、まだまだ伸びる勢いです。
 その後21歳で彼の人生最大の体重233kgを記録しました。

 さて、ワドローの病気は、末端肥大症でした。
 先端肥大症とか巨人症とか呼ばれています。100万人に約4~5人の割合で発症するそうです。
 
 この病気は体格がずばぬけて大きくなるので、格闘技(プロレスや大相撲など)の選手となって成功をおさめた人もいます。
 たとえばプロレスの ジャイアント馬場は代表的な成功者です。
 
 ワドローはというと、サーカスやフェスティバルの巡業を続けました。巡業中も怒ったところを見たことがないといわれるほど温厚な性格でした。
 さまざまな巡業を受け入れて各地を回りました。
 
 しかし、ワドローにとってはこの大きな体は負担となっていきました。歩行のためには副木が必要でした。
 また、しだいに脚部や足部の感覚が弱くなっていきました。
 
 1940年7月4日、副木の具合が悪くなっていて膝をこすってしまいました。しかし感覚が弱いので気が付かないままになっていました。
 やがてそこから炎症がおき、ひどい感染をひきおこしたので緊急入院しました。
 入院中に計られた彼の身長は272cmに達していました。

 すぐに手術がなされ、輸血もされましたが、診療のかいもなく、1940年7月15日、意識不明のまま息を引き取りました。22歳でした。

 7月19日に行われた葬儀には、彼を愛する4万人もの弔問客が訪れました。棺は500 kgにもなり、12人がかりで運んだそうです。

 ロバート・ワドローは「優しい巨人」として慕われていて、西イリノイ大学に等身大のブロンズ像があります。 

 ロバート・ワドローの写真(スミマセン、勝手にリンクしました)

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7月10日 蘇我入鹿、殺される

 645年の新暦7月10日は蘇我入鹿が殺された日です。

 いわゆる「大化改新」の幕開けになったできごとでした。
 日本書紀という歴史書によると、殺された蘇我入鹿は青少年期は僧・旻に学んだ秀才だったといわれています。
 
 父は大臣の蘇我蝦夷です。
 642年、皇極天皇の即位にともない、父に代わって国政を掌握し、実質的に蘇我氏の家督を継いだといわれています。

 当時は天皇も大和の一豪族にすぎませんでした。
 天皇中心の国家に改革せんとする気運が皇室の周辺に強まるのに対して、入鹿はこのような皇室の動きを押さえようとしました。
 そして、蘇我氏との縁の強い古人大兄皇子を天皇につけようとはかりました。
 
 皇族・反蘇我勢力と蘇我氏との権力闘争が激しくなっていきました。

 蘇我氏は、そのために邪魔になる聖徳太子の皇子、山背大兄王ら上宮王家の人々を自殺に追い込みました。
 大臣を譲られてから1ヶ月も経たないころのことでした。

 644年には、甘樫丘に邸宅を築き、これをぞれぞれ「上の宮門(みかど)」、「谷の宮門」とし、さらに自分の子女達を皇子と呼ばせました。
 また、さらに畝傍山に要塞を築いています。
 
 こうして入鹿は実質の最高権力者としての地位を固めました。
  
 ところが、古人大兄皇子の異母弟で、皇位継承のライバルだった中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足らがクーデターをおこしました。
 
 645年7月10日、大極殿では外国の使節を迎えていました。式典の途中で柱の陰にひそかに隠れていた中大兄皇子と佐伯子麻呂が突然飛び出して入鹿に斬りつけました。
 入鹿は天皇に無罪を訴えましたが、あえなく止めを刺され、雨が降る外に遺体を打ち捨てられました。
 入鹿は大柄だったといわれていますが、使節を迎える式典のため、太刀は帯びていませんでした。中大兄皇子らはその機会をねらったといわれています。

 とにかく、中大兄皇子らにクーデターで殺され、権力闘争に敗れた入鹿は歴史上の悪者として名を残すことになりました。

 参考文献: 大和政権と飛鳥

 しかし、私は、蘇我入鹿になんとなく興味をもっていました。
 蘇我入鹿が正しいというのではなくて、入鹿にも言い分があるのではないかと思うからです。
 
 日本書紀は、天皇の権力が強かった時代に編集された歴史書です。天皇家の都合のよいようにつくられていることはあきらかです。
 
 日本書紀が編集された奈良時代には、この他にも「謎」がいっぱいあるといわれています。
 私もそのように思います。  

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7月9日 浅草寺のほうずき市

 夏の訪れを告げる下町の風物詩のひとつとして、人々に広く親しまれていたのが「ほおずき市」です。
 「ほおずき市」は全国で行われていますが、特に全国からのお参りが多いのが、今日から開かれる東京の浅草寺の「ほおずき市」です。

 若い人に聞いてみたら、「ほおずき」そのものを知らない、見たことがないという反応が多かったのにはびっくりしました。

 私の幼少期には、仏壇によく供えられていました。
 父の姉で、赤堀千代という名の、私から見れば叔母が、家族を失いましたので、同居していました。
 私たち兄弟は、おばあちゃんと呼んでいました。

 そのおばあちゃんは信心深くて、仏壇にはご飯とお花を欠かしませんでした。
 そのお花の中に「ほおずき」があって、お花を取り替えるとき、「ほうずき」の実をくれました。
 ほおずきの赤い実を、やわらかく揉んでから中身の種を抜きました。急いで揉むと口が破れてしまいます。

 種を慎重に抜いてから、口にふくんで笛のように鳴らすことができるはずですが、私は何度試しても成功したことがありませんでした。
 口笛も、風船ガムも、上手にできない不器用な私です。
 
 
 さて、「ほおずき市」の期間に全国から参拝者が訪れるのは、「ほおずき」だけが目当てではありません。
 この両日にお参りすると「四万六千日分、日参したのと同じ功徳を得られる」とのいい伝えがあります。

 46000日を12で割って、なんと約126年分。
 人生以上の年数と同じ分のご利益が、たった1日の参拝だけで得られるというわけです。
 ありがたい日ですね。

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7月2日 たわしの日

 今日は「たわしの日」です。
 1915(大正4)年、西尾商店(現在の亀の子束子西尾商店)の西尾正左衛門が、「亀の子束子」の特許を取得した日です。

 「亀の子束子」が考え出されたのは1907(明治40)年のことです。

 正左衛門の妻が、売れ残っていた棕櫚(しゅろ)製の玄関マットを切り取って丸め、床を磨くのに使っていたことがヒントとなったということです。

 正左衛門はさっそく女性の手で持てるぐらいの大きさのたわしをつくって特許を申請しました。
 
 まだ商品名が決まっていませんでしたが、たらいの中を泳ぐ亀に似てるし、亀は縁起がいいというところから「亀の子束子」と名付けられたそうです。
 「束子」という字は当時の漢学者にあてはめてもらった当て字でした。

 台所やお風呂、トイレにはどこの家庭にもあった「亀の子束子」ですが、現在ではあまり見なくなったと思っていました。

 調べてみると、年間600万個も製造され、30ヶ国へ輸出されているロングセラー商品になっていました。
 でも私の家は、風呂場に1つだけしかありませんでした。
 
 自然の素材(熱帯地方のココナッツやし)で、環境にもやさしいし、金属たわしと違って傷つけにくいし、たしかに長所はいっぱいありますね。 

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6月22日 蟹の日

 今日は「かにの日」です。
 大阪のかに料理店「かに道楽」が1999(平成11)年に制定しました。

 6月22日になった理由は、星占いの「かに座」の初日であることと、50音表で「か」が6番目、「に」が22番目であることです。

 さて、「かに」で思い出すのは、「かに料理」と「キチンキトサン」です。
 「かに料理」のおいしさは格別で、大阪では「かに道楽」が超有名です。ちなみに、ミナミの本店の足が動く、かにの看板は600万円もするそうです。

 さて、もう一つの「キチンキトサン」のチキンはかに・えびの甲殻類、貝・昆虫にも含まれている物質です。日本チキンキトサン学会 で調べてみてください。 

 私の経験です。(私の経験から猛烈に推薦したい健康食品です。)

 「チキンキトサン」を知ったきっかけは、一昨年の4月に胃ガンが見つかったことです。初期癌から少し進んだレベルで、切るか切らないかの境目だったのです。私は、切りたくないから必死で健康食品を探して、ガンを無くそうと思いました。
 その結果、効果有りと判断したのがフコイダンとチキンキトサンでした。

 フコイダンも飲みました。フコイダンはもずくなどのぬるぬるの成分で、長期的に飲めば効果は一番あると思いますが、常用するには高価です。高価なものでないと効果がないと思います。(シャレのつもりではありません・・・笑)

 チキンキトサンは種類が多いですが、混ぜものがあって高価になってるものがかなりあります。私は、キトサンがほぼ100%で安価なものを選びました。
山本漢方のキトサン280粒

 胃ガンは、やはり進行しているので胃の4分の3をその年の9月に切除しましたが、キトサンはこの間も毎日欠かさず飲みました。
 
 まず、飲み始めると、血圧が下がり始めました。いまは120-80ぐらいです。
 
 つぎに、水虫の症状が改善しました。
 足の裏の皮がボロボロにむけていたのがきれいにつるつるになりました。踵のかさかさが無くなったので、冬のひび割れもほとんど無くなりました。
 一番の効果は、指の間の肉が見えるほどひっかいてしまう「かゆみ」が無くなりました。2~3ヶ月に1回ぐらいかゆみをかすかに感じることはありますが、ほっておけば翌日には治っています。
 私にとって40年来の水虫特効薬「華陀膏」はいっさい使わなくても良い状態です。
 
   また、両足の親指の爪が黒くて死んだような爪でしたが、1年後にはきれいなピンク色に変わりました。
 これはうれしかったです。
 水虫とは3~4歳ぐらいからのつきあいですが、ついにお別れの日がきました。

 キトサンには抗菌作用があるので水虫の白癬菌の働きを抑えているだけだと思います。飲み忘れたらもとにもどるかもしれません。

 最近、綿棒・マスク・靴下・クリームなどにキトサンが配合されています。

 キトサン関係の書物には、ガンにも効くという理論的な解説や経験談などが報告されていますが、私はそれを信じています。
 胃ガンの手術後の血液検査で腫瘍マーカーは正常ですし、手術後も激痩せしないで体重を維持しているのもキトサンの効果かなと信じています。

 私の経験だけでは説得力がありませんが、キトサンは食品ですから適量を守っていれば害はありません。
 一度、ためしてみられたらどうでしょう。
 特に、高血圧と水虫(いんきんたむし)の方・・・。

 「かに」の話が脱線してしまいました。

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6月16日 和菓子の日

 毎年6月16日は、家族や親しい知人の健康を願って和菓子を贈ったり、和菓子を食べる「和菓子の日」です。
 1979年、日本和菓子協会が制定しました。

 そもそもこの日の由来は平安時代の中ごろまでさかのぼります。
 承和という時代には、国内に疫病が蔓延しました。ときの仁明天皇は年号を嘉祥と改め、その元年(848年)の6月16日に、16個の菓子や餅を神前に供えて、疾病よけと健康・招福を祈ったことが始まりとされています。

 毎年6月16日になると、厄除け・招福を願って菓子を食う「嘉祥菓子」の習慣ができました。
 以後、さまざまに形を変えながら、平安期から江戸時代終わりまでおこなわれました。

 とくに、多くの古書で、室町時代には年中行事として行われるようになったと記されています。
 江戸時代になると、大切な祭りのひとつに数えられました。庶民も嘉祥喰といって、菓子を求めて食べました。(嘉定通宝16枚で買えました)

 団子が貴重な和菓子であったころは、団子を作って供えることが年中行事になっていました。
 しかし、現在のように季節を問わずいつでも食べられる時代とはなっても、年に一日だけでも厄よけ・招福を願って和菓子を口にしたらどうでしょうか。

 私は、今年の「和菓子の日」は好物の桜餅・きんつばで、厄よけ・招福を祈ることにします。

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